お前らほんとにわかってんの?
2010/02/04/Thu
ねーねー、わたしとママさんがどんな会話してるのか気になる人いる? いないか。
前記事とかママさんにわたしがいじめられてると思われるかもしれないが、逆なんだよな。わたしがママさんをいじめてる。このやり取りを見てる観客がいたら、十人中九人はそう思いそうだ。
で、ちょっとなんていうか、とってもブログ的な言い方じゃないけれど、わたしが言いたいことかなと思えることが言えたので、転載しとく。ママの文章の方は全部見せない。つかあっちのブログでうpするかもつってたから待ってろ。なんか私生活でいろいろあってお疲れ気味みたいだから時間かかるかもしんないけど。
以下わたしが送ったメール内容の転載。件名は『「言いたいことを理解する」≠「要約する」』。
>小説などの物語であれば、自分の好きなように想像して楽しめますが、
>論文などの場合は、私は、「相手が何をいいたいのか」ということを理解しようとして読みます。
わたしの場合、この二つの区別があまりないかもしれません。
「相手が何をいいたいのか」ってことも結局は自分の想像なので、自分の好きなようにするしかありません。もちろんそれを表に出して異論が出たなら修正したりもする。納得いかなければ議論する。
もちろんこんなやり取り多くの人間がいやがることです。
現代思想ではすでに陳腐な考え方にすらなっていますが、言葉はどんな言葉でも自己を代理表象します。たとえそれが意味的に自分を語っていなくても、言葉が勝手に「語る主体」を語っています。全ての言葉が。
デリダ曰く、
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
一方、「語る主体」を語らない言葉もあります。数式なども言葉の一種ですが、そういった言葉は「語る主体」を語りません。科学の言説は基本的に「語る主体」を語りません。
しかし、「語る主体」たちの実像を見ると、主体像がばりばり見えてきます。
そういった実像を重ね合わせながら、科学の数式が多用された文章を読むと、やはり「語る主体」を語っていることがわかります。
となると、数式だけの文章は、言語と比して、自己を代理表象する度合いが非常に低い、「語る主体」を語っている度合いが非常に低い、ということがわかります。
わたしは高校生の頃、数学の証明問題を解くのが好きだったのですが、自虐的にそれを「整形手術」と表現していました。
整形手術された容貌は、「語る主体」を押し隠します。
数式だけで書かれた文章は、「言いたいこと」が見えなくなるでしょう。
以上の言説を考慮すると、「概念で読む」文章の、極端な例が、「数式だけで書かれた文章」になり、「言いたいことを理解する」文章が、通常の文章だ、ということになります。
論文などは、書いている本人たちは理屈重視で書いた文章として提出しているので、「数式だけで書かれた文章」として読むべきでしょう。
実際、論文作法として、「私は」などといった一人称を使わない、というのがあります。使わなければならない時は「われわれは」などと書きます。理系などは一つの研究に複数人が関わるのが普通なので、当然のことではあります。
ま、要するに論文に対し「言いたいことを理解する」って読み方するのは、意地悪な読み方だ、ってことです。
「言いたいことを理解する」=「要約する」ってのが間違ってますよ。
「言いたいことを理解する」というのは、筆者が論述のどの部分を強調したいか、ってことでしょう?
「要約する」というのは、理屈の圧縮です。オッカムの剃刀です。そこに筆者の意思など存在しません。
ロジックというのは、圧縮したり展開するのが一義的だから便利なわけですが、そこに「筆者の意思」などという不純物が混ざると、要約などできるわけがありません。そもそもそれはロジック(の便宜性)の否定になります。
うー、わかりづらいかなー。
「現国的な要約」と「数学的な要約」は別物だ、と言えばわかりやすいでしょうか。と言うより、現国がよくやるような、文学作品を要約することが、「現国的な要約」が、すでに最初から間違っている、ということです。
「わたしはクリステヴァ論者である」と何度も言っていますが、そのジュリア・クリステヴァは文学畑です。彼女も似たようなことを言ってますよ。
そりゃそうです。文学から「語る主体」「筆者の意思」を排除した(「数学的な要約」を適用することとはそういうことになります)ならば、彼女が提唱する記号分析学(単純に言えば文学作品を精神分析すること)という理屈体系が成り立たなくなりますからね。文学作品の「語る主体」を分析する理屈体系なわけですから。
具体的に言いましょう。「冗談」や「言い間違い」は、要約するならば、真っ先に削除される部分ですよね? しかし精神分析の祖フロイトは「冗談」や「言い間違い」にこそ無意識が表れるとしました。
クリステヴァはフロイト派です。文学作品に対し精神分析アプローチをする彼女の仕事からすれば、文学作品を要約させることは論外になるのも当然でしょう。
現代国語で文学作品を要約させることへの反論として、クリステヴァの言説が利用できる、という話にすぎません。
しかし、義務教育レベルでは、学校の教員が「現国的な要約」と「数学的な要約」の違いを理解できていないのも事実です。ママさんのような誤解は当然です。
そもそも学校の先生なんてのは馬鹿がなるものですからね。学問村では下層民がなるものです。
ちなみにわたしも要約苦手でしたよ。というのは、上記の違いを、学校の先生たちが理解してなかったせいです。大学に入って学問村の言語に触れて、そのことに気づけました。
大人は自分たちに都合のいい嘘ばかりついています。学問村の言語で考えると、子供の頃のわたしが間違っていたとされたことは、ほとんど大人たちの、自分の都合をよくするための、勘違い・思い込み・固定観念のせいだったと、大人になって理解できました。
学校の先生の仕事は、この大人にとって都合のよい思い込み・固定観念を、子供に洗脳させることだ、と言い切ってよいくらいです。わたしの経験上。
知能の高いアスペは、こういったことにうすうす気づいているんじゃないでしょうか。たとえば○○さんや○○さんなど。
こういうわけでわたしは大人たちに反抗しているのです。何十年も遅れて反抗期を迎えたわけです。中学生が非行というやり方で反抗しているなら、わたしは大人たち自身が作った学問というナイフで反抗しているわけです。
ちなみに、ここがわかると、要約はうまくなります。オッカムの剃刀でどこを切ればいいのか、という問題にすぎませんから。
加えて、クリステヴァがやっているような仕事を身につければ、「筆者の意思」「語る主体」さえも切り刻めます。
アスペ君も、この違いを「頭で」理解し、そういった仕事を「体で」会得できたなら、要約がうまくなるかもしれませんね。
そもそも、文学作品に関する出題で、「作者は何を言いたかったのか」などという設問が、クリステヴァ派(そんなものは存在しない、日本では)のわたしから言えば、間違っている、ということです。
その設問者に聞いてみなさい。「では、あなたは何を言いたいのか自分でわかって物を喋っているのですか?」と。「わかっている」と答えたとします。「ではあなたは「わかっている」と言うことで何を言いたいのですか? あなたは何をわかっているのですか? あなたが今言いたいことを述べてみてください」と問う。
おそらく相手は答えられないでしょう。
これが精神分析の言う「自己言及の不完全性」です。
人間、というか正常人は、「自分は自分のことについてわかっている」と思い込んでいるだけで、実はわかっていないのです。この思い込みが揺らいだのが神経症です。たとえばヒステリー(解離性障害、人格障害の一部)です。
ほんのちょっと理屈で攻めただけで、人は何も答えられなくなります。あるいは答えても非理屈的な物言いになります。トートロジーなんかが多いですね。「わかっているからわかっているんだ」とか。「我思う故に我あり」などもトートロジーです。こういった状態を世間では「ヒステリック」などと表現しますよね。当然精神分析の文脈上の「ヒステリー」とは意味が違う。しかしそれらの二つの意味が相似していることがこれでわかるでしょう。
話がそれました。
むしろ、「作者は何を言いたかったのか」を、真摯に理屈で迫ろうというのが、クリステヴァの仕事です。その理屈を精神分析に拠っているだけです。
こういった、本来必要な複雑な仕事・手続きを抜きに、「何を言いたかったのか」を答えさせようというのが、馬鹿である証拠です。
わたしは個人的に、文学者は学者ではない人間が多いと思ってしまうのですが、この理屈上必要な仕事を抜きにして、「作者が何を言いたかったのか」を「わかっている」と思い込む短絡馬鹿が多いから、そうなるのだろうな、と納得したことがあります。
わたしは文系の人間は馬鹿だとしか思えてきませんでした。なぜ彼らは馬鹿なのかを考えた時、クリステヴァの仕事に纏わる日本の文学者の態度が一つのヒントになりました。
彼女は文学者でもあるのですが、精神分析という理屈重視の学問を絡ませた後半の研究を、日本の文学者は全く触れられていないし、触れたとしても咀嚼できていない(わたしは精神分析からクリステヴァに入ったのですからそう思えます)ことが、一つの象徴になっている、と気づきました。
つまり、日本の文学者は、「作者は何を言いたかったのか」を理屈でまともに考えたことがないんじゃないか、そういった経験が少ないんじゃないか、ということです。
そう考えれば、クリステヴァの後半の仕事が日本では全く研究されていないことも、わたしが文学者を馬鹿にしか見えなかったことも、説明できます。辻褄が合います。
アスペたちは非言語的なコミュニケーションが苦手ですよね。
これは現国的な設問「この作者は暗に何を言いたかったのか」が苦手なことと同じだ、と言えますよね。平たく言えば「言葉の裏が読めない」って奴です。
しかし、本当に言葉の裏を理屈的に読もうとすれば、クリステヴァがやっているような(クリステヴァに限りませんが)複雑極まりない手続きが必要となります。
それなしで「この作者は暗に何を言いたかったのか」と問うているのが、この出題者が馬鹿である証拠なのです。
なぜなら、「この作者は暗に何を言いたかったのか」を理屈的に読むための、複雑極まりない手続きを、彼は無視しているからです。
これは理屈の否認と言えます。
要するに、現国の「この作者は暗に何を言いたかったのか」という設問自体が、その出題者の中二病的症状、あるいは反抗期的態度を示している、というわけです。
こういった出題がはびこっている日本の現国の教育実態は、馬鹿を育てている、と言えます。
補足しますと、わたし現国の成績よかったですよ。理系でしたが。
どちらかというと、それこそ進学塾がやるようなアプローチで現国に接していたと思います。つまり、「作者は暗に何を言いたかったのか」ではなく、「出題者はわたしにどう答えさせたいか」で考えていたように思います。
以上。リンクは今加えた。○○伏字は勘弁。知りたかったらママに聞け。
なんつーかこう、「仮の人格」で喋るのもいいな。「わたしそんなこと思ってたのか」ってところがわかる。
大人になることとは馬鹿になることだ。
大人になることとはわかっていないことをわかっていると思い込むことだ。
あ、まんま『分解くんのホンネ』じゃん。
実は大したことなかったな。
こんな風に書くと、「中坊さんにやってることをそのママさんにしているんだな」と思われるかもしれない。確かに似たような状況ではあろう。アメブロのメッセはメール形式なのだが、普通の感覚で四、五通連投なんてことはしている。しかし中坊さんにしたほどではない。三百通も一方的に送っているわけではない。
コメント欄形式とメール形式の違いもあろう。メール形式だから、それまでの文脈に追われることが少ない。だから、この文章を見てもわかるように、あまり「発散」していない。
一方、コメント欄だと、そのページを見ているだけで、以前のコメントの文脈が暴力的(被害妄想的、くらいに思っとけ)にわたしの思考に介入してくる。
ならメール形式の方がいいのか、と言われると、わたし個人としては、他のコメント者がいなければ、コメント欄の方がやりやすい。ただ、多少なりとも社会的に正しいコミュニケーションをわたしに目指させるなら、メール形式の方がいいだろう、ということ。コメント欄だと「発散」しやすいな、ということ。
まーでもわたしはどっちでもいいってレベルだけど。
うん、「これは今会話している内容には、相手はそぐわないと思うだろうな。単なる思いつきで喋っていると思われるだろうな」という判断くらいはできるんだよ。一応社会人やってきたわけだし。
中坊さんが相手で、しかもコメント欄だから、「単なる思いつきで喋っていると思われる」ようなことでも書いている、ってわけ。要するにチラ裏。だって中坊さん言ったもん。「うちんとこ便所にしていいよ」って。
なんでこんなこと書いたかというと、まあママさんの場合、私生活が忙しくなっているらしいってのもあるんだが、メッセ発射するのをためらったんだよね。いやこの話題じゃなく別の話題で。わたしの中では別の話題と繋がっている話なんだが、わたしの経験上多くの人から「単なる思いつきで喋っていると思われる」ような連想の仕方だったから、というのもある。
こういった風に、わたしが我慢しているのは、前記事で書いたがごとく「わたしの想像上のママさん」のせいだけじゃないよ、って私信。ならそれこそメッセで書けよ、って今思った。
あーもうどこに書けばいいんだよー、ってわけでここに書いた。いいねブログって。
「ここはわたしの日記帳」
小説置き場は違います。だから最近気持ちは小説置き場にいってたり。こっちのアクセス数向こうと取っかえてくんねえかなとか。こっちにうpってないのもあるぜ。二つくらい。
でもあれだろ? お前ら他人の日記帳を覗くのがいいんだろ?
いやんえっち。
あーそうだ、このママさん最近仏教にはまってるらしいが(とは言っても親鸞(げんなり)らしいが)、中坊さん華厳のよさを説教してやってくれないか。
このママさん結構ボーダーだぜ。君の呪術修行にはよい練習台かも。
わたしはだめだな。呪術師としては苦手なタイプ。まあ基本的に対女性には著しく失調するんだがね、わたしの呪術。女性が苦手。
人間としてならつき合わないといけないタイプになるんだろうな。
わたしを正常人化するタイプってこと。
馬鹿になっていいんだよ。馬鹿は楽だから。無知の知を知らないことは楽に生きていけることだから。
だからお前たちは正常と呼ばれるんだ。
わたしは楽になりたいだけ。
ってことを中坊さんとこで愚痴った。
連想。意味はない。
母とぎゃーぎゃーやりあうのはよくやった。母はよく「あんたと話してると頭がおかしくなる」と言った。頭の脇に両手を広げて、二回りくらい大きな幻想の頭を抱えるようにして、激しく首を振って、髪を振り乱して。あれだ、分解くんの度がすぎたバージョンだと思っておけ。分解くんのママはまだ、驚いて大人として怒るだけだが、度がすぎるとさすがの大人も退行する。ヒステリー化する。
わたしの方は、そんな母の姿が自分をおかしくさせそうだった。
そうなる。どんな清く正しいいかにも大人なツラしてても、突き詰めたらみんなそうなる。ヒステリックになる。
相手をそうせしめるのは、一種の自傷だ。わたしはショックを受ける。
だけど、このママさんをヒステリックにさせたいってのは、多分今んとこ一番強いんだろうな。今わたしがもっとも狂気を伝染させたい人。
もっとも狂気を伝染させたいから、伝染させたくない。
だから寛大に見えるのかね、という言い訳。
あー新宮一成ヒステリックにしてみてー。
あ、そっか。中坊さんと類似する項目はあるな。鬱系ってとこ。
前記事とかママさんにわたしがいじめられてると思われるかもしれないが、逆なんだよな。わたしがママさんをいじめてる。このやり取りを見てる観客がいたら、十人中九人はそう思いそうだ。
で、ちょっとなんていうか、とってもブログ的な言い方じゃないけれど、わたしが言いたいことかなと思えることが言えたので、転載しとく。ママの文章の方は全部見せない。つかあっちのブログでうpするかもつってたから待ってろ。なんか私生活でいろいろあってお疲れ気味みたいだから時間かかるかもしんないけど。
以下わたしが送ったメール内容の転載。件名は『「言いたいことを理解する」≠「要約する」』。
>小説などの物語であれば、自分の好きなように想像して楽しめますが、
>論文などの場合は、私は、「相手が何をいいたいのか」ということを理解しようとして読みます。
わたしの場合、この二つの区別があまりないかもしれません。
「相手が何をいいたいのか」ってことも結局は自分の想像なので、自分の好きなようにするしかありません。もちろんそれを表に出して異論が出たなら修正したりもする。納得いかなければ議論する。
もちろんこんなやり取り多くの人間がいやがることです。
現代思想ではすでに陳腐な考え方にすらなっていますが、言葉はどんな言葉でも自己を代理表象します。たとえそれが意味的に自分を語っていなくても、言葉が勝手に「語る主体」を語っています。全ての言葉が。
デリダ曰く、
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
一方、「語る主体」を語らない言葉もあります。数式なども言葉の一種ですが、そういった言葉は「語る主体」を語りません。科学の言説は基本的に「語る主体」を語りません。
しかし、「語る主体」たちの実像を見ると、主体像がばりばり見えてきます。
そういった実像を重ね合わせながら、科学の数式が多用された文章を読むと、やはり「語る主体」を語っていることがわかります。
となると、数式だけの文章は、言語と比して、自己を代理表象する度合いが非常に低い、「語る主体」を語っている度合いが非常に低い、ということがわかります。
わたしは高校生の頃、数学の証明問題を解くのが好きだったのですが、自虐的にそれを「整形手術」と表現していました。
整形手術された容貌は、「語る主体」を押し隠します。
数式だけで書かれた文章は、「言いたいこと」が見えなくなるでしょう。
以上の言説を考慮すると、「概念で読む」文章の、極端な例が、「数式だけで書かれた文章」になり、「言いたいことを理解する」文章が、通常の文章だ、ということになります。
論文などは、書いている本人たちは理屈重視で書いた文章として提出しているので、「数式だけで書かれた文章」として読むべきでしょう。
実際、論文作法として、「私は」などといった一人称を使わない、というのがあります。使わなければならない時は「われわれは」などと書きます。理系などは一つの研究に複数人が関わるのが普通なので、当然のことではあります。
ま、要するに論文に対し「言いたいことを理解する」って読み方するのは、意地悪な読み方だ、ってことです。
「言いたいことを理解する」=「要約する」ってのが間違ってますよ。
「言いたいことを理解する」というのは、筆者が論述のどの部分を強調したいか、ってことでしょう?
「要約する」というのは、理屈の圧縮です。オッカムの剃刀です。そこに筆者の意思など存在しません。
ロジックというのは、圧縮したり展開するのが一義的だから便利なわけですが、そこに「筆者の意思」などという不純物が混ざると、要約などできるわけがありません。そもそもそれはロジック(の便宜性)の否定になります。
うー、わかりづらいかなー。
「現国的な要約」と「数学的な要約」は別物だ、と言えばわかりやすいでしょうか。と言うより、現国がよくやるような、文学作品を要約することが、「現国的な要約」が、すでに最初から間違っている、ということです。
「わたしはクリステヴァ論者である」と何度も言っていますが、そのジュリア・クリステヴァは文学畑です。彼女も似たようなことを言ってますよ。
そりゃそうです。文学から「語る主体」「筆者の意思」を排除した(「数学的な要約」を適用することとはそういうことになります)ならば、彼女が提唱する記号分析学(単純に言えば文学作品を精神分析すること)という理屈体系が成り立たなくなりますからね。文学作品の「語る主体」を分析する理屈体系なわけですから。
具体的に言いましょう。「冗談」や「言い間違い」は、要約するならば、真っ先に削除される部分ですよね? しかし精神分析の祖フロイトは「冗談」や「言い間違い」にこそ無意識が表れるとしました。
クリステヴァはフロイト派です。文学作品に対し精神分析アプローチをする彼女の仕事からすれば、文学作品を要約させることは論外になるのも当然でしょう。
現代国語で文学作品を要約させることへの反論として、クリステヴァの言説が利用できる、という話にすぎません。
しかし、義務教育レベルでは、学校の教員が「現国的な要約」と「数学的な要約」の違いを理解できていないのも事実です。ママさんのような誤解は当然です。
そもそも学校の先生なんてのは馬鹿がなるものですからね。学問村では下層民がなるものです。
ちなみにわたしも要約苦手でしたよ。というのは、上記の違いを、学校の先生たちが理解してなかったせいです。大学に入って学問村の言語に触れて、そのことに気づけました。
大人は自分たちに都合のいい嘘ばかりついています。学問村の言語で考えると、子供の頃のわたしが間違っていたとされたことは、ほとんど大人たちの、自分の都合をよくするための、勘違い・思い込み・固定観念のせいだったと、大人になって理解できました。
学校の先生の仕事は、この大人にとって都合のよい思い込み・固定観念を、子供に洗脳させることだ、と言い切ってよいくらいです。わたしの経験上。
知能の高いアスペは、こういったことにうすうす気づいているんじゃないでしょうか。たとえば○○さんや○○さんなど。
こういうわけでわたしは大人たちに反抗しているのです。何十年も遅れて反抗期を迎えたわけです。中学生が非行というやり方で反抗しているなら、わたしは大人たち自身が作った学問というナイフで反抗しているわけです。
ちなみに、ここがわかると、要約はうまくなります。オッカムの剃刀でどこを切ればいいのか、という問題にすぎませんから。
加えて、クリステヴァがやっているような仕事を身につければ、「筆者の意思」「語る主体」さえも切り刻めます。
アスペ君も、この違いを「頭で」理解し、そういった仕事を「体で」会得できたなら、要約がうまくなるかもしれませんね。
そもそも、文学作品に関する出題で、「作者は何を言いたかったのか」などという設問が、クリステヴァ派(そんなものは存在しない、日本では)のわたしから言えば、間違っている、ということです。
その設問者に聞いてみなさい。「では、あなたは何を言いたいのか自分でわかって物を喋っているのですか?」と。「わかっている」と答えたとします。「ではあなたは「わかっている」と言うことで何を言いたいのですか? あなたは何をわかっているのですか? あなたが今言いたいことを述べてみてください」と問う。
おそらく相手は答えられないでしょう。
これが精神分析の言う「自己言及の不完全性」です。
人間、というか正常人は、「自分は自分のことについてわかっている」と思い込んでいるだけで、実はわかっていないのです。この思い込みが揺らいだのが神経症です。たとえばヒステリー(解離性障害、人格障害の一部)です。
ほんのちょっと理屈で攻めただけで、人は何も答えられなくなります。あるいは答えても非理屈的な物言いになります。トートロジーなんかが多いですね。「わかっているからわかっているんだ」とか。「我思う故に我あり」などもトートロジーです。こういった状態を世間では「ヒステリック」などと表現しますよね。当然精神分析の文脈上の「ヒステリー」とは意味が違う。しかしそれらの二つの意味が相似していることがこれでわかるでしょう。
話がそれました。
むしろ、「作者は何を言いたかったのか」を、真摯に理屈で迫ろうというのが、クリステヴァの仕事です。その理屈を精神分析に拠っているだけです。
こういった、本来必要な複雑な仕事・手続きを抜きに、「何を言いたかったのか」を答えさせようというのが、馬鹿である証拠です。
わたしは個人的に、文学者は学者ではない人間が多いと思ってしまうのですが、この理屈上必要な仕事を抜きにして、「作者が何を言いたかったのか」を「わかっている」と思い込む短絡馬鹿が多いから、そうなるのだろうな、と納得したことがあります。
わたしは文系の人間は馬鹿だとしか思えてきませんでした。なぜ彼らは馬鹿なのかを考えた時、クリステヴァの仕事に纏わる日本の文学者の態度が一つのヒントになりました。
彼女は文学者でもあるのですが、精神分析という理屈重視の学問を絡ませた後半の研究を、日本の文学者は全く触れられていないし、触れたとしても咀嚼できていない(わたしは精神分析からクリステヴァに入ったのですからそう思えます)ことが、一つの象徴になっている、と気づきました。
つまり、日本の文学者は、「作者は何を言いたかったのか」を理屈でまともに考えたことがないんじゃないか、そういった経験が少ないんじゃないか、ということです。
そう考えれば、クリステヴァの後半の仕事が日本では全く研究されていないことも、わたしが文学者を馬鹿にしか見えなかったことも、説明できます。辻褄が合います。
アスペたちは非言語的なコミュニケーションが苦手ですよね。
これは現国的な設問「この作者は暗に何を言いたかったのか」が苦手なことと同じだ、と言えますよね。平たく言えば「言葉の裏が読めない」って奴です。
しかし、本当に言葉の裏を理屈的に読もうとすれば、クリステヴァがやっているような(クリステヴァに限りませんが)複雑極まりない手続きが必要となります。
それなしで「この作者は暗に何を言いたかったのか」と問うているのが、この出題者が馬鹿である証拠なのです。
なぜなら、「この作者は暗に何を言いたかったのか」を理屈的に読むための、複雑極まりない手続きを、彼は無視しているからです。
これは理屈の否認と言えます。
要するに、現国の「この作者は暗に何を言いたかったのか」という設問自体が、その出題者の中二病的症状、あるいは反抗期的態度を示している、というわけです。
こういった出題がはびこっている日本の現国の教育実態は、馬鹿を育てている、と言えます。
補足しますと、わたし現国の成績よかったですよ。理系でしたが。
どちらかというと、それこそ進学塾がやるようなアプローチで現国に接していたと思います。つまり、「作者は暗に何を言いたかったのか」ではなく、「出題者はわたしにどう答えさせたいか」で考えていたように思います。
以上。リンクは今加えた。○○伏字は勘弁。知りたかったらママに聞け。
なんつーかこう、「仮の人格」で喋るのもいいな。「わたしそんなこと思ってたのか」ってところがわかる。
大人になることとは馬鹿になることだ。
大人になることとはわかっていないことをわかっていると思い込むことだ。
あ、まんま『分解くんのホンネ』じゃん。
実は大したことなかったな。
こんな風に書くと、「中坊さんにやってることをそのママさんにしているんだな」と思われるかもしれない。確かに似たような状況ではあろう。アメブロのメッセはメール形式なのだが、普通の感覚で四、五通連投なんてことはしている。しかし中坊さんにしたほどではない。三百通も一方的に送っているわけではない。
コメント欄形式とメール形式の違いもあろう。メール形式だから、それまでの文脈に追われることが少ない。だから、この文章を見てもわかるように、あまり「発散」していない。
一方、コメント欄だと、そのページを見ているだけで、以前のコメントの文脈が暴力的(被害妄想的、くらいに思っとけ)にわたしの思考に介入してくる。
ならメール形式の方がいいのか、と言われると、わたし個人としては、他のコメント者がいなければ、コメント欄の方がやりやすい。ただ、多少なりとも社会的に正しいコミュニケーションをわたしに目指させるなら、メール形式の方がいいだろう、ということ。コメント欄だと「発散」しやすいな、ということ。
まーでもわたしはどっちでもいいってレベルだけど。
うん、「これは今会話している内容には、相手はそぐわないと思うだろうな。単なる思いつきで喋っていると思われるだろうな」という判断くらいはできるんだよ。一応社会人やってきたわけだし。
中坊さんが相手で、しかもコメント欄だから、「単なる思いつきで喋っていると思われる」ようなことでも書いている、ってわけ。要するにチラ裏。だって中坊さん言ったもん。「うちんとこ便所にしていいよ」って。
なんでこんなこと書いたかというと、まあママさんの場合、私生活が忙しくなっているらしいってのもあるんだが、メッセ発射するのをためらったんだよね。いやこの話題じゃなく別の話題で。わたしの中では別の話題と繋がっている話なんだが、わたしの経験上多くの人から「単なる思いつきで喋っていると思われる」ような連想の仕方だったから、というのもある。
こういった風に、わたしが我慢しているのは、前記事で書いたがごとく「わたしの想像上のママさん」のせいだけじゃないよ、って私信。ならそれこそメッセで書けよ、って今思った。
あーもうどこに書けばいいんだよー、ってわけでここに書いた。いいねブログって。
「ここはわたしの日記帳」
小説置き場は違います。だから最近気持ちは小説置き場にいってたり。こっちのアクセス数向こうと取っかえてくんねえかなとか。こっちにうpってないのもあるぜ。二つくらい。
でもあれだろ? お前ら他人の日記帳を覗くのがいいんだろ?
いやんえっち。
あーそうだ、このママさん最近仏教にはまってるらしいが(とは言っても親鸞(げんなり)らしいが)、中坊さん華厳のよさを説教してやってくれないか。
このママさん結構ボーダーだぜ。君の呪術修行にはよい練習台かも。
わたしはだめだな。呪術師としては苦手なタイプ。まあ基本的に対女性には著しく失調するんだがね、わたしの呪術。女性が苦手。
人間としてならつき合わないといけないタイプになるんだろうな。
わたしを正常人化するタイプってこと。
馬鹿になっていいんだよ。馬鹿は楽だから。無知の知を知らないことは楽に生きていけることだから。
だからお前たちは正常と呼ばれるんだ。
わたしは楽になりたいだけ。
ってことを中坊さんとこで愚痴った。
連想。意味はない。
母とぎゃーぎゃーやりあうのはよくやった。母はよく「あんたと話してると頭がおかしくなる」と言った。頭の脇に両手を広げて、二回りくらい大きな幻想の頭を抱えるようにして、激しく首を振って、髪を振り乱して。あれだ、分解くんの度がすぎたバージョンだと思っておけ。分解くんのママはまだ、驚いて大人として怒るだけだが、度がすぎるとさすがの大人も退行する。ヒステリー化する。
わたしの方は、そんな母の姿が自分をおかしくさせそうだった。
そうなる。どんな清く正しいいかにも大人なツラしてても、突き詰めたらみんなそうなる。ヒステリックになる。
相手をそうせしめるのは、一種の自傷だ。わたしはショックを受ける。
だけど、このママさんをヒステリックにさせたいってのは、多分今んとこ一番強いんだろうな。今わたしがもっとも狂気を伝染させたい人。
もっとも狂気を伝染させたいから、伝染させたくない。
だから寛大に見えるのかね、という言い訳。
あー新宮一成ヒステリックにしてみてー。
あ、そっか。中坊さんと類似する項目はあるな。鬱系ってとこ。