自閉症者のママとパパ
2010/02/05/Fri
下痢ぴー中。
「アスペルガーの大バーゲン」が他の神経症(ひきこもりなども含む)にも影響を及ぼしているのは前から知っている。ネット上には問診スタイルでアスペ判定をするものもある。もちろんそれは診断ではないのだが、それだけで「俺はアスペだった」とデカ文字で書いているブログを見たことがある。明らかにアスペという印象はなく、記事を遡って、根拠がネット上の問診だったことがわかったわけだが、それをわたしに知らせたのは診断済みアスペの子だった。わたしに「こいつ本物だと思う?」と聞いてきたんだな。
ブログの彼にも悪意はないんだと思う。診断に限らないならばネット上にはそういうのがいくらでもある。「男脳/女脳」判定など。わたし普通に女脳だった。「えー意外」と言われた。こうやってブログに「男脳/女脳」判定の結果を書き込むことは別に悪いことではあるまい。
多分その子もそういうのの延長として「俺はアスペだ」って言ってたのだと思う。
別にそれはそれでいい。言葉なんて流行り廃りがあるのは当然だから。人がたかが言葉になんらかの思い込みをしているのが問題なのだ。これは本物のアスペたちも同じ。アスペを取り巻く定型発達者も同じ。
その言葉に転移しているのだ。
最近のひきこもりたちにも「ひきこもり」という言葉に転移している者が多い。「俺はひきこもりだ」と言っているような。
そんなアスペたちやひきこもりたちは、言葉を所有しようとしている。自己を示す言葉を所有することで、自己を所有しようとしている。自己を所有することとはすなわち鏡像段階である。去勢の回帰なのである。平たく言えばアイデンティティの確立の一環である。
彼らは、その言葉がナイフであることを知っているのだろうか。
概念とは「肉屋の包丁」であることを知っているのだろうか。
自分が切り刻まれる覚悟を持って「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」と言っているのだろうか。
自分を切り刻むナイフを抱いているのにいつ気づくのだろうか。
「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」と言明することは、全く自己防衛にならないことにいつ気づくのだろうか。
いや、ナイフなのだから、自己防衛の武器として使える場合もあろう。しかし、それは諸刃なのだ。自己防衛的かつ自傷的に作用する。
言葉というナイフはアイデンティティを切り刻みもする。
要するに、「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」などと言う奴は、その言葉が己の内面に外傷的に作用することを覚悟しておけ、ということだ。
言葉を信用しすぎだ、お前ら。
信用するな、と言っているわけじゃないぞ? 信用が過剰だ、と言っているんだ。
いわば言葉コンプレックス。
わたしも言葉コンプレックスだが、わたしはナイフを求めている。
わたしを切り刻む言葉を求めている。
体調最悪なせいかママさんへの興味が冷めてきた。ただの一つの臨床素材として見れるようになった。あ、わたしが勝手に心的距離が離れちゃっただけだから、あんまり気にしないでね、ママさん。
わたしはどうも、その臨床素材が症状を悪化させたら、を考えることが多い。ただし推測ではない。素材の現実界的な(つまり狂気の)部分を重視して分析する癖があるから、分析結果がそうなる、という話である。
なのでわたしは彼女という素材には、自罰パラノイアという概念をあてはめてしまう。
ブログ冒頭に書かれてある文章から明らかなように、彼女は罪悪感を感じている、と言えよう。罪悪感を根拠に、世間から疎外されるような言動を取っている。また、コメント欄や、わたし自身の彼女とのやり取りから、彼女は他人からお説教されることに、ひどく前向きな印象を受ける。お説教されるのが嬉しいのか、と思えるようなところがある。
これは全て自罰パラノイアの要件にあてはまる。罪悪感を根拠に疎外されるような言動を取り、罰せられることで心の平安を得る、という。
わたしは自己分析では未去勢者だと考えているが、自罰パラノイアの可能性も棄ててはいない。自罰パラノイアであるなら理屈的に去勢済み主体である。わたしはわたしの去勢済み主体としての一面を否定しているわけではない。
わたしが未去勢者であるという仮説を採用するならば、去勢済み主体の中で、症状ではなく内面がもっとも近しいのは、自罰パラノイアではないか、と思える。症状として近しいのはヒステリーであると思う。いやそもそもヒステリーと自罰パラノイアの親近性は議論可能である。
なるほど、内面に自分との近さを感じたから、妙な感じになったのか、という自己分析。
とはいえ、彼女の場合、抑鬱も入っているから、自罰パラノイアだと言い切ることはしない。
この鬱要素がだめなんだな。鬱がヤマアラシの棘を溶かす精液に含まれる溶解物だと思う。溶解物だけなら棘を溶かすことができない。
この記事に対し彼女は「ごめんなさい、(ブログタイトルは)「後悔」で通します」とメッセを送ってきた。うん、「後悔」でなければならないのだろう。彼女の内面を示す言葉として「反省」ではなく「後悔」のが正しいのだと思う。
罪悪感が今の彼女の言動の根拠になっているから、それを「後悔」と表現しなくてはならない。
断っておくが、自罰パラノイアの言動を、社会は棄却してはならない。むしろ自罰パラノイアの言動は、社会的構造としての枠組み(道徳や常識などと呼ばれるもの)に実感を、重みを与えるものである。
「その法は本当に有効なのか。その法の根拠はなんなのか」
法がただ機能しているだけならば、それはただの信号機になる。赤信号はみんなで渡ればよいものだとなる。
法をただの信号機じゃなくならしめるのが、自罰パラノイアの言動である。自らを犠牲にして。
わたしは自罰パラノイアを聖女テレジアと繋げて語っているが、聖女テレジアの言動、症状は、キリスト教の信仰を実体化せしめかっただろうか?
ややこしい話はやめよう。ぶっちゃけると、彼女の言葉ではなく態度は、未去勢者を従わせるなんらかの力を持っているように思える。この記事などよい例だ。
この力は、一般的な言葉で換言すると、わたし自身の好みで揶揄的に述べてしまうが、「母の愛」(揶揄だよ)である。
しかし未去勢者は情性欠如者でもある。一般的な「母の愛」は、子に快楽的な、肯定的な感覚をもたらすが、未去勢者にとってはそうではない。従ってただの力となる。流体的な力。柔らかい力。
一方、彼女と対照的なのが、そらパパさんである。彼は情動を否定する。彼はわたしより先に自閉症を「フレーム問題」という概念で語っているらしいのだが(つかその界隈では普通にある論なのかもしれない)、こういったことからも情動を否定していることが窺える。
未去勢者は情性欠如者なのだから、この点については未去勢者と相性がよい、となるが、彼にも力がある。彼は自閉症の療育とは「フレーム問題」で言うところの「フレーム」を与えるものだと考えている。これは理屈的に全く正しい。従ってわたしは政治的には彼を応援している。個人的には嫌いだが。そして嫌われてしまったが。
情動を否定する彼の力は「父の抑圧」と呼べるだろう。個体的な力。硬い力。
しかし、未去勢者は父からも母からも疎外されているのである。ママさんのアプローチもそらパパさんのアプローチも、未去勢者にとっては単なる力となる。
「フレーム」にも二種類ある。柔らかい力による柔らかいフレームと、硬い力による硬いフレームと。
それらは、「フレーム」のない未去勢者にとっては、質的に違うだけの力でしかない。暴力でしかない。
つまり、わたしは療育問題としては、ママさんもそらパパさんも、どっちもどっちだと思うのだ。
暴力を与えることが療育である。暴力を推奨しているのではなく、また療育そのものを否定したいのでもなく、わたしは事実を述べているだけである。
わたしが療育界隈でこの二人をたまたま見かけたにすぎないのだが、二人とも療育問題について、わたしの管見では、飛び抜けて真摯に向き合っている。彼、彼女のブログでコメントしている無責任感丸出しの親たちや、自らの社会的地位や金儲けのために自閉症研究を利用しているだけの学者や関係者などと比べ、彼、彼女の言動は、療育問題にとって重要な示唆を与えるものだと思っている。「どっちもどっち」と言ったが、けなしているのではなく、むしろ二人とも評価している。
しかし、なぜ大人という存在は、このように常に片手落ちになるのだろうか? そこが理解できない。
療育問題にとって必要なのは、ママさんのような態度によるアプローチと、そらパパさんがする理論的なアプローチ、両方である。いやむしろ、自閉症者に必要なのが、この二人の人格を足し合わせた養育者である、とわたしは思うのだが。
ママとパパの統合。両性具有。
この二人が協力して療育にあたればよい、という話ではない。いや、確かにこの二人の仕事を取り入れたならば、療育問題はいくつもの解決策を見つけられるだろう。しかし、自閉症者という実体と対峙する時、この二人が同時に眼前にいたとしても、だめなのだ。
なぜなら原初的な主体は分裂している。つまり未去勢者の内面は分裂している。分裂しているから思考(ビオン論ならまさにこの思考が「思考する者なき思考」に相当する)は「発散」する。分裂しているから「フレーム」が必要となる。
分裂していながらそれらはそこにある。分裂したまま分裂している一部分を排除して、統合だと勘違いしているのが、正常という精神疾患である。
だから、分裂していながらそこにある未去勢な主体にとって、この二人が協力して療育にあたっても、主体の統合化に結びつかない。二人は二人であり、統合されているわけではない。分裂しながらただそこにいるだけの未去勢者からすれば、分裂した一部が欠如した一人と、違う部分が欠如した一人がいるだけである。
なので未去勢者の主体の統合にはならない。この二人は統合のお手本にならない。
なぜお前たちは常に片手落ちとなるのだ? 常に不充分なのだ?
ユングの影という元型で説明されるような古典的な問題だと思う。ユング論は両性具有を一つのゴールにしている。
正常という精神疾患は昔から語られてきたにも関わらず、大人たちはそれを自分にあてはめない。
わたしは自閉症研究をしているようで、そうではないのだ。お前たちが罹患している正常という精神疾患を研究しているのだ。その対照物として、自閉症研究や精神病病理学が非常に有効なのである。
ママさんさ、とっととわたしを嫌ってくれないかね。そらパパさんだってわたしを嫌った。
そうしないと、そらパパさんのようなアプローチができないと思うよ。あなたの内面にその根拠がないのだから。あなたはそらパパさんのアプローチに懐疑的だけど(そりゃそうだよね、そらパパさんはTEACCH推奨派だし)、わたしはあなたのようなアプローチも不完全に思える。
わたしを嫌うのがいやなだけで、わたしに嫌われようとしているだけじゃね? わたしの方が勝手に去るのを待ってるのなら、ずるいよ。
あなたが自分の子供を殺しているように、わたしも殺してくれよ。
あーまじで下痢が止まんね。トイレいきすぎてケツ穴いてえ。ストッパじゃ効かない。整腸剤ならいっぱいあるのに下痢止めはくれないんだよな。正露丸どこいった?
いぎゃ! 正露丸見つかったけど、飲み込むの失敗して噛んでしもた。口の中すげえことになってる。
身漏れそう。
うんこしてくる。
してきた。つかちょっと液体噴いただけだった。
お腹痛いお腹痛いお腹痛い。
死にたい。
正露丸おそるべし。痛いのなくなった。
あん、また痛くなった。
こういう時だけツイッターでいいやって思うけどめんどくせ。
存在しない何かが、いや、存在しないということ自体であるそれが、わたしを見つめている。
存在していないのだから、見つめてなどいない。
見つめていながら、見つめていないこと。
見つめていないが、見つめていること。
それは可能なのか。
科学哲学的な観測問題すら打破できるこの行動は、可能なのか。
してるじゃん。それ。
存在していないそれは、わたしを見つめているじゃん。見つめてないじゃん。
普通にやってるじゃん。
わたしはできないよ。わたしがやるなら、死ぬしかない。
わたしが子供を育てるならば、わたしは死ぬしかない。
あーうー。
斎藤環のこの論文についてわたしは高く評価しているんだが、斎藤個人は嫌いだ。この記事やこの記事で人格批判をしている。
しかし、そらパパさんに対するのと同じで、仕事は評価している。「人間的には嫌いだけど仕事は評価する」ってのは普通にあることだろ?
で、ママさんちのこの記事(限定だが読みたければまあアメンバになってくれ)でその論文を引用したんだな。
この流れで、斎藤論文の評価についての補足を、ママさんにメッセした。それを一応転載しておくな。個人攻撃してるところもあるのでこっちにうpしておく(一部修正した)。
=====
斎藤論文について。評価するところを補足します。
たとえばそらパパさんは、わたしとの議論をごらんになったかと思いますが、自閉症者の「内面」を排除している。
特に行動主義心理学などは、そらパパさんの態度を見てもわかるように、「内面」をアレルギー的に拒否します(そういう意味で彼は行動主義心理学における忠実な学徒と言えます。信者レベルですね)。
そんな中、斎藤環なんかは、もともとユンギニアンですし、「内面」を探ることから精神医学に進んだ人間だと思われます。
なので、自閉症者だろうと正常人だろうと「内面」を語ることに違和感がない。「内面」なんて絶対的に他人にはわかるわけはないので、全ての「内面」に関わる論は推測となりますが、ただの推測をぺらぺら喋ることができる。
そう、「内面」についての論なんて全て推測です。なぜなら科学の根拠でもある再現性がないのですから。反証できない。ちなみに科学哲学では科学の根拠になっている反証可能性も否定されちゃうんですけどね。ここ参照。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t6.html
こいつの言うことはそこそこ信頼できますよ。頭は悪くない。株下手だけど。
そらパパさんみたいな反証主義者(だから反証できない「内面」を排除するのだと思います。基本的に行動主義派はそんな感じ)に「内面」を論じさせるには、科学哲学を経由させなければならないのです。
ちなみにわたし物性物理専攻ですが、科学哲学でも単位取れる学科だったんですよね。
こういった理屈で、わたしは彼は本当の意味で科学者じゃないと思います。科学教の信徒だとは思いますが。
彼の科学者として態度は、わたしは大学生で卒業してるわけです。
で、行動主義にしろ認知心理学にしろ、こういった科学哲学ですでに疑問視されている反証可能性という教義にすがりついて、「内面」を極力論じないとするのが、今の自閉症研究の主流です。ウタ・フリスも同様です。
話それたけど、そういうわけで、自閉症者の「内面」に迫った論文は、数少ないわけですが、そういう意味でその論文は優れている、という話です。
まー斎藤本人は気づいてないだろうけどね(笑)。「内面」を推測だけで語るのがデフォだからやってみただけ、って感じでしょう。
彼のように誰か「内面」を語らなかったならば、バブーさんの「腹話術」コミュニケーションはただの民間療法レベルのままだったでしょうね。
=====
素人相手とはいえ飲茶のテクストを参照するなんてわたしも落ちたもんだ。
ちなみに「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」ってのはこれ(これも限定だが略)な。
一応、広まってもただの民間療法みたいなものにしかならないようなその手法を、学術的に補強しておくという意味もあると思うので。
逆に言えば、「内面」をエポケーしがちな現代の自閉症研究では、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」の有効性を語れない、ということでもある。自らの信仰の教義を大事にするあまり、科学的検証とは言えないが、科学的視線を向ける対象を不合理(信仰だから不合理である)に選択しているゆえ、そういったことになる。
当該記事を読めばわかるように、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」の有効性は、再現化が、そもそも眼前化が難しいものである。であるならば統計による妥当性の証明も難しいであろうから、彼らという信仰団体の中では、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」は学術的根拠のないただの民間療法のままだろう。
こうやって現代の自閉症研究はどんどん不完全な体系になっていく。
わざとかい? お前ら。お前らがやってることは科学教の洗脳でしかないんだよ。
ちなみに、こういった対比をすると、この記事のコメント欄からも窺えるように、ママさんは「内面」をエポケーしていないアプローチをしている、ということになる。
この点についてはママの方が正しい。理屈的に。別に反証可能性は真理ではないからだ。
微妙にお腹痛い。もううんこでない。
うんこからっぽな方が「収束」的な文章が書けるのかもしれない、と思った。
なんでなんでこんなことが、こんなことにすぎないことが、すぎなくないのだろう。
ばらばら。下痢うんこでよかった。流体的にばらばらじゃない。
暴力的な「収束」。「凝縮」。
リモコンのスイッチだ。スイッチになりたい。
今のわたしはただの電波だ。
そういや東大の心理学科も行動主義派っぽかったな。西原理恵子のマンガに出てくる新保くんってフリー編集者がそこ出てる。「ネズミ飼ってるだけで単位もらえた」らしい。
いや大事だと思うんだけどね。ある部分をエポケーすんのって。そうしないととめどなく「発散」しちゃうから。
でも「発散」させないようにするのってエポケーするだけじゃないっしょ? 圧縮すればいい。交通整理すればいい。
わたし「収束」させんの苦手だけど交通整理は得意よ。会社でもよくやった。意見の対立点をまとめるのとかほめられたことがある。飲茶も目撃してるよな。チャットで厨房同士が議論してて「発散」しそうになった時、気まぐれで交通整理して、「おお、発散を止めた(笑)」とか飲茶に言われた記憶がある。
自身が「発散」した思考をしてなかったら、効果的な「発散」の回避はできない。
そういうことだと思うんだがなー。
なんで信仰になっちゃうかなー。
たとえばkyupin先生が積極的に取り入れてるバッチフラワーとか、明らかに科学的に信頼できない。わたしは信頼していない。
一方、わたしは今の科学が不完全であるとも思っている。科学は万能じゃないとも。オカルトを容認することになるけどね。オカルト嫌いじゃないし。とはいえオカルトが科学で説明される可能性を否定しているわけでもない。
さて、ここにおいてわたしは何かを信仰しているでしょうか?
わたしはバッチフラワーを疑っているし、科学そのものも疑っている。
そうだよ。「科学で説明できないからバッチフラワーは信頼できない」と言う奴の心の中に、科学教への信仰という科学的ではない、非合理的な思考がありやしないだろうか。わたしの印象ではあることが多い。
そういう奴は科学者ではない、ということ。
科学者とは世界の全てに疑いの目を向ける存在でなければならないのだ。
あやべまた痛くなってきた。
なんかこんな記事見つけていやなことを思い出した。
小学校だな。通学路に椿の花が咲いているところがあったんだよ。
で、椿の花びらって透けてるんだよ、そこのコメントに書いてある通り。
んでだなー、「おお」って思って誰かに話したいと思ったんだけど、誰も信じちゃくれないだろうって思って、黙ってたんだよ。そう見えるのが間違ってるかどうか確認するのに何度もそこで椿の花びらを確認してたんだよ。
まあ傍から見たら子供がいたずらしてるくらいにか思われてなかったんだろうがな。
かのようにわたしの記憶では椿の花びらは透けてるんだ。で、気まぐれにたまたまそんなことを思い出して、ほんとにそうなのかと思って「椿 花びら 透ける」で検索してここ見つけたんだ。
そのコメント者はこう言っている。
「椿の花びらって、透けるのね。」
要するにこのコメント者は、椿の花びらが透けることを意外に思ったわけだ。椿の花びらが透けるとは思ってなかったわけだ。
小学生の頃のわたしが、学校に着き、今朝方発見した事実をクラスメイトや先生に報告したとしよう。彼らも椿の花びらが透けるとは思ってないだろう。つまりわたしの言うことを信用しないだろう。
小学生のわたしの判断は間違ってなかった。
もうこの頃からわたしは自分の見ている世界が他の人たちと違うと気づいてたんだな。シニフィエが違うと。
ぶわわってきたわ。
わたしの人生こんなんばっかだわ。
なんでこんな当然のことを、目に見えたことを素直に喋れないのか。
正常という精神疾患の、「世界は同じだ」と思い込んでいるパラノイアックな妄想のせいだ。
だからわたしは正常人を殺したい。
あん、脳内反論が。
「科学者とは世界の全てに疑いの目を向ける存在でなければならないのだ。」について。
「お前は精神分析という学を疑ってないだろうが」みたいな。あるある。定型的な反論。
確かに「疑う」という表現はオーバーだったかもしれない。ここでの「疑う」という意味は、文脈上「今の科学が不完全である」ということであるのは明らかだ。
であるならば、先の反論は、「わたしは精神分析が不完全であると思っているかどうか」という指摘になる。
簡単に反論できる。わたしは精神分析理論は不完全なものだと思っている。証拠を挙げよう。この記事から。
=====
でもあれか。哲学とか科学とか体系として厳密になった学問では、たった一つの「鍵穴」を求めたくもなるよね。大学時代のわたしはそうだったわ。体系全てを転倒させるための一点。
精神分析はそういう意味ですげーゆるい理屈体系なんだよ。「穴」だらけ。「穴」の多さはラカン論よかクライン論の方が上だけど。
=====
しかしその「ゆるさ」は、心という再現性が困難な対象を研究しているがゆえの結果である、とこの記事では述べている。
反論終わり。
お、珍しく脳内反論にきれいに勝てた。
バッチフラワーのwikipedia見てたんだが、精神分析治療やカウンセリング治療も、要するにプラシーボだよな。
プラシーボでも治りゃいいんじゃね? 治りゃ。
「アスペルガーの大バーゲン」が他の神経症(ひきこもりなども含む)にも影響を及ぼしているのは前から知っている。ネット上には問診スタイルでアスペ判定をするものもある。もちろんそれは診断ではないのだが、それだけで「俺はアスペだった」とデカ文字で書いているブログを見たことがある。明らかにアスペという印象はなく、記事を遡って、根拠がネット上の問診だったことがわかったわけだが、それをわたしに知らせたのは診断済みアスペの子だった。わたしに「こいつ本物だと思う?」と聞いてきたんだな。
ブログの彼にも悪意はないんだと思う。診断に限らないならばネット上にはそういうのがいくらでもある。「男脳/女脳」判定など。わたし普通に女脳だった。「えー意外」と言われた。こうやってブログに「男脳/女脳」判定の結果を書き込むことは別に悪いことではあるまい。
多分その子もそういうのの延長として「俺はアスペだ」って言ってたのだと思う。
別にそれはそれでいい。言葉なんて流行り廃りがあるのは当然だから。人がたかが言葉になんらかの思い込みをしているのが問題なのだ。これは本物のアスペたちも同じ。アスペを取り巻く定型発達者も同じ。
その言葉に転移しているのだ。
最近のひきこもりたちにも「ひきこもり」という言葉に転移している者が多い。「俺はひきこもりだ」と言っているような。
そんなアスペたちやひきこもりたちは、言葉を所有しようとしている。自己を示す言葉を所有することで、自己を所有しようとしている。自己を所有することとはすなわち鏡像段階である。去勢の回帰なのである。平たく言えばアイデンティティの確立の一環である。
彼らは、その言葉がナイフであることを知っているのだろうか。
概念とは「肉屋の包丁」であることを知っているのだろうか。
自分が切り刻まれる覚悟を持って「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」と言っているのだろうか。
自分を切り刻むナイフを抱いているのにいつ気づくのだろうか。
「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」と言明することは、全く自己防衛にならないことにいつ気づくのだろうか。
いや、ナイフなのだから、自己防衛の武器として使える場合もあろう。しかし、それは諸刃なのだ。自己防衛的かつ自傷的に作用する。
言葉というナイフはアイデンティティを切り刻みもする。
要するに、「俺はアスペだ」「俺はひきこもりだ」などと言う奴は、その言葉が己の内面に外傷的に作用することを覚悟しておけ、ということだ。
言葉を信用しすぎだ、お前ら。
信用するな、と言っているわけじゃないぞ? 信用が過剰だ、と言っているんだ。
いわば言葉コンプレックス。
わたしも言葉コンプレックスだが、わたしはナイフを求めている。
わたしを切り刻む言葉を求めている。
体調最悪なせいかママさんへの興味が冷めてきた。ただの一つの臨床素材として見れるようになった。あ、わたしが勝手に心的距離が離れちゃっただけだから、あんまり気にしないでね、ママさん。
わたしはどうも、その臨床素材が症状を悪化させたら、を考えることが多い。ただし推測ではない。素材の現実界的な(つまり狂気の)部分を重視して分析する癖があるから、分析結果がそうなる、という話である。
なのでわたしは彼女という素材には、自罰パラノイアという概念をあてはめてしまう。
ブログ冒頭に書かれてある文章から明らかなように、彼女は罪悪感を感じている、と言えよう。罪悪感を根拠に、世間から疎外されるような言動を取っている。また、コメント欄や、わたし自身の彼女とのやり取りから、彼女は他人からお説教されることに、ひどく前向きな印象を受ける。お説教されるのが嬉しいのか、と思えるようなところがある。
これは全て自罰パラノイアの要件にあてはまる。罪悪感を根拠に疎外されるような言動を取り、罰せられることで心の平安を得る、という。
わたしは自己分析では未去勢者だと考えているが、自罰パラノイアの可能性も棄ててはいない。自罰パラノイアであるなら理屈的に去勢済み主体である。わたしはわたしの去勢済み主体としての一面を否定しているわけではない。
わたしが未去勢者であるという仮説を採用するならば、去勢済み主体の中で、症状ではなく内面がもっとも近しいのは、自罰パラノイアではないか、と思える。症状として近しいのはヒステリーであると思う。いやそもそもヒステリーと自罰パラノイアの親近性は議論可能である。
なるほど、内面に自分との近さを感じたから、妙な感じになったのか、という自己分析。
とはいえ、彼女の場合、抑鬱も入っているから、自罰パラノイアだと言い切ることはしない。
この鬱要素がだめなんだな。鬱がヤマアラシの棘を溶かす精液に含まれる溶解物だと思う。溶解物だけなら棘を溶かすことができない。
この記事に対し彼女は「ごめんなさい、(ブログタイトルは)「後悔」で通します」とメッセを送ってきた。うん、「後悔」でなければならないのだろう。彼女の内面を示す言葉として「反省」ではなく「後悔」のが正しいのだと思う。
罪悪感が今の彼女の言動の根拠になっているから、それを「後悔」と表現しなくてはならない。
断っておくが、自罰パラノイアの言動を、社会は棄却してはならない。むしろ自罰パラノイアの言動は、社会的構造としての枠組み(道徳や常識などと呼ばれるもの)に実感を、重みを与えるものである。
「その法は本当に有効なのか。その法の根拠はなんなのか」
法がただ機能しているだけならば、それはただの信号機になる。赤信号はみんなで渡ればよいものだとなる。
法をただの信号機じゃなくならしめるのが、自罰パラノイアの言動である。自らを犠牲にして。
わたしは自罰パラノイアを聖女テレジアと繋げて語っているが、聖女テレジアの言動、症状は、キリスト教の信仰を実体化せしめかっただろうか?
ややこしい話はやめよう。ぶっちゃけると、彼女の言葉ではなく態度は、未去勢者を従わせるなんらかの力を持っているように思える。この記事などよい例だ。
この力は、一般的な言葉で換言すると、わたし自身の好みで揶揄的に述べてしまうが、「母の愛」(揶揄だよ)である。
しかし未去勢者は情性欠如者でもある。一般的な「母の愛」は、子に快楽的な、肯定的な感覚をもたらすが、未去勢者にとってはそうではない。従ってただの力となる。流体的な力。柔らかい力。
一方、彼女と対照的なのが、そらパパさんである。彼は情動を否定する。彼はわたしより先に自閉症を「フレーム問題」という概念で語っているらしいのだが(つかその界隈では普通にある論なのかもしれない)、こういったことからも情動を否定していることが窺える。
未去勢者は情性欠如者なのだから、この点については未去勢者と相性がよい、となるが、彼にも力がある。彼は自閉症の療育とは「フレーム問題」で言うところの「フレーム」を与えるものだと考えている。これは理屈的に全く正しい。従ってわたしは政治的には彼を応援している。個人的には嫌いだが。そして嫌われてしまったが。
情動を否定する彼の力は「父の抑圧」と呼べるだろう。個体的な力。硬い力。
しかし、未去勢者は父からも母からも疎外されているのである。ママさんのアプローチもそらパパさんのアプローチも、未去勢者にとっては単なる力となる。
「フレーム」にも二種類ある。柔らかい力による柔らかいフレームと、硬い力による硬いフレームと。
それらは、「フレーム」のない未去勢者にとっては、質的に違うだけの力でしかない。暴力でしかない。
つまり、わたしは療育問題としては、ママさんもそらパパさんも、どっちもどっちだと思うのだ。
暴力を与えることが療育である。暴力を推奨しているのではなく、また療育そのものを否定したいのでもなく、わたしは事実を述べているだけである。
わたしが療育界隈でこの二人をたまたま見かけたにすぎないのだが、二人とも療育問題について、わたしの管見では、飛び抜けて真摯に向き合っている。彼、彼女のブログでコメントしている無責任感丸出しの親たちや、自らの社会的地位や金儲けのために自閉症研究を利用しているだけの学者や関係者などと比べ、彼、彼女の言動は、療育問題にとって重要な示唆を与えるものだと思っている。「どっちもどっち」と言ったが、けなしているのではなく、むしろ二人とも評価している。
しかし、なぜ大人という存在は、このように常に片手落ちになるのだろうか? そこが理解できない。
療育問題にとって必要なのは、ママさんのような態度によるアプローチと、そらパパさんがする理論的なアプローチ、両方である。いやむしろ、自閉症者に必要なのが、この二人の人格を足し合わせた養育者である、とわたしは思うのだが。
ママとパパの統合。両性具有。
この二人が協力して療育にあたればよい、という話ではない。いや、確かにこの二人の仕事を取り入れたならば、療育問題はいくつもの解決策を見つけられるだろう。しかし、自閉症者という実体と対峙する時、この二人が同時に眼前にいたとしても、だめなのだ。
なぜなら原初的な主体は分裂している。つまり未去勢者の内面は分裂している。分裂しているから思考(ビオン論ならまさにこの思考が「思考する者なき思考」に相当する)は「発散」する。分裂しているから「フレーム」が必要となる。
分裂していながらそれらはそこにある。分裂したまま分裂している一部分を排除して、統合だと勘違いしているのが、正常という精神疾患である。
だから、分裂していながらそこにある未去勢な主体にとって、この二人が協力して療育にあたっても、主体の統合化に結びつかない。二人は二人であり、統合されているわけではない。分裂しながらただそこにいるだけの未去勢者からすれば、分裂した一部が欠如した一人と、違う部分が欠如した一人がいるだけである。
なので未去勢者の主体の統合にはならない。この二人は統合のお手本にならない。
なぜお前たちは常に片手落ちとなるのだ? 常に不充分なのだ?
ユングの影という元型で説明されるような古典的な問題だと思う。ユング論は両性具有を一つのゴールにしている。
正常という精神疾患は昔から語られてきたにも関わらず、大人たちはそれを自分にあてはめない。
わたしは自閉症研究をしているようで、そうではないのだ。お前たちが罹患している正常という精神疾患を研究しているのだ。その対照物として、自閉症研究や精神病病理学が非常に有効なのである。
ママさんさ、とっととわたしを嫌ってくれないかね。そらパパさんだってわたしを嫌った。
そうしないと、そらパパさんのようなアプローチができないと思うよ。あなたの内面にその根拠がないのだから。あなたはそらパパさんのアプローチに懐疑的だけど(そりゃそうだよね、そらパパさんはTEACCH推奨派だし)、わたしはあなたのようなアプローチも不完全に思える。
わたしを嫌うのがいやなだけで、わたしに嫌われようとしているだけじゃね? わたしの方が勝手に去るのを待ってるのなら、ずるいよ。
あなたが自分の子供を殺しているように、わたしも殺してくれよ。
あーまじで下痢が止まんね。トイレいきすぎてケツ穴いてえ。ストッパじゃ効かない。整腸剤ならいっぱいあるのに下痢止めはくれないんだよな。正露丸どこいった?
いぎゃ! 正露丸見つかったけど、飲み込むの失敗して噛んでしもた。口の中すげえことになってる。
身漏れそう。
うんこしてくる。
してきた。つかちょっと液体噴いただけだった。
お腹痛いお腹痛いお腹痛い。
死にたい。
正露丸おそるべし。痛いのなくなった。
あん、また痛くなった。
こういう時だけツイッターでいいやって思うけどめんどくせ。
存在しない何かが、いや、存在しないということ自体であるそれが、わたしを見つめている。
存在していないのだから、見つめてなどいない。
見つめていながら、見つめていないこと。
見つめていないが、見つめていること。
それは可能なのか。
科学哲学的な観測問題すら打破できるこの行動は、可能なのか。
してるじゃん。それ。
存在していないそれは、わたしを見つめているじゃん。見つめてないじゃん。
普通にやってるじゃん。
わたしはできないよ。わたしがやるなら、死ぬしかない。
わたしが子供を育てるならば、わたしは死ぬしかない。
あーうー。
斎藤環のこの論文についてわたしは高く評価しているんだが、斎藤個人は嫌いだ。この記事やこの記事で人格批判をしている。
しかし、そらパパさんに対するのと同じで、仕事は評価している。「人間的には嫌いだけど仕事は評価する」ってのは普通にあることだろ?
で、ママさんちのこの記事(限定だが読みたければまあアメンバになってくれ)でその論文を引用したんだな。
この流れで、斎藤論文の評価についての補足を、ママさんにメッセした。それを一応転載しておくな。個人攻撃してるところもあるのでこっちにうpしておく(一部修正した)。
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斎藤論文について。評価するところを補足します。
たとえばそらパパさんは、わたしとの議論をごらんになったかと思いますが、自閉症者の「内面」を排除している。
特に行動主義心理学などは、そらパパさんの態度を見てもわかるように、「内面」をアレルギー的に拒否します(そういう意味で彼は行動主義心理学における忠実な学徒と言えます。信者レベルですね)。
そんな中、斎藤環なんかは、もともとユンギニアンですし、「内面」を探ることから精神医学に進んだ人間だと思われます。
なので、自閉症者だろうと正常人だろうと「内面」を語ることに違和感がない。「内面」なんて絶対的に他人にはわかるわけはないので、全ての「内面」に関わる論は推測となりますが、ただの推測をぺらぺら喋ることができる。
そう、「内面」についての論なんて全て推測です。なぜなら科学の根拠でもある再現性がないのですから。反証できない。ちなみに科学哲学では科学の根拠になっている反証可能性も否定されちゃうんですけどね。ここ参照。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t6.html
こいつの言うことはそこそこ信頼できますよ。頭は悪くない。株下手だけど。
そらパパさんみたいな反証主義者(だから反証できない「内面」を排除するのだと思います。基本的に行動主義派はそんな感じ)に「内面」を論じさせるには、科学哲学を経由させなければならないのです。
ちなみにわたし物性物理専攻ですが、科学哲学でも単位取れる学科だったんですよね。
こういった理屈で、わたしは彼は本当の意味で科学者じゃないと思います。科学教の信徒だとは思いますが。
彼の科学者として態度は、わたしは大学生で卒業してるわけです。
で、行動主義にしろ認知心理学にしろ、こういった科学哲学ですでに疑問視されている反証可能性という教義にすがりついて、「内面」を極力論じないとするのが、今の自閉症研究の主流です。ウタ・フリスも同様です。
話それたけど、そういうわけで、自閉症者の「内面」に迫った論文は、数少ないわけですが、そういう意味でその論文は優れている、という話です。
まー斎藤本人は気づいてないだろうけどね(笑)。「内面」を推測だけで語るのがデフォだからやってみただけ、って感じでしょう。
彼のように誰か「内面」を語らなかったならば、バブーさんの「腹話術」コミュニケーションはただの民間療法レベルのままだったでしょうね。
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素人相手とはいえ飲茶のテクストを参照するなんてわたしも落ちたもんだ。
ちなみに「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」ってのはこれ(これも限定だが略)な。
一応、広まってもただの民間療法みたいなものにしかならないようなその手法を、学術的に補強しておくという意味もあると思うので。
逆に言えば、「内面」をエポケーしがちな現代の自閉症研究では、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」の有効性を語れない、ということでもある。自らの信仰の教義を大事にするあまり、科学的検証とは言えないが、科学的視線を向ける対象を不合理(信仰だから不合理である)に選択しているゆえ、そういったことになる。
当該記事を読めばわかるように、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」の有効性は、再現化が、そもそも眼前化が難しいものである。であるならば統計による妥当性の証明も難しいであろうから、彼らという信仰団体の中では、「バブーさんの「腹話術」コミュニケーション」は学術的根拠のないただの民間療法のままだろう。
こうやって現代の自閉症研究はどんどん不完全な体系になっていく。
わざとかい? お前ら。お前らがやってることは科学教の洗脳でしかないんだよ。
ちなみに、こういった対比をすると、この記事のコメント欄からも窺えるように、ママさんは「内面」をエポケーしていないアプローチをしている、ということになる。
この点についてはママの方が正しい。理屈的に。別に反証可能性は真理ではないからだ。
微妙にお腹痛い。もううんこでない。
うんこからっぽな方が「収束」的な文章が書けるのかもしれない、と思った。
なんでなんでこんなことが、こんなことにすぎないことが、すぎなくないのだろう。
ばらばら。下痢うんこでよかった。流体的にばらばらじゃない。
暴力的な「収束」。「凝縮」。
リモコンのスイッチだ。スイッチになりたい。
今のわたしはただの電波だ。
そういや東大の心理学科も行動主義派っぽかったな。西原理恵子のマンガに出てくる新保くんってフリー編集者がそこ出てる。「ネズミ飼ってるだけで単位もらえた」らしい。
いや大事だと思うんだけどね。ある部分をエポケーすんのって。そうしないととめどなく「発散」しちゃうから。
でも「発散」させないようにするのってエポケーするだけじゃないっしょ? 圧縮すればいい。交通整理すればいい。
わたし「収束」させんの苦手だけど交通整理は得意よ。会社でもよくやった。意見の対立点をまとめるのとかほめられたことがある。飲茶も目撃してるよな。チャットで厨房同士が議論してて「発散」しそうになった時、気まぐれで交通整理して、「おお、発散を止めた(笑)」とか飲茶に言われた記憶がある。
自身が「発散」した思考をしてなかったら、効果的な「発散」の回避はできない。
そういうことだと思うんだがなー。
なんで信仰になっちゃうかなー。
たとえばkyupin先生が積極的に取り入れてるバッチフラワーとか、明らかに科学的に信頼できない。わたしは信頼していない。
一方、わたしは今の科学が不完全であるとも思っている。科学は万能じゃないとも。オカルトを容認することになるけどね。オカルト嫌いじゃないし。とはいえオカルトが科学で説明される可能性を否定しているわけでもない。
さて、ここにおいてわたしは何かを信仰しているでしょうか?
わたしはバッチフラワーを疑っているし、科学そのものも疑っている。
そうだよ。「科学で説明できないからバッチフラワーは信頼できない」と言う奴の心の中に、科学教への信仰という科学的ではない、非合理的な思考がありやしないだろうか。わたしの印象ではあることが多い。
そういう奴は科学者ではない、ということ。
科学者とは世界の全てに疑いの目を向ける存在でなければならないのだ。
あやべまた痛くなってきた。
なんかこんな記事見つけていやなことを思い出した。
小学校だな。通学路に椿の花が咲いているところがあったんだよ。
で、椿の花びらって透けてるんだよ、そこのコメントに書いてある通り。
んでだなー、「おお」って思って誰かに話したいと思ったんだけど、誰も信じちゃくれないだろうって思って、黙ってたんだよ。そう見えるのが間違ってるかどうか確認するのに何度もそこで椿の花びらを確認してたんだよ。
まあ傍から見たら子供がいたずらしてるくらいにか思われてなかったんだろうがな。
かのようにわたしの記憶では椿の花びらは透けてるんだ。で、気まぐれにたまたまそんなことを思い出して、ほんとにそうなのかと思って「椿 花びら 透ける」で検索してここ見つけたんだ。
そのコメント者はこう言っている。
「椿の花びらって、透けるのね。」
要するにこのコメント者は、椿の花びらが透けることを意外に思ったわけだ。椿の花びらが透けるとは思ってなかったわけだ。
小学生の頃のわたしが、学校に着き、今朝方発見した事実をクラスメイトや先生に報告したとしよう。彼らも椿の花びらが透けるとは思ってないだろう。つまりわたしの言うことを信用しないだろう。
小学生のわたしの判断は間違ってなかった。
もうこの頃からわたしは自分の見ている世界が他の人たちと違うと気づいてたんだな。シニフィエが違うと。
ぶわわってきたわ。
わたしの人生こんなんばっかだわ。
なんでこんな当然のことを、目に見えたことを素直に喋れないのか。
正常という精神疾患の、「世界は同じだ」と思い込んでいるパラノイアックな妄想のせいだ。
だからわたしは正常人を殺したい。
あん、脳内反論が。
「科学者とは世界の全てに疑いの目を向ける存在でなければならないのだ。」について。
「お前は精神分析という学を疑ってないだろうが」みたいな。あるある。定型的な反論。
確かに「疑う」という表現はオーバーだったかもしれない。ここでの「疑う」という意味は、文脈上「今の科学が不完全である」ということであるのは明らかだ。
であるならば、先の反論は、「わたしは精神分析が不完全であると思っているかどうか」という指摘になる。
簡単に反論できる。わたしは精神分析理論は不完全なものだと思っている。証拠を挙げよう。この記事から。
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でもあれか。哲学とか科学とか体系として厳密になった学問では、たった一つの「鍵穴」を求めたくもなるよね。大学時代のわたしはそうだったわ。体系全てを転倒させるための一点。
精神分析はそういう意味ですげーゆるい理屈体系なんだよ。「穴」だらけ。「穴」の多さはラカン論よかクライン論の方が上だけど。
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しかしその「ゆるさ」は、心という再現性が困難な対象を研究しているがゆえの結果である、とこの記事では述べている。
反論終わり。
お、珍しく脳内反論にきれいに勝てた。
バッチフラワーのwikipedia見てたんだが、精神分析治療やカウンセリング治療も、要するにプラシーボだよな。
プラシーボでも治りゃいいんじゃね? 治りゃ。