爪折れた。
2010/01/21/Thu
懲りずにそらパパさんとこコメント入れといたんだけど、公開しない可能性も高い気がするので、一個だけコピペしとく。
ここから。
落ち着いたかい?
感情的になって見落としたかもしれないから、一応わたしが大事だと思うポイントだけ再度言っておく。「建設的」(笑)にな。
(想像的かつ象徴的)社会自体が「親ソリューション」であると考えると、定型発達者は自動的にそれに編入される、となる。一方自閉症者はそうではない。その自閉症者を再度「親ソリューション」に編入させるためのメソッドを「子ソリューション」と定義する。従って療育法などは「子ソリューション」に相当する。
この考え方重要だと思うんだよな。
ま、この考え方をしたからと言って、認知認識異常を矯正する負担は、相変わらず一方的に自閉症者の側にあるままだろう。
別にそれは仕方ないと思うんだな。自閉症者が少数派なのは揺るぎのない事実だし。圧倒的多数の定型発達者の認知認識を矯正する労力なんて想像すらできない。それ以前にわたし当事者じゃないし。
しかし、上のような考え方をすることにより、療育とは、自閉症の認知認識異常を定型発達者と同型のものに矯正するものだ、という考え方ではなく、自閉症の特殊な認知認識と定型発達者のそれとの「差異」を繋げるものだ、ってな最近ありそうな聞こえのいい文言とリンクすると思うんだな。
つまり、定型発達者側からの認知認識に関する負担が入り込む余地ができる、ってわけ。「思い遣り」とかって自閉症者が嫌うやり方ではないやり方での歩み寄り、っていうかな。
ま、わたしってあなたのようなタイプの人に対してどうしても嫌悪を覚えちゃう人でさ、それに翻弄されちゃったのは悪かったと思う。かと言って嫌悪が消えたわけじゃないけど。
でもそれを除外したら、あなたがここ最近述べている自分の理論(のバックグラウンド程度か)について、とってもよいアイデアを提案していると思うんだけどな。わたしの価値観では。対外的にもウケよさそうな言い方にも繋がるし。
どうよ?
こう、わたしみたいな人間にも懲りずに付き合ってくれる人もいるんだけどさ、わたしの文言って、確かに人を傷つける内容が多いし、思想系統としては体系破壊な側なんだけど、ただの言葉だと思って読めば、いろいろ思考のヒントが落ちてると思うんだ。だからわたしみたいなのにも付き合っていられる、と。
「フレーム問題」ってのは、逆に言えば「フレーム」って固定観念なんだよ。だから、固定観念で行き詰っている時に、「フレーム」のない言葉たちを見ると、ヒントが落ちてたりする。
「議論の発散」ってえのは一概に悪いことじゃないんだぜ? 「ブレインストーミング」とか知らない? あたしゃ信じてないけど。
かと言って、確かに「フレーム」のない状態ってのは本人にとって苦痛なわけだから、その状態で発した言葉に不愉快なものが混じってても、仕方あんめえだろ? って思うんだわ。あたしゃ。むしろ「他人を不愉快にさせない言動をする」ってのが「フレーム」の一部の表出だとすら思う。
だからあたし逆に泥沼論戦が好きなのだよな。学者同士の。
ま、こゆことをわたしブログでは「魔女が一ドルの代わりに差し出す一ドルの価値もない小石」とかって表現したりしてる。その小石をどう活用するかはそいつ次第。
だからこの論もスルー可。公開しなくても可。
あと余談だけど、上のヒゲ達磨さんの「想像してみてください」って言葉なんか、「(当事者の)内面を想像してみてください」って言ってるように聞こえるんだけど、どうだい?
ここまで。
こう書くと、社会を経済的なものとしてしか考えられないそらパパさんなどは(つかこれ彼の症状と考えていいだろうな。前回も指摘していることだし。「象徴界に限定した二次元の話をしたがっているよう」って。逆に言えばこの言葉は君の「社会を経済的なものとしてしか考えられない」症状を予言していたわけだ。わたしの君に対する印象が立証されたってわけ)、「経済的な社会参加」=「親ソリューションへの編入」となって、「経済的自立」が主になるじゃないか、とか思いそうなのでちょっと説明しておく。
「親ソリューションへの編入」と「子ソリューションによる親ソリューションへの編入」の関係は、「経済的自立」と「精神的自立」の関係と相似しない。「親ソリューションへの編入」には「経済的自立」も「精神的自立」も含まれる。
要するにさ、そらパパさんのその記事は、「親ソリューション」の分析にしかすぎないんだ。定型発達者にも適用される理屈だろ? むしろ大体の定型発達者が抱える問題、「経済的自立」と「精神的自立」の葛藤なわけじゃん。まさにモラトリアムとかそこら辺だ。
とはいえこういった考えが全く自閉症者の療育に関係ないとは言えない。定型発達者がいかに自動的に「親ソリューション」に編入されるかの解明は、「子ソリューション」の設計指針となりうるからだ。
だけどここでのそらパパさんは、定型発達者の自立における問題、いわば一般的な問題を、自閉症の療育問題にそのまま接合している。「親ソリューション」をそのまま「子ソリューション」にしようとしている。だから当事者(と思われる人たち)から疑問の声があがっている。そういう状態だとわたしは思うんだな。
ここで、「精神的自立」というのがどういうものか、ってことがキーポイントになると思う。ここにこそ「親ソリューション」と「子ソリューション」の違いがある、とわたしは思う。
お、なんかいいこと言えた感じがする。「議論の収束」っぽい。わたしの主観では。なのでトラバ打っておくね。連打になるけどこのぐらいいいっしょ。
前記事コメント欄で述べた「自動化された文脈」について垂れ流し。
よく言葉を覚えはじめたばかりの子供が、親がびっくりするくらい大人びた言葉を覚えてきたりする。学術系にしろ下ネタ系にしろ。これは単に親が「そんな言葉を聞く環境じゃないのに」と思っていたから驚くのだ、と言えばそれまでだが、うがって考えてみよう。
去勢済み主体の超自我は、言語のように構造化されている。そしてそれは、ファルスを軸にして、S2というシニフィアン群に連鎖している。パリ凱旋門と周辺道路のようなことをイメージするとよいか。
とすると、文脈が進む方向は大体決まっている。凱旋門を中心として、そこから同心円状に文脈は進む。
しかし現実的にファルスは存在しない。去勢済み主体が事後的にあると思っているだけだ。道路網の中心には何も存在しない。放射状になんかなっていない。
言葉というものは、機能的に考えれば、文脈が進む方向に覚えていく、という感覚は、存在しないファルスがあるという感覚によるのではないか。つまり、それらが何かを中心にして放射状に連鎖していると思っているから、言葉は文脈が進む方向に覚えるものだ、と事後的に思ってしまうのではないか。
しかし現実的にはファルスは存在しない。大事なことなので二回言った。
その証拠が、「子供は時々大人が驚くような大人びた言葉を覚えてくる」といったことなのではないか。
人は実際的に文脈順に言葉を覚えるものではない。その時たまたま目にした言葉を覚える。覚え方は偶然である。文脈が進む順に、いわば必然的に覚えていくものではない。
この時の、本当は存在しない中心軸をあるとする感覚が、「フレーム問題」における「フレーム」の一側面たる「自動化された文脈」なのではないか。
あ、自分で暴論に思えるわこれ。
あーなんかやだな。そらパパさん周辺の人って陰口で連帯感得られる人が多そう。だから陰口がエスカレートしそう。まさに「ツレション女」(ここのコメント欄参照)。いや男もいるだろうが。
こええ。やんなきゃよかったって最初っからわかっているのにやってしまう。
ネタにされるの喜んでたからネタにするけど中坊さんのせいだな。わたしを増長させたの。
「ASは、基本的に自分が納得できることでしか動けません。」ってさ、「アスペって納得したがり屋なんだな」とか解釈されそうだな。とすると納得することに執着している、となる。そうなると違う気がする。「アスペ」って言うとめんどくさそうだからわたし言語の「未去勢者」で言い換えさせてもらうけど、「未去勢者は納得したがり屋」なんかじゃなくて、「納得できない不快感に敏感なんだ」と補足したくなる。
「おんなじことじゃないか」って? 違うんだよなー。納得することを快楽として感じていて、だから納得したがるのか、納得できないという不快を回避しようとして、納得したがるのか。目の前に人参ぶら下げて走っているのか、背後から化け物に追いかけられて走っているのか。違うだろ? ここのコメント欄から。
=====
そうだよ。不快を避けること=快楽と考えれば辻褄が合う。この場合、「全ては不快で、たまたまであるにせよ、それを避けられたことが快楽」となり、快楽とはそれ自体で存在していないものとなる。
現実的な快楽とはそういうもの(と説明すれば筋が通るの)だが、正常人にとっての「快楽」は別物だ。「快/不快」などというように二項対立化されるものである。正常人の「快楽」はそれ自体として存在している。
=====
これ内面においては大きな違いになるぜ?
まあ精神分析用語使えば簡単に言えるんだけどね。去勢済み主体は「生の欲動>死の欲動」であり、未去勢者は「生の欲動<死の欲動」だって感じ。
アスペじゃなくスキゾイドだけど結構人気あるこの記事とか参考になるかも。だが今読み返すと自分で何言っているのかわかんない部分あるから質問には答えられない。昔の記事って大概そうなのよね。
あ、でもちょっち違うな、去勢済み主体には、納得できないことを無理矢理納得できる機能がある、って感じか。それが自己の根拠となる他者、って感じ?
ああなんかもうこの辺語りたくねえ。うざい。脳内のぎゃーぎゃーが。
髪の毛穴から変な物質が分泌されてる感じ。チャラポラッテケーロ。
あとからあとから敵増やしてもう。増やそうとしてるわけじゃないんだけどな。距離が近くなると全ての人間に不快を感じる。全ては言いすぎか。その時は不快じゃなくても、もっと距離が近くなれば不快になる。
うん、基本的に何もかもが嫌い。中二病すぐる。あっていいのは遠くにある物だけ。
そらパパさんだって特別嫌いってわけじゃない。普通に嫌い。一般的。
この誰にでも感じる不快を我慢することだってできる。そうじゃなきゃ社会人なんてやってられない。日常を生きていけない。
でも流れに任せているだけで、距離が近い人が増える。
何やってもだめなんだよ。じゃあ何もしなければいい。何もしないとこうなるんだ。そう、何もしてないんだ。何もしてないから不快をそのまま表出する。誰かを攻撃してしまう。近い人から。
そんなことないけどね。Aより近いBって人が大丈夫な場合だってある。だけどそのBだって近づけば不快にってきりがねえ。
「ちょうどこの辺」ってのがないんだよ。
いやさ、確かに「内面を語る」ことの危険性はあるんだよ。その人の心を傷つけることにもなるってのは当然だけど、それ以上に、人は他人の内面を語ると、妄想が暴走するんだ。そもそもその人の内面を語ろうなんて、その人になんらかの思い入れがあるからだろう? 友情でも愛情でもいい。逆でもいい。憎悪でも恨みでもいい。この感情が内面を推測する際の色眼鏡になる。じゃあ感情をなくせばいいのか、ってなると、それは興味自体なくすことだから、そもそも内面を見ないようになる。要するに転移の問題なんだな。でわたしは苦しまぎれにこんな解答を仮設している。ここのコメント欄から。
=====
でも全く転移しないってイコール無関心なわけだから、無関心になると分析自体が成立しない。
ここが精神分析学でよく語られる矛盾なんだけど、どっかの記事にも書いたように、「一般的な情性とは定型的な合成波であり、それを分解した個々の波、欲動的な情性は別に存在する」とすれば、転移にこの欲動的な情性(わたしは「興味」とか「矢印」とか表現する)は含まれると考えれば、この矛盾は解決する。
=====
こじつけすぎると思われるかもしれないが、でもわたしの内面には、情動と呼ぶことはできるけど、一般の人たちがするようなそれじゃない、喜怒哀楽とかじゃない、ただの「興味」や「矢印」と表現したくなるような力動がある。
それはとても散漫だ。そして自分勝手。無数の矢印。一つ一つの矢印がブラウン運動している。
これを語るとさすがにデンパすぎるので、というか言語化が困難なので、あまり語らないようにしているが、無理矢理語った記事もある。
しかし、去勢済み主体たちの、他人に向ける情動とは、矢印が束ねられている。しかも鏡で反射して一回転している。
この束ねられて一回転した矢印が、アスペがうざがる「思い遣り」になろう。
では、束ねられてない矢印ならどうか。色眼鏡はかからなくなるのか。アスペはうざがらないのか。
わからない。
あと君の娘がかわいそうに思える点を言っておきたい。精神分析的な言い回しになろうががんばって平易に話す。
コメントでも書いたが、君の自己は娘という他者を根拠にしている。君は娘のために今の仕事をし、それが今の君という自己を支えている。自閉症についての本を出していることからも、娘という他者を根拠にした自己は強化されていると考えられる。
で、「仮に君の療育法でアスペが岡山事件状態になっても、君の責任じゃない。君の娘の責任だ。君の主観世界において」とわたしは言ったよな。
君の娘が正常人だった場合を考えよう。知的障害も自閉症もない、たとえば身体障害者だった場合など。
君の娘はおそらくプレッシャーを感じるだろうな。「お父さんはわたしのためにこんなにがんばってくれてる」と。つまり娘は君の「娘という他者を根拠にした自己」を認知できているだろう。
これはよいプレッシャーだ。社会的に。こういった状態で、君の療育法で不祥事が起きたとしても、今度は娘が君の支えになってくれる。娘の方も、父という他者を根拠にした自己が形成されている。
「心の機械論」では説明できない相互扶助が成り立つ。なんて美しい親子愛。
これが巷に溢れる感動的な(笑)障害者物語の基本構造である。
しかし、君の娘がアスペだった場合を考えよう。
アスペは、この正常人の心の基本構造とも言える「他者を根拠にした自己」がうまく理解できない。頭で理解していても心でスムーズに作動しない。
この時君の療育法で不祥事が起きたとしよう。知的障害がないなら、父親が自分のことを素材にして本を書いている事実くらいは把握するだろう。その本がもととなって不祥事が起きた。娘はいわれのない、やる瀬のない、言語化が困難な矛盾を感じるだろう。たとえば、
「わたしを素材にして書いた本で不祥事が起きた。これはわたしのせいなのか、どうなのか」
などというような。
正常人には理解不能な、「なんでそんな風に考えるの?」というようなことを考えるかもしれない。
この悩みは他の誰とも共有できない。相手が定型発達者である場合はもちろん、同じアスペでも共有できない。なぜならこの悩みの原因は彼女個人のものだからだ。つかそもアスペってな共感が難しい人たちなんだろ?
現代社会は、言語的側面にしろ情動的側面にしろ、正常人の「他者を根拠にした自己」のためにあると言って過言ではない。圧倒的多数の「他者を根拠にした自己」が作り上げたシステムだから当然だ。
この構造からこぼれ落ちた人間の悩みは、その構造が刷り込まれている人間から言えば、それこそ「なんでそんな風に考えるの?」というように想像するのが難しいものだ。
なのに君は冒頭で述べたように、正常人が作り上げた構造に正常人が編入するやり方でしか、療育を考えていない。当事者の内面をエポケーして療育しようとしている。
いわば、悩みを相談しにきた相手に「悩むな」と言っているようなものだ。
このことは、ますます自閉症者を疎外させる方向にしか働かない、とわたしは考える。
疎外されること自体はそれほど重要ではない。問題がないというわけではないが。むしろ、思春期などはともかくとして、いい年だった場合、疎外されている状態の方がまだまし、というような場合さえある。いわゆる孤立型などがそれにあたるだろう。この記事から。
=====
ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
=====
ところが、全く機械的じゃない君の心は、娘という他者を根拠にした自己となっている。そういった自己感が人一倍強いだろう。
これが問題なのだ。
これは非常に強力なダブルバインドとなるだろう。ダブルバインドとは統合失調症の原因として考え出された概念だが、現代では否定されている。しかし臨床家たちは、ダブルバインドが統合失調症や分裂気質の患者の症状を悪化させる事実を認めている。原因ではないが、関連が全くないとは言いきれない、というのが正確だ。
統合失調症や分裂気質と自閉症の関連はそこらで言われていることなのであえて繰り返す必要はないよな?
「想像してみてください」
この言葉には重い意味があると、わたしなんかは思うけどな。
つかさ、浅見の「個々の事例の一般化」を批判しているくせに、君も知的障害をともなった「経済的自立が困難であろう」娘の事例による理論を一般化しようとしているよな。いや君は自閉症の多様さを心得ているから浅見よかましなんだろうけど。でも実際知的障害のないタイプから疑問の声があがってるよな?
ま、その程度の釘刺しだ。
そらパパさんのついったーでおもろいのあった。これ。
=====
自閉症スペクトラムを言語で語ること、それも定型の人と自閉症スペクトラムの人が言語で語り合うことの難しさという問題提起として
=====
なぜ難しいのだろうね?
この「難しさ」は自閉症者だけのせいではない。お前の心の方にも問題があるんだよ。
そうだろ? ドードーとらさんは他の定型とは話が通じたんだから。
「自閉症は恥ずかしいことじゃない」んだろ? じゃあまずお前らが自閉症者の話を聞く努力をしろ、つってんだが。
正常って言われているからお前らはさぼってるだけ。傲慢なサボタージュ。それどころか「自分たちに話を通じさせるように」自閉症者の認知認識を矯正する。矯正していいんだよ? ただ多少はお前らも努力しろっつってんだ。お前の言う「ソリューション」を自閉症者だけにおっかぶせるものにすんなって話だ。
「語り合うことの難しさ」はどちらか一方のせいではない。
正常人という権力者の地位にいるからそれが見えなくなってるだけ。
なんでこう自分の傲慢さに気づけないんだろう。自閉症界隈にいるにも関わらず。
ここまで言ってもわからん奴が療育語ってるのとかすげーおそろしいわ。
大事なことなのでもいっかい言うね。
「自閉症者の認知認識異常を矯正するためのものと考えるのではなく、正常人の認知認識と自閉症者のそれとの「差異」を繋げるためのものと考える」
それでも結局最後はお前ら「正常という異常さ」を棚上げにするんだよな。
ま、わたしゃ関係ないけど。
あ、どうでもいいけど、そのつぶやきの
=====
問題提起として鋭いものがあるのは間違いないのですが、
=====
これな、あたし自覚してんだわ。ここのコメント欄から。
=====
だからわたしなんか文系にいたら、わたしのレポートはほとんど「問題提起だけで解決にいたっていない」とかって評価されるものになるんだろうな、って思う。
理系だったからよかったけど。
自分が中野のゼミ生だったら、って思うとぞっとする。
=====
あとここも読め。
=====
わたしの持論というかポリシーとして、学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ、というのがあるが、
=====
「解決」やら「議論の収束」やらはお前らが勝手にやってろ。わたしは問題を作り出す側だ。
そういう人間なんだよ。
中坊さんとこのコメント欄読み返してたんだけど、ピキピキきたわ。
中坊さん曰く。
=====
「先生」と呼ばれる人の中には「相手がわかっていないだろう」と決め付けて、テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする人がいたりする。
僕はあとで独りになってから笑う。
「それは違うだろ」の笑い。
=====
わたし曰く。
=====
こういう風に「まとめるため」に知識を使ってる奴が嫌いなんだよな。
わたしは自分が嫌悪を感じる人のやってることを自覚してやってみた、ってわけ。
別に「まとめ」てもいいんだけど、それだけになっているのがキモイ。
=====
そらパパさん、あんたやけに「議論の収束」にこだわるよな。全然こちらは納得できていない言葉で自分勝手に納得して議論をまとめようとするよな。
あんたこそがまさに中坊さんに笑われる「「相手がわかっていないだろう」と決め付けて、テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする人」であり、わたしが嫌悪する「「まとめるため」に知識を使ってる奴」なんだよ。
中坊さんは定型発達者だ。君みたいな性格を笑う定型発達者もいる。
ここでも書いたようにあたし君についてこう言ったよな。「象徴界に限定した二次元の話をしたがっているよう」って。それこそ中坊さんが言う「テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする」ことなんだよ。
ここだよ。まさにこれだ。
科学者には自然から謎を摘出する役割もある。この記事から。
=====
つか向井のこの言葉、
=====
一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
=====
これ精神分析だけに限らず、科学全般で言えることだと思うんだよな。わたし物性物理専攻だったんだけど、確かに実験するまでの工程、たとえば実験器具を自作したり、実験環境を整えたりする段階は、「普遍的な理論」に頼らなきゃいけないけど、それらを終えて、実験を観察するその瞬間は、「すべての理論を忘れることが必要」になる。じゃないと、理屈にあわない現象を見落としてしまう。人間の目ってそういう風にできている。すみません某せんせーの受け売りです。
=====
君はこの役割が全くわかっていない。
「その場をテキトーに済まそうとする人」「「まとめるため」に知識を使ってる奴」が科学者足りえるわけねえだろうが。
ゆえに、君は科学に向いていない人間だと判断する。物性物理専攻のわたしが。
一方、精神分析は自身を科学だと言い張っているが、さすがのわたしもそれは認められない。確かに精神分析は科学的ではない。
しかし、科学が発達しすぎて、科学者自身が忘れてしまった、本来科学とはどういう役割があるのか、いわば科学哲学(わたし単位取った。そういう学部なんだ)的な問題としての「科学とはどういう学問か」「科学とはなんぞや」を論じているのが、精神分析なのだ。
だからと言って精神分析がえらいって話じゃないけどね。むしろ科学のあまりカスだ。
これこれこうゆーことなのだよ中坊くん!
つかさ、全然発散してないじゃん。君のその記事の要約は「自閉症療育で重要なのは「精神的自立」であり、「経済的自立」は従だ」ってことだよな。
で君は、その重要な「精神的自立」が、内面の問題だということは認識している。前記事参照。
しかし君は「内面は論じない」とエポケーする。
こんな態度まさに「その場をテキトーに済まそうとする人」じゃないか。君公開していないけどコメントに書いたよなわたし。「君の「議論の収束点」は「嘘っぽい」」って。
わたしは最初から内面を含めて議論をしている。
君が勝手にエポケーしたところを最初から含めて議論しているだけ。
それを「議論が発散している」とかよく言えたものだ。
「ボクチンはそこまで話したくないからやめてくだちゃい」ってことだろうが。それを君は「エントリの論点とは遠い議論になってしまったので」と言っている。
あほらし。
ここから。
落ち着いたかい?
感情的になって見落としたかもしれないから、一応わたしが大事だと思うポイントだけ再度言っておく。「建設的」(笑)にな。
(想像的かつ象徴的)社会自体が「親ソリューション」であると考えると、定型発達者は自動的にそれに編入される、となる。一方自閉症者はそうではない。その自閉症者を再度「親ソリューション」に編入させるためのメソッドを「子ソリューション」と定義する。従って療育法などは「子ソリューション」に相当する。
この考え方重要だと思うんだよな。
ま、この考え方をしたからと言って、認知認識異常を矯正する負担は、相変わらず一方的に自閉症者の側にあるままだろう。
別にそれは仕方ないと思うんだな。自閉症者が少数派なのは揺るぎのない事実だし。圧倒的多数の定型発達者の認知認識を矯正する労力なんて想像すらできない。それ以前にわたし当事者じゃないし。
しかし、上のような考え方をすることにより、療育とは、自閉症の認知認識異常を定型発達者と同型のものに矯正するものだ、という考え方ではなく、自閉症の特殊な認知認識と定型発達者のそれとの「差異」を繋げるものだ、ってな最近ありそうな聞こえのいい文言とリンクすると思うんだな。
つまり、定型発達者側からの認知認識に関する負担が入り込む余地ができる、ってわけ。「思い遣り」とかって自閉症者が嫌うやり方ではないやり方での歩み寄り、っていうかな。
ま、わたしってあなたのようなタイプの人に対してどうしても嫌悪を覚えちゃう人でさ、それに翻弄されちゃったのは悪かったと思う。かと言って嫌悪が消えたわけじゃないけど。
でもそれを除外したら、あなたがここ最近述べている自分の理論(のバックグラウンド程度か)について、とってもよいアイデアを提案していると思うんだけどな。わたしの価値観では。対外的にもウケよさそうな言い方にも繋がるし。
どうよ?
こう、わたしみたいな人間にも懲りずに付き合ってくれる人もいるんだけどさ、わたしの文言って、確かに人を傷つける内容が多いし、思想系統としては体系破壊な側なんだけど、ただの言葉だと思って読めば、いろいろ思考のヒントが落ちてると思うんだ。だからわたしみたいなのにも付き合っていられる、と。
「フレーム問題」ってのは、逆に言えば「フレーム」って固定観念なんだよ。だから、固定観念で行き詰っている時に、「フレーム」のない言葉たちを見ると、ヒントが落ちてたりする。
「議論の発散」ってえのは一概に悪いことじゃないんだぜ? 「ブレインストーミング」とか知らない? あたしゃ信じてないけど。
かと言って、確かに「フレーム」のない状態ってのは本人にとって苦痛なわけだから、その状態で発した言葉に不愉快なものが混じってても、仕方あんめえだろ? って思うんだわ。あたしゃ。むしろ「他人を不愉快にさせない言動をする」ってのが「フレーム」の一部の表出だとすら思う。
だからあたし逆に泥沼論戦が好きなのだよな。学者同士の。
ま、こゆことをわたしブログでは「魔女が一ドルの代わりに差し出す一ドルの価値もない小石」とかって表現したりしてる。その小石をどう活用するかはそいつ次第。
だからこの論もスルー可。公開しなくても可。
あと余談だけど、上のヒゲ達磨さんの「想像してみてください」って言葉なんか、「(当事者の)内面を想像してみてください」って言ってるように聞こえるんだけど、どうだい?
ここまで。
こう書くと、社会を経済的なものとしてしか考えられないそらパパさんなどは(つかこれ彼の症状と考えていいだろうな。前回も指摘していることだし。「象徴界に限定した二次元の話をしたがっているよう」って。逆に言えばこの言葉は君の「社会を経済的なものとしてしか考えられない」症状を予言していたわけだ。わたしの君に対する印象が立証されたってわけ)、「経済的な社会参加」=「親ソリューションへの編入」となって、「経済的自立」が主になるじゃないか、とか思いそうなのでちょっと説明しておく。
「親ソリューションへの編入」と「子ソリューションによる親ソリューションへの編入」の関係は、「経済的自立」と「精神的自立」の関係と相似しない。「親ソリューションへの編入」には「経済的自立」も「精神的自立」も含まれる。
要するにさ、そらパパさんのその記事は、「親ソリューション」の分析にしかすぎないんだ。定型発達者にも適用される理屈だろ? むしろ大体の定型発達者が抱える問題、「経済的自立」と「精神的自立」の葛藤なわけじゃん。まさにモラトリアムとかそこら辺だ。
とはいえこういった考えが全く自閉症者の療育に関係ないとは言えない。定型発達者がいかに自動的に「親ソリューション」に編入されるかの解明は、「子ソリューション」の設計指針となりうるからだ。
だけどここでのそらパパさんは、定型発達者の自立における問題、いわば一般的な問題を、自閉症の療育問題にそのまま接合している。「親ソリューション」をそのまま「子ソリューション」にしようとしている。だから当事者(と思われる人たち)から疑問の声があがっている。そういう状態だとわたしは思うんだな。
ここで、「精神的自立」というのがどういうものか、ってことがキーポイントになると思う。ここにこそ「親ソリューション」と「子ソリューション」の違いがある、とわたしは思う。
お、なんかいいこと言えた感じがする。「議論の収束」っぽい。わたしの主観では。なのでトラバ打っておくね。連打になるけどこのぐらいいいっしょ。
前記事コメント欄で述べた「自動化された文脈」について垂れ流し。
よく言葉を覚えはじめたばかりの子供が、親がびっくりするくらい大人びた言葉を覚えてきたりする。学術系にしろ下ネタ系にしろ。これは単に親が「そんな言葉を聞く環境じゃないのに」と思っていたから驚くのだ、と言えばそれまでだが、うがって考えてみよう。
去勢済み主体の超自我は、言語のように構造化されている。そしてそれは、ファルスを軸にして、S2というシニフィアン群に連鎖している。パリ凱旋門と周辺道路のようなことをイメージするとよいか。
とすると、文脈が進む方向は大体決まっている。凱旋門を中心として、そこから同心円状に文脈は進む。
しかし現実的にファルスは存在しない。去勢済み主体が事後的にあると思っているだけだ。道路網の中心には何も存在しない。放射状になんかなっていない。
言葉というものは、機能的に考えれば、文脈が進む方向に覚えていく、という感覚は、存在しないファルスがあるという感覚によるのではないか。つまり、それらが何かを中心にして放射状に連鎖していると思っているから、言葉は文脈が進む方向に覚えるものだ、と事後的に思ってしまうのではないか。
しかし現実的にはファルスは存在しない。大事なことなので二回言った。
その証拠が、「子供は時々大人が驚くような大人びた言葉を覚えてくる」といったことなのではないか。
人は実際的に文脈順に言葉を覚えるものではない。その時たまたま目にした言葉を覚える。覚え方は偶然である。文脈が進む順に、いわば必然的に覚えていくものではない。
この時の、本当は存在しない中心軸をあるとする感覚が、「フレーム問題」における「フレーム」の一側面たる「自動化された文脈」なのではないか。
あ、自分で暴論に思えるわこれ。
あーなんかやだな。そらパパさん周辺の人って陰口で連帯感得られる人が多そう。だから陰口がエスカレートしそう。まさに「ツレション女」(ここのコメント欄参照)。いや男もいるだろうが。
こええ。やんなきゃよかったって最初っからわかっているのにやってしまう。
ネタにされるの喜んでたからネタにするけど中坊さんのせいだな。わたしを増長させたの。
「ASは、基本的に自分が納得できることでしか動けません。」ってさ、「アスペって納得したがり屋なんだな」とか解釈されそうだな。とすると納得することに執着している、となる。そうなると違う気がする。「アスペ」って言うとめんどくさそうだからわたし言語の「未去勢者」で言い換えさせてもらうけど、「未去勢者は納得したがり屋」なんかじゃなくて、「納得できない不快感に敏感なんだ」と補足したくなる。
「おんなじことじゃないか」って? 違うんだよなー。納得することを快楽として感じていて、だから納得したがるのか、納得できないという不快を回避しようとして、納得したがるのか。目の前に人参ぶら下げて走っているのか、背後から化け物に追いかけられて走っているのか。違うだろ? ここのコメント欄から。
=====
そうだよ。不快を避けること=快楽と考えれば辻褄が合う。この場合、「全ては不快で、たまたまであるにせよ、それを避けられたことが快楽」となり、快楽とはそれ自体で存在していないものとなる。
現実的な快楽とはそういうもの(と説明すれば筋が通るの)だが、正常人にとっての「快楽」は別物だ。「快/不快」などというように二項対立化されるものである。正常人の「快楽」はそれ自体として存在している。
=====
これ内面においては大きな違いになるぜ?
まあ精神分析用語使えば簡単に言えるんだけどね。去勢済み主体は「生の欲動>死の欲動」であり、未去勢者は「生の欲動<死の欲動」だって感じ。
アスペじゃなくスキゾイドだけど結構人気あるこの記事とか参考になるかも。だが今読み返すと自分で何言っているのかわかんない部分あるから質問には答えられない。昔の記事って大概そうなのよね。
あ、でもちょっち違うな、去勢済み主体には、納得できないことを無理矢理納得できる機能がある、って感じか。それが自己の根拠となる他者、って感じ?
ああなんかもうこの辺語りたくねえ。うざい。脳内のぎゃーぎゃーが。
髪の毛穴から変な物質が分泌されてる感じ。チャラポラッテケーロ。
あとからあとから敵増やしてもう。増やそうとしてるわけじゃないんだけどな。距離が近くなると全ての人間に不快を感じる。全ては言いすぎか。その時は不快じゃなくても、もっと距離が近くなれば不快になる。
うん、基本的に何もかもが嫌い。中二病すぐる。あっていいのは遠くにある物だけ。
そらパパさんだって特別嫌いってわけじゃない。普通に嫌い。一般的。
この誰にでも感じる不快を我慢することだってできる。そうじゃなきゃ社会人なんてやってられない。日常を生きていけない。
でも流れに任せているだけで、距離が近い人が増える。
何やってもだめなんだよ。じゃあ何もしなければいい。何もしないとこうなるんだ。そう、何もしてないんだ。何もしてないから不快をそのまま表出する。誰かを攻撃してしまう。近い人から。
そんなことないけどね。Aより近いBって人が大丈夫な場合だってある。だけどそのBだって近づけば不快にってきりがねえ。
「ちょうどこの辺」ってのがないんだよ。
いやさ、確かに「内面を語る」ことの危険性はあるんだよ。その人の心を傷つけることにもなるってのは当然だけど、それ以上に、人は他人の内面を語ると、妄想が暴走するんだ。そもそもその人の内面を語ろうなんて、その人になんらかの思い入れがあるからだろう? 友情でも愛情でもいい。逆でもいい。憎悪でも恨みでもいい。この感情が内面を推測する際の色眼鏡になる。じゃあ感情をなくせばいいのか、ってなると、それは興味自体なくすことだから、そもそも内面を見ないようになる。要するに転移の問題なんだな。でわたしは苦しまぎれにこんな解答を仮設している。ここのコメント欄から。
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でも全く転移しないってイコール無関心なわけだから、無関心になると分析自体が成立しない。
ここが精神分析学でよく語られる矛盾なんだけど、どっかの記事にも書いたように、「一般的な情性とは定型的な合成波であり、それを分解した個々の波、欲動的な情性は別に存在する」とすれば、転移にこの欲動的な情性(わたしは「興味」とか「矢印」とか表現する)は含まれると考えれば、この矛盾は解決する。
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こじつけすぎると思われるかもしれないが、でもわたしの内面には、情動と呼ぶことはできるけど、一般の人たちがするようなそれじゃない、喜怒哀楽とかじゃない、ただの「興味」や「矢印」と表現したくなるような力動がある。
それはとても散漫だ。そして自分勝手。無数の矢印。一つ一つの矢印がブラウン運動している。
これを語るとさすがにデンパすぎるので、というか言語化が困難なので、あまり語らないようにしているが、無理矢理語った記事もある。
しかし、去勢済み主体たちの、他人に向ける情動とは、矢印が束ねられている。しかも鏡で反射して一回転している。
この束ねられて一回転した矢印が、アスペがうざがる「思い遣り」になろう。
では、束ねられてない矢印ならどうか。色眼鏡はかからなくなるのか。アスペはうざがらないのか。
わからない。
あと君の娘がかわいそうに思える点を言っておきたい。精神分析的な言い回しになろうががんばって平易に話す。
コメントでも書いたが、君の自己は娘という他者を根拠にしている。君は娘のために今の仕事をし、それが今の君という自己を支えている。自閉症についての本を出していることからも、娘という他者を根拠にした自己は強化されていると考えられる。
で、「仮に君の療育法でアスペが岡山事件状態になっても、君の責任じゃない。君の娘の責任だ。君の主観世界において」とわたしは言ったよな。
君の娘が正常人だった場合を考えよう。知的障害も自閉症もない、たとえば身体障害者だった場合など。
君の娘はおそらくプレッシャーを感じるだろうな。「お父さんはわたしのためにこんなにがんばってくれてる」と。つまり娘は君の「娘という他者を根拠にした自己」を認知できているだろう。
これはよいプレッシャーだ。社会的に。こういった状態で、君の療育法で不祥事が起きたとしても、今度は娘が君の支えになってくれる。娘の方も、父という他者を根拠にした自己が形成されている。
「心の機械論」では説明できない相互扶助が成り立つ。なんて美しい親子愛。
これが巷に溢れる感動的な(笑)障害者物語の基本構造である。
しかし、君の娘がアスペだった場合を考えよう。
アスペは、この正常人の心の基本構造とも言える「他者を根拠にした自己」がうまく理解できない。頭で理解していても心でスムーズに作動しない。
この時君の療育法で不祥事が起きたとしよう。知的障害がないなら、父親が自分のことを素材にして本を書いている事実くらいは把握するだろう。その本がもととなって不祥事が起きた。娘はいわれのない、やる瀬のない、言語化が困難な矛盾を感じるだろう。たとえば、
「わたしを素材にして書いた本で不祥事が起きた。これはわたしのせいなのか、どうなのか」
などというような。
正常人には理解不能な、「なんでそんな風に考えるの?」というようなことを考えるかもしれない。
この悩みは他の誰とも共有できない。相手が定型発達者である場合はもちろん、同じアスペでも共有できない。なぜならこの悩みの原因は彼女個人のものだからだ。つかそもアスペってな共感が難しい人たちなんだろ?
現代社会は、言語的側面にしろ情動的側面にしろ、正常人の「他者を根拠にした自己」のためにあると言って過言ではない。圧倒的多数の「他者を根拠にした自己」が作り上げたシステムだから当然だ。
この構造からこぼれ落ちた人間の悩みは、その構造が刷り込まれている人間から言えば、それこそ「なんでそんな風に考えるの?」というように想像するのが難しいものだ。
なのに君は冒頭で述べたように、正常人が作り上げた構造に正常人が編入するやり方でしか、療育を考えていない。当事者の内面をエポケーして療育しようとしている。
いわば、悩みを相談しにきた相手に「悩むな」と言っているようなものだ。
このことは、ますます自閉症者を疎外させる方向にしか働かない、とわたしは考える。
疎外されること自体はそれほど重要ではない。問題がないというわけではないが。むしろ、思春期などはともかくとして、いい年だった場合、疎外されている状態の方がまだまし、というような場合さえある。いわゆる孤立型などがそれにあたるだろう。この記事から。
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ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
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ところが、全く機械的じゃない君の心は、娘という他者を根拠にした自己となっている。そういった自己感が人一倍強いだろう。
これが問題なのだ。
これは非常に強力なダブルバインドとなるだろう。ダブルバインドとは統合失調症の原因として考え出された概念だが、現代では否定されている。しかし臨床家たちは、ダブルバインドが統合失調症や分裂気質の患者の症状を悪化させる事実を認めている。原因ではないが、関連が全くないとは言いきれない、というのが正確だ。
統合失調症や分裂気質と自閉症の関連はそこらで言われていることなのであえて繰り返す必要はないよな?
「想像してみてください」
この言葉には重い意味があると、わたしなんかは思うけどな。
つかさ、浅見の「個々の事例の一般化」を批判しているくせに、君も知的障害をともなった「経済的自立が困難であろう」娘の事例による理論を一般化しようとしているよな。いや君は自閉症の多様さを心得ているから浅見よかましなんだろうけど。でも実際知的障害のないタイプから疑問の声があがってるよな?
ま、その程度の釘刺しだ。
そらパパさんのついったーでおもろいのあった。これ。
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自閉症スペクトラムを言語で語ること、それも定型の人と自閉症スペクトラムの人が言語で語り合うことの難しさという問題提起として
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なぜ難しいのだろうね?
この「難しさ」は自閉症者だけのせいではない。お前の心の方にも問題があるんだよ。
そうだろ? ドードーとらさんは他の定型とは話が通じたんだから。
「自閉症は恥ずかしいことじゃない」んだろ? じゃあまずお前らが自閉症者の話を聞く努力をしろ、つってんだが。
正常って言われているからお前らはさぼってるだけ。傲慢なサボタージュ。それどころか「自分たちに話を通じさせるように」自閉症者の認知認識を矯正する。矯正していいんだよ? ただ多少はお前らも努力しろっつってんだ。お前の言う「ソリューション」を自閉症者だけにおっかぶせるものにすんなって話だ。
「語り合うことの難しさ」はどちらか一方のせいではない。
正常人という権力者の地位にいるからそれが見えなくなってるだけ。
なんでこう自分の傲慢さに気づけないんだろう。自閉症界隈にいるにも関わらず。
ここまで言ってもわからん奴が療育語ってるのとかすげーおそろしいわ。
大事なことなのでもいっかい言うね。
「自閉症者の認知認識異常を矯正するためのものと考えるのではなく、正常人の認知認識と自閉症者のそれとの「差異」を繋げるためのものと考える」
それでも結局最後はお前ら「正常という異常さ」を棚上げにするんだよな。
ま、わたしゃ関係ないけど。
あ、どうでもいいけど、そのつぶやきの
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問題提起として鋭いものがあるのは間違いないのですが、
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これな、あたし自覚してんだわ。ここのコメント欄から。
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だからわたしなんか文系にいたら、わたしのレポートはほとんど「問題提起だけで解決にいたっていない」とかって評価されるものになるんだろうな、って思う。
理系だったからよかったけど。
自分が中野のゼミ生だったら、って思うとぞっとする。
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あとここも読め。
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わたしの持論というかポリシーとして、学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ、というのがあるが、
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「解決」やら「議論の収束」やらはお前らが勝手にやってろ。わたしは問題を作り出す側だ。
そういう人間なんだよ。
中坊さんとこのコメント欄読み返してたんだけど、ピキピキきたわ。
中坊さん曰く。
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「先生」と呼ばれる人の中には「相手がわかっていないだろう」と決め付けて、テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする人がいたりする。
僕はあとで独りになってから笑う。
「それは違うだろ」の笑い。
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わたし曰く。
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こういう風に「まとめるため」に知識を使ってる奴が嫌いなんだよな。
わたしは自分が嫌悪を感じる人のやってることを自覚してやってみた、ってわけ。
別に「まとめ」てもいいんだけど、それだけになっているのがキモイ。
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そらパパさん、あんたやけに「議論の収束」にこだわるよな。全然こちらは納得できていない言葉で自分勝手に納得して議論をまとめようとするよな。
あんたこそがまさに中坊さんに笑われる「「相手がわかっていないだろう」と決め付けて、テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする人」であり、わたしが嫌悪する「「まとめるため」に知識を使ってる奴」なんだよ。
中坊さんは定型発達者だ。君みたいな性格を笑う定型発達者もいる。
ここでも書いたようにあたし君についてこう言ったよな。「象徴界に限定した二次元の話をしたがっているよう」って。それこそ中坊さんが言う「テキトーな論理を持ち出してテキトーな結論や方策を与えて、その場をテキトーに済まそうとする」ことなんだよ。
ここだよ。まさにこれだ。
科学者には自然から謎を摘出する役割もある。この記事から。
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つか向井のこの言葉、
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一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築 し、より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。
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これ精神分析だけに限らず、科学全般で言えることだと思うんだよな。わたし物性物理専攻だったんだけど、確かに実験するまでの工程、たとえば実験器具を自作したり、実験環境を整えたりする段階は、「普遍的な理論」に頼らなきゃいけないけど、それらを終えて、実験を観察するその瞬間は、「すべての理論を忘れることが必要」になる。じゃないと、理屈にあわない現象を見落としてしまう。人間の目ってそういう風にできている。すみません某せんせーの受け売りです。
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君はこの役割が全くわかっていない。
「その場をテキトーに済まそうとする人」「「まとめるため」に知識を使ってる奴」が科学者足りえるわけねえだろうが。
ゆえに、君は科学に向いていない人間だと判断する。物性物理専攻のわたしが。
一方、精神分析は自身を科学だと言い張っているが、さすがのわたしもそれは認められない。確かに精神分析は科学的ではない。
しかし、科学が発達しすぎて、科学者自身が忘れてしまった、本来科学とはどういう役割があるのか、いわば科学哲学(わたし単位取った。そういう学部なんだ)的な問題としての「科学とはどういう学問か」「科学とはなんぞや」を論じているのが、精神分析なのだ。
だからと言って精神分析がえらいって話じゃないけどね。むしろ科学のあまりカスだ。
これこれこうゆーことなのだよ中坊くん!
つかさ、全然発散してないじゃん。君のその記事の要約は「自閉症療育で重要なのは「精神的自立」であり、「経済的自立」は従だ」ってことだよな。
で君は、その重要な「精神的自立」が、内面の問題だということは認識している。前記事参照。
しかし君は「内面は論じない」とエポケーする。
こんな態度まさに「その場をテキトーに済まそうとする人」じゃないか。君公開していないけどコメントに書いたよなわたし。「君の「議論の収束点」は「嘘っぽい」」って。
わたしは最初から内面を含めて議論をしている。
君が勝手にエポケーしたところを最初から含めて議論しているだけ。
それを「議論が発散している」とかよく言えたものだ。
「ボクチンはそこまで話したくないからやめてくだちゃい」ってことだろうが。それを君は「エントリの論点とは遠い議論になってしまったので」と言っている。
あほらし。