「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明する」
2010/04/30/Fri
この記事のコメント欄おもしろいぞ、特に宗教に興味がある奴は読め。
文中でリンクしているグノーシス関連のテクスト、適当にぐぐって「ああ便利な文章だな」と思っただけなんだが、よく読んでみるとほんと的確だと思える。精神分析の、理屈面じゃないところの、態度的な説明として。って「理屈面じゃない態度的なところ」を考えることがすでにグノーシス的と言えるんだが。
グノーシスの代表的な具体例ってマニ教とかなんだが、今の三大宗教に匹敵するくらい広い勢力を持っていたらしいんだな。
もし万が一、グノーシス的な文化が現存していたら、その社会においては、統合失調症やカナーはわからんが、少なくともアスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例は、「治療すべき存在」と考えられなかっただろう、と思える。
現代社会は「正常という精神疾患」が正常となっているため、アスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例は、「治療すべき存在だ」となっているだけ、と。
ポイントはここ。「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明する」ってところ。いやそれだけじゃないけど。まあちょっとこの文章も飛ばしすぎな気がするけど。
「この現象する存在世界」っていうのが、ラカン論における、現実界ではない、象徴界や想像界だ、ってこと。
現代社会は「この現象する存在世界」中心主義だから、アスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例が、治療すべき存在となる、というわけ。
あ、もちろん、「グノーシス的文化に生きていれば、彼らの精神的苦痛はすべて除去される」という意味ではない。苦痛の原因の多くは取り除かれるだろうが、おそらく、二次障害が劇的に軽減する、といったレベルにとどまるだろう。そういった文化においても彼らの根本的な精神的苦痛は取り除かれないだろう。
正常人も、「この現象する存在世界」を根拠にした「心」のせいで精神的苦痛を覚えている。それが神経症である。
すべての人間に苦痛が生じない世界など存在しない。それは妄想の社会である。ユートピアである。
そもそも「苦痛は避けるべき」という原則が非現実的なのだ。
だからわたしは、「治療を放棄する」のではなく、「悪化もありとする」精神分析を、逆精神分析を提唱している。
わかるぅ?
たとえば、二人の子供がアスペとカナーであるというこのママさんなどは、自閉症研究のアプローチの仕方として、グノーシス的な、「自分の内界の旅」を重視している。新しい記事など読めばそれは明らかである。
「まず自分がグノーシス的な態度を取る」ことが、(アスペくんについてはともかく)カナーくんについて、彼の二次障害を軽減するのに、効果的なやり方だと、直感的に思ったのかもしれない。もちろんママさん自身がその態度を「グノーシス的」なんて表現するかどうかはともかくとして。「それをどう表現するかは重要ではない」というのがそもそもグノーシス的態度である。だからこそ、マニ教の神話・教義はその他の宗教のつぎはぎになっているのだ。
そしてまた、このママさんの直感は、目的遂行の手段として、正しいとは限らない。彼女の自閉症にまつわるアプローチは、カナーくんの二次障害を軽減するとは限らない。
大事なのは言葉ではない。もちろんイメージでもない。直感でもない。
内界にある「実存」が、「現実界」が重要なのである。
精神分析とはグノーシスである。
そしてさらに、「「すでにこの真理は、わたしには既知のものだ」という気づき」さえも破壊するのが、わたしの提唱する逆精神分析である。
この「既知である真理」こそがラカン論における「ファルス」であり、この「気づき」が精神分析治療の最重要点である「ファルスの再発見」である。
逆精神分析はファルスの破壊を目的としている。
グノーシスだってしょせんは宗教である。
しかし、グノーシス的アプローチじゃないと、逆精神分析が破壊するものを表に出してこないのである。多くの人間は。
したがって、途中までは、逆精神分析は、精神分析あるいはグノーシスというアプローチと同調する。
「既知の真理の気づき」「ファルスの再発見」が生じた場で、取る態度が別々になる。
逆精神分析をする者は、精神分析家やグノーシスの教徒に、こうなじられるだろう。
「この裏切り者!」
「人間とはどういうことであるか」を思索する哲学者にとって、アイアイエー島は格好の場所だった。
なんせ絶海の孤島。「人間であること」を助長させる機械たる社会から隔離されている。
そこで彼は孤独な思索にふける。
思索のすえ、彼は「人間であることはこういうことだ」と知る。もともと既知であったそれを再発見する。
「我思うゆえに我あり!」
それを見ていた魔女キルケは、杖の一振りで彼を豚にする。
ラカンは自分の思想を禅に似ていると言ったんだが、まあ禅、密教とグノーシスの関連はそこいらで語られているから省略するとして、わたしの思想はどっちかってと華厳なんだよな。それも現代の劣化した華厳じゃなくて龍樹の。
こことか読むと、龍樹がいかに、現代風に言うと「空気の読めない奴」「村八分にされる奴」だったかわかるだろう。
=====
龍樹は、このように、みずからを人々から忌み嫌われているような人物像に設定して登場させ、
=====
とか書いているが、龍樹は、当時、実際に自分は忌み嫌われているから、そう書いたのではないだろうか。その証拠に、彼の死に際を思い出してみろ。同僚の僧に「お前私に死んでほしいと思っているだろ」と聞いたら「うん」って答えられたから自殺したんだんだろ。同僚から「死んでほしい」と思われるほど嫌われていたんだよ、龍樹は。
こことかもそうだよな。
=====
スートラによれば、龍樹の論法は「論諍」と「論詰」の二つであるということになる。先に述べた拙論において、「論詰」のみを龍樹の論法と規定していたが、ここで、それを訂正しておきたい。ガウタマは龍樹の論法を論諍と論詰の二つに相当すると見ているのである。
=====
そりゃそうだ、「論諍」と「論詰」の二つを論法としている奴なんか、そりゃー嫌われるに決まっている。
現代哲学ならデリダみたいなもんだ。彼同業者から嫌われてるだろ、「彼の論は相手の論を論駁したいがためだけに語られたものだ」とかって。正しいんだよ、その読み方で。
あ、仏教にちょっと詳しいらしい中坊さんと龍樹について議論したことがあるんだが、ここのコメント欄も参照できるだろう。
そりゃ「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明する」人間は、それを根拠にした心を持っている人間から、つまり現代における「正常」という精神疾患に罹患した人たちからは、嫌われるに決まっておる。
きんもーっ☆
文中でリンクしているグノーシス関連のテクスト、適当にぐぐって「ああ便利な文章だな」と思っただけなんだが、よく読んでみるとほんと的確だと思える。精神分析の、理屈面じゃないところの、態度的な説明として。って「理屈面じゃない態度的なところ」を考えることがすでにグノーシス的と言えるんだが。
グノーシスの代表的な具体例ってマニ教とかなんだが、今の三大宗教に匹敵するくらい広い勢力を持っていたらしいんだな。
もし万が一、グノーシス的な文化が現存していたら、その社会においては、統合失調症やカナーはわからんが、少なくともアスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例は、「治療すべき存在」と考えられなかっただろう、と思える。
現代社会は「正常という精神疾患」が正常となっているため、アスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例は、「治療すべき存在だ」となっているだけ、と。
ポイントはここ。「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明する」ってところ。いやそれだけじゃないけど。まあちょっとこの文章も飛ばしすぎな気がするけど。
「この現象する存在世界」っていうのが、ラカン論における、現実界ではない、象徴界や想像界だ、ってこと。
現代社会は「この現象する存在世界」中心主義だから、アスペルガー症候群やスキゾフレニックな境界例が、治療すべき存在となる、というわけ。
あ、もちろん、「グノーシス的文化に生きていれば、彼らの精神的苦痛はすべて除去される」という意味ではない。苦痛の原因の多くは取り除かれるだろうが、おそらく、二次障害が劇的に軽減する、といったレベルにとどまるだろう。そういった文化においても彼らの根本的な精神的苦痛は取り除かれないだろう。
正常人も、「この現象する存在世界」を根拠にした「心」のせいで精神的苦痛を覚えている。それが神経症である。
すべての人間に苦痛が生じない世界など存在しない。それは妄想の社会である。ユートピアである。
そもそも「苦痛は避けるべき」という原則が非現実的なのだ。
だからわたしは、「治療を放棄する」のではなく、「悪化もありとする」精神分析を、逆精神分析を提唱している。
わかるぅ?
たとえば、二人の子供がアスペとカナーであるというこのママさんなどは、自閉症研究のアプローチの仕方として、グノーシス的な、「自分の内界の旅」を重視している。新しい記事など読めばそれは明らかである。
「まず自分がグノーシス的な態度を取る」ことが、(アスペくんについてはともかく)カナーくんについて、彼の二次障害を軽減するのに、効果的なやり方だと、直感的に思ったのかもしれない。もちろんママさん自身がその態度を「グノーシス的」なんて表現するかどうかはともかくとして。「それをどう表現するかは重要ではない」というのがそもそもグノーシス的態度である。だからこそ、マニ教の神話・教義はその他の宗教のつぎはぎになっているのだ。
そしてまた、このママさんの直感は、目的遂行の手段として、正しいとは限らない。彼女の自閉症にまつわるアプローチは、カナーくんの二次障害を軽減するとは限らない。
大事なのは言葉ではない。もちろんイメージでもない。直感でもない。
内界にある「実存」が、「現実界」が重要なのである。
精神分析とはグノーシスである。
そしてさらに、「「すでにこの真理は、わたしには既知のものだ」という気づき」さえも破壊するのが、わたしの提唱する逆精神分析である。
この「既知である真理」こそがラカン論における「ファルス」であり、この「気づき」が精神分析治療の最重要点である「ファルスの再発見」である。
逆精神分析はファルスの破壊を目的としている。
グノーシスだってしょせんは宗教である。
しかし、グノーシス的アプローチじゃないと、逆精神分析が破壊するものを表に出してこないのである。多くの人間は。
したがって、途中までは、逆精神分析は、精神分析あるいはグノーシスというアプローチと同調する。
「既知の真理の気づき」「ファルスの再発見」が生じた場で、取る態度が別々になる。
逆精神分析をする者は、精神分析家やグノーシスの教徒に、こうなじられるだろう。
「この裏切り者!」
「人間とはどういうことであるか」を思索する哲学者にとって、アイアイエー島は格好の場所だった。
なんせ絶海の孤島。「人間であること」を助長させる機械たる社会から隔離されている。
そこで彼は孤独な思索にふける。
思索のすえ、彼は「人間であることはこういうことだ」と知る。もともと既知であったそれを再発見する。
「我思うゆえに我あり!」
それを見ていた魔女キルケは、杖の一振りで彼を豚にする。
ラカンは自分の思想を禅に似ていると言ったんだが、まあ禅、密教とグノーシスの関連はそこいらで語られているから省略するとして、わたしの思想はどっちかってと華厳なんだよな。それも現代の劣化した華厳じゃなくて龍樹の。
こことか読むと、龍樹がいかに、現代風に言うと「空気の読めない奴」「村八分にされる奴」だったかわかるだろう。
=====
龍樹は、このように、みずからを人々から忌み嫌われているような人物像に設定して登場させ、
=====
とか書いているが、龍樹は、当時、実際に自分は忌み嫌われているから、そう書いたのではないだろうか。その証拠に、彼の死に際を思い出してみろ。同僚の僧に「お前私に死んでほしいと思っているだろ」と聞いたら「うん」って答えられたから自殺したんだんだろ。同僚から「死んでほしい」と思われるほど嫌われていたんだよ、龍樹は。
こことかもそうだよな。
=====
スートラによれば、龍樹の論法は「論諍」と「論詰」の二つであるということになる。先に述べた拙論において、「論詰」のみを龍樹の論法と規定していたが、ここで、それを訂正しておきたい。ガウタマは龍樹の論法を論諍と論詰の二つに相当すると見ているのである。
=====
そりゃそうだ、「論諍」と「論詰」の二つを論法としている奴なんか、そりゃー嫌われるに決まっている。
現代哲学ならデリダみたいなもんだ。彼同業者から嫌われてるだろ、「彼の論は相手の論を論駁したいがためだけに語られたものだ」とかって。正しいんだよ、その読み方で。
あ、仏教にちょっと詳しいらしい中坊さんと龍樹について議論したことがあるんだが、ここのコメント欄も参照できるだろう。
そりゃ「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明する」人間は、それを根拠にした心を持っている人間から、つまり現代における「正常」という精神疾患に罹患した人たちからは、嫌われるに決まっておる。
きんもーっ☆