物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は別物である。
2010/05/19/Wed
脳機能局在論の話したから、そんな感じのテクストをちらちら読んでたりするんだが、なんというか。
なんで脳科学者は、その部位一つで、正常さを保てていると信じたがるのだろう?
たとえば前頭葉という部位。それに関する論は、あたかも、他の部位を切り取っても前頭葉は独立して正常な働きをする、という前提があるようだ。
前頭葉は独立して正常でありうる、と。
部位だけではない、ニューロンレベルでもそうだ。ニューロンレベルでも「正常さ」が規定されている。ニューロンでこういう反応が起きたら「異常だ」としている。
それは違うんじゃないか。
ニューロンレベルで「正常さ/異常さ」を規定してはいけない、と言っているのではない。それは、たとえばそのニューロンで、常態では起きえない反応が起きた場合は、「異常」と言っていいだろう。常態が「正常」である、と。こういった「正常さ/異常さ」の定義まで否定するつもりはない。
しかし、だ。
このミクロのただの物質的反応でしかない「正常さ」が、直接的に精神医学的な「正常さ」に結びついているのがおかしい、と言っているのだ。
精神医学的に異常な、つまり精神疾患者でも、そのニューロンは「正常」かもしれない。逆に、精神医学的に正常な人間でも、あるごく特定の瞬間には、「異常な」挙動を示しているかもしれない。
なのに、神経学者は、ニューロンの「正常さ/異常さ」を直接的に精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつける。
ニューロンに異常があることについて、すぐさま精神疾患者を例に挙げる。
これがおかしいのだ。
精神疾患者の人権とかの問題でこう言っているのではない。
これが、ドクサとなっていないか、とわたしは言っているのだ。
物質的な反応の差異でしかない、ニューロンの「正常さ/異常さ」を、ただ「正常」「異常」という言語のつながりにすぎないことで、全体の症状に、つまり精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつける。
これはドクサではないか。
ニューロンとしての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」はまったく別物として考えるべきだ。
もちろん「これらがまったくつながりがない」と言っているわけではない。
ニューロンの「正常さ/異常さ」が膨大に複合して、精神医学的な「正常な人/異常な人」ができあがる、と言っているのである。
いや、ニューロンレベルだとわかっている人も多いと思う。神経学者たちごめんな。
では、ニューロンの複合体である、脳の部位だとどうか。
これもニューロンと同じである。
精神医学的に異常な、つまり精神疾患者でも、脳のその部位は「正常」かもしれない。逆に、精神医学的に正常な人間でも、あるごく特定の瞬間には、「異常な」挙動を示しているかもしれない、と。
脳各部位の「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」はまったく別物として考えるべきである、と。
脳各部位の「正常さ/異常さ」が(膨大ではなくなるが)複合して、精神医学的な「正常な人/異常な人」ができあがる、と。
つまり、だ。
精神医学的な「正常さ」というのは、脳機能全体の複合症状なのである。
言葉にすれば「そんなこと当たり前じゃないか」などと脳科学者はうそぶくだろう。
本当か?
それならば、なぜ脳の一部位の異常を、すぐさま精神疾患で表現しようとするのだ?
それは「正常さ/異常さ」というレッテルによるドクサなのではないか?
その推論には色眼鏡がかかっていないか?
本当に、精神疾患や、精神的に正常であることとは、脳機能全体の複合症状だと思って言っているのか?
頭ではそう思っていても、無意識ですぐ、「正常さ/異常さ」というレッテルにより、脳の一部位、ニューロンの「正常さ/異常さ」を、脳機能全体の複合症状たる、精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつけてはいないか?
どうも、この辺があやしい。
物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は別物なのである。
ここが外科や内科と違うところである。
精神的な「正常さ」とは、「正常という精神疾患」であり、その精神疾患症状を維持するのが、この疾患の症状なのである。
症状を維持する症状。症状を自己再生産する症状。つまりオートポイエーシスである。
「正常さ」とは、オートポイエーシス中心主義であることだ。
この「正常という精神疾患」がある限り、物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は、永遠に接続しないだろう。
あーなんかもうだめだ。科学的なテクストですら精神分析的な読み方をするようになってる。
もーもーもー。
なんで脳科学者は、その部位一つで、正常さを保てていると信じたがるのだろう?
たとえば前頭葉という部位。それに関する論は、あたかも、他の部位を切り取っても前頭葉は独立して正常な働きをする、という前提があるようだ。
前頭葉は独立して正常でありうる、と。
部位だけではない、ニューロンレベルでもそうだ。ニューロンレベルでも「正常さ」が規定されている。ニューロンでこういう反応が起きたら「異常だ」としている。
それは違うんじゃないか。
ニューロンレベルで「正常さ/異常さ」を規定してはいけない、と言っているのではない。それは、たとえばそのニューロンで、常態では起きえない反応が起きた場合は、「異常」と言っていいだろう。常態が「正常」である、と。こういった「正常さ/異常さ」の定義まで否定するつもりはない。
しかし、だ。
このミクロのただの物質的反応でしかない「正常さ」が、直接的に精神医学的な「正常さ」に結びついているのがおかしい、と言っているのだ。
精神医学的に異常な、つまり精神疾患者でも、そのニューロンは「正常」かもしれない。逆に、精神医学的に正常な人間でも、あるごく特定の瞬間には、「異常な」挙動を示しているかもしれない。
なのに、神経学者は、ニューロンの「正常さ/異常さ」を直接的に精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつける。
ニューロンに異常があることについて、すぐさま精神疾患者を例に挙げる。
これがおかしいのだ。
精神疾患者の人権とかの問題でこう言っているのではない。
これが、ドクサとなっていないか、とわたしは言っているのだ。
物質的な反応の差異でしかない、ニューロンの「正常さ/異常さ」を、ただ「正常」「異常」という言語のつながりにすぎないことで、全体の症状に、つまり精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつける。
これはドクサではないか。
ニューロンとしての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」はまったく別物として考えるべきだ。
もちろん「これらがまったくつながりがない」と言っているわけではない。
ニューロンの「正常さ/異常さ」が膨大に複合して、精神医学的な「正常な人/異常な人」ができあがる、と言っているのである。
いや、ニューロンレベルだとわかっている人も多いと思う。神経学者たちごめんな。
では、ニューロンの複合体である、脳の部位だとどうか。
これもニューロンと同じである。
精神医学的に異常な、つまり精神疾患者でも、脳のその部位は「正常」かもしれない。逆に、精神医学的に正常な人間でも、あるごく特定の瞬間には、「異常な」挙動を示しているかもしれない、と。
脳各部位の「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」はまったく別物として考えるべきである、と。
脳各部位の「正常さ/異常さ」が(膨大ではなくなるが)複合して、精神医学的な「正常な人/異常な人」ができあがる、と。
つまり、だ。
精神医学的な「正常さ」というのは、脳機能全体の複合症状なのである。
言葉にすれば「そんなこと当たり前じゃないか」などと脳科学者はうそぶくだろう。
本当か?
それならば、なぜ脳の一部位の異常を、すぐさま精神疾患で表現しようとするのだ?
それは「正常さ/異常さ」というレッテルによるドクサなのではないか?
その推論には色眼鏡がかかっていないか?
本当に、精神疾患や、精神的に正常であることとは、脳機能全体の複合症状だと思って言っているのか?
頭ではそう思っていても、無意識ですぐ、「正常さ/異常さ」というレッテルにより、脳の一部位、ニューロンの「正常さ/異常さ」を、脳機能全体の複合症状たる、精神医学的な「正常な人/異常な人」に結びつけてはいないか?
どうも、この辺があやしい。
物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は別物なのである。
ここが外科や内科と違うところである。
精神的な「正常さ」とは、「正常という精神疾患」であり、その精神疾患症状を維持するのが、この疾患の症状なのである。
症状を維持する症状。症状を自己再生産する症状。つまりオートポイエーシスである。
「正常さ」とは、オートポイエーシス中心主義であることだ。
この「正常という精神疾患」がある限り、物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は、永遠に接続しないだろう。
あーなんかもうだめだ。科学的なテクストですら精神分析的な読み方をするようになってる。
もーもーもー。