女性の文学
2007/03/19/Mon
言葉は、どうあがいても「男性的」だ。
それは様々な視点から言えることだろう。
デリダはエクリチュールの女性性に言及しているようだが、所詮言葉には変わりない。蓮實重彦などもそれを否定している。
そういった意味で、「女性の文学」は存在しない、などとラカン風なことを言いたいわけじゃない。
言葉の根源とはなんだろう?
言葉とは人類という動物に特徴的な象徴化能力を活かす道具である。ではその道具を手に入れてない時はどうなのか。
人間の精神発達史に照らし合わせるなら、幼児期の「快/不快」、即ち「プラス/マイナス」「ある/ない」などのような二項的象徴化が根源にあるだろう。幼児はこの時点で「ある/ない」→「生/死」という類化をしている。即ち、「死」という概念を知っている。
この二項的象徴化の、大人への影響とはどのようなものがあるだろう。
精神分析的にいうなら、強迫神経症とヒステリーの症状がそれをわかりやすく示しているのではないだろうか。強迫神経症患者は、「存在する/存在しない」の狭間で「存在」「生死」を問いかけている。ヒステリー患者は、「男/女」即ち「性」を問いかけている。
ラカン論では「女性は存在しない」。
いろいろと物議を醸している言葉だが、これは、女性という「群」が、男性と比べて一括りできるような(男性は皆等しく「去勢」「原抑圧」において明確な「イベント」「イニシエーション」を経験する)、共通の特徴がない、いわば開放集合のような存在である、ということである。つまり、女性は「私は女」という言葉などで象徴できる、自らの象徴界への性の登録をしにくいのだ。
このことから、女性にとって、「存在する/存在しない」という問いかけは、「性」への問いかけと同値になる。
男性は、自らの性について、原抑圧時のイニシエーションによりある一定の共通の特徴があるため、男性という群は閉鎖集合的となる。よって、「存在する/存在しない」という問いかけに「性」を関与させる必要がない。「私は男」という言葉に、根拠があるからだ。
故に、ヒステリー患者には女性が多く、強迫神経症患者には男性が多い。臨床事実にも合致する。
その象徴化能力の根源の一つとして「ある/ない」という二項的象徴化がある。
女性の精神世界において、この「ある/ない」は「男/女」という二項と同値となる。
結果、女性の文学は、「性交」に象徴される「性」を取り扱ったものが多くなる。自然の成り行きである。
言葉とは、象徴化能力を複雑化せしめる道具である。
象徴化とは、理解できない、予測不可能な対象を自分の思考の中に組み込むことである。象徴化して、現代なら数式で世界を表現することで、予測を可能にせしめる。思考の中に組み込むことは、象徴的「所有」と言える。象徴化することで、閉鎖集合的な「一括り」が可能になる。即ち、言葉とはその(道具としての)性格そのものが「男性的」であるのだ。
そんな言葉で表現する文学において、ヒステリーの「症状」的に不可避的に「性」を取り扱うことになる女性文学は、喩え読者が現実的な「女性」であっても、「男性」的視点をもって読まれてしまう。エクリチュールは「読まれる」もので、デリダが言うようにそういう意味では受動的な女性性と言えるが、言葉の羅列には人格はない。無意識がない。表層しかない。その表層=言葉を読者が、ファルス的享楽的に「所有」して、その中に「何かがあるかもしれない」という「幻想」を楽しむものだ。所有した言葉は、名前の付けられていない世界から「物語」としてその意味を掴みあげる。ここには二重の「所有」の構図があり、その上に成り立つのが、文学が生む「幻想」なのだ。
本に書かれた言葉は作家と読者双方に所有されるものでしかない。まさか、(子供でもなければ)本に自分という物語が読まれているなんて人はいないだろう。それは分析的には、その読者はフェティシスムと同じ構造で読んでいる、と言える。言葉という偶像を崇拝してしまっているわけだ(ちなみに小説フェチは結構多いように体感的に思える)。女性文学は、文学という表現手段を選んだ時点で、「男性」の手の内からは逃れられない運命にあるのだ。
(勘違いしないで欲しいのは、ここでの「男性」とは、象徴的な意味での「男性」である。世の男性「個人」とは無縁であることを付け加えておきたい。……う、フェミっぽい言い方だ。)
言葉そのものに宿る男性性と文学そのものの男性性という二重の「所有」的男性性から逸脱する、本当の意味での「女性の文学」などありえるのだろうか。脱構築は可能なのか。
――わからない。
ここまで来ると私の思考が止まる。
そんな自分をいろいろ分析できる状態かもしれない。でもムリ。
もしこの一歩を踏み越えようとすれば、それは現実的な行為、即ち「症状」「アクティングアウト」という形をとるのかもしれない。早い話、ヒステリーだ。
私はフェティシスムのごとく立ち止まるしかない。今の女性作家も同じようなものだろう。男性の視線を意識した文章として読まれる言葉を紡ぐ以外に道はない。そもそも、そんな脱構築は必要なのか。誰のために必要なのか。象徴的代理物を掴み続ける男性的生のために必要とされているのではないか。
女性にとっても女性という存在は「わからない」。考えるのもアホらしくなるから。
私だって、愛されたいのだ。
それは様々な視点から言えることだろう。
デリダはエクリチュールの女性性に言及しているようだが、所詮言葉には変わりない。蓮實重彦などもそれを否定している。
そういった意味で、「女性の文学」は存在しない、などとラカン風なことを言いたいわけじゃない。
言葉の根源とはなんだろう?
言葉とは人類という動物に特徴的な象徴化能力を活かす道具である。ではその道具を手に入れてない時はどうなのか。
人間の精神発達史に照らし合わせるなら、幼児期の「快/不快」、即ち「プラス/マイナス」「ある/ない」などのような二項的象徴化が根源にあるだろう。幼児はこの時点で「ある/ない」→「生/死」という類化をしている。即ち、「死」という概念を知っている。
この二項的象徴化の、大人への影響とはどのようなものがあるだろう。
精神分析的にいうなら、強迫神経症とヒステリーの症状がそれをわかりやすく示しているのではないだろうか。強迫神経症患者は、「存在する/存在しない」の狭間で「存在」「生死」を問いかけている。ヒステリー患者は、「男/女」即ち「性」を問いかけている。
ラカン論では「女性は存在しない」。
いろいろと物議を醸している言葉だが、これは、女性という「群」が、男性と比べて一括りできるような(男性は皆等しく「去勢」「原抑圧」において明確な「イベント」「イニシエーション」を経験する)、共通の特徴がない、いわば開放集合のような存在である、ということである。つまり、女性は「私は女」という言葉などで象徴できる、自らの象徴界への性の登録をしにくいのだ。
このことから、女性にとって、「存在する/存在しない」という問いかけは、「性」への問いかけと同値になる。
男性は、自らの性について、原抑圧時のイニシエーションによりある一定の共通の特徴があるため、男性という群は閉鎖集合的となる。よって、「存在する/存在しない」という問いかけに「性」を関与させる必要がない。「私は男」という言葉に、根拠があるからだ。
故に、ヒステリー患者には女性が多く、強迫神経症患者には男性が多い。臨床事実にも合致する。
その象徴化能力の根源の一つとして「ある/ない」という二項的象徴化がある。
女性の精神世界において、この「ある/ない」は「男/女」という二項と同値となる。
結果、女性の文学は、「性交」に象徴される「性」を取り扱ったものが多くなる。自然の成り行きである。
言葉とは、象徴化能力を複雑化せしめる道具である。
象徴化とは、理解できない、予測不可能な対象を自分の思考の中に組み込むことである。象徴化して、現代なら数式で世界を表現することで、予測を可能にせしめる。思考の中に組み込むことは、象徴的「所有」と言える。象徴化することで、閉鎖集合的な「一括り」が可能になる。即ち、言葉とはその(道具としての)性格そのものが「男性的」であるのだ。
そんな言葉で表現する文学において、ヒステリーの「症状」的に不可避的に「性」を取り扱うことになる女性文学は、喩え読者が現実的な「女性」であっても、「男性」的視点をもって読まれてしまう。エクリチュールは「読まれる」もので、デリダが言うようにそういう意味では受動的な女性性と言えるが、言葉の羅列には人格はない。無意識がない。表層しかない。その表層=言葉を読者が、ファルス的享楽的に「所有」して、その中に「何かがあるかもしれない」という「幻想」を楽しむものだ。所有した言葉は、名前の付けられていない世界から「物語」としてその意味を掴みあげる。ここには二重の「所有」の構図があり、その上に成り立つのが、文学が生む「幻想」なのだ。
本に書かれた言葉は作家と読者双方に所有されるものでしかない。まさか、(子供でもなければ)本に自分という物語が読まれているなんて人はいないだろう。それは分析的には、その読者はフェティシスムと同じ構造で読んでいる、と言える。言葉という偶像を崇拝してしまっているわけだ(ちなみに小説フェチは結構多いように体感的に思える)。女性文学は、文学という表現手段を選んだ時点で、「男性」の手の内からは逃れられない運命にあるのだ。
(勘違いしないで欲しいのは、ここでの「男性」とは、象徴的な意味での「男性」である。世の男性「個人」とは無縁であることを付け加えておきたい。……う、フェミっぽい言い方だ。)
言葉そのものに宿る男性性と文学そのものの男性性という二重の「所有」的男性性から逸脱する、本当の意味での「女性の文学」などありえるのだろうか。脱構築は可能なのか。
――わからない。
ここまで来ると私の思考が止まる。
そんな自分をいろいろ分析できる状態かもしれない。でもムリ。
もしこの一歩を踏み越えようとすれば、それは現実的な行為、即ち「症状」「アクティングアウト」という形をとるのかもしれない。早い話、ヒステリーだ。
私はフェティシスムのごとく立ち止まるしかない。今の女性作家も同じようなものだろう。男性の視線を意識した文章として読まれる言葉を紡ぐ以外に道はない。そもそも、そんな脱構築は必要なのか。誰のために必要なのか。象徴的代理物を掴み続ける男性的生のために必要とされているのではないか。
女性にとっても女性という存在は「わからない」。考えるのもアホらしくなるから。
私だって、愛されたいのだ。