馬鹿らしい
2010/03/07/Sun
なんかいろいろ馬鹿らしくなってきた。
わたしが感じ続けてきた違和感のようなもの、それを説明する道具として精神分析は有効だったのだが、なんで有効かというと、これまで一度も通じたことのないこの違和感の説明が、他人に通じるかもしれない、と思ったから、なのか、どうか。
そもそも説明などあまりしない。子供の頃はよくしたような気がするが、親にはそんな記憶が残っていないと思われる。つまりわたしが子供の頃した違和感の説明は、親はまったく違う意味として解釈しているわけだ。
「人には通じない」
このことがわかってからわたしはこの説明をしなくなった。こんなの説明しなくていいものだとわかった。
わかっていたはずなのだが。
説明しなくていいものだからって、ないものにできるわけがない。
そこそこ大人になってからこの違和感を表明すると、大体「社会に対する違和感」として解釈される。そんなものではない。意味そのものに対する違和感である。「(独我論的な)世界に存在することへの違和感」である。いや確かにこの違和感があれやこれやして違和感そのものの地点に背を向けて語ると、「社会に対する違和感」みたいな説明にはなるのだ。「意味そのものに対する違和感」とはラカン的な意味での「他者に対する違和感」だとなるからだ。
「わたしはあなたに違和感を持っています。あなたが特別なわけではありません。あなたもそのうちのただの一人である他者そのものに違和感があるのです」
こう説明して、お前たち正常人はどう解釈するのだろう?
きっと通じないのだろうな。
馬鹿らしい。
この記事のポッター母みたいな人がいると、わたしなんかは「傲慢な人」って思っちゃうんだろうな。多くの人たちが「優しい人」だと思う女性をわたしは「傲慢な人」だと思ってしまう。ああうん、これわたしの人生の特徴を示す文章になっているな。
そうじゃないか。いいところも悪いところも持っているその人について、彼女自身のいい悪いの判断基準を根拠に、「いいところだけを見る」という行動をしているわけだ。それが相手も受け入れられるということは、その判断基準を相手に押しつける手管が練達した人間である、ということだ。
つまり政治家のような人間。
うん、わたしがポッター母と接していたら、「政治家みたいな人間だ」と評価するかもしんないね、って話。
世間一般で言われる「優しい人」とは、わたしにとってはそういう人間だ。
いやま、わたしだってときどきはポッター母みたいな人間になりたい、と思うんだけどね。
それは快楽のためではない。わたしのようないいところも悪いところも並列に見る人間は、多くの人間から攻撃されるからだ。
攻撃を避けるために、内心ではいいところも悪いところも並列に見ているのだが、表面上、いいところだけしかない言動を取る。そういうことはままある。自己防衛として。
でも、わたしにとっていいところだと思ったところが、相手にとっていやなところだったりする。いやいいところだなんて思ってないな。いいところでも悪いところでもない、ただそうであるだけの部分。だからわたしも何も考えず話題に載せる。相手は怒る。不愉快に思う。
いいところか悪いところかという判断基準があやふやなのだ。いいところでもなく悪いところでもない部分が多すぎるだけ。人間一般より。
いいところでも悪いところでもないその部分を、感情的に言う場合もある。そういう時は相手にわたしが悪いところだと思っていると思われる。
そうではないのだ。
わたしにとっての好意とは不快なものだ。当然悪意も不快なものだ。
だから感情的に見られるだけ。いいか悪いかなんて判断はしていない。事前に。
そうか、これって一種の内言語になるのかな。この記事の。
わたしが感じ続けてきた違和感のようなもの、それを説明する道具として精神分析は有効だったのだが、なんで有効かというと、これまで一度も通じたことのないこの違和感の説明が、他人に通じるかもしれない、と思ったから、なのか、どうか。
そもそも説明などあまりしない。子供の頃はよくしたような気がするが、親にはそんな記憶が残っていないと思われる。つまりわたしが子供の頃した違和感の説明は、親はまったく違う意味として解釈しているわけだ。
「人には通じない」
このことがわかってからわたしはこの説明をしなくなった。こんなの説明しなくていいものだとわかった。
わかっていたはずなのだが。
説明しなくていいものだからって、ないものにできるわけがない。
そこそこ大人になってからこの違和感を表明すると、大体「社会に対する違和感」として解釈される。そんなものではない。意味そのものに対する違和感である。「(独我論的な)世界に存在することへの違和感」である。いや確かにこの違和感があれやこれやして違和感そのものの地点に背を向けて語ると、「社会に対する違和感」みたいな説明にはなるのだ。「意味そのものに対する違和感」とはラカン的な意味での「他者に対する違和感」だとなるからだ。
「わたしはあなたに違和感を持っています。あなたが特別なわけではありません。あなたもそのうちのただの一人である他者そのものに違和感があるのです」
こう説明して、お前たち正常人はどう解釈するのだろう?
きっと通じないのだろうな。
馬鹿らしい。
この記事のポッター母みたいな人がいると、わたしなんかは「傲慢な人」って思っちゃうんだろうな。多くの人たちが「優しい人」だと思う女性をわたしは「傲慢な人」だと思ってしまう。ああうん、これわたしの人生の特徴を示す文章になっているな。
そうじゃないか。いいところも悪いところも持っているその人について、彼女自身のいい悪いの判断基準を根拠に、「いいところだけを見る」という行動をしているわけだ。それが相手も受け入れられるということは、その判断基準を相手に押しつける手管が練達した人間である、ということだ。
つまり政治家のような人間。
うん、わたしがポッター母と接していたら、「政治家みたいな人間だ」と評価するかもしんないね、って話。
世間一般で言われる「優しい人」とは、わたしにとってはそういう人間だ。
いやま、わたしだってときどきはポッター母みたいな人間になりたい、と思うんだけどね。
それは快楽のためではない。わたしのようないいところも悪いところも並列に見る人間は、多くの人間から攻撃されるからだ。
攻撃を避けるために、内心ではいいところも悪いところも並列に見ているのだが、表面上、いいところだけしかない言動を取る。そういうことはままある。自己防衛として。
でも、わたしにとっていいところだと思ったところが、相手にとっていやなところだったりする。いやいいところだなんて思ってないな。いいところでも悪いところでもない、ただそうであるだけの部分。だからわたしも何も考えず話題に載せる。相手は怒る。不愉快に思う。
いいところか悪いところかという判断基準があやふやなのだ。いいところでもなく悪いところでもない部分が多すぎるだけ。人間一般より。
いいところでも悪いところでもないその部分を、感情的に言う場合もある。そういう時は相手にわたしが悪いところだと思っていると思われる。
そうではないのだ。
わたしにとっての好意とは不快なものだ。当然悪意も不快なものだ。
だから感情的に見られるだけ。いいか悪いかなんて判断はしていない。事前に。
そうか、これって一種の内言語になるのかな。この記事の。