フェティシスムとひきこもり または「スキゾ的仮面」を被る若者たち
2007/03/30/Fri
今更ながら、こちらのブログに掲載されている斎藤環氏の「脳はなぜ心を記述できないか」講演レポートを読んでみました。
やはりひきこもり専門家である斎藤氏ですから、ひきこもり関係の言葉には重みがあります。講演レポート4になりますね。そこから一部抜粋します。
=====
ひきこもりの人は、想像的なレベルでは社会参加できていないけれども、象徴的なレベルでは社会に参加させられていると言えるかもしれない。
=====
単純に社会参加=去勢の承認と言えるとは思いませんが、そうだとするなら実はこれフェティシスムの精神分析的構造と全く同じなのですね。
フェティシストは想像的同一化と象徴的同一化の狭間を生きています。象徴的去勢は承認し、想像的去勢を否認しているのです。
自らの想像的ファルスをフェティッシュ(フェチの対象)に換喩し、自らを「部分的に」対象aに移行させて、象徴的思考の中のある「待ち合わせ場所」において生の欲動的ベクトルと死の欲動的ベクトルが平衡し、そこに「突然停止した映画のように」留まるのがフェティシスムです。
車フェチが一番わかりやすいでしょうから、これを一例としましょう。彼らは車に想像的ファルスを投射しています。想像的ファルスとは視覚的にはそのままペニスとなりますが、形的に全然ペニスちゃうやん、と思われるかもしれません。しかし、想像界は視覚だけじゃありません。聴覚触覚なども含む体感的な世界です。恐らく、乗車することで超人間的なスピードを手に入れられるという「万能感」がファルスとして換喩されているのだと思います。この足の延長とも言うべき「体感」が「万能感」を媒介にして換喩され、彼らは車と想像的同一化しているのです(断っておきますが、車フェチの方を批判しているわけではありませんよ。あくまで「分析」です)。
フェティシストはフェティッシュに想像的ファルスを投射します。自らのファルスという部分を対象aに移行させてそれを愛するわけですから、自己愛的とも言えるでしょう。象徴界にはいろいろと穴が開いています。その穴を泉に喩えるなら、ちょうどナルキッソスが泉を覗き込んで、そこに映った自らの姿を愛してしまう光景と重なるかもしれません。ご存知の通り、ナルキッソスは自分の姿を映す泉から離れることが出来なくなり、そこで息絶えました。
同様に、フェティシスムも自らのファルスの魅力に取りつかれ、そこから離れられなくなります。「突然停止した映画のように」そこに留まってしまうのです。
以前にも書いた生の欲動ベクトルを記号で表したものを再掲しましょう。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a
/Sが象徴界から抹消された主体、S1が「知の中心」・「主の語らい」の主、Φがファルス、S2がS1の暗喩作用を受けた「知」・「言葉」・「シンボル」、Aが象徴界の他者、対象aは想像界の他者・「全ての欲望の根源」・「愛の領域」です。
S2は膨大な数がありますから、正確には
/S→S1→S2→S2→S2→……→対象a
となるでしょう。
この「S2→S2→……」即ちS2の連鎖の中の、ある「待ち合わせ場所」で、フェティシストは欲望を留めてしまうのです。
ひきこもりに戻りましょう。
私は以前「自己愛型引きこもり」という記事を書きました。そこで自己愛型ひきこもりとは、私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論を当てはめるなら、「スキゾ的仮面を被ったパラノ的人格のひきこもり」ではないか、と述べました。
「パラノ/スキゾ」という対比項はあくまでオタク文化を分析するためだけの尺度として用いていますが、一応再度ここで私の仮定義を述べておきましょう。
浅田彰氏の「パラノ/スキゾ」とは根本的に異なります。パラノは同じくパラノイアですが、スキゾは浅田氏はスキゾフレニー即ち統合失調症の「スキゾ」として用いてますが、私はスキゾイド即ち分裂病質という人格類型を基にしています。統合失調症とスキゾイドの違いはこちらの記事で述べました。
また、パラノイアも病的なそれではなく、ラカンの「人格とはパラノイアである」というような論を基にした「パラノ」です。即ち一般(的な人格を持つ)人という意味に近いものです。
ラカン風にそれらの違いを述べるなら、その精神世界の内的動力が「想像界>象徴界」なのが「パラノ」であり、「象徴界>想像界」なのが「スキゾ」です。しかしこれらに明確な閾値はありません。連続した差異です。パラノ的ともスキゾ的ともつかない人もたくさんいるでしょう。また、「>」という記号も比喩的なものです。実際には想像界と象徴界の内的動力なんて比較できません。「パラノ/スキゾ」は、本来の「パラノイア」「スキゾイド」を比喩的に用いたシニフィアンとして、比較として定義される曖昧な人格傾向を、「~的」のような感じで示す言葉として捉えてください。
以前は(今もそうですが)ひきこもりの人格素因として、スキゾイドが考えられていました。
彼らは想像界の内的動力が一般と比較して弱いため、愛情が薄いような印象を持たれたり、相手の表情などが醸し出す「空気が読めな」かったりします。そもそも人との(心的)距離が遠いのがスキゾイドです。人が人に対し何故人以外のものとは格別の情を抱くのかは、ラカンの鏡像段階論において、鏡に映った自分に万能感が換喩されることが起因となっています。即ち「自分に似ているから」人は人を愛するわけですね。しかしスキゾイドは視覚などの「体感的」な刺激の処理が苦手です。なので一般と比較して「人に対する愛情」が薄いような印象を持たれてしまい、他人との(心的)距離を遠く保つのです。とは言っても想像界が働いていないわけではないので、人を含めた自然のものに情が湧きます。スキゾイドは愛情全般が希薄なのではなく、単に人の形をしたものを特別視しないだけなのです。
こういったスキゾイドという人格類型は、少数派です。少数派だから特別扱い(研究)されてきたのですね。一方、パラノ的人格は、ここでは一般人と思っていただいて構わないでしょう。
パラノを一般人と仮定するなら、スキゾは、一般と比較してその精神世界の内的動力が、想像界は弱く象徴界が強い人格傾向である、と言えるでしょう。
しかし、現代ではスキゾ的人格ではないひきこもりが増えています。それを衣笠隆幸氏は「自己愛型ひきこもり」と名付けました。「自己愛」という言葉が誤解を生みそうなので、この名称は使われにくいのでしょう。簡単に結びつけることはできないと思いますが、斎藤氏の論なら「社会的ひきこもり」と類似している類型ではないでしょうか。斎藤氏の言うひきこもりはこの「社会的ひきこもり」がメインとなっているように思われます。それに倣い、以下この記事では「ひきこもり」とは「スキゾ的仮面を被ったパラノ的人格のひきこもり」を指すものとして取り扱います。
つまり、現代のひきこもりはその言動の一部はスキゾ的なところが見受けられるが、人格類型としてはパラノ的人格即ち「一般的な人格傾向を持つ人」である、ということです。
私は他の記事で、このパラノ的人格をオタク二分論として用いた場合、それは「マニア」と呼ばれる類型に当てはまるのではないか、と述べました。
斎藤氏の著作『戦闘美少女の精神分析』において、氏はこの「マニア」をフェティシスムと定義し、「おたく」という類型と区別しています。これに倣って私のオタク論も「マニア=フェティシスト」という解釈で進めています。
精神病としてのパラノイアとフェティシスムの関連については、精神分析医である藤田博史氏の『性倒錯の構造』によれば、「フェティシスムはパラノイアの防衛である」ということになります。即ち、パラノイア的症状を防衛するためにフェティシスムという症状において妥協的に安定するわけですね。
誤解を恐れず簡単に言うなら、パラノイアの妄想は、象徴的去勢と想像的去勢双方を否認し、現実的な「拒絶」「拒否」「欠如」を目の前にしてそれさえも否認することで、「語らい」が短絡されて生じるものです。フェティシスムは象徴的去勢は承認しはするが、象徴界の穴を覗き込みそこに想像的ファルスを投射しそれをナルキッソスのように愛してしまう。想像的去勢を否認してしまうのですね。だからそこで立ち止まってしまうのです。
ちなみに想像的去勢を承認して象徴的去勢を否認することは、人格形成史においては一般的な一過程として表れます。具体的に言うならば、「中二病」や「モラトリアム」などの「自我同一性の拡散」もこれが根底にあると思われます。「自我同一性の拡散」は象徴的去勢を承認する一つの過程だと私は思っています。一方、フェティシスムやパラノイアは、その人格形成において一度は去勢を承認するも、人格形成史を遡るように去勢を否認するのです。
ここまでの論をまとめると、ひきこもりは一般的な人格傾向を持ち(パラノ的人格)、フェティシストの如く象徴的去勢は承認しているが想像的去勢を否認してしまった人たちではないか、ということになります。
フェティシスムとひきこもりの、ラカン論的な精神世界の構造の共通性が、ひきこもり専門家であり「ラカン萌え」な斎藤氏によりいみじくも指摘されたわけですね。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論とは、「マニア(フェティシストまたはパラノ的人格)」から派生したのがスキゾ的人格傾向の「オタク」たちである。しかし、90年代中頃を境に、オタク文化が一般化されるにつれ、パラノ的人格を持つ人々がそこに参入した。パラノたちもスキゾ的なオタク文化の作法にのっとっている(「オタク」という仮面=スキゾ的仮面を被る)ため、彼らは先祖返りするように「マニア(フェティシスト)」化してしまった。結果文化傾向としてオタク文化はパラノ的且つマニア的になってしまった。というものです。この過程は、スキゾ的ひきこもりからパラノ的ひきこもりへ(の一般化)という過程と非常に似通ってはいないでしょうか。
となると、ここで二つの疑問が生じます。
一つは、現代のひきこもりがフェティシスト的傾向があるならば、彼らにとってのファルスを投影するフェティッシュとは何か? という問題。
もう一つは、オタク文化なら、前時代のスキゾ的オタクが残した(文化的)作法というものがあるが、ひきこもりはオタクとは限らない。ひきこもりにとっての「スキゾ的仮面」の正体は何か、ということです。
前者について。
フェティッシュ(フェチの対象)は換喩的に決定されます。これは夢の検閲における置換と等しいものです。夢が個人によって様々であるように、個人によって様々なフェティッシュがあるでしょう。とこれだけだと論拠が乏しいように思えますね。なので、そういった換喩の過程で一つ共通なものがあるのではないかな、という補足的な論として一つの仮説を提示します。
私はひきこもりの実態は、本などの知識以外には、彼らを取材したテレビを見たぐらいしか知りません。その上で、ですが、私は彼らがひきこもる部屋に一つの印象を持ちました。彼らの部屋はそこだけで暮らしが成り立つ一つのバイオスフィア的なもの、という印象です。娯楽的なものを含め彼らの生活に必要なもの全てがその部屋には揃っています。もちろん食事などは外部から与えられるものですが、そういった最低限の物以外は、「物の流通」を拒否しているように私には見えました。極端な例ですが、排尿さえ部屋の中で行い、ペットボトルに溜めているというケースもあるようですね。
「当たり前じゃないか、外に出たくないからひきこもりになるのだから」と思われるでしょう。確かにその通りです。しかし彼らのほとんどはパソコンを所有しており、「言葉あるいは記号の流通」が盛んであることと非常に対照的だと思えたのです。
このことは、少し批判的に見える言葉になってしまうかもしれませんが(決して批判ではありません)、彼らはそのバイオスフィア的な自分の部屋を、「母親の胎内」と体感的に感じているのではないか、即ち、彼らの無意識では、その部屋は「母親の胎内」に換喩されているのではないでしょうか。
胎児は言葉を知りません。しかし、胎内は求めるだけ与えられる「万能感」で満たされた場所です。車フェチの例を思い出しましょう。足の延長とも言える「移動」に対する体感的な「万能感」が媒介となって、彼らの想像的ファルスは車に投射され、換喩されています。つまりこういうことです。彼らのフェティッシュとは、ひきこもっている彼らの環境そのものなのではないでしょうか。
もちろん、これは換喩としての一つの仮説です。しかし、換喩や隠喩が連鎖して他のフェティッシュを見出していたとしても、彼らはこの換喩を共通のプロセスとして経ているのではないでしょうか。
となると、彼らの不安は、「ひきこもり」というシニフィアンから連鎖する象徴界的なものを原因としている、と言えるでしょう。彼らの葛藤は象徴界にあるのです。
後者について。これが非常に重要なポイントとなるような気がします。
これはオタク文化に限らない、現代文化、特に若者に関わる文化的特徴としてあげられるものはありますが、その原因や構造については私はまだ考えが至っていません。
オタク文化においては先輩たちが残した作法として存在する「スキゾ的仮面」。実はこれと類似の臭いがする文化的特徴としてのある傾向を、他の若者文化にも私は感じています。
私はそれを「スタイリッシュ主義」・「きれい好き」・「クール主義」などと表現します。
これはポップミュージックになどにも顕著ですね。私サンボマスター好きなのですが、彼らはスタイリッシュとは言えませんね。しかし、その販売戦略がスタイリッシュ主義的に行われてしまったような気がします。なので、「少し特異なミュージシャン」として消費されてしまったように思います。
「汚い」「うざい」人間の情念的なものを「商品」として消費することで、スタイリッシュを守っているように思えます。
分析的ではなく印象で言わせていただければ、この「スタイリッシュ主義」は、「記号」や「意味」の数的過剰による「自我や主体の隠蔽」という印象を受けます。情念的な「うざさ」や「熱」を遠ざけるという意味では、彼らはスタイリッシュ主義的な仮面を被ることで、自己がヒステリーやパラノイア的表層になってしまうことをアレルギー的に遠ざけているように感じます。これらは宮台氏の言う「強迫的アイロニズム」「ギャルの<システム>を生きる痛み」「主語の欠落」「痛みの欠落」や、斎藤氏の「ハイ・コンテクスト」と一つに結びつくものではないでしょうか。
「スタイリッシュ主義」や「きれい好き」は「スキゾ的仮面」とは言えないと思いますが、「クール主義」という言葉を連鎖させるならば、それはスキゾ的と呼べなくもないかと思います。というのは、先に説明したようにスキゾイドは人に対する情が希薄です。一見「クール」なのですね。
オタクやひきこもりに限らない、現代若者に通底するこの感じは、斎藤氏がひきこもりについて述べた以下の文章にも共鳴するように思われます。
=====
言い換えると、欲望は持たされているにもかかわらず、それを実現する手段を奪われてしまっているがために、「自分には欲望はない」と繰り返し自分に言い聞かせ続けているような主体。
あるいは、欲望がないというふうにかなり実体化させられてしまった主体といえるかもしれない。
=====
この「「欲望はない」と繰り返し言い聞かるような主体」と、東浩紀氏の「動物化」という言葉とをめぐり合わせて論じているのがこちらのブログです。
もちろん、スタイリッシュ主義的な文化傾向を批判しているわけではありません。私だってこんなハンドルネームを付けていますが、どちらかと言えばスタイリッシュ主義だと思っています。
しかし、ひきこもりや女性の摂食障害などは、社会のシステムに外的要件があるとするならば、内的にはどうもこの「自我や主体の隠蔽」というか、「欲望がないと思い込みたがる」ことが原因となっているのではないかと思うのです。
現代の若者たちは、象徴界の去勢を承認しているが故、「自我や主体の隠蔽」「欲望がないと思い込みたがる」というコンテクスト(広義の文脈性)に過剰に反応しているのではないか、そんな気がします。言葉としては間違っているものになってしまいますが、「象徴的去勢を承認しすぎ」なのではないでしょうか。「自我や主体の隠蔽」即ち自己を記号化させたがる力動。例えば宮台氏の90年代コギャル論における「まったり革命」などにその萌芽が認められるのかもしれません。しかしその正体は、今のところ私には見当がつきません。
浅田彰氏の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』から二十数年。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論は彼のそれとは別物ですが、彼の思惑通り人々のスキゾ化が進んだ時代なのかもしれません。しかし、人格というのはそう簡単に変えられないものでもあります。「三つ子の魂百まで」ですね。スキゾ化ではなく、「スキゾ的仮面」化が進んでしまったことによるひずみが、今現れているのではないでしょうか。その結果として、フェティシスム的な傾向が加速している、それが現代だと私は考えます。
*****
Freezing Pointさんの記事大変ためになりました。しかし、一つ気になるところが。
講演レポート4の*7。
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このお話を別のある精神科医にしたところ、「自閉症の方のほうが文脈がわかっていないように見える」とおっしゃっていた。 もちろん、重篤さの度合いだけでなく、「文脈の読めなさ」の質的相違があるのでしょう。
=====
これは「空気が読めない」ということについて書かれたものですが、確かに「文脈の読めなさ」≒「空気の読めなさ」だと思います。しかし、言葉尻を捉えるなら、「文脈」は象徴界的なもの、「空気」は想像界的なものと受け取られるんじゃないかなあ、と。まあ、両足のどちらに体重をかけているかぐらいの違いに過ぎないとは思います。
レヴィ=ストロースならば、「文脈」による社会は「非真正」、「空気」による社会は「真正」となる感じでしょうか。真正な社会とは顔の見える社会です。想像界での繋がりが主体になっている社会ですね。
とはいえ、2ちゃんなどは文字のコミュニケーションであるにも関わらず「空気読め」ということになっているので、上山さんの指摘が間違っているっていうわけでもないのですが。
ふと、そんなことを思っただけでした。
やはりひきこもり専門家である斎藤氏ですから、ひきこもり関係の言葉には重みがあります。講演レポート4になりますね。そこから一部抜粋します。
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ひきこもりの人は、想像的なレベルでは社会参加できていないけれども、象徴的なレベルでは社会に参加させられていると言えるかもしれない。
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単純に社会参加=去勢の承認と言えるとは思いませんが、そうだとするなら実はこれフェティシスムの精神分析的構造と全く同じなのですね。
フェティシストは想像的同一化と象徴的同一化の狭間を生きています。象徴的去勢は承認し、想像的去勢を否認しているのです。
自らの想像的ファルスをフェティッシュ(フェチの対象)に換喩し、自らを「部分的に」対象aに移行させて、象徴的思考の中のある「待ち合わせ場所」において生の欲動的ベクトルと死の欲動的ベクトルが平衡し、そこに「突然停止した映画のように」留まるのがフェティシスムです。
車フェチが一番わかりやすいでしょうから、これを一例としましょう。彼らは車に想像的ファルスを投射しています。想像的ファルスとは視覚的にはそのままペニスとなりますが、形的に全然ペニスちゃうやん、と思われるかもしれません。しかし、想像界は視覚だけじゃありません。聴覚触覚なども含む体感的な世界です。恐らく、乗車することで超人間的なスピードを手に入れられるという「万能感」がファルスとして換喩されているのだと思います。この足の延長とも言うべき「体感」が「万能感」を媒介にして換喩され、彼らは車と想像的同一化しているのです(断っておきますが、車フェチの方を批判しているわけではありませんよ。あくまで「分析」です)。
フェティシストはフェティッシュに想像的ファルスを投射します。自らのファルスという部分を対象aに移行させてそれを愛するわけですから、自己愛的とも言えるでしょう。象徴界にはいろいろと穴が開いています。その穴を泉に喩えるなら、ちょうどナルキッソスが泉を覗き込んで、そこに映った自らの姿を愛してしまう光景と重なるかもしれません。ご存知の通り、ナルキッソスは自分の姿を映す泉から離れることが出来なくなり、そこで息絶えました。
同様に、フェティシスムも自らのファルスの魅力に取りつかれ、そこから離れられなくなります。「突然停止した映画のように」そこに留まってしまうのです。
以前にも書いた生の欲動ベクトルを記号で表したものを再掲しましょう。
/S→S1=Φ→S2=A→対象a
/Sが象徴界から抹消された主体、S1が「知の中心」・「主の語らい」の主、Φがファルス、S2がS1の暗喩作用を受けた「知」・「言葉」・「シンボル」、Aが象徴界の他者、対象aは想像界の他者・「全ての欲望の根源」・「愛の領域」です。
S2は膨大な数がありますから、正確には
/S→S1→S2→S2→S2→……→対象a
となるでしょう。
この「S2→S2→……」即ちS2の連鎖の中の、ある「待ち合わせ場所」で、フェティシストは欲望を留めてしまうのです。
ひきこもりに戻りましょう。
私は以前「自己愛型引きこもり」という記事を書きました。そこで自己愛型ひきこもりとは、私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論を当てはめるなら、「スキゾ的仮面を被ったパラノ的人格のひきこもり」ではないか、と述べました。
「パラノ/スキゾ」という対比項はあくまでオタク文化を分析するためだけの尺度として用いていますが、一応再度ここで私の仮定義を述べておきましょう。
浅田彰氏の「パラノ/スキゾ」とは根本的に異なります。パラノは同じくパラノイアですが、スキゾは浅田氏はスキゾフレニー即ち統合失調症の「スキゾ」として用いてますが、私はスキゾイド即ち分裂病質という人格類型を基にしています。統合失調症とスキゾイドの違いはこちらの記事で述べました。
また、パラノイアも病的なそれではなく、ラカンの「人格とはパラノイアである」というような論を基にした「パラノ」です。即ち一般(的な人格を持つ)人という意味に近いものです。
ラカン風にそれらの違いを述べるなら、その精神世界の内的動力が「想像界>象徴界」なのが「パラノ」であり、「象徴界>想像界」なのが「スキゾ」です。しかしこれらに明確な閾値はありません。連続した差異です。パラノ的ともスキゾ的ともつかない人もたくさんいるでしょう。また、「>」という記号も比喩的なものです。実際には想像界と象徴界の内的動力なんて比較できません。「パラノ/スキゾ」は、本来の「パラノイア」「スキゾイド」を比喩的に用いたシニフィアンとして、比較として定義される曖昧な人格傾向を、「~的」のような感じで示す言葉として捉えてください。
以前は(今もそうですが)ひきこもりの人格素因として、スキゾイドが考えられていました。
彼らは想像界の内的動力が一般と比較して弱いため、愛情が薄いような印象を持たれたり、相手の表情などが醸し出す「空気が読めな」かったりします。そもそも人との(心的)距離が遠いのがスキゾイドです。人が人に対し何故人以外のものとは格別の情を抱くのかは、ラカンの鏡像段階論において、鏡に映った自分に万能感が換喩されることが起因となっています。即ち「自分に似ているから」人は人を愛するわけですね。しかしスキゾイドは視覚などの「体感的」な刺激の処理が苦手です。なので一般と比較して「人に対する愛情」が薄いような印象を持たれてしまい、他人との(心的)距離を遠く保つのです。とは言っても想像界が働いていないわけではないので、人を含めた自然のものに情が湧きます。スキゾイドは愛情全般が希薄なのではなく、単に人の形をしたものを特別視しないだけなのです。
こういったスキゾイドという人格類型は、少数派です。少数派だから特別扱い(研究)されてきたのですね。一方、パラノ的人格は、ここでは一般人と思っていただいて構わないでしょう。
パラノを一般人と仮定するなら、スキゾは、一般と比較してその精神世界の内的動力が、想像界は弱く象徴界が強い人格傾向である、と言えるでしょう。
しかし、現代ではスキゾ的人格ではないひきこもりが増えています。それを衣笠隆幸氏は「自己愛型ひきこもり」と名付けました。「自己愛」という言葉が誤解を生みそうなので、この名称は使われにくいのでしょう。簡単に結びつけることはできないと思いますが、斎藤氏の論なら「社会的ひきこもり」と類似している類型ではないでしょうか。斎藤氏の言うひきこもりはこの「社会的ひきこもり」がメインとなっているように思われます。それに倣い、以下この記事では「ひきこもり」とは「スキゾ的仮面を被ったパラノ的人格のひきこもり」を指すものとして取り扱います。
つまり、現代のひきこもりはその言動の一部はスキゾ的なところが見受けられるが、人格類型としてはパラノ的人格即ち「一般的な人格傾向を持つ人」である、ということです。
私は他の記事で、このパラノ的人格をオタク二分論として用いた場合、それは「マニア」と呼ばれる類型に当てはまるのではないか、と述べました。
斎藤氏の著作『戦闘美少女の精神分析』において、氏はこの「マニア」をフェティシスムと定義し、「おたく」という類型と区別しています。これに倣って私のオタク論も「マニア=フェティシスト」という解釈で進めています。
精神病としてのパラノイアとフェティシスムの関連については、精神分析医である藤田博史氏の『性倒錯の構造』によれば、「フェティシスムはパラノイアの防衛である」ということになります。即ち、パラノイア的症状を防衛するためにフェティシスムという症状において妥協的に安定するわけですね。
誤解を恐れず簡単に言うなら、パラノイアの妄想は、象徴的去勢と想像的去勢双方を否認し、現実的な「拒絶」「拒否」「欠如」を目の前にしてそれさえも否認することで、「語らい」が短絡されて生じるものです。フェティシスムは象徴的去勢は承認しはするが、象徴界の穴を覗き込みそこに想像的ファルスを投射しそれをナルキッソスのように愛してしまう。想像的去勢を否認してしまうのですね。だからそこで立ち止まってしまうのです。
ちなみに想像的去勢を承認して象徴的去勢を否認することは、人格形成史においては一般的な一過程として表れます。具体的に言うならば、「中二病」や「モラトリアム」などの「自我同一性の拡散」もこれが根底にあると思われます。「自我同一性の拡散」は象徴的去勢を承認する一つの過程だと私は思っています。一方、フェティシスムやパラノイアは、その人格形成において一度は去勢を承認するも、人格形成史を遡るように去勢を否認するのです。
ここまでの論をまとめると、ひきこもりは一般的な人格傾向を持ち(パラノ的人格)、フェティシストの如く象徴的去勢は承認しているが想像的去勢を否認してしまった人たちではないか、ということになります。
フェティシスムとひきこもりの、ラカン論的な精神世界の構造の共通性が、ひきこもり専門家であり「ラカン萌え」な斎藤氏によりいみじくも指摘されたわけですね。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論とは、「マニア(フェティシストまたはパラノ的人格)」から派生したのがスキゾ的人格傾向の「オタク」たちである。しかし、90年代中頃を境に、オタク文化が一般化されるにつれ、パラノ的人格を持つ人々がそこに参入した。パラノたちもスキゾ的なオタク文化の作法にのっとっている(「オタク」という仮面=スキゾ的仮面を被る)ため、彼らは先祖返りするように「マニア(フェティシスト)」化してしまった。結果文化傾向としてオタク文化はパラノ的且つマニア的になってしまった。というものです。この過程は、スキゾ的ひきこもりからパラノ的ひきこもりへ(の一般化)という過程と非常に似通ってはいないでしょうか。
となると、ここで二つの疑問が生じます。
一つは、現代のひきこもりがフェティシスト的傾向があるならば、彼らにとってのファルスを投影するフェティッシュとは何か? という問題。
もう一つは、オタク文化なら、前時代のスキゾ的オタクが残した(文化的)作法というものがあるが、ひきこもりはオタクとは限らない。ひきこもりにとっての「スキゾ的仮面」の正体は何か、ということです。
前者について。
フェティッシュ(フェチの対象)は換喩的に決定されます。これは夢の検閲における置換と等しいものです。夢が個人によって様々であるように、個人によって様々なフェティッシュがあるでしょう。とこれだけだと論拠が乏しいように思えますね。なので、そういった換喩の過程で一つ共通なものがあるのではないかな、という補足的な論として一つの仮説を提示します。
私はひきこもりの実態は、本などの知識以外には、彼らを取材したテレビを見たぐらいしか知りません。その上で、ですが、私は彼らがひきこもる部屋に一つの印象を持ちました。彼らの部屋はそこだけで暮らしが成り立つ一つのバイオスフィア的なもの、という印象です。娯楽的なものを含め彼らの生活に必要なもの全てがその部屋には揃っています。もちろん食事などは外部から与えられるものですが、そういった最低限の物以外は、「物の流通」を拒否しているように私には見えました。極端な例ですが、排尿さえ部屋の中で行い、ペットボトルに溜めているというケースもあるようですね。
「当たり前じゃないか、外に出たくないからひきこもりになるのだから」と思われるでしょう。確かにその通りです。しかし彼らのほとんどはパソコンを所有しており、「言葉あるいは記号の流通」が盛んであることと非常に対照的だと思えたのです。
このことは、少し批判的に見える言葉になってしまうかもしれませんが(決して批判ではありません)、彼らはそのバイオスフィア的な自分の部屋を、「母親の胎内」と体感的に感じているのではないか、即ち、彼らの無意識では、その部屋は「母親の胎内」に換喩されているのではないでしょうか。
胎児は言葉を知りません。しかし、胎内は求めるだけ与えられる「万能感」で満たされた場所です。車フェチの例を思い出しましょう。足の延長とも言える「移動」に対する体感的な「万能感」が媒介となって、彼らの想像的ファルスは車に投射され、換喩されています。つまりこういうことです。彼らのフェティッシュとは、ひきこもっている彼らの環境そのものなのではないでしょうか。
もちろん、これは換喩としての一つの仮説です。しかし、換喩や隠喩が連鎖して他のフェティッシュを見出していたとしても、彼らはこの換喩を共通のプロセスとして経ているのではないでしょうか。
となると、彼らの不安は、「ひきこもり」というシニフィアンから連鎖する象徴界的なものを原因としている、と言えるでしょう。彼らの葛藤は象徴界にあるのです。
後者について。これが非常に重要なポイントとなるような気がします。
これはオタク文化に限らない、現代文化、特に若者に関わる文化的特徴としてあげられるものはありますが、その原因や構造については私はまだ考えが至っていません。
オタク文化においては先輩たちが残した作法として存在する「スキゾ的仮面」。実はこれと類似の臭いがする文化的特徴としてのある傾向を、他の若者文化にも私は感じています。
私はそれを「スタイリッシュ主義」・「きれい好き」・「クール主義」などと表現します。
これはポップミュージックになどにも顕著ですね。私サンボマスター好きなのですが、彼らはスタイリッシュとは言えませんね。しかし、その販売戦略がスタイリッシュ主義的に行われてしまったような気がします。なので、「少し特異なミュージシャン」として消費されてしまったように思います。
「汚い」「うざい」人間の情念的なものを「商品」として消費することで、スタイリッシュを守っているように思えます。
分析的ではなく印象で言わせていただければ、この「スタイリッシュ主義」は、「記号」や「意味」の数的過剰による「自我や主体の隠蔽」という印象を受けます。情念的な「うざさ」や「熱」を遠ざけるという意味では、彼らはスタイリッシュ主義的な仮面を被ることで、自己がヒステリーやパラノイア的表層になってしまうことをアレルギー的に遠ざけているように感じます。これらは宮台氏の言う「強迫的アイロニズム」「ギャルの<システム>を生きる痛み」「主語の欠落」「痛みの欠落」や、斎藤氏の「ハイ・コンテクスト」と一つに結びつくものではないでしょうか。
「スタイリッシュ主義」や「きれい好き」は「スキゾ的仮面」とは言えないと思いますが、「クール主義」という言葉を連鎖させるならば、それはスキゾ的と呼べなくもないかと思います。というのは、先に説明したようにスキゾイドは人に対する情が希薄です。一見「クール」なのですね。
オタクやひきこもりに限らない、現代若者に通底するこの感じは、斎藤氏がひきこもりについて述べた以下の文章にも共鳴するように思われます。
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言い換えると、欲望は持たされているにもかかわらず、それを実現する手段を奪われてしまっているがために、「自分には欲望はない」と繰り返し自分に言い聞かせ続けているような主体。
あるいは、欲望がないというふうにかなり実体化させられてしまった主体といえるかもしれない。
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この「「欲望はない」と繰り返し言い聞かるような主体」と、東浩紀氏の「動物化」という言葉とをめぐり合わせて論じているのがこちらのブログです。
もちろん、スタイリッシュ主義的な文化傾向を批判しているわけではありません。私だってこんなハンドルネームを付けていますが、どちらかと言えばスタイリッシュ主義だと思っています。
しかし、ひきこもりや女性の摂食障害などは、社会のシステムに外的要件があるとするならば、内的にはどうもこの「自我や主体の隠蔽」というか、「欲望がないと思い込みたがる」ことが原因となっているのではないかと思うのです。
現代の若者たちは、象徴界の去勢を承認しているが故、「自我や主体の隠蔽」「欲望がないと思い込みたがる」というコンテクスト(広義の文脈性)に過剰に反応しているのではないか、そんな気がします。言葉としては間違っているものになってしまいますが、「象徴的去勢を承認しすぎ」なのではないでしょうか。「自我や主体の隠蔽」即ち自己を記号化させたがる力動。例えば宮台氏の90年代コギャル論における「まったり革命」などにその萌芽が認められるのかもしれません。しかしその正体は、今のところ私には見当がつきません。
浅田彰氏の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』から二十数年。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論は彼のそれとは別物ですが、彼の思惑通り人々のスキゾ化が進んだ時代なのかもしれません。しかし、人格というのはそう簡単に変えられないものでもあります。「三つ子の魂百まで」ですね。スキゾ化ではなく、「スキゾ的仮面」化が進んでしまったことによるひずみが、今現れているのではないでしょうか。その結果として、フェティシスム的な傾向が加速している、それが現代だと私は考えます。
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Freezing Pointさんの記事大変ためになりました。しかし、一つ気になるところが。
講演レポート4の*7。
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このお話を別のある精神科医にしたところ、「自閉症の方のほうが文脈がわかっていないように見える」とおっしゃっていた。 もちろん、重篤さの度合いだけでなく、「文脈の読めなさ」の質的相違があるのでしょう。
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これは「空気が読めない」ということについて書かれたものですが、確かに「文脈の読めなさ」≒「空気の読めなさ」だと思います。しかし、言葉尻を捉えるなら、「文脈」は象徴界的なもの、「空気」は想像界的なものと受け取られるんじゃないかなあ、と。まあ、両足のどちらに体重をかけているかぐらいの違いに過ぎないとは思います。
レヴィ=ストロースならば、「文脈」による社会は「非真正」、「空気」による社会は「真正」となる感じでしょうか。真正な社会とは顔の見える社会です。想像界での繋がりが主体になっている社会ですね。
とはいえ、2ちゃんなどは文字のコミュニケーションであるにも関わらず「空気読め」ということになっているので、上山さんの指摘が間違っているっていうわけでもないのですが。
ふと、そんなことを思っただけでした。