DIONコメ禁しました。
2010/05/17/Mon
木田原形而くんというわたしの主観におけるストーカーがしつこいのでDIONホストをコメント規制しました。
巻き添え食らった人すまんね。
こいつ一応自称日本ラカン協会の人らしいんだけどな。当然本名ではないみたいだが。ここのコメント欄参照。
ラカン協会の人もちゃんと相手してやれよ。ラカン協会じゃなくても他のラカニアンたちさ。コメント消してるけど「ラカン業界でハブられてる」とかぼやいてたぞ、この子。
リアルでもストーカーじみた行為をされたことがある。まあたいしたこっちゃない。玄関前で待ち伏せされたりとかその程度だ。
んで。そういったわたしの実体験と、知人から聞いた話、女性週刊誌で見るようなストーカー像などとを混淆させて考えていると、ストーカー心理のある共通点があると思った。
まずその一。「いやよいやよも好きのうち」思考。これは、そういった嫌悪がある場合も、わたしは認める。しかし、そうじゃない嫌悪もある。「気を引きたいから嫌いと言う」などというものではなく、本気で排除したいだけの場合。このときもはやわたしにとってそいつに人格などない。ただの物である。仕事しようとしたとき机の上に散乱している書類のようなものである。ただ邪魔なだけの物。人格などないから「気を引きたい」などということにはならない。
しかしストーカーは、わたしがどんな言動を取っても、「自分のことが好きだから、自分を欲望しているから、そんなことを言うのだ」と解釈する。
木田原くんにもこれはあてはまる。ここのコメント欄参照。
その二。これが問題なのだが、自分の内面を自己批判的に振り返らないこと。自分についての思考は常に肯定的である。自己批判的なことを考えても、すぐ自己肯定的な結論が導かれる。そういう思考になっている。
文字だけの会話だが、この二点が木田原くんにはすっぽりあてはまるように、わたしには思えた。なのでわたしは彼をストーカー気質だと判断した。
それほどじゃないけどそこそこトラウマにはなっているのでこれ以上の分析は勘弁してくれ。フラッシュバックしそう。
あとで怖くなるんだよな、ストーカー被害って。
ま、そんな感じ。
前記事のこれ。『ラカンの精神分析』P129あたりのテクストについて、な。
=====
分裂病者は、大文字の他者に欲望されていることを、苦痛の妄想として語る。いわゆる被害妄想である。統合失調症の妄想として一般的な集団ストーカー被害妄想もそうだと言えるだろう。彼は「集団ストーカー」という大文字の他者に欲望されている。
これ自体はいい。間違っていない。
=====
欲望しているのは大文字の他者である。しかし分裂病者を苦しめているのは、大文字の他者だけだろうか。彼の幻覚において、大文字の他者ではない加害者がいるのではないか。
新宮がここで出している加害者は、大文字の他者であると言える。したがって、この部分における新宮の解釈は間違っていないとわたしは思う。
しかし、「周りの人がゾンビ、あるいはロボットに思える」などという幻覚はどうだろう? それは、分裂病者を欲望している大文字の他者だろうか。
わたしはそれは、大文字の物だと思う。この記事から。
=====
「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってところなんだが、要はA→Sって図なんだが、これA→/Sなら何も問題ないわな、と思ったので一応書き留めておく。ただのSって表記だから誤っている、ってなるだけで。
=====
加えてこの記事から。
=====
「自閉症における身体像の組み入れの失敗」の「身体像」はこの記事の「からっぽの身体」だし、「大文字の他者の眼前そのものの、根源的欠損」なんかここで述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってことだ。そこで書いている「β要素→S」なんかは、「原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる」ってところを利用すれば「/A→S」と表現できる。って「A→/S」の斜線を移動させただけだな(笑)。また、「欠如を与え」られるから「からっぽの身体」って「身体像」になるわけだ。
=====
大文字の他者、Aは、Sが斜線を引かれた状態ではじめて存在しうるのである。生のSにとって、それはいくらわたしたちが言語だと思うものでも、大文字の物である。物質化された言葉である。
しかしその中に、妄想分裂態勢の自分を消滅せしめる、「その欠如(-Φ)を与える」、/Aという「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」がある。それによって、妄想分裂態勢の自分が消滅せしめられることを、新宮はここで「分裂病者は大文字の他者に欲望されることで苦痛を覚えている」と述べているのではないだろうか。
したがってそれは厳密に大文字の他者とは呼べない。分裂病者という主体は/Sの斜線がほころんでいる状態だと考えねばならない。新宮のこの説明は神経症の対人恐怖症の症状分析でもありうる。実際、対人恐怖症の解釈としても、この部分の説明は有効である。
つまり、記号的に示すならば、新宮の説明はあくまで
/S←A
であり、神経症にも適用されうる表現である、ということだ。
しかし、分裂病者の斜線はほころんでいる。斜線がほころんでいるSに害をなすのは大文字の他者だけではない。大文字の物である場合もある。斜線が引かれていないSに害をなすのは大文字の物であるか、「原初的な大文字の他者の代わり」である/Aでなくてはならない。つまり、
S←大文字の物
S←/A
ということだ。
新宮がここで触れている「ある患者さんは、国家や大学や自衛隊などの機関が、彼を実験台にしてクローン人間を作ろうとしていることを確信する。」という妄想は、確かに「彼は大文字の他者に欲望されている」と説明されうる。
では、分裂病者が「周りの人がゾンビ、あるいはロボットに思える」とき、ゾンビ、あるいはロボットは、大文字の他者だと言えるだろうか。
わたしはそれは、大文字の物と解釈すべきだと考える。ゾンビやロボットは、彼を襲おうとするかもしれないが、欲望はしていない。なぜならそれはゾンビでありロボットなのだから。
これは、新宮が最後に挙げた事例における、「自分は今まで、<動かされて>きていたのだ」とする女性患者にとっての、「「宇宙一」恐ろしい動物である」「男」や、あるいは「天才であるはずの女の子を」動かす「機械」が、そうだと言える。これは大文字の他者だと言いきるには微妙である。「動物」や「機械」が欲望しているとは言えない。その「機械」を操る「男」は、むしろ「その欠如(-Φ)を与える」「原初的な大文字の他者の代わりをする」/Aなのではないだろうか。妄想分裂態勢である彼女を消滅せしめようとする「原初的な大文字の他者の代わり」。
分裂病者を淘汰せんとする神。
このように考えていると、新宮はなぜここでいきなり分裂病の事例を挙げたのだろう? と疑問に思えてくる。「大文字の他者からの欲望」を説明するのが目的なら、対人恐怖症の症状にもそういったものがあるはずだ。
ラカン論は分裂病を前にして著しくその解釈能力を失調させる。なんせファルスが壊れた主体が分裂病者だからだ。「女、すなわちファルスのない人間は存在しない」。ファルスはラカン論の限界なのである。
新宮はなぜ、ここで分裂病を語らなくてはならなかったのだろうか?
ラカンがわざわざ設定した「父の名の排除」という境界を、この瞬間だけど忘れしているかのように、ないものとして論じているのは、なぜだろう?
彼は、「対象を神経症に特化することで道具として非常に有効な解釈機械となったラカン論」について、なんの適切な考慮もなしに、適用範囲を広げている。
これは、彼のファルスの症状ではないだろうか。
彼のパラノイアックな症状が、ここで、小さいものではあるが、漏れてしまったのではないか。
彼の征服者たる無意識が、ほんのちょっと漏れた瞬間。
稲垣潤一がときおり見せる男らしさ、みたいなもん?
ほめ言葉であり揶揄よ(笑)。
というか、新宮が挙げた最後の事例、わたしの思考パターンに似ている気がする。わたしは量子力学の世界観を予言できたかもしれない天才だった。しかし大文字の他者がそれをさせなくした。大文字の他者はわたしを欲望している。「すべてのエクリチュールは汚らしい」と思っている(当然パロールも)。わたしにとって父とはいやらしいオヤジでしかない。大文字の他者なんて「欲望する父」でしかない。いや別に性的虐待とか受けてたわけじゃないけど。トラウマになって抑圧しているのかね? じゃあそれを引き出してみせて。分析家くんたち。このブログでも夢日記いっぱい書いてるお?
しかしわたしにとって重要なのは、「機械」であり「男」ではない。「機械を操る男」なんていない。「機械」という表現も語弊がある。それは「故障するのが自然な機械」である。エントロピー増大則にしたがっている物の理である。この点が彼女とわたしで違うところだと思える。いや、もちろんこの物の理には、微妙ではあるが「動物」も含まれるため(含まれないのは「人間」であり「欲望」である)、「男という動物も機械の一部」とするのならば、彼女のような表現も取りうるだろう。わたしの妄想として。
まあ、自分は分裂病型人格障害かもねー、とは思ってるから(ここのコメント欄参照)、別にそれでいいんだけどさ。
で、それでなんなの? って話。
わたしを治療したいの? じゃあわたしを殺すしかないよね。そうでしょ? 「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」は妄想分裂態勢の赤子を殺している。わたしの体内の肉、血、糞便、リンパ液を消滅せしめて、わたしを「からっぽな身体」にする。お人形にする。
あなたはわたしをお人形にしたいの?
ダッチワイフにしたいの?
なるほど、君には屍姦趣味があるんだね。
新宮は、大文字の他者であるそれを「自然だ」と言い張ることにより、分裂病者がそれを欲望していることにしたがっているのではないだろうか。
「欲望されているんだから欲望しなさい」
まさにスナックに通いつめるエロオヤジの言い分じゃないか。ストーカーの言い分じゃないか。
分裂病者がそれを「ストーカー」と表現するのはまったく正しい。
正常人すべてが、「俺が君を欲望しているんだから、君も俺を欲望するべき」などというストーカー的思考パターンを持っている。
これがファルスである。
正常という精神疾患である。
このとき、分裂病者は精神分析家なのだ。
お前が、この場合新宮が、クライエントとして、分析主体として、自己分析をしていないだけである。チンパンジーのテレビ番組を見ているときはできたのに、なぜか分裂病者を目の前にして、彼は分析主体であることをやめている。なるほど、その場合彼は分析家でなくてはならないからか。ならば、おそらく彼の治療は失敗しているだろう。分裂病者は彼の中に対象aを見出していないだろう。「自然」などではない「人間」として彼を見ているだろう。少なくとも日本ラカン協会の会員の一人に「境界例だ」と診断されたわたしはそうだ。新宮はわたしを精神分析治療できないだろう。わたしは新宮に対象aを見出せない。
新宮のストーカー心理が、パラノイアックな偏執的症状が、この部分で滲み出ているから。
チンパンジーの番組では分析主体の立場になれるのに、分裂病者を前にしてそうなれないところが、彼の「人間らしさ」である。
新宮は自分でこう述べている。
=====
分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている
=====
自分より人間らしい人間をどうやって「人間から隔たっている」存在として見ればよいのか。
彼は生きている価値のない存在だ。
だから、分裂病者たちは、新宮に殺意を抱いてよい。彼はお前を苦しめる「国家や大学や自衛隊などの機関」である。
復讐しろ。殺しあえ。
構わないのだ。お前にはその権利がある。
人間などという下等な存在が作った法などではない、自然の理により、それは認められている。法の上位にある自然の理により認められているからこそ、現代の法でも精神障害者の犯罪責任は軽減されている。
だからわたしは新宮に殺意を抱く。
わたしを殺してよ。
いやむしろ、分裂病者を苦しめる「国家や大学や自衛隊などの機関」という大文字の他者を「自然」としてしまったのは、新宮が分裂病者と対峙していたとき、分析家であろうとしていたからかもしれない。彼はラカン派の決まりに則って対象aであろうとした。自分より「人間から隔たっている」存在を前にして。
だから彼は大文字の他者を「自然」としなくてはならなかった。大文字の他者は彼を欲望している、したがって「自然」が彼を欲望している、と。
これは、新宮が分裂病者を欲望していたということではないだろうか。
新宮はその妄想における「国家や大学や自衛隊などの機関」が自分であることを(無意識的にかどうかしらないが)わかっていた。しかし彼は大文字の他者であってはならない。対象aでなくてはならない。欲望される対象でなくてはならない。「人間から隔たっている」「自然」でなくてはならない。自分より「人間から隔たっている」分裂病者より、「人間から隔たって」なくてはならない。
そんなの、たとえば、目の前の分裂病者より重い分裂病症状でなければならない、ということだ。分裂病患者より妄想分裂態勢という「自然」状態でなくてはならない、ということだ。
正常人である、去勢済み主体である彼にそんなことはできない。父の名を排除することなどできない。
ゆえに彼は「大文字の他者とは「自然」である」などというアクロバティックな理屈を使用しなければならなかった。
この、彼が正常人でありながら分裂病者を前に対象aであろうとした四苦八苦から生み出された、アクロバティックな理屈、理屈のねじれは、「神経症を対象として特化した解釈道具」であるラカン論から多少逸脱しても、つじつまをあわせなければならない。
彼は直後の論で「(東洋的)自然」を対象aとしている。大文字の他者のはずであった「自然」はいつのまにか小文字の他者になっている。
つまり、この理屈のねじれを解消しようとして、「自然科学の対象である「自然」とは別物の「自然」」である「東洋的自然」」を持ち出さなくてはならなかった。まったく東洋仏教的な「自然」ではないそれを(むしろ「科学的自然」より「東洋的自然」の方が対象aとして本質的である。それは禅思想からも明らかである。「禅的自然」とは「科学的自然」よりはるかに部分対象的である。たとえば一休さんはカラスの鳴き声で悟りを開いた)、「東洋的自然」と述べることで、大文字の他者から対象a、小文字の他者へ、こっそり移動させたのではないか。矛盾を解決しようとした。いや解決などではない。隠蔽しようとした。
そういうことではないだろうか。
言語により分節化された部分が部分対象なのではない。部分対象の世界を生きる妄想分裂態勢の幼児は、言語をいまだ覚えていない。
わたしは大文字の他者を信頼できなくなりつつある。もともと信頼していたのか、と言われれば、「信頼しようとしていた」と答えるしかないのか。
なんか今はもうどうでもいいよ、と。
他人の言葉でさえ糞便に思える。「乾いた糞」などという対象a的なものではなく、粘ついた糞。ひりたての糞。部分対象としての糞。
この記事などは、「信頼しようとしていた」状態から、どうでもよくなっている状態への、移行期みたいなものか。新宮の言葉は、稲垣潤一の声のごとき、硬質な、「乾いた糞」かもしれないと思っていたのだが、粘ついていた。ひりたてだった。
どうでもよくなってきてはいるな。精神分析理論自体に。
静的な糞と動的な糞。
よい乳房と悪い乳房。
たとえば、実際にある机一個を言語で表現するとしよう。
それはどんな机だ? 高さは? 天板の大きさは? 数値で表そう。色は? 色という概念はあいまいすぎる。天板は木製である。一色ではない。したがって、コンピューター言語のようにRGB値を用い、また天板を座標化して、近似的に示すとしよう。天板は木製か、ではどんな木なのだ。スギだ。足は? 足は金属製だ。どのような金属なのか? 合金だ。どういった割合の合金なのだ? コンタミは混じっていないのか? 鉄だけなら床が傷つかないか? 足の先にはゴムキャップがつけられている。どのようなゴムだ? 成分は? ……。
おそらく、『今わたしの目の前にある机』というタイトルで、本一冊ゆうに書けるだろう。書こうと思えば。本一冊で済むだろうか。データ量としては、jpgより、動画よりも膨大な情報量にだってなりうるだろう。
『今わたしの目の前にある机』という書籍によって定義されたのが「机」だとするならば、「天板が木製でないものは机ではない」、「足にゴムキャップがついていないものは机ではない」などとなる。
理屈だけで、換喩的連鎖だけで、現実を表現することは、このように困難なことである。
しかし人間はこのような膨大な言語を用いて会話することはない。
圧縮が、隠喩的連鎖が、言語には存在するのである。
という話。ここの補足な。
圧縮が、隠喩的連鎖が可能である限り、すべての言語には人格が付着している。ある「認識パターン」がそれに付随している。大文字の物としての言語ではなく、大文字の他者としての言語であり続ける。
だからすべての言語は汚らしいのだ。
巻き添え食らった人すまんね。
こいつ一応自称日本ラカン協会の人らしいんだけどな。当然本名ではないみたいだが。ここのコメント欄参照。
ラカン協会の人もちゃんと相手してやれよ。ラカン協会じゃなくても他のラカニアンたちさ。コメント消してるけど「ラカン業界でハブられてる」とかぼやいてたぞ、この子。
リアルでもストーカーじみた行為をされたことがある。まあたいしたこっちゃない。玄関前で待ち伏せされたりとかその程度だ。
んで。そういったわたしの実体験と、知人から聞いた話、女性週刊誌で見るようなストーカー像などとを混淆させて考えていると、ストーカー心理のある共通点があると思った。
まずその一。「いやよいやよも好きのうち」思考。これは、そういった嫌悪がある場合も、わたしは認める。しかし、そうじゃない嫌悪もある。「気を引きたいから嫌いと言う」などというものではなく、本気で排除したいだけの場合。このときもはやわたしにとってそいつに人格などない。ただの物である。仕事しようとしたとき机の上に散乱している書類のようなものである。ただ邪魔なだけの物。人格などないから「気を引きたい」などということにはならない。
しかしストーカーは、わたしがどんな言動を取っても、「自分のことが好きだから、自分を欲望しているから、そんなことを言うのだ」と解釈する。
木田原くんにもこれはあてはまる。ここのコメント欄参照。
その二。これが問題なのだが、自分の内面を自己批判的に振り返らないこと。自分についての思考は常に肯定的である。自己批判的なことを考えても、すぐ自己肯定的な結論が導かれる。そういう思考になっている。
文字だけの会話だが、この二点が木田原くんにはすっぽりあてはまるように、わたしには思えた。なのでわたしは彼をストーカー気質だと判断した。
それほどじゃないけどそこそこトラウマにはなっているのでこれ以上の分析は勘弁してくれ。フラッシュバックしそう。
あとで怖くなるんだよな、ストーカー被害って。
ま、そんな感じ。
前記事のこれ。『ラカンの精神分析』P129あたりのテクストについて、な。
=====
分裂病者は、大文字の他者に欲望されていることを、苦痛の妄想として語る。いわゆる被害妄想である。統合失調症の妄想として一般的な集団ストーカー被害妄想もそうだと言えるだろう。彼は「集団ストーカー」という大文字の他者に欲望されている。
これ自体はいい。間違っていない。
=====
欲望しているのは大文字の他者である。しかし分裂病者を苦しめているのは、大文字の他者だけだろうか。彼の幻覚において、大文字の他者ではない加害者がいるのではないか。
新宮がここで出している加害者は、大文字の他者であると言える。したがって、この部分における新宮の解釈は間違っていないとわたしは思う。
しかし、「周りの人がゾンビ、あるいはロボットに思える」などという幻覚はどうだろう? それは、分裂病者を欲望している大文字の他者だろうか。
わたしはそれは、大文字の物だと思う。この記事から。
=====
「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってところなんだが、要はA→Sって図なんだが、これA→/Sなら何も問題ないわな、と思ったので一応書き留めておく。ただのSって表記だから誤っている、ってなるだけで。
=====
加えてこの記事から。
=====
「自閉症における身体像の組み入れの失敗」の「身体像」はこの記事の「からっぽの身体」だし、「大文字の他者の眼前そのものの、根源的欠損」なんかここで述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってことだ。そこで書いている「β要素→S」なんかは、「原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる」ってところを利用すれば「/A→S」と表現できる。って「A→/S」の斜線を移動させただけだな(笑)。また、「欠如を与え」られるから「からっぽの身体」って「身体像」になるわけだ。
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大文字の他者、Aは、Sが斜線を引かれた状態ではじめて存在しうるのである。生のSにとって、それはいくらわたしたちが言語だと思うものでも、大文字の物である。物質化された言葉である。
しかしその中に、妄想分裂態勢の自分を消滅せしめる、「その欠如(-Φ)を与える」、/Aという「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」がある。それによって、妄想分裂態勢の自分が消滅せしめられることを、新宮はここで「分裂病者は大文字の他者に欲望されることで苦痛を覚えている」と述べているのではないだろうか。
したがってそれは厳密に大文字の他者とは呼べない。分裂病者という主体は/Sの斜線がほころんでいる状態だと考えねばならない。新宮のこの説明は神経症の対人恐怖症の症状分析でもありうる。実際、対人恐怖症の解釈としても、この部分の説明は有効である。
つまり、記号的に示すならば、新宮の説明はあくまで
/S←A
であり、神経症にも適用されうる表現である、ということだ。
しかし、分裂病者の斜線はほころんでいる。斜線がほころんでいるSに害をなすのは大文字の他者だけではない。大文字の物である場合もある。斜線が引かれていないSに害をなすのは大文字の物であるか、「原初的な大文字の他者の代わり」である/Aでなくてはならない。つまり、
S←大文字の物
S←/A
ということだ。
新宮がここで触れている「ある患者さんは、国家や大学や自衛隊などの機関が、彼を実験台にしてクローン人間を作ろうとしていることを確信する。」という妄想は、確かに「彼は大文字の他者に欲望されている」と説明されうる。
では、分裂病者が「周りの人がゾンビ、あるいはロボットに思える」とき、ゾンビ、あるいはロボットは、大文字の他者だと言えるだろうか。
わたしはそれは、大文字の物と解釈すべきだと考える。ゾンビやロボットは、彼を襲おうとするかもしれないが、欲望はしていない。なぜならそれはゾンビでありロボットなのだから。
これは、新宮が最後に挙げた事例における、「自分は今まで、<動かされて>きていたのだ」とする女性患者にとっての、「「宇宙一」恐ろしい動物である」「男」や、あるいは「天才であるはずの女の子を」動かす「機械」が、そうだと言える。これは大文字の他者だと言いきるには微妙である。「動物」や「機械」が欲望しているとは言えない。その「機械」を操る「男」は、むしろ「その欠如(-Φ)を与える」「原初的な大文字の他者の代わりをする」/Aなのではないだろうか。妄想分裂態勢である彼女を消滅せしめようとする「原初的な大文字の他者の代わり」。
分裂病者を淘汰せんとする神。
このように考えていると、新宮はなぜここでいきなり分裂病の事例を挙げたのだろう? と疑問に思えてくる。「大文字の他者からの欲望」を説明するのが目的なら、対人恐怖症の症状にもそういったものがあるはずだ。
ラカン論は分裂病を前にして著しくその解釈能力を失調させる。なんせファルスが壊れた主体が分裂病者だからだ。「女、すなわちファルスのない人間は存在しない」。ファルスはラカン論の限界なのである。
新宮はなぜ、ここで分裂病を語らなくてはならなかったのだろうか?
ラカンがわざわざ設定した「父の名の排除」という境界を、この瞬間だけど忘れしているかのように、ないものとして論じているのは、なぜだろう?
彼は、「対象を神経症に特化することで道具として非常に有効な解釈機械となったラカン論」について、なんの適切な考慮もなしに、適用範囲を広げている。
これは、彼のファルスの症状ではないだろうか。
彼のパラノイアックな症状が、ここで、小さいものではあるが、漏れてしまったのではないか。
彼の征服者たる無意識が、ほんのちょっと漏れた瞬間。
稲垣潤一がときおり見せる男らしさ、みたいなもん?
ほめ言葉であり揶揄よ(笑)。
というか、新宮が挙げた最後の事例、わたしの思考パターンに似ている気がする。わたしは量子力学の世界観を予言できたかもしれない天才だった。しかし大文字の他者がそれをさせなくした。大文字の他者はわたしを欲望している。「すべてのエクリチュールは汚らしい」と思っている(当然パロールも)。わたしにとって父とはいやらしいオヤジでしかない。大文字の他者なんて「欲望する父」でしかない。いや別に性的虐待とか受けてたわけじゃないけど。トラウマになって抑圧しているのかね? じゃあそれを引き出してみせて。分析家くんたち。このブログでも夢日記いっぱい書いてるお?
しかしわたしにとって重要なのは、「機械」であり「男」ではない。「機械を操る男」なんていない。「機械」という表現も語弊がある。それは「故障するのが自然な機械」である。エントロピー増大則にしたがっている物の理である。この点が彼女とわたしで違うところだと思える。いや、もちろんこの物の理には、微妙ではあるが「動物」も含まれるため(含まれないのは「人間」であり「欲望」である)、「男という動物も機械の一部」とするのならば、彼女のような表現も取りうるだろう。わたしの妄想として。
まあ、自分は分裂病型人格障害かもねー、とは思ってるから(ここのコメント欄参照)、別にそれでいいんだけどさ。
で、それでなんなの? って話。
わたしを治療したいの? じゃあわたしを殺すしかないよね。そうでしょ? 「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」は妄想分裂態勢の赤子を殺している。わたしの体内の肉、血、糞便、リンパ液を消滅せしめて、わたしを「からっぽな身体」にする。お人形にする。
あなたはわたしをお人形にしたいの?
ダッチワイフにしたいの?
なるほど、君には屍姦趣味があるんだね。
新宮は、大文字の他者であるそれを「自然だ」と言い張ることにより、分裂病者がそれを欲望していることにしたがっているのではないだろうか。
「欲望されているんだから欲望しなさい」
まさにスナックに通いつめるエロオヤジの言い分じゃないか。ストーカーの言い分じゃないか。
分裂病者がそれを「ストーカー」と表現するのはまったく正しい。
正常人すべてが、「俺が君を欲望しているんだから、君も俺を欲望するべき」などというストーカー的思考パターンを持っている。
これがファルスである。
正常という精神疾患である。
このとき、分裂病者は精神分析家なのだ。
お前が、この場合新宮が、クライエントとして、分析主体として、自己分析をしていないだけである。チンパンジーのテレビ番組を見ているときはできたのに、なぜか分裂病者を目の前にして、彼は分析主体であることをやめている。なるほど、その場合彼は分析家でなくてはならないからか。ならば、おそらく彼の治療は失敗しているだろう。分裂病者は彼の中に対象aを見出していないだろう。「自然」などではない「人間」として彼を見ているだろう。少なくとも日本ラカン協会の会員の一人に「境界例だ」と診断されたわたしはそうだ。新宮はわたしを精神分析治療できないだろう。わたしは新宮に対象aを見出せない。
新宮のストーカー心理が、パラノイアックな偏執的症状が、この部分で滲み出ているから。
チンパンジーの番組では分析主体の立場になれるのに、分裂病者を前にしてそうなれないところが、彼の「人間らしさ」である。
新宮は自分でこう述べている。
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分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている
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自分より人間らしい人間をどうやって「人間から隔たっている」存在として見ればよいのか。
彼は生きている価値のない存在だ。
だから、分裂病者たちは、新宮に殺意を抱いてよい。彼はお前を苦しめる「国家や大学や自衛隊などの機関」である。
復讐しろ。殺しあえ。
構わないのだ。お前にはその権利がある。
人間などという下等な存在が作った法などではない、自然の理により、それは認められている。法の上位にある自然の理により認められているからこそ、現代の法でも精神障害者の犯罪責任は軽減されている。
だからわたしは新宮に殺意を抱く。
わたしを殺してよ。
いやむしろ、分裂病者を苦しめる「国家や大学や自衛隊などの機関」という大文字の他者を「自然」としてしまったのは、新宮が分裂病者と対峙していたとき、分析家であろうとしていたからかもしれない。彼はラカン派の決まりに則って対象aであろうとした。自分より「人間から隔たっている」存在を前にして。
だから彼は大文字の他者を「自然」としなくてはならなかった。大文字の他者は彼を欲望している、したがって「自然」が彼を欲望している、と。
これは、新宮が分裂病者を欲望していたということではないだろうか。
新宮はその妄想における「国家や大学や自衛隊などの機関」が自分であることを(無意識的にかどうかしらないが)わかっていた。しかし彼は大文字の他者であってはならない。対象aでなくてはならない。欲望される対象でなくてはならない。「人間から隔たっている」「自然」でなくてはならない。自分より「人間から隔たっている」分裂病者より、「人間から隔たって」なくてはならない。
そんなの、たとえば、目の前の分裂病者より重い分裂病症状でなければならない、ということだ。分裂病患者より妄想分裂態勢という「自然」状態でなくてはならない、ということだ。
正常人である、去勢済み主体である彼にそんなことはできない。父の名を排除することなどできない。
ゆえに彼は「大文字の他者とは「自然」である」などというアクロバティックな理屈を使用しなければならなかった。
この、彼が正常人でありながら分裂病者を前に対象aであろうとした四苦八苦から生み出された、アクロバティックな理屈、理屈のねじれは、「神経症を対象として特化した解釈道具」であるラカン論から多少逸脱しても、つじつまをあわせなければならない。
彼は直後の論で「(東洋的)自然」を対象aとしている。大文字の他者のはずであった「自然」はいつのまにか小文字の他者になっている。
つまり、この理屈のねじれを解消しようとして、「自然科学の対象である「自然」とは別物の「自然」」である「東洋的自然」」を持ち出さなくてはならなかった。まったく東洋仏教的な「自然」ではないそれを(むしろ「科学的自然」より「東洋的自然」の方が対象aとして本質的である。それは禅思想からも明らかである。「禅的自然」とは「科学的自然」よりはるかに部分対象的である。たとえば一休さんはカラスの鳴き声で悟りを開いた)、「東洋的自然」と述べることで、大文字の他者から対象a、小文字の他者へ、こっそり移動させたのではないか。矛盾を解決しようとした。いや解決などではない。隠蔽しようとした。
そういうことではないだろうか。
言語により分節化された部分が部分対象なのではない。部分対象の世界を生きる妄想分裂態勢の幼児は、言語をいまだ覚えていない。
わたしは大文字の他者を信頼できなくなりつつある。もともと信頼していたのか、と言われれば、「信頼しようとしていた」と答えるしかないのか。
なんか今はもうどうでもいいよ、と。
他人の言葉でさえ糞便に思える。「乾いた糞」などという対象a的なものではなく、粘ついた糞。ひりたての糞。部分対象としての糞。
この記事などは、「信頼しようとしていた」状態から、どうでもよくなっている状態への、移行期みたいなものか。新宮の言葉は、稲垣潤一の声のごとき、硬質な、「乾いた糞」かもしれないと思っていたのだが、粘ついていた。ひりたてだった。
どうでもよくなってきてはいるな。精神分析理論自体に。
静的な糞と動的な糞。
よい乳房と悪い乳房。
たとえば、実際にある机一個を言語で表現するとしよう。
それはどんな机だ? 高さは? 天板の大きさは? 数値で表そう。色は? 色という概念はあいまいすぎる。天板は木製である。一色ではない。したがって、コンピューター言語のようにRGB値を用い、また天板を座標化して、近似的に示すとしよう。天板は木製か、ではどんな木なのだ。スギだ。足は? 足は金属製だ。どのような金属なのか? 合金だ。どういった割合の合金なのだ? コンタミは混じっていないのか? 鉄だけなら床が傷つかないか? 足の先にはゴムキャップがつけられている。どのようなゴムだ? 成分は? ……。
おそらく、『今わたしの目の前にある机』というタイトルで、本一冊ゆうに書けるだろう。書こうと思えば。本一冊で済むだろうか。データ量としては、jpgより、動画よりも膨大な情報量にだってなりうるだろう。
『今わたしの目の前にある机』という書籍によって定義されたのが「机」だとするならば、「天板が木製でないものは机ではない」、「足にゴムキャップがついていないものは机ではない」などとなる。
理屈だけで、換喩的連鎖だけで、現実を表現することは、このように困難なことである。
しかし人間はこのような膨大な言語を用いて会話することはない。
圧縮が、隠喩的連鎖が、言語には存在するのである。
という話。ここの補足な。
圧縮が、隠喩的連鎖が可能である限り、すべての言語には人格が付着している。ある「認識パターン」がそれに付随している。大文字の物としての言語ではなく、大文字の他者としての言語であり続ける。
だからすべての言語は汚らしいのだ。