からっぽの体
2010/02/08/Mon
それがそうであるためには炸裂してなければならない。
それが質量である。
こんなフレーズが浮かんだので、そういう小説を書こうとした。実を言えば、小説を書こうとしている僕自身が小説の中の登場人物なのだが。
いわば、小説の中の登場人物が、実際の書き手を登場人物にして小説を書こうとしているわけである。
メタ小説などと言うものになるのか。しかしメタ小説は実際の書き手から離れている感触を受ける。であるならば、メタ小説に対抗するための反メタ小説、などと表現できるものになろうが、そこまで深く考えていない。
実際、僕はわりとメタ小説が好きだ。映画や演劇もメタになっているものが好き。メタが好き、というわけではないが、いろんな好みの小説や映画や演劇の中に、メタが数個混じっている、ということであり、別にメタに偏執しているわけではない。
たまたま僕が書こうとした小説が、「ああそう言えばメタ小説的なものと言えるだろうか、どうでもいいけど」というような程度で思いついただけのことであり、先の文章は深く考えないでほしい。
ここで一つ断っておかなくてはならない。僕は自分を書いている書き手について何も知らない。知っていたら、そいつと話し合うなどして、今自分が置かれている生活環境を改善させたりできるだろう。知らないからできない。僕はこの先起こる物語の続きを知らない。
知らないのにどうやって登場人物にするのか。これが一番の問題である。至極当然の問題である。
馬鹿げていると自分で思う。しかし、冒頭の「質量」が、それを書かせようとしている。いや、この「質量」が発する万有引力に、だろうか。そうであるならば「質量」こそが僕の知らない書き手となるだろうが、僕は「質量」を、知っているとは言えないが、知っている。言語化できないそれの存在を知っている。それは平たく言えば、不快や苦痛と呼ばれるものである。
であるならば、僕を書いている書き手とは不快や苦痛の根本的原因、となるわけだが、どうだろう? うん、これを仮に採用して進めてみよう。
ああ、一つ補足しておかなければならない。今は便宜的に「書き手」と表現しているが、おそらくそれは、人間ではない。
わたしが彼女を見つけたとしても、彼女はわたしを見つけられない。なぜなら僕の世界にわたしは存在しないからだ。
わたしは痙攣している。痙攣している人体がわたしなのではなく、痙攣自体がわたしである。
彼女が住む僕の世界では、わたしそのものは見つけられない。だけどわたしを表象するものならばときどき見つかる。
たとえば脳波。異常な脳波として見つかる。もちろん、異常さが微細すぎて見つからない場合だってある。微細だからといってわたしが存在しないわけではない。わたしの影響が弱いとは限らない。たまたまそいつの脳波という表象が、わたしを照らさなかっただけである。サーチライトの影にわたしはいる。
彼女の場合、わたしを風の中に見出すことがある。曇り空の中に見出すことがある。彼女が野糞していた時、聞こえた木々のざわめき中に、わたしは見出される。この時彼女は脱糞しながら糞を体内に戻している。
書き手が僕を侵略している。少し休憩しよう。
僕は田舎で育った。田舎にもいろいろなレベルがあるが、結構な田舎だと思う。僕が小学生の頃は、いまだ外風呂で五右衛門風呂で外便所だった。子供の頃は怖くてよく母についてきてもらった。小学生くらいには慣れてしまったが。
まず小便器が家の中にできた。これだけでも大発展だ。父の書斎も離れにあったのだが、そこと母屋を繋げる廊下を増築し、途中に便所と風呂を備えつけた。
文明開化である。
しかし僕はこの増築には多少の不満があった。僕は父の書斎を秘密基地のように思っていて、そこで意味のわからぬ難しい本を読むふりをしながら、一人の時間を満喫していた。
母屋と繋げてしまうと、秘密基地としての魅力がいっさい失われてしまったように思えた。便所にくる祖母の足音、不用意なドアの開け閉めの音、いろんな雑音が入ってくるようになった。
何より、その風呂場には、化け物が住んでいた。僕は「髪の毛ババア」と呼んでいたのだが、長く大量の黒髪が湯船に浮かんでいる。しかし中にいるのは黒髪に似合わぬ老婆だ。
この妄想にはネタがある。小学校の近くに「髪の毛ババア」と呼ばれる老婆が住んでいたのだ。腰まである長く艶やかな黒髪をしたしわくちゃの老婆。いくら小学生でもそれがカツラであることがわかる。
大人になってから、この老婆が、昔火事に遭い頭皮を大火傷していたことを知った。
子供とは残酷だ。よく老婆に向かって
「髪の毛ババア発見しました! 総員退却!」
などと言って逃げたりした。もちろん僕もその一人だった。
しかし子供の言い分だってあるだろう。子供たちは、そんなことを言っても何も怒らず無口なままの老婆に対し、怯えていたのだと思う。だから退却していたのである。
だから僕は湯船にババアを沈めて殺した。
祖母は湯船に浸かりながら死んだ。
火事に遭ってそうなったのだから、むしろバランスの取れた死に方だと思う。
祖母が死ぬと、父は書斎にこもることが多くなり、僕の秘密基地は完全に存在しなくなった。
別に祖母や父を恨んでいるわけではない。友人と山の中に作った秘密基地も、いつの間にか自然消滅した。今ではそこにコンビニが建っている。
侵食するんだよね。股の下から生えてきた木がわたしを貫通し、頭という花を咲かせる。花はいずれ枯れる。ぽとりと椿のように落ちる。
それがいやで、逃げ出したいんだけど、陰部から侵入してきた木は、わたしの体内に枝を伸ばして、なかなか抜けない。これを抜くことは体をからっぽにすることだ。
からっぽの体。
それが僕。
それが質量である。
こんなフレーズが浮かんだので、そういう小説を書こうとした。実を言えば、小説を書こうとしている僕自身が小説の中の登場人物なのだが。
いわば、小説の中の登場人物が、実際の書き手を登場人物にして小説を書こうとしているわけである。
メタ小説などと言うものになるのか。しかしメタ小説は実際の書き手から離れている感触を受ける。であるならば、メタ小説に対抗するための反メタ小説、などと表現できるものになろうが、そこまで深く考えていない。
実際、僕はわりとメタ小説が好きだ。映画や演劇もメタになっているものが好き。メタが好き、というわけではないが、いろんな好みの小説や映画や演劇の中に、メタが数個混じっている、ということであり、別にメタに偏執しているわけではない。
たまたま僕が書こうとした小説が、「ああそう言えばメタ小説的なものと言えるだろうか、どうでもいいけど」というような程度で思いついただけのことであり、先の文章は深く考えないでほしい。
ここで一つ断っておかなくてはならない。僕は自分を書いている書き手について何も知らない。知っていたら、そいつと話し合うなどして、今自分が置かれている生活環境を改善させたりできるだろう。知らないからできない。僕はこの先起こる物語の続きを知らない。
知らないのにどうやって登場人物にするのか。これが一番の問題である。至極当然の問題である。
馬鹿げていると自分で思う。しかし、冒頭の「質量」が、それを書かせようとしている。いや、この「質量」が発する万有引力に、だろうか。そうであるならば「質量」こそが僕の知らない書き手となるだろうが、僕は「質量」を、知っているとは言えないが、知っている。言語化できないそれの存在を知っている。それは平たく言えば、不快や苦痛と呼ばれるものである。
であるならば、僕を書いている書き手とは不快や苦痛の根本的原因、となるわけだが、どうだろう? うん、これを仮に採用して進めてみよう。
ああ、一つ補足しておかなければならない。今は便宜的に「書き手」と表現しているが、おそらくそれは、人間ではない。
わたしが彼女を見つけたとしても、彼女はわたしを見つけられない。なぜなら僕の世界にわたしは存在しないからだ。
わたしは痙攣している。痙攣している人体がわたしなのではなく、痙攣自体がわたしである。
彼女が住む僕の世界では、わたしそのものは見つけられない。だけどわたしを表象するものならばときどき見つかる。
たとえば脳波。異常な脳波として見つかる。もちろん、異常さが微細すぎて見つからない場合だってある。微細だからといってわたしが存在しないわけではない。わたしの影響が弱いとは限らない。たまたまそいつの脳波という表象が、わたしを照らさなかっただけである。サーチライトの影にわたしはいる。
彼女の場合、わたしを風の中に見出すことがある。曇り空の中に見出すことがある。彼女が野糞していた時、聞こえた木々のざわめき中に、わたしは見出される。この時彼女は脱糞しながら糞を体内に戻している。
書き手が僕を侵略している。少し休憩しよう。
僕は田舎で育った。田舎にもいろいろなレベルがあるが、結構な田舎だと思う。僕が小学生の頃は、いまだ外風呂で五右衛門風呂で外便所だった。子供の頃は怖くてよく母についてきてもらった。小学生くらいには慣れてしまったが。
まず小便器が家の中にできた。これだけでも大発展だ。父の書斎も離れにあったのだが、そこと母屋を繋げる廊下を増築し、途中に便所と風呂を備えつけた。
文明開化である。
しかし僕はこの増築には多少の不満があった。僕は父の書斎を秘密基地のように思っていて、そこで意味のわからぬ難しい本を読むふりをしながら、一人の時間を満喫していた。
母屋と繋げてしまうと、秘密基地としての魅力がいっさい失われてしまったように思えた。便所にくる祖母の足音、不用意なドアの開け閉めの音、いろんな雑音が入ってくるようになった。
何より、その風呂場には、化け物が住んでいた。僕は「髪の毛ババア」と呼んでいたのだが、長く大量の黒髪が湯船に浮かんでいる。しかし中にいるのは黒髪に似合わぬ老婆だ。
この妄想にはネタがある。小学校の近くに「髪の毛ババア」と呼ばれる老婆が住んでいたのだ。腰まである長く艶やかな黒髪をしたしわくちゃの老婆。いくら小学生でもそれがカツラであることがわかる。
大人になってから、この老婆が、昔火事に遭い頭皮を大火傷していたことを知った。
子供とは残酷だ。よく老婆に向かって
「髪の毛ババア発見しました! 総員退却!」
などと言って逃げたりした。もちろん僕もその一人だった。
しかし子供の言い分だってあるだろう。子供たちは、そんなことを言っても何も怒らず無口なままの老婆に対し、怯えていたのだと思う。だから退却していたのである。
だから僕は湯船にババアを沈めて殺した。
祖母は湯船に浸かりながら死んだ。
火事に遭ってそうなったのだから、むしろバランスの取れた死に方だと思う。
祖母が死ぬと、父は書斎にこもることが多くなり、僕の秘密基地は完全に存在しなくなった。
別に祖母や父を恨んでいるわけではない。友人と山の中に作った秘密基地も、いつの間にか自然消滅した。今ではそこにコンビニが建っている。
侵食するんだよね。股の下から生えてきた木がわたしを貫通し、頭という花を咲かせる。花はいずれ枯れる。ぽとりと椿のように落ちる。
それがいやで、逃げ出したいんだけど、陰部から侵入してきた木は、わたしの体内に枝を伸ばして、なかなか抜けない。これを抜くことは体をからっぽにすることだ。
からっぽの体。
それが僕。