大文字の他者とは、「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」である。
2010/05/25/Tue
中坊さんはニセラカニアンだが、わたし個人は彼はジジェク派だと思っている。ぶっちゃけて言うと「大文字の他者主義」みたいな。中坊さんは自分で「僕は大文字の他者に拘ってしまう性質がある」と言っていたりする。
実はこの性質、非公開コメントだがワードサラダくんも同様だ。ただ彼はジジェクは読んでないらしく、自分の性質を木村敏論の「ポスト・フェストゥムだ」と言っている。ポスト・フェストゥムとはノエマ的自己が強い状態を言う。ノエマ的自己とは、木村自身が失敗の論としているが、ラカン論と接続すれば、シニフィアン的自己だ、となる。よってポスト・フェストゥムとは「大文字の他者主義」である、ということになる。彼らはそれを自分で認めている、と。
いや批判とかじゃなくて、そういうところがジジェクで、中坊さんもそうだから、わたしの中で勝手にそう分類しているという話にすぎない。ワードサラダくんはあんまりラカン論知らないみたいだからそう言わないだけで。だから中坊さんが「いや俺はジジェク派じゃないつってんだろ」つってきても「ああ、うん、はいはい」とかで終了になる。だあってわたしがそれを把握するためのわたしの勝手な分類にすぎないんだから。
大文字の他者なんだよな。いろいろと。いろいろが。
ジジェクや中坊さんとかってあたりの人にとっての大文字の他者と、わたしのそれは違う。
解釈が違う、というわけでもない。彼らの言う大文字の他者は、少なくともわたしには理解可能だ。理屈的に間違っていない。わたしの言う大文字の他者は、ジジェクは知らんが、少なくとも中坊さんには意味は通じているようだ。要するに、大体は同じ意味でこの用語を使っているとは思われる。そもそもが理屈なんだから、まったく別の意味になるわけがない。まじめな学徒ならね。
逆に、まったく同一の意味にもなるわけがないんだけど。研究対象の心がそういうものだから。本職の精神分析家の言葉。
=====
つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
=====
余談だがこのコラム、一応は理論家擁護の論になっているが、言っているのは「ラカン派だって臨床している」って話であり、クラインよりなわたしでもまったく同意できるんだが、臨床をしていない哲学系ラカニアンたちにとってはむしろ批判になってると思うぜ。ラカン派が「図書館であくせく本を読む男性」とかって言われるのは臨床家じゃない哲学者が多いからなんじゃねえの? 聞いてる? 日本ラカン協会。このテクストで批判されているのはむしろ原和之とかだとわたしは思ってしまったんだが。
それはともかく、紆余曲折しているのは精神分析に限らず学問すべてがそうだとわたしは思う。たとえば自然科学も、向井雅明自身がそこで物理学を挙げているが、精神分析同様理論は紆余曲折している。
ところが自然科学には、ある単語が一つの対象を明確に示している、なんてイメージがある。ここが精神分析と違うところだと。確かに同じ分野ならそうである。だが、たとえば物性物理と工学は、近しいところもあるんだが、同じ単語の意味が微妙に違っていたりする場合もある。要するにその単語が示す物質にたどりつくアプローチが違うのだ。物性物理を専攻しておきながらなぜか機械設計職に就いたわたしの実体験から断言できる。
って話がそれた。
そういうことだとしても、ジジェク派の大文字の他者と、わたしの大文字の他者は、微妙に何かが違う。
そもそも大文字の他者とはなんぞや?
ラカン知らない人のためへの説明みたいなもんにもなりそう。信用しないでね。わたしもニセラカニアンだから。
簡単に言うと、ジジェク派とは「大文字の他者主義」だ。
簡単に言うと、大文字の他者とは言葉である。
これは言語に限らない。広義の「言葉」である。
たとえば、ボディーランゲージも言葉である。むしろ象徴、シンボルと言った方がいいか。たとえば、文字文化の希薄な未開文明に、トーテムポールのような象徴的建物があったとする。これも言葉になる。トーテムポールに機能的な目的はない。が、なんらかの意味を持っている。意味があるから言葉となる。その物が、その機能的、物質的性質以外に、別の意味を象徴的に示している、というわけだ。もっとわかりやすい例を言えば、国旗や社章なども言葉である。「国」や「会社」などと言った別の意味を象徴的に示している。それらは物質的性質としてはただの布であったりただのバッジだったりする。
象徴とは、それそのものの物質的性質以外に、なんらかの意味を持っている物を言う。こういったことを「(別の意味を)表象代理をしている」と述べることがある。余談だが、こういったことから、わたしは一時期「表象代理」を「象徴的代理物」と換言していたことがある。こっちの方が理屈的に明確でしょ。
ま、要するに、言語以外の物であっても、「象徴的代理物」であれば、それは言葉と考える、というわけだ。これがラカン論にける「シニフィアン」である。これはソシュール言語学から流用した概念だが、言語という物を研究対象にしている言語学とはこの点が違う。ラカン論における「シニフィアン」という概念は、元のソシュール言語学のそれより広義である。言語学は国旗や社章を取り扱わない。いや意味論あたりなら取り扱っていそうだが。
一方、大文字の他者を説明する際、もう一つ簡単な言い方がある。「自分について(ほめ言葉か悪口かは問わない)評判を言う人たち」などという説明。中坊さんがした説明もこれにあてはまる。この記事のコメント欄から。
=====
これがA(大文字の他者。陳腐に言うと世間様。)のある種の圧力、つまりAからの呼びかけや構うしぐさ等、
=====
そう、陳腐に言えば「世間様」なわけだ。
これは一見、先の「大文字の他者とは言葉である」という説明と違っているように思える。
わたしは基本「大文字の他者とは言葉である」と考えている。中坊さんやジジェク派は「大文字の他者とは「世間様」である」と考えている。前者は「言葉」であり後者は「人」である。
「言葉」か「人」か。
その両方なんだよ、というのが大文字の他者なのである。だから他「者」なのである。
「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」。
わたしが一時期ラカン論を説明する際、よく用いたたとえ話がある。これもこういったことを説明したかったのだろうな、と今思う。この記事から。
=====
たとえば、古代遺跡にテクストらしきものが刻まれてたとする。考古学者はそのテクストを「私(たち現代人)へのメッセージだ」と思うからそれを解析する。
=====
人間が「言葉」を認知すれば、必ず「人」が含意される。「言葉」に「人」がこびりついている。人間がこびりつかせている。
だからわたしの説明も、中坊さんの説明も間違っていない。少なくともわたしは両方間違っていないと思える。ただ、「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」について、どちらに重心を置いて説明しているか、の違いである。
ジジェクなどは「人」に重心を置いてラカン論を解釈している。だからわたしは中坊さんをジジェク派に分類している。そういう話である。
以上は中坊さんへのエクスキューズという意味もある。なので不必要に長くなったかもしれないが、要するに前フリである。
さて。
「人間が「言葉」を認知すれば、必ず「人」が含意される。「言葉」に「人」がこびりついている。人間がこびりつかせている。」
このところを詳しく見てみよう。
これは具体的にどういうことか。言語で話を進めると、言葉を言葉足らしめる意味に視線が注目しがちなので、それを回避するために、言語ではない「象徴的代理物」を具体例にしよう。
道祖神やお地蔵さん。
あれも「象徴的代理物」である。ラカン論的にはそれらはシニフィアンであり言葉である。しかし同時に、物質的にそれらはただの石である。ケイ素や酸素などといった原子で構成されている物質である(すまん適当に言ってる)。
これらがシニフィアンであるならば、物質的な性質以外の意味を持っていることになる。どんな意味か。
道祖神やお地蔵さんは、「人」を含意している。これらは「人の手が加えられた物」という意味を持っている。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」が大文字の他者なら、いわば言語より純粋な大文字の他者とも言えよう。
現代の舗装された道路などではなく、田舎の山道を想像してもらいたい。わたしはイナカモンである。イナカモンのたとえ話だと思って聞いてほしい。
田舎の山道は舗装されていない。車が通れるくらいの道幅があれば、人が通っている道だと思える。道の真ん中が盛りあがっていたり草が生えていたりすれば、轍であることがわかる。
しかしそんな一本道を歩いているだけなのに、道幅が狭くなる場合もある。単に「細長い草が生えていない地面の一部」になってしまう場合がある。
おそらく、人が山中で迷うのは、こういった場所だと思う。
このような道は、獣道との区別があいまいだ。一目で人間が通る道だとわからない。旅人は知らず知らずのうちに獣道を歩いている。人里からどんどん離れていく。
彼は遭難するだろう。
「人の通る道」と「獣道」の区別は、山中を歩く人にとって、生死に関わる判断だと言えよう。
舗装道路や車などがなかった時代を考えると、その区別は山中に限らなかったと思われる。旅人は常に「人の通る道」と「獣道」を区別しなければならない。
そこに道祖神やお地蔵さんがあれば、それは「人の通る道」だと、少なくとも以前に誰かが通ったことのある道だとわかる。
したがって、人は安心して旅を続けられる。
これが、それらが持っている「人の手が加えられた物」という意味が連鎖することによる、人への作用である。
現代の舗装道路は、地面が道祖神やお地蔵さんになっている、とも換言できよう。舗装されているのだから、それが「人の通る道」であることは明らかである。
逆に言えば、ただのアスファルトという物質でしかないそれが、現代人が、特に都会人があまり語らない、その意味を忘れてしまった、「象徴的代理物」である、ということでもある。
現代は山中にも舗装道路がある。夜になると本当に真っ暗になる。わたしがよく通った舗装道路の脇にもお地蔵さんがあった。真っ暗な中それを見つけたりすると、とても怖かった。怨霊みたいだった。
それはただの石である。
石じゃなくても、人ではない動物から見て、舗装道路とはどういうものだろう。車がびゅんびゅん通りすぎるそこは、ただの危険な場所でしかない。「人の手が加えられた物」という意味がわからない動物にとっては。実際、わたしも何度か動物の死骸を見かけたことがある。
人だからこそそれに安心する。「象徴的代理物」が含意する意味に。
一方、動物にとってそれはただの物である。
むしろ、意味をわかってしまった動物は、その道を避けるだろう。人という天敵と出会う可能性が非常に高い場所なのだから。
魔女の家は獣道の先にある。
未去勢者にとって「人の道」と「獣道」の区別はあいまいなのだ。
わたしはむしろ、舗装道路に転がる獣の死骸に、安心していたように思う。わたしという獣もいつか殺される、と。普通の大人になれる、と。獣道をさ迷う迷子から脱出できる、と。
話を戻そう。
かのように、大文字の他者とは、ラカン論におけるシニフィアンとは、「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」なのである。
それは言語というより象徴、シンボルである。シンボルとは意味が多義であることである。物質性以外の意味をその物質から読み取ることである。
しかし、ある程度の「意味連鎖のパターン」があるからこそ、多義であるシンボルは共有可能なのである。
その物質性以外の意味をなんでも読み込んでよい、となれば、いくらでも意味を読み込める。国旗に「ネタやコント」という意味を読み取ってもよい。お地蔵さんに「怖い」という意味を読み取ってもよい。しかしそうはなっていない。そうなってしまうと「意味を共有する」ことができないからだ。ある言葉の意味を、各人が各人の勝手に読み取れば、話は通じないに決まっている。
多義は多義であり、無限義ではない。その多義さは、境界こそあいまいかもしれないが、有限なのである。この有限領域が「意味連鎖のパターン」なのである。
このシンボルにおける「意味連鎖のパターン」を、言語学意味論的に述べるなら、この記事のこの文章が参考になるだろう。
=====
たとえば、実際にある机一個を言語で表現するとしよう。
それはどんな机だ? 高さは? 天板の大きさは? 数値で表そう。色は? 色という概念はあいまいすぎる。天板は木製である。一色ではない。したがって、コンピューター言語のようにRGB値を用い、また天板を座標化して、近似的に示すとしよう。天板は木製か、ではどんな木なのだ。スギだ。足は? 足は金属製だ。どのような金属なのか? 合金だ。どういった割合の合金なのだ? コンタミは混じっていないのか? 鉄だけなら床が傷つかないか? 足の先にはゴムキャップがつけられている。どのようなゴムだ? 成分は? ……。
おそらく、『今わたしの目の前にある机』というタイトルで、本一冊ゆうに書けるだろう。書こうと思えば。本一冊で済むだろうか。データ量としては、jpgより、動画よりも膨大な情報量にだってなりうるだろう。
『今わたしの目の前にある机』という書籍によって定義されたのが「机」だとするならば、「天板が木製でないものは机ではない」、「足にゴムキャップがついていないものは机ではない」などとなる。
理屈だけで、換喩的連鎖だけで、現実を表現することは、このように困難なことである。
しかし人間はこのような膨大な言語を用いて会話することはない。
圧縮が、隠喩的連鎖が、言語には存在するのである。
という話。ここの補足な。
圧縮が、隠喩的連鎖が可能である限り、すべての言語には人格が付着している。ある「認識パターン」がそれに付随している。大文字の物としての言語ではなく、大文字の他者としての言語であり続ける。
だからすべての言語は汚らしいのだ。
=====
ここで述べる「認識パターン」が「意味連鎖のパターン」に相当する。
こういった「定型パターン」が、人間であれば、去勢済み主体であれば、ある程度共通しているのが問題なのだ。だからわたしはこの定型さを「人間らしさ」と呼ぶことが多い。
去勢済み主体とは、「人間らしさ」を欲望できる精神疾患者である。これは中坊さんの記事ならば「(人間としての)健全さ」に過剰に欲望している人たちだ、となる。
それを欲望できない精神疾患者が、自閉症や分裂病やスキゾイドや分裂病型人格障害などといった未去勢者たちなのである。
ところで、この文脈だと隠喩連鎖が「定型パターン」だということになり、換喩連鎖はそうではない、となるが、それも正確に言えば間違っている。
というのは、先の『今わたしの目の前にある机』にも、ある「定型パターン」があると言えるからだ。それは「どこからどこまでを「机」とするか」というパターンである。この『今わたしの目の前にある机』という著作は、おそらくこのパターンに則っているだろう。机の中に入っている教科書を表現しないだろう。ゴムキャップが接触している床には言及しないだろう。机の周りに纏わりつく気体にまで思いは及ばないだろう。
「どこからどこまでを「机」とするか」はどのように決定されるのか。単体として動かせる物がそうであるのか? であるならその周りにある気体はどうだ? 気体にも粘性がある。であるならば、机を動かしたとき、多少の空気が机に纏わりついて移動しているだろう。であるならば、纏わりついた空気は「机」ではないのか? 移動した空気と移動しなかった空気の境界はどこにあるのだ?
物質とは裁断不可能なのである。それが(量子の)波動性というものである。これは言語が現実を百パーセント完全に表象しえないことと同根である。
なのに、「机」という単語は、あたかも物質的に机という物質が、周りの物質と裁断されているかのように語られている。
こうなると、『アンチ・オイディプス』が述べるところの「流れ/切断」という二項対立が説明道具として有効であるように思えてくる。
『アンチ・オイディプス』の言う「流れ/切断」という表現は、彼らが「機械」を強調していることからも、人間性(一般的に思われているようなそれ、たとえばオイディプスのような)ではない物質性を示している、と考えなければならない。この表現は、暴力的に言えば、量子力学の根本的物質観と共鳴する。すなわち「波動性/粒子性」と。ガタリが「流れ」から「浸透」という性質に気がついたのも、それが「波動性」だったからであろう。波は流れるだけではない。干渉しあう。量子という波が「切断」されて「粒子性」は観察される。つじつまはあう。
この物質性としての「流れ/切断」という性質は、先に述べた「定型(もちろんこれには自閉症に対する正常人、つまり「定型」発達者が含意されている)パターン」とはまったく別次元にあるものである。いわば「物質性」と「精神性」の差異である。
であるならば、「換喩/隠喩」という分類は、どちらが「物質性」でどちらが「精神性」かという話ではないことがわかる。
換喩にも隠喩にも、「流れ/切断」もあれば「定型パターン」もある。「物質性」もあれば「精神性」もある。むしろそれらが複雑に絡まりあい重なりあっているのがシニフィアンだと考えなければならない。
ただし、「流れ/切断」と「定型パターン」の絡まりあいの上に「流れ/切断」があるのが換喩で、上に「定型パターン」があるのが隠喩だ、と言えよう。つまり、表面的なところだけを考えるとして、隠喩の方が「定型パターン」という精神疾患的症状を確認しやすい、ということだ。「換喩/隠喩」を「物質性/精神性」に対応させるのは表面的な問題にすぎない、と言いたかっただけ。
この記事などでわたしは「隠喩は隠喩ではない」と述べているが、これは、その言葉に隠喩的な「定型パターン」を、「人」をこびつかせているのは、読んでいる人間の方なのだ、と言いたかったのだろう。
言葉は単語一語でも換喩連鎖と隠喩連鎖を含意する。「流れ/切断」という「物質性」と「定型パターン」という「精神性」を備えている。
この記事で述べている「大文字の他者に欲望されることを苦痛に思う分裂病者」たちは、大文字の他者における「精神性」たる「定型パターン」に怯えているのではないだろうか。
それに「精神性」がともなうからそれは「人」であるのだ。すべての言葉は汚らしいのだ。その「精神性」とは、シンボルにおける多義を定型的に有限化する「定型パターン」である。「フレーム問題」における「フレーム」である。ビオンの言う「容器」である。
すべての言葉にはなんらかの器が組み込まれている。
この「定型パターン」が本能的な力動を精神的な力動に昇華させる。「本能」に「愛情」が組み込まれた回路になっているから、本能的な力動は、すなわち欲動は、欲望になる。フーリエ展開された各項のごとき内面の力動は、愛情や喜怒哀楽などといった定形的な情動になる。ばらばらな矢印が束ねられ、一つの大きな波となる。
これが大文字の他者を他者足らしめる。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」となる。
だからそれは分裂病者を欲望するのである。「機械」や「動物」や「ゾンビ」や「ロボット」には、欲動はあるかもしれないが、欲望はない。意味連鎖における「定型パターン」はない。「機械」や「動物」や「ゾンビ」や「ロボット」の言動に「器」は組み込まれていない。
おそらく、分裂病者の舗装道路は、大地震が起きたあとのように、大きくひび割れているのだろう。ひび割れてしまった舗装道路はもうすでにただの物でしかない。車にぶつけられ破壊されたお地蔵さんはもはやただの石である。そこに自分を安心せしめる意味はない。この道を進んでいけば、確かに人里に着くかもしれない。暴徒と化した人々に襲われるかもしれない。
このとき彼にとって、ひび割れた舗装道路が含意する「人の手が加えられた物」は、自分の命を脅かす意味でしかない。まるで車にはねられる獣たちのごとく。
分裂病者は舗装道路から逃げようとするだろう。しかしどこまでいっても舗装道路は舗装されている。舗装道路にストーキングされている。
いまや彼にとって大文字の他者は、「言葉」ではあるが、「人」であると同時に「物」である。
だから彼はそれに怯えるのだ。
こう書くと、「分裂病者は欲動を欲望化させる機能が故障している」という意味になるが、それは間違っていない。分裂症の臨床実体を棄却すると書いておきながら、豊富な分裂症臨床報告としても読める『アンチ・オイディプス』は、マッサージ療法を「分裂症者に欲望を自覚させる」治療であるとして評価している。そうじゃなくても「分裂症者に欲望を自覚させる」というような理屈は、分裂病関係の論文でときおり見かけられる。
「欲望機械」が壊れているのが、むしろ分裂症者なのである。
欲望するからこそ、人間は人間らしくいられるのだ。
ところで、「大文字の他者に欲望されることを恐れる」症状は、精神病だけのものではない。対人恐怖症にもある症状である。
ところが、彼らの舗装道路は壊れていない。それはたとえばこういうことだ。
都会での暮らしに疲れた人が、田舎を旅しようと思ったとする。舗装されていない道路を歩いてみたくなる。具体的に言えば退却神経症やモラトリアムがこれに相当するだろう。
だが彼の主観世界に獣道はない。
彼はいくら歩いてもきれいに舗装された道路の上から逃れられない。
つまり対人恐怖症は、その主観世界に舗装道路しかないゆえの症状なのである。いくら歩いてもきれいに舗装された道路しかないのだから、これもストーキングである。彼は大文字の他者に欲望されている。
こういった機制で、彼は大文字の他者を恐れている。
これは、木村敏が自身の論を用いて「赤面恐怖症(対人恐怖症)はアンテ・フェストゥムかポスト・フェストゥムか」を論じていることと相当している。わたしは以上のような解釈をしているため、(ハンス症例のような幼児的恐怖症ではない)対人恐怖症はポスト・フェストゥムだと考えている。
一方、分裂病者の道路は「人」であると同時に「物」である。
ここが精神病と神経症の違うところである。
こう見ていくと、わたしが「舗装道路」という表現で示している「人が通る道」とは、「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」と言うスナックに通いつめるエロオヤジと同様の心理パターンであることがわかる。
この「正常という精神疾患」の心理は、おそらく幼児期から叩き込まれてきたものだろう。わたしはこの「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」という態度は、子育ての原理だとも考えている。健全な子育ての。一般的に健全だとされている子育てを、精神分析風に言い換えればこうなる、という話にすぎない。「物は言い様」である。
この心理は、『ラカンの精神分析』で分裂病者の「大文字の他者に欲望されることを恐れる」症状を挙げた新宮一成にも見て取れる、そう解釈できる、と論じたのがこの記事である。
ここでの「定型パターン」について、別の角度から見れば、「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」という一面がある、という話である。
新宮は分裂病者を前に「人間から隔たってい」られなかったのである。
彼は、神経症者を前にしたときはまた別の話になろうが、少なくとも分裂病者を前にして、分析家失格だった、と予測できる。
彼のこの周辺のテクストにこそ、「ラカン論は精神病を前にすると、その解釈能力を著しく失調する」症状が表れているように、わたしには思える。
少なくとも、ある日本ラカン協会会員に境界例だと診断されたわたしは、新宮に治療されえないだろう、と思う。
以上。中坊さんみたいなジジェクっぺえ大文字の他者解釈は、わたしは理解できるんだけど、なーんかいつも違和感感じるのよね。その解釈が間違っているって話じゃなく。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」である大文字の他者について、「人」であることを優先して論じる傾向が、なんとなくわさわさする。
それについてのうんこでした。
実はこの性質、非公開コメントだがワードサラダくんも同様だ。ただ彼はジジェクは読んでないらしく、自分の性質を木村敏論の「ポスト・フェストゥムだ」と言っている。ポスト・フェストゥムとはノエマ的自己が強い状態を言う。ノエマ的自己とは、木村自身が失敗の論としているが、ラカン論と接続すれば、シニフィアン的自己だ、となる。よってポスト・フェストゥムとは「大文字の他者主義」である、ということになる。彼らはそれを自分で認めている、と。
いや批判とかじゃなくて、そういうところがジジェクで、中坊さんもそうだから、わたしの中で勝手にそう分類しているという話にすぎない。ワードサラダくんはあんまりラカン論知らないみたいだからそう言わないだけで。だから中坊さんが「いや俺はジジェク派じゃないつってんだろ」つってきても「ああ、うん、はいはい」とかで終了になる。だあってわたしがそれを把握するためのわたしの勝手な分類にすぎないんだから。
大文字の他者なんだよな。いろいろと。いろいろが。
ジジェクや中坊さんとかってあたりの人にとっての大文字の他者と、わたしのそれは違う。
解釈が違う、というわけでもない。彼らの言う大文字の他者は、少なくともわたしには理解可能だ。理屈的に間違っていない。わたしの言う大文字の他者は、ジジェクは知らんが、少なくとも中坊さんには意味は通じているようだ。要するに、大体は同じ意味でこの用語を使っているとは思われる。そもそもが理屈なんだから、まったく別の意味になるわけがない。まじめな学徒ならね。
逆に、まったく同一の意味にもなるわけがないんだけど。研究対象の心がそういうものだから。本職の精神分析家の言葉。
=====
つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
=====
余談だがこのコラム、一応は理論家擁護の論になっているが、言っているのは「ラカン派だって臨床している」って話であり、クラインよりなわたしでもまったく同意できるんだが、臨床をしていない哲学系ラカニアンたちにとってはむしろ批判になってると思うぜ。ラカン派が「図書館であくせく本を読む男性」とかって言われるのは臨床家じゃない哲学者が多いからなんじゃねえの? 聞いてる? 日本ラカン協会。このテクストで批判されているのはむしろ原和之とかだとわたしは思ってしまったんだが。
それはともかく、紆余曲折しているのは精神分析に限らず学問すべてがそうだとわたしは思う。たとえば自然科学も、向井雅明自身がそこで物理学を挙げているが、精神分析同様理論は紆余曲折している。
ところが自然科学には、ある単語が一つの対象を明確に示している、なんてイメージがある。ここが精神分析と違うところだと。確かに同じ分野ならそうである。だが、たとえば物性物理と工学は、近しいところもあるんだが、同じ単語の意味が微妙に違っていたりする場合もある。要するにその単語が示す物質にたどりつくアプローチが違うのだ。物性物理を専攻しておきながらなぜか機械設計職に就いたわたしの実体験から断言できる。
って話がそれた。
そういうことだとしても、ジジェク派の大文字の他者と、わたしの大文字の他者は、微妙に何かが違う。
そもそも大文字の他者とはなんぞや?
ラカン知らない人のためへの説明みたいなもんにもなりそう。信用しないでね。わたしもニセラカニアンだから。
簡単に言うと、ジジェク派とは「大文字の他者主義」だ。
簡単に言うと、大文字の他者とは言葉である。
これは言語に限らない。広義の「言葉」である。
たとえば、ボディーランゲージも言葉である。むしろ象徴、シンボルと言った方がいいか。たとえば、文字文化の希薄な未開文明に、トーテムポールのような象徴的建物があったとする。これも言葉になる。トーテムポールに機能的な目的はない。が、なんらかの意味を持っている。意味があるから言葉となる。その物が、その機能的、物質的性質以外に、別の意味を象徴的に示している、というわけだ。もっとわかりやすい例を言えば、国旗や社章なども言葉である。「国」や「会社」などと言った別の意味を象徴的に示している。それらは物質的性質としてはただの布であったりただのバッジだったりする。
象徴とは、それそのものの物質的性質以外に、なんらかの意味を持っている物を言う。こういったことを「(別の意味を)表象代理をしている」と述べることがある。余談だが、こういったことから、わたしは一時期「表象代理」を「象徴的代理物」と換言していたことがある。こっちの方が理屈的に明確でしょ。
ま、要するに、言語以外の物であっても、「象徴的代理物」であれば、それは言葉と考える、というわけだ。これがラカン論にける「シニフィアン」である。これはソシュール言語学から流用した概念だが、言語という物を研究対象にしている言語学とはこの点が違う。ラカン論における「シニフィアン」という概念は、元のソシュール言語学のそれより広義である。言語学は国旗や社章を取り扱わない。いや意味論あたりなら取り扱っていそうだが。
一方、大文字の他者を説明する際、もう一つ簡単な言い方がある。「自分について(ほめ言葉か悪口かは問わない)評判を言う人たち」などという説明。中坊さんがした説明もこれにあてはまる。この記事のコメント欄から。
=====
これがA(大文字の他者。陳腐に言うと世間様。)のある種の圧力、つまりAからの呼びかけや構うしぐさ等、
=====
そう、陳腐に言えば「世間様」なわけだ。
これは一見、先の「大文字の他者とは言葉である」という説明と違っているように思える。
わたしは基本「大文字の他者とは言葉である」と考えている。中坊さんやジジェク派は「大文字の他者とは「世間様」である」と考えている。前者は「言葉」であり後者は「人」である。
「言葉」か「人」か。
その両方なんだよ、というのが大文字の他者なのである。だから他「者」なのである。
「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」。
わたしが一時期ラカン論を説明する際、よく用いたたとえ話がある。これもこういったことを説明したかったのだろうな、と今思う。この記事から。
=====
たとえば、古代遺跡にテクストらしきものが刻まれてたとする。考古学者はそのテクストを「私(たち現代人)へのメッセージだ」と思うからそれを解析する。
=====
人間が「言葉」を認知すれば、必ず「人」が含意される。「言葉」に「人」がこびりついている。人間がこびりつかせている。
だからわたしの説明も、中坊さんの説明も間違っていない。少なくともわたしは両方間違っていないと思える。ただ、「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」について、どちらに重心を置いて説明しているか、の違いである。
ジジェクなどは「人」に重心を置いてラカン論を解釈している。だからわたしは中坊さんをジジェク派に分類している。そういう話である。
以上は中坊さんへのエクスキューズという意味もある。なので不必要に長くなったかもしれないが、要するに前フリである。
さて。
「人間が「言葉」を認知すれば、必ず「人」が含意される。「言葉」に「人」がこびりついている。人間がこびりつかせている。」
このところを詳しく見てみよう。
これは具体的にどういうことか。言語で話を進めると、言葉を言葉足らしめる意味に視線が注目しがちなので、それを回避するために、言語ではない「象徴的代理物」を具体例にしよう。
道祖神やお地蔵さん。
あれも「象徴的代理物」である。ラカン論的にはそれらはシニフィアンであり言葉である。しかし同時に、物質的にそれらはただの石である。ケイ素や酸素などといった原子で構成されている物質である(すまん適当に言ってる)。
これらがシニフィアンであるならば、物質的な性質以外の意味を持っていることになる。どんな意味か。
道祖神やお地蔵さんは、「人」を含意している。これらは「人の手が加えられた物」という意味を持っている。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」が大文字の他者なら、いわば言語より純粋な大文字の他者とも言えよう。
現代の舗装された道路などではなく、田舎の山道を想像してもらいたい。わたしはイナカモンである。イナカモンのたとえ話だと思って聞いてほしい。
田舎の山道は舗装されていない。車が通れるくらいの道幅があれば、人が通っている道だと思える。道の真ん中が盛りあがっていたり草が生えていたりすれば、轍であることがわかる。
しかしそんな一本道を歩いているだけなのに、道幅が狭くなる場合もある。単に「細長い草が生えていない地面の一部」になってしまう場合がある。
おそらく、人が山中で迷うのは、こういった場所だと思う。
このような道は、獣道との区別があいまいだ。一目で人間が通る道だとわからない。旅人は知らず知らずのうちに獣道を歩いている。人里からどんどん離れていく。
彼は遭難するだろう。
「人の通る道」と「獣道」の区別は、山中を歩く人にとって、生死に関わる判断だと言えよう。
舗装道路や車などがなかった時代を考えると、その区別は山中に限らなかったと思われる。旅人は常に「人の通る道」と「獣道」を区別しなければならない。
そこに道祖神やお地蔵さんがあれば、それは「人の通る道」だと、少なくとも以前に誰かが通ったことのある道だとわかる。
したがって、人は安心して旅を続けられる。
これが、それらが持っている「人の手が加えられた物」という意味が連鎖することによる、人への作用である。
現代の舗装道路は、地面が道祖神やお地蔵さんになっている、とも換言できよう。舗装されているのだから、それが「人の通る道」であることは明らかである。
逆に言えば、ただのアスファルトという物質でしかないそれが、現代人が、特に都会人があまり語らない、その意味を忘れてしまった、「象徴的代理物」である、ということでもある。
現代は山中にも舗装道路がある。夜になると本当に真っ暗になる。わたしがよく通った舗装道路の脇にもお地蔵さんがあった。真っ暗な中それを見つけたりすると、とても怖かった。怨霊みたいだった。
それはただの石である。
石じゃなくても、人ではない動物から見て、舗装道路とはどういうものだろう。車がびゅんびゅん通りすぎるそこは、ただの危険な場所でしかない。「人の手が加えられた物」という意味がわからない動物にとっては。実際、わたしも何度か動物の死骸を見かけたことがある。
人だからこそそれに安心する。「象徴的代理物」が含意する意味に。
一方、動物にとってそれはただの物である。
むしろ、意味をわかってしまった動物は、その道を避けるだろう。人という天敵と出会う可能性が非常に高い場所なのだから。
魔女の家は獣道の先にある。
未去勢者にとって「人の道」と「獣道」の区別はあいまいなのだ。
わたしはむしろ、舗装道路に転がる獣の死骸に、安心していたように思う。わたしという獣もいつか殺される、と。普通の大人になれる、と。獣道をさ迷う迷子から脱出できる、と。
話を戻そう。
かのように、大文字の他者とは、ラカン論におけるシニフィアンとは、「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」なのである。
それは言語というより象徴、シンボルである。シンボルとは意味が多義であることである。物質性以外の意味をその物質から読み取ることである。
しかし、ある程度の「意味連鎖のパターン」があるからこそ、多義であるシンボルは共有可能なのである。
その物質性以外の意味をなんでも読み込んでよい、となれば、いくらでも意味を読み込める。国旗に「ネタやコント」という意味を読み取ってもよい。お地蔵さんに「怖い」という意味を読み取ってもよい。しかしそうはなっていない。そうなってしまうと「意味を共有する」ことができないからだ。ある言葉の意味を、各人が各人の勝手に読み取れば、話は通じないに決まっている。
多義は多義であり、無限義ではない。その多義さは、境界こそあいまいかもしれないが、有限なのである。この有限領域が「意味連鎖のパターン」なのである。
このシンボルにおける「意味連鎖のパターン」を、言語学意味論的に述べるなら、この記事のこの文章が参考になるだろう。
=====
たとえば、実際にある机一個を言語で表現するとしよう。
それはどんな机だ? 高さは? 天板の大きさは? 数値で表そう。色は? 色という概念はあいまいすぎる。天板は木製である。一色ではない。したがって、コンピューター言語のようにRGB値を用い、また天板を座標化して、近似的に示すとしよう。天板は木製か、ではどんな木なのだ。スギだ。足は? 足は金属製だ。どのような金属なのか? 合金だ。どういった割合の合金なのだ? コンタミは混じっていないのか? 鉄だけなら床が傷つかないか? 足の先にはゴムキャップがつけられている。どのようなゴムだ? 成分は? ……。
おそらく、『今わたしの目の前にある机』というタイトルで、本一冊ゆうに書けるだろう。書こうと思えば。本一冊で済むだろうか。データ量としては、jpgより、動画よりも膨大な情報量にだってなりうるだろう。
『今わたしの目の前にある机』という書籍によって定義されたのが「机」だとするならば、「天板が木製でないものは机ではない」、「足にゴムキャップがついていないものは机ではない」などとなる。
理屈だけで、換喩的連鎖だけで、現実を表現することは、このように困難なことである。
しかし人間はこのような膨大な言語を用いて会話することはない。
圧縮が、隠喩的連鎖が、言語には存在するのである。
という話。ここの補足な。
圧縮が、隠喩的連鎖が可能である限り、すべての言語には人格が付着している。ある「認識パターン」がそれに付随している。大文字の物としての言語ではなく、大文字の他者としての言語であり続ける。
だからすべての言語は汚らしいのだ。
=====
ここで述べる「認識パターン」が「意味連鎖のパターン」に相当する。
こういった「定型パターン」が、人間であれば、去勢済み主体であれば、ある程度共通しているのが問題なのだ。だからわたしはこの定型さを「人間らしさ」と呼ぶことが多い。
去勢済み主体とは、「人間らしさ」を欲望できる精神疾患者である。これは中坊さんの記事ならば「(人間としての)健全さ」に過剰に欲望している人たちだ、となる。
それを欲望できない精神疾患者が、自閉症や分裂病やスキゾイドや分裂病型人格障害などといった未去勢者たちなのである。
ところで、この文脈だと隠喩連鎖が「定型パターン」だということになり、換喩連鎖はそうではない、となるが、それも正確に言えば間違っている。
というのは、先の『今わたしの目の前にある机』にも、ある「定型パターン」があると言えるからだ。それは「どこからどこまでを「机」とするか」というパターンである。この『今わたしの目の前にある机』という著作は、おそらくこのパターンに則っているだろう。机の中に入っている教科書を表現しないだろう。ゴムキャップが接触している床には言及しないだろう。机の周りに纏わりつく気体にまで思いは及ばないだろう。
「どこからどこまでを「机」とするか」はどのように決定されるのか。単体として動かせる物がそうであるのか? であるならその周りにある気体はどうだ? 気体にも粘性がある。であるならば、机を動かしたとき、多少の空気が机に纏わりついて移動しているだろう。であるならば、纏わりついた空気は「机」ではないのか? 移動した空気と移動しなかった空気の境界はどこにあるのだ?
物質とは裁断不可能なのである。それが(量子の)波動性というものである。これは言語が現実を百パーセント完全に表象しえないことと同根である。
なのに、「机」という単語は、あたかも物質的に机という物質が、周りの物質と裁断されているかのように語られている。
こうなると、『アンチ・オイディプス』が述べるところの「流れ/切断」という二項対立が説明道具として有効であるように思えてくる。
『アンチ・オイディプス』の言う「流れ/切断」という表現は、彼らが「機械」を強調していることからも、人間性(一般的に思われているようなそれ、たとえばオイディプスのような)ではない物質性を示している、と考えなければならない。この表現は、暴力的に言えば、量子力学の根本的物質観と共鳴する。すなわち「波動性/粒子性」と。ガタリが「流れ」から「浸透」という性質に気がついたのも、それが「波動性」だったからであろう。波は流れるだけではない。干渉しあう。量子という波が「切断」されて「粒子性」は観察される。つじつまはあう。
この物質性としての「流れ/切断」という性質は、先に述べた「定型(もちろんこれには自閉症に対する正常人、つまり「定型」発達者が含意されている)パターン」とはまったく別次元にあるものである。いわば「物質性」と「精神性」の差異である。
であるならば、「換喩/隠喩」という分類は、どちらが「物質性」でどちらが「精神性」かという話ではないことがわかる。
換喩にも隠喩にも、「流れ/切断」もあれば「定型パターン」もある。「物質性」もあれば「精神性」もある。むしろそれらが複雑に絡まりあい重なりあっているのがシニフィアンだと考えなければならない。
ただし、「流れ/切断」と「定型パターン」の絡まりあいの上に「流れ/切断」があるのが換喩で、上に「定型パターン」があるのが隠喩だ、と言えよう。つまり、表面的なところだけを考えるとして、隠喩の方が「定型パターン」という精神疾患的症状を確認しやすい、ということだ。「換喩/隠喩」を「物質性/精神性」に対応させるのは表面的な問題にすぎない、と言いたかっただけ。
この記事などでわたしは「隠喩は隠喩ではない」と述べているが、これは、その言葉に隠喩的な「定型パターン」を、「人」をこびつかせているのは、読んでいる人間の方なのだ、と言いたかったのだろう。
言葉は単語一語でも換喩連鎖と隠喩連鎖を含意する。「流れ/切断」という「物質性」と「定型パターン」という「精神性」を備えている。
この記事で述べている「大文字の他者に欲望されることを苦痛に思う分裂病者」たちは、大文字の他者における「精神性」たる「定型パターン」に怯えているのではないだろうか。
それに「精神性」がともなうからそれは「人」であるのだ。すべての言葉は汚らしいのだ。その「精神性」とは、シンボルにおける多義を定型的に有限化する「定型パターン」である。「フレーム問題」における「フレーム」である。ビオンの言う「容器」である。
すべての言葉にはなんらかの器が組み込まれている。
この「定型パターン」が本能的な力動を精神的な力動に昇華させる。「本能」に「愛情」が組み込まれた回路になっているから、本能的な力動は、すなわち欲動は、欲望になる。フーリエ展開された各項のごとき内面の力動は、愛情や喜怒哀楽などといった定形的な情動になる。ばらばらな矢印が束ねられ、一つの大きな波となる。
これが大文字の他者を他者足らしめる。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」となる。
だからそれは分裂病者を欲望するのである。「機械」や「動物」や「ゾンビ」や「ロボット」には、欲動はあるかもしれないが、欲望はない。意味連鎖における「定型パターン」はない。「機械」や「動物」や「ゾンビ」や「ロボット」の言動に「器」は組み込まれていない。
おそらく、分裂病者の舗装道路は、大地震が起きたあとのように、大きくひび割れているのだろう。ひび割れてしまった舗装道路はもうすでにただの物でしかない。車にぶつけられ破壊されたお地蔵さんはもはやただの石である。そこに自分を安心せしめる意味はない。この道を進んでいけば、確かに人里に着くかもしれない。暴徒と化した人々に襲われるかもしれない。
このとき彼にとって、ひび割れた舗装道路が含意する「人の手が加えられた物」は、自分の命を脅かす意味でしかない。まるで車にはねられる獣たちのごとく。
分裂病者は舗装道路から逃げようとするだろう。しかしどこまでいっても舗装道路は舗装されている。舗装道路にストーキングされている。
いまや彼にとって大文字の他者は、「言葉」ではあるが、「人」であると同時に「物」である。
だから彼はそれに怯えるのだ。
こう書くと、「分裂病者は欲動を欲望化させる機能が故障している」という意味になるが、それは間違っていない。分裂症の臨床実体を棄却すると書いておきながら、豊富な分裂症臨床報告としても読める『アンチ・オイディプス』は、マッサージ療法を「分裂症者に欲望を自覚させる」治療であるとして評価している。そうじゃなくても「分裂症者に欲望を自覚させる」というような理屈は、分裂病関係の論文でときおり見かけられる。
「欲望機械」が壊れているのが、むしろ分裂症者なのである。
欲望するからこそ、人間は人間らしくいられるのだ。
ところで、「大文字の他者に欲望されることを恐れる」症状は、精神病だけのものではない。対人恐怖症にもある症状である。
ところが、彼らの舗装道路は壊れていない。それはたとえばこういうことだ。
都会での暮らしに疲れた人が、田舎を旅しようと思ったとする。舗装されていない道路を歩いてみたくなる。具体的に言えば退却神経症やモラトリアムがこれに相当するだろう。
だが彼の主観世界に獣道はない。
彼はいくら歩いてもきれいに舗装された道路の上から逃れられない。
つまり対人恐怖症は、その主観世界に舗装道路しかないゆえの症状なのである。いくら歩いてもきれいに舗装された道路しかないのだから、これもストーキングである。彼は大文字の他者に欲望されている。
こういった機制で、彼は大文字の他者を恐れている。
これは、木村敏が自身の論を用いて「赤面恐怖症(対人恐怖症)はアンテ・フェストゥムかポスト・フェストゥムか」を論じていることと相当している。わたしは以上のような解釈をしているため、(ハンス症例のような幼児的恐怖症ではない)対人恐怖症はポスト・フェストゥムだと考えている。
一方、分裂病者の道路は「人」であると同時に「物」である。
ここが精神病と神経症の違うところである。
こう見ていくと、わたしが「舗装道路」という表現で示している「人が通る道」とは、「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」と言うスナックに通いつめるエロオヤジと同様の心理パターンであることがわかる。
この「正常という精神疾患」の心理は、おそらく幼児期から叩き込まれてきたものだろう。わたしはこの「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」という態度は、子育ての原理だとも考えている。健全な子育ての。一般的に健全だとされている子育てを、精神分析風に言い換えればこうなる、という話にすぎない。「物は言い様」である。
この心理は、『ラカンの精神分析』で分裂病者の「大文字の他者に欲望されることを恐れる」症状を挙げた新宮一成にも見て取れる、そう解釈できる、と論じたのがこの記事である。
ここでの「定型パターン」について、別の角度から見れば、「欲望されているんだからあなたも欲望しなさい」という一面がある、という話である。
新宮は分裂病者を前に「人間から隔たってい」られなかったのである。
彼は、神経症者を前にしたときはまた別の話になろうが、少なくとも分裂病者を前にして、分析家失格だった、と予測できる。
彼のこの周辺のテクストにこそ、「ラカン論は精神病を前にすると、その解釈能力を著しく失調する」症状が表れているように、わたしには思える。
少なくとも、ある日本ラカン協会会員に境界例だと診断されたわたしは、新宮に治療されえないだろう、と思う。
以上。中坊さんみたいなジジェクっぺえ大文字の他者解釈は、わたしは理解できるんだけど、なーんかいつも違和感感じるのよね。その解釈が間違っているって話じゃなく。「人」としての「言葉」、「言葉」としての「人」である大文字の他者について、「人」であることを優先して論じる傾向が、なんとなくわさわさする。
それについてのうんこでした。