口=肛門
2010/05/05/Wed
内界と外界。あくまで一般的が語義での。
蛇足だが、ラカン論ならば、一般的な内界の向こうに現実界という外を設定している。「外-密」。これをわかりやすく(?)言い換えるなら、一般的な語義における内界だけの症状だということで「自閉症は自閉症だ」となるが、現実界に接しているという意味で「自閉症は自開症だ」となる。
しかし今はそこは置いておく。
生まれたばかりの赤ん坊には外界がない。自体愛には外界がない。これは、内に閉じこもっているという意味ではなく、内外の区別がない、という風に考えなければならない。赤ん坊にとっては、刺激を受け反応する体内の運動と外部は同じことなのだ。体の内外に気づいていない。皮膚よりこちら側を内だとする考えを持っていない。自分の体でさえ外部なのだ。母乳でさえ異物なのだ。当然である。胎内に母乳など存在しない。
つまり、赤ん坊にとっては、自分の体も外部であり、「全て外部」だから「外界がない」となるのだ。「全てが外部」だからそれは内部でも構わない。大人が考えるような内外の区別がついていないから、それを外部と言おうが内部と言おうがどちらでもよい、ということだ。
では、内外の境界はどのようにして生じるのか。
皮膚(的なそれ)を内外の境界とする、という学習が鏡像段階とも言えよう。赤ん坊は鏡を見ることで、外部に映し出された表層としての、皮膚(的なそれ)を、想像的な内外の境界とする、と。
このことについても今は置いておこう。
そんな話をしたいんじゃない。これらのことはラカン論、クライン論を学べば見えてくる話にすぎない。
いや、クライン論だ。ラカン論では、わたしがここで語りたいことは、道具として不足である。
クラインすげー、って思ったよ。文体がメルヘンチックババアであるだけで、臨床を接続して考えると、非常に体系的であるように思える。
言葉以前の世界を述べているのだから、言葉はどうでもいいのだ。それをどう表現するかはさして重要ではないのだ。
実体と結びつけると、クライン論は実は体系的であるのがわかる。
その領域においては、どう表現するかはさして重要ではない。なのでわたしは、最近グノーシスづいているので、そこら辺の言葉を借用して述べてみたいと思う。
「全てが外部」だから、それを外部と言おうが内部と言おうが構わない。「全てが内部」でもよい。だから「自体愛には外部がない」という表現も正しい。外部がないのだから、「自体愛においては全てが外部である」でも構わない。
この状態の主観世界から、内外のある主観世界へ。
それを夢想していた。
すると、こんな表現、我ながらあざといなー、中二病くせえなー、と思ってしまうのだが、便利であるのは事実であるため、述べてみよう。
「ウロボロスの蛇」である。
「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界における運動は、ばらばらな無数の矢印を想像してもらえばよいだろう。すべての矢印がブラウン運動しているような。刺激による身体反応も、それを認知する何かも、等しくブラウン運動する体内反応でしかない。
いや、大体のまとまりはある。局所的にまとまっているところもある。均一に散漫となっているわけではない。
そのうちの、たとえば二つに、生後直後の身体活動から、よりまとまっていく。
ばらばらな無数の矢印が、二つの門によりまとめられていく。
この門は世界の果ての門だ。したがって、それは二つでありながら、一つの門でもある。門の裏表を二つと言っているようなことだ。
この、一つでありながら二つでもある門は、口と肛門である。
この門によって、ばらばらな矢印が、縄を編むようにまとめられていく。これが口唇欲動であり肛門欲動である。
しかし、何度も言うが、それらの門は一つの門である。口と肛門は門の裏表でしかない。生後直後の赤ん坊の「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界においては、それは一つの門でしかない。
口と肛門がつながっているようなことである、となる。
ウロボロスの蛇。
おそらく対象aとは、ウロボロスの蛇の、口と尻尾の間に割り込んでくるものだ。
乳房であり糞便であり声でありまなざしである。
「乳房を糞便爆弾で破壊する」のである。
もとはつながっていた口と肛門の間に、対象aが割り込んでくる。
それが、大人たちが考える「外界」となるのだ。
「寄生されることの享楽」。
大人たちが考える「外界」とは、生後直後の赤ん坊の「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界に、寄生して、生じるのだ。
冬虫夏草のようなことである。
大人たちが考える「外界」とは、もとをただせば「外界」などではないのだ。寄生虫のようなものだったのだ。
どこにでもあるドア。ドアのこちら側と向こう側の間に、異次元の世界が、あたかも二次元化されてあるようなことだ。
この二次元に何かしらの菌が埋め込まれる。
自分の体を食い破って、寄生していたそれが「外界」となる。
そういうことである。
蛇足だが、ラカン論ならば、一般的な内界の向こうに現実界という外を設定している。「外-密」。これをわかりやすく(?)言い換えるなら、一般的な語義における内界だけの症状だということで「自閉症は自閉症だ」となるが、現実界に接しているという意味で「自閉症は自開症だ」となる。
しかし今はそこは置いておく。
生まれたばかりの赤ん坊には外界がない。自体愛には外界がない。これは、内に閉じこもっているという意味ではなく、内外の区別がない、という風に考えなければならない。赤ん坊にとっては、刺激を受け反応する体内の運動と外部は同じことなのだ。体の内外に気づいていない。皮膚よりこちら側を内だとする考えを持っていない。自分の体でさえ外部なのだ。母乳でさえ異物なのだ。当然である。胎内に母乳など存在しない。
つまり、赤ん坊にとっては、自分の体も外部であり、「全て外部」だから「外界がない」となるのだ。「全てが外部」だからそれは内部でも構わない。大人が考えるような内外の区別がついていないから、それを外部と言おうが内部と言おうがどちらでもよい、ということだ。
では、内外の境界はどのようにして生じるのか。
皮膚(的なそれ)を内外の境界とする、という学習が鏡像段階とも言えよう。赤ん坊は鏡を見ることで、外部に映し出された表層としての、皮膚(的なそれ)を、想像的な内外の境界とする、と。
このことについても今は置いておこう。
そんな話をしたいんじゃない。これらのことはラカン論、クライン論を学べば見えてくる話にすぎない。
いや、クライン論だ。ラカン論では、わたしがここで語りたいことは、道具として不足である。
クラインすげー、って思ったよ。文体がメルヘンチックババアであるだけで、臨床を接続して考えると、非常に体系的であるように思える。
言葉以前の世界を述べているのだから、言葉はどうでもいいのだ。それをどう表現するかはさして重要ではないのだ。
実体と結びつけると、クライン論は実は体系的であるのがわかる。
その領域においては、どう表現するかはさして重要ではない。なのでわたしは、最近グノーシスづいているので、そこら辺の言葉を借用して述べてみたいと思う。
「全てが外部」だから、それを外部と言おうが内部と言おうが構わない。「全てが内部」でもよい。だから「自体愛には外部がない」という表現も正しい。外部がないのだから、「自体愛においては全てが外部である」でも構わない。
この状態の主観世界から、内外のある主観世界へ。
それを夢想していた。
すると、こんな表現、我ながらあざといなー、中二病くせえなー、と思ってしまうのだが、便利であるのは事実であるため、述べてみよう。
「ウロボロスの蛇」である。
「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界における運動は、ばらばらな無数の矢印を想像してもらえばよいだろう。すべての矢印がブラウン運動しているような。刺激による身体反応も、それを認知する何かも、等しくブラウン運動する体内反応でしかない。
いや、大体のまとまりはある。局所的にまとまっているところもある。均一に散漫となっているわけではない。
そのうちの、たとえば二つに、生後直後の身体活動から、よりまとまっていく。
ばらばらな無数の矢印が、二つの門によりまとめられていく。
この門は世界の果ての門だ。したがって、それは二つでありながら、一つの門でもある。門の裏表を二つと言っているようなことだ。
この、一つでありながら二つでもある門は、口と肛門である。
この門によって、ばらばらな矢印が、縄を編むようにまとめられていく。これが口唇欲動であり肛門欲動である。
しかし、何度も言うが、それらの門は一つの門である。口と肛門は門の裏表でしかない。生後直後の赤ん坊の「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界においては、それは一つの門でしかない。
口と肛門がつながっているようなことである、となる。
ウロボロスの蛇。
おそらく対象aとは、ウロボロスの蛇の、口と尻尾の間に割り込んでくるものだ。
乳房であり糞便であり声でありまなざしである。
「乳房を糞便爆弾で破壊する」のである。
もとはつながっていた口と肛門の間に、対象aが割り込んでくる。
それが、大人たちが考える「外界」となるのだ。
「寄生されることの享楽」。
大人たちが考える「外界」とは、生後直後の赤ん坊の「全てが外部」あるいは「全てが内部」である主観世界に、寄生して、生じるのだ。
冬虫夏草のようなことである。
大人たちが考える「外界」とは、もとをただせば「外界」などではないのだ。寄生虫のようなものだったのだ。
どこにでもあるドア。ドアのこちら側と向こう側の間に、異次元の世界が、あたかも二次元化されてあるようなことだ。
この二次元に何かしらの菌が埋め込まれる。
自分の体を食い破って、寄生していたそれが「外界」となる。
そういうことである。