「彼は哲学者で、私は臨床家だからだ」
2010/03/02/Tue
ママさんところでしたコメント読み返してたらわたしいいこと言っているのでコピペ。
=====
なんでお前らって「この言葉はどういう意味か」って考えずに大雑把に喋れるの? それで話が通じていると思い込んでいるだけじゃないの? 相手も通じていると思い込んでいるから嘘の「お互い通じている」が成り立っているだけじゃないの?
通じてなんかいやしねえよ。
「正常人という精神疾患」の症状として「通じている」と思い込む傾向が強い個体が大多数だから、「通じている」と嘘の思い込みをすることで「お互い通じている」となっているだけだ。
嘘なんだよ。
思い込みなんだよ。
うん、これね、ラカンとデリダがやってた論争、「手紙は必ず宛先に届くかどうか」って話になるな。
ラカンは「手紙は宛先に必ず届く」とした。その理由を聞かれて「彼(デリダ)は哲学者で、私は臨床家だからだ」と答えた。
これは、正常という精神疾患の、「手紙は届く」と思い込む症状を述べていると考えなければならない。
無知の知を知らないバカがお前らだ。
無知の知ってな無知であることに開き直ることじゃねえぞ? 実際ソクラテスは無知じゃないだろうが。
いくら知識を得ても、まだ未知なるものがあるとする知だ。
お前らという精神疾患者に欠けているのが、この知だ。
=====
うん、そう。デリダの主張、「手紙は宛先に届くとは限らない」は、哲学的に言えば正しいんだ。
しかし、臨床家であるラカンはそれに反論しなければならない。正常という精神疾患の症状としてある、「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」妄想的な(パラノイアックな)症状を、抜きにしてデリダのようには言えないからだ。
だからラカンは「彼は哲学者で、私は臨床家だからだ」と言ったのだ。
だからこの論争は、双方正しい。
そもそもデリダの主張、「手紙は宛先に届くとは限らない」だけがあって、大多数の人種である正常人たちに「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」症状がなかったとしたら、文明はここまで発達しなかっただろう。いわばそういった状態は人間全てがコミュニケーション不全の障害を持っていることになるからだ。そんな集団において文明は発達しない。
しかし、哲学的に考えれば、コミュニケーション不全となるのが理屈上正しいのだ。デリダの言う通り。
とはいえ、デリダの主張だけだと片手落ちになってしまう。正常という精神疾患を棚上げしてしまうことになる。正常という精神疾患の特徴的症状として、自身の精神疾患的症状をなかなか認めたがらない、というのがある。いわゆる否認である。そもそも症状としてあるそれを助長することになる。
したがって、わたしはラカンの主張もデリダの主張も双方採用する。つまり、(ラカン的な意味で)現実的には「手紙は宛先に届くとは限らない」が、人間なる動物の大多数が罹患している正常という精神疾患の妄想症状として、「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」症状がある、という風に。
こういったコミュニケーション不全の障害の一種が自閉症なわけだが、こういった語り方なら、斎藤環の言う「自閉症とは哲学的障害だ」という言説を、門外漢でもイメージとして理解できるだろうか。
世の中全ての人間が、(コミュニケーション不全の障害の一つとして)たとえば自閉症だったら、文明はここまで発達しなかったろう。
簡単なことなのに。
こんな簡単なことなのに。
正常であることを一種の精神疾患だと考えればすぐわかることなのに。
正常人は傲慢だから、こんな簡単な視点変更ができない。
「私はキチガイなどではない」
なんてね。
正常人とは、生きている資格がない人間のことである。
そもそもわたしはテレビゲームの類が苦手である。『スーパーマリオ』やってたら、操作する方向に体や腕が動いてしまうような人である。死ぬと変な声をあげてしまう。
そんなわたしが最近ネトゲにはまっているのはこのブログでも何回か書いたが、廃人などと呼ばれるほどにはまっているわけではない。基本タダゲ厨だし。一タイトルだけ、オープンベータからやり込んで、準廃人と呼ばれてもいいかもしれないレベル帯で遊んでいたことはあるが。でもここでも書いている風にwikiとかあまり読まずにやる人なので、レベリングもとっても非効率なんだろう。
で、最近は、興味の向いたタイトルを、ちょこっと齧ってすぐやめる、というのが多い。すぐって言ってもある程度のレベルまではあげてるけど。
いろいろ考えたんだけど、わたしは「ネトゲ」と表現される作品群に興味があるのであって、ネトゲ難民たちがよく言うように定住先を探しているわけではない、ということに気がついた。
あれだ、このブログの前半はオタク文化分析がメインなんだが、それと同じことだな。オタク文化のある作品にはまるのではなく、オタク文化全般を考えている。それと同じように、ネトゲ全般を考えている。そんな風な態度で中坊さんとこでネトゲ話しているわけだが、まあどうでもいい話だ。
で思ったんだけどさ、モンスターが人間たちを殺すネトゲ作ってくんないかな。誰か。人間たちが悪者になっている。それだけなら普通にありそうだけど、愛や思いやりや正義なんてのはただの人間の幻想だ、なんて風にそれ自体をも敵にするネトゲ。「パーティプレイできなくなるじゃん」なんて言われるかもしれないが、そもそもネトゲのパーティなんて愛とか思いやりとかコミュニティ目的じゃないじゃん。レベリングのために効率的だからパーティプレイをする。パーティメンバーを利用しているだけ。あ、ごめんわたし基本野良パーティしかやんないからこんな風に思っちゃうのよ。まあそんな感じで、このテーマでもパーティプレイはありにできる、って話。
ウケると思うんだけどな。
敵である「ヒューマン」というモンスターは、プレイヤーが操作する「モンスター」たちから言って、非常に高度な文明を持っている。一人一人の体力は「モンスター」にかなわないが、集団行動が得意で、群れて「モンスター」たちを襲ってくる。まさしく普通のモブじゃん。
「モンスター」たちは「ヒューマン」たちに虐殺されるがままだったが、中には反抗しようと立ちあがる者もいた。
そんなありがちな流れでよい。
とにかく、いわゆる「人間性」と呼ばれるようなこと全てに疑義を呈するようなネトゲ。
誰か作ってー。
2ちゃんネトゲ板にネトゲ難民用のスレがあるんだが、まあそういう奴らが集うスレなので、話されているのは大体中坊さん曰く「ネトゲ一般」的なことなんだよな。
だからわたしはおもしろい。「ネトゲ一般」の勉強になる。
いえ、2ちゃんルール通りいまだ「半年ロムってる」だけですが。
こんなこと言うとまさに中二病だと思われるかもしれないが、いやまあそうだよなと自分で思うんだが、わたしの中二病はいまだ治ってないわけで、そういうのを中二病と別に思春期病って呼ぼう、なんてわたしは言っているんだが、まあどうでもよい話で、なんだっけ。
あーそうそう、こんな「人間性に疑義を呈すること」って、現代病じゃないか、みたいな風潮があるじゃん。たとえばさ、都市伝説みたいなので、「現代の子供は、飼っているカブトムシが死んだら、「ママ、このカブトムシどうやって電池入れ替えるの?」なんて言う」とかって。人間性の欠落みたいなのを、ゲームと関連させて語るような風潮。
馬鹿だよなー。「死」を理解できないことなんか、自閉症でも統合失調症でも特徴的な症状としてあるじゃないか。
もちろん、そんなことを言った子供が自閉症あるいは統合失調症だ、なんて言うわけではない。しかし、そもそも「人間にとっての死」など、後天的に学習するもので(それこそフォルト・ダー遊び)、知らない子供がいても普通だ、と考えるべきなんだよ。だからこの子供の発想は全然異常じゃない。現代病などではない。
異常なのは、お前らが罹患している正常というパラノイアックな精神疾患だ。それが悪化したのだ。人間性なるものが中心になりすぎているのだ。ただの妄想の産物でしかない人間性なるものを、現代の正常人たちはそうだと思い込むのが過剰になっている。妄想狂が悪化しているのだ。
だから相対的にそうじゃない症状が異常に見える。
お前たちのパラノイアックな精神疾患が悪化したからこそ、自然である症状が異常に見えてしまっているのだ。
この文章何度もコピペしているが、とても重要なことなのでもう一回コピペするな。この記事から。
=====
ただの「ヒステリーの語らい」になる。「愛されなかったから愛して」ってなっちゃう。男性的享楽に丸め込まれる。
(中略)
一方未去勢者はそもそも「愛」がよくわかってない、って話。このことは「愛されてこなかった」「愛されてない」ということとは全く異なる。それ自体がわかってないのだから、「愛されていたか愛されてなかったか」なんて問題は関係ない。そもそも「愛されていたか愛されてなかったか」って判断がつけられない(自分と他人の環境をいわば動物行動学的に比較観察して判断することはあろう)。
(中略)
この世は「愛」だらけだ。「愛」が過剰になっている。テレビや映画だってそうだ。社会だってそうだ。「愛」が足りないと思うならお前が愛されてないだけだ。「愛」を知っているせいで生じる不満だ。わたしは愛されているかどうかはわからない。しかし「愛」の形式は知っている。心ではよくわかってないが頭では常識程度にわかっている。いや常識以上だろう。何せ「精神分析は愛を学問できる唯一の学問」だから。
(中略)
現代は、「愛」を知らない人間が、いわば情性欠如者が増えている、などという浅薄な言説をよく聞くが、そうではない。「愛」を知っている人間が、自身のパラノイアックな精神疾患症状をエスカレートさせたがゆえ、情性欠如者がより異常に見えているのである。
こちらは何も変わっていない。おそらく太古の昔から変わっていない。人との心的交流が希薄なのだから、社会からの心的影響は受けにくいだろう。少なくともお前らより。
変わったのはお前らだ。「愛」は全人類が知っているものだというお前らの妄想がエスカレートしたのだ。だからより「愛」を知らない人間が異常に見える。お前らは情性欠如者を排除したがる。
=====
異常化しているのは、現代の若者などではなく、人間性を過剰に保持し続けてきたお前たち正常人の方ではないか?
お前たちのファルスが増長しているだけではないか?
お前たちが罹患している、正常という精神疾患の仮想的な病理としてのファルスが増長しすぎた結果、「情性欠如」的な、未去勢的な症状を示す個体に対し、去勢を施したがってしまうのではないか?
人間性を過剰に重視してしまう、そちらの方こそが現代病なのではないか?
もう一度胸に手をあてて考えてみろ。
異常化しているのは、どちらだ?
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なんでお前らって「この言葉はどういう意味か」って考えずに大雑把に喋れるの? それで話が通じていると思い込んでいるだけじゃないの? 相手も通じていると思い込んでいるから嘘の「お互い通じている」が成り立っているだけじゃないの?
通じてなんかいやしねえよ。
「正常人という精神疾患」の症状として「通じている」と思い込む傾向が強い個体が大多数だから、「通じている」と嘘の思い込みをすることで「お互い通じている」となっているだけだ。
嘘なんだよ。
思い込みなんだよ。
うん、これね、ラカンとデリダがやってた論争、「手紙は必ず宛先に届くかどうか」って話になるな。
ラカンは「手紙は宛先に必ず届く」とした。その理由を聞かれて「彼(デリダ)は哲学者で、私は臨床家だからだ」と答えた。
これは、正常という精神疾患の、「手紙は届く」と思い込む症状を述べていると考えなければならない。
無知の知を知らないバカがお前らだ。
無知の知ってな無知であることに開き直ることじゃねえぞ? 実際ソクラテスは無知じゃないだろうが。
いくら知識を得ても、まだ未知なるものがあるとする知だ。
お前らという精神疾患者に欠けているのが、この知だ。
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うん、そう。デリダの主張、「手紙は宛先に届くとは限らない」は、哲学的に言えば正しいんだ。
しかし、臨床家であるラカンはそれに反論しなければならない。正常という精神疾患の症状としてある、「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」妄想的な(パラノイアックな)症状を、抜きにしてデリダのようには言えないからだ。
だからラカンは「彼は哲学者で、私は臨床家だからだ」と言ったのだ。
だからこの論争は、双方正しい。
そもそもデリダの主張、「手紙は宛先に届くとは限らない」だけがあって、大多数の人種である正常人たちに「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」症状がなかったとしたら、文明はここまで発達しなかっただろう。いわばそういった状態は人間全てがコミュニケーション不全の障害を持っていることになるからだ。そんな集団において文明は発達しない。
しかし、哲学的に考えれば、コミュニケーション不全となるのが理屈上正しいのだ。デリダの言う通り。
とはいえ、デリダの主張だけだと片手落ちになってしまう。正常という精神疾患を棚上げしてしまうことになる。正常という精神疾患の特徴的症状として、自身の精神疾患的症状をなかなか認めたがらない、というのがある。いわゆる否認である。そもそも症状としてあるそれを助長することになる。
したがって、わたしはラカンの主張もデリダの主張も双方採用する。つまり、(ラカン的な意味で)現実的には「手紙は宛先に届くとは限らない」が、人間なる動物の大多数が罹患している正常という精神疾患の妄想症状として、「手紙を必ず宛先に届かせてしまう」症状がある、という風に。
こういったコミュニケーション不全の障害の一種が自閉症なわけだが、こういった語り方なら、斎藤環の言う「自閉症とは哲学的障害だ」という言説を、門外漢でもイメージとして理解できるだろうか。
世の中全ての人間が、(コミュニケーション不全の障害の一つとして)たとえば自閉症だったら、文明はここまで発達しなかったろう。
簡単なことなのに。
こんな簡単なことなのに。
正常であることを一種の精神疾患だと考えればすぐわかることなのに。
正常人は傲慢だから、こんな簡単な視点変更ができない。
「私はキチガイなどではない」
なんてね。
正常人とは、生きている資格がない人間のことである。
そもそもわたしはテレビゲームの類が苦手である。『スーパーマリオ』やってたら、操作する方向に体や腕が動いてしまうような人である。死ぬと変な声をあげてしまう。
そんなわたしが最近ネトゲにはまっているのはこのブログでも何回か書いたが、廃人などと呼ばれるほどにはまっているわけではない。基本タダゲ厨だし。一タイトルだけ、オープンベータからやり込んで、準廃人と呼ばれてもいいかもしれないレベル帯で遊んでいたことはあるが。でもここでも書いている風にwikiとかあまり読まずにやる人なので、レベリングもとっても非効率なんだろう。
で、最近は、興味の向いたタイトルを、ちょこっと齧ってすぐやめる、というのが多い。すぐって言ってもある程度のレベルまではあげてるけど。
いろいろ考えたんだけど、わたしは「ネトゲ」と表現される作品群に興味があるのであって、ネトゲ難民たちがよく言うように定住先を探しているわけではない、ということに気がついた。
あれだ、このブログの前半はオタク文化分析がメインなんだが、それと同じことだな。オタク文化のある作品にはまるのではなく、オタク文化全般を考えている。それと同じように、ネトゲ全般を考えている。そんな風な態度で中坊さんとこでネトゲ話しているわけだが、まあどうでもいい話だ。
で思ったんだけどさ、モンスターが人間たちを殺すネトゲ作ってくんないかな。誰か。人間たちが悪者になっている。それだけなら普通にありそうだけど、愛や思いやりや正義なんてのはただの人間の幻想だ、なんて風にそれ自体をも敵にするネトゲ。「パーティプレイできなくなるじゃん」なんて言われるかもしれないが、そもそもネトゲのパーティなんて愛とか思いやりとかコミュニティ目的じゃないじゃん。レベリングのために効率的だからパーティプレイをする。パーティメンバーを利用しているだけ。あ、ごめんわたし基本野良パーティしかやんないからこんな風に思っちゃうのよ。まあそんな感じで、このテーマでもパーティプレイはありにできる、って話。
ウケると思うんだけどな。
敵である「ヒューマン」というモンスターは、プレイヤーが操作する「モンスター」たちから言って、非常に高度な文明を持っている。一人一人の体力は「モンスター」にかなわないが、集団行動が得意で、群れて「モンスター」たちを襲ってくる。まさしく普通のモブじゃん。
「モンスター」たちは「ヒューマン」たちに虐殺されるがままだったが、中には反抗しようと立ちあがる者もいた。
そんなありがちな流れでよい。
とにかく、いわゆる「人間性」と呼ばれるようなこと全てに疑義を呈するようなネトゲ。
誰か作ってー。
2ちゃんネトゲ板にネトゲ難民用のスレがあるんだが、まあそういう奴らが集うスレなので、話されているのは大体中坊さん曰く「ネトゲ一般」的なことなんだよな。
だからわたしはおもしろい。「ネトゲ一般」の勉強になる。
いえ、2ちゃんルール通りいまだ「半年ロムってる」だけですが。
こんなこと言うとまさに中二病だと思われるかもしれないが、いやまあそうだよなと自分で思うんだが、わたしの中二病はいまだ治ってないわけで、そういうのを中二病と別に思春期病って呼ぼう、なんてわたしは言っているんだが、まあどうでもよい話で、なんだっけ。
あーそうそう、こんな「人間性に疑義を呈すること」って、現代病じゃないか、みたいな風潮があるじゃん。たとえばさ、都市伝説みたいなので、「現代の子供は、飼っているカブトムシが死んだら、「ママ、このカブトムシどうやって電池入れ替えるの?」なんて言う」とかって。人間性の欠落みたいなのを、ゲームと関連させて語るような風潮。
馬鹿だよなー。「死」を理解できないことなんか、自閉症でも統合失調症でも特徴的な症状としてあるじゃないか。
もちろん、そんなことを言った子供が自閉症あるいは統合失調症だ、なんて言うわけではない。しかし、そもそも「人間にとっての死」など、後天的に学習するもので(それこそフォルト・ダー遊び)、知らない子供がいても普通だ、と考えるべきなんだよ。だからこの子供の発想は全然異常じゃない。現代病などではない。
異常なのは、お前らが罹患している正常というパラノイアックな精神疾患だ。それが悪化したのだ。人間性なるものが中心になりすぎているのだ。ただの妄想の産物でしかない人間性なるものを、現代の正常人たちはそうだと思い込むのが過剰になっている。妄想狂が悪化しているのだ。
だから相対的にそうじゃない症状が異常に見える。
お前たちのパラノイアックな精神疾患が悪化したからこそ、自然である症状が異常に見えてしまっているのだ。
この文章何度もコピペしているが、とても重要なことなのでもう一回コピペするな。この記事から。
=====
ただの「ヒステリーの語らい」になる。「愛されなかったから愛して」ってなっちゃう。男性的享楽に丸め込まれる。
(中略)
一方未去勢者はそもそも「愛」がよくわかってない、って話。このことは「愛されてこなかった」「愛されてない」ということとは全く異なる。それ自体がわかってないのだから、「愛されていたか愛されてなかったか」なんて問題は関係ない。そもそも「愛されていたか愛されてなかったか」って判断がつけられない(自分と他人の環境をいわば動物行動学的に比較観察して判断することはあろう)。
(中略)
この世は「愛」だらけだ。「愛」が過剰になっている。テレビや映画だってそうだ。社会だってそうだ。「愛」が足りないと思うならお前が愛されてないだけだ。「愛」を知っているせいで生じる不満だ。わたしは愛されているかどうかはわからない。しかし「愛」の形式は知っている。心ではよくわかってないが頭では常識程度にわかっている。いや常識以上だろう。何せ「精神分析は愛を学問できる唯一の学問」だから。
(中略)
現代は、「愛」を知らない人間が、いわば情性欠如者が増えている、などという浅薄な言説をよく聞くが、そうではない。「愛」を知っている人間が、自身のパラノイアックな精神疾患症状をエスカレートさせたがゆえ、情性欠如者がより異常に見えているのである。
こちらは何も変わっていない。おそらく太古の昔から変わっていない。人との心的交流が希薄なのだから、社会からの心的影響は受けにくいだろう。少なくともお前らより。
変わったのはお前らだ。「愛」は全人類が知っているものだというお前らの妄想がエスカレートしたのだ。だからより「愛」を知らない人間が異常に見える。お前らは情性欠如者を排除したがる。
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異常化しているのは、現代の若者などではなく、人間性を過剰に保持し続けてきたお前たち正常人の方ではないか?
お前たちのファルスが増長しているだけではないか?
お前たちが罹患している、正常という精神疾患の仮想的な病理としてのファルスが増長しすぎた結果、「情性欠如」的な、未去勢的な症状を示す個体に対し、去勢を施したがってしまうのではないか?
人間性を過剰に重視してしまう、そちらの方こそが現代病なのではないか?
もう一度胸に手をあてて考えてみろ。
異常化しているのは、どちらだ?