無力感
2010/05/15/Sat
「去勢の承認」とは、無力な自分を承認することである。
わたしは、未去勢者とは無能者だ、未去勢的な主観世界は無能によるものである、と主張している。
ではそれは未去勢などではなく、「去勢の承認」ではないか、となる。
違う。まったく違う。
「去勢の承認」とは、いったん自分を俯瞰視点で認識することにより、無力であることを承認するのである。
これはたとえば、満天の星空を見ていて、広大な宇宙を夢想し、それに自分を投影し、「自分がちっぽけである」と感じるようなことだ。『イッテQ』のカレンダー企画に登場した金子貴俊だ。いやわたし金子くん好きだけど。
金子のこの無力感は「去勢の承認」である。
しかし、星明りはあるとはいえ、まっくらな夜の中、いくあてもわからずさまよっている放浪者がいたとしたら、どうだろう。彼には、満天の星空を眺めて、それに自分を投影する余裕なんてないだろう。
「宇宙に自分を投影する」段階の有無がある。「宇宙に自分を投影する」などということは、万能感である。なんせ宇宙なのだから。彼は一度、フロイト論における「父」的な、人格的な対象としての宇宙に、自分を投影している。宇宙という全能的人格者から見て、「自分はちっぽけな存在だ」というわけだ。ラカン論で述べるならば、このとき彼にとっての宇宙とは自我理想だった、とも言えるだろう。自分を抑圧する理想の人格としての、宇宙。
彼のこの思考には、万能感という段階が存在する。金子貴俊は去勢済み主体であろう。いやお子さん生まれたらしいしね。「去勢の承認」するのはある意味当然。当然というより健全だな。
一方、渇き飢える放浪者には、そんな余裕がない。宇宙を人格のある対象なんて思わない。彼はただ自然の中をさまよっているだけだ。宇宙という自然の中を。
この状態が、未去勢的なのである。
したがって、「去勢の承認」と未去勢は、まったく別物である、となる。
わたしは未去勢者の主観世界とは迷子のような感覚だ、とも述べている。それが妄想分裂態勢である、と。
これはこういうことだ。
「去勢の承認」としての無力感と、迷子のときの無力感は、まったく別物である。
おわかりだろうか。
ここんとこわかってない奴が多すぎるよな。ラカニアンでさえ。
ラカンはクライン論を擁護しただろうが。
ほんとバカだよな。お前ら。
いや、金子を魅了した満天の星空のもと、いくあてもなくさまよう放浪者だって、歩きつかれたはてにふと夜空を見あげることもあるだろう。
そのとき彼はどう思うだろうか。
彼は死を覚悟するだろう。
禁忌としての死ではなく、恍惚としての死が、一瞬脳裏をよぎるだろう。
自然と一体化するという意味での、死。
これが、未去勢者がもっとも去勢済み主体に近づいた状態でもある、抑鬱態勢である。
それはまるで、一瞬の中に永遠が閉じ込められているようなことである。
時代を閉じ込めた氷山のごとき不動さ。静寂さ。
無意味という現実。
これから離れれば、自分はまたあの不安一色の世界に戻るだろう。
ならば、なぜかわからないが、不安から逃れられたこの一瞬を、死という安心を、享受すべきではないか。
このとき彼は、宇宙を人格的なものとして見ていないだろうが、もしそう見ているならば、「抑圧する父」などではなく、「自分を殺す父」としてそれを見ていることになる。子を殺す親なのだから、人格的であるわけがない。そんな親いたら人格者であるとは言えないだろう。だからそれは「父」ではない。もちろん「母」などでもない。
それはただの自然である。
ただの自然に苦しまされ、ただの自然に殺される。ただの自然として。
当たり前のことじゃないか。動物として。
人間は動物とは違う生き物だという固定観念があるから、こんな簡単なことに気づかなかっただけなのかもしれない。
放浪者はそんなことを思いながら眠りにつく。
翌朝凍死してしまった自分を夢想しながら。
……しかし、運よく生きながら目覚めた彼は、昨晩の思考など、覚えていないだろう。覚えていたとしても、言語化されたものとして覚えているだけだろう。うっすら覚えていたとしても、夢心地の感覚として処理するだろう。
あのとき感じた「一瞬の永遠」は覚えていないだろう。
彼はまた砂漠をさまよう。生き長らえようとして、ではなく、ただの惰性として。
彼の歩みはそういったものだ。
三途の川で無意味に小石を積み上げる赤子のようなものだ。
わたしは、未去勢者とは無能者だ、未去勢的な主観世界は無能によるものである、と主張している。
ではそれは未去勢などではなく、「去勢の承認」ではないか、となる。
違う。まったく違う。
「去勢の承認」とは、いったん自分を俯瞰視点で認識することにより、無力であることを承認するのである。
これはたとえば、満天の星空を見ていて、広大な宇宙を夢想し、それに自分を投影し、「自分がちっぽけである」と感じるようなことだ。『イッテQ』のカレンダー企画に登場した金子貴俊だ。いやわたし金子くん好きだけど。
金子のこの無力感は「去勢の承認」である。
しかし、星明りはあるとはいえ、まっくらな夜の中、いくあてもわからずさまよっている放浪者がいたとしたら、どうだろう。彼には、満天の星空を眺めて、それに自分を投影する余裕なんてないだろう。
「宇宙に自分を投影する」段階の有無がある。「宇宙に自分を投影する」などということは、万能感である。なんせ宇宙なのだから。彼は一度、フロイト論における「父」的な、人格的な対象としての宇宙に、自分を投影している。宇宙という全能的人格者から見て、「自分はちっぽけな存在だ」というわけだ。ラカン論で述べるならば、このとき彼にとっての宇宙とは自我理想だった、とも言えるだろう。自分を抑圧する理想の人格としての、宇宙。
彼のこの思考には、万能感という段階が存在する。金子貴俊は去勢済み主体であろう。いやお子さん生まれたらしいしね。「去勢の承認」するのはある意味当然。当然というより健全だな。
一方、渇き飢える放浪者には、そんな余裕がない。宇宙を人格のある対象なんて思わない。彼はただ自然の中をさまよっているだけだ。宇宙という自然の中を。
この状態が、未去勢的なのである。
したがって、「去勢の承認」と未去勢は、まったく別物である、となる。
わたしは未去勢者の主観世界とは迷子のような感覚だ、とも述べている。それが妄想分裂態勢である、と。
これはこういうことだ。
「去勢の承認」としての無力感と、迷子のときの無力感は、まったく別物である。
おわかりだろうか。
ここんとこわかってない奴が多すぎるよな。ラカニアンでさえ。
ラカンはクライン論を擁護しただろうが。
ほんとバカだよな。お前ら。
いや、金子を魅了した満天の星空のもと、いくあてもなくさまよう放浪者だって、歩きつかれたはてにふと夜空を見あげることもあるだろう。
そのとき彼はどう思うだろうか。
彼は死を覚悟するだろう。
禁忌としての死ではなく、恍惚としての死が、一瞬脳裏をよぎるだろう。
自然と一体化するという意味での、死。
これが、未去勢者がもっとも去勢済み主体に近づいた状態でもある、抑鬱態勢である。
それはまるで、一瞬の中に永遠が閉じ込められているようなことである。
時代を閉じ込めた氷山のごとき不動さ。静寂さ。
無意味という現実。
これから離れれば、自分はまたあの不安一色の世界に戻るだろう。
ならば、なぜかわからないが、不安から逃れられたこの一瞬を、死という安心を、享受すべきではないか。
このとき彼は、宇宙を人格的なものとして見ていないだろうが、もしそう見ているならば、「抑圧する父」などではなく、「自分を殺す父」としてそれを見ていることになる。子を殺す親なのだから、人格的であるわけがない。そんな親いたら人格者であるとは言えないだろう。だからそれは「父」ではない。もちろん「母」などでもない。
それはただの自然である。
ただの自然に苦しまされ、ただの自然に殺される。ただの自然として。
当たり前のことじゃないか。動物として。
人間は動物とは違う生き物だという固定観念があるから、こんな簡単なことに気づかなかっただけなのかもしれない。
放浪者はそんなことを思いながら眠りにつく。
翌朝凍死してしまった自分を夢想しながら。
……しかし、運よく生きながら目覚めた彼は、昨晩の思考など、覚えていないだろう。覚えていたとしても、言語化されたものとして覚えているだけだろう。うっすら覚えていたとしても、夢心地の感覚として処理するだろう。
あのとき感じた「一瞬の永遠」は覚えていないだろう。
彼はまた砂漠をさまよう。生き長らえようとして、ではなく、ただの惰性として。
彼の歩みはそういったものだ。
三途の川で無意味に小石を積み上げる赤子のようなものだ。