そのものという正しさ
2010/02/14/Sun
この記事。わたしもほめられてもあまり嬉しくない。いや、嬉しくないことはないが、ぎこちなくなる。ブログはじめた当初も妖怪紳士にこう笑われたほどだ。
「脂さんってほんと好意的なコメントに返信するの下手ですね」
勉強にしてもそうだ。ほめられたくてしていたわけじゃない。そう思われるのもいやだった。演劇でもそうだ。
でもわたしは、ほめられて喜んだ記憶がある。観客として喜ぶわたしを見ている記憶がある。
役者で子供の演技がほめられたのはここでも書いた。しかしわたしは、ほめられること自体が嬉しかったのではない。演技できたことが嬉しかった。だから、共演者の女子中学生の同級生が、わたしの役について「あの子どこ中?」と彼女に聞いたらしいのだが、それを聞いて嬉しかった。二十歳すぎのババアが中学生と間違われたのが嬉しかった。
多分、「正しさ」だと思う。正義感とかそういうものじゃない正しさ。数学の証明問題の正解のような正しさ。そこにあるものをそのまま伝えるという正しさ。
この正しさを実行しようとするなら、自分があってはいけない。自分があると、そこにあるものを自分で改竄してしまうからである。
この正しさをほめてくれるなら、いや、ほめてくれなくても、正しいと認めてくれたなら、嬉しいのだ。
そこにあるものを、ただそこにあるとする正しさ。
そうであるものを、ただそうであるとする正しさ。
そのままという正しさ。そのものという正しさ。
この正しさのために、自分があってはならないのだ。
言語もイメージも、あってはならないのだ。
もう一度言うが、これは社会正義などといった意味では決してない。
「私の正義は、正義じゃないらしい。」
嘘だ。
「秋風」か。
=====
風はきまぐれ 口がうまいと知ってるわ
ピエロみたいにふざけるだけよ 本気じゃない
=====
自分が「秋風」になればなんて思いもつかなかった。
わたしは「顔」を求めていた。心、体、全部棄ててあの子になりたかった。
でも、「顔」が、そのものという正しさを歪曲する。
「顔」がないと、言葉はどこまでも発散する。風はどこまでも広がっていく。
秋風の言葉。
「そこにいていいよ」という言葉。
デュシャンの『泉』に浸かってていいよという甘い言葉。
こんなの。
やっぱりアルトーは馬鹿だ。
こんなのに。
地上の全てのものを無意味に帰す秋風。でも彼はピエロだから、嘘をつける。意味という嘘をつける。
嘘だ。
嘘を教えて。
わたしの納得できる嘘を。
掘り進めても、宝物を発見するどころか、穴に自分が落ちている。
ふと見上げれば、地上は遠くなっている。
嘘の宝箱。
宝箱なんてなかった。
みんな「ある」って嘘ついてるだけだった。
わかったから。
わかったから、嘘の宝箱がどこにあるか教えて。
またママさんと、メッセだから非公開だが、やりあってる。
なんだろう。この人。一発診断で「キモイ人種」ってなるのに、喋ってしまう。無知だしツレション臭ばりばりだし、わたしが一番嫌いな「去勢済み無知ババア」だ。分析的には。
なのにそうじゃない。
だから余計に疲れる。
ああそうか、あの人もこのトラップにひっかかったんだろうな。
ほどほどにしよう。
わたしは解釈機械だ。わたしは解釈機械だ。わたしは解釈機械だ。
ああ、とか言っててやっちゃったよ(メッセで)。
わかった。『アンチ・オイディプス』の「語る主体」は、ナイーブすぎるんだ。中二病だ。潔癖症。理想に酔ってる。
だからアルトーの馬鹿さに気づけない。
馬鹿だからああいうすごい文章を書けたのだと。
そこはデュシャンの『泉』なんだよ。
ガタリみたいな包茎短小が、小文字の倒錯者が目をきらきらさせて語るようなところじゃないんだよ。
やっぱガタリは死ね。死んでるけど。
「脂さんってほんと好意的なコメントに返信するの下手ですね」
勉強にしてもそうだ。ほめられたくてしていたわけじゃない。そう思われるのもいやだった。演劇でもそうだ。
でもわたしは、ほめられて喜んだ記憶がある。観客として喜ぶわたしを見ている記憶がある。
役者で子供の演技がほめられたのはここでも書いた。しかしわたしは、ほめられること自体が嬉しかったのではない。演技できたことが嬉しかった。だから、共演者の女子中学生の同級生が、わたしの役について「あの子どこ中?」と彼女に聞いたらしいのだが、それを聞いて嬉しかった。二十歳すぎのババアが中学生と間違われたのが嬉しかった。
多分、「正しさ」だと思う。正義感とかそういうものじゃない正しさ。数学の証明問題の正解のような正しさ。そこにあるものをそのまま伝えるという正しさ。
この正しさを実行しようとするなら、自分があってはいけない。自分があると、そこにあるものを自分で改竄してしまうからである。
この正しさをほめてくれるなら、いや、ほめてくれなくても、正しいと認めてくれたなら、嬉しいのだ。
そこにあるものを、ただそこにあるとする正しさ。
そうであるものを、ただそうであるとする正しさ。
そのままという正しさ。そのものという正しさ。
この正しさのために、自分があってはならないのだ。
言語もイメージも、あってはならないのだ。
もう一度言うが、これは社会正義などといった意味では決してない。
「私の正義は、正義じゃないらしい。」
嘘だ。
「秋風」か。
=====
風はきまぐれ 口がうまいと知ってるわ
ピエロみたいにふざけるだけよ 本気じゃない
=====
自分が「秋風」になればなんて思いもつかなかった。
わたしは「顔」を求めていた。心、体、全部棄ててあの子になりたかった。
でも、「顔」が、そのものという正しさを歪曲する。
「顔」がないと、言葉はどこまでも発散する。風はどこまでも広がっていく。
秋風の言葉。
「そこにいていいよ」という言葉。
デュシャンの『泉』に浸かってていいよという甘い言葉。
こんなの。
やっぱりアルトーは馬鹿だ。
こんなのに。
地上の全てのものを無意味に帰す秋風。でも彼はピエロだから、嘘をつける。意味という嘘をつける。
嘘だ。
嘘を教えて。
わたしの納得できる嘘を。
掘り進めても、宝物を発見するどころか、穴に自分が落ちている。
ふと見上げれば、地上は遠くなっている。
嘘の宝箱。
宝箱なんてなかった。
みんな「ある」って嘘ついてるだけだった。
わかったから。
わかったから、嘘の宝箱がどこにあるか教えて。
またママさんと、メッセだから非公開だが、やりあってる。
なんだろう。この人。一発診断で「キモイ人種」ってなるのに、喋ってしまう。無知だしツレション臭ばりばりだし、わたしが一番嫌いな「去勢済み無知ババア」だ。分析的には。
なのにそうじゃない。
だから余計に疲れる。
ああそうか、あの人もこのトラップにひっかかったんだろうな。
ほどほどにしよう。
わたしは解釈機械だ。わたしは解釈機械だ。わたしは解釈機械だ。
ああ、とか言っててやっちゃったよ(メッセで)。
わかった。『アンチ・オイディプス』の「語る主体」は、ナイーブすぎるんだ。中二病だ。潔癖症。理想に酔ってる。
だからアルトーの馬鹿さに気づけない。
馬鹿だからああいうすごい文章を書けたのだと。
そこはデュシャンの『泉』なんだよ。
ガタリみたいな包茎短小が、小文字の倒錯者が目をきらきらさせて語るようなところじゃないんだよ。
やっぱガタリは死ね。死んでるけど。