脳内野次馬の虐殺
2010/02/13/Sat
ナイーブになってるかもしれない。
ママさんとこでぎゃーぎゃーやってる時、なんか頭の中で糸が切れたような感覚があった。「プチン」とはいかなかったが、やらかしたあとで「あ、なんか糸、というか網みたいなのが切れてる」と思った。まあ単にちょっと寝不足だったこともあるんだけどさ。今は薬飲んで寝たよ、ダイジョブ。
「キレル」ということでは……なくはないのか、「キレル」と言われることではあろう。それでいいや。殺意がわたしの中に芽生えたのは確かだし。
そしてママさんに甘えた。メッセを送りながら、「あ、これいわゆる甘えだよな」と思いながらやった。ママさんがどう思っているか知らない。おそらく、無理矢理甘えだと解釈できるメッセは、甘えじゃない。それらのメッセはむしろ甘えられるかどうかのテストだ。いや、どこまで甘えていいか、か。
甘えとはなんだ? 本音を晒すことか。
わたしにとって本音を晒すこととは、思考実況することだ。わたしの言う「思考」には情動も含まれている。科学者の思考は、人格者になりたがる哲学者の思考などより、見た目は冷静に見えるのかもしれないが、情動的だと思っている。マッドサイエンティストの思考。
この情動も、一般的な意味での情動とは少し違うが、この記事を言い訳として参照してもらいたい。
ああそうか、その「感情論のすすめ」とか「学者ならぬ魔女論」は、人間性なんて煩わしいもの棄ててマッドサイエンティストになれば? って言っているのだな。マッドサイエンティストのすすめ。
この思考は混乱なのだろうか。一般的な意味では混乱だろう。他人から見れば混乱しているように見えるだろう。
しかしわたしにとっては、混乱というより清明である。わたしという世界を垣間見た瞬間である。
わたしにとって本音を晒すこととは、わたしの心としての本音を述べるのではなく、わたしという世界を晒すことだ。もちろん、普段ではわたしもわたしという世界を見ないようにしている。それは見るに耐えないものだからだ。一般的な頭で混乱している思考だと思えるからだ。
その世界にいることは、耐えられない。自分がばらばらになりそう。そういった世界に耐えながら、それを抱えながら、救いを求めて差し出す手が、殺意だ。
殺意を向ける相手は、抽選だ。誰でもいいわけではないが、誰でもいい。この場合ママさんではなかった。しかしママさんに向けても違和感のないものだ。
一般的な頭で、これは狂気と表現できるものだと思う。しかしわたしは狂ってなんかいない。わたしにとってこれは清明に見える。
ただそうであるものをただそうであるように見ている。
ただそうである世界を抱えながら言う「助けて」という言葉が、殺意である。
しかし、お前たちは「助けて」という言葉に、この清明な世界を「わたしから取り除いて」という、全く非論理的な思い込みを付加する。「わたしの苦しみをわかって」という言葉を「わたしから苦しみを取り除いて」と解釈する。
だからわたしは「助けて」と言えない。殺意と表現するしかない。
この殺意がママさんに向きそうで、ごめんね、と軽く思った。今。まあ実際に殺せやしないけどね。ネット上だしー。現住所探し出して、ってそういったことはするかもしれんが、やってるうちに冷めると思うよ。イトウさんもそうだった。
ばらばらの矢印。それぞれが自分勝手にブラウン運動している。これが束ねられたのが、それを表現する一つの言葉が、殺意。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
これが鏡で反射され一回転したのが、正常人の自己愛、対象愛だ。束ねられた矢印が、鏡で反射され自分に向かうのが自己愛。鏡に向かう束ねられた矢印に流されて再び外界に向かったのが対象愛。鏡で反射され自分に向かうシーンを図式化したのがL図だ。
臨床とは残酷なものである。分析主体にとっても、分析家にとっても。
この残酷さは、治療目的でするファルス再発見の瞬間ではない。転移がばらばらな矢印になる瞬間である。それは耐えられない。耐えられないから矢印を束ね直す。殺意になる場合がある。
小笠原晋也は馬鹿だったんだろうな。恋人とうまくいかなくなって、恋人を分析しはじめちゃったんだろうな。無意識的にかしらんが。しかも分析家として有能だったのもいけなかった。ファルス再発見という「分析治療中に訪れるあの感動的な一瞬」のさらに向こう側にある、現実に呑まれてしまった。
馬鹿だから、彼は分析家として有能だった。
ばらばらばらばらばらばら……。
うん、大丈夫だよ。この「助けて」という殺意、束ねられた矢印、すぐばらばらになるから。
わたしは助からないとうすうす気づいているから。
このブログでは発達障害のうち特に自閉症を取り扱っている。他のADHDや学習障害を軽視している、と言われたら、「そうだねえ」と言うしかない。わたしが興味を持てないだけである。
こう言うと、「わたしは自閉症に興味を持っている」ということになるが、これは一面的に正しいが、そうだとは限らない。わたしは精神分析による概念、去勢が示すものに興味を持っている。
わたしは未去勢者を、疾患としては、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害、自閉症だと考えている。とはいえ精神科の診断など各医師の裁量によるので、全てのその疾患者が未去勢者であるとは限らないが。スキゾイドなどは心因性も議論されているので、そうであるならば理屈的に未去勢者ではなくなる。また、アスペルガー症候群者などは、わたしの見たところ、未去勢者は多く見積もって六、七割だろう。三、四割は去勢済み主体である。カナー型であれば、九割は未去勢だろうと思うが。なので、「アスペルガー型とカナー型は、知的障害のあるなしの違いで、同じ障害である」という現在でも確立している要件が、なんらかの反証により覆されれば、つまりアスペルガー型とカナー型は別個の障害だと証明されれば、アスペルガー症候群は未去勢であるという理屈はなくなる。
ともかく、わたしは去勢を思考する上で有効な臨床例として未去勢者を観察しているのであり、その一種が自閉症である、ということだ。
であるならば、ADHDや学習障害は去勢済み主体である、となるが、それらの観察経験は非常に少ないのだが、ADHDは去勢済み主体である、という(分析ではない)印象を持ったことはある。学習障害は観察経験はないが、臨床例などを読んで、去勢済み主体だろうと予測している。
しかし、ADHDも学習障害も、発達になんらかの障害があるとは思っている。発達について、どの領野に障害があるのか、という問題である。自閉症、ADHD、学習障害のうち、精神分析が考える去勢という発達過程に不全があるのが、自閉症である、という話である。これはラカン派の自閉症解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」などからも裏づけられている。この解釈はわたしの臨床と合致するので支持できる。この記事などで述べた。
ADHDや学習障害は、去勢という発達領野以外に障害がある、という話にすぎない。たとえば学習障害は明確だろう。言語性ならば、読文などといった発達領野に障害があるが、去勢という発達領野には障害がない、となる。言語性学習障害は、有名人にはたとえばトム・クルーズがいるが、もちろんプライベートなど見たことはないが、とても去勢に不全があるとは思えない。ADHDもまた、おそらく去勢ではない領野で発達不全があるのだろう。
とはいえ、杉山登四郎などが言う「非言語性学習障害と広汎性発達障害は同一である」という論について、わたしの思考不足で短絡的な反論をこの記事やこの記事でしてしまっているが、支持できる部分もあるな、と今は思い直している。「言語性はどうかわからないが非言語性の学習障害は自閉症である」という杉山の論は、ラカン派による自閉症解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」と呼応する。鏡像関係とは想像的なものだ。非言語性とは想像的なことである。したがって、非言語性学習障害については、去勢不全を見られる個体も多いだろう、と推測できる。すまんね杉山翁。
ただし、学習障害とは表面的な学習能力の不全から診断される。このアプローチだと精神分析の去勢という概念にまで届かないとわたしは考える。「学習」という言葉が引っかかってるだけか。それは「学習」ではない。むしろ「刻印」である。「刻印」でもないけどなあ、「学習」と比べたら、って話で。いやま、統合失調症の思考盗聴などすら「学習」と言い張るなら「学習」でいいやとは思うけど。
つまるところ何が言いたいのかというと、わたしはADHDや学習障害を研究対象にしていないのである。わたしが興味ないだけなので、これを研究している学者をどうこう言うつもりもない。
そういう言い訳。
とか言いながらママさんとADHDについて話をしていたのだが、去勢不全と言えるかもな、とか思ってきた。去勢済み主体の疾患だとなべて神経症になるからなー、ラカン論は。こういうところ不便ね。
むしろさ、去勢って精神分析のエポケー地点じゃん? 「女(ファルスの存在しない人間、すなわち未去勢者)は存在しない」わけだから。で、去勢済み主体について精緻に語った論なわけでしょ? ならば、逆に使えば、未去勢の表面は語れるんじゃないの? いやこの表面って内面の表面って意味でややこしいんだけど。むしろ行動主義心理学などは内面を排除した表面だけを語っているわけじゃん。内面の表面を付加する理屈としては有効となるんじゃないかい?
んー。
知的障害者でも去勢されてるんだよな。鏡像関係の組み込みは成功している。自閉症当事者が同じ施設にいる知的障害者を自分と違うと思うことはよくあるし、そもそも自閉症の研究が、知的障害者群の中で特殊な症状を示していた個体たちを、自閉症としたのがはじまりだと記憶している。知的障害と自閉症という疾患は別物だという考えから、自閉症スペクトラムは知的障害の症状の重さと自閉症の症状の重さを縦軸と横軸にしている。
ADHDに戻ろう。ラカン派によれば、去勢には二つの過程がある。「父の名による欠如のもたらし」と「鏡像関係の組み込み」だ。順序はない。うわーオイディプスに回収されるわなこりゃ。ガタリはこれをアンチしてたのか。この時乳児は生後一年やそこらなんだからいい加減父母から離れてもいいわな、確かに。
同じ去勢不全でも、自閉症とADHDではこの二つの過程に不全の差があるのではないか、と思ったわけだ。
斎藤の自閉症に関する論文で、彼は「(自閉症は)排除はしているだろう」と述べている。これは正しくは「父の名を排除していないだろう」という意味だとわたしは解釈している。これを採用するなら自閉症は「父の名による欠如のもたらし」は正常に経過したが「鏡像関係の組み込み」を失敗した個体だ、となる。
どうだろうか。
この片方ずつが不全だった場合で、どういった症状になるか思考実験し、ママさんに「これがADHDでこれがアスペ」って説明したら、「いやー違うなー」と言われた。ママさんの会にはADHD児童もいる。
なので間違っているのだろう。理屈が間違っているのか、仮想症状が間違っているのか。
これおもしろいと思ったけど確かに自分でも違うなと思ったので報告だけにしておく。
わたしが思ったことは、わたしがそう思ったという意味で、間違いではない。他人がそう思ってないという点で、間違いだろう。
他人が物であればいいのだ。そうすれば、わたしの思考に組み込まれる。外部から罵倒する脳内野次馬にならない。
わたしはこうやって脳内野次馬を虐殺しているんだよ。それはこれを読んでいるあなたたちにも意味連鎖されるだろう。
そうしないと、混乱していて清明な世界を実況できない。
しかし、あなたたち脳内野次馬がいるから、正常人に伝わる言葉になるのだと思う。
ただしその言葉は、虐殺を繰り返していくうちに、同じことを言っているだけになる。リフレインになる。
リフレインになると実況として不正確になる。
この実況を正常人たちにも正しく伝わる言葉にするために、あなたたち、わたしの脳内で殺されてくださいね。
死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが死ぬまで。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや詩でもなくなる。
物としての言葉の痙攣。ランダ劇の舞踏。
だっ にりぅむ(ぅいひ) いてぃぅもきにだむつぃいでぁ(っ)す
ほら、イミフでしょ? これ適当に打ったんじゃないのよ。ちゃんと観察しながら打ったの。
弱いけどね。生まれたばかりの目も明いてない子犬がするような痙攣。
痙攣。
死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが死ぬまで。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや詩でもなくなる。
物としての言葉の痙攣。
だっ
うんこもりもり。
ママさんも脳内野次馬の一人にすぎないんだよな。
アルトーは馬鹿だよ。小笠原晋也より馬鹿。
こんなの、
震えてるよね? 生まれたばかりの子犬って震えてるよね? わたしの記憶間違ってないよね?
怖い。
キモ。
だっ だっ ……だーん、ぼよよん、ぼよよん、ってなんだっけ。これか、なついな。
主語に述語がぶら下がっているのではない。主語と述語は並列に存在する。しかし、主観世界において、述語的世界がまず棄却されてから言葉を覚えるため、名詞を先に覚えることとなる。したがって、主語に述語がぶら下がっているという固定的感覚が生じる。
棄却されていた述語的世界が回帰したのが、おそらく統合失調症の陽性症状だ。
ママさんに「発達障害の研究に進んだら?」とか言われたが、多分わたしが確かめたいのはこの述語的世界で、主語的なるものと述語的なるものが並存する世界だ。これは自閉症より統合失調症の方が顕著だろうと思う。
これなら混乱していて清明な世界の代わりになりそう。それを表現できそう。
人には全てある。原初には主語的なるものと述語的なるもの両方がある。生の主語と生の述語の世界。それは苦痛の世界だ。β要素の世界だ。
この全てを言語化しなければ、わたしは楽になれない。
わたしには全てある。あなたにも全てある。忘れてしまっただけ。苦痛だから。β要素だから。
わたしは未去勢者であり去勢済み主体である。女であり男である。メンヘラであり正常人である。自閉症であり統合失調症でありスキゾイドであり分裂病型人格障害でありヒステリーであり強迫症であり対人恐怖症であり鬱病であり神経症でありパニック障害でありてんかんであり健常である。心因性疾患であり内因性疾患であり器質因性疾患である。
パラノイアみてえ。
なんでこれがヌミノースなんだろうな。苦痛でしかないのに。デュシャンの『泉』でしかないのに。『泉』も足りないよな。今朝方まで新宿駅の便所で使われてたまだ臭いがついているのを持ってきていればどうなってただろう。ブルトンも言ってただろ? ここは苦痛に満ち溢れているって。
これがヌミノースになったらパラノイアなんだろうな。
うん、若干わたしパラノイアかもしれない。わたしはスキゾフレニーでありパラノイアである。
だけど、
痙攣
が
け、い、れ、ん、
でぃら(ぼっ) あ やた ん にぃぅら
違う。だめ。伝わらない。だめだめだめだめ。わたしは未去勢者でもないし去勢済み主体でもない。女でもないし男でもない。メンヘラでもないし正常人でもない。自閉症でもないし統合失調症でもないしスキゾイドでもないし分裂病型人格障害でもないしヒステリーでもないし強迫症でもないし対人恐怖症でもないし鬱病でもないし神経症でもないしパニック障害でもないしてんかんでもないし健常でもない。心因性疾患でもないし内因性疾患でもないし器質因性疾患でもない。スキゾフレニーでもないしパラノイアでもない。
死ね。
脳内野次馬のお前ら、死ね、死ね、死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが消滅するまで。
わたしには全てあって、全てない。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや
死んでる。消滅しないとだめ。
誰かがやらなきゃ、さ。という正常人的言い訳。いいじゃんこのくらい。
ね。ごめんね。ごめんなさい。
ごめんなさい。
ありがとう。
あなたたちは悪くない。わたしも悪くない。ただそうであるだけ。
ごめんなさい。
全てを含んだたった一語が寄生する。欠如させる。全てを含んでいるのだから、全てをなくさなければならない。
人間らしい心そのものが余剰物なんじゃないか?
父の名をそのままそうであるものとして観察するならば、消滅するしかない。死ぬのではない。死んでも死体が残る。むしろ死と逆だ。消滅して生きる。
わかっている。わかっていない。
単にそれだけなのに、それだけのことを表す一語がなぜないのだろう?
ごめんなさい。
劇的じゃなく、むしろデュシャンの『泉』っぽい方。
足りない。ありすぎる。いや、『泉』が。
ああもう。切れっ端でいいのに。いや、『泉』じゃなくて。わたし? じゃないな。なんだろう。
でもわたしでいいや、としたのが水商売キャラ。
無駄な文章に見える? わたしはちょっとわかったけどな。わたしの言葉だし。お出汁。って「ですしおすし」の次にどう?
ダイジョブダイジョブ。
一瞬気い失いそうになったけど。
眠いだけか。
ママさんとこでぎゃーぎゃーやってる時、なんか頭の中で糸が切れたような感覚があった。「プチン」とはいかなかったが、やらかしたあとで「あ、なんか糸、というか網みたいなのが切れてる」と思った。まあ単にちょっと寝不足だったこともあるんだけどさ。今は薬飲んで寝たよ、ダイジョブ。
「キレル」ということでは……なくはないのか、「キレル」と言われることではあろう。それでいいや。殺意がわたしの中に芽生えたのは確かだし。
そしてママさんに甘えた。メッセを送りながら、「あ、これいわゆる甘えだよな」と思いながらやった。ママさんがどう思っているか知らない。おそらく、無理矢理甘えだと解釈できるメッセは、甘えじゃない。それらのメッセはむしろ甘えられるかどうかのテストだ。いや、どこまで甘えていいか、か。
甘えとはなんだ? 本音を晒すことか。
わたしにとって本音を晒すこととは、思考実況することだ。わたしの言う「思考」には情動も含まれている。科学者の思考は、人格者になりたがる哲学者の思考などより、見た目は冷静に見えるのかもしれないが、情動的だと思っている。マッドサイエンティストの思考。
この情動も、一般的な意味での情動とは少し違うが、この記事を言い訳として参照してもらいたい。
ああそうか、その「感情論のすすめ」とか「学者ならぬ魔女論」は、人間性なんて煩わしいもの棄ててマッドサイエンティストになれば? って言っているのだな。マッドサイエンティストのすすめ。
この思考は混乱なのだろうか。一般的な意味では混乱だろう。他人から見れば混乱しているように見えるだろう。
しかしわたしにとっては、混乱というより清明である。わたしという世界を垣間見た瞬間である。
わたしにとって本音を晒すこととは、わたしの心としての本音を述べるのではなく、わたしという世界を晒すことだ。もちろん、普段ではわたしもわたしという世界を見ないようにしている。それは見るに耐えないものだからだ。一般的な頭で混乱している思考だと思えるからだ。
その世界にいることは、耐えられない。自分がばらばらになりそう。そういった世界に耐えながら、それを抱えながら、救いを求めて差し出す手が、殺意だ。
殺意を向ける相手は、抽選だ。誰でもいいわけではないが、誰でもいい。この場合ママさんではなかった。しかしママさんに向けても違和感のないものだ。
一般的な頭で、これは狂気と表現できるものだと思う。しかしわたしは狂ってなんかいない。わたしにとってこれは清明に見える。
ただそうであるものをただそうであるように見ている。
ただそうである世界を抱えながら言う「助けて」という言葉が、殺意である。
しかし、お前たちは「助けて」という言葉に、この清明な世界を「わたしから取り除いて」という、全く非論理的な思い込みを付加する。「わたしの苦しみをわかって」という言葉を「わたしから苦しみを取り除いて」と解釈する。
だからわたしは「助けて」と言えない。殺意と表現するしかない。
この殺意がママさんに向きそうで、ごめんね、と軽く思った。今。まあ実際に殺せやしないけどね。ネット上だしー。現住所探し出して、ってそういったことはするかもしれんが、やってるうちに冷めると思うよ。イトウさんもそうだった。
ばらばらの矢印。それぞれが自分勝手にブラウン運動している。これが束ねられたのが、それを表現する一つの言葉が、殺意。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
これが鏡で反射され一回転したのが、正常人の自己愛、対象愛だ。束ねられた矢印が、鏡で反射され自分に向かうのが自己愛。鏡に向かう束ねられた矢印に流されて再び外界に向かったのが対象愛。鏡で反射され自分に向かうシーンを図式化したのがL図だ。
臨床とは残酷なものである。分析主体にとっても、分析家にとっても。
この残酷さは、治療目的でするファルス再発見の瞬間ではない。転移がばらばらな矢印になる瞬間である。それは耐えられない。耐えられないから矢印を束ね直す。殺意になる場合がある。
小笠原晋也は馬鹿だったんだろうな。恋人とうまくいかなくなって、恋人を分析しはじめちゃったんだろうな。無意識的にかしらんが。しかも分析家として有能だったのもいけなかった。ファルス再発見という「分析治療中に訪れるあの感動的な一瞬」のさらに向こう側にある、現実に呑まれてしまった。
馬鹿だから、彼は分析家として有能だった。
ばらばらばらばらばらばら……。
うん、大丈夫だよ。この「助けて」という殺意、束ねられた矢印、すぐばらばらになるから。
わたしは助からないとうすうす気づいているから。
このブログでは発達障害のうち特に自閉症を取り扱っている。他のADHDや学習障害を軽視している、と言われたら、「そうだねえ」と言うしかない。わたしが興味を持てないだけである。
こう言うと、「わたしは自閉症に興味を持っている」ということになるが、これは一面的に正しいが、そうだとは限らない。わたしは精神分析による概念、去勢が示すものに興味を持っている。
わたしは未去勢者を、疾患としては、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害、自閉症だと考えている。とはいえ精神科の診断など各医師の裁量によるので、全てのその疾患者が未去勢者であるとは限らないが。スキゾイドなどは心因性も議論されているので、そうであるならば理屈的に未去勢者ではなくなる。また、アスペルガー症候群者などは、わたしの見たところ、未去勢者は多く見積もって六、七割だろう。三、四割は去勢済み主体である。カナー型であれば、九割は未去勢だろうと思うが。なので、「アスペルガー型とカナー型は、知的障害のあるなしの違いで、同じ障害である」という現在でも確立している要件が、なんらかの反証により覆されれば、つまりアスペルガー型とカナー型は別個の障害だと証明されれば、アスペルガー症候群は未去勢であるという理屈はなくなる。
ともかく、わたしは去勢を思考する上で有効な臨床例として未去勢者を観察しているのであり、その一種が自閉症である、ということだ。
であるならば、ADHDや学習障害は去勢済み主体である、となるが、それらの観察経験は非常に少ないのだが、ADHDは去勢済み主体である、という(分析ではない)印象を持ったことはある。学習障害は観察経験はないが、臨床例などを読んで、去勢済み主体だろうと予測している。
しかし、ADHDも学習障害も、発達になんらかの障害があるとは思っている。発達について、どの領野に障害があるのか、という問題である。自閉症、ADHD、学習障害のうち、精神分析が考える去勢という発達過程に不全があるのが、自閉症である、という話である。これはラカン派の自閉症解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」などからも裏づけられている。この解釈はわたしの臨床と合致するので支持できる。この記事などで述べた。
ADHDや学習障害は、去勢という発達領野以外に障害がある、という話にすぎない。たとえば学習障害は明確だろう。言語性ならば、読文などといった発達領野に障害があるが、去勢という発達領野には障害がない、となる。言語性学習障害は、有名人にはたとえばトム・クルーズがいるが、もちろんプライベートなど見たことはないが、とても去勢に不全があるとは思えない。ADHDもまた、おそらく去勢ではない領野で発達不全があるのだろう。
とはいえ、杉山登四郎などが言う「非言語性学習障害と広汎性発達障害は同一である」という論について、わたしの思考不足で短絡的な反論をこの記事やこの記事でしてしまっているが、支持できる部分もあるな、と今は思い直している。「言語性はどうかわからないが非言語性の学習障害は自閉症である」という杉山の論は、ラカン派による自閉症解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」と呼応する。鏡像関係とは想像的なものだ。非言語性とは想像的なことである。したがって、非言語性学習障害については、去勢不全を見られる個体も多いだろう、と推測できる。すまんね杉山翁。
ただし、学習障害とは表面的な学習能力の不全から診断される。このアプローチだと精神分析の去勢という概念にまで届かないとわたしは考える。「学習」という言葉が引っかかってるだけか。それは「学習」ではない。むしろ「刻印」である。「刻印」でもないけどなあ、「学習」と比べたら、って話で。いやま、統合失調症の思考盗聴などすら「学習」と言い張るなら「学習」でいいやとは思うけど。
つまるところ何が言いたいのかというと、わたしはADHDや学習障害を研究対象にしていないのである。わたしが興味ないだけなので、これを研究している学者をどうこう言うつもりもない。
そういう言い訳。
とか言いながらママさんとADHDについて話をしていたのだが、去勢不全と言えるかもな、とか思ってきた。去勢済み主体の疾患だとなべて神経症になるからなー、ラカン論は。こういうところ不便ね。
むしろさ、去勢って精神分析のエポケー地点じゃん? 「女(ファルスの存在しない人間、すなわち未去勢者)は存在しない」わけだから。で、去勢済み主体について精緻に語った論なわけでしょ? ならば、逆に使えば、未去勢の表面は語れるんじゃないの? いやこの表面って内面の表面って意味でややこしいんだけど。むしろ行動主義心理学などは内面を排除した表面だけを語っているわけじゃん。内面の表面を付加する理屈としては有効となるんじゃないかい?
んー。
知的障害者でも去勢されてるんだよな。鏡像関係の組み込みは成功している。自閉症当事者が同じ施設にいる知的障害者を自分と違うと思うことはよくあるし、そもそも自閉症の研究が、知的障害者群の中で特殊な症状を示していた個体たちを、自閉症としたのがはじまりだと記憶している。知的障害と自閉症という疾患は別物だという考えから、自閉症スペクトラムは知的障害の症状の重さと自閉症の症状の重さを縦軸と横軸にしている。
ADHDに戻ろう。ラカン派によれば、去勢には二つの過程がある。「父の名による欠如のもたらし」と「鏡像関係の組み込み」だ。順序はない。うわーオイディプスに回収されるわなこりゃ。ガタリはこれをアンチしてたのか。この時乳児は生後一年やそこらなんだからいい加減父母から離れてもいいわな、確かに。
同じ去勢不全でも、自閉症とADHDではこの二つの過程に不全の差があるのではないか、と思ったわけだ。
斎藤の自閉症に関する論文で、彼は「(自閉症は)排除はしているだろう」と述べている。これは正しくは「父の名を排除していないだろう」という意味だとわたしは解釈している。これを採用するなら自閉症は「父の名による欠如のもたらし」は正常に経過したが「鏡像関係の組み込み」を失敗した個体だ、となる。
どうだろうか。
この片方ずつが不全だった場合で、どういった症状になるか思考実験し、ママさんに「これがADHDでこれがアスペ」って説明したら、「いやー違うなー」と言われた。ママさんの会にはADHD児童もいる。
なので間違っているのだろう。理屈が間違っているのか、仮想症状が間違っているのか。
これおもしろいと思ったけど確かに自分でも違うなと思ったので報告だけにしておく。
わたしが思ったことは、わたしがそう思ったという意味で、間違いではない。他人がそう思ってないという点で、間違いだろう。
他人が物であればいいのだ。そうすれば、わたしの思考に組み込まれる。外部から罵倒する脳内野次馬にならない。
わたしはこうやって脳内野次馬を虐殺しているんだよ。それはこれを読んでいるあなたたちにも意味連鎖されるだろう。
そうしないと、混乱していて清明な世界を実況できない。
しかし、あなたたち脳内野次馬がいるから、正常人に伝わる言葉になるのだと思う。
ただしその言葉は、虐殺を繰り返していくうちに、同じことを言っているだけになる。リフレインになる。
リフレインになると実況として不正確になる。
この実況を正常人たちにも正しく伝わる言葉にするために、あなたたち、わたしの脳内で殺されてくださいね。
死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが死ぬまで。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや詩でもなくなる。
物としての言葉の痙攣。ランダ劇の舞踏。
だっ にりぅむ(ぅいひ) いてぃぅもきにだむつぃいでぁ(っ)す
ほら、イミフでしょ? これ適当に打ったんじゃないのよ。ちゃんと観察しながら打ったの。
弱いけどね。生まれたばかりの目も明いてない子犬がするような痙攣。
痙攣。
死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが死ぬまで。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや詩でもなくなる。
物としての言葉の痙攣。
だっ
うんこもりもり。
ママさんも脳内野次馬の一人にすぎないんだよな。
アルトーは馬鹿だよ。小笠原晋也より馬鹿。
こんなの、
震えてるよね? 生まれたばかりの子犬って震えてるよね? わたしの記憶間違ってないよね?
怖い。
キモ。
だっ だっ ……だーん、ぼよよん、ぼよよん、ってなんだっけ。これか、なついな。
主語に述語がぶら下がっているのではない。主語と述語は並列に存在する。しかし、主観世界において、述語的世界がまず棄却されてから言葉を覚えるため、名詞を先に覚えることとなる。したがって、主語に述語がぶら下がっているという固定的感覚が生じる。
棄却されていた述語的世界が回帰したのが、おそらく統合失調症の陽性症状だ。
ママさんに「発達障害の研究に進んだら?」とか言われたが、多分わたしが確かめたいのはこの述語的世界で、主語的なるものと述語的なるものが並存する世界だ。これは自閉症より統合失調症の方が顕著だろうと思う。
これなら混乱していて清明な世界の代わりになりそう。それを表現できそう。
人には全てある。原初には主語的なるものと述語的なるもの両方がある。生の主語と生の述語の世界。それは苦痛の世界だ。β要素の世界だ。
この全てを言語化しなければ、わたしは楽になれない。
わたしには全てある。あなたにも全てある。忘れてしまっただけ。苦痛だから。β要素だから。
わたしは未去勢者であり去勢済み主体である。女であり男である。メンヘラであり正常人である。自閉症であり統合失調症でありスキゾイドであり分裂病型人格障害でありヒステリーであり強迫症であり対人恐怖症であり鬱病であり神経症でありパニック障害でありてんかんであり健常である。心因性疾患であり内因性疾患であり器質因性疾患である。
パラノイアみてえ。
なんでこれがヌミノースなんだろうな。苦痛でしかないのに。デュシャンの『泉』でしかないのに。『泉』も足りないよな。今朝方まで新宿駅の便所で使われてたまだ臭いがついているのを持ってきていればどうなってただろう。ブルトンも言ってただろ? ここは苦痛に満ち溢れているって。
これがヌミノースになったらパラノイアなんだろうな。
うん、若干わたしパラノイアかもしれない。わたしはスキゾフレニーでありパラノイアである。
だけど、
痙攣
が
け、い、れ、ん、
でぃら(ぼっ) あ やた ん にぃぅら
違う。だめ。伝わらない。だめだめだめだめ。わたしは未去勢者でもないし去勢済み主体でもない。女でもないし男でもない。メンヘラでもないし正常人でもない。自閉症でもないし統合失調症でもないしスキゾイドでもないし分裂病型人格障害でもないしヒステリーでもないし強迫症でもないし対人恐怖症でもないし鬱病でもないし神経症でもないしパニック障害でもないしてんかんでもないし健常でもない。心因性疾患でもないし内因性疾患でもないし器質因性疾患でもない。スキゾフレニーでもないしパラノイアでもない。
死ね。
脳内野次馬のお前ら、死ね、死ね、死ね、とは言わないが、立ち止まってくれ。もうちょっと待ってくれ。
わたしが消滅するまで。
わたしには全てあって、全てない。
この世界をそのまま言葉にすれば、それはもはや
死んでる。消滅しないとだめ。
誰かがやらなきゃ、さ。という正常人的言い訳。いいじゃんこのくらい。
ね。ごめんね。ごめんなさい。
ごめんなさい。
ありがとう。
あなたたちは悪くない。わたしも悪くない。ただそうであるだけ。
ごめんなさい。
全てを含んだたった一語が寄生する。欠如させる。全てを含んでいるのだから、全てをなくさなければならない。
人間らしい心そのものが余剰物なんじゃないか?
父の名をそのままそうであるものとして観察するならば、消滅するしかない。死ぬのではない。死んでも死体が残る。むしろ死と逆だ。消滅して生きる。
わかっている。わかっていない。
単にそれだけなのに、それだけのことを表す一語がなぜないのだろう?
ごめんなさい。
劇的じゃなく、むしろデュシャンの『泉』っぽい方。
足りない。ありすぎる。いや、『泉』が。
ああもう。切れっ端でいいのに。いや、『泉』じゃなくて。わたし? じゃないな。なんだろう。
でもわたしでいいや、としたのが水商売キャラ。
無駄な文章に見える? わたしはちょっとわかったけどな。わたしの言葉だし。お出汁。って「ですしおすし」の次にどう?
ダイジョブダイジョブ。
一瞬気い失いそうになったけど。
眠いだけか。