ぬいぐるみを移行対象とするのは拡大解釈である。
2010/01/31/Sun
「なんで棄てちゃったんだろう」と思うことがよくある。
などと言いながら、棄てたその時は本当にそれに対する興味をなくしていたのだ、と思う。「なんで棄てちゃったんだろう」と思う今の自分が正しくて棄てた昔の自分が間違っていた、とは思えない。なぜなら今のわたしにも、ちょっとだけそれに対する無関心さがどこかにあるからだ。「なんで棄てちゃったんだろう」と思うのが大部分を占めてはいるが、それに対しなんの反応も示さない自分が宿便のようにあるのがわかる。
「結局こいつもだめだったな」
今でも思う。そいつとは絶対に理解しあえないと。
だけど、ちょっとした一文、これは過去のものでも今のものでもいいのだが、それを見て「あ、もしかして」と思うことがある。わたしが「だめだ」と判断した時期にそういう一文が交じっている場合もある。
もちろんそれはただの一文で、当時のわたしは違った文脈で受け取ったのだと思う。あるいは目に入ってなかったか。
わたし自身が分裂しているのはよくはないけどまあ置いといて、相手が分裂している。わたしにとっての相手が。
わたしのまなざしは相手をひとまとめにしてあげることができない。
だからわたしは子供を産んではならない。育ててはならない。
今思いついた言い訳だけど。直感で昔からあった。
わたしは憎しみの子供を育ててしまうだろう、と。
無理矢理レイプされて妊娠させられてたら産んだかもしれないけどさ。興味本位で。頭はよかったからねー。避妊はばっちしでした。
アメリカドラマでは高齢出産の話がよくある。キャリアウーマンの総本山だからそういう話も一般的なんだろうな。
社会的に一段落つくと、目がそういう方に向いちゃうのだろう。環境因的にも器質因的にも。なので三十代になっても社会に認められないキャリアウーマン(言葉として矛盾してそうだ)などはその限りじゃないだろう。目は自分を認めてくれない社会に向き続ける。
「子を産みたい」という本能的な、自体愛的な、器質因的な機制は、とっても弱いものだ。
わたしにもあるが、無視できなくない。ただわたしは、社会から疎外されたメンヘラであり、かつ社会に対して強い興味を覚えていないので、わたしの体の内部に「あーそういう興味はあるな」とわかるだけ。
分散しまくっている興味の中ではわりと強い方だと思う。強いと言っても一般の人における人為的な社会に対する興味などと比べるとはるかに弱いって話で。
こんなこと言うと「男性的だ」とか言われるのだろうか。
いやまー、環境因的な、社会的な要請で「子供を産みたい」って思わされることもあるからな。つかこれが強力なんだ。
「あなたは子供が欲しいのよ」「あなたは子供が欲しいのよ」「あなたは子供が欲しいのよ」……。
なんの洗脳だよ(笑)、って思う。いやほんとに多い。文脈を読めば隠喩的にそう言っているドラマが。映画『ウルトラヴァイオレット』くらいあからさまにやってくれると笑って見ていられる程度にありふれている。いやおもしろかったよ。B級にここまで本気になってくれればおもしろくなる。ミラ・ジョヴォヴィッチかっこええし。様式美だな。格闘のバレエ化っていうか。ってういきぺったら新体操を取り入れたらすい。なるほ。
機械的な身体。競技としての新体操やフィギュアスケートはなんだか汚らしく思える。物語を纏わりつかせてない。プロフィギュアは別なのかもしれないが。器械体操もまだまし。わざと欲望の対象となるものを排除しようとしているから。一方新体操やフィギュアは、口で「エロく見てません」と言いながらエロを要求しているのが下卑ている。要求されて差し出す欲望の対象は対象a足りえない。対象aとは余剰物である。
エロは物語を吸いよせる。対象aが欲望を吸いよせるがごとく。裸の美女に服が勝手に纏わりつくがごとく。だからバレエなどはいい。全体(世界)的なものだとして見れる。
ただま、映画って構成要素として物語があるのだから、技術として新体操を取り入れたのは合理的だよな。物語との交接の仕方、つまり服の着方はこっちでやるから、ってことだ。
バレエなんて昔はストリップみたいなもんだったんだぜ。劇場は娼婦の客引き場。それを改革したのがルイ十四世。太陽王は偉大だった。
外人のストリップを目玉にしている飲み屋にいったことあるんだけどさ、いや女性のなんだけど(普通に女性客もいた)。本場のそういう人を呼んでるらしいんだが、筋肉がすげえって思った。いやこちとら本場バレエの演出部をやったこともあるんだが、そういう人と同じくらいすげかった。一緒にいった男曰く「とてもじゃないが勃たん」だとさ。
バレエもストリップも、裸なのがいいんじゃなくて、普段使わない筋肉を酷使しているのがいいんじゃないだろうか。むしろそういうところがエロの本質なんじゃないだろうか。
欲望じゃないエロ。むしろグロに近い。
部分対象的な躍動。
ごめん単なるうわ言。
いつものことだが話がそれた。
戻す気もないから終わり。
そうそう、拍手コメントでおもろいのがあって(おそらく自閉症当事者か関係者のものだろう)、「あーいつか触れたいな」と思っていたのだが忘れかけていたので言語化してみる。
引用する(筆者の方、不都合があったら言ってください。削除します。って削除しちゃったらこっから以降全部削除になるな。ごめん、いい指摘だと思うから引用するわけで許して)。
=====
小さい子ってよくぬいぐるみとか抱いて寝るけど、あれってファルスおっ勃ててるって言える? 子宮に抱かれて布団に抱かれてベビーカーに抱かれてたのにぬいぐるみは抱いてる/支配してる。これって人間で「支配」を実行する為の前準備じゃね?いやドラマで欲求不満の女(男だったら犯される方)がよく抱き枕とか布団を抱きながら彼氏の名前呼んでマンコ/チンコ擦り付けてるシーン見てさ。抱かれたいって言いながら抱いてるってどうなんだと思って。つまんないな。「穴を囲んでるようで本当は囲まれてる」を下の話で置き換えただけだな。結局ぬいぐるみの中でもバカでかい重い熊さんと寝てたら準備出来ないんじゃないかと思った。定型発達粛正キット「抱かれ枕」。いや人間を抱く枕。そういうの作ったら正常人減るんじゃないか。
=====
これ呼んで真っ先に思い浮かんだのが、ライナスの毛布だ。なるほど、「抱く/抱かれる」って視点で言えば、ライナスは毛布を抱いているとも言えるし毛布に抱かれているとも言える。抱かれることから抱くことへの移行途中。だから移行対象となるわけだな、と。
だとするとぬいぐるみは移行対象としては弱い、ってなるな。うんうん、よく児童心理学の馬鹿たちが「ぬいぐるみを抱くのは人を愛するようになるための移行段階ですよ」とか言っているんだが、おそらくクライン派の「移行対象」のことを言ってるんだな、とはわかるんだが、全然違うだろ、と思ってたんだよ。
人を愛せるようになってから、ぬいぐるみを擬人化して抱く、という逆方向の機制について彼らはまったく失念している。子供だからそんなことはないだろう、って学者らしからぬ不用意な思い込みがあるのかもしれんが。
要するに、その子供が、たとえばデブいババアが服を着せられた子犬にするがごとく、擬人化して抱いているなら、そのぬいぐるみは移行対象ではない。
むしろぬいぐるみなんて移行対象じゃないケースが多いのではないだろうか。わたしの臨床ではそうだ。ぬいぐるみを抱く児童がぬいぐるみを部分対象として見ているとはとても思えない。
それは無知による概念の拡大解釈なんじゃないか。
部分対象から統合された対象へと移行する時のそれが、移行対象なのだ。
ぬいぐるみを抱くことはただの回帰である。
いやま、自分を抱こうとするようなでかいぬいぐるみなら、ちょっと気合の入った回帰だなとは思えるけど。
また、三歳くらいの幼児なら、まさに「抱かれることから抱くことへの移行」の後半段階として、ぬいぐるみが移行対象としてあるとは言えるかもしれない。
しかし小学生くらいならば、わたしはそのぬいぐるみは移行対象ではない、と判断する。彼らはすでに人を愛せるようになっており、ぬいぐるみを擬人化して抱いているだけである、と。
本題に入ろう(記事タイトルにしているが前フリだ)。
わたしには妙な癖があって、ベッドとかまあ大体普通壁際に設置するもんだと思うが、わたし壁に貼りついて寝るんだよね。はじっこで寝る。一緒に寝てた奴に言われてはじめて気づいたんだけど、あーそういやそうだな、と。テレビのベッドシーンとかそんな風に寝てる人いないよな、と。ラブホテルのベッドって大体真ん中にあるじゃん。だからラブホ好きじゃなかったのか、なんてのは無理矢理すぎ。部屋にいった方がそいつのことわかるじゃん。わたしのことも。それだけのこと。
で、社会人時代にも寝るときの妙な癖があって、これはわたし自覚してたんだが、住んでた部屋の壁に妙な出っ張りがあって、ベッドを壁にぴったしつけられなかったんだよね。大道具用語で「どん」できなかった。結構隙間が空いてた。十センチはなかったかな。でもそれくらい。
んでまあ、壁際で寝ようとするのはいつもの癖だったんだろうけど、その隙間に腕や足を入れてたんだよね。そうすると落ち着く。いや当然不自然な体勢になるわけで、寝るときは抜いてたけど。
なんかのマンガで、「隙間が大好き」ってキャラがいて、いろんな隙間を見つけては入り込んでハアハアしてたんだが、いやハアハアなんかしなくてむしろ落ち着くんだが、あれみたいなもんだ。できるなら体ごと入れてみたかった。
そんな風に考えていると、この論文を連想した。テンプル・グランディンの「Hug Box」とはこういうものではなかったかと。
つまり、この拍手コメント者の言う「抱かれ枕」という概念は結構重要なんじゃないか、ということだ。「抱かれ枕」=「Hug Box」と考えると、自閉症者が抱える不安をある程度和らげる装置になるのではないか、と。
しかし実際に売れているのは「抱き枕」であり、実際の使用方法も、使用者はそれを抱いて眠る。むしろ大勢の人間は抱くことで安心感を得ている。
この逆転現象は非常に重要なことだとわたしには思える。自閉症研究において。
前掲論文において斎藤はこのように述べている。「正常な人間と違い自閉症者は「学習Ⅱ」とされる言語的収縮を利用できない。その代わりに器質的感覚に代償を必要とするのではないか」と。これはあたってはいると思うが、わたしはむしろ逆だと思う。自閉症者が必要とする器質的収縮的刺激を、言語(的構造)で代替(『アンチ・オイディプス』的に言うなら劣化)できたのが正常人である、という表現の方が正しいと。ラカン理論との接続の仕方としてはこの文章の方がうまくいくだろう。まさにこの代替する過程が去勢、すなわち鏡像段階である、と。
このコメント者が提示する「抱く/抱かれる」という二項対立は、結構重要な示唆を、自閉症研究者たちに与えるはずである。
いわば、正常人は「抱かれ枕」から「抱き枕」への移行を、生後二年以内に去勢として経験しており、自閉症者はそうではないから「Hug Box」を必要とする、という話である。
去勢されてファルスは生じる。なので「あれってファルスおっ勃ててるって言える?」って質問に対しては、「細かい部分を抜きにすれば、言える」って答えになる。
一方、「定型発達粛正キット「抱かれ枕」」には疑問を感じる。
「抱かれ枕」から「抱き枕」への移行を、遠い昔に正常人たちは経験している。その移行は彼の無意識の奥底に埋もれている。従って、正常人たちに対し「抱かれ枕」を「定型発達粛正キット」として作用させようとするならば、無意識を掘り返す作業として、大きな迂回が必要になる、とわたしは考える。
むしろそれを「定型発達粛正キット」とするための迂回、補足がこの文章だ、って感じ?
ここで(一般読者に対し)重要な留意を促したい。だからと言って「自閉症者は抱擁すればいい」という話ではないことに注意して欲しい。
正常な乳児は養育者に抱かれるという刺激を快楽として認知できるようになっているが、自閉症児はそうではない、という事実を示唆するのに有効だ、という話である。自閉症児の赤ん坊は抱っこされるとのけぞることが多い。
斎藤の言う言語的収縮をラカン風に「象徴的抱擁」とするなら、養育者による乳児の抱擁は「想像的抱擁」と言えるだろう。
であるならば、自閉症者は「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」と表現できる。わたしの述べる「合意の快楽」とはこういう概念である。象徴的かつ想像的であるから、意味の合致、すなわち合意となるわけである。つまり、わたし用語ならば、「未去勢者は合意を快楽化できない」となるわけだが、先の文章はこれとほぼ等しい意味を持つ。
むしろただのそういった脳内(体内)における刺激情報処理を、快楽化できるようになった精神疾患的症状に罹患した個体が、精神医学における正常人である、と考えなければならない。
また、知的障害のない自閉症(アスペルガー症候群や高機能自閉症)は、「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」まま成長し、それらを無意識的に快楽化できている正常人に対し警戒感を覚えることもあろう。「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」ままエコラリア、エコプラクシア的に象徴的、想像的構造を学んだ彼らは、「象徴的かつ想像的抱擁を無意識的に快楽化できる」多数の正常人たちから、自らの精神的苦痛を、ないことにされる経験を何度も経てきているだろう。
彼らは、エコラリア、エコプラクシア的に学んだ、当人にとっては嘘のように、ネタやコントのように思える象徴的、想像的構造を手にすることにより、自分を抱擁しようとする相手が、自分の精神的苦痛を理解できない人間だと、それをないことにする人間だと、判断することもあろう。
抱擁を快楽と思えないまま知恵をつけた彼らは、「正常人としてされる抱擁」を拒否するだろう。西洋人がよくやるように、激しい不安にかられてハグされても、成人した彼らはそいつを突き放すだろう。斎藤の論文の言葉を借りるなら、「主体化への恐れ」によって。
だから、テンプル・グランディンを抱擁するのは、機械でなくてはならないのである。自閉症者を抱擁するのは、枕でなければならないのである。
「自閉症は自開症である」という言説がある。常に自開してしまう自閉症者たちにとって、彼らを抱擁する、器に閉じ込める神は、人間であってはならないのだ。
「ありえる」ことの恐ろしさ。慢性的な不安感の原因はこれだな、と思った。
無限の可能性に対する不安。
自分などないと思えるほど自開していることの不安。
これは正常人たちには絶対に理解できない。
理解できると言うなら、あなたはキチガイの世界に足を踏み入れている。
つかさ、自閉症関連はこのブログのあくまで一要素で、そういうブログとして見られるとなんか困る。あたしパニック障害だし、精神科医でもないし。
世界は緊張している。この世界を代理表象しようとしているだけ、っていい言い方に聞こえる? なら違くていいけど。
他人事で考えるとどっちかってと芸術よりだと思うんだがなあ。だからジャンルも「文学」にしてるし。「その他」が一番あってるとは思うけど。芸術ジャンルで語られている芸術はわたしが認知している芸術じゃないと思える。殺しあいとしての芸術っていうか。「殺しあいじゃないセックスは信用しない」。
うん、そう。巷の芸術って、ラカン用語で言えば、快楽的なんだよな。享楽的とはとても言えない。作品自体にはそうかなと思えるものもあるが、人に語られると違うものになる。その人は快楽的に芸術鑑賞しているんだな、となって、その芸術作品も快楽的なものだとなる。
「芸術ってのは作品そのものじゃなくて、表現者と受取手の間に生じる現象だ」というのは大学時代のわたしのわたしが思う名言なんだが、そういった現象として快楽になってるならだめ、ということだ。
あ、いやま、快楽でもいいんだけど。享楽は劣化されて快楽になるわけで、むしろ快楽が纏わりつかない享楽は存在しない、とは思う。
あれ、わかんなくなったぞ。
なので終わり。
「アール・ブリュ」、「生(き)の芸術」は、「芸術の死」でもある、ってことか。
うん、めんどいんでこの程度で。
あと、なんかこの記事とかから草間彌生厨だと思われるとめんどいんで言っておくが、「最近の作品はデザイン化している」ってチャットで発言したことあるよ。水玉ハイヒールとか。要するにつまらんって。こいつあたりに言ったかと。つかそのチャットではほとんどそいつとしか話してなかったから多分そいつ。
ただ、顔に穴が空いた初期の絵とか、水玉が乱舞するような作品は、「おーあるある」って思ったから興味を持っただけ。
最近の水玉は動いていないからつまんない。ナイフになってない。
小説もおもろいとは思わなかったしな。
ちなみに昔からの知り合いのアスペも小説書いているんだが、二作品くらい読んだけどすげーつまらなかった。症状としてはおもしろかったけどね。本当文脈っていうか構造がばらばら。ストーリー的にも文体的にも。だからわたしは斎藤とかが言う「自閉症者は文脈が読めない」って論には賛成する。とはいえドードーとらさんとか文脈読みまくりなんだけどな。ここのコメント欄とか、「二次元」って言葉に関するラカン的なものを含んだ文脈としてあっさり理解できている。ここのコメント欄のツレション女なんかよりよっぽど読めている。読めはするけど文脈っつかラカン的な言語的構造で語れない、ってことなんだろうな。こういうタイプは。その小説書きも小説作品を批評する立場になると鋭いことを言うし。すっげ言い方悪いけどね。わざと相手を怒らせようとしている感じの。言葉自体は柔らかいのに「あーそういう言い方したら揶揄に聞こえるだろうに」とか思えるときがしばしば。ってわたしに言われたくないか。わたしは開き直っちゃったからな。わたしの言葉は他人を傷つけるものだって。
つかそもわたし前から「アウトサイダーアートとアートは別物だ」って言ってるし。
なんか勝手な思い込みをおっかぶされるのごめんだから言っておく。
うざいうざいうざい。
私信。アリスさんおひさ。ごめんねアリスさんのIPエロ広告コメ連投してる奴と同じバイダでさ、一括規制してた。2ちゃんの巻き込まれ規制と同じ。
コメントの方がよければ言ってください。解除します。
つかこいつのバイダも、アリスさんとは別だけど、エロ広告バイダなんだよな。まーこいつのコメントなんかいらんからどうでもいいけど。髭抜かせろ。
エロ広告大杉。エロワード大量に使ってるからか。検索でもそういう単語でくる奴多いしな。
すまんねエロじゃなくて。
「獣姦」でくる奴とか結構多くてワラタよ。
今見たら「女性にペニスが無い社会」ってのがあってワラタ。多分「女性にペニスが無い 社会」なんだろうけど、続けるとおもろいな。本気で続けて検索してたのなら、こいつは精神分析齧ってるんだろうな、と推測できる。
意外と『晴れのちシンデレラ』関連での検索ワードが多いな。最近またつまんなくなったのに。
アニメ化するなら今のうちだぜ! 竹書房。『まんがタイムきらら』に負けんな。「ちょっとずれた萌え」じゃなくて「ストライクな萌え」だから『きらら』はつまんねえ。いやおもろいのあるけど。『きらら』も。そういうのはアニメ化されないんだな。やっぱ「ストライクな萌え」じゃないとだめなのか。
サブカルじゃない今のオタク文化はもういいよ。終わり。
「収縮」っていうか「圧縮」、「凝縮」だよな。「凝縮」しすぎて「からっぽの身体」になる。
アウトサイダーアートと芸術の違いは、この「凝縮」にあると思うな。
正常人たちが思っている同一の共同幻想としての世界を「世界」とするなら、「作品に、世界を内包する宇宙を閉じ込める」とか。
正常人たちが罹患している「正常という精神疾患」を「魂」と表現するなら、「作品に、魂を内包する宇宙を閉じ込める」とか。
アウトサイダーアートは「世界」や「魂」の外部の一端を現出させてはいるが、閉じ込められていないから、芸術足りえない。あるいは、外部であるがゆえ「世界」や「魂」が含まれていないから、芸術足りえない。
ごめん、わたしのボキャブラリーだと「宇宙」って言葉しかなかった。あざとすぎ。わかりやすすぎ。んじゃ「無限」とか。だめだな。いかにも中二病。どっちかってと「消滅」がちくちくくる(つまり適格ではないけど妥協できそうってこと)けどこれもだめだな。
ま、そういう意味で、アートの本質について、アウトサイダーアートは非常に重要なヒントになりうるが、アウトサイダーアートが芸術の本質ではない、ということだ。
生の本質は死がヒントになる。生は死と対照しないと見えてこない。そうであるのであって、生の本質が死というわけではない。
あっれ、またわかんなくなった。
うざい。
でも、やっぱそういう「宇宙」を閉じ込めるなら、絵や彫刻なんかより、舞台芸術だよな、って思う。合理的に、って語弊あるな。非合理的に合理化するのに、って意味わかんねえ。即物的なやり方、でいいよもう。
うざいって。もういいって。
お前らが終わるかわたしを終わらせるかしてくれ。
ああうん、わたしがもし未去勢者であるとしたなら、わたしは芸術に対し、器としての神を、非人間的な抱擁を求めている、と言ってもいいだろうね。
大好きな絵の中に閉じ込められた
うざいよ。
つまらん補足。斎藤の論文内の
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あるいはわれわれは中枢神経系のなかに、もう一つの主体の座を想定すべきであるのかも知れない。
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について。
この「もう一つの主体の座」って要するにこの記事で言う「エコラリア、エコプラクシア的に学んだ、当人にとっては嘘のように、ネタやコントのように思える象徴的、想像的構造」ってことだと思うが、これこそがラカン理論のアキレス腱である「サントーム」だと思うんだがな。「サントーム」の中には「世界」や「魂」は入っていない(可能性が高い)。従って「サントーム」は芸術足りえない。ジェイムズ・ジョイスの作品は芸術足りえない、ってことはないんだけどね。多分ジョイスは正常人だ。わたしの印象(診断ではない)で。娘の狂気に随分と引っ張られてはいただろうが。「アール・ブリュ」=「生(き)の芸術」すなわち「芸術の死」へ。
だからジョイスの作品はわたしは芸術だと思える。「世界」や「魂」の外部がやけに多い作品ではあるが。
つかこの記事のバブーって人が言っている「研究」ってのがまさに「サントーム」だと思うよ。「研究」って言いえて妙だなあとすら思う。しかし自閉症者であるならば、おそらくそのうちに「世界」や「魂」が入っていないため、その「研究」は芸術足りえない、となるが。
こういうこと。「アウトサイダーアートと本来の芸術は別物だ」って。
つか、たまたま『あわせて読みたい』にあったから踏んでみただけだが、このバブーって人わたしブログの読者じゃないだろうか? わたしの知ってる人。違ったらごめんなさい。
あ、いやま、「世界」や「魂」が入っていないただの「研究」であっても、それを「世界」や「魂」の中でしか生きられない正常人が手を加えれば、芸術になると思うよ。それこそこの記事で述べている「デュシャンの『泉』はそれだけでは芸術として6流だが、スティグリッツが写真として撮影することで超1流になった」っていうようなこと。いやデュシャンが自閉症だったなんて言わないが。わたしの言葉ならこの記事の
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ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
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ってあたりになるな。「物乞いババア」が「差し出す」「汚らしいただの小石」がデュシャンの『泉』だ。
「汚らしいただの小石」たる現実界だけのアートは、それこそシュルレアリスムが目指したことなんだが、その多くは、わたしは芸術と思えない。神だとは思えない。
あ、新情報。「抱かれ枕」って実在してるらしい。これ、って全然「Hug Box」じゃねえな(笑)。大きさ的にも。「縦80×横70×高さ15cm」って二尺半(この方が大きさをイメージしやすい)か。普通の枕の延長だよなこれ。
ということで「抱かれ枕」という概念も正常人たちに奪われてしまいましたとさ。
『あわせて読みたい』の人のブログ読んでたら目が痛くなった。
痛くなりながらがんばってちょろちょろ読んでたら、「正常人は「合意の快楽」を感じることができ、未去勢者はそれが困難だ」というわたし論を補強する言い分があったので引用しておく。この記事から。
=====
「普通の子」は、人にあわすことが楽しいんですよ。
だから、「指示に従う」ことも、人とのつながりの確認であって、服従にはならない。
大人に認めてもらえることがうれしいし、一人前の自分を感じたりもしてるわけです。
(中略)
でも、自閉症の子は、大人との結び目の作り方が、違ってるんだから、
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このブログトラバ打てないのな。めんどくせ。
「「普通の子」は、人にあわすことが楽しい」。子供の頃からそうなんだから、成長すればするほど「人にあわすこと」を無意識的に優先するようになるだろうね。そうやって「合意の快楽」が言動の根拠になった「正常という精神疾患」者ができあがる。ここのコメント欄とか読んでみろ。「人にあわすことが楽しい」大多数の「普通の子」たちが、その楽しさをもって「人にあわすこと」が無意識的な固定観念となった大多数の大人になって、彼らが作り上げた社会を、あるコメント者は「マジックミラー張りのラブホテルの中」と表現している。
見方を変えれば「人にあわすことが楽しい」なんて汚らしく思えてこないかい?
「人と繋がること」なんて手放しによいとされることでは決してない。
ま、お前ら大多数の正常人にとってはその方が都合がいいんだろうけどな。
「人と繋がることはよいことだ」という固定観念の底には、正常人という大多数の部族のエゴがある。
社会とは正常人という大多数の部族のエゴを根拠にして作り上げられたシステムだ。
などと言いながら、棄てたその時は本当にそれに対する興味をなくしていたのだ、と思う。「なんで棄てちゃったんだろう」と思う今の自分が正しくて棄てた昔の自分が間違っていた、とは思えない。なぜなら今のわたしにも、ちょっとだけそれに対する無関心さがどこかにあるからだ。「なんで棄てちゃったんだろう」と思うのが大部分を占めてはいるが、それに対しなんの反応も示さない自分が宿便のようにあるのがわかる。
「結局こいつもだめだったな」
今でも思う。そいつとは絶対に理解しあえないと。
だけど、ちょっとした一文、これは過去のものでも今のものでもいいのだが、それを見て「あ、もしかして」と思うことがある。わたしが「だめだ」と判断した時期にそういう一文が交じっている場合もある。
もちろんそれはただの一文で、当時のわたしは違った文脈で受け取ったのだと思う。あるいは目に入ってなかったか。
わたし自身が分裂しているのはよくはないけどまあ置いといて、相手が分裂している。わたしにとっての相手が。
わたしのまなざしは相手をひとまとめにしてあげることができない。
だからわたしは子供を産んではならない。育ててはならない。
今思いついた言い訳だけど。直感で昔からあった。
わたしは憎しみの子供を育ててしまうだろう、と。
無理矢理レイプされて妊娠させられてたら産んだかもしれないけどさ。興味本位で。頭はよかったからねー。避妊はばっちしでした。
アメリカドラマでは高齢出産の話がよくある。キャリアウーマンの総本山だからそういう話も一般的なんだろうな。
社会的に一段落つくと、目がそういう方に向いちゃうのだろう。環境因的にも器質因的にも。なので三十代になっても社会に認められないキャリアウーマン(言葉として矛盾してそうだ)などはその限りじゃないだろう。目は自分を認めてくれない社会に向き続ける。
「子を産みたい」という本能的な、自体愛的な、器質因的な機制は、とっても弱いものだ。
わたしにもあるが、無視できなくない。ただわたしは、社会から疎外されたメンヘラであり、かつ社会に対して強い興味を覚えていないので、わたしの体の内部に「あーそういう興味はあるな」とわかるだけ。
分散しまくっている興味の中ではわりと強い方だと思う。強いと言っても一般の人における人為的な社会に対する興味などと比べるとはるかに弱いって話で。
こんなこと言うと「男性的だ」とか言われるのだろうか。
いやまー、環境因的な、社会的な要請で「子供を産みたい」って思わされることもあるからな。つかこれが強力なんだ。
「あなたは子供が欲しいのよ」「あなたは子供が欲しいのよ」「あなたは子供が欲しいのよ」……。
なんの洗脳だよ(笑)、って思う。いやほんとに多い。文脈を読めば隠喩的にそう言っているドラマが。映画『ウルトラヴァイオレット』くらいあからさまにやってくれると笑って見ていられる程度にありふれている。いやおもしろかったよ。B級にここまで本気になってくれればおもしろくなる。ミラ・ジョヴォヴィッチかっこええし。様式美だな。格闘のバレエ化っていうか。ってういきぺったら新体操を取り入れたらすい。なるほ。
機械的な身体。競技としての新体操やフィギュアスケートはなんだか汚らしく思える。物語を纏わりつかせてない。プロフィギュアは別なのかもしれないが。器械体操もまだまし。わざと欲望の対象となるものを排除しようとしているから。一方新体操やフィギュアは、口で「エロく見てません」と言いながらエロを要求しているのが下卑ている。要求されて差し出す欲望の対象は対象a足りえない。対象aとは余剰物である。
エロは物語を吸いよせる。対象aが欲望を吸いよせるがごとく。裸の美女に服が勝手に纏わりつくがごとく。だからバレエなどはいい。全体(世界)的なものだとして見れる。
ただま、映画って構成要素として物語があるのだから、技術として新体操を取り入れたのは合理的だよな。物語との交接の仕方、つまり服の着方はこっちでやるから、ってことだ。
バレエなんて昔はストリップみたいなもんだったんだぜ。劇場は娼婦の客引き場。それを改革したのがルイ十四世。太陽王は偉大だった。
外人のストリップを目玉にしている飲み屋にいったことあるんだけどさ、いや女性のなんだけど(普通に女性客もいた)。本場のそういう人を呼んでるらしいんだが、筋肉がすげえって思った。いやこちとら本場バレエの演出部をやったこともあるんだが、そういう人と同じくらいすげかった。一緒にいった男曰く「とてもじゃないが勃たん」だとさ。
バレエもストリップも、裸なのがいいんじゃなくて、普段使わない筋肉を酷使しているのがいいんじゃないだろうか。むしろそういうところがエロの本質なんじゃないだろうか。
欲望じゃないエロ。むしろグロに近い。
部分対象的な躍動。
ごめん単なるうわ言。
いつものことだが話がそれた。
戻す気もないから終わり。
そうそう、拍手コメントでおもろいのがあって(おそらく自閉症当事者か関係者のものだろう)、「あーいつか触れたいな」と思っていたのだが忘れかけていたので言語化してみる。
引用する(筆者の方、不都合があったら言ってください。削除します。って削除しちゃったらこっから以降全部削除になるな。ごめん、いい指摘だと思うから引用するわけで許して)。
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小さい子ってよくぬいぐるみとか抱いて寝るけど、あれってファルスおっ勃ててるって言える? 子宮に抱かれて布団に抱かれてベビーカーに抱かれてたのにぬいぐるみは抱いてる/支配してる。これって人間で「支配」を実行する為の前準備じゃね?いやドラマで欲求不満の女(男だったら犯される方)がよく抱き枕とか布団を抱きながら彼氏の名前呼んでマンコ/チンコ擦り付けてるシーン見てさ。抱かれたいって言いながら抱いてるってどうなんだと思って。つまんないな。「穴を囲んでるようで本当は囲まれてる」を下の話で置き換えただけだな。結局ぬいぐるみの中でもバカでかい重い熊さんと寝てたら準備出来ないんじゃないかと思った。定型発達粛正キット「抱かれ枕」。いや人間を抱く枕。そういうの作ったら正常人減るんじゃないか。
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これ呼んで真っ先に思い浮かんだのが、ライナスの毛布だ。なるほど、「抱く/抱かれる」って視点で言えば、ライナスは毛布を抱いているとも言えるし毛布に抱かれているとも言える。抱かれることから抱くことへの移行途中。だから移行対象となるわけだな、と。
だとするとぬいぐるみは移行対象としては弱い、ってなるな。うんうん、よく児童心理学の馬鹿たちが「ぬいぐるみを抱くのは人を愛するようになるための移行段階ですよ」とか言っているんだが、おそらくクライン派の「移行対象」のことを言ってるんだな、とはわかるんだが、全然違うだろ、と思ってたんだよ。
人を愛せるようになってから、ぬいぐるみを擬人化して抱く、という逆方向の機制について彼らはまったく失念している。子供だからそんなことはないだろう、って学者らしからぬ不用意な思い込みがあるのかもしれんが。
要するに、その子供が、たとえばデブいババアが服を着せられた子犬にするがごとく、擬人化して抱いているなら、そのぬいぐるみは移行対象ではない。
むしろぬいぐるみなんて移行対象じゃないケースが多いのではないだろうか。わたしの臨床ではそうだ。ぬいぐるみを抱く児童がぬいぐるみを部分対象として見ているとはとても思えない。
それは無知による概念の拡大解釈なんじゃないか。
部分対象から統合された対象へと移行する時のそれが、移行対象なのだ。
ぬいぐるみを抱くことはただの回帰である。
いやま、自分を抱こうとするようなでかいぬいぐるみなら、ちょっと気合の入った回帰だなとは思えるけど。
また、三歳くらいの幼児なら、まさに「抱かれることから抱くことへの移行」の後半段階として、ぬいぐるみが移行対象としてあるとは言えるかもしれない。
しかし小学生くらいならば、わたしはそのぬいぐるみは移行対象ではない、と判断する。彼らはすでに人を愛せるようになっており、ぬいぐるみを擬人化して抱いているだけである、と。
本題に入ろう(記事タイトルにしているが前フリだ)。
わたしには妙な癖があって、ベッドとかまあ大体普通壁際に設置するもんだと思うが、わたし壁に貼りついて寝るんだよね。はじっこで寝る。一緒に寝てた奴に言われてはじめて気づいたんだけど、あーそういやそうだな、と。テレビのベッドシーンとかそんな風に寝てる人いないよな、と。ラブホテルのベッドって大体真ん中にあるじゃん。だからラブホ好きじゃなかったのか、なんてのは無理矢理すぎ。部屋にいった方がそいつのことわかるじゃん。わたしのことも。それだけのこと。
で、社会人時代にも寝るときの妙な癖があって、これはわたし自覚してたんだが、住んでた部屋の壁に妙な出っ張りがあって、ベッドを壁にぴったしつけられなかったんだよね。大道具用語で「どん」できなかった。結構隙間が空いてた。十センチはなかったかな。でもそれくらい。
んでまあ、壁際で寝ようとするのはいつもの癖だったんだろうけど、その隙間に腕や足を入れてたんだよね。そうすると落ち着く。いや当然不自然な体勢になるわけで、寝るときは抜いてたけど。
なんかのマンガで、「隙間が大好き」ってキャラがいて、いろんな隙間を見つけては入り込んでハアハアしてたんだが、いやハアハアなんかしなくてむしろ落ち着くんだが、あれみたいなもんだ。できるなら体ごと入れてみたかった。
そんな風に考えていると、この論文を連想した。テンプル・グランディンの「Hug Box」とはこういうものではなかったかと。
つまり、この拍手コメント者の言う「抱かれ枕」という概念は結構重要なんじゃないか、ということだ。「抱かれ枕」=「Hug Box」と考えると、自閉症者が抱える不安をある程度和らげる装置になるのではないか、と。
しかし実際に売れているのは「抱き枕」であり、実際の使用方法も、使用者はそれを抱いて眠る。むしろ大勢の人間は抱くことで安心感を得ている。
この逆転現象は非常に重要なことだとわたしには思える。自閉症研究において。
前掲論文において斎藤はこのように述べている。「正常な人間と違い自閉症者は「学習Ⅱ」とされる言語的収縮を利用できない。その代わりに器質的感覚に代償を必要とするのではないか」と。これはあたってはいると思うが、わたしはむしろ逆だと思う。自閉症者が必要とする器質的収縮的刺激を、言語(的構造)で代替(『アンチ・オイディプス』的に言うなら劣化)できたのが正常人である、という表現の方が正しいと。ラカン理論との接続の仕方としてはこの文章の方がうまくいくだろう。まさにこの代替する過程が去勢、すなわち鏡像段階である、と。
このコメント者が提示する「抱く/抱かれる」という二項対立は、結構重要な示唆を、自閉症研究者たちに与えるはずである。
いわば、正常人は「抱かれ枕」から「抱き枕」への移行を、生後二年以内に去勢として経験しており、自閉症者はそうではないから「Hug Box」を必要とする、という話である。
去勢されてファルスは生じる。なので「あれってファルスおっ勃ててるって言える?」って質問に対しては、「細かい部分を抜きにすれば、言える」って答えになる。
一方、「定型発達粛正キット「抱かれ枕」」には疑問を感じる。
「抱かれ枕」から「抱き枕」への移行を、遠い昔に正常人たちは経験している。その移行は彼の無意識の奥底に埋もれている。従って、正常人たちに対し「抱かれ枕」を「定型発達粛正キット」として作用させようとするならば、無意識を掘り返す作業として、大きな迂回が必要になる、とわたしは考える。
むしろそれを「定型発達粛正キット」とするための迂回、補足がこの文章だ、って感じ?
ここで(一般読者に対し)重要な留意を促したい。だからと言って「自閉症者は抱擁すればいい」という話ではないことに注意して欲しい。
正常な乳児は養育者に抱かれるという刺激を快楽として認知できるようになっているが、自閉症児はそうではない、という事実を示唆するのに有効だ、という話である。自閉症児の赤ん坊は抱っこされるとのけぞることが多い。
斎藤の言う言語的収縮をラカン風に「象徴的抱擁」とするなら、養育者による乳児の抱擁は「想像的抱擁」と言えるだろう。
であるならば、自閉症者は「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」と表現できる。わたしの述べる「合意の快楽」とはこういう概念である。象徴的かつ想像的であるから、意味の合致、すなわち合意となるわけである。つまり、わたし用語ならば、「未去勢者は合意を快楽化できない」となるわけだが、先の文章はこれとほぼ等しい意味を持つ。
むしろただのそういった脳内(体内)における刺激情報処理を、快楽化できるようになった精神疾患的症状に罹患した個体が、精神医学における正常人である、と考えなければならない。
また、知的障害のない自閉症(アスペルガー症候群や高機能自閉症)は、「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」まま成長し、それらを無意識的に快楽化できている正常人に対し警戒感を覚えることもあろう。「象徴的かつ想像的抱擁を快楽化できない」ままエコラリア、エコプラクシア的に象徴的、想像的構造を学んだ彼らは、「象徴的かつ想像的抱擁を無意識的に快楽化できる」多数の正常人たちから、自らの精神的苦痛を、ないことにされる経験を何度も経てきているだろう。
彼らは、エコラリア、エコプラクシア的に学んだ、当人にとっては嘘のように、ネタやコントのように思える象徴的、想像的構造を手にすることにより、自分を抱擁しようとする相手が、自分の精神的苦痛を理解できない人間だと、それをないことにする人間だと、判断することもあろう。
抱擁を快楽と思えないまま知恵をつけた彼らは、「正常人としてされる抱擁」を拒否するだろう。西洋人がよくやるように、激しい不安にかられてハグされても、成人した彼らはそいつを突き放すだろう。斎藤の論文の言葉を借りるなら、「主体化への恐れ」によって。
だから、テンプル・グランディンを抱擁するのは、機械でなくてはならないのである。自閉症者を抱擁するのは、枕でなければならないのである。
「自閉症は自開症である」という言説がある。常に自開してしまう自閉症者たちにとって、彼らを抱擁する、器に閉じ込める神は、人間であってはならないのだ。
「ありえる」ことの恐ろしさ。慢性的な不安感の原因はこれだな、と思った。
無限の可能性に対する不安。
自分などないと思えるほど自開していることの不安。
これは正常人たちには絶対に理解できない。
理解できると言うなら、あなたはキチガイの世界に足を踏み入れている。
つかさ、自閉症関連はこのブログのあくまで一要素で、そういうブログとして見られるとなんか困る。あたしパニック障害だし、精神科医でもないし。
世界は緊張している。この世界を代理表象しようとしているだけ、っていい言い方に聞こえる? なら違くていいけど。
他人事で考えるとどっちかってと芸術よりだと思うんだがなあ。だからジャンルも「文学」にしてるし。「その他」が一番あってるとは思うけど。芸術ジャンルで語られている芸術はわたしが認知している芸術じゃないと思える。殺しあいとしての芸術っていうか。「殺しあいじゃないセックスは信用しない」。
うん、そう。巷の芸術って、ラカン用語で言えば、快楽的なんだよな。享楽的とはとても言えない。作品自体にはそうかなと思えるものもあるが、人に語られると違うものになる。その人は快楽的に芸術鑑賞しているんだな、となって、その芸術作品も快楽的なものだとなる。
「芸術ってのは作品そのものじゃなくて、表現者と受取手の間に生じる現象だ」というのは大学時代のわたしのわたしが思う名言なんだが、そういった現象として快楽になってるならだめ、ということだ。
あ、いやま、快楽でもいいんだけど。享楽は劣化されて快楽になるわけで、むしろ快楽が纏わりつかない享楽は存在しない、とは思う。
あれ、わかんなくなったぞ。
なので終わり。
「アール・ブリュ」、「生(き)の芸術」は、「芸術の死」でもある、ってことか。
うん、めんどいんでこの程度で。
あと、なんかこの記事とかから草間彌生厨だと思われるとめんどいんで言っておくが、「最近の作品はデザイン化している」ってチャットで発言したことあるよ。水玉ハイヒールとか。要するにつまらんって。こいつあたりに言ったかと。つかそのチャットではほとんどそいつとしか話してなかったから多分そいつ。
ただ、顔に穴が空いた初期の絵とか、水玉が乱舞するような作品は、「おーあるある」って思ったから興味を持っただけ。
最近の水玉は動いていないからつまんない。ナイフになってない。
小説もおもろいとは思わなかったしな。
ちなみに昔からの知り合いのアスペも小説書いているんだが、二作品くらい読んだけどすげーつまらなかった。症状としてはおもしろかったけどね。本当文脈っていうか構造がばらばら。ストーリー的にも文体的にも。だからわたしは斎藤とかが言う「自閉症者は文脈が読めない」って論には賛成する。とはいえドードーとらさんとか文脈読みまくりなんだけどな。ここのコメント欄とか、「二次元」って言葉に関するラカン的なものを含んだ文脈としてあっさり理解できている。ここのコメント欄のツレション女なんかよりよっぽど読めている。読めはするけど文脈っつかラカン的な言語的構造で語れない、ってことなんだろうな。こういうタイプは。その小説書きも小説作品を批評する立場になると鋭いことを言うし。すっげ言い方悪いけどね。わざと相手を怒らせようとしている感じの。言葉自体は柔らかいのに「あーそういう言い方したら揶揄に聞こえるだろうに」とか思えるときがしばしば。ってわたしに言われたくないか。わたしは開き直っちゃったからな。わたしの言葉は他人を傷つけるものだって。
つかそもわたし前から「アウトサイダーアートとアートは別物だ」って言ってるし。
なんか勝手な思い込みをおっかぶされるのごめんだから言っておく。
うざいうざいうざい。
私信。アリスさんおひさ。ごめんねアリスさんのIPエロ広告コメ連投してる奴と同じバイダでさ、一括規制してた。2ちゃんの巻き込まれ規制と同じ。
コメントの方がよければ言ってください。解除します。
つかこいつのバイダも、アリスさんとは別だけど、エロ広告バイダなんだよな。まーこいつのコメントなんかいらんからどうでもいいけど。髭抜かせろ。
エロ広告大杉。エロワード大量に使ってるからか。検索でもそういう単語でくる奴多いしな。
すまんねエロじゃなくて。
「獣姦」でくる奴とか結構多くてワラタよ。
今見たら「女性にペニスが無い社会」ってのがあってワラタ。多分「女性にペニスが無い 社会」なんだろうけど、続けるとおもろいな。本気で続けて検索してたのなら、こいつは精神分析齧ってるんだろうな、と推測できる。
意外と『晴れのちシンデレラ』関連での検索ワードが多いな。最近またつまんなくなったのに。
アニメ化するなら今のうちだぜ! 竹書房。『まんがタイムきらら』に負けんな。「ちょっとずれた萌え」じゃなくて「ストライクな萌え」だから『きらら』はつまんねえ。いやおもろいのあるけど。『きらら』も。そういうのはアニメ化されないんだな。やっぱ「ストライクな萌え」じゃないとだめなのか。
サブカルじゃない今のオタク文化はもういいよ。終わり。
「収縮」っていうか「圧縮」、「凝縮」だよな。「凝縮」しすぎて「からっぽの身体」になる。
アウトサイダーアートと芸術の違いは、この「凝縮」にあると思うな。
正常人たちが思っている同一の共同幻想としての世界を「世界」とするなら、「作品に、世界を内包する宇宙を閉じ込める」とか。
正常人たちが罹患している「正常という精神疾患」を「魂」と表現するなら、「作品に、魂を内包する宇宙を閉じ込める」とか。
アウトサイダーアートは「世界」や「魂」の外部の一端を現出させてはいるが、閉じ込められていないから、芸術足りえない。あるいは、外部であるがゆえ「世界」や「魂」が含まれていないから、芸術足りえない。
ごめん、わたしのボキャブラリーだと「宇宙」って言葉しかなかった。あざとすぎ。わかりやすすぎ。んじゃ「無限」とか。だめだな。いかにも中二病。どっちかってと「消滅」がちくちくくる(つまり適格ではないけど妥協できそうってこと)けどこれもだめだな。
ま、そういう意味で、アートの本質について、アウトサイダーアートは非常に重要なヒントになりうるが、アウトサイダーアートが芸術の本質ではない、ということだ。
生の本質は死がヒントになる。生は死と対照しないと見えてこない。そうであるのであって、生の本質が死というわけではない。
あっれ、またわかんなくなった。
うざい。
でも、やっぱそういう「宇宙」を閉じ込めるなら、絵や彫刻なんかより、舞台芸術だよな、って思う。合理的に、って語弊あるな。非合理的に合理化するのに、って意味わかんねえ。即物的なやり方、でいいよもう。
うざいって。もういいって。
お前らが終わるかわたしを終わらせるかしてくれ。
ああうん、わたしがもし未去勢者であるとしたなら、わたしは芸術に対し、器としての神を、非人間的な抱擁を求めている、と言ってもいいだろうね。
大好きな絵の中に閉じ込められた
うざいよ。
つまらん補足。斎藤の論文内の
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あるいはわれわれは中枢神経系のなかに、もう一つの主体の座を想定すべきであるのかも知れない。
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について。
この「もう一つの主体の座」って要するにこの記事で言う「エコラリア、エコプラクシア的に学んだ、当人にとっては嘘のように、ネタやコントのように思える象徴的、想像的構造」ってことだと思うが、これこそがラカン理論のアキレス腱である「サントーム」だと思うんだがな。「サントーム」の中には「世界」や「魂」は入っていない(可能性が高い)。従って「サントーム」は芸術足りえない。ジェイムズ・ジョイスの作品は芸術足りえない、ってことはないんだけどね。多分ジョイスは正常人だ。わたしの印象(診断ではない)で。娘の狂気に随分と引っ張られてはいただろうが。「アール・ブリュ」=「生(き)の芸術」すなわち「芸術の死」へ。
だからジョイスの作品はわたしは芸術だと思える。「世界」や「魂」の外部がやけに多い作品ではあるが。
つかこの記事のバブーって人が言っている「研究」ってのがまさに「サントーム」だと思うよ。「研究」って言いえて妙だなあとすら思う。しかし自閉症者であるならば、おそらくそのうちに「世界」や「魂」が入っていないため、その「研究」は芸術足りえない、となるが。
こういうこと。「アウトサイダーアートと本来の芸術は別物だ」って。
つか、たまたま『あわせて読みたい』にあったから踏んでみただけだが、このバブーって人わたしブログの読者じゃないだろうか? わたしの知ってる人。違ったらごめんなさい。
あ、いやま、「世界」や「魂」が入っていないただの「研究」であっても、それを「世界」や「魂」の中でしか生きられない正常人が手を加えれば、芸術になると思うよ。それこそこの記事で述べている「デュシャンの『泉』はそれだけでは芸術として6流だが、スティグリッツが写真として撮影することで超1流になった」っていうようなこと。いやデュシャンが自閉症だったなんて言わないが。わたしの言葉ならこの記事の
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ババアが代わりに差し出すのは汚らしいただの小石だ。一ドルの価値もない。それを社会に役立つものへと磨き上げるのは、お前らだ。その物乞いババアを、自分の気に入らないところまでも映し出す真実の鏡と見るかは、お前ら次第だ。
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ってあたりになるな。「物乞いババア」が「差し出す」「汚らしいただの小石」がデュシャンの『泉』だ。
「汚らしいただの小石」たる現実界だけのアートは、それこそシュルレアリスムが目指したことなんだが、その多くは、わたしは芸術と思えない。神だとは思えない。
あ、新情報。「抱かれ枕」って実在してるらしい。これ、って全然「Hug Box」じゃねえな(笑)。大きさ的にも。「縦80×横70×高さ15cm」って二尺半(この方が大きさをイメージしやすい)か。普通の枕の延長だよなこれ。
ということで「抱かれ枕」という概念も正常人たちに奪われてしまいましたとさ。
『あわせて読みたい』の人のブログ読んでたら目が痛くなった。
痛くなりながらがんばってちょろちょろ読んでたら、「正常人は「合意の快楽」を感じることができ、未去勢者はそれが困難だ」というわたし論を補強する言い分があったので引用しておく。この記事から。
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「普通の子」は、人にあわすことが楽しいんですよ。
だから、「指示に従う」ことも、人とのつながりの確認であって、服従にはならない。
大人に認めてもらえることがうれしいし、一人前の自分を感じたりもしてるわけです。
(中略)
でも、自閉症の子は、大人との結び目の作り方が、違ってるんだから、
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このブログトラバ打てないのな。めんどくせ。
「「普通の子」は、人にあわすことが楽しい」。子供の頃からそうなんだから、成長すればするほど「人にあわすこと」を無意識的に優先するようになるだろうね。そうやって「合意の快楽」が言動の根拠になった「正常という精神疾患」者ができあがる。ここのコメント欄とか読んでみろ。「人にあわすことが楽しい」大多数の「普通の子」たちが、その楽しさをもって「人にあわすこと」が無意識的な固定観念となった大多数の大人になって、彼らが作り上げた社会を、あるコメント者は「マジックミラー張りのラブホテルの中」と表現している。
見方を変えれば「人にあわすことが楽しい」なんて汚らしく思えてこないかい?
「人と繋がること」なんて手放しによいとされることでは決してない。
ま、お前ら大多数の正常人にとってはその方が都合がいいんだろうけどな。
「人と繋がることはよいことだ」という固定観念の底には、正常人という大多数の部族のエゴがある。
社会とは正常人という大多数の部族のエゴを根拠にして作り上げられたシステムだ。