多重人格とヒステリー
2007/03/25/Sun
もっそい適当な論。
多重人格。解離性同一性障害ですね。
これよくわからんのです。私。どうも、他の解離性障害と(精神分析論的に)繋がらない。
というのは、複数の人格≒自我を「所有」するというところです。
その他の解離性障害はヒステリーに分類されていました。ヒステリーは今では精神障害の分類からは除外され、解離性障害などに解体されてしまいましたが、精神分析論から見るとフロイトの時代から重要な症状として扱われていました。ヒステリー研究とともに精神分析が幕を明けたと言えるのですね。
ヒステリーの精神分析論を紐解くと、心的外傷(性的虐待など。事実であるかどうかは問わない)が痕跡となり、それが耐え切れない享楽(対象aとかの領域ですね。他者との完全なる(象徴的・想像的・現実的)同一化。それは「死」の領域でもあります)を誘起します。それを宿した耐えられない表層が自我から分離して、その一点において耐え切れない享楽を目指す情動の過剰負荷(フロイトならリビドーの過剰負荷となりますね)とそれを恐怖する抑圧の、とてつもない葛藤・緊張が起こっているわけです。その分離した表層は心的外傷を受けた身体の部位が換喩されます。比喩的にいうなら腕に心的外傷を受けたなら腕に隣接する場所にヒステリー症状が表れるわけですね。分離した表層が隠喩的に変換(代理)されるならば、それは恐怖の対象になり、(象徴的)思考の内部にあるなら「無為」となり強迫症的な症状の原因となり、外部のものであれば恐怖症的な症状の原因となります。
一方、解離性同一性障害はどうでしょう?
彼らは交代人格という複数の自我を「所有」しています。その症状は確かに解離的とも言えますが、象徴的思考により複数の自我というものを「所有」できているのですね。
換喩とはイメージ主体の変換です。「隣接性」という言葉にも表れているように(隠喩は「類似性」などと表現されます)、視覚などのイメージの精神世界で変換が起こり、それを言葉が掴みあげたのが「換喩」です。ヒステリー、即ち解離性障害はイメージが主体となって病原が変換されたもの、と言えるでしょう。
確かに換喩ですから象徴的思考がそこにはあります。しかし複数の自我が、それぞれ一つの人格をまとめ上げている多重人格は、どうもヒステリーの換喩的変換の枠を超えているように思うのですね。複数の自我を「所有」する、即ち象徴界的ななんらかの因果が必要だと思われるのです。
で、もっそい簡単に思ったのが、パラノイアの妄想じゃないか、と思ったわけです。
ラカンは「人格とはパラノイアである」みたいなことまで言っています。
象徴的去勢の否認により他者との語らいを短絡してしまったのがパラノイアの妄想になります。「この人はこう思ってるに決まっている」と他者(自我でも可)の真意に揺るぎない自信を持っているわけです。しかし他者も「象徴界から抹消された主体」=/Sでありますから、真意なんてものはありません。自己言及の不完全性という奴ですね。自分が思った自分の真意とは象徴界=超自我の構造の中形成された幻想、言い訳に過ぎないのです。結果、パラノイアは裏切られます。パラノイアの構成要件である「拒絶」を受けるわけです。しかし自信は揺らぎのないものですからその拒絶を信じられません。真意という名のΦがあると信じています。そこで彼は自分の象徴的思考(言語的思考)、例えば論理などに頼ることで、その拒絶を否定しようとします。こうやってパラノイアの妄想は形成されていきます。
この、象徴的去勢の否認、即ち象徴的ファルスΦ(が「ある」ということ)の後付を、どうも多重人格もしているんじゃないかと思うのですね。
この象徴的ファルスの暗喩作用があるからこそ、人はその発言に一貫性を保てます。象徴界には欠如しているΦの暗喩作用が全てのS2即ち象徴界の構成要素(知や言語)に及んでいるのです。これが自我の象徴的同一性を可能にせしめているわけですね。
多重人格の場合も、ヒステリーと途中まで同じ精神構造を持っているとしたなら、「耐えられない表層」が主体から分離されます。そこにΦを後付することで、表層が新しい想像的自我を生むではないか、と思うのです。
よって、交代人格の言動は通常の自我と同じくΦの暗喩作用を受けることになります。交代人格一人一人の言動に同一性を保てるわけですね。
性的トラウマ(繰り返すが事実かどうかは関係ない)を原因とした、激しい葛藤の舞台である分離した「耐えられない表層」を、身体的に換喩的変換したのがヒステリー、思考の中に変換したのが強迫症、外界のものに隠喩的変換したのが恐怖症。であるならば、多重人格は「絶えられない表層」を象徴的ファルスのΦの後付によって「違う自我」に変換したもの、と言えるのではないでしょうか。違う自我=交代人格の同一性を後付のΦの暗喩作用によって保つ。そうすることで耐え切れない享楽、「死」と同値の「無」的な精神状態とも言えるべき領域から防衛しているのが解離性同一性障害なのではないでしょうか。
誤解を恐れずに暴論的な例を一つあげましょう。交代人格には傾向的に人格ジャンルの共通性があります。それは子供、老人、異性などです。それに集合的無意識などの元型を求めるのも構わないでしょう。それは一旦脇に置いておきます。それら交代人格は、元の人格が持つ固有イメージ、即ち自分の姿と現実的に差異があるにも関わらず、鏡を見ても平気です。「俺たちは内面にいるんだからな」と言わんばかりです。この言い分はパラノイアの妄想的な自己正当性の主張と相通ずるものがないでしょうか。
交代人格の種は分離した主体の表層ですから、それらに後付されるΦは(仮に)複数で構いません。症状的に他の人格の記憶がないことも、Φ同士の衝突を避けるためではないでしょうか。とはいえ複数の仮Φを生んだのは一つのΦです。それが抗うように交代人格同士の記憶を残している、という構造が考えられます。もしそうであるならば、治療(自我を統合する)においては、交代人格であろうと基本人格であろうと、彼が持つ他の人格の記憶が重要な鍵となるのではないでしょうか。
もちろんこの交代人格はヒステリーと同様葛藤の場所であります。その人格を治療者が抑圧しようとするなら、それは患者にとって望むことでもあります。「耐えられない」からこそ表層を分離して抑圧しているわけですから。つまり、症状の悪化に繋がるわけです。
治療法としては、比喩的にいうなら、複数の自我を(否定・抑圧するのではなく)一つの自我に「所有」させるという形を取らざるを得ないと思います。「所有」とは象徴的思考により可能になるので、自身が複数の自我を持っているということを言語的に納得させる、即ち精神分析的なカウンセリングが有効だと思われます。
象徴化はフロイトの糸車遊びを紐解けばわかるように、象徴的文脈がそこにない場合は「反復」させないといけません。ちょうどパブロフの犬が、反復することで笛の音を「食事だよ」という言語的シンボルと学習するように。なので、PTSDの治療などでも、トラウマを象徴的他者にせしめる即ち反復的なカウンセリングとなるわけですね。多重人格も同様のプロセスが有効なのではないでしょうか。
まあ簡単に言うと、ヒステリー的な他の解離症状と、パラノイア的な象徴的去勢の否認が混在しているのが、多重人格じゃないかと、ふと思ったのですね。もちろんこれらの精神分析論としての病理的なプロセスは別々です。しかし、各々のプロセスは反発しないんじゃないかと思うのです。
以上、ものごっつい適当な論ですが。
適当なので信じないでくださいねー。
まあ、文中のヒステリーやパラノイアに関わるところはきちんとフロイト・ラカン論を踏襲していますし、治療法も現状主流のものと矛盾することのない言い方をしていると思いますが……。
多重人格。解離性同一性障害ですね。
これよくわからんのです。私。どうも、他の解離性障害と(精神分析論的に)繋がらない。
というのは、複数の人格≒自我を「所有」するというところです。
その他の解離性障害はヒステリーに分類されていました。ヒステリーは今では精神障害の分類からは除外され、解離性障害などに解体されてしまいましたが、精神分析論から見るとフロイトの時代から重要な症状として扱われていました。ヒステリー研究とともに精神分析が幕を明けたと言えるのですね。
ヒステリーの精神分析論を紐解くと、心的外傷(性的虐待など。事実であるかどうかは問わない)が痕跡となり、それが耐え切れない享楽(対象aとかの領域ですね。他者との完全なる(象徴的・想像的・現実的)同一化。それは「死」の領域でもあります)を誘起します。それを宿した耐えられない表層が自我から分離して、その一点において耐え切れない享楽を目指す情動の過剰負荷(フロイトならリビドーの過剰負荷となりますね)とそれを恐怖する抑圧の、とてつもない葛藤・緊張が起こっているわけです。その分離した表層は心的外傷を受けた身体の部位が換喩されます。比喩的にいうなら腕に心的外傷を受けたなら腕に隣接する場所にヒステリー症状が表れるわけですね。分離した表層が隠喩的に変換(代理)されるならば、それは恐怖の対象になり、(象徴的)思考の内部にあるなら「無為」となり強迫症的な症状の原因となり、外部のものであれば恐怖症的な症状の原因となります。
一方、解離性同一性障害はどうでしょう?
彼らは交代人格という複数の自我を「所有」しています。その症状は確かに解離的とも言えますが、象徴的思考により複数の自我というものを「所有」できているのですね。
換喩とはイメージ主体の変換です。「隣接性」という言葉にも表れているように(隠喩は「類似性」などと表現されます)、視覚などのイメージの精神世界で変換が起こり、それを言葉が掴みあげたのが「換喩」です。ヒステリー、即ち解離性障害はイメージが主体となって病原が変換されたもの、と言えるでしょう。
確かに換喩ですから象徴的思考がそこにはあります。しかし複数の自我が、それぞれ一つの人格をまとめ上げている多重人格は、どうもヒステリーの換喩的変換の枠を超えているように思うのですね。複数の自我を「所有」する、即ち象徴界的ななんらかの因果が必要だと思われるのです。
で、もっそい簡単に思ったのが、パラノイアの妄想じゃないか、と思ったわけです。
ラカンは「人格とはパラノイアである」みたいなことまで言っています。
象徴的去勢の否認により他者との語らいを短絡してしまったのがパラノイアの妄想になります。「この人はこう思ってるに決まっている」と他者(自我でも可)の真意に揺るぎない自信を持っているわけです。しかし他者も「象徴界から抹消された主体」=/Sでありますから、真意なんてものはありません。自己言及の不完全性という奴ですね。自分が思った自分の真意とは象徴界=超自我の構造の中形成された幻想、言い訳に過ぎないのです。結果、パラノイアは裏切られます。パラノイアの構成要件である「拒絶」を受けるわけです。しかし自信は揺らぎのないものですからその拒絶を信じられません。真意という名のΦがあると信じています。そこで彼は自分の象徴的思考(言語的思考)、例えば論理などに頼ることで、その拒絶を否定しようとします。こうやってパラノイアの妄想は形成されていきます。
この、象徴的去勢の否認、即ち象徴的ファルスΦ(が「ある」ということ)の後付を、どうも多重人格もしているんじゃないかと思うのですね。
この象徴的ファルスの暗喩作用があるからこそ、人はその発言に一貫性を保てます。象徴界には欠如しているΦの暗喩作用が全てのS2即ち象徴界の構成要素(知や言語)に及んでいるのです。これが自我の象徴的同一性を可能にせしめているわけですね。
多重人格の場合も、ヒステリーと途中まで同じ精神構造を持っているとしたなら、「耐えられない表層」が主体から分離されます。そこにΦを後付することで、表層が新しい想像的自我を生むではないか、と思うのです。
よって、交代人格の言動は通常の自我と同じくΦの暗喩作用を受けることになります。交代人格一人一人の言動に同一性を保てるわけですね。
性的トラウマ(繰り返すが事実かどうかは関係ない)を原因とした、激しい葛藤の舞台である分離した「耐えられない表層」を、身体的に換喩的変換したのがヒステリー、思考の中に変換したのが強迫症、外界のものに隠喩的変換したのが恐怖症。であるならば、多重人格は「絶えられない表層」を象徴的ファルスのΦの後付によって「違う自我」に変換したもの、と言えるのではないでしょうか。違う自我=交代人格の同一性を後付のΦの暗喩作用によって保つ。そうすることで耐え切れない享楽、「死」と同値の「無」的な精神状態とも言えるべき領域から防衛しているのが解離性同一性障害なのではないでしょうか。
誤解を恐れずに暴論的な例を一つあげましょう。交代人格には傾向的に人格ジャンルの共通性があります。それは子供、老人、異性などです。それに集合的無意識などの元型を求めるのも構わないでしょう。それは一旦脇に置いておきます。それら交代人格は、元の人格が持つ固有イメージ、即ち自分の姿と現実的に差異があるにも関わらず、鏡を見ても平気です。「俺たちは内面にいるんだからな」と言わんばかりです。この言い分はパラノイアの妄想的な自己正当性の主張と相通ずるものがないでしょうか。
交代人格の種は分離した主体の表層ですから、それらに後付されるΦは(仮に)複数で構いません。症状的に他の人格の記憶がないことも、Φ同士の衝突を避けるためではないでしょうか。とはいえ複数の仮Φを生んだのは一つのΦです。それが抗うように交代人格同士の記憶を残している、という構造が考えられます。もしそうであるならば、治療(自我を統合する)においては、交代人格であろうと基本人格であろうと、彼が持つ他の人格の記憶が重要な鍵となるのではないでしょうか。
もちろんこの交代人格はヒステリーと同様葛藤の場所であります。その人格を治療者が抑圧しようとするなら、それは患者にとって望むことでもあります。「耐えられない」からこそ表層を分離して抑圧しているわけですから。つまり、症状の悪化に繋がるわけです。
治療法としては、比喩的にいうなら、複数の自我を(否定・抑圧するのではなく)一つの自我に「所有」させるという形を取らざるを得ないと思います。「所有」とは象徴的思考により可能になるので、自身が複数の自我を持っているということを言語的に納得させる、即ち精神分析的なカウンセリングが有効だと思われます。
象徴化はフロイトの糸車遊びを紐解けばわかるように、象徴的文脈がそこにない場合は「反復」させないといけません。ちょうどパブロフの犬が、反復することで笛の音を「食事だよ」という言語的シンボルと学習するように。なので、PTSDの治療などでも、トラウマを象徴的他者にせしめる即ち反復的なカウンセリングとなるわけですね。多重人格も同様のプロセスが有効なのではないでしょうか。
まあ簡単に言うと、ヒステリー的な他の解離症状と、パラノイア的な象徴的去勢の否認が混在しているのが、多重人格じゃないかと、ふと思ったのですね。もちろんこれらの精神分析論としての病理的なプロセスは別々です。しかし、各々のプロセスは反発しないんじゃないかと思うのです。
以上、ものごっつい適当な論ですが。
適当なので信じないでくださいねー。
まあ、文中のヒステリーやパラノイアに関わるところはきちんとフロイト・ラカン論を踏襲していますし、治療法も現状主流のものと矛盾することのない言い方をしていると思いますが……。