「本能」+「愛情」という発電所
2010/05/21/Fri
前記事の妄想がとまらない。誤解がもりもり生まれるの承知で述べる。
「本能」みたいなもの。「愛情」みたいなもの。「理屈」みたいなもの。以下「みたいなもの」は略す。
「本能」は、さまざまな形の弱い交流電流を発散させている。
「愛情」は、それら無数の形の交流電流を、位相を変化させ合成することで、ある限られた期間の最大振幅を増幅する。いわば増幅器である。
「理屈」は、それら無数の形の交流電流を、位相を変化させ合成することで、パルス信号へと変形する。いわば整流器である。
「本能」とはいわばフーリエ展開された各項のようなものだ。無数の波形の交流波を生み出す電源。
「愛情」も「理屈」もその変換機器なのだ。
しかし、「愛情」の出力結果が「理屈」の入力となる場合がある。逆もある。
このとき、これら二種の変換機器は、お互いの変換機能を妨げる場合がある。
もう少し詳しく見てみよう。
「愛情」も「理屈」も、生得的なものだ。この二種の変換機器は双方とも自然発生的なものだ。
しかし「理屈」は「愛情」の出力を入力せねばならない。
というのは、交流であるからだ。交流は双方向に電流が流れる。振幅が増幅されていれば、変換された電流の電源への影響は相対的に小さくなる。津波という波動にとって池にできた波紋は単なる誤差でしかない。
しかし、増幅器の前に整流器を設置してしまうと、電源供給機器に影響が出る。電源供給が安定しなくなる。それはいまだ複合され増幅されていないからだ。津波になっていない。「理屈」の出力たるパルス波は、池にできた無数の波紋と同程度の波紋となる。波紋はそれぞれ干渉しあう。自然に。
要するに、家庭用AC電源で考えるならば、「本能」+「愛情」が発電所となっている、ということだ。
発電所、「愛情」から各家庭へと供給された電流を入力し、「理屈」はそれをパルス化する。この場合、パルス化された振幅は、(各家庭に配分された)「愛情」の最大振幅より小さいものとなるだろう。「愛情」は「理屈」によって抑圧されている、と言える。
このことが、「理屈」は後天的に学習する、と思われている所以ではないだろうか。
それらは実際には、部品として生得的なものであるが、「本能」→「愛情」←→「理屈」という回路の設計製作が後天的なものであるため、もっとも出力側に近い部品である「理屈」を、後天的なものだと思ってしまうのではないだろうか。
以上のたとえ話を、前記事の三角形ABCに適用してみるとわかりやすい。Aが「本能」という電源、Bが「愛情」という増幅器、Cが「理屈」という整流器である。三角形ABCは、実は三角形になっておらず、B「愛情」という増幅器のおかげで、A←→Cという回路が遮断されている。
この回路が遮断されていないのが、このブログで研究テーマとされている、未去勢者である。
三角形になっているのはオイディプス、すなわち去勢済み主体ではない。去勢済み主体は常に母により守られている。a'→a、「鏡に映った自分」という防護柵により、父の叱責から守られている。オイディプスはシェーマLなのだ。
それらが本当に、父母というキャラクター化などすることなしに、三角形となっているのが、未去勢者なのである。
『アンチ・オイディプス』は、分裂症者がオイディプス的な症状を顕著に示すことについても触れている。著者はそれを「オイディプスに耐えられない人が分裂症者なのだ」と言って誤魔化している。
この言い訳は大枠では間違ってはいないが、厳密に言えば間違っている。
それはオイディプスなどではない。三角形などではない。シェーマLである。
三角形が防護柵なのではない。母が、小文字の他者が防護柵になっているのである。
本当の、脳科学的な、物質的な三角形こそが、地獄なのだ。
ガタリの言う「欲望機械」は、ここではB「愛情」という増幅器に相当する。彼はそれを容認し、称揚している。
したがって、『アンチ・オイディプス』は、アンチ・オイディプスとして作用するのではなく、まったく逆のオイディプス加速装置となってしまうのだ。
したがって、ガタリの分裂分析は社会にしか適用されないのだ。ガタリの人格としてまったくオイディプスな症状となってしまうのだ。
Bという防護柵を壊せなかったがために。
「『アンチ・オイディプス』とか(笑)。お前ら自身が全然オイディプスじゃんか(大爆笑)」
こう考えると、なるほどな、と思えることがある。
A←→Cという、去勢済み主体、いわゆる正常人にはない回路がある未去勢者にとって、Aという、電力としては微細だが膨大な種類の波形を出力する電源は、「愛情」あるいはBという増幅器が組み込まれていない、と言える。したがってそれは家庭用AC電源のごとき一般的なイメージの電源になりえない。
一方去勢済み主体にとって、それは大きな電力を供給する「供給電源」たる一つの部品として成立している。A→Bが一つの部品として定常となっているため、一般的なイメージの電源となりうる。
だが、一つの部品になっているのだから、部品の中に部品を組み込むことはできない。A→BのあいだにCが組み込まれることはない。Cの出力であるパルス波によって、巨大な発電所たるBの全貌を信号化することはできない。
「愛を科学できるのは精神分析だけである」
これは、精神分析が、A→Bという、一般社会では一つの部品とされている中に、Cというパルス化装置、理屈装置、前頭葉的言語装置たる部品を組み込むことに腐心しているから、そう言われるのではないだろうか。
しかしそれは困難だ。Aは発電所ではない。電力としては微細だが膨大な種類の波形を出力する電源である。それはCの影響に著しく作用される。
この記事で書いたような、分裂病者の苦痛の妄想にさいなまれることになる。
Bを破壊することとは、A←→Cというルートを開拓することとは、そういうことである。
これだよ、「要するに三角形って簡素化しちゃうから、正常人はA→Cができると思い込んじゃってるんじゃないの?」ってこと。
お前たちの脳回路は三角形じゃない。父と交尾することができない。お前たちにとっての父は動物じゃないから。
だからわたしにとってガタリとはただのアジテーターでしかない。政治家あるいは社会活動家であって、革命家でもあるかもしれないが、学者ではない。マッドサイエンティストではない。
母のゆりかごの中から父に反発するオイディプスでしかない。
なのにゆりかごの外をダシにするから、殺意を覚えられるんだよ。日本ラカン協会の一人に境界例だと診断されたわたしに。実際はパニック障害+抑鬱状態だけどね。
わかったかい? ガタリくん。もう死んでるけど。もう死んでるけど死ね。お前のような人間こそこの世に必要ない人間だ。
元機械設計者であり元舞台女優であり残酷演劇を夢想していたわたしが、君の言う「欲望機械」を解析してあげたんだよ? 結果、君の人格という機械がオイディプスであることが判明した。
ドゥルージアン、ガタリアンも死ね。半分くらい。浅田彰も死ね。
分裂症者よ、お前たちの生き辛さは器質的なものであるゆえ、ある程度はあきらめなければならないが、現代社会において、生き辛さを加速させた張本人は、こいつらだ。
だからお前たちにはこいつらに復讐する権利がある。バカな人間たちが作った法による権利ではなく、自然の理による権利だ。後者の方が絶対的だ。事実人間たちが作った法は、この権利に譲歩しているじゃないか。精神疾患者の犯罪責任は軽減される。
お前らの論文がオイディプスの再生産を促進していることにはよ気づけバカどもが。
ガタリはアルトーを、分裂症者たちを殺している。死してなお。
分裂分析は、ドゥルージアン、ガタリアンたちを殺さない限り、作用しないだろう。
よって、ドゥルージアン、ガタリアン、浅田彰は自殺すべきである。
「逃走」とはそういう意味である。アルトーや分裂症者たちにつなげるならば。
早く自殺しろ。「逃走」者たちは。
補足しておく。わたしがこのブログで提唱している「逆精神分析」(理屈に不備があったので封印中)は、要するに「悪化もありとした精神分析」である。そういった意味で「社会を分裂症化させる」「分裂分析」と類似している。
しかし、適用させる対象が違う。ここが重要である。この記事でも書いてあるがもう一度コピペしておく。
=====
わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
=====
適用対象を「社会」にしちゃってるのがお前がオイディプスである証拠なんだよ、バカ。
あと、前記事で簡単に「感覚信号系」が「想像界」だ、としちゃったけど、違うような気がしてきた。
三角形ABCのBは、あくまで「言語信号系」だ。a'→aは神経学的には「言語信号系」だ。
これなー、ママさんとこのコメント欄でも触れたが、「Bの障害」たる自閉症研究と関わらせると、微妙になってくるんだよなー。コピペ。
=====
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111848039.html
あたしこのそらパパくんについては、人格として嫌いだけど、彼の自閉症研究に関しては評価している。今はアク禁喰らってるけどな(笑)。
んで、この記事についても、大体は同意できるんだな。
「情動コントロールの障害」は、自閉症の一症状としてある。
が、そもそも正常な情動とはパターン化されいているものだ。わたしが定型化と言っていることだな。そしてそれは言語化のようなことだ、と。まあそれも間違いじゃない。
しかし、だからといって、「情動コントロールの障害」という一症状を排除して考えると、知的障害のない自閉症たるアスペルガーの説明に矛盾が生じる。
多くのアスペは言語性知能に障害はない。むしろ一般より長けている場合がある。コンピュータープログラミングなどの分野などでは顕著にそういったことが見られる。実際わたしの臨床においても、自分でゲームをプログラミングしているアスペがいる。先の高機能自閉症児(当時中学生)もホームページを自作したりしている。
=====
そらパパくんは「情動コントロールの障害」も「ラベリングという意味での言語化の不全」だとして解釈可能だとしている。わたしも同意できる。まあその解釈が療育にどう応用されうるかはまた別問題だけどな。ママさんも疑念を表明してたが、わたしは臨床主義者であり治療や療育にはそれほど拘っていないのでそこら辺は彼が勝手にやってくれればいい。臨床と治療は厳密には別物だ。
で、やっぱりそらパパくんの立場になるんだよ、あたしゃ。二人とも自閉症を臨床しているからそうなるのか。
アスペの「情動コントロールの障害」は「言語信号系」の不全と考えるべきだと思うんだ。
となるとだな、ラカンの「想像界」は「言語信号系」だってなっちゃうんだよ。
あー困った。
やっぱり、ここで「脳の言語地図」における、単語の箇所が問題になるのか。
それはわたしがBとしたアクセントの箇所と隣接している。
アスペルガー症候群者は、単語の理解に障害は見られない。まったく見られないというわけでもないが。たとえば語義に拘る症状がある。とはいえ日常生活に必要な単語理解はできている。
だからかな、どうもこの点に触れにくかったんだよな。
ラカン論の「ボロメオの輪」。それにおける「想像界」は「言語信号系」である。それは「感覚信号系」の一部が発達して生じた神経系である。「言語信号系」の、「脳の言語地図」におけるアクセントの箇所が、「想像界」である、と。
んー。
定形的な情動だけを「想像界」とするか。「情動コントロールの障害」が起きている情動をも「想像界」とするか。
「ボロメオの輪」は正常人の精神のモデル化である。ならば、やはり前者を採用すべきだ。
「情動コントロールの障害」が起きている症状を考えるならば、精神分析では、ヒステリーが真っ先に連想されるだろう。「ヒステリーの語らい」は/Sを能動者としている。それは「現実界」そのものではないが、そのうねりのようなものである。
となると、「言語神経系」以外の箇所が、「現実界」だとなる。細かく言うならば、/Sが「感覚信号系」であり、斜線が取れたSが「無条件反射信号系」である、なんて感じだろう。
んー。
ママさんとこの別の記事から。
=====
カナーくんのこの発想の仕方は、言語学意味論的には、換喩的連鎖だ、と言える。
ロマン・ヤコブソンによれば、失語症、言語障害には二種類ある、となる。
一つは隠喩的連鎖の障害であり、もう一つは換喩的連鎖の障害だ、となる。
つまり、一口に言語障害と言っても、隠喩的連鎖は健常に機能している場合と、換喩連鎖が健常に機能している場合がある、と。両方が健常に連鎖しているのが正常である、ということ。両方に異常がある場合はこの際考えない。つかまー統失とかがそうなるんじゃね。
正常人はこの二つを、縦糸と横糸のように組み合わせて言語を使用している。
で、換喩とは隣接性で、隠喩とは相似性だ。つまり見た物をそのまま言語に置き換えて羅列するのが換喩的連鎖で、相似性を根拠に羅列すのが隠喩的連鎖だ。
この場合のカナーくんの言語使用方法、「とい○らすは、近所の○○スーパーではなくて、とい○らすの横の○○スーパーに行きたいってことやってんな」は、換喩的連鎖だと言える。
一方、向こうで「言語についての思考」を要望してきた人は、たとえば「AC(アダルトチルドレンの意)と自閉症は似ている」という相似性を根拠に連想している。
ちなみに言うと、このヤコブソンの「換喩/隠喩」を、フロイトの理論に流用し、夢の「置換/圧縮」とは「換喩的連鎖/隠喩的連鎖」あるとしたのがラカンだ。
=====
「単語」というと、隠喩的連鎖を想像しにくいが、単語一語でも隠喩的連鎖が含意されている。単語一語でも、換喩と隠喩という「二つを、縦糸と横糸のように組み合わ」せて定立されている。
この縦糸と横糸が組みあわさった単語が、「脳の言語地図」におけるそれであろう。そしてこの横糸つまり隠喩的連鎖を処理するのが、Bであり、アクセントの箇所だ。
おそらく、アスペルガー症候群者の単語理解は、前頭葉の文法、文章理解領域で行われているのではないだろうか。「脳の言語地図」における単語の領域ではなく。脳は「ある特定の機能を持つ部位が損傷を受けたとしても、違う部位がその役割を担うことがある」。元のそれとまったく同じ機能を補完することは無理だろうが。
だから語義に拘る症状が見られるのではないか。
もしかしたら自閉症の言語処理は、酒井邦嘉が提出した「脳の言語地図」からは、多少逸脱しているのかもしれない。
こういった、Bが機能しないまま前頭葉などで処理補完された単語が、この記事の『今わたしの目の前にある机』などという著作になるのではないだろうか。それは、一般的な相似性、つまり隠喩的連鎖を含意した、「机」という単語ではない。
……ってことで、どう?
めんどくさくなったからしゅうりょ。
死にたい。
今読み直して思った。
それが発電所になっているから、Aという、Sあるいは/Sという、「現実界」という、「無条件反射神経系」という、「本能」みたいなものから、人間の思考は、精神は守られている。
これってさー、フロイトやビオンが言った「接触防壁」ってことだよな。
とすると、ミラーニューロンこそが、「接触防壁」あるいは「ψニューロン」だってことになるんだが……、おかしいなこれ。でもあれだ、神経生理学から論じたフロイトの「接触防壁」と、精神分析王道の心理面から論じたビオンの「接触防壁」を、つなぐ一助としてこの記事は……役に立たないかそうですか。
ミラーニューロンもおかしいよなー。「ミラー」ってのは症状からついた言葉でしょ。症状と物質性は同じとは限らない。ということは神経学的なフロイトの言う「接触防壁」でもありうる。
でもな、おかしいんだよ、やっぱ。あ、まあ「脳の言語地図」におけるアクセントの場所っていうのが、一つのヒントになるとは思うんだけど。
おかしいなー、でも。
もしかしたらファルスは存在するのかもしれない。脳の一機能として。
んー。餅は餅屋。この辺は神経学者にやってもらうしかないか。
うんこ。
「本能」みたいなもの。「愛情」みたいなもの。「理屈」みたいなもの。以下「みたいなもの」は略す。
「本能」は、さまざまな形の弱い交流電流を発散させている。
「愛情」は、それら無数の形の交流電流を、位相を変化させ合成することで、ある限られた期間の最大振幅を増幅する。いわば増幅器である。
「理屈」は、それら無数の形の交流電流を、位相を変化させ合成することで、パルス信号へと変形する。いわば整流器である。
「本能」とはいわばフーリエ展開された各項のようなものだ。無数の波形の交流波を生み出す電源。
「愛情」も「理屈」もその変換機器なのだ。
しかし、「愛情」の出力結果が「理屈」の入力となる場合がある。逆もある。
このとき、これら二種の変換機器は、お互いの変換機能を妨げる場合がある。
もう少し詳しく見てみよう。
「愛情」も「理屈」も、生得的なものだ。この二種の変換機器は双方とも自然発生的なものだ。
しかし「理屈」は「愛情」の出力を入力せねばならない。
というのは、交流であるからだ。交流は双方向に電流が流れる。振幅が増幅されていれば、変換された電流の電源への影響は相対的に小さくなる。津波という波動にとって池にできた波紋は単なる誤差でしかない。
しかし、増幅器の前に整流器を設置してしまうと、電源供給機器に影響が出る。電源供給が安定しなくなる。それはいまだ複合され増幅されていないからだ。津波になっていない。「理屈」の出力たるパルス波は、池にできた無数の波紋と同程度の波紋となる。波紋はそれぞれ干渉しあう。自然に。
要するに、家庭用AC電源で考えるならば、「本能」+「愛情」が発電所となっている、ということだ。
発電所、「愛情」から各家庭へと供給された電流を入力し、「理屈」はそれをパルス化する。この場合、パルス化された振幅は、(各家庭に配分された)「愛情」の最大振幅より小さいものとなるだろう。「愛情」は「理屈」によって抑圧されている、と言える。
このことが、「理屈」は後天的に学習する、と思われている所以ではないだろうか。
それらは実際には、部品として生得的なものであるが、「本能」→「愛情」←→「理屈」という回路の設計製作が後天的なものであるため、もっとも出力側に近い部品である「理屈」を、後天的なものだと思ってしまうのではないだろうか。
以上のたとえ話を、前記事の三角形ABCに適用してみるとわかりやすい。Aが「本能」という電源、Bが「愛情」という増幅器、Cが「理屈」という整流器である。三角形ABCは、実は三角形になっておらず、B「愛情」という増幅器のおかげで、A←→Cという回路が遮断されている。
この回路が遮断されていないのが、このブログで研究テーマとされている、未去勢者である。
三角形になっているのはオイディプス、すなわち去勢済み主体ではない。去勢済み主体は常に母により守られている。a'→a、「鏡に映った自分」という防護柵により、父の叱責から守られている。オイディプスはシェーマLなのだ。
それらが本当に、父母というキャラクター化などすることなしに、三角形となっているのが、未去勢者なのである。
『アンチ・オイディプス』は、分裂症者がオイディプス的な症状を顕著に示すことについても触れている。著者はそれを「オイディプスに耐えられない人が分裂症者なのだ」と言って誤魔化している。
この言い訳は大枠では間違ってはいないが、厳密に言えば間違っている。
それはオイディプスなどではない。三角形などではない。シェーマLである。
三角形が防護柵なのではない。母が、小文字の他者が防護柵になっているのである。
本当の、脳科学的な、物質的な三角形こそが、地獄なのだ。
ガタリの言う「欲望機械」は、ここではB「愛情」という増幅器に相当する。彼はそれを容認し、称揚している。
したがって、『アンチ・オイディプス』は、アンチ・オイディプスとして作用するのではなく、まったく逆のオイディプス加速装置となってしまうのだ。
したがって、ガタリの分裂分析は社会にしか適用されないのだ。ガタリの人格としてまったくオイディプスな症状となってしまうのだ。
Bという防護柵を壊せなかったがために。
「『アンチ・オイディプス』とか(笑)。お前ら自身が全然オイディプスじゃんか(大爆笑)」
こう考えると、なるほどな、と思えることがある。
A←→Cという、去勢済み主体、いわゆる正常人にはない回路がある未去勢者にとって、Aという、電力としては微細だが膨大な種類の波形を出力する電源は、「愛情」あるいはBという増幅器が組み込まれていない、と言える。したがってそれは家庭用AC電源のごとき一般的なイメージの電源になりえない。
一方去勢済み主体にとって、それは大きな電力を供給する「供給電源」たる一つの部品として成立している。A→Bが一つの部品として定常となっているため、一般的なイメージの電源となりうる。
だが、一つの部品になっているのだから、部品の中に部品を組み込むことはできない。A→BのあいだにCが組み込まれることはない。Cの出力であるパルス波によって、巨大な発電所たるBの全貌を信号化することはできない。
「愛を科学できるのは精神分析だけである」
これは、精神分析が、A→Bという、一般社会では一つの部品とされている中に、Cというパルス化装置、理屈装置、前頭葉的言語装置たる部品を組み込むことに腐心しているから、そう言われるのではないだろうか。
しかしそれは困難だ。Aは発電所ではない。電力としては微細だが膨大な種類の波形を出力する電源である。それはCの影響に著しく作用される。
この記事で書いたような、分裂病者の苦痛の妄想にさいなまれることになる。
Bを破壊することとは、A←→Cというルートを開拓することとは、そういうことである。
これだよ、「要するに三角形って簡素化しちゃうから、正常人はA→Cができると思い込んじゃってるんじゃないの?」ってこと。
お前たちの脳回路は三角形じゃない。父と交尾することができない。お前たちにとっての父は動物じゃないから。
だからわたしにとってガタリとはただのアジテーターでしかない。政治家あるいは社会活動家であって、革命家でもあるかもしれないが、学者ではない。マッドサイエンティストではない。
母のゆりかごの中から父に反発するオイディプスでしかない。
なのにゆりかごの外をダシにするから、殺意を覚えられるんだよ。日本ラカン協会の一人に境界例だと診断されたわたしに。実際はパニック障害+抑鬱状態だけどね。
わかったかい? ガタリくん。もう死んでるけど。もう死んでるけど死ね。お前のような人間こそこの世に必要ない人間だ。
元機械設計者であり元舞台女優であり残酷演劇を夢想していたわたしが、君の言う「欲望機械」を解析してあげたんだよ? 結果、君の人格という機械がオイディプスであることが判明した。
ドゥルージアン、ガタリアンも死ね。半分くらい。浅田彰も死ね。
分裂症者よ、お前たちの生き辛さは器質的なものであるゆえ、ある程度はあきらめなければならないが、現代社会において、生き辛さを加速させた張本人は、こいつらだ。
だからお前たちにはこいつらに復讐する権利がある。バカな人間たちが作った法による権利ではなく、自然の理による権利だ。後者の方が絶対的だ。事実人間たちが作った法は、この権利に譲歩しているじゃないか。精神疾患者の犯罪責任は軽減される。
お前らの論文がオイディプスの再生産を促進していることにはよ気づけバカどもが。
ガタリはアルトーを、分裂症者たちを殺している。死してなお。
分裂分析は、ドゥルージアン、ガタリアンたちを殺さない限り、作用しないだろう。
よって、ドゥルージアン、ガタリアン、浅田彰は自殺すべきである。
「逃走」とはそういう意味である。アルトーや分裂症者たちにつなげるならば。
早く自殺しろ。「逃走」者たちは。
補足しておく。わたしがこのブログで提唱している「逆精神分析」(理屈に不備があったので封印中)は、要するに「悪化もありとした精神分析」である。そういった意味で「社会を分裂症化させる」「分裂分析」と類似している。
しかし、適用させる対象が違う。ここが重要である。この記事でも書いてあるがもう一度コピペしておく。
=====
わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
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適用対象を「社会」にしちゃってるのがお前がオイディプスである証拠なんだよ、バカ。
あと、前記事で簡単に「感覚信号系」が「想像界」だ、としちゃったけど、違うような気がしてきた。
三角形ABCのBは、あくまで「言語信号系」だ。a'→aは神経学的には「言語信号系」だ。
これなー、ママさんとこのコメント欄でも触れたが、「Bの障害」たる自閉症研究と関わらせると、微妙になってくるんだよなー。コピペ。
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http://soramame-shiki.seesaa.net/article/111848039.html
あたしこのそらパパくんについては、人格として嫌いだけど、彼の自閉症研究に関しては評価している。今はアク禁喰らってるけどな(笑)。
んで、この記事についても、大体は同意できるんだな。
「情動コントロールの障害」は、自閉症の一症状としてある。
が、そもそも正常な情動とはパターン化されいているものだ。わたしが定型化と言っていることだな。そしてそれは言語化のようなことだ、と。まあそれも間違いじゃない。
しかし、だからといって、「情動コントロールの障害」という一症状を排除して考えると、知的障害のない自閉症たるアスペルガーの説明に矛盾が生じる。
多くのアスペは言語性知能に障害はない。むしろ一般より長けている場合がある。コンピュータープログラミングなどの分野などでは顕著にそういったことが見られる。実際わたしの臨床においても、自分でゲームをプログラミングしているアスペがいる。先の高機能自閉症児(当時中学生)もホームページを自作したりしている。
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そらパパくんは「情動コントロールの障害」も「ラベリングという意味での言語化の不全」だとして解釈可能だとしている。わたしも同意できる。まあその解釈が療育にどう応用されうるかはまた別問題だけどな。ママさんも疑念を表明してたが、わたしは臨床主義者であり治療や療育にはそれほど拘っていないのでそこら辺は彼が勝手にやってくれればいい。臨床と治療は厳密には別物だ。
で、やっぱりそらパパくんの立場になるんだよ、あたしゃ。二人とも自閉症を臨床しているからそうなるのか。
アスペの「情動コントロールの障害」は「言語信号系」の不全と考えるべきだと思うんだ。
となるとだな、ラカンの「想像界」は「言語信号系」だってなっちゃうんだよ。
あー困った。
やっぱり、ここで「脳の言語地図」における、単語の箇所が問題になるのか。
それはわたしがBとしたアクセントの箇所と隣接している。
アスペルガー症候群者は、単語の理解に障害は見られない。まったく見られないというわけでもないが。たとえば語義に拘る症状がある。とはいえ日常生活に必要な単語理解はできている。
だからかな、どうもこの点に触れにくかったんだよな。
ラカン論の「ボロメオの輪」。それにおける「想像界」は「言語信号系」である。それは「感覚信号系」の一部が発達して生じた神経系である。「言語信号系」の、「脳の言語地図」におけるアクセントの箇所が、「想像界」である、と。
んー。
定形的な情動だけを「想像界」とするか。「情動コントロールの障害」が起きている情動をも「想像界」とするか。
「ボロメオの輪」は正常人の精神のモデル化である。ならば、やはり前者を採用すべきだ。
「情動コントロールの障害」が起きている症状を考えるならば、精神分析では、ヒステリーが真っ先に連想されるだろう。「ヒステリーの語らい」は/Sを能動者としている。それは「現実界」そのものではないが、そのうねりのようなものである。
となると、「言語神経系」以外の箇所が、「現実界」だとなる。細かく言うならば、/Sが「感覚信号系」であり、斜線が取れたSが「無条件反射信号系」である、なんて感じだろう。
んー。
ママさんとこの別の記事から。
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カナーくんのこの発想の仕方は、言語学意味論的には、換喩的連鎖だ、と言える。
ロマン・ヤコブソンによれば、失語症、言語障害には二種類ある、となる。
一つは隠喩的連鎖の障害であり、もう一つは換喩的連鎖の障害だ、となる。
つまり、一口に言語障害と言っても、隠喩的連鎖は健常に機能している場合と、換喩連鎖が健常に機能している場合がある、と。両方が健常に連鎖しているのが正常である、ということ。両方に異常がある場合はこの際考えない。つかまー統失とかがそうなるんじゃね。
正常人はこの二つを、縦糸と横糸のように組み合わせて言語を使用している。
で、換喩とは隣接性で、隠喩とは相似性だ。つまり見た物をそのまま言語に置き換えて羅列するのが換喩的連鎖で、相似性を根拠に羅列すのが隠喩的連鎖だ。
この場合のカナーくんの言語使用方法、「とい○らすは、近所の○○スーパーではなくて、とい○らすの横の○○スーパーに行きたいってことやってんな」は、換喩的連鎖だと言える。
一方、向こうで「言語についての思考」を要望してきた人は、たとえば「AC(アダルトチルドレンの意)と自閉症は似ている」という相似性を根拠に連想している。
ちなみに言うと、このヤコブソンの「換喩/隠喩」を、フロイトの理論に流用し、夢の「置換/圧縮」とは「換喩的連鎖/隠喩的連鎖」あるとしたのがラカンだ。
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「単語」というと、隠喩的連鎖を想像しにくいが、単語一語でも隠喩的連鎖が含意されている。単語一語でも、換喩と隠喩という「二つを、縦糸と横糸のように組み合わ」せて定立されている。
この縦糸と横糸が組みあわさった単語が、「脳の言語地図」におけるそれであろう。そしてこの横糸つまり隠喩的連鎖を処理するのが、Bであり、アクセントの箇所だ。
おそらく、アスペルガー症候群者の単語理解は、前頭葉の文法、文章理解領域で行われているのではないだろうか。「脳の言語地図」における単語の領域ではなく。脳は「ある特定の機能を持つ部位が損傷を受けたとしても、違う部位がその役割を担うことがある」。元のそれとまったく同じ機能を補完することは無理だろうが。
だから語義に拘る症状が見られるのではないか。
もしかしたら自閉症の言語処理は、酒井邦嘉が提出した「脳の言語地図」からは、多少逸脱しているのかもしれない。
こういった、Bが機能しないまま前頭葉などで処理補完された単語が、この記事の『今わたしの目の前にある机』などという著作になるのではないだろうか。それは、一般的な相似性、つまり隠喩的連鎖を含意した、「机」という単語ではない。
……ってことで、どう?
めんどくさくなったからしゅうりょ。
死にたい。
今読み直して思った。
それが発電所になっているから、Aという、Sあるいは/Sという、「現実界」という、「無条件反射神経系」という、「本能」みたいなものから、人間の思考は、精神は守られている。
これってさー、フロイトやビオンが言った「接触防壁」ってことだよな。
とすると、ミラーニューロンこそが、「接触防壁」あるいは「ψニューロン」だってことになるんだが……、おかしいなこれ。でもあれだ、神経生理学から論じたフロイトの「接触防壁」と、精神分析王道の心理面から論じたビオンの「接触防壁」を、つなぐ一助としてこの記事は……役に立たないかそうですか。
ミラーニューロンもおかしいよなー。「ミラー」ってのは症状からついた言葉でしょ。症状と物質性は同じとは限らない。ということは神経学的なフロイトの言う「接触防壁」でもありうる。
でもな、おかしいんだよ、やっぱ。あ、まあ「脳の言語地図」におけるアクセントの場所っていうのが、一つのヒントになるとは思うんだけど。
おかしいなー、でも。
もしかしたらファルスは存在するのかもしれない。脳の一機能として。
んー。餅は餅屋。この辺は神経学者にやってもらうしかないか。
うんこ。