そのケーキ、お前が食いたいだけちゃうん?
2010/02/09/Tue
ママさんとのやり取りでママさんがうpらなかった別の話題をうpしておく。文中内、「>」以降の文章がママさんの文章で、他はわたしの。
>アスペ君はほめられても喜びません。「どこが?」って感じです。
>でも、味方かどうかには過敏です。
>
>例えば、TEACCHや行動療法は、「ほめる」や「好きなもの」を強化子に使います。
>私は自閉症者を相手にするときは、これらは使えないというか、「好きなもの」も、こちらの勝手な思い込みである可能性が大きく、もっとほめられようとして、何かをするとは思えないのです。
「ほめる」(「ほめられてうれしい」)ってのはわたし論のまさに「合意の快楽」やん。「正常人は「合意の快楽」を味わうことができて、未去勢者はそれが困難だ」って奴。
ちなみにこの「合意の快楽」も鏡像段階を原因にしている。この辺の説明はめんどうなので省く(ここなどが参考になるか。そこで述べた「情動の模倣」が「合意の快楽」「ほめられる快楽」に繋がる)。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-608.html のコメント欄。
=====
何故、正常人は人の言葉を素直に受け止められないだろうか。
知識が足らなくて誤解するならまだましだが、そうでない人が多い様な気がする。
故に、正常人とは精神障害ということなのだろうか?
2009-12-12 土 14:52:04 /URL /放浪人 /編集
>人の言葉を素直に受け止められないだろうか。
これ正常人にとっては別の意味になりますよ。
正常人にとっては、「人の言葉を素直に受け止められる」=「合意の快楽を分かち合える」であって、≠「語義通りにそれを解釈する」なのです。
2009-12-12 土 23:08:59 /URL /脂 /編集
=====
キリマンジャロさんも言ってるじゃん。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-653.html
=====
ちょろちょろ読んでたら、「正常人は「合意の快楽」を感じることができ、未去勢者はそれが困難だ」というわたし論を補強する言い分があったので引用しておく。この記事から。
=====
「普通の子」は、人にあわすことが楽しいんですよ。
だから、「指示に従う」ことも、人とのつながりの確認であって、服従にはならない。
大人に認めてもらえることがうれしいし、一人前の自分を感じたりもしてるわけです。
(中略)
でも、自閉症の子は、大人との結び目の作り方が、違ってるんだから、
=====
このブログトラバ打てないのな。めんどくせ。
「「普通の子」は、人にあわすことが楽しい」。子供の頃からそうなんだから、成長すればするほど「人にあわすこと」を無意識的に優先するようになるだろうね。そうやって「合意の快楽」が言動の根拠になった「正常という精神疾患」者ができあがる。
=====
動物で考えてみよう。
犬はほめたら芸を覚える。ほめられることがうれしい。快楽になっている。
一方猫はそうでもない。
水族館のアザラシもほめるんじゃなくエサを与える。食欲が満たされるという快楽で、「合意の快楽」を代用している。
もしかしたら未去勢者より犬の方が「人間的」なのかもね。
さすが人間のお供として太古から品種改良されてただけのことはある。
犬ってもしかしたら人間が絶滅したあと地球を制覇するかもしんないな。
となると、水族館のアザラシに芸を教えるのと同じやり方で療育してみたら、を考える。
ってそんな変なことじゃないよな。普通の家庭でもやってるだろ。「ちゃんと留守番できたらお菓子買ってあげるわよ」とか、まさにアザラシ教育法じゃん。
というわけで。
社会的コミュニケーションが成立したら(この成立判定も正常人の思い込みによるんだが)、食べ物を与える。
未去勢者は社会的コミュニケーションをみるみる覚えるだろう。お菓子くれるなら。
しかし、療育現場から外に出てみよう。
一般社会では、社会的コミュニケーションを成功させても、お菓子をくれるわけではない。
また、社会なんてのは療育現場なんかよりはるかに複雑だ。現実界とは複雑系だが、社会という幻想は現実界を色濃く反映した一個の芸術作品だ。
療育現場で覚えたコミュニケーション法など、たとえ十年二十四時間つきっきりで教えても、それこそ「ごっこ遊び」レベルだろう。
定型でも一生かけて学んでいくような社会に放り出されるわけだ。本当に「ごっこ遊び」レベルの未去勢者が。
さて、彼はどうなるだろうね?
わたしは知らん。
一方定型発達者は、「合意の快楽」を味わえる。
コミュニケーションが成立するごとに快楽的なごほうびを、お菓子を受け取れる。次から次へと。
だからこそ一生かけて学んでいくことができる。
複雑怪奇な社会の中で生きていける。
「味方」について。
未去勢者は過敏だと思えばいい。
つまり、正常人にとっての「味方」とは「合意の快楽」を分かち合える相手であるが、アスペにとっての「味方」とは自分に対して不快を与えない相手だ、ってこと。とっても動物的。ムツゴロウさんに聞いてみた方が早いかもね。テンプルさんの「動物の方が内面を理解できる」って症状はとっても重要だと思うぜ。
不快を避けることは快楽じゃないだろ? でも正常人はそういった不快の回避を快楽化できる精神疾患に罹患している。だからどんどん不快を回避できる。回避方法を学ぶのに非常に長けることになる。
あれだ、背後からこええ化け物が襲ってくるのから逃げてるだけなのが未去勢者。一方、背後から化け物が襲って逃げてたらいつの間にか目の前にケーキがぶら下がっていて、いつの間にかケーキを追い求めるようになったのが正常という精神疾患。
野生の動物は警戒心が強い。いつも周囲に怯えている。野生の世界はそういうところ。
こういった警戒心や怯えが、ここで言う過敏さだと思ってください。
野生の動物がまんま人間社会にいるわけですから、「味方かどうか」に過敏にもなるでしょう。
ところが正常人同士だと、相手も「合意の快楽」を根拠に言動していると思い込んでいるから、合意さえすればなんとかなる、ってセーフティネットがあるわけだ。野生の世界に落ちる前に。
警戒心は弱まりますわな。
快楽のための「味方」か、不快回避のための「味方」か。
正常人は「合意の快楽」を覚えているがゆえに、野生の世界とは違う世界を生きている。野生の世界から言えばセーフティネットの向こう側に住んでいる。
そこはいわば、ささいなものではあろうがある程度の人工的管理が施された野生公園だ。この野生公園の中に作られた施設が社会だ。
このささいな人工的管理が、このブログで言う「社会ではない意味の世界」となるが、これがあるからこそ、正常人は未去勢者と比して不快から防衛されている。不快に対し鈍感でいられる。
アスペ君は野生公園ではない(当然社会でもない)野生の世界を生きている。従って、正常人と比して不快に敏感だ。ゆえに、不快回避のための「味方」にこだわる。
そういうことだと思われます。
「好きなもの」について。
未去勢者は快と不快の分別が苦手だ、と考えなければならない。正常人にしても不快なものを求める時があるだろ? ホラー映画とか登山とかさ。マゾヒスムなんかもそうだ。
対象が自分にとって快か不快か微妙だけど、それについての興味は沸き起こる。「好き/嫌い」以前の興味という内面の力動がある。
で、対象と関わって、結果不快を生むことだって多いだろうね。
むしろわたし個人は、わたしの「好きなもの」はわたしを不快にさせるものであり、不快だとわかってもやめられない、というところがある。不快に向かってしまう。不快が不快を生んでいる。
でも傍から見たらわたしはその対象が好きなのだと思われてるだろう。
「「ほめる」や「好きなもの」を強化子に使」って療育されて正常人化したら、その個体は、アスペって診断されてるのかもしんないけど、わたしの診断では「未去勢者ではない」となるな。
つかそれ普通の教育手法やん。
でもそれで「未去勢者ではないアスペ(誤診とは言わない)」が治るならいいんでねえの?
あなたんとこの子供は未去勢者っぽいけど。
だから
>私は自閉症者を相手にするときは、これらは使えないというか、「好きなもの」も、こちらの勝手な思い込みである可能性が大きく、もっとほめられようとして、何かをするとは思えないのです。
ってあなたの判断は正しい、となる。わたし論の理屈上は。
そういった教育手法は、「目の前にケーキをぶら下げること」って表現できるわけだが、このケーキが厄介なんだよ。なぜなら教育する方(親含む)にとってもそれはケーキなんだから。
だからケーキをおいしいと思わない子供にまでケーキをぶら下げて、教育者は喜んじゃう。実態は背後にいる化け物から逃げているだけなのに。
とっても下品ね。大人って。
メッセ転載以上。一部加筆修正している。
むしろ、「ほめる」や「好きなもの」が「快楽である」とさせることが大事じゃね? 強化子として利用するのではなく、それを強化子として利用可能にせしめることが、まず最初の問題としてあるんじゃね? 強化子として効果が薄いのだから、それを効果があるようにせしめるのが問題じゃね?
要するに、強化子として利用する以前の問題ってわけ。
まあ、わたしはんなの無駄な努力だと思うがね。そういった正常人化洗脳が成功したとしても、彼らはそれを「偽の快楽」としてしか理解できないだろう。
脳外科手術で完全に治せる(つまり正常人化させる)時代にならない限り、この問題は解決できないと予言する。
なあお前ら、「子供のために」って大義名分に安寧しすぎるあまり、いつの間にか心の底で「自分のために」にすり替わっていないかい?
お前たちは「人にあわすことが楽しい」「普通の子」として育ってきた。大人になった。
お前たちはケーキがおいしいと思えている。子供の頃からそう思えて生きてきた。
そのケーキは、「子供のため」なんかじゃなく「自分のため」に買ってきたんじゃないのかい?
もっと自分の内面を探ってみろよ。真摯に自分と向きあってみろよ。
「自分」がわからないのにわかっていると思い込んでいるだけの正常人が、「自分」がわからない未去勢者に、「自分」という思い込みを教えている、というのが療育の実態であり、根本的問題だ。
わたしはそんなトラジコメディの一傍観者として、「自分」がわからないのにわかっていると思い込んでいるだけの大人たちに、こう声をかけているんだよ。
「そのケーキ、お前が食いたいだけちゃうん?」
お、なんか五七五になってる。
結局さ、療育とは自閉症者に「フレーム問題」で言うところの「フレーム」を与えることだ、ってのは理屈的に正しいんだよな。そらパパさんの基本方針は正しい。
でさ、じゃあその「フレーム問題」で言うところの「フレーム」って一体全体なんなの? 自閉症にはなくて正常人にはあるんでしょ? って話になって、それこそ構造主義が解明しようとしている「構造」だ、ってなるんだよ。
じゃあじゃあ、その構造主義が解明しようとしている「構造」って一体全体なんなの? ってうぜえなてめえ教えて君は死ねよ、となるんだが、要するにそれって無意識的なもんなんだよな。そうでしょ、正常人たちは自分の「フレーム」を意識して生活しているわけじゃない。「構造」とは意識的に作り上げられたものではない。
するとだな、結局その「フレーム」あるいは「構造」を、臨床知見と連接可能なものとして、もっとも簡素化されたモデルとして作り上げたのが、「オイディプスの三角形」だってことになんだよ。
ほらあ、一回転しちゃった。
つまりだな、このママさんがやろうとしているのは、『アンチ・オイディプス』的なことなんだよな。『アンチ・オイディプス』は「オイディプスの三角形」を否定し、そのために社会を分裂症化させる「分裂分析」という概念(ではなくもはやただのモットー)をこさえたんだが、このママさんは、社会を自閉症化させる活動をしている、あるいはこれからするのだろう、って予測になるんだが、ならないか。
なんかな、わたしの居場所ってどこにもねえな、って再確認できたって話なんだよな。
これが本当の「脱領土ではない、最初から領土がない本当のノマド」だよ。
ママさんとこのツレション豚ども、お騒がせしてごめんね。和気藹々と精液をぶっかけあう場所を汚しちゃってごめんね。
以降コメントは控えるよ。思う存分精液ぶっかけあってください。
わたしがそういうところだと納得したからもう大丈夫。
死ぬ。死ね。
腹いてえ。
>アスペ君はほめられても喜びません。「どこが?」って感じです。
>でも、味方かどうかには過敏です。
>
>例えば、TEACCHや行動療法は、「ほめる」や「好きなもの」を強化子に使います。
>私は自閉症者を相手にするときは、これらは使えないというか、「好きなもの」も、こちらの勝手な思い込みである可能性が大きく、もっとほめられようとして、何かをするとは思えないのです。
「ほめる」(「ほめられてうれしい」)ってのはわたし論のまさに「合意の快楽」やん。「正常人は「合意の快楽」を味わうことができて、未去勢者はそれが困難だ」って奴。
ちなみにこの「合意の快楽」も鏡像段階を原因にしている。この辺の説明はめんどうなので省く(ここなどが参考になるか。そこで述べた「情動の模倣」が「合意の快楽」「ほめられる快楽」に繋がる)。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-608.html のコメント欄。
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何故、正常人は人の言葉を素直に受け止められないだろうか。
知識が足らなくて誤解するならまだましだが、そうでない人が多い様な気がする。
故に、正常人とは精神障害ということなのだろうか?
2009-12-12 土 14:52:04 /URL /放浪人 /編集
>人の言葉を素直に受け止められないだろうか。
これ正常人にとっては別の意味になりますよ。
正常人にとっては、「人の言葉を素直に受け止められる」=「合意の快楽を分かち合える」であって、≠「語義通りにそれを解釈する」なのです。
2009-12-12 土 23:08:59 /URL /脂 /編集
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キリマンジャロさんも言ってるじゃん。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-653.html
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ちょろちょろ読んでたら、「正常人は「合意の快楽」を感じることができ、未去勢者はそれが困難だ」というわたし論を補強する言い分があったので引用しておく。この記事から。
=====
「普通の子」は、人にあわすことが楽しいんですよ。
だから、「指示に従う」ことも、人とのつながりの確認であって、服従にはならない。
大人に認めてもらえることがうれしいし、一人前の自分を感じたりもしてるわけです。
(中略)
でも、自閉症の子は、大人との結び目の作り方が、違ってるんだから、
=====
このブログトラバ打てないのな。めんどくせ。
「「普通の子」は、人にあわすことが楽しい」。子供の頃からそうなんだから、成長すればするほど「人にあわすこと」を無意識的に優先するようになるだろうね。そうやって「合意の快楽」が言動の根拠になった「正常という精神疾患」者ができあがる。
=====
動物で考えてみよう。
犬はほめたら芸を覚える。ほめられることがうれしい。快楽になっている。
一方猫はそうでもない。
水族館のアザラシもほめるんじゃなくエサを与える。食欲が満たされるという快楽で、「合意の快楽」を代用している。
もしかしたら未去勢者より犬の方が「人間的」なのかもね。
さすが人間のお供として太古から品種改良されてただけのことはある。
犬ってもしかしたら人間が絶滅したあと地球を制覇するかもしんないな。
となると、水族館のアザラシに芸を教えるのと同じやり方で療育してみたら、を考える。
ってそんな変なことじゃないよな。普通の家庭でもやってるだろ。「ちゃんと留守番できたらお菓子買ってあげるわよ」とか、まさにアザラシ教育法じゃん。
というわけで。
社会的コミュニケーションが成立したら(この成立判定も正常人の思い込みによるんだが)、食べ物を与える。
未去勢者は社会的コミュニケーションをみるみる覚えるだろう。お菓子くれるなら。
しかし、療育現場から外に出てみよう。
一般社会では、社会的コミュニケーションを成功させても、お菓子をくれるわけではない。
また、社会なんてのは療育現場なんかよりはるかに複雑だ。現実界とは複雑系だが、社会という幻想は現実界を色濃く反映した一個の芸術作品だ。
療育現場で覚えたコミュニケーション法など、たとえ十年二十四時間つきっきりで教えても、それこそ「ごっこ遊び」レベルだろう。
定型でも一生かけて学んでいくような社会に放り出されるわけだ。本当に「ごっこ遊び」レベルの未去勢者が。
さて、彼はどうなるだろうね?
わたしは知らん。
一方定型発達者は、「合意の快楽」を味わえる。
コミュニケーションが成立するごとに快楽的なごほうびを、お菓子を受け取れる。次から次へと。
だからこそ一生かけて学んでいくことができる。
複雑怪奇な社会の中で生きていける。
「味方」について。
未去勢者は過敏だと思えばいい。
つまり、正常人にとっての「味方」とは「合意の快楽」を分かち合える相手であるが、アスペにとっての「味方」とは自分に対して不快を与えない相手だ、ってこと。とっても動物的。ムツゴロウさんに聞いてみた方が早いかもね。テンプルさんの「動物の方が内面を理解できる」って症状はとっても重要だと思うぜ。
不快を避けることは快楽じゃないだろ? でも正常人はそういった不快の回避を快楽化できる精神疾患に罹患している。だからどんどん不快を回避できる。回避方法を学ぶのに非常に長けることになる。
あれだ、背後からこええ化け物が襲ってくるのから逃げてるだけなのが未去勢者。一方、背後から化け物が襲って逃げてたらいつの間にか目の前にケーキがぶら下がっていて、いつの間にかケーキを追い求めるようになったのが正常という精神疾患。
野生の動物は警戒心が強い。いつも周囲に怯えている。野生の世界はそういうところ。
こういった警戒心や怯えが、ここで言う過敏さだと思ってください。
野生の動物がまんま人間社会にいるわけですから、「味方かどうか」に過敏にもなるでしょう。
ところが正常人同士だと、相手も「合意の快楽」を根拠に言動していると思い込んでいるから、合意さえすればなんとかなる、ってセーフティネットがあるわけだ。野生の世界に落ちる前に。
警戒心は弱まりますわな。
快楽のための「味方」か、不快回避のための「味方」か。
正常人は「合意の快楽」を覚えているがゆえに、野生の世界とは違う世界を生きている。野生の世界から言えばセーフティネットの向こう側に住んでいる。
そこはいわば、ささいなものではあろうがある程度の人工的管理が施された野生公園だ。この野生公園の中に作られた施設が社会だ。
このささいな人工的管理が、このブログで言う「社会ではない意味の世界」となるが、これがあるからこそ、正常人は未去勢者と比して不快から防衛されている。不快に対し鈍感でいられる。
アスペ君は野生公園ではない(当然社会でもない)野生の世界を生きている。従って、正常人と比して不快に敏感だ。ゆえに、不快回避のための「味方」にこだわる。
そういうことだと思われます。
「好きなもの」について。
未去勢者は快と不快の分別が苦手だ、と考えなければならない。正常人にしても不快なものを求める時があるだろ? ホラー映画とか登山とかさ。マゾヒスムなんかもそうだ。
対象が自分にとって快か不快か微妙だけど、それについての興味は沸き起こる。「好き/嫌い」以前の興味という内面の力動がある。
で、対象と関わって、結果不快を生むことだって多いだろうね。
むしろわたし個人は、わたしの「好きなもの」はわたしを不快にさせるものであり、不快だとわかってもやめられない、というところがある。不快に向かってしまう。不快が不快を生んでいる。
でも傍から見たらわたしはその対象が好きなのだと思われてるだろう。
「「ほめる」や「好きなもの」を強化子に使」って療育されて正常人化したら、その個体は、アスペって診断されてるのかもしんないけど、わたしの診断では「未去勢者ではない」となるな。
つかそれ普通の教育手法やん。
でもそれで「未去勢者ではないアスペ(誤診とは言わない)」が治るならいいんでねえの?
あなたんとこの子供は未去勢者っぽいけど。
だから
>私は自閉症者を相手にするときは、これらは使えないというか、「好きなもの」も、こちらの勝手な思い込みである可能性が大きく、もっとほめられようとして、何かをするとは思えないのです。
ってあなたの判断は正しい、となる。わたし論の理屈上は。
そういった教育手法は、「目の前にケーキをぶら下げること」って表現できるわけだが、このケーキが厄介なんだよ。なぜなら教育する方(親含む)にとってもそれはケーキなんだから。
だからケーキをおいしいと思わない子供にまでケーキをぶら下げて、教育者は喜んじゃう。実態は背後にいる化け物から逃げているだけなのに。
とっても下品ね。大人って。
メッセ転載以上。一部加筆修正している。
むしろ、「ほめる」や「好きなもの」が「快楽である」とさせることが大事じゃね? 強化子として利用するのではなく、それを強化子として利用可能にせしめることが、まず最初の問題としてあるんじゃね? 強化子として効果が薄いのだから、それを効果があるようにせしめるのが問題じゃね?
要するに、強化子として利用する以前の問題ってわけ。
まあ、わたしはんなの無駄な努力だと思うがね。そういった正常人化洗脳が成功したとしても、彼らはそれを「偽の快楽」としてしか理解できないだろう。
脳外科手術で完全に治せる(つまり正常人化させる)時代にならない限り、この問題は解決できないと予言する。
なあお前ら、「子供のために」って大義名分に安寧しすぎるあまり、いつの間にか心の底で「自分のために」にすり替わっていないかい?
お前たちは「人にあわすことが楽しい」「普通の子」として育ってきた。大人になった。
お前たちはケーキがおいしいと思えている。子供の頃からそう思えて生きてきた。
そのケーキは、「子供のため」なんかじゃなく「自分のため」に買ってきたんじゃないのかい?
もっと自分の内面を探ってみろよ。真摯に自分と向きあってみろよ。
「自分」がわからないのにわかっていると思い込んでいるだけの正常人が、「自分」がわからない未去勢者に、「自分」という思い込みを教えている、というのが療育の実態であり、根本的問題だ。
わたしはそんなトラジコメディの一傍観者として、「自分」がわからないのにわかっていると思い込んでいるだけの大人たちに、こう声をかけているんだよ。
「そのケーキ、お前が食いたいだけちゃうん?」
お、なんか五七五になってる。
結局さ、療育とは自閉症者に「フレーム問題」で言うところの「フレーム」を与えることだ、ってのは理屈的に正しいんだよな。そらパパさんの基本方針は正しい。
でさ、じゃあその「フレーム問題」で言うところの「フレーム」って一体全体なんなの? 自閉症にはなくて正常人にはあるんでしょ? って話になって、それこそ構造主義が解明しようとしている「構造」だ、ってなるんだよ。
じゃあじゃあ、その構造主義が解明しようとしている「構造」って一体全体なんなの? ってうぜえなてめえ教えて君は死ねよ、となるんだが、要するにそれって無意識的なもんなんだよな。そうでしょ、正常人たちは自分の「フレーム」を意識して生活しているわけじゃない。「構造」とは意識的に作り上げられたものではない。
するとだな、結局その「フレーム」あるいは「構造」を、臨床知見と連接可能なものとして、もっとも簡素化されたモデルとして作り上げたのが、「オイディプスの三角形」だってことになんだよ。
ほらあ、一回転しちゃった。
つまりだな、このママさんがやろうとしているのは、『アンチ・オイディプス』的なことなんだよな。『アンチ・オイディプス』は「オイディプスの三角形」を否定し、そのために社会を分裂症化させる「分裂分析」という概念(ではなくもはやただのモットー)をこさえたんだが、このママさんは、社会を自閉症化させる活動をしている、あるいはこれからするのだろう、って予測になるんだが、ならないか。
なんかな、わたしの居場所ってどこにもねえな、って再確認できたって話なんだよな。
これが本当の「脱領土ではない、最初から領土がない本当のノマド」だよ。
ママさんとこのツレション豚ども、お騒がせしてごめんね。和気藹々と精液をぶっかけあう場所を汚しちゃってごめんね。
以降コメントは控えるよ。思う存分精液ぶっかけあってください。
わたしがそういうところだと納得したからもう大丈夫。
死ぬ。死ね。
腹いてえ。