歴史の罠
2010/05/08/Sat
アスペの類型として積極奇異、孤立、受動とあるんだが、これらは固定的なものじゃないんだな。成長過程によって変わっていく場合もある。その具体としてよく言われているのが、幼児期は積極奇異型だったが成長すると孤立型になる、あるいは孤立から積極奇異、ってのが多いらしいんだな。受動はどこいった? って思うんだが、ある心理士とスキゾイドとアスペの関連を話してたところ、「アスペの受動型は、これまでスキゾイドと診断されていた人が多いかもしれませんね」とか言ってた。要するに精神医学の診断名というただのルールが原因で、受動は特殊になっているだけ、って話だな。
ほら、精神医学自体が、精神病の研究をルーツにしているって言っても過言じゃないから。神経症が研究されはじめたのはそのあと。精神医学による神経症研究の傍流として誕生したのが精神分析。フロイトは神経症をメインに研究していた。ユングは精神病好きだったみたいだけど。
だから、精神病のうちの分裂病が、思考の基準になって、「症状がなんか分裂病っぽい、悪化したら分裂病になりそう」って感じ(精神医学なんてそんなもんだぜ)で分裂病質、つまりスキゾイドって病名が誕生したんだろう。そのあとの研究で、スキゾイドが分裂病になることはほとんどないってわかったんだが、名残で残っているんだろう。分裂病研究の歴史が自閉症研究より先んじてただけ、っていう。でも「精神病じゃない精神疾患はすべて神経症であり、神経症は心因性だ」って理屈があるから、スキゾイドは今でも心因性が議論されている。自閉症は定義的に器質因だろ、先天的なもの。となると自閉症とスキゾイドは別物だ、となる。
歴史の罠、だのう。
スキゾイドとアスペの関連の研究って、今自閉症研究村ではもっとも必要とされてる気がするんだが、あんまないんだよな。なんか犯罪心理学界隈では「犯罪を犯しやすい人格類型」でスキゾイドがよくあげられるんだが、そういうのも関係しているのかもしれんな。
別にいいじゃん、って素で思う。「犯罪を犯しやすい人格類型」だと言われようが、犯罪犯さなきゃいい話。
殺意を持つのは罪じゃない。殺してはじめて罪になるのだ。
殺意を持つことまで罪だとするなら、お前が他人の内面まで支配したがる支配欲が強い人格類型なだけだ、という話。
死ね。
顔の筋肉は、随意筋だ。
はたしてそうだろうか。
役者の稽古には顔の筋肉を鍛える目的のものが多い。それはそうだ。親が死んだときでも舞台上では笑ってコメディを演じなければならないのが役者だ。
随意筋ならば、そういったことは、稽古なしでも可能なはずだ。
しかしそうじゃない。
腕の筋肉は随意筋だ。いや、しかし条件反射はどうだ? 条件反射で腕が動いたとして、それは随意ではない。
程度の差、か。随意的に動かせる度合いが強いのが、随意筋か。それならまあ、顔の筋肉も随意筋かもしれない。場所にもよるだろうが。あれ? まぶたなどはどうだ? まばたきは随意ではない。しかし目を閉じようと思えば閉じられる。随意である。
程度の差、どういう程度の差だろう。
心臓などは、随意が介入する余地はない。腸も同じだ。しかし、過敏性腸症候群は、ストレスによりなることもある。ならば、意識的にストレスを感じる状態にせしめれば、随意的に下痢状態にさせることもできる。
何が基準なんだろう。随意筋と不随意筋との差は。
横隔膜などは半随意筋と呼ばれている。
すべての筋肉は半随意筋なのではないか。
人間の心が、「自分の体は自分の随意になる」という傲慢な思い込みが、不随意筋である心臓などを特別なものにさせ、随意筋と不随意筋という区別を作ったのではないだろうか。随意にならない筋肉を不随意筋という否定形で呼ぶのではないだろうか。
逆に考えれば。
「自分の体は、すべて自分の随意にならない」と考えれば。これを前提にすれば。
いや変わらないか。
ただそうすれば、ママさんところでバブーさんという自閉症当事者が主張している、「定型発達者には内言語なるものがあり、自閉症にはない。定型発達者は内言語により行動するが、自閉症の行動は条件反射のようなものだ」という論を、多少は理解できるかもしれない。
随意できないから不随意ではないのだ。不随意を随意化することが、問題なのだ。
そこを論じなければならないのだ。
「自閉症者はアイコンタクトができない」。確かにそうだと思う。普通の人は、会話するとき人と視線をあわす。
いやどうだろう。
定型発達者は本当に視線をあわせているのだろうか。
たとえば、役者の稽古で、わたしはある裏技を教えてもらった。「相手の眉間を見て話せば、目をあわせてしゃべっているように見える」と。これは舞台上だけではなく、日常生活でも非常に役立ったテクニックだ。
こんな裏技が言われているくらいなのだから、定型発達者も視線をあわせていないのではないか。
剣道をやっていた。剣道では、常に相手の目を見ることが大事だった。初心者は竹刀を見てしまう。それだと負けてしまう。実際目を見ていると、相手が動きだす瞬間がわかる。いや、「わかる」という言い方もおかしい。頭で「わかる」以前に体が反応する。実際には動かなくても、随意としてではなく、条件反射的に、体が動こうとする。
動物的なコミュニケーション。獣のコミュニケーション。
不随意筋は内臓のほとんどがそうである。
しかし、瞳孔は。不随意筋。
問題は視線ではないのではないか。
そんなことを考えていたら、こんなの見つけた。
「剣道における相手の目を見ること」は、人が視線をあわせたくない原因なのではないか。
定型発達者にとって、「視線をあわせること」は、「表情の同調」つまり「情動の同調」なのではないか。
剣道の、まるで獣のような警戒感を看取しあう、「視線をあわせること」とは別物なのではないか。
「会話するときは相手の目を見て話せ」とは、剣道のように、相手が動きだす瞬間を看取するためではなく、相手の情動を読み取ることを目的としているのではないか。
だとしたら、それは「目を見て話せ」ではないじゃないか。「顔を見て話せ」ではないか。
「何あったりまえのこと言ってんだ?」
あたりまえだろうか。
剣道における「目を見ること」は、少なくとも「相手の表情を読み取る」ことではない。
もっと、本能的な何か、としか言えないことを、看取しあっている。
剣道のときのように、相手の目を見ると、人はいやがるだろう。
それは「殺気」を読み取ろうとする目だから。
わたしは人と視線をあわせるのがなんとなくいやだ。だから「相手の眉間を見ればいい」という裏技を重宝した。
だけど、剣道をやっていたときは、わりとスムーズに目を見ることができた。同じ時期にはじめた子たちが、わたしが竹刀でフェイントをかけると、視線をそっちに動かすのがわかった。だから結構強かった。いや競技人口自体が少なかったけどさ。
意味のやり取りではない。剣道の「視線をあわせること」は、言葉や表情のやり取りじゃない。象徴的でも想像的でもない。
対象aとは、一見美しいものでもあるが、おぞましいものでもある。エロとグロは表裏一体である。
まなざしも対象aである。
神経症における対人恐怖症とは、「他人の視線を嫌う」症状でもある。
たとえば親が子に向けるような優しいまなざしが、剣道のときのようなまなざしになる。エロスとしてのまなざしがグロテスクなものになる。だから視線を嫌う。
そうじゃない。わたしは逆だ。
グロテスクな、「殺気」を看取しあうようなまなざしなら、わたしは大丈夫なのだ。
いや大丈夫ではないが。しんどい。
「意識」という表現も違う。剣道のときの精神状態は、意識ではあるが、意識ではない。無意識でもない。相手が動きだそうとした瞬間、同時に自分の体も動きだそうとする反応は自覚できる。
条件反射とは、意識でも無意識でもない。
超自我や自我の介入によって処理された信号。それによる筋肉の反応を「随意」としているのではないか。
だから、超自我や自我の介入のない、剣道のときのような、条件反射的な筋肉の反応を、随意とも不随意とも言えなくなっているのではないか。
剣道において無我の精神は重要である。頭に巻く手ぬぐい(「面タオル」っつってた)にも、「無心」や「無我」って印字されているのがよくあった。
心や我があると、条件反射的ではなくなり、反応が遅れる。真剣ならば殺される。
殺されなくても怖い。平均より背が低く、体力テストで級外になるような女子が、男子と普通に試合をするのだ。怖いに決まっておる。つばぜりあいとかぶっ飛ばされる。転び方がお笑い番組みたいだと笑われたことすらある。もちろんそんな風にわざと転んでるわけじゃない。身長差とか笑えるくらいにある。ほんと面が届かない。だから小手がうまくなった。出小手の名人だった。
β要素とは、精神病患者が感じている「死の恐怖」である。
しかしその正体は妄想分裂態勢だ。正常人でも赤ん坊の頃経験している精神状態だ。
武道とは、このβ要素と向きあう修練が、本義なのではないだろうか。
いやごめん、つっても剣道とか数年しかやってないし。
臭いからやめた。梅雨場とか最悪。面ひも結ぶだろ、結んでぱんぱんって締めるとき、水しぶきが腕にかかるのがわかるんだぜ? もちろん全部汗。水洗いなんてしねえし。
やってらんねー。
ほら、精神医学自体が、精神病の研究をルーツにしているって言っても過言じゃないから。神経症が研究されはじめたのはそのあと。精神医学による神経症研究の傍流として誕生したのが精神分析。フロイトは神経症をメインに研究していた。ユングは精神病好きだったみたいだけど。
だから、精神病のうちの分裂病が、思考の基準になって、「症状がなんか分裂病っぽい、悪化したら分裂病になりそう」って感じ(精神医学なんてそんなもんだぜ)で分裂病質、つまりスキゾイドって病名が誕生したんだろう。そのあとの研究で、スキゾイドが分裂病になることはほとんどないってわかったんだが、名残で残っているんだろう。分裂病研究の歴史が自閉症研究より先んじてただけ、っていう。でも「精神病じゃない精神疾患はすべて神経症であり、神経症は心因性だ」って理屈があるから、スキゾイドは今でも心因性が議論されている。自閉症は定義的に器質因だろ、先天的なもの。となると自閉症とスキゾイドは別物だ、となる。
歴史の罠、だのう。
スキゾイドとアスペの関連の研究って、今自閉症研究村ではもっとも必要とされてる気がするんだが、あんまないんだよな。なんか犯罪心理学界隈では「犯罪を犯しやすい人格類型」でスキゾイドがよくあげられるんだが、そういうのも関係しているのかもしれんな。
別にいいじゃん、って素で思う。「犯罪を犯しやすい人格類型」だと言われようが、犯罪犯さなきゃいい話。
殺意を持つのは罪じゃない。殺してはじめて罪になるのだ。
殺意を持つことまで罪だとするなら、お前が他人の内面まで支配したがる支配欲が強い人格類型なだけだ、という話。
死ね。
顔の筋肉は、随意筋だ。
はたしてそうだろうか。
役者の稽古には顔の筋肉を鍛える目的のものが多い。それはそうだ。親が死んだときでも舞台上では笑ってコメディを演じなければならないのが役者だ。
随意筋ならば、そういったことは、稽古なしでも可能なはずだ。
しかしそうじゃない。
腕の筋肉は随意筋だ。いや、しかし条件反射はどうだ? 条件反射で腕が動いたとして、それは随意ではない。
程度の差、か。随意的に動かせる度合いが強いのが、随意筋か。それならまあ、顔の筋肉も随意筋かもしれない。場所にもよるだろうが。あれ? まぶたなどはどうだ? まばたきは随意ではない。しかし目を閉じようと思えば閉じられる。随意である。
程度の差、どういう程度の差だろう。
心臓などは、随意が介入する余地はない。腸も同じだ。しかし、過敏性腸症候群は、ストレスによりなることもある。ならば、意識的にストレスを感じる状態にせしめれば、随意的に下痢状態にさせることもできる。
何が基準なんだろう。随意筋と不随意筋との差は。
横隔膜などは半随意筋と呼ばれている。
すべての筋肉は半随意筋なのではないか。
人間の心が、「自分の体は自分の随意になる」という傲慢な思い込みが、不随意筋である心臓などを特別なものにさせ、随意筋と不随意筋という区別を作ったのではないだろうか。随意にならない筋肉を不随意筋という否定形で呼ぶのではないだろうか。
逆に考えれば。
「自分の体は、すべて自分の随意にならない」と考えれば。これを前提にすれば。
いや変わらないか。
ただそうすれば、ママさんところでバブーさんという自閉症当事者が主張している、「定型発達者には内言語なるものがあり、自閉症にはない。定型発達者は内言語により行動するが、自閉症の行動は条件反射のようなものだ」という論を、多少は理解できるかもしれない。
随意できないから不随意ではないのだ。不随意を随意化することが、問題なのだ。
そこを論じなければならないのだ。
「自閉症者はアイコンタクトができない」。確かにそうだと思う。普通の人は、会話するとき人と視線をあわす。
いやどうだろう。
定型発達者は本当に視線をあわせているのだろうか。
たとえば、役者の稽古で、わたしはある裏技を教えてもらった。「相手の眉間を見て話せば、目をあわせてしゃべっているように見える」と。これは舞台上だけではなく、日常生活でも非常に役立ったテクニックだ。
こんな裏技が言われているくらいなのだから、定型発達者も視線をあわせていないのではないか。
剣道をやっていた。剣道では、常に相手の目を見ることが大事だった。初心者は竹刀を見てしまう。それだと負けてしまう。実際目を見ていると、相手が動きだす瞬間がわかる。いや、「わかる」という言い方もおかしい。頭で「わかる」以前に体が反応する。実際には動かなくても、随意としてではなく、条件反射的に、体が動こうとする。
動物的なコミュニケーション。獣のコミュニケーション。
不随意筋は内臓のほとんどがそうである。
しかし、瞳孔は。不随意筋。
問題は視線ではないのではないか。
そんなことを考えていたら、こんなの見つけた。
「剣道における相手の目を見ること」は、人が視線をあわせたくない原因なのではないか。
定型発達者にとって、「視線をあわせること」は、「表情の同調」つまり「情動の同調」なのではないか。
剣道の、まるで獣のような警戒感を看取しあう、「視線をあわせること」とは別物なのではないか。
「会話するときは相手の目を見て話せ」とは、剣道のように、相手が動きだす瞬間を看取するためではなく、相手の情動を読み取ることを目的としているのではないか。
だとしたら、それは「目を見て話せ」ではないじゃないか。「顔を見て話せ」ではないか。
「何あったりまえのこと言ってんだ?」
あたりまえだろうか。
剣道における「目を見ること」は、少なくとも「相手の表情を読み取る」ことではない。
もっと、本能的な何か、としか言えないことを、看取しあっている。
剣道のときのように、相手の目を見ると、人はいやがるだろう。
それは「殺気」を読み取ろうとする目だから。
わたしは人と視線をあわせるのがなんとなくいやだ。だから「相手の眉間を見ればいい」という裏技を重宝した。
だけど、剣道をやっていたときは、わりとスムーズに目を見ることができた。同じ時期にはじめた子たちが、わたしが竹刀でフェイントをかけると、視線をそっちに動かすのがわかった。だから結構強かった。いや競技人口自体が少なかったけどさ。
意味のやり取りではない。剣道の「視線をあわせること」は、言葉や表情のやり取りじゃない。象徴的でも想像的でもない。
対象aとは、一見美しいものでもあるが、おぞましいものでもある。エロとグロは表裏一体である。
まなざしも対象aである。
神経症における対人恐怖症とは、「他人の視線を嫌う」症状でもある。
たとえば親が子に向けるような優しいまなざしが、剣道のときのようなまなざしになる。エロスとしてのまなざしがグロテスクなものになる。だから視線を嫌う。
そうじゃない。わたしは逆だ。
グロテスクな、「殺気」を看取しあうようなまなざしなら、わたしは大丈夫なのだ。
いや大丈夫ではないが。しんどい。
「意識」という表現も違う。剣道のときの精神状態は、意識ではあるが、意識ではない。無意識でもない。相手が動きだそうとした瞬間、同時に自分の体も動きだそうとする反応は自覚できる。
条件反射とは、意識でも無意識でもない。
超自我や自我の介入によって処理された信号。それによる筋肉の反応を「随意」としているのではないか。
だから、超自我や自我の介入のない、剣道のときのような、条件反射的な筋肉の反応を、随意とも不随意とも言えなくなっているのではないか。
剣道において無我の精神は重要である。頭に巻く手ぬぐい(「面タオル」っつってた)にも、「無心」や「無我」って印字されているのがよくあった。
心や我があると、条件反射的ではなくなり、反応が遅れる。真剣ならば殺される。
殺されなくても怖い。平均より背が低く、体力テストで級外になるような女子が、男子と普通に試合をするのだ。怖いに決まっておる。つばぜりあいとかぶっ飛ばされる。転び方がお笑い番組みたいだと笑われたことすらある。もちろんそんな風にわざと転んでるわけじゃない。身長差とか笑えるくらいにある。ほんと面が届かない。だから小手がうまくなった。出小手の名人だった。
β要素とは、精神病患者が感じている「死の恐怖」である。
しかしその正体は妄想分裂態勢だ。正常人でも赤ん坊の頃経験している精神状態だ。
武道とは、このβ要素と向きあう修練が、本義なのではないだろうか。
いやごめん、つっても剣道とか数年しかやってないし。
臭いからやめた。梅雨場とか最悪。面ひも結ぶだろ、結んでぱんぱんって締めるとき、水しぶきが腕にかかるのがわかるんだぜ? もちろん全部汗。水洗いなんてしねえし。
やってらんねー。