墓参り=登山
2010/01/24/Sun
うちの田舎の墓地は、山全体がそういう風になっていた。霊山みたいなものだろうか。山の入り口に商店があって、そこでお線香などを買い、竹箒を借り、水を汲んで、山に登る。わたしたち子供はそこでお菓子を買い与えられ、機嫌を取られる。
はじめのうちは、舗装はされていないが、車でも通れそうな道が続く。少し登ると、いかにも墓地らしい風景が見えてくる。整然とは言えないが、ある程度区画割されてお墓が立ち並んでいる。
うちのお墓はそこにはない。そこにあればとても楽なのだが、まだ登らなければならない。よく親に愚痴ったものだ。「なんでもっと低いところにお墓作らなかったの?」と。
やがて道らしい道はなくなる。獣道と言うと言いすぎだが、車など通れない。バイクも無理だろう。オフロードバイクなら可能か。
細い道である。いや、雑草などが生えていない部分を道と言うのならば、の話だが。道幅は一メートルもない。
親でさえ息が上がっている。小学生のわたしなどはくたびれきっている。
すでにいわゆる山の奥なのだが、まだ人為の跡はそこかしこにある。それこそ、木々に混じるようにお墓が立っている。墓地という所有地を示すためか、コンクリートブロックを埋めて境界にしているところもある。とてもおざなりな境界。
そのうちの一つがうちのお墓だった。
入り口の商店までに車で一時間ほどかかるのだから、年に一度くらいしか行かなかったと思う。それでも周辺は雑草が茂り、草葉が堆積していた。多分五年行かなければ完全に自然に返ってしまうだろう。よく見ないと、そこにお墓があるとはわからない、みたいな。すでにそうなっているのかもしれない。わたしは知らない。
何かのマンガで、友人が死んで、その死骸を野ざらしにし、腐って自然に返るまでを見届けなければならない、というシーンがあった。
自然に返った方が、死者は喜ぶんじゃないだろうか。
なぜならわたしは、自分が死んだら、みんなに忘れてほしいから。子供の頃から素でそう思っていた。
区画割されたところにわたしの墓があるのは困る。わたしを忘れてくれて、放置されると目立つからだ。軽い噂が立つかもしれない。「あそこのご家族は……」のような。家族はそれでわたしを思い出してしまうだろう。
だからわたしの墓は、山の奥にあってほしい。
そもそもお墓なんていらない。
いや、どっちでもいい、という感じ。
忘れてくれてもいい。覚えていてくれてもいい。
死んだわたしを覚えていることとは、怨念を背負うことである。
だからあなたたちにとってすれば、忘れてしまった方がいい、というくらいの話である。
これだけは今のうちに言っておきたい。
人間として。
怨念は、やる瀬がないから怨念となるのだが、仮に何かのせいにすることはできる。その何かは空想上のものであっても人であってもいい。
怨念を何かのせいにするのが、人間の基本原理だとわたしには思える。
怨念を何かのせいにした結果が、人間らしい敵意だ。
怨念がそのまま表に出た悪意とは、別物だ。
だからわたしはよくこう言う。「あなたのせいじゃない」。人間として敵意を抱いているのではない。これは動物の警戒心と似たようなものだ。
だけど彼らは勝手にそれを昇華する。獣の警戒心を人間らしい敵意に勝手に昇華してくれる。
ありがとう。
わたしを人間として認めてくれて。
人間として認めたら、忘れづらくなっちゃうのに、大丈夫?
小説を書くこととは、自己美化だ。いや、わたしがする「小説を書くこと」について、どうしてもわたしがそう考えてしまう、という話だ。
登場人物に自分を投影しているからだろうか。いや、投影など関係ない。感情移入しているわけではない。
登場人物とは、いくら自分がそれに感情移入していなくても、自分の妄想の産物である。これは揺るぎのない事実である。
そうであっても、感情移入していなければ自己美化にはならない。
いや、そうなるのだ。
妄想の産物である以上、登場人物について、自分が知らない部分はない。
ケガレの本質とは未知性だ。
であるから、物語を創作すること自体が、ケガレの棄却になる。
よって自己美化になる。
自分の妄想の美化になる。
そうではない文学もあるんだけどね。そうでなくそうとすると、自然と露悪趣味的なものになる。
しかしそれは、「小説を書くこと」そのものの本質部分にある自己美化的機制を、うわべで抑圧しようと、ごまかそうとしているだけだ。
そうするしかないのだ。
はじめのうちは、舗装はされていないが、車でも通れそうな道が続く。少し登ると、いかにも墓地らしい風景が見えてくる。整然とは言えないが、ある程度区画割されてお墓が立ち並んでいる。
うちのお墓はそこにはない。そこにあればとても楽なのだが、まだ登らなければならない。よく親に愚痴ったものだ。「なんでもっと低いところにお墓作らなかったの?」と。
やがて道らしい道はなくなる。獣道と言うと言いすぎだが、車など通れない。バイクも無理だろう。オフロードバイクなら可能か。
細い道である。いや、雑草などが生えていない部分を道と言うのならば、の話だが。道幅は一メートルもない。
親でさえ息が上がっている。小学生のわたしなどはくたびれきっている。
すでにいわゆる山の奥なのだが、まだ人為の跡はそこかしこにある。それこそ、木々に混じるようにお墓が立っている。墓地という所有地を示すためか、コンクリートブロックを埋めて境界にしているところもある。とてもおざなりな境界。
そのうちの一つがうちのお墓だった。
入り口の商店までに車で一時間ほどかかるのだから、年に一度くらいしか行かなかったと思う。それでも周辺は雑草が茂り、草葉が堆積していた。多分五年行かなければ完全に自然に返ってしまうだろう。よく見ないと、そこにお墓があるとはわからない、みたいな。すでにそうなっているのかもしれない。わたしは知らない。
何かのマンガで、友人が死んで、その死骸を野ざらしにし、腐って自然に返るまでを見届けなければならない、というシーンがあった。
自然に返った方が、死者は喜ぶんじゃないだろうか。
なぜならわたしは、自分が死んだら、みんなに忘れてほしいから。子供の頃から素でそう思っていた。
区画割されたところにわたしの墓があるのは困る。わたしを忘れてくれて、放置されると目立つからだ。軽い噂が立つかもしれない。「あそこのご家族は……」のような。家族はそれでわたしを思い出してしまうだろう。
だからわたしの墓は、山の奥にあってほしい。
そもそもお墓なんていらない。
いや、どっちでもいい、という感じ。
忘れてくれてもいい。覚えていてくれてもいい。
死んだわたしを覚えていることとは、怨念を背負うことである。
だからあなたたちにとってすれば、忘れてしまった方がいい、というくらいの話である。
これだけは今のうちに言っておきたい。
人間として。
怨念は、やる瀬がないから怨念となるのだが、仮に何かのせいにすることはできる。その何かは空想上のものであっても人であってもいい。
怨念を何かのせいにするのが、人間の基本原理だとわたしには思える。
怨念を何かのせいにした結果が、人間らしい敵意だ。
怨念がそのまま表に出た悪意とは、別物だ。
だからわたしはよくこう言う。「あなたのせいじゃない」。人間として敵意を抱いているのではない。これは動物の警戒心と似たようなものだ。
だけど彼らは勝手にそれを昇華する。獣の警戒心を人間らしい敵意に勝手に昇華してくれる。
ありがとう。
わたしを人間として認めてくれて。
人間として認めたら、忘れづらくなっちゃうのに、大丈夫?
小説を書くこととは、自己美化だ。いや、わたしがする「小説を書くこと」について、どうしてもわたしがそう考えてしまう、という話だ。
登場人物に自分を投影しているからだろうか。いや、投影など関係ない。感情移入しているわけではない。
登場人物とは、いくら自分がそれに感情移入していなくても、自分の妄想の産物である。これは揺るぎのない事実である。
そうであっても、感情移入していなければ自己美化にはならない。
いや、そうなるのだ。
妄想の産物である以上、登場人物について、自分が知らない部分はない。
ケガレの本質とは未知性だ。
であるから、物語を創作すること自体が、ケガレの棄却になる。
よって自己美化になる。
自分の妄想の美化になる。
そうではない文学もあるんだけどね。そうでなくそうとすると、自然と露悪趣味的なものになる。
しかしそれは、「小説を書くこと」そのものの本質部分にある自己美化的機制を、うわべで抑圧しようと、ごまかそうとしているだけだ。
そうするしかないのだ。