ダイアローグとモノローグ
2006/11/09/Thu
モノローグ=独白。
これ演劇でも問題になりがちなところです。
独白ってリアリティないんですよねえ。ミュージカルでいきなり客席に向かって満面の笑みを浮かべて歌われるようなものです。
私はこういうの好きなんですが。
小説において、読者に語りかけるということは、読者からの返事はないのは確実なので、モノローグということになりますね。
「」閉じでない、地の文による会話形式というのは一人称では良く見かけますね。三人称でもまあありでしょう。地の文でキャラの思っている言葉を述べてそれが顔に出たのか違うキャラが答えるとか。
ということで、物語について、ダイアローグとモノローグという観点から掘り下げてみましょう。
物語というものをさかのぼっていくと大概ギリシャ悲劇にぶちあたります。
このギリシャ悲劇、今の演劇からは少し考えられないような上演形式をとっていました。詩を朗詠する詩劇だったんですね。
登場人物以外に、コロス=合唱隊というのがあるんですね。これが状況説明をしたり、観客に語りかけたり、物語に介入したりするんですが。
登場人物も基本はモノローグです。詩なんですから。だけど一部ダイアローグもあったようです。
私はこのコロスに、儀礼的性格、つまり呪術的効果があったように思うんですね。何人もの合わせた美しい声で美しい言葉で語りかけられる。呪術的作用というのがあれなら新興宗教がやる洗脳みたいなものと思ってください。神秘的作用があるわけですね。
さて、そんなギリシャ悲劇に世界最高の屁理屈じじいが関わってきます。ソクラテスです。
ソクラテスは理=ロゴスを大事に考えていました。そのロゴスを見出すためには、対話というのが一番重要になると考えていました。
これは正解なんですね。誤解の少ないものがロゴスなわけですから。対話なら誤解を解いていけあうわけです。
ソクラテスは悲劇詩人のエウリピデスと友人でした。ソクラテスに影響されたエウリピデスは、コロスやモノローグよりも、劇の中のダイアローグの比重を大きくしました。
それをニーチェがけちょんけちょんにけなしてたりします。
劇的なるものを失わせた張本人はソクラテスとエウリピデスだと。
この出発点を考えると、ダイアローグ=「理」ロゴスを担う役割で、モノローグ=劇的なるものを担う役割であった、というのがわかります。
時代は下り、ハムレットなどになると、自問自答=モノローグという形で、モノローグさえロゴスになってしまいます。
だけどこのロゴス的なモノローグと、ハムレットの陽狂というメタ手法により、観客は客観的視点にある自分がどこにいるのかわからなくなる、というのがハムレットの劇的作用の本質にあると思います。
ロゴスの上に立つ自分たちがハムレットの中の世界にいるのか、ハムレットが陽狂としている世界にいるのか、それとも観客席にいるのか。
主観と客観の間、後ろをみても物語。つまり幾重かの罠にはまって物語にひきずりこまれるわけです。
ここが「世界は劇場」というやつになると思ってます。
一方、会話は「理」だけではありませんよね。誤解とか関係なしにする会話。それを演劇で見出すのは、近代リアリズム演劇まで待たねばなりません。チェーホフですね。
彼は成り立っていない会話、一見すれ違っているような会話により、会話=ロゴスというものを破棄し、会話の中に劇的なるものを見出しました。
という感じですねー。
現代小説というのは、そういう視点からいうと近代リアリズム小説の枠を超えていないと思います。
これは私の考えですが、近代リアリズムって、本質は現実世界っぽい、ということではなく、ロゴス主義ということなんですね。
理屈にあった設定や、登場人物、物語というのは、説得力あるし、安心できるんです。なぜならそれがロゴスというものだからです。
そういう意味ではライトノベルはがちがちの近代リアリズムと呼べるでしょう。
まあ、ロゴス主義が行き渡ったからとはいえ劇的なものがなくなるわけではないです。
さっきの洗脳という話なら、ロゴスゆえに騙されるものだってあるわけですね。
霊能力者が使う、自分しか知らないはずの事柄を言い当てるとか。
これはロゴスゆえに成り立つ呪術的作用ともいえます。面接奇術ですね。
このロゴス主義的リアリズムから抜け出す突破口は、私はモノローグというところにあるんじゃないかな、とは思っていました。演劇で。
演劇でコロス的な仕掛け、呪術的というか洗脳みたいなことをやってみたいなー、と思って新興宗教を調べたこともあります。若気の至りです。
しかし、小説というのは、言葉でしか読者の前に姿を見せないんですね。たとえ作家が劇的なるものを感じていても、読者との通路は言葉しかないんです。
そこが小説の難しさにあたるのではないかなあ、と。
町田康さんなんかはそういうモノローグ形式が主体ですねえ。だからぐっとくるんですが。
自分の中の情念がないと、モノローグはきついのかな。
言葉の背中に情念を乗っけないと。詩ですねこりゃ。
私がどっかの掲示板に書いた言葉で、なんか気に入っている言葉を最後に。
『現代人のやじ馬というのは、街角で情感たっぷりに詠う吟遊詩人に対して、冷ややかな目で見てしまうものだ』
科学信仰、ロゴス主義になれた現代人は、ということですね。
物語に対して現代の読者は基本的にはやじ馬という立場にいるのです。
と、ここでモノローグと小説の文体としての一人称、私小説的な文体に思考が及んだのですが、それはまたの機会に……。
これ演劇でも問題になりがちなところです。
独白ってリアリティないんですよねえ。ミュージカルでいきなり客席に向かって満面の笑みを浮かべて歌われるようなものです。
私はこういうの好きなんですが。
小説において、読者に語りかけるということは、読者からの返事はないのは確実なので、モノローグということになりますね。
「」閉じでない、地の文による会話形式というのは一人称では良く見かけますね。三人称でもまあありでしょう。地の文でキャラの思っている言葉を述べてそれが顔に出たのか違うキャラが答えるとか。
ということで、物語について、ダイアローグとモノローグという観点から掘り下げてみましょう。
物語というものをさかのぼっていくと大概ギリシャ悲劇にぶちあたります。
このギリシャ悲劇、今の演劇からは少し考えられないような上演形式をとっていました。詩を朗詠する詩劇だったんですね。
登場人物以外に、コロス=合唱隊というのがあるんですね。これが状況説明をしたり、観客に語りかけたり、物語に介入したりするんですが。
登場人物も基本はモノローグです。詩なんですから。だけど一部ダイアローグもあったようです。
私はこのコロスに、儀礼的性格、つまり呪術的効果があったように思うんですね。何人もの合わせた美しい声で美しい言葉で語りかけられる。呪術的作用というのがあれなら新興宗教がやる洗脳みたいなものと思ってください。神秘的作用があるわけですね。
さて、そんなギリシャ悲劇に世界最高の屁理屈じじいが関わってきます。ソクラテスです。
ソクラテスは理=ロゴスを大事に考えていました。そのロゴスを見出すためには、対話というのが一番重要になると考えていました。
これは正解なんですね。誤解の少ないものがロゴスなわけですから。対話なら誤解を解いていけあうわけです。
ソクラテスは悲劇詩人のエウリピデスと友人でした。ソクラテスに影響されたエウリピデスは、コロスやモノローグよりも、劇の中のダイアローグの比重を大きくしました。
それをニーチェがけちょんけちょんにけなしてたりします。
劇的なるものを失わせた張本人はソクラテスとエウリピデスだと。
この出発点を考えると、ダイアローグ=「理」ロゴスを担う役割で、モノローグ=劇的なるものを担う役割であった、というのがわかります。
時代は下り、ハムレットなどになると、自問自答=モノローグという形で、モノローグさえロゴスになってしまいます。
だけどこのロゴス的なモノローグと、ハムレットの陽狂というメタ手法により、観客は客観的視点にある自分がどこにいるのかわからなくなる、というのがハムレットの劇的作用の本質にあると思います。
ロゴスの上に立つ自分たちがハムレットの中の世界にいるのか、ハムレットが陽狂としている世界にいるのか、それとも観客席にいるのか。
主観と客観の間、後ろをみても物語。つまり幾重かの罠にはまって物語にひきずりこまれるわけです。
ここが「世界は劇場」というやつになると思ってます。
一方、会話は「理」だけではありませんよね。誤解とか関係なしにする会話。それを演劇で見出すのは、近代リアリズム演劇まで待たねばなりません。チェーホフですね。
彼は成り立っていない会話、一見すれ違っているような会話により、会話=ロゴスというものを破棄し、会話の中に劇的なるものを見出しました。
という感じですねー。
現代小説というのは、そういう視点からいうと近代リアリズム小説の枠を超えていないと思います。
これは私の考えですが、近代リアリズムって、本質は現実世界っぽい、ということではなく、ロゴス主義ということなんですね。
理屈にあった設定や、登場人物、物語というのは、説得力あるし、安心できるんです。なぜならそれがロゴスというものだからです。
そういう意味ではライトノベルはがちがちの近代リアリズムと呼べるでしょう。
まあ、ロゴス主義が行き渡ったからとはいえ劇的なものがなくなるわけではないです。
さっきの洗脳という話なら、ロゴスゆえに騙されるものだってあるわけですね。
霊能力者が使う、自分しか知らないはずの事柄を言い当てるとか。
これはロゴスゆえに成り立つ呪術的作用ともいえます。面接奇術ですね。
このロゴス主義的リアリズムから抜け出す突破口は、私はモノローグというところにあるんじゃないかな、とは思っていました。演劇で。
演劇でコロス的な仕掛け、呪術的というか洗脳みたいなことをやってみたいなー、と思って新興宗教を調べたこともあります。若気の至りです。
しかし、小説というのは、言葉でしか読者の前に姿を見せないんですね。たとえ作家が劇的なるものを感じていても、読者との通路は言葉しかないんです。
そこが小説の難しさにあたるのではないかなあ、と。
町田康さんなんかはそういうモノローグ形式が主体ですねえ。だからぐっとくるんですが。
自分の中の情念がないと、モノローグはきついのかな。
言葉の背中に情念を乗っけないと。詩ですねこりゃ。
私がどっかの掲示板に書いた言葉で、なんか気に入っている言葉を最後に。
『現代人のやじ馬というのは、街角で情感たっぷりに詠う吟遊詩人に対して、冷ややかな目で見てしまうものだ』
科学信仰、ロゴス主義になれた現代人は、ということですね。
物語に対して現代の読者は基本的にはやじ馬という立場にいるのです。
と、ここでモノローグと小説の文体としての一人称、私小説的な文体に思考が及んだのですが、それはまたの機会に……。