雨トーー苦
2010/04/12/Mon
「メンヘラがする心理士との学術的ケンカ」って考えると、そらパパくんはパート2になるのだな。パート1はこれな。今回のがはるかにボリュームあるけど。
で、まあ今回の議論、「経験知/言語知・形式知」って二項対立で考えると、いろいろ思ったことがある。つかショックを受けた。あたしってなんてチョーめんどくさいことやってるんだろう、と。いや、言語化が困難な経験知を言語化する、ってくらいはうすうすわかってたのよ。そのくらいじゃショックは受けない。そうじゃなくて、それをメンヘラの立場からやって、結果としての言語を心理士とか治療者側にぶつける、ってことが。いやさ、「言語化が困難」ってのは、共有化が困難、ってことなわけじゃん。共有化を考えなければ、つまりデムパ文章でいいならば、少なくともわたしが今感じている困難はなくなる。でも、わたしは共有化を完全に排除していない。共有化に執着しているわけではない。共有化がすべてになっているわけではない。一種の、なんだろう、条件反射みたいなものとして採用している。
でもこれってさ、患者本人ではない治療者が、なるべくその症状をそのものとして、なおかつ共有可能な言語として表現する苦労って、本来臨床家が担うべきことでしょ?
なんで患者のあたしがやらなならんのよ。
あほらし。
と思ったらなんかほんとにいろいろどうでもよくなった。なんかもう、こういうことだよな、と思った。勢いあまってブログ削除しようかとも思ったが、それすらどうでもいい。眠くなった。でも寝れない。
そんな感じ。
そっちにいるお前らにとって、わたしは存在しないんだよ。気にするな。目を向けるな。このブログに書かれてある言葉は単なる自然現象だ。雨だ。意味なんてない。何かしら意味があるだろうと思って読むからむかつくんだよ。ただの雨。誰のせいでもない雨。
たぶん今殺されても、痛みに反応はするだろうけれど、殺した相手は恨まない。どうでもいい。
無意味。無意味な文章。無意味な労力。
脱力系の無意味は本当の無意味じゃないってどっかに書いたけど、今が脱力系になるのか。二次的な無意味、だな。脱力系の無意味は。
禅の悟りってこういうことなんじゃね、と思った。パンピーがなんかすごいもののような妄想をなすりつけているだけで。
こんな状態が抑鬱なんだろうな。ああうん、会社で「なんでわたしはこんなに苦労しているんだ」って気づいておかしくなって精神科罹ったもんな。それで抑鬱状態って診断された。
「わたしばっかり」ってわけじゃないんだよ。「ずるい」とかじゃなくて、自分が苦労していることに気づいてしまっただけ。
そうなんだよな。どっかでも書いたけど、あたしって普通の人がいやがる仕事をやる。大道具やってたし、会社でも現場作業することが多かった。進んでやってるわけじゃない。好きでやってるわけじゃない。ほめてもらいたいからやってるわけじゃない。知らないうちにそうなってる。
で、しばらくしてはずれくじをひいてる自分に気づく。はずれくじだってわかってないんだよ。ひいた瞬間は。
経験知自体が、それを覚えるのが、楽しい、ってわけじゃないんだよな。楽しくはない。いやでもない、ってだけ。ただ自動的に、気づけば自分のやってきたことは経験知的な仕事が多くなっている。
なんかな。ほんとにな。
終わり。やめやめ。
でも気づくことは進歩だよな、一応。だから脱力系の無意味は二次的でいい、と。おkおk。
とか言いながら書いているうちに回復してきたので(さすが抑鬱アレルギー)、なんかこういうの書こう、と思ったことの概要だけでも書いておくか、と思ったけどそれ書いたらたぶん満足しちゃうんだろうな、と思ったので書かない。
あれだ。幸せなんて全部つくりごと。機械が故障しないのは不自然なこと。人間が、幸せな状態を、機械が故障しない状態を、当然だと思っているだけ。
そういう悟り。悟りじゃねえな。「思考する者なき思考」の言語化。
バーカバーカ。
形式化されれば、言語化されればすなわち共有化、って直結思考もおかしいよな。
問題は形式化、言語化じゃない。
共有できるかどうか。
そもそも小説ってひきこもるためにあるものじゃないだろうか。書く方も読む方も。
社会なんていう共有化を原則とした複雑怪奇なシステムからちょっとだけはなれて、共有化を否定するわけでもなく、ただそれが原則になってしまう理由、つまりそれは快楽的なことだ、とわからせる、精神分析療法のようなもの。
だから小説は、最終的に救われる。書く方も読む方も。ちょっとした休憩所。治外法権の場所。だけどそこで社会の、バカな大人たちが言う浅い大事さではなく、根っこにある大事さを学ぶ、と。
ひきこもりのためにあるが、ひきこもり治療のためでもある。それが小説、つか物語。
あ、暴論暴論。
物語じゃない小説もいっぱいあるしな。
これワロタ。
で、まあ今回の議論、「経験知/言語知・形式知」って二項対立で考えると、いろいろ思ったことがある。つかショックを受けた。あたしってなんてチョーめんどくさいことやってるんだろう、と。いや、言語化が困難な経験知を言語化する、ってくらいはうすうすわかってたのよ。そのくらいじゃショックは受けない。そうじゃなくて、それをメンヘラの立場からやって、結果としての言語を心理士とか治療者側にぶつける、ってことが。いやさ、「言語化が困難」ってのは、共有化が困難、ってことなわけじゃん。共有化を考えなければ、つまりデムパ文章でいいならば、少なくともわたしが今感じている困難はなくなる。でも、わたしは共有化を完全に排除していない。共有化に執着しているわけではない。共有化がすべてになっているわけではない。一種の、なんだろう、条件反射みたいなものとして採用している。
でもこれってさ、患者本人ではない治療者が、なるべくその症状をそのものとして、なおかつ共有可能な言語として表現する苦労って、本来臨床家が担うべきことでしょ?
なんで患者のあたしがやらなならんのよ。
あほらし。
と思ったらなんかほんとにいろいろどうでもよくなった。なんかもう、こういうことだよな、と思った。勢いあまってブログ削除しようかとも思ったが、それすらどうでもいい。眠くなった。でも寝れない。
そんな感じ。
そっちにいるお前らにとって、わたしは存在しないんだよ。気にするな。目を向けるな。このブログに書かれてある言葉は単なる自然現象だ。雨だ。意味なんてない。何かしら意味があるだろうと思って読むからむかつくんだよ。ただの雨。誰のせいでもない雨。
たぶん今殺されても、痛みに反応はするだろうけれど、殺した相手は恨まない。どうでもいい。
無意味。無意味な文章。無意味な労力。
脱力系の無意味は本当の無意味じゃないってどっかに書いたけど、今が脱力系になるのか。二次的な無意味、だな。脱力系の無意味は。
禅の悟りってこういうことなんじゃね、と思った。パンピーがなんかすごいもののような妄想をなすりつけているだけで。
こんな状態が抑鬱なんだろうな。ああうん、会社で「なんでわたしはこんなに苦労しているんだ」って気づいておかしくなって精神科罹ったもんな。それで抑鬱状態って診断された。
「わたしばっかり」ってわけじゃないんだよ。「ずるい」とかじゃなくて、自分が苦労していることに気づいてしまっただけ。
そうなんだよな。どっかでも書いたけど、あたしって普通の人がいやがる仕事をやる。大道具やってたし、会社でも現場作業することが多かった。進んでやってるわけじゃない。好きでやってるわけじゃない。ほめてもらいたいからやってるわけじゃない。知らないうちにそうなってる。
で、しばらくしてはずれくじをひいてる自分に気づく。はずれくじだってわかってないんだよ。ひいた瞬間は。
経験知自体が、それを覚えるのが、楽しい、ってわけじゃないんだよな。楽しくはない。いやでもない、ってだけ。ただ自動的に、気づけば自分のやってきたことは経験知的な仕事が多くなっている。
なんかな。ほんとにな。
終わり。やめやめ。
でも気づくことは進歩だよな、一応。だから脱力系の無意味は二次的でいい、と。おkおk。
とか言いながら書いているうちに回復してきたので(さすが抑鬱アレルギー)、なんかこういうの書こう、と思ったことの概要だけでも書いておくか、と思ったけどそれ書いたらたぶん満足しちゃうんだろうな、と思ったので書かない。
あれだ。幸せなんて全部つくりごと。機械が故障しないのは不自然なこと。人間が、幸せな状態を、機械が故障しない状態を、当然だと思っているだけ。
そういう悟り。悟りじゃねえな。「思考する者なき思考」の言語化。
バーカバーカ。
形式化されれば、言語化されればすなわち共有化、って直結思考もおかしいよな。
問題は形式化、言語化じゃない。
共有できるかどうか。
そもそも小説ってひきこもるためにあるものじゃないだろうか。書く方も読む方も。
社会なんていう共有化を原則とした複雑怪奇なシステムからちょっとだけはなれて、共有化を否定するわけでもなく、ただそれが原則になってしまう理由、つまりそれは快楽的なことだ、とわからせる、精神分析療法のようなもの。
だから小説は、最終的に救われる。書く方も読む方も。ちょっとした休憩所。治外法権の場所。だけどそこで社会の、バカな大人たちが言う浅い大事さではなく、根っこにある大事さを学ぶ、と。
ひきこもりのためにあるが、ひきこもり治療のためでもある。それが小説、つか物語。
あ、暴論暴論。
物語じゃない小説もいっぱいあるしな。
これワロタ。