君たちそろそろ自重してくれないか。
2010/04/26/Mon
気持ち悪いテクストを見つけた。これ。「謡曲『西王母』に見る大本の歴史と生命」って奴な。
このブログを通して読んでいる読者(そんなのいるのか)はわかるだろうが、わたしは、なべて宗教というものは、それを思想と考えれば、「人と獣の差異」を思考してきた思想だ、と考えている。あ、ここでも書いてあったな。
これはなんの意味もなく、ただ直感でそう思ってるだけなのだが。
すでに何度かぶっちゃけてるから言うけど、祖父の家がカルト宗教だったんだが、大本なんだよな。とはいえ父母は関係ない。よくある無宗教な核家族。わたしも関係ない。ただ、祖父母の家にはときどき預けられていた。祖父の書斎、っつーか物置みたいな部屋で、小難しい本を内容も理解しないまま読んでいた記憶はある。母もそう証言している。電気をつけないまま読んでて「目が悪くなる」ってババアによく怒られた。いや今でも目だけはいいんだがね。眼鏡なんてかけたことない。それはともかく、宗教関係の本なんて少なかったように思うがな。まあでもゼロではないだろう。熱心な信者ではあったみたいだし。
でも、わたしが覚えていないだけで、書斎には大本の息がかかった本が結構あって、そういう風に洗脳された可能性も、否定できないな、と思った。
あーでも、大学時代に構造主義にはまったのって、最初はオカルト趣味の延長だったんだが(よくあるパターンじゃねえの? 呪術とかから『金枝篇』とかへ、そして人類学へって)、そのとき大本についてちょろちょろ調べたんだよな。興味本位で。なんかつながるかもって思って。つながんなかったけど。出口ナオについての論文もいくつか読んだ。他のカルト宗教についても調べた。大学のオウムサークルの人とコンタクト取ったこともある。危なかった。カルトだけじゃなく仏教あたりも漁ってたから、むしろ宗教全般に興味持ってた時期、と言えるだろうな。
でも大体「はあ?」って思った。この気持ち悪いテクストも「はあ?」だ。出口ナオなんてただの精神疾患者だろ、ってのがわたしの基本スタンス。それがなぜ「神がかり」となるのか。「ヌミノース」って概念が重要だと思うんだが、これを語る奴らって目が曇ってるとしか思えない。子供のころにてんかんを疑われて、現役精神疾患者のわたしから言えば。自分の経験から、「これかな?」と思うものがあることはあるが(たとえば今ならパニック発作)、これがなんで、人が目をきらきらさせて語るものになるのか。「神がかり」になんてものなるのか。これが「神」だなんて、どこをどう考えても思えない。むしろこれがないことが、これを経験しない正常人たちが、わたしにとっては上位の人間だ。「神」に近い人間だ。
出口ナオって汚らしいよな。彼女は自分が信仰の対象になっていることを自覚していただろう。ただの精神疾患なのに。ギャグでやってるならいいんだけどな。「あたしってただの精神疾患者をありがたがるお前らマジウケルwww」的な。それなら汚らしくない。
そんな2ちゃん的態度じゃなくても、自分の「神がかり」という症状を、ただの精神疾患だ、という風に、科学的態度で語ればよかったのだ。冷徹な視線で己を見なければならなかった。自分の症状に分析的視線を向けるべきだった。
冒頭の気持ち悪いテクストにならうなら、出口ナオは半人半獣である。
人の部分が獣の部分を飲み込んでしまった。
だから大本などというパラノイア集団が誕生してしまったのだ。
人ではない部分を、獣の部分を、たとえば動物行動学的に論じるべきだった。
汚らわしい、と思う。カルトだからではない。わたしは三大宗教もカルトも同じだと思っている。素で。三大宗教もカルトも等しく汚らしい。キリストなんてなただの精神疾患者だ。ムハンマドなんか明らかにパラノイア。ブッダはびみょー。ブッダだけが正常っぽい気がする。パラノイアよりではあるが。日本人だからそう思えるだけか。
すべての宗教はただのパラノイア集団である。
祖父もバカだよな。わたしの記憶では、書斎にあったのは宗教以外の学術書が多かったので、学問的態度で物を見れる人だったんだと思うんだが、なぜかパラノイア集団に組してしまっている。学問を劣化させる幻想主義者、妄想狂たちの味方になってしまっている。自分ちに集まる妄想狂のジジババたちの妄想を解体するのが学者の役割なのに、それを助長させていた。
こういった、信仰心理などと呼べるべきものを、学問的態度で論じているのが精神分析である。そして、個人的性質としてパラノイアコンプレックスであったラカンの論が、もっともそこをクリティカルに論じられている、とわたしは考える。ってわたしもパラノイアコンプレックスになるんだろうな。こういう過去をさらしちゃうと。
「宗教の開祖なんて、後世の人間がいろいろ脚色してはいるんだろうが、ぶっちゃけただの精神疾患者じゃん」
と言うことは精神医学でもできるだろう。しかし、そういったただの精神疾患者たちがなぜ信者を獲得してしまうのか、なぜ信者たちはそれを信仰してしまうのか、ただのキチガイをあがめてしまうのか、が説明できない。
精神医学は「正常という精神疾患」を語れない。医学であり治療を目的としているのだから、「正常であること」を研究する必要がない。
精神分析しかないのだ。ここを解明する道具は。今んとこ。わたしの管見では。
妄想は妄想。信仰心という妄想はいい妄想だ、と妄想でしているだけ。大本はカルトだから悪い信仰で、キリスト教は歴史があるからいい信仰だ、と妄想でしているだけ。
物にいいも悪いもない。妄想を物として考えればいいも悪いもない。
わたしはすべての物を不快に思っている。
だからすべて悪いように語るだけ。
そもそも「いい/悪い」自体が妄想だ。
ま、こういうつまんねえただの祖父コンプレックスなだけだから、何か期待しているようなバカは帰ってくれ。
うざいよ最近ほんとに。去勢済み主体ども。
ここ読んでる去勢済み主体の八割まず死んでくれないかね。人選はお前らが勝手にやっていいよ。
まじうぜえ。
あ、冒頭の奴、ただのテクストとしてはおもしろいと思うお。個人的にだけど。「個体発生は系統発生の短縮されたくり返しである」とかってのにつなげるとことか。わたしもそんな風なこと言ったことがある。これか。
だからと言って「人が勝手に、その無意識で人と獣を峻別している」事実をないがしろにしちゃいけんと思うが。
物質的には人も獣も同じだ。しかし人間は、頭でそう思ってても、たとえば自身が獣のような扱いをされたら嫌がるだろう。そもそもこの理屈を敷衍したならば、「人権」などといった概念は否定される。
これは精神面における問題である。
そこまで覚悟して言っているのなら、まあ聞いてやらんこたない。
順子ちゃんは、豚にレイプされて豚の子供を産む勇気があるんだろうかね?
ふーん、ここの三宅善信って人金光教なのね。金光教って金毘羅さんとゆかり深かったよな確か。
このあたりだとそこそこ歴史あるからカルトとは呼ばれないんだよなあ。
不思議。
オカルト趣味が高じて宗教齧ったからかもしれんが、三大宗教のうち仏教だけが、グノーシス臭を残していると思うんだよな。密教のコスモロジーなんてな明らかにグノーシスだろ。信仰態度も、現世利益で現存在姿勢と通じる。
でも現代仏教は全然オカルト臭くない。
もったいないよー、損してると思うよ? 仏教の営業マンたちさ。現代じゃグノーシスとかニッチ市場だし。
宗教学ってのは「宗教とはなんぞや?」を研究する学問だろ? なんでそこで「信仰とはなんぞや?」にならないんだろう? ここをエポケーしているから、宗教学はわたしにとって科学じゃない。
最近気づいたんだが、人文科学ってわたしは科学って思えないんだが、経済学にしろ社会学にしろ、エポケー地点は大体ここに収斂すると思うんだよな。
「正常という精神疾患とはどういうものか」
って問いに。
ほとんどの人文科学は、ここをエポケーしている。
通時(それこそ歴史学とか)、共時(経済学とか)問わず、数えきれないほどの人間の手によって作られた何かを研究するのが人文科学だろ? じゃあ、その数えきれないほどの人間の大部分を占めている「正常な人間たち」はどうなっているのか、って考えるのが科学的態度じゃないか? 少なくとも物理学はそうやって分子や電子を発見したんだが。
なんでここが不問になっているんだ?
あ、まあ哲学はいい線いってると思うけどね。特にポモは。キチガイ好きじゃん、ポモ哲学。
あ、関連するかもしれんのでコピペしとくな。ここのコメント欄から。
=====
三流大学なんかは少子化で学生に対して強く出れないのかしらんが、最近あまり「大学教授が現代の大学生について「最近の若者は」って嘆く文章」を見なくなったな。
東大では結構そういう文章あったんだよな。
で、その中で蓮實一派の人文科学系の教授が、こんなことを言ったんだ。
「最近の学生は、研究対象について敬意を払わなくなっている」
って。
研究対象に敬意を払わないから、その学問という論をただ学んでいるだけになる、って論法。
わたしは大体は「なるほどねー」とは思ったんだよ。
でも「敬意?」って思ったんだよな。
研究対象に興味を持つ、それがどういうものか探るための道具として学問はある、だから研究対象に興味を持てば、おのずと学問に対して積極的になる。
って言い方ならわかるんだ。わたしはそうだから。
「敬意なの? 興味だとだめなん?」
って話。
でさー、人文科学ってのは、「人が作った物」を科学する学問なわけだろ? 社会にしろ経済にしろ文化にしろ文学にしろ言語にしろ。
一方自然科学とは文字通り「自然な物」を科学する。
で、自然科学村にいたわたしは、じゃあ自分の村の村民たちが、研究対象に敬意を払っているか、を考えるじゃん。
いや口では言うよ。「物とはすばらしい」「宇宙とはすばらしい」とか。
でも実際話すと、「にぎりっ屁」の記事
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-279.html
で話したように、少なくともこの助教授は研究対象物を屁だと思っている。敬意なんて払っていない。
じゃあ人文科学の人たちも、口だけで敬意って言っているのか、って話なんだよ。
まあこの辺でどうでもよくなったんだけどな。
逆に言えばそれって、「敬意を払えない物は研究対象にすべきじゃない」ってことじゃん。
それってどうなのよ? って思う。それは学問じゃなくて政治だと思う。
で、人文科学は、「人の作った物」を科学する学問だから、「敬意」っておべっかが、真理化しちゃうんじゃないか、って思ったんだ。
研究対象に「人」が関与しているから、研究対象に敬意を払わなければならない。「人」が怒るから。
一方自然科学なんかは研究対象は物だから、怒らない。だから別に敬意なんて払わなくてよい。興味でよい。
=====
「研究対象に敬意を払わなきゃいけない」なんてただの学問村のルールでしかない。
んなのただの色眼鏡にすぎん。観察者の。
自然物、すなわちただそうであるものをただそうであるものとして見るのが、(自然)科学だ。
具体は、その人間の内面にしかない。
人間と人間のあいだにあるものは、すべて抽象である。より具体に近い抽象、などならあるが。
おお。
なんかあたしいいこと言った。
たわむれにいろいろぐぐってたら冒頭テクストの永原順子ちゃんの顔写真発見した。これ。
この記事の拍手コメントで「その子紹介して」とかってくっせーコメントがきてたんだが、こいつで我慢しとけ。
アヒル顔はわたしのおもちゃ(にする予定)。
このブログを通して読んでいる読者(そんなのいるのか)はわかるだろうが、わたしは、なべて宗教というものは、それを思想と考えれば、「人と獣の差異」を思考してきた思想だ、と考えている。あ、ここでも書いてあったな。
これはなんの意味もなく、ただ直感でそう思ってるだけなのだが。
すでに何度かぶっちゃけてるから言うけど、祖父の家がカルト宗教だったんだが、大本なんだよな。とはいえ父母は関係ない。よくある無宗教な核家族。わたしも関係ない。ただ、祖父母の家にはときどき預けられていた。祖父の書斎、っつーか物置みたいな部屋で、小難しい本を内容も理解しないまま読んでいた記憶はある。母もそう証言している。電気をつけないまま読んでて「目が悪くなる」ってババアによく怒られた。いや今でも目だけはいいんだがね。眼鏡なんてかけたことない。それはともかく、宗教関係の本なんて少なかったように思うがな。まあでもゼロではないだろう。熱心な信者ではあったみたいだし。
でも、わたしが覚えていないだけで、書斎には大本の息がかかった本が結構あって、そういう風に洗脳された可能性も、否定できないな、と思った。
あーでも、大学時代に構造主義にはまったのって、最初はオカルト趣味の延長だったんだが(よくあるパターンじゃねえの? 呪術とかから『金枝篇』とかへ、そして人類学へって)、そのとき大本についてちょろちょろ調べたんだよな。興味本位で。なんかつながるかもって思って。つながんなかったけど。出口ナオについての論文もいくつか読んだ。他のカルト宗教についても調べた。大学のオウムサークルの人とコンタクト取ったこともある。危なかった。カルトだけじゃなく仏教あたりも漁ってたから、むしろ宗教全般に興味持ってた時期、と言えるだろうな。
でも大体「はあ?」って思った。この気持ち悪いテクストも「はあ?」だ。出口ナオなんてただの精神疾患者だろ、ってのがわたしの基本スタンス。それがなぜ「神がかり」となるのか。「ヌミノース」って概念が重要だと思うんだが、これを語る奴らって目が曇ってるとしか思えない。子供のころにてんかんを疑われて、現役精神疾患者のわたしから言えば。自分の経験から、「これかな?」と思うものがあることはあるが(たとえば今ならパニック発作)、これがなんで、人が目をきらきらさせて語るものになるのか。「神がかり」になんてものなるのか。これが「神」だなんて、どこをどう考えても思えない。むしろこれがないことが、これを経験しない正常人たちが、わたしにとっては上位の人間だ。「神」に近い人間だ。
出口ナオって汚らしいよな。彼女は自分が信仰の対象になっていることを自覚していただろう。ただの精神疾患なのに。ギャグでやってるならいいんだけどな。「あたしってただの精神疾患者をありがたがるお前らマジウケルwww」的な。それなら汚らしくない。
そんな2ちゃん的態度じゃなくても、自分の「神がかり」という症状を、ただの精神疾患だ、という風に、科学的態度で語ればよかったのだ。冷徹な視線で己を見なければならなかった。自分の症状に分析的視線を向けるべきだった。
冒頭の気持ち悪いテクストにならうなら、出口ナオは半人半獣である。
人の部分が獣の部分を飲み込んでしまった。
だから大本などというパラノイア集団が誕生してしまったのだ。
人ではない部分を、獣の部分を、たとえば動物行動学的に論じるべきだった。
汚らわしい、と思う。カルトだからではない。わたしは三大宗教もカルトも同じだと思っている。素で。三大宗教もカルトも等しく汚らしい。キリストなんてなただの精神疾患者だ。ムハンマドなんか明らかにパラノイア。ブッダはびみょー。ブッダだけが正常っぽい気がする。パラノイアよりではあるが。日本人だからそう思えるだけか。
すべての宗教はただのパラノイア集団である。
祖父もバカだよな。わたしの記憶では、書斎にあったのは宗教以外の学術書が多かったので、学問的態度で物を見れる人だったんだと思うんだが、なぜかパラノイア集団に組してしまっている。学問を劣化させる幻想主義者、妄想狂たちの味方になってしまっている。自分ちに集まる妄想狂のジジババたちの妄想を解体するのが学者の役割なのに、それを助長させていた。
こういった、信仰心理などと呼べるべきものを、学問的態度で論じているのが精神分析である。そして、個人的性質としてパラノイアコンプレックスであったラカンの論が、もっともそこをクリティカルに論じられている、とわたしは考える。ってわたしもパラノイアコンプレックスになるんだろうな。こういう過去をさらしちゃうと。
「宗教の開祖なんて、後世の人間がいろいろ脚色してはいるんだろうが、ぶっちゃけただの精神疾患者じゃん」
と言うことは精神医学でもできるだろう。しかし、そういったただの精神疾患者たちがなぜ信者を獲得してしまうのか、なぜ信者たちはそれを信仰してしまうのか、ただのキチガイをあがめてしまうのか、が説明できない。
精神医学は「正常という精神疾患」を語れない。医学であり治療を目的としているのだから、「正常であること」を研究する必要がない。
精神分析しかないのだ。ここを解明する道具は。今んとこ。わたしの管見では。
妄想は妄想。信仰心という妄想はいい妄想だ、と妄想でしているだけ。大本はカルトだから悪い信仰で、キリスト教は歴史があるからいい信仰だ、と妄想でしているだけ。
物にいいも悪いもない。妄想を物として考えればいいも悪いもない。
わたしはすべての物を不快に思っている。
だからすべて悪いように語るだけ。
そもそも「いい/悪い」自体が妄想だ。
ま、こういうつまんねえただの祖父コンプレックスなだけだから、何か期待しているようなバカは帰ってくれ。
うざいよ最近ほんとに。去勢済み主体ども。
ここ読んでる去勢済み主体の八割まず死んでくれないかね。人選はお前らが勝手にやっていいよ。
まじうぜえ。
あ、冒頭の奴、ただのテクストとしてはおもしろいと思うお。個人的にだけど。「個体発生は系統発生の短縮されたくり返しである」とかってのにつなげるとことか。わたしもそんな風なこと言ったことがある。これか。
だからと言って「人が勝手に、その無意識で人と獣を峻別している」事実をないがしろにしちゃいけんと思うが。
物質的には人も獣も同じだ。しかし人間は、頭でそう思ってても、たとえば自身が獣のような扱いをされたら嫌がるだろう。そもそもこの理屈を敷衍したならば、「人権」などといった概念は否定される。
これは精神面における問題である。
そこまで覚悟して言っているのなら、まあ聞いてやらんこたない。
順子ちゃんは、豚にレイプされて豚の子供を産む勇気があるんだろうかね?
ふーん、ここの三宅善信って人金光教なのね。金光教って金毘羅さんとゆかり深かったよな確か。
このあたりだとそこそこ歴史あるからカルトとは呼ばれないんだよなあ。
不思議。
オカルト趣味が高じて宗教齧ったからかもしれんが、三大宗教のうち仏教だけが、グノーシス臭を残していると思うんだよな。密教のコスモロジーなんてな明らかにグノーシスだろ。信仰態度も、現世利益で現存在姿勢と通じる。
でも現代仏教は全然オカルト臭くない。
もったいないよー、損してると思うよ? 仏教の営業マンたちさ。現代じゃグノーシスとかニッチ市場だし。
宗教学ってのは「宗教とはなんぞや?」を研究する学問だろ? なんでそこで「信仰とはなんぞや?」にならないんだろう? ここをエポケーしているから、宗教学はわたしにとって科学じゃない。
最近気づいたんだが、人文科学ってわたしは科学って思えないんだが、経済学にしろ社会学にしろ、エポケー地点は大体ここに収斂すると思うんだよな。
「正常という精神疾患とはどういうものか」
って問いに。
ほとんどの人文科学は、ここをエポケーしている。
通時(それこそ歴史学とか)、共時(経済学とか)問わず、数えきれないほどの人間の手によって作られた何かを研究するのが人文科学だろ? じゃあ、その数えきれないほどの人間の大部分を占めている「正常な人間たち」はどうなっているのか、って考えるのが科学的態度じゃないか? 少なくとも物理学はそうやって分子や電子を発見したんだが。
なんでここが不問になっているんだ?
あ、まあ哲学はいい線いってると思うけどね。特にポモは。キチガイ好きじゃん、ポモ哲学。
あ、関連するかもしれんのでコピペしとくな。ここのコメント欄から。
=====
三流大学なんかは少子化で学生に対して強く出れないのかしらんが、最近あまり「大学教授が現代の大学生について「最近の若者は」って嘆く文章」を見なくなったな。
東大では結構そういう文章あったんだよな。
で、その中で蓮實一派の人文科学系の教授が、こんなことを言ったんだ。
「最近の学生は、研究対象について敬意を払わなくなっている」
って。
研究対象に敬意を払わないから、その学問という論をただ学んでいるだけになる、って論法。
わたしは大体は「なるほどねー」とは思ったんだよ。
でも「敬意?」って思ったんだよな。
研究対象に興味を持つ、それがどういうものか探るための道具として学問はある、だから研究対象に興味を持てば、おのずと学問に対して積極的になる。
って言い方ならわかるんだ。わたしはそうだから。
「敬意なの? 興味だとだめなん?」
って話。
でさー、人文科学ってのは、「人が作った物」を科学する学問なわけだろ? 社会にしろ経済にしろ文化にしろ文学にしろ言語にしろ。
一方自然科学とは文字通り「自然な物」を科学する。
で、自然科学村にいたわたしは、じゃあ自分の村の村民たちが、研究対象に敬意を払っているか、を考えるじゃん。
いや口では言うよ。「物とはすばらしい」「宇宙とはすばらしい」とか。
でも実際話すと、「にぎりっ屁」の記事
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-279.html
で話したように、少なくともこの助教授は研究対象物を屁だと思っている。敬意なんて払っていない。
じゃあ人文科学の人たちも、口だけで敬意って言っているのか、って話なんだよ。
まあこの辺でどうでもよくなったんだけどな。
逆に言えばそれって、「敬意を払えない物は研究対象にすべきじゃない」ってことじゃん。
それってどうなのよ? って思う。それは学問じゃなくて政治だと思う。
で、人文科学は、「人の作った物」を科学する学問だから、「敬意」っておべっかが、真理化しちゃうんじゃないか、って思ったんだ。
研究対象に「人」が関与しているから、研究対象に敬意を払わなければならない。「人」が怒るから。
一方自然科学なんかは研究対象は物だから、怒らない。だから別に敬意なんて払わなくてよい。興味でよい。
=====
「研究対象に敬意を払わなきゃいけない」なんてただの学問村のルールでしかない。
んなのただの色眼鏡にすぎん。観察者の。
自然物、すなわちただそうであるものをただそうであるものとして見るのが、(自然)科学だ。
具体は、その人間の内面にしかない。
人間と人間のあいだにあるものは、すべて抽象である。より具体に近い抽象、などならあるが。
おお。
なんかあたしいいこと言った。
たわむれにいろいろぐぐってたら冒頭テクストの永原順子ちゃんの顔写真発見した。これ。
この記事の拍手コメントで「その子紹介して」とかってくっせーコメントがきてたんだが、こいつで我慢しとけ。
アヒル顔はわたしのおもちゃ(にする予定)。