「わかりやすさ」の危険
2007/03/20/Tue
精神分析において、「わかりやすく説明する」ということは危険な行為となる。
分析においては、迂回的な会話が重要となる。
そもそも、人間の「普遍」を表現しようとするのに、「簡単な言葉」なんてありえない。簡単であればとっくの昔に人類はそれを見抜いていたであろう。
ここんところをわかっていないと、ラカンは読めない。
とはいえ、紹介する行為も重要だ。
斎藤環氏が、もっともわかりやすいラカン解説書なる本を上梓した。それ自体は批判しない。しかしそのわかりやすさ故、いろいろな読み方もできるし、ラカン論に対する誤解も起こりやすい。
一例を挙げる。このブログ。
まあこの本の反論に対する説明というのも余計ややこしくなるので避けたいが、一つだけ、ラカン論を理解する上で最大の障壁となろう要素があるので、あえて紹介した。その一点だけ述べる。
彼は箇条書きにしてはいるが、同じことを繰り返している要素がある。
それは、シンボルとイメージの関係性だ。シニフィアンとシニフィエの関係性と言ってもいいだろう。要は彼は、イメージ(シニフィエor体感的なもの)がシンボル(シニフィアンor言葉などの象徴物)に左右されているっておかしかないかい? と言いたいのだろう。
ラカン論というより、「言葉は意味やイメージ(シニフィエ)の副産物である」という点については、構造主義の基となったソシュール言語学に行き着くだろう。シニフィエに対するシニフィアンの恣意性(優位性)は構造主義の基本とも言える。
シニフィアンの恣意性を簡単に説明しておこう。以下比喩的に話を進める。
言葉のない世界を想像してみましょう。
その世界では、机とその上にあるコップの区別がつきません。持ち上げてみればいいじゃないか、というかもしれませんが、それは「机と表現されるであろうものから取り外されたコップと表現されるであろうもの」です。それならば、と机を斧で真っ二つに叩き割ってみましょう。これは二つとも「壊れた机と表現されるであろうもの」です。先に言った区別はそういった区別と同じなんですね。
言葉のない世界は、一枚の絵のようなものです。そこに山や川や牛が書かれていたとしても、「一枚の絵」でしかないのです。「山」や「川」や「牛」という言葉があるからこそ、そこに山や川や牛が描かれている、と思うわけです。
こう言ったことをうまく表現したりしているのが、陰陽師系のマンガやアニメで言われる「名付けの重要性」ですね。「名付けられていないものは、存在しない」という奴です。
イメージとしては、曖昧な海みたいな世界に言葉という網を投げ入れて世界を差異化している、という感じです。あくまで網ですから、網と網以外の場所の差異は曖昧です。この曖昧さが、言葉の多義性(シンボル)というものを生み出しているのです。
言葉(シニフィアン)が与えられて(名付けられて)初めてそのもの(シニフィエ)は差異化され、そこに「存在」を認識できるわけです。
さて、これだけ説明すれば、「何より言語化に至っていないイメージが先に存在し、イメージが心を大きく占めている。」ということが覆されると思うのですが、一応そこも説明しておきましょう。
イメージ(視覚など体感的な刺激)とシンボル(言語)の関係性として話を進めます。
彼が言うことはもっともです。ラカンはこう言います。「無意識は言語のように構造化されている」。
意識できないから無意識と呼ぶのです。無意識は、例えば「癖」というものを考えればわかるように、自分では気付けないのです。「自分の癖ぐらい知っている」といっても、自分が今日何回その癖をしたか答えられるでしょうか? 数えていたとしても、自分で気付かないうちにやっていることが多々あります。私は演劇をやっていたのですが、本当に身体的癖っていうものは、自分ではわからないものなんですよ。それは他人の方がよくわかるのです。これが、臨床の知を集積した精神分析の強みにもなります。それはおいといて。
心におけるイメージの支配力を語るのに、よく夢を持ち出してくる人がいます。夢では確かに言葉も喋るけれども、イメージじゃないか、と。確かに心にイメージはあります。しかしそれは、現実に見た世界のつぎはぎのイメージです。見たこともない光景だった、というかもしれませんが、それは無意識ですから覚えてなくても当然です。もっと極端な話をするなら、胎児の頃から視力がなく闇を生きていた方が、自分と同じような光景の夢を見ると思えますか?
記憶というものは、現実的な光景を切り取ってアルバムにしまうことです。忘れてしまうことは、無意識に収納することです。「切り取って」ということは、先に述べた「区別」や「差異化」と同じことです。つまり、言葉・シニフィアンによって、イメージは加工されているわけです。この加工の仕方には、圧縮と置換がありますが、これは隠喩と換喩と呼ばれたりします。即ち、言語的な加工なんですね。圧縮はデジャヴなど思い出せばわかりやすいでしょう。イメージとは本来連続的なものですよね。それが何故一枚の写真のようにその場面だけがデジャヴとなるのか。デジャヴのような圧縮ができるのは、言葉に多義性があるからなのです。象徴化とは類化でもありますからね。象徴化=類化=言語化して同じものとして認識するわけです。これこそが、シニフィアンがイメージを左右している(恣意性)の証拠です。
もう一つわかりやすい例を挙げましょう。
空想の怪物なんかはどうなるのだ、と。例えばドラゴンなどは、言葉関係なしに、心のイメージで作り上げた姿じゃないのか、みたいな。
カンのいい方はシニフィアンの恣意性の説明のところでわかると思います。
ドラゴンにしても何にしても、怪物とは現実的な世界にある何かを複合したり(ユニコーンの角など)どこかを差っ引いたり(足のない幽霊など)することで作り上げたイメージなのです。複合したり差っ引いたりすることはそのまま象徴化の操作になります。即ち、シニフィアンの恣意性があったからこそ、怪物を創造するというイメージの操作が可能になったのです。
「無意識はイメージで構成され、イメージの宝庫である。」
確かにそうかもしれません。しかし「構成する」という操作も象徴化により可能になるのです。つまりこの言葉はこう言い換えられます。「無意識にはシニフィアンの恣意性によりイメージが収納されており、そのイメージを取り出すこともシニフィアンの恣意性のもとで行われる」。
「言語化に至っていないイメージ」というのもおかしいですね。意識レベルで言語化できないイメージであろうとも、記憶に残っていてその記憶を引き出せる時点で、シニフィアンの恣意性が働いているのです。
こんなことを言っていますが、イメージだって重要ですよ。
ただ、意味が言葉を支配していると思ってしまうのは、お金というシニフィアンの無限増殖を寿ぐ資本主義の影響だろうなあ、と最近考えております。言葉が世界を掴み上げて意味が生まれるのです。ここのところろの刺し縫いが弱くなっているため、日常言語においても「浮遊するシニフィアン」が増殖し、私が批判する「記号のサイン化」を招いているのかなあ、と思います。
うーん、やっぱりわかりやすく説明するって難しいわ……。
分析においては、迂回的な会話が重要となる。
そもそも、人間の「普遍」を表現しようとするのに、「簡単な言葉」なんてありえない。簡単であればとっくの昔に人類はそれを見抜いていたであろう。
ここんところをわかっていないと、ラカンは読めない。
とはいえ、紹介する行為も重要だ。
斎藤環氏が、もっともわかりやすいラカン解説書なる本を上梓した。それ自体は批判しない。しかしそのわかりやすさ故、いろいろな読み方もできるし、ラカン論に対する誤解も起こりやすい。
一例を挙げる。このブログ。
まあこの本の反論に対する説明というのも余計ややこしくなるので避けたいが、一つだけ、ラカン論を理解する上で最大の障壁となろう要素があるので、あえて紹介した。その一点だけ述べる。
彼は箇条書きにしてはいるが、同じことを繰り返している要素がある。
それは、シンボルとイメージの関係性だ。シニフィアンとシニフィエの関係性と言ってもいいだろう。要は彼は、イメージ(シニフィエor体感的なもの)がシンボル(シニフィアンor言葉などの象徴物)に左右されているっておかしかないかい? と言いたいのだろう。
ラカン論というより、「言葉は意味やイメージ(シニフィエ)の副産物である」という点については、構造主義の基となったソシュール言語学に行き着くだろう。シニフィエに対するシニフィアンの恣意性(優位性)は構造主義の基本とも言える。
シニフィアンの恣意性を簡単に説明しておこう。以下比喩的に話を進める。
言葉のない世界を想像してみましょう。
その世界では、机とその上にあるコップの区別がつきません。持ち上げてみればいいじゃないか、というかもしれませんが、それは「机と表現されるであろうものから取り外されたコップと表現されるであろうもの」です。それならば、と机を斧で真っ二つに叩き割ってみましょう。これは二つとも「壊れた机と表現されるであろうもの」です。先に言った区別はそういった区別と同じなんですね。
言葉のない世界は、一枚の絵のようなものです。そこに山や川や牛が書かれていたとしても、「一枚の絵」でしかないのです。「山」や「川」や「牛」という言葉があるからこそ、そこに山や川や牛が描かれている、と思うわけです。
こう言ったことをうまく表現したりしているのが、陰陽師系のマンガやアニメで言われる「名付けの重要性」ですね。「名付けられていないものは、存在しない」という奴です。
イメージとしては、曖昧な海みたいな世界に言葉という網を投げ入れて世界を差異化している、という感じです。あくまで網ですから、網と網以外の場所の差異は曖昧です。この曖昧さが、言葉の多義性(シンボル)というものを生み出しているのです。
言葉(シニフィアン)が与えられて(名付けられて)初めてそのもの(シニフィエ)は差異化され、そこに「存在」を認識できるわけです。
さて、これだけ説明すれば、「何より言語化に至っていないイメージが先に存在し、イメージが心を大きく占めている。」ということが覆されると思うのですが、一応そこも説明しておきましょう。
イメージ(視覚など体感的な刺激)とシンボル(言語)の関係性として話を進めます。
彼が言うことはもっともです。ラカンはこう言います。「無意識は言語のように構造化されている」。
意識できないから無意識と呼ぶのです。無意識は、例えば「癖」というものを考えればわかるように、自分では気付けないのです。「自分の癖ぐらい知っている」といっても、自分が今日何回その癖をしたか答えられるでしょうか? 数えていたとしても、自分で気付かないうちにやっていることが多々あります。私は演劇をやっていたのですが、本当に身体的癖っていうものは、自分ではわからないものなんですよ。それは他人の方がよくわかるのです。これが、臨床の知を集積した精神分析の強みにもなります。それはおいといて。
心におけるイメージの支配力を語るのに、よく夢を持ち出してくる人がいます。夢では確かに言葉も喋るけれども、イメージじゃないか、と。確かに心にイメージはあります。しかしそれは、現実に見た世界のつぎはぎのイメージです。見たこともない光景だった、というかもしれませんが、それは無意識ですから覚えてなくても当然です。もっと極端な話をするなら、胎児の頃から視力がなく闇を生きていた方が、自分と同じような光景の夢を見ると思えますか?
記憶というものは、現実的な光景を切り取ってアルバムにしまうことです。忘れてしまうことは、無意識に収納することです。「切り取って」ということは、先に述べた「区別」や「差異化」と同じことです。つまり、言葉・シニフィアンによって、イメージは加工されているわけです。この加工の仕方には、圧縮と置換がありますが、これは隠喩と換喩と呼ばれたりします。即ち、言語的な加工なんですね。圧縮はデジャヴなど思い出せばわかりやすいでしょう。イメージとは本来連続的なものですよね。それが何故一枚の写真のようにその場面だけがデジャヴとなるのか。デジャヴのような圧縮ができるのは、言葉に多義性があるからなのです。象徴化とは類化でもありますからね。象徴化=類化=言語化して同じものとして認識するわけです。これこそが、シニフィアンがイメージを左右している(恣意性)の証拠です。
もう一つわかりやすい例を挙げましょう。
空想の怪物なんかはどうなるのだ、と。例えばドラゴンなどは、言葉関係なしに、心のイメージで作り上げた姿じゃないのか、みたいな。
カンのいい方はシニフィアンの恣意性の説明のところでわかると思います。
ドラゴンにしても何にしても、怪物とは現実的な世界にある何かを複合したり(ユニコーンの角など)どこかを差っ引いたり(足のない幽霊など)することで作り上げたイメージなのです。複合したり差っ引いたりすることはそのまま象徴化の操作になります。即ち、シニフィアンの恣意性があったからこそ、怪物を創造するというイメージの操作が可能になったのです。
「無意識はイメージで構成され、イメージの宝庫である。」
確かにそうかもしれません。しかし「構成する」という操作も象徴化により可能になるのです。つまりこの言葉はこう言い換えられます。「無意識にはシニフィアンの恣意性によりイメージが収納されており、そのイメージを取り出すこともシニフィアンの恣意性のもとで行われる」。
「言語化に至っていないイメージ」というのもおかしいですね。意識レベルで言語化できないイメージであろうとも、記憶に残っていてその記憶を引き出せる時点で、シニフィアンの恣意性が働いているのです。
こんなことを言っていますが、イメージだって重要ですよ。
ただ、意味が言葉を支配していると思ってしまうのは、お金というシニフィアンの無限増殖を寿ぐ資本主義の影響だろうなあ、と最近考えております。言葉が世界を掴み上げて意味が生まれるのです。ここのところろの刺し縫いが弱くなっているため、日常言語においても「浮遊するシニフィアン」が増殖し、私が批判する「記号のサイン化」を招いているのかなあ、と思います。
うーん、やっぱりわかりやすく説明するって難しいわ……。