渡る世間は「人」ばかり
2010/04/23/Fri
「無知の知」を「謙虚さが大事」って意味で使うバカが多すぎて困る。
孔孟思想大好きっ子な妖怪紳士くんでさえ「そういうバカはほっといていいでしょ(笑)」なんて言ってたが、一般的に「無知の知」って言葉を使用すると、「謙虚さが大事」という意味になるのも事実だ。
そうではない。
実際にソクラテスは無知ではない。だが謙虚さをもって「無知であること」を述べたのではない。
いくら知を持っていたとしても、知の対象にから見れば、ごくごく一部であり、ソクラテスレベルの知であっても、無知になる、ということだ。
ここに謙虚さなどない。あるのは無力感と知が無限に広がる可能性である。
なぜ謙虚でなければならないのだ? それはお前が他人の目を気にしているからだ。謙虚という態度はそういうものだろう?
ソクラテスは「無知の知」を問うたときむしろ他人の目を否定したではないか。彼はまったく謙虚ではないではないか。
お前の脳内に他者がひしめいているだけだ。むしろそれがお前を無知にしているのだ。
知と他者は本来関係ない。しかしお前が去勢済み主体であるがゆえに、シニフィアン化した知(すなわちS2、すなわち大文字の他者)だけを知だと思い込んでいるだけだ。
知そのものに他者というウイルスが入り込んでいるのだ。
だからお前の知には限界がある。無限に広がらない。
ソクラテスのエピソードをよく読んでみろ。そういう具体が隠れている。彼は他者の「ソクラテスは知者だ」という言葉を否定したのだ。
それは謙虚さゆえではまったくない。
むしろ謙虚さとは他者を尊重することじゃないか。
まったく逆だ。
お前のパラノイアックな正常という精神疾患が、そんなくだらない行間を読み込んでいるだけ。妄想をなすりつけているだけ。
ほんとバカだな、お前ら。
わたしこそが本当の無知だ。
また「迷子的不安」(ここのコメント欄など参照のこと)を覚える夢を見た。よく見てるから書くほどのものじゃないけど。
林の中のちっちゃい神社みたいなところ。掘っ立て小屋のような祠しかない。
わたしが言う。
「おばあちゃんちがどこかわからない」
隣にいたおばちゃん(現実の母ではないが、おそらく夢の設定でわたしの母になるんだろうな、と思った)がこう言う。
「おばあちゃんちはどっち?」
わたしは指差す。
おばちゃんは微笑みながらこう言う。
「どこにあるかわかってるじゃないか」
そうじゃない、とわたしは思う。大体の方向、大体のどこにあるかはわかっているが、そこに行けないのだ。いや行けなくないわけじゃない。たぶん行ける。道はわかっている。だけど、そういう意味で「どこかわからない」のではない。
おばちゃんとおばあちゃんちに向かう。細い路地。坂や階段が多い。道をラジコンカーが走る。その一部のように子供が走っている。
カルト宗教の方の祖父母んち近所がモチーフになっているのだろう。そのものではないが。いろいろ入り混じっている。
歩いていると、太い車道に出る。大型車が行き交うような。太いのに歩道がない。怖い、と思う。
近くにトンネルがある。短いトンネル。厚みのあるゲート。その手前に小道が交差している。
わたしは男になって、学者の助手みたいな人になっていた。学者は自分でフィールドワークしないような人。隣を歩いている。わたしは通訳みたいなもの。
おじいちゃん(現実の祖父ではないと思う)んちは、その手前の小道を行ったところにある、と説明する。
その小道は、途中で右半分が上り坂になって、残りが下り坂になっている。
おじいちゃんちは「上の方にある」。
だけど学者は「下の方にあるはず」と言う。おじいちゃんが下の方の道を歩いていったからだ。わたしも見た。
ならばそうなのだろう。
わたしの記憶には間違いないと思うが、下の方を行く。
こまごまとした路地。
わたしはわからなくなる。
学者は「道案内しているのは君だ。君のせいだ」と言う。
こういうことだよ、だから「おばあちゃんちがどこにあるかわからない」んだ。
わたしの祖父母は正常人だ。信じていることが少数派だっただけ。
どこにもたどりつけないわたしは、祖父母でもなく、カルトを攻撃する人たちでもない。
学者でもない。
学者を迷子にさせようとはしているが。
この「迷子的不安」は、周りに人がいないことからくるものではない。「さびしさ」ではない。
この「さびしさ」ではない「迷子的不安」を、どう表現したらいいのか、と考えると、宮崎駿の作品なんかがいい感じだ、と思う。『千と千尋の神隠し』の旅館の中や、『となりのトトロ』の森の中など。
そこで千やメイたちは「さびしさ」を覚えていただろうか?
「人がいないことからくるさびしさ」などではない、わくわく感にも似た不安を感じていただろう。
他にもある。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。あれは友引町、校舎の中、どこにいても迷子だ。夜中に買出しに行ったときの町。路地の向こうに風鈴屋が見える町。どんなに移動してももとの場所に戻ってしまう町。三階建てなのに四階建てになっている校舎。いくら階段をのぼってもおりても地階や屋上にたどりつけない校舎。学園祭前日という一日が永遠に繰り返される校舎。……って、まさにアンテ・フェストゥムじゃないか!
あの世界は確かラムの主観世界だって話だよな。ならばラムはスキゾフレニックだった、ってことになるな。
あの世界でラムは「さびしさ」を覚えていただろうか?
雑多である。猥雑である。常識では考えられないことが起こる。いやむしろ常識がそれを「常識では考えられないこと」にしている。
スキゾフレニックな迷子の森は雑多で猥雑で非常識だから、「さびしい」などという情感はもよおさない。
これがわたしの主張する「迷子的不安」である。
アニメばっかりになってしまったが、映画にもある。『転校生』や実写版『時をかける少女』などにも、うっすらとそれを感じた記憶がある。
ってこれ「尾道三部作」なんだよな。『さびしんぼう』も見たが、いまいち記憶は残っていない。「尾道三部作は全部見た」って記憶だけがある。
ここで、尾道という町が「迷子的不安」を感じさせる場所だ、なんて短絡的な考えはしないでほしい。おそらく、大林宣彦監督にとって、尾道という町は「迷子的不安」を感じさせる場所だった、という話だ。彼の主観世界において、「迷子的不安」の代理表象が尾道という町だった、という話である。
しかし、『さびしんぼう』というタイトルの通り、それを「さびしさ」に昇華(『アンチ・オイディプス』文脈なら劣化)させたがために、その作品における「迷子的不安」はなくなった、ということだろう。千やメイやラムが感じたような「さびしさ」などではない「迷子的不安」を、「人がいないからさびしい」という「一般的な迷子」にしてしまった。「不安」を「人」にしてしまった。
ここだよ。
大林宣彦は、アルトーの言う「詩人」に一歩近づいてはいたが、『さびしんぼう』でそこから離れてしまった、ということだ。実際それ以降の彼の作品は、わたしはつまらない。
このわたしが言う「迷子的不安」こそが、妄想分裂態勢(の名残)だと思うんだがなあ。
たぶん、だけど。
知がシニフィアン化されてない、他者化されてない、「生の知」しかないから、「迷子的不安」になる。
本当の無知とは、「人がいないからさびしい」というのではない、千やメイやラムのような迷子のことを指すのだ。
おわかり?
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
『さびしんぼう』のうぃきぺ。原作は「へんて子」なんだな。「さびしんぼう」なんて呼ぶからだめだったんだよ。
これがファロセントリストだよ。「優しさ」という言葉に表象代理されたファルスが「へんて子」を「さびしんぼう」って呼んじゃう。「さびしいんだろ?」って言いながら別にさびしくなんかない「へんて子」をレイプする。
気持ち悪いったらありゃしねえ。
「へんて子」の方が正しい。千もメイもラムも戸川純も「へんて子」だろ?
いやま、「恋愛映画を作りたい」っていうのが最初にあったのなら、そうしなきゃいけなかったんだろうがな。
ファルスがなければ恋愛は成り立たない。
あれだ、今蛭子さんと太川陽介の路線バスの旅っての見てるんだが、母親が好きでわたしも見るようになったんだよな、このシリーズ。
これも「田舎の人たちの人情」ってのがテーマになっているが、裏テーマとして「迷子的不安」があるように感じる。いや『千と千尋~』とかと比べたら全然希薄だけど。
それは確かに「さびしさ」と連接しやすい。されやすい。だから「人情旅」なんて作りになる。
だけどさ、そんなの添加物じゃん。後づけじゃん。
そうじゃないだろ、本質の方向にあるのは。
そうゆう話だ。
ファルスってなあいわば「男性性とはなんぞや」あるいは「大人であることとはなんぞや」って問いの答えの位置に仮設的においた記号なんだよな。だからファルスのない未去勢者ってえのは、女性であり子供である、となって、「ょぅι゛ょ」が象徴となる、と。
「ょぅι゛ょ」にちんちんぶち込んだだけなのが大林なら、宮崎は「ょぅι゛ょ」にスカルファックしてるレベルだ。一方押井は、てめえ自身が「ょぅι゛ょ」臭い。未去勢者という意味で。わたしは未去勢者の精神疾患症状としては、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害、自閉症が相当する、と考えているが、押井って若干スキゾイド臭がする。映像インタビュー見たことあるけど、まー明らかに「他者との心的距離が遠い」って感じだったもんな。
そだねー。だから押井は「売れる作品」を作れない。
今の方が彼らしいのかもな。
今思うと、「ょぅι゛ょ」ラムにこう言わせたのなんか、とってもキモイが押井自身の言葉のような気がする。たとえば「売れる作品」ばっか作らせようとする周りに対して。
「責任、取ってね」
孔孟思想大好きっ子な妖怪紳士くんでさえ「そういうバカはほっといていいでしょ(笑)」なんて言ってたが、一般的に「無知の知」って言葉を使用すると、「謙虚さが大事」という意味になるのも事実だ。
そうではない。
実際にソクラテスは無知ではない。だが謙虚さをもって「無知であること」を述べたのではない。
いくら知を持っていたとしても、知の対象にから見れば、ごくごく一部であり、ソクラテスレベルの知であっても、無知になる、ということだ。
ここに謙虚さなどない。あるのは無力感と知が無限に広がる可能性である。
なぜ謙虚でなければならないのだ? それはお前が他人の目を気にしているからだ。謙虚という態度はそういうものだろう?
ソクラテスは「無知の知」を問うたときむしろ他人の目を否定したではないか。彼はまったく謙虚ではないではないか。
お前の脳内に他者がひしめいているだけだ。むしろそれがお前を無知にしているのだ。
知と他者は本来関係ない。しかしお前が去勢済み主体であるがゆえに、シニフィアン化した知(すなわちS2、すなわち大文字の他者)だけを知だと思い込んでいるだけだ。
知そのものに他者というウイルスが入り込んでいるのだ。
だからお前の知には限界がある。無限に広がらない。
ソクラテスのエピソードをよく読んでみろ。そういう具体が隠れている。彼は他者の「ソクラテスは知者だ」という言葉を否定したのだ。
それは謙虚さゆえではまったくない。
むしろ謙虚さとは他者を尊重することじゃないか。
まったく逆だ。
お前のパラノイアックな正常という精神疾患が、そんなくだらない行間を読み込んでいるだけ。妄想をなすりつけているだけ。
ほんとバカだな、お前ら。
わたしこそが本当の無知だ。
また「迷子的不安」(ここのコメント欄など参照のこと)を覚える夢を見た。よく見てるから書くほどのものじゃないけど。
林の中のちっちゃい神社みたいなところ。掘っ立て小屋のような祠しかない。
わたしが言う。
「おばあちゃんちがどこかわからない」
隣にいたおばちゃん(現実の母ではないが、おそらく夢の設定でわたしの母になるんだろうな、と思った)がこう言う。
「おばあちゃんちはどっち?」
わたしは指差す。
おばちゃんは微笑みながらこう言う。
「どこにあるかわかってるじゃないか」
そうじゃない、とわたしは思う。大体の方向、大体のどこにあるかはわかっているが、そこに行けないのだ。いや行けなくないわけじゃない。たぶん行ける。道はわかっている。だけど、そういう意味で「どこかわからない」のではない。
おばちゃんとおばあちゃんちに向かう。細い路地。坂や階段が多い。道をラジコンカーが走る。その一部のように子供が走っている。
カルト宗教の方の祖父母んち近所がモチーフになっているのだろう。そのものではないが。いろいろ入り混じっている。
歩いていると、太い車道に出る。大型車が行き交うような。太いのに歩道がない。怖い、と思う。
近くにトンネルがある。短いトンネル。厚みのあるゲート。その手前に小道が交差している。
わたしは男になって、学者の助手みたいな人になっていた。学者は自分でフィールドワークしないような人。隣を歩いている。わたしは通訳みたいなもの。
おじいちゃん(現実の祖父ではないと思う)んちは、その手前の小道を行ったところにある、と説明する。
その小道は、途中で右半分が上り坂になって、残りが下り坂になっている。
おじいちゃんちは「上の方にある」。
だけど学者は「下の方にあるはず」と言う。おじいちゃんが下の方の道を歩いていったからだ。わたしも見た。
ならばそうなのだろう。
わたしの記憶には間違いないと思うが、下の方を行く。
こまごまとした路地。
わたしはわからなくなる。
学者は「道案内しているのは君だ。君のせいだ」と言う。
こういうことだよ、だから「おばあちゃんちがどこにあるかわからない」んだ。
わたしの祖父母は正常人だ。信じていることが少数派だっただけ。
どこにもたどりつけないわたしは、祖父母でもなく、カルトを攻撃する人たちでもない。
学者でもない。
学者を迷子にさせようとはしているが。
この「迷子的不安」は、周りに人がいないことからくるものではない。「さびしさ」ではない。
この「さびしさ」ではない「迷子的不安」を、どう表現したらいいのか、と考えると、宮崎駿の作品なんかがいい感じだ、と思う。『千と千尋の神隠し』の旅館の中や、『となりのトトロ』の森の中など。
そこで千やメイたちは「さびしさ」を覚えていただろうか?
「人がいないことからくるさびしさ」などではない、わくわく感にも似た不安を感じていただろう。
他にもある。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。あれは友引町、校舎の中、どこにいても迷子だ。夜中に買出しに行ったときの町。路地の向こうに風鈴屋が見える町。どんなに移動してももとの場所に戻ってしまう町。三階建てなのに四階建てになっている校舎。いくら階段をのぼってもおりても地階や屋上にたどりつけない校舎。学園祭前日という一日が永遠に繰り返される校舎。……って、まさにアンテ・フェストゥムじゃないか!
あの世界は確かラムの主観世界だって話だよな。ならばラムはスキゾフレニックだった、ってことになるな。
あの世界でラムは「さびしさ」を覚えていただろうか?
雑多である。猥雑である。常識では考えられないことが起こる。いやむしろ常識がそれを「常識では考えられないこと」にしている。
スキゾフレニックな迷子の森は雑多で猥雑で非常識だから、「さびしい」などという情感はもよおさない。
これがわたしの主張する「迷子的不安」である。
アニメばっかりになってしまったが、映画にもある。『転校生』や実写版『時をかける少女』などにも、うっすらとそれを感じた記憶がある。
ってこれ「尾道三部作」なんだよな。『さびしんぼう』も見たが、いまいち記憶は残っていない。「尾道三部作は全部見た」って記憶だけがある。
ここで、尾道という町が「迷子的不安」を感じさせる場所だ、なんて短絡的な考えはしないでほしい。おそらく、大林宣彦監督にとって、尾道という町は「迷子的不安」を感じさせる場所だった、という話だ。彼の主観世界において、「迷子的不安」の代理表象が尾道という町だった、という話である。
しかし、『さびしんぼう』というタイトルの通り、それを「さびしさ」に昇華(『アンチ・オイディプス』文脈なら劣化)させたがために、その作品における「迷子的不安」はなくなった、ということだろう。千やメイやラムが感じたような「さびしさ」などではない「迷子的不安」を、「人がいないからさびしい」という「一般的な迷子」にしてしまった。「不安」を「人」にしてしまった。
ここだよ。
大林宣彦は、アルトーの言う「詩人」に一歩近づいてはいたが、『さびしんぼう』でそこから離れてしまった、ということだ。実際それ以降の彼の作品は、わたしはつまらない。
このわたしが言う「迷子的不安」こそが、妄想分裂態勢(の名残)だと思うんだがなあ。
たぶん、だけど。
知がシニフィアン化されてない、他者化されてない、「生の知」しかないから、「迷子的不安」になる。
本当の無知とは、「人がいないからさびしい」というのではない、千やメイやラムのような迷子のことを指すのだ。
おわかり?
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
『さびしんぼう』のうぃきぺ。原作は「へんて子」なんだな。「さびしんぼう」なんて呼ぶからだめだったんだよ。
これがファロセントリストだよ。「優しさ」という言葉に表象代理されたファルスが「へんて子」を「さびしんぼう」って呼んじゃう。「さびしいんだろ?」って言いながら別にさびしくなんかない「へんて子」をレイプする。
気持ち悪いったらありゃしねえ。
「へんて子」の方が正しい。千もメイもラムも戸川純も「へんて子」だろ?
いやま、「恋愛映画を作りたい」っていうのが最初にあったのなら、そうしなきゃいけなかったんだろうがな。
ファルスがなければ恋愛は成り立たない。
あれだ、今蛭子さんと太川陽介の路線バスの旅っての見てるんだが、母親が好きでわたしも見るようになったんだよな、このシリーズ。
これも「田舎の人たちの人情」ってのがテーマになっているが、裏テーマとして「迷子的不安」があるように感じる。いや『千と千尋~』とかと比べたら全然希薄だけど。
それは確かに「さびしさ」と連接しやすい。されやすい。だから「人情旅」なんて作りになる。
だけどさ、そんなの添加物じゃん。後づけじゃん。
そうじゃないだろ、本質の方向にあるのは。
そうゆう話だ。
ファルスってなあいわば「男性性とはなんぞや」あるいは「大人であることとはなんぞや」って問いの答えの位置に仮設的においた記号なんだよな。だからファルスのない未去勢者ってえのは、女性であり子供である、となって、「ょぅι゛ょ」が象徴となる、と。
「ょぅι゛ょ」にちんちんぶち込んだだけなのが大林なら、宮崎は「ょぅι゛ょ」にスカルファックしてるレベルだ。一方押井は、てめえ自身が「ょぅι゛ょ」臭い。未去勢者という意味で。わたしは未去勢者の精神疾患症状としては、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害、自閉症が相当する、と考えているが、押井って若干スキゾイド臭がする。映像インタビュー見たことあるけど、まー明らかに「他者との心的距離が遠い」って感じだったもんな。
そだねー。だから押井は「売れる作品」を作れない。
今の方が彼らしいのかもな。
今思うと、「ょぅι゛ょ」ラムにこう言わせたのなんか、とってもキモイが押井自身の言葉のような気がする。たとえば「売れる作品」ばっか作らせようとする周りに対して。
「責任、取ってね」