わかったと思い込んでいる奴の方が賢いならば、未去勢者の方が馬鹿。
2010/02/06/Sat
ママさんとしてたやり取りをママさんがうpした。こことここ。
うんこー。意味はありません。ただ言いたかっただけです。下痢よくなりました。
でもなんだかな。こうやって見返すと、「あー言葉足らずだなー」と思えるところがぽろぽろ見えてきて困る。これって統失の「空白を埋めたがる」症状と繋がる? 別にどうでもいい。
んで二個ぐらい応急処置でコメント放り込んだんだが、もちょっと、と思って補足書いてたら、ラディカルな文章になって、コメント欄にうpったらママさん困るかなー、と思ったのでこっちにうpる。
これもラカン業界っつか精神分析業界の話なので関係ない人はスルーで。
>哲学系の精神分析学者でもよく間違えるところ。なので理解できなくて当然です。
について。
抑圧機能の不全とは去勢の否認です。排除機能の不全はファルスそのものの不全、去勢そのものの不全です。
去勢の否認(代表的な例が中二病などという反抗期)と未去勢であることとは別物です。
しかし、この違いは(精神分析業界ではない)思想界では軽んじられています。
「去勢されていない」という言葉を思想界でご覧になった方も多いでしょう。「最近の若者たちは去勢されていない」などという奴です。
これって意訳すれば、というか意訳レベルではなく論理的に、「最近の若者たちはガキだ」って意味です。これ単にトートロジーですよね? 若者=若い=ガキなわけですから。トートロジーになるからちょっと学術用語でお化粧してみただけなわけです。こういうことを言う奴らは。
古代からある老人の若者に対する愚痴の変奏なわけです。
こういった言葉を使う人間は、精神分析がわかっていない、と思っていただいて結構です。
なぜ大人たちは「最近の若者たちはガキだ」なんてトートロジーをわざわざなぜ言う必要があるのか。それは若者たちに自分たちみたいになってほしいからです。古代からある老人の若者に対する愚痴には、無意識に老人の若者・若さに対する羨望があります。
こういった解釈をすれば、むしろ古代からある老人の若者に対する愚痴は、老人の去勢の否認症状を示している、と言えます。
とはいえ、去勢の否認は悪いことではありません。老人が精神的に若返ろうとすることは悪いことでしょうか?
精神分析の概念は、価値観を押しつけるためにあるのではありません。あくまで分析のための道具です。
しかし、そういう風に使われていないことも多いのが事実です。
このように現代の精神分析には多くの誤解が纏わりついています。
ただの道具としての概念に、パラノイアックな妄想を纏わりつかせて語られています。
要するに、精神分析関係の言葉は信用しないでください、ということです。
当然わたしの言葉も。疑ってかかってください。
以上は「最近の若者たちは去勢されていない」と述べる「語る主体」の分析になります。
次に、「最近の若者たちは去勢されていない」という文言の理論的誤りを指摘しておきます。
「去勢されていない」ということは、言語的に未去勢であることを意味します。ラカン論では、去勢の過程には父の名の降臨が含まれますので、「去勢されていない」のは精神病患者だ、ということになります。
しかし彼らはそういった意味で使っていない。彼らが「去勢されていない」と述べているのは正常人です。従ってこの文言は、今の流行り言葉で言うなら、「最近の若者たちは中二病だ」という意味だと解釈しなければなりません。
中二病とは先ほど述べたとおり、去勢の否認です。去勢されているのに去勢されていることを認めていないのです。
これは、未去勢と去勢の否認を混同しているゆえの誤りだ、と言えます。
要するに、彼らの言う「去勢されていない」という言葉は、「未去勢」ではなく「去勢の否認」である、ということです。
もしその彼がラカン論の文脈を引いて(思想界で語られている精神分析論は大体ラカン論です)述べているなら、誤った使い方をしているわけです。
とはいえ、フロイト論における去勢ならば、「去勢されていない」という言葉の意味は、去勢の否認と近しい意味になるので、一概に間違っているとは言えませんけどね。そう述べる彼がラカン論ではなくフロイト論だけを論拠にしているなら、あながち間違いではない、と。
まー、精神分析プロパーじゃない人が語る「去勢されていない」って言葉は、本来の使い方じゃないと思っていてください、ということです。
たとえば、精神分析上のヒステリーって概念は現代の解離性障害、人格障害の一部を意味しますが、一般用語のヒステリーは違いますよね?
それと同じで、精神分析業界と思想界で言葉の意味が変わっている、ということです。
つか言葉ってそもそもこういうものだから、「この言葉はどういう意味?」って質問に答えるのはものすごく苦労するわけです。どんな言葉でも厳密に考えればその一語だけで本一冊楽々書けます。
アスペたちは言葉の意味にやけにこだわります。こちらの方が、学問村では正しい態度です。
なのに多くの人たちはその言葉の意味をわかった顔をして喋る。本当にはわかっていないのにわかったつもりでいられる。わかっていると思い込める。
これが正常という精神疾患ですよ。
無知の知を知らない馬鹿が正常人です。無知を知らないわけだから、正常人より無知を知っている未去勢者の方が馬鹿である、とも言えますが。
わかったと思い込んでいる奴の方が賢いならば、未去勢者の方が馬鹿です。
以上。
ブログにうpると粗さが目立つな。コメントのつもりで書いたからいろいろ抑えて大量に省略して書いている。なのでこの文章に関する反論・指摘は受けつけないとは言わないが、そこを考慮してしてくれ。するなら。
あーもうまたお腹痛くなった。昨日ほどじゃないけど。
キルケちゃんはもっとふしだらでしたたかなキャラのはずだったのになー。
ここでした補足コメントのさらに補足。
>病理学的な話であり、苦痛のひどさの話ではない。
これなー。わたしブログでもたびたび神経症の話をするんだが、たとえばヒステリー(解離性障害)とかの話をしてたら、解離性障害の人がわけわからん批判をしてきたんだ。
「あなたは差別主義者ですね」
とか。
わたし意味わかんなかったんだよな。
わたしは精神分析理論を用いて、解離性障害の病理は内面の浅いところにあり、未去勢者の病理はもっと深いところにある、と述べているだけなんだよ。
それがなぜ差別主義者になるのか。
たとえばさ、注射の時とか、「ちょっとだけ我慢してくださいねー」とか言うだろ? 「ちょっとだけ」なのは、人間の痛点ってのは皮膚に集中しているからだ。針がそこを通過すれば痛みはなくなる。だから「ちょっとだけ」なんだ。体の深部に針が刺さったからといって、そっちの方が痛いってわけじゃない。
逆に腰椎穿刺などなら、神経の束が皮膚より深部にあるので、深部の方が痛いとなる。
それと同じ話。単なるそういった話にすぎない。
病理が内面の浅いところにあるからといって痛みが少ないってわけじゃない。逆もそう。
わたしはそんなの当然のこととして、神経症の病理を語っている。
つまりだ、わたしを「差別主義者だ」と批判した人は、わたしが「解離性障害の病理は、未去勢者の病理と比べて、内面の浅いところにある」と述べているのを、勝手に「この脂という人は解離性障害を差別している」と妄想しているだけなんだよな。
「差別」という概念はこう批判してきた人の内面にあったわけだ。
これがその記事で述べている、
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
ってことだよ。
彼はわたしのことを「差別主義者だ」と言っているのだが、それは自分の内面に「差別という意識」(当然彼は自分を被差別側と思っているのだろうが)があることを自白していることになる。
ああむかつくわ。まじで。お前の一人相撲じゃねえか。
つかあれだな、たかが他人のブログにうpされるだけでこんなにわぎわぎしてたら、たとえば万が一このブログが有名思想家に取り上げられてアクセス数が急増したりすると、わたしまじで首吊るだろうな。
うん、こうやって牽制してるだけ。
ママさんに一方的な独り言を送りつけていたんだが、安永浩のファントム理論の簡易解説ページを読んでたんだな。それについての感想を垂れ流してた。ママさんは「パス」って言ってるのにな(笑、つかあとで気づいた)。
んで、さらっと読んで、まず思ったのは、「この理論は「美しい」。数学的美しさがある」と。
分裂病の症状の説明のための理論としては、とても完成されている。隙がないように見える。硬い。
うん、この理論、もてはやされる理由がわかった。
精神分析理論では、ラカン論がそうなんだよね。数学的美しさがある。一方クライン論は泥臭い。
精神病と神経症という精神医学史の初期から議論されているこの二分法は、脳科学が発展したせいか最近下火にはなっているが、とても重要なことだと思うんだよな。
で、分裂病を説明するための理論として美しいのがファントム理論で、神経症を説明するための理論として美しいのがラカン論、ってことになる。
うん、ちょびっとラカン論に似てるなと思ったわけだ。それだけの話。
まーでもあれだな。現象学的アプローチだから、反論の隙は山ほどあるんだけどね。故意に閉じれば(エポケーポイントを定めれば)、隙がない、ってこと。
ラカン論もエポケーしてるじゃん。「女(ファルスのない人間、つまり理想的な未去勢者)は存在しない」って。
おもしろいな、精神医学って。
こう、自然科学ってえのは、美しすぎるんだ。隙がなさすぎる。だから前記事で参照した飲茶のテクストみたいなことになる。そこで言われている「科学界、ガッカイのみなさん」は、その美しさを保持しようとして、反証する人間を排除してしまう。これは批判じゃない。当然のことなんだ。人間として。
でもそんな自然科学でもやっぱり泥臭いところはある。それこそ不確定原理とか。
美しい雪の結晶の中に、パターンから外れる一点がある、という感じ。
一方精神分析論は、パターンから外れるところばっかりなんだ。泥と混じった雪。とても美しいとは言えない。
そんな中、ラカン論という比較的美しい理論が芽生えたから、もてはやされたんじゃないか。哲学など他の分野に応用されまくったのではないか。
中島みゆきが好きなわたしは精神分析流れるよなーそりゃ、という自己分析でした。
去るあなたは美しいわ
行かないでとすがるわたしより
それを傷つけたい。
それを傷つけるのがわたしではなく、傷そのものがわたし。
うんこー。
うんこー。意味はありません。ただ言いたかっただけです。下痢よくなりました。
でもなんだかな。こうやって見返すと、「あー言葉足らずだなー」と思えるところがぽろぽろ見えてきて困る。これって統失の「空白を埋めたがる」症状と繋がる? 別にどうでもいい。
んで二個ぐらい応急処置でコメント放り込んだんだが、もちょっと、と思って補足書いてたら、ラディカルな文章になって、コメント欄にうpったらママさん困るかなー、と思ったのでこっちにうpる。
これもラカン業界っつか精神分析業界の話なので関係ない人はスルーで。
>哲学系の精神分析学者でもよく間違えるところ。なので理解できなくて当然です。
について。
抑圧機能の不全とは去勢の否認です。排除機能の不全はファルスそのものの不全、去勢そのものの不全です。
去勢の否認(代表的な例が中二病などという反抗期)と未去勢であることとは別物です。
しかし、この違いは(精神分析業界ではない)思想界では軽んじられています。
「去勢されていない」という言葉を思想界でご覧になった方も多いでしょう。「最近の若者たちは去勢されていない」などという奴です。
これって意訳すれば、というか意訳レベルではなく論理的に、「最近の若者たちはガキだ」って意味です。これ単にトートロジーですよね? 若者=若い=ガキなわけですから。トートロジーになるからちょっと学術用語でお化粧してみただけなわけです。こういうことを言う奴らは。
古代からある老人の若者に対する愚痴の変奏なわけです。
こういった言葉を使う人間は、精神分析がわかっていない、と思っていただいて結構です。
なぜ大人たちは「最近の若者たちはガキだ」なんてトートロジーをわざわざなぜ言う必要があるのか。それは若者たちに自分たちみたいになってほしいからです。古代からある老人の若者に対する愚痴には、無意識に老人の若者・若さに対する羨望があります。
こういった解釈をすれば、むしろ古代からある老人の若者に対する愚痴は、老人の去勢の否認症状を示している、と言えます。
とはいえ、去勢の否認は悪いことではありません。老人が精神的に若返ろうとすることは悪いことでしょうか?
精神分析の概念は、価値観を押しつけるためにあるのではありません。あくまで分析のための道具です。
しかし、そういう風に使われていないことも多いのが事実です。
このように現代の精神分析には多くの誤解が纏わりついています。
ただの道具としての概念に、パラノイアックな妄想を纏わりつかせて語られています。
要するに、精神分析関係の言葉は信用しないでください、ということです。
当然わたしの言葉も。疑ってかかってください。
以上は「最近の若者たちは去勢されていない」と述べる「語る主体」の分析になります。
次に、「最近の若者たちは去勢されていない」という文言の理論的誤りを指摘しておきます。
「去勢されていない」ということは、言語的に未去勢であることを意味します。ラカン論では、去勢の過程には父の名の降臨が含まれますので、「去勢されていない」のは精神病患者だ、ということになります。
しかし彼らはそういった意味で使っていない。彼らが「去勢されていない」と述べているのは正常人です。従ってこの文言は、今の流行り言葉で言うなら、「最近の若者たちは中二病だ」という意味だと解釈しなければなりません。
中二病とは先ほど述べたとおり、去勢の否認です。去勢されているのに去勢されていることを認めていないのです。
これは、未去勢と去勢の否認を混同しているゆえの誤りだ、と言えます。
要するに、彼らの言う「去勢されていない」という言葉は、「未去勢」ではなく「去勢の否認」である、ということです。
もしその彼がラカン論の文脈を引いて(思想界で語られている精神分析論は大体ラカン論です)述べているなら、誤った使い方をしているわけです。
とはいえ、フロイト論における去勢ならば、「去勢されていない」という言葉の意味は、去勢の否認と近しい意味になるので、一概に間違っているとは言えませんけどね。そう述べる彼がラカン論ではなくフロイト論だけを論拠にしているなら、あながち間違いではない、と。
まー、精神分析プロパーじゃない人が語る「去勢されていない」って言葉は、本来の使い方じゃないと思っていてください、ということです。
たとえば、精神分析上のヒステリーって概念は現代の解離性障害、人格障害の一部を意味しますが、一般用語のヒステリーは違いますよね?
それと同じで、精神分析業界と思想界で言葉の意味が変わっている、ということです。
つか言葉ってそもそもこういうものだから、「この言葉はどういう意味?」って質問に答えるのはものすごく苦労するわけです。どんな言葉でも厳密に考えればその一語だけで本一冊楽々書けます。
アスペたちは言葉の意味にやけにこだわります。こちらの方が、学問村では正しい態度です。
なのに多くの人たちはその言葉の意味をわかった顔をして喋る。本当にはわかっていないのにわかったつもりでいられる。わかっていると思い込める。
これが正常という精神疾患ですよ。
無知の知を知らない馬鹿が正常人です。無知を知らないわけだから、正常人より無知を知っている未去勢者の方が馬鹿である、とも言えますが。
わかったと思い込んでいる奴の方が賢いならば、未去勢者の方が馬鹿です。
以上。
ブログにうpると粗さが目立つな。コメントのつもりで書いたからいろいろ抑えて大量に省略して書いている。なのでこの文章に関する反論・指摘は受けつけないとは言わないが、そこを考慮してしてくれ。するなら。
あーもうまたお腹痛くなった。昨日ほどじゃないけど。
キルケちゃんはもっとふしだらでしたたかなキャラのはずだったのになー。
ここでした補足コメントのさらに補足。
>病理学的な話であり、苦痛のひどさの話ではない。
これなー。わたしブログでもたびたび神経症の話をするんだが、たとえばヒステリー(解離性障害)とかの話をしてたら、解離性障害の人がわけわからん批判をしてきたんだ。
「あなたは差別主義者ですね」
とか。
わたし意味わかんなかったんだよな。
わたしは精神分析理論を用いて、解離性障害の病理は内面の浅いところにあり、未去勢者の病理はもっと深いところにある、と述べているだけなんだよ。
それがなぜ差別主義者になるのか。
たとえばさ、注射の時とか、「ちょっとだけ我慢してくださいねー」とか言うだろ? 「ちょっとだけ」なのは、人間の痛点ってのは皮膚に集中しているからだ。針がそこを通過すれば痛みはなくなる。だから「ちょっとだけ」なんだ。体の深部に針が刺さったからといって、そっちの方が痛いってわけじゃない。
逆に腰椎穿刺などなら、神経の束が皮膚より深部にあるので、深部の方が痛いとなる。
それと同じ話。単なるそういった話にすぎない。
病理が内面の浅いところにあるからといって痛みが少ないってわけじゃない。逆もそう。
わたしはそんなの当然のこととして、神経症の病理を語っている。
つまりだ、わたしを「差別主義者だ」と批判した人は、わたしが「解離性障害の病理は、未去勢者の病理と比べて、内面の浅いところにある」と述べているのを、勝手に「この脂という人は解離性障害を差別している」と妄想しているだけなんだよな。
「差別」という概念はこう批判してきた人の内面にあったわけだ。
これがその記事で述べている、
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
ってことだよ。
彼はわたしのことを「差別主義者だ」と言っているのだが、それは自分の内面に「差別という意識」(当然彼は自分を被差別側と思っているのだろうが)があることを自白していることになる。
ああむかつくわ。まじで。お前の一人相撲じゃねえか。
つかあれだな、たかが他人のブログにうpされるだけでこんなにわぎわぎしてたら、たとえば万が一このブログが有名思想家に取り上げられてアクセス数が急増したりすると、わたしまじで首吊るだろうな。
うん、こうやって牽制してるだけ。
ママさんに一方的な独り言を送りつけていたんだが、安永浩のファントム理論の簡易解説ページを読んでたんだな。それについての感想を垂れ流してた。ママさんは「パス」って言ってるのにな(笑、つかあとで気づいた)。
んで、さらっと読んで、まず思ったのは、「この理論は「美しい」。数学的美しさがある」と。
分裂病の症状の説明のための理論としては、とても完成されている。隙がないように見える。硬い。
うん、この理論、もてはやされる理由がわかった。
精神分析理論では、ラカン論がそうなんだよね。数学的美しさがある。一方クライン論は泥臭い。
精神病と神経症という精神医学史の初期から議論されているこの二分法は、脳科学が発展したせいか最近下火にはなっているが、とても重要なことだと思うんだよな。
で、分裂病を説明するための理論として美しいのがファントム理論で、神経症を説明するための理論として美しいのがラカン論、ってことになる。
うん、ちょびっとラカン論に似てるなと思ったわけだ。それだけの話。
まーでもあれだな。現象学的アプローチだから、反論の隙は山ほどあるんだけどね。故意に閉じれば(エポケーポイントを定めれば)、隙がない、ってこと。
ラカン論もエポケーしてるじゃん。「女(ファルスのない人間、つまり理想的な未去勢者)は存在しない」って。
おもしろいな、精神医学って。
こう、自然科学ってえのは、美しすぎるんだ。隙がなさすぎる。だから前記事で参照した飲茶のテクストみたいなことになる。そこで言われている「科学界、ガッカイのみなさん」は、その美しさを保持しようとして、反証する人間を排除してしまう。これは批判じゃない。当然のことなんだ。人間として。
でもそんな自然科学でもやっぱり泥臭いところはある。それこそ不確定原理とか。
美しい雪の結晶の中に、パターンから外れる一点がある、という感じ。
一方精神分析論は、パターンから外れるところばっかりなんだ。泥と混じった雪。とても美しいとは言えない。
そんな中、ラカン論という比較的美しい理論が芽生えたから、もてはやされたんじゃないか。哲学など他の分野に応用されまくったのではないか。
中島みゆきが好きなわたしは精神分析流れるよなーそりゃ、という自己分析でした。
去るあなたは美しいわ
行かないでとすがるわたしより
それを傷つけたい。
それを傷つけるのがわたしではなく、傷そのものがわたし。
うんこー。