「耳のないホムンクルス」と精神分析の終焉
2010/06/12/Sat
なんかどうでもよくなってきたので書こう。
この記事で
=====
なんかこう一次体性感覚野でおもしろいこと発見したんだが妄想力が続かない。
=====
って書いたこと。
とはいえ、妄想力が不足しているのは今でもそう。妄想力が続かない=理論武装する気力がない、ってことだから、ボーロンになるな。
ここはわたしの日記帳ですが何か?
一次体性感覚野というのは、それこそ体性感覚を司っている。体のいろんな箇所の感覚。手や足や口や目や。どの箇所の感覚を(一次体性感覚野内の)どの箇所が司っているのかもわかっている。それを図化したのが「感覚のホムンクルス」である。
ここでの信号が、大脳皮質に散らばっている各感覚野に伝わっていく。
この記事における「中枢はひろく大脳皮質に形成され」ている「感覚信号系」の大元締めがここだ、という感じだ。
この部位は、脳を前後に切断するような感じの箇所にある。「中心後回」と呼ばれている箇所だ。
「後」なら「前」がある。「中心前回」もある。
この「中心前回」には、その一部として、「一次体性感覚野」と対応する形で、「一次運動野」と呼ばれている領野がある。
この「一次運動野」は他の皮質と比べ特徴がある。この箇所の神経は脊髄神経と直結しているのだ。
イメージで述べてみよう。背骨がある。脊髄である。その頭の方の先っちょに神経の塊がある。いわゆる脳幹、小脳である。が、それだけではない。その上に、あたかもまるで扇子を広げたような形の、皮質とつながる末端がある。頭の上に開いた扇子をのっけているバカ殿みたいな格好を思いだしてもらえばよい。
この脊髄とつながっている扇子は、「一次体性感覚野」と癒着している。これも扇子状である。扇子の背後にもう一つ扇子がある。この背後の扇子が大脳皮質とつながっている。
先の条件反射についての記事で言えば、脊髄における神経信号は「無条件反射信号系」「一次信号系」となる。であるならば、「一次信号系」と「二次信号系」「感覚信号系」の接続箇所がそこである、と言えよう。「一次信号系」の「二次信号系」側への接続末端が「一次運動野」であり、「二次信号系」の「一次信号系」側への接続末端が「一次体性感覚野」だ、ということである。
この「一次運動野」にも「ホムンクルス」はいる。いわば「運動のホムンクルス」である。「一次体性感覚野」の「ホムンクルス」と、違う箇所はあるが、大体同じである。接続末端同士だから、たとえばコンセントのように規格をあわせなければならない、といったところだろう。コンセントにもいろいろあるんだぜ。舞台照明なんかは家庭用の電力じゃないから特殊なコネクタを使っている。T型とか最近なくなったな。C型に統一しろって通達みたいなんがあった気がする。
この二人の、一対の「ホムンクルス」をじいっと眺めてほしい。
何か気づかないだろうか?
この「ホムンクルス」には耳がない。二人とも。
しかし、ヒトは聴覚を失っているわけではない。脊髄と密接な「ホムンクルス」に耳がなくても、ヒト個体に聴覚はある。
その証拠に、皮質には聴覚野がある。左右側頭葉にある。
ではヒトは、皮質による感覚処理ができるようになったため、「ホムンクルス」から耳を取りあげたのか。
いや、「ホムンクルス」には目がある。皮質にも視覚野はあるのに。
しかしその目もとても小さなものだ。唇や手と比べて処理領域は小さい。
一方、皮質における聴覚野、視覚野は、その他感覚処理と比して、非常に大きい。これは普通の感覚でも理解できる。ヒトは視覚と聴覚に重きを置いて認識している。
したがって、皮質による視覚処理ができるようになったから、「ホムンクルス」による処理は極小化していったのだろう、と推測できる。
この推測はおかしいことではない。脳に外傷を受けたヒトにおいて、損壊した脳の一部で行っていた処理を、他の部位が補っているケースもある。脳処理機能の割当は柔軟なのだ。
以上のわたしの推論を端的に言えば、(他の皮質領野でそれが発達した代わりに)「一次体性感覚野」「一次運動野」において聴覚処理機能が退化したのがヒトだ、ということである。
これもおかしい考え方ではない。たとえばモグラを考えよう。モグラにも昔は目があった。しかし、土中生活という環境に適応するため、目という器官を退化させた。これは個体としては進化である。
ヒトにも退化している部分がある。たとえば尻尾。ヒトには尻尾がない。しかし退化した名残として尾てい骨がある。ときどき尻尾があるヒトもいる。わたしの知人にもいた。子供のときに切ったらしいが。その人は一種のネタ、自慢話のようなこととして考えていると思う。普通のおっさん。
また、犬や猫は耳を動かすことができるが、ヒトはなかなかできない。しかし耳を動かす筋肉がまったくなくなっているわけではない。実際に、犬や猫のように音のした方向に外耳を向ける、とまではいかないが、耳を動かせるヒトはいる。わたしも動かせる。生まれつきではないが。役者の稽古してたら動くようになった。
これらは、一部の器官の退化を巻き戻すようなことだ。これにより、(尻尾がなく耳も動かせない)進化したヒトという個体から言えば、退化したことになる。
以前どこかで「進化とは完全な生物みたいなのを目指す営為などではなく、激変する環境に、いわばいきあたりばったりに適応していくことだ。ここを多くの人は勘違いしている」とぼやいたことがあるが、こういうことである。
これらの事例を先の論とつなげるならば、尻尾がありそれで木にぶらさがったりする猿は、その「ホムンクルス」にもおそらく尻尾があるだろう、などと言えよう。
ここでわたしのフィールドに戻ろう。そしてボーロン度がエスカレートする。ここまで読んで「なんだ全然ボーロンじゃねえじゃん、普通に学会とかで言われているようなことをまとめてるだけ」とか思っていたボーロンファンのみなさん、お待たせしました。
自閉症という精神障害を考える。
この記事などをまず読んでほしい。自閉症と正常人では聴覚認識処理が違う。それは耳という器官の不具合によるものではなく、脳の中の不具合であると考えられる。
めんどくさいので結論から言おう。
自閉症とは、一次体性感覚野の「ホムンクルス」において、耳が退化しそこなった症状なのではないか。彼らの「感覚のホムンクルス」には耳があるのではないか。
進化のために退化させた器官が退化しそこなっている、という意味で、個体的にはヒトとして進化しそこなった個体だ、とも言える。
先に条件反射についての記事で、「ヒトにあって他の動物には見られない特殊な信号系」とされている「言語信号系」は、酒井邦嘉の「脳の言語地図」を参考にこの記事でも書いている通り、左側頭葉と左前頭葉にある、とわたしは考えている。
「脳の言語地図」における「音韻」処理の箇所は聴覚野である。
またこの記事では、「言語信号系」における「音韻」処理すなわち左側頭葉での処理をBとし、左前頭葉での合理的処理すなわち「文法」「文章理解」の処理をCとし、脊髄の神経信号すなわち「一次信号系」をAとし、極端に簡素化した信号回路モデル図として三角形ABCを論じた。そこでは、Bの処理が、AとCとの回路接続を阻害しているのではないか、としている。
三角形ABCにおいて、正常人は、ある箇所で回路接続が遮断されている。
この遮断が、「耳のないホムンクルス」なのではないか、ということである。正常人の「ホムンクルス」には耳がないから、AとCとの回路接続は阻害されているのではないか、と。「ホムンクルス」に耳がなく、皮質聴覚野だけの処理になっていることが、わたしが述べているAとCとの回路接続の阻害の実体なのではないかと。
一方、「耳のあるホムンクルス」である自閉症者は、なのでAとCの回路接続がある。あってしまう。いわば、短絡している。「ホムンクルス」がする感覚処理と皮質聴覚野がする聴覚処理が混線している。
それが障害となっているのではないだろうか。
おまけで視覚を考えておこう。
視覚については、正常人の「ホムンクルス」にも目はある。しかし前頭葉あたりの皮質には視覚野がある。
しかし正常人は混線していない。
いや、混線しているのだ。混線しているのが普通なのだ。視覚においては。聴覚において混線していないのがヒトという動物において普通になっているだけである。
ここでラカンのシェーマLを思いだしてもらいたい。そこでは/S←Aという信号が、a'→aという矢印により遮断されている。
しかし完全に遮断されているわけではない。破線でそれは/Sに作用している。
ビオンの言う「接触防壁」は完全ではないのだ。
それは、正常人の「ホムンクルス」にも、小さいながらもまだ目があるからではないだろうか。もしヒトがさらに進化し、大脳皮質による脳処理がさらに重点化されれば、彼らの「ホムンクルス」から目はなくなるだろう。
聴覚のみならず視覚も「無条件反射信号系」から独立するだろう。
このとき、ラカンのシェーマLも書き換えられるのではないか。/S←Aの破線部分が削除された図に。
精神分析とは無意識に語りかける行為である。ならばこのとき同時に、精神分析は終焉するだろう。
「耳も目もないホムンクルス」が精神分析を終わらせるだろう。ジジェクの言う「身体なき器官」が精神分析を終わらせるだろう。
思えばAとは大文字の他者である。「人としての言葉、言葉としての人」である。
わたしはジジェクは好きじゃないが、彼やその一派を「大文字の他者主義」などと揶揄している。
また、「耳のないホムンクルス」が原因で「無条件反射信号系」との接続が阻害されているから、岸田某などという学者は「人間は本能の壊れた動物である」と述べているのではないか。あ、ちなみに言っとくとこいつの精神分析論は信用しない方がいいぜ。「逆精神分析」派から言えば。岸田の述べる精神分析は死にかけの老人のごときものである。
逆に言えばこれって、「a'→aの矢印に不具合があるため、/S←Aの破線部分が破線にならず、実線のままエスに作用しているのが自閉症者」ってことになるんだけど、辻褄あうんだよな。なんせラカン派の自閉症解釈は「鏡像段階の組み込みの失敗例」なわけだから。
辻褄あいすぎてつまんないレベル。
つまんないから脳科学持ちだしてみました、って感じか。
いいじゃんそういうことで。あたしが勝手に飽きてきてるだけ。精神分析に。
アンチ精神分析派なそらパパくんの論に接続してみるなら、彼の言う「定型発達者にはある「(ロボット工学的な意味での)フレーム」が自閉症者にはない」って論につながるだろう。
彼の言う「フレーム」を構築するのは、わたしの推論によれば、左側頭葉の「音韻」処理箇所、つまり三角形ABCのBである。
しかしその箇所の処理機能の不具合が重要ではない(いやわたしもこの記事で「ここに不具合がある」とか書いちゃってるけど)。
Bによる「フレーム」構築処理と、「耳のあるホムンクルス」による処理の混線が、自閉症という症状の根本にあるのではないか。
そう考えないと、いわば「エコラリアの延長のようなこと」として、そういった「フレーム」を理解はしている(理解はしているが納得はしていないって感じ)アスペルガー症候群者の説明ができない。
また余談になるが、わたしはこのブログでよく統合失調症と自閉症を「類似の病理である」として語ることが多いが、このレベルならこの二つの症状の差異はきっちり区分できると思う。
つまり、統合失調症者の「ホムンクルス」にもおそらく耳はないのだと思う。しかし、他の神経部位の異常により、本来(正常人)の信号系において耳のなさによる接続障害が起きている箇所が、短絡してしまったのが、統合失調症なのではないか、ということ。いわば「ないはずのホムンクルスの耳」を他の神経部位が補ってしまった、ということになる。
こうすると、一応は「統合失調症も「フレーム」が壊れている」とするわたしの論と辻褄があう。その接続障害があることを「フレーム」だと考えるならば。
ま、これもただの推測(つか妄想)だけどね。
あ、なんか飽きてきた。めんどくさくなった。
ボーロンって書いてるしもうこれでいいよね。終了。
でもさ、あたし大学生くらいのとき、「え、ロボトミー手術ってありだろ」って思ってたんだよな。素で。自分が受けてみたいって意味で。
こんな頭別にほしいわけじゃないし。こんな頭のせいでいろいろめんどくさいんだと思ってたし。
でもロボトミー手術って前頭葉の一部を切除するんだよな。
なんか微妙になってきた。
つか「ホムンクルス」って言われても『ハガレン』しか思いだせないわたしは終わってる。
フロイトは神経生理学という医学をベースに精神分析を構築した。
ラカンはソシュール言語学を流用してフロイト論の読み直しをした。
ここで、神経生理学視点から、ラカンを読み直す行為があってもいいのではないか、と思える。
精神分析学派はもっと内ゲバすべきである。
それがわれわれの解明しようとしている現実なのだ。
この記事で
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なんかこう一次体性感覚野でおもしろいこと発見したんだが妄想力が続かない。
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って書いたこと。
とはいえ、妄想力が不足しているのは今でもそう。妄想力が続かない=理論武装する気力がない、ってことだから、ボーロンになるな。
ここはわたしの日記帳ですが何か?
一次体性感覚野というのは、それこそ体性感覚を司っている。体のいろんな箇所の感覚。手や足や口や目や。どの箇所の感覚を(一次体性感覚野内の)どの箇所が司っているのかもわかっている。それを図化したのが「感覚のホムンクルス」である。
ここでの信号が、大脳皮質に散らばっている各感覚野に伝わっていく。
この記事における「中枢はひろく大脳皮質に形成され」ている「感覚信号系」の大元締めがここだ、という感じだ。
この部位は、脳を前後に切断するような感じの箇所にある。「中心後回」と呼ばれている箇所だ。
「後」なら「前」がある。「中心前回」もある。
この「中心前回」には、その一部として、「一次体性感覚野」と対応する形で、「一次運動野」と呼ばれている領野がある。
この「一次運動野」は他の皮質と比べ特徴がある。この箇所の神経は脊髄神経と直結しているのだ。
イメージで述べてみよう。背骨がある。脊髄である。その頭の方の先っちょに神経の塊がある。いわゆる脳幹、小脳である。が、それだけではない。その上に、あたかもまるで扇子を広げたような形の、皮質とつながる末端がある。頭の上に開いた扇子をのっけているバカ殿みたいな格好を思いだしてもらえばよい。
この脊髄とつながっている扇子は、「一次体性感覚野」と癒着している。これも扇子状である。扇子の背後にもう一つ扇子がある。この背後の扇子が大脳皮質とつながっている。
先の条件反射についての記事で言えば、脊髄における神経信号は「無条件反射信号系」「一次信号系」となる。であるならば、「一次信号系」と「二次信号系」「感覚信号系」の接続箇所がそこである、と言えよう。「一次信号系」の「二次信号系」側への接続末端が「一次運動野」であり、「二次信号系」の「一次信号系」側への接続末端が「一次体性感覚野」だ、ということである。
この「一次運動野」にも「ホムンクルス」はいる。いわば「運動のホムンクルス」である。「一次体性感覚野」の「ホムンクルス」と、違う箇所はあるが、大体同じである。接続末端同士だから、たとえばコンセントのように規格をあわせなければならない、といったところだろう。コンセントにもいろいろあるんだぜ。舞台照明なんかは家庭用の電力じゃないから特殊なコネクタを使っている。T型とか最近なくなったな。C型に統一しろって通達みたいなんがあった気がする。
この二人の、一対の「ホムンクルス」をじいっと眺めてほしい。
何か気づかないだろうか?
この「ホムンクルス」には耳がない。二人とも。
しかし、ヒトは聴覚を失っているわけではない。脊髄と密接な「ホムンクルス」に耳がなくても、ヒト個体に聴覚はある。
その証拠に、皮質には聴覚野がある。左右側頭葉にある。
ではヒトは、皮質による感覚処理ができるようになったため、「ホムンクルス」から耳を取りあげたのか。
いや、「ホムンクルス」には目がある。皮質にも視覚野はあるのに。
しかしその目もとても小さなものだ。唇や手と比べて処理領域は小さい。
一方、皮質における聴覚野、視覚野は、その他感覚処理と比して、非常に大きい。これは普通の感覚でも理解できる。ヒトは視覚と聴覚に重きを置いて認識している。
したがって、皮質による視覚処理ができるようになったから、「ホムンクルス」による処理は極小化していったのだろう、と推測できる。
この推測はおかしいことではない。脳に外傷を受けたヒトにおいて、損壊した脳の一部で行っていた処理を、他の部位が補っているケースもある。脳処理機能の割当は柔軟なのだ。
以上のわたしの推論を端的に言えば、(他の皮質領野でそれが発達した代わりに)「一次体性感覚野」「一次運動野」において聴覚処理機能が退化したのがヒトだ、ということである。
これもおかしい考え方ではない。たとえばモグラを考えよう。モグラにも昔は目があった。しかし、土中生活という環境に適応するため、目という器官を退化させた。これは個体としては進化である。
ヒトにも退化している部分がある。たとえば尻尾。ヒトには尻尾がない。しかし退化した名残として尾てい骨がある。ときどき尻尾があるヒトもいる。わたしの知人にもいた。子供のときに切ったらしいが。その人は一種のネタ、自慢話のようなこととして考えていると思う。普通のおっさん。
また、犬や猫は耳を動かすことができるが、ヒトはなかなかできない。しかし耳を動かす筋肉がまったくなくなっているわけではない。実際に、犬や猫のように音のした方向に外耳を向ける、とまではいかないが、耳を動かせるヒトはいる。わたしも動かせる。生まれつきではないが。役者の稽古してたら動くようになった。
これらは、一部の器官の退化を巻き戻すようなことだ。これにより、(尻尾がなく耳も動かせない)進化したヒトという個体から言えば、退化したことになる。
以前どこかで「進化とは完全な生物みたいなのを目指す営為などではなく、激変する環境に、いわばいきあたりばったりに適応していくことだ。ここを多くの人は勘違いしている」とぼやいたことがあるが、こういうことである。
これらの事例を先の論とつなげるならば、尻尾がありそれで木にぶらさがったりする猿は、その「ホムンクルス」にもおそらく尻尾があるだろう、などと言えよう。
ここでわたしのフィールドに戻ろう。そしてボーロン度がエスカレートする。ここまで読んで「なんだ全然ボーロンじゃねえじゃん、普通に学会とかで言われているようなことをまとめてるだけ」とか思っていたボーロンファンのみなさん、お待たせしました。
自閉症という精神障害を考える。
この記事などをまず読んでほしい。自閉症と正常人では聴覚認識処理が違う。それは耳という器官の不具合によるものではなく、脳の中の不具合であると考えられる。
めんどくさいので結論から言おう。
自閉症とは、一次体性感覚野の「ホムンクルス」において、耳が退化しそこなった症状なのではないか。彼らの「感覚のホムンクルス」には耳があるのではないか。
進化のために退化させた器官が退化しそこなっている、という意味で、個体的にはヒトとして進化しそこなった個体だ、とも言える。
先に条件反射についての記事で、「ヒトにあって他の動物には見られない特殊な信号系」とされている「言語信号系」は、酒井邦嘉の「脳の言語地図」を参考にこの記事でも書いている通り、左側頭葉と左前頭葉にある、とわたしは考えている。
「脳の言語地図」における「音韻」処理の箇所は聴覚野である。
またこの記事では、「言語信号系」における「音韻」処理すなわち左側頭葉での処理をBとし、左前頭葉での合理的処理すなわち「文法」「文章理解」の処理をCとし、脊髄の神経信号すなわち「一次信号系」をAとし、極端に簡素化した信号回路モデル図として三角形ABCを論じた。そこでは、Bの処理が、AとCとの回路接続を阻害しているのではないか、としている。
三角形ABCにおいて、正常人は、ある箇所で回路接続が遮断されている。
この遮断が、「耳のないホムンクルス」なのではないか、ということである。正常人の「ホムンクルス」には耳がないから、AとCとの回路接続は阻害されているのではないか、と。「ホムンクルス」に耳がなく、皮質聴覚野だけの処理になっていることが、わたしが述べているAとCとの回路接続の阻害の実体なのではないかと。
一方、「耳のあるホムンクルス」である自閉症者は、なのでAとCの回路接続がある。あってしまう。いわば、短絡している。「ホムンクルス」がする感覚処理と皮質聴覚野がする聴覚処理が混線している。
それが障害となっているのではないだろうか。
おまけで視覚を考えておこう。
視覚については、正常人の「ホムンクルス」にも目はある。しかし前頭葉あたりの皮質には視覚野がある。
しかし正常人は混線していない。
いや、混線しているのだ。混線しているのが普通なのだ。視覚においては。聴覚において混線していないのがヒトという動物において普通になっているだけである。
ここでラカンのシェーマLを思いだしてもらいたい。そこでは/S←Aという信号が、a'→aという矢印により遮断されている。
しかし完全に遮断されているわけではない。破線でそれは/Sに作用している。
ビオンの言う「接触防壁」は完全ではないのだ。
それは、正常人の「ホムンクルス」にも、小さいながらもまだ目があるからではないだろうか。もしヒトがさらに進化し、大脳皮質による脳処理がさらに重点化されれば、彼らの「ホムンクルス」から目はなくなるだろう。
聴覚のみならず視覚も「無条件反射信号系」から独立するだろう。
このとき、ラカンのシェーマLも書き換えられるのではないか。/S←Aの破線部分が削除された図に。
精神分析とは無意識に語りかける行為である。ならばこのとき同時に、精神分析は終焉するだろう。
「耳も目もないホムンクルス」が精神分析を終わらせるだろう。ジジェクの言う「身体なき器官」が精神分析を終わらせるだろう。
思えばAとは大文字の他者である。「人としての言葉、言葉としての人」である。
わたしはジジェクは好きじゃないが、彼やその一派を「大文字の他者主義」などと揶揄している。
また、「耳のないホムンクルス」が原因で「無条件反射信号系」との接続が阻害されているから、岸田某などという学者は「人間は本能の壊れた動物である」と述べているのではないか。あ、ちなみに言っとくとこいつの精神分析論は信用しない方がいいぜ。「逆精神分析」派から言えば。岸田の述べる精神分析は死にかけの老人のごときものである。
逆に言えばこれって、「a'→aの矢印に不具合があるため、/S←Aの破線部分が破線にならず、実線のままエスに作用しているのが自閉症者」ってことになるんだけど、辻褄あうんだよな。なんせラカン派の自閉症解釈は「鏡像段階の組み込みの失敗例」なわけだから。
辻褄あいすぎてつまんないレベル。
つまんないから脳科学持ちだしてみました、って感じか。
いいじゃんそういうことで。あたしが勝手に飽きてきてるだけ。精神分析に。
アンチ精神分析派なそらパパくんの論に接続してみるなら、彼の言う「定型発達者にはある「(ロボット工学的な意味での)フレーム」が自閉症者にはない」って論につながるだろう。
彼の言う「フレーム」を構築するのは、わたしの推論によれば、左側頭葉の「音韻」処理箇所、つまり三角形ABCのBである。
しかしその箇所の処理機能の不具合が重要ではない(いやわたしもこの記事で「ここに不具合がある」とか書いちゃってるけど)。
Bによる「フレーム」構築処理と、「耳のあるホムンクルス」による処理の混線が、自閉症という症状の根本にあるのではないか。
そう考えないと、いわば「エコラリアの延長のようなこと」として、そういった「フレーム」を理解はしている(理解はしているが納得はしていないって感じ)アスペルガー症候群者の説明ができない。
また余談になるが、わたしはこのブログでよく統合失調症と自閉症を「類似の病理である」として語ることが多いが、このレベルならこの二つの症状の差異はきっちり区分できると思う。
つまり、統合失調症者の「ホムンクルス」にもおそらく耳はないのだと思う。しかし、他の神経部位の異常により、本来(正常人)の信号系において耳のなさによる接続障害が起きている箇所が、短絡してしまったのが、統合失調症なのではないか、ということ。いわば「ないはずのホムンクルスの耳」を他の神経部位が補ってしまった、ということになる。
こうすると、一応は「統合失調症も「フレーム」が壊れている」とするわたしの論と辻褄があう。その接続障害があることを「フレーム」だと考えるならば。
ま、これもただの推測(つか妄想)だけどね。
あ、なんか飽きてきた。めんどくさくなった。
ボーロンって書いてるしもうこれでいいよね。終了。
でもさ、あたし大学生くらいのとき、「え、ロボトミー手術ってありだろ」って思ってたんだよな。素で。自分が受けてみたいって意味で。
こんな頭別にほしいわけじゃないし。こんな頭のせいでいろいろめんどくさいんだと思ってたし。
でもロボトミー手術って前頭葉の一部を切除するんだよな。
なんか微妙になってきた。
つか「ホムンクルス」って言われても『ハガレン』しか思いだせないわたしは終わってる。
フロイトは神経生理学という医学をベースに精神分析を構築した。
ラカンはソシュール言語学を流用してフロイト論の読み直しをした。
ここで、神経生理学視点から、ラカンを読み直す行為があってもいいのではないか、と思える。
精神分析学派はもっと内ゲバすべきである。
それがわれわれの解明しようとしている現実なのだ。