世界防衛
2010/06/30/Wed
ある精神科医は言った。
「分裂病者の、絵画などといった創作物の中には、ときおりはっとするような美しいものがある」
これは、(「精神病者がする芸術」という意味での)アウトサイダーアートを称揚する文章ではない。わたしはアウトサイダーアートとアートは区別するべきものだと考えている。
彼が言うのはあくまでも「ときおり」である。
ところで、アウトサイダーアートのよさは、美術的価値観の批判にある。要するにシュルレアリスムである。つまり、それは「美しくない」から、「美しい」という価値観が揺るがされるのである。
しかし、この価値観の揺らぎこそが、「美しさ」という身体反応と、物質的に共通するため、「きれいは汚い、汚いはきれい」となるのである。
わたしはそれを「美しい」とは言わない。そう定義しない。
わたしの思想は境界例的である。事実ある日本ラカン協会会員から「あなたは境界例だ」と言われたことがある。
わたしの思想は「美しくない」。
この思想により、読者が「美しい」という価値観の揺らぎを覚え、その身体反応を根拠に、「これは美しいものを見たときの反応と同じだ」と自体愛的感覚で思い、「あなたの思想は美しい」と言われたとしても、わたしは「美しくない」と反論する。
これを「美しい」と言ってはならぬ。いくら現実的な、物質的な、自体愛的な身体反応が、「美しいもの」を見たときと同じであっても、これは「美しくない」のである。現実的な根拠によりそれは正しいが、言語学的な根拠により誤っている。なのでそれは現実的に誤っている。言語学的にも正しくなければ、現実的に完全に正しいとは言えない。
さらに、これを「美しい」とすることは、芸術の崩壊になる。
わたしは芸術を崩壊させるためにこんな思想を歌っているわけではない(わたしの思想は歌である)。
むしろ、わたしは芸術を守りたい。
「美しい」というもとからある価値観、固定観念とも言えるそれを、守りたい。
芸術があるからこそ、境界上なのかもしれないが、わたしは正常でいられる。
わたしにとって、芸術とは他人事なのである。
他人事だから、関与しないのである。
「美しい」という固定観念を破壊しない。
これは自己防衛などではない。
わたしという現実を防衛し、それとは別物の芸術も防衛するための方策である。
わたしの主観世界と、主観世界にないものを同時に防衛するための方策である。
これは自己防衛などではなく世界防衛だ。
「そっとしておいてくれ」
という未去勢者の言葉は、自己防衛などではなく、そのときの環境を保持してくれ、という意味だ。いわば環境防衛だ。
そういった意味での世界防衛である。
わたしは世界を変えたくて発言しているのではない。世界の変化を食い止めたくて発言しているのである。
なので、わたしの思想の中でも、この記事だけは、「美しい」と言ってもらって構わない。
これはあなたたちの「美しい」という価値観の防衛でもあるのだから、矛盾しない。
なんかボクシングみたいだな、「世界防衛」って。「世界タイトル防衛戦」の略語か。
芸術で、なら、わたしは正常人を殺さなかっただろうな。
なんか死にたい。ネガティブな感じじゃなくて、むしろさらっとした感じで、そう思う。
芸術に、ぐらいは、天国があると思わせてくれよ。そんなものないっていう現実を受け入れているんだから。
ほっといてくれよ。
こっち見るなよ。
わたしはそれを、「語りえぬ」現実を掘り起こすために、語っている。
本当は「語りえぬこと」なのに、お前らは「語りえる」と思って、語っている。だから、その現実を語れない。語っているようで語れていない。
「語りえぬことは沈黙しなければならない」
この言葉を議論する前に、お前は本当にそれを語りえぬことだと思っているのか? というところからはじめなければならない。
ああまあ、この言葉にがつーんときた哲学ぼっちゃんなんかは、「語りえぬこと」を体感しているとは思うけどね。それ以外の人のことよ。ファッションで哲学やってるような奴に向けて言っている。哲学ぼっちゃんに向けてじゃない。
いやほら、いろいろ哲学ぼっちゃんたちとは議論したことあるからさ。君らより向こう側の人に言ってるの。
ってそいつらってわたしよりなんだけどね。サブカルファンに多かったりする。「語りえぬこと」を言葉面だけでわかったつもりでいる奴ら。だから、「語りえぬことを語れ」なんて言ってる前記事とか、サブカルファンにはウケいいとは思うけど、「お前らほんとに「語りえぬこと」をわかってんの?」ってわたしは思ってる。実際に「語りえぬこと」がどんなに「語りえぬこと」かわかってないから「語れるじゃん」なんて思ってるだけじゃないの? お前の無意識が「語りえぬことは存在しない」ってなってるだけじゃないの? そんな奴らが、前記事に「うんうん」ってうなずかれても、あたしゃ「違う」と言う、って話。ま、こういうのはサブカルをカウンターカルチャーとして楽しんでる奴ら、ってことになるだろうな。
哲学ぼっちゃんたちは、まあ、わかってると思うよ。なんせ「沈黙しなければならない」とまで思っちゃうわけだから。だからがつーんときたわけっしょ? 「語りえぬこと」がどんなに不快なものかわかってそうだな、と。
要するに、サブカルをカウンターカルチャーとして楽しんでいるサブカルファンなんかより、「語りえぬことは沈黙しなければならない」にがつーんときた哲学ぼっちゃんの方が、ラカン的な意味での現実に気づいてそうよね、ってだけの話さ。ってこれって前者より後者の方が「退行している」、「精神疾患的(神経症的)だ」、「精神医学的な意味で不健全だ」って意味になるけれど。
つまるところ、芸術に、芸術で、なら、わたしは「語りえぬことは沈黙」する可能性があるんじゃないか、と言っているんだ。
めんどくせえな、人間って。
こういう言動は、芸術の破壊だと言えるだろうな。
破壊させないでくれよ。
(ラカン的な意味での)現実を受け入れることは、「あきらめる」ことではない。「あきらめる」と言うと「何かをあきらめる」という意味があるだろ。「何か」なんて最初からない。それは、非現実であるから妄想だ。
したがって、「あきらめる」ではない。
こっちにも書いとこ。
中坊さんちでそらパパくんについて触れたので、誰か彼に伝えといてくんない? 陰口のつもりじゃないし。
あたし彼ブログアク禁になってるから書けないんだわ。メールとかめんどくせえし。
まあ誰も伝えないんならそれでもいいや。陰口のつもりじゃないってことを言いたいだけだし。
あ、向こうにも書いたけどこっちにも一応コピペ。
=====
つかときしんさんや、もう見てないかもしれないが、君の「欲望」をわたしになすりつけることをせずに、君の使っている「だらしない行動主義」という道具を語るなら、コメントしてきていいよ。
=====
そゆわけで。
「分裂病者の、絵画などといった創作物の中には、ときおりはっとするような美しいものがある」
これは、(「精神病者がする芸術」という意味での)アウトサイダーアートを称揚する文章ではない。わたしはアウトサイダーアートとアートは区別するべきものだと考えている。
彼が言うのはあくまでも「ときおり」である。
ところで、アウトサイダーアートのよさは、美術的価値観の批判にある。要するにシュルレアリスムである。つまり、それは「美しくない」から、「美しい」という価値観が揺るがされるのである。
しかし、この価値観の揺らぎこそが、「美しさ」という身体反応と、物質的に共通するため、「きれいは汚い、汚いはきれい」となるのである。
わたしはそれを「美しい」とは言わない。そう定義しない。
わたしの思想は境界例的である。事実ある日本ラカン協会会員から「あなたは境界例だ」と言われたことがある。
わたしの思想は「美しくない」。
この思想により、読者が「美しい」という価値観の揺らぎを覚え、その身体反応を根拠に、「これは美しいものを見たときの反応と同じだ」と自体愛的感覚で思い、「あなたの思想は美しい」と言われたとしても、わたしは「美しくない」と反論する。
これを「美しい」と言ってはならぬ。いくら現実的な、物質的な、自体愛的な身体反応が、「美しいもの」を見たときと同じであっても、これは「美しくない」のである。現実的な根拠によりそれは正しいが、言語学的な根拠により誤っている。なのでそれは現実的に誤っている。言語学的にも正しくなければ、現実的に完全に正しいとは言えない。
さらに、これを「美しい」とすることは、芸術の崩壊になる。
わたしは芸術を崩壊させるためにこんな思想を歌っているわけではない(わたしの思想は歌である)。
むしろ、わたしは芸術を守りたい。
「美しい」というもとからある価値観、固定観念とも言えるそれを、守りたい。
芸術があるからこそ、境界上なのかもしれないが、わたしは正常でいられる。
わたしにとって、芸術とは他人事なのである。
他人事だから、関与しないのである。
「美しい」という固定観念を破壊しない。
これは自己防衛などではない。
わたしという現実を防衛し、それとは別物の芸術も防衛するための方策である。
わたしの主観世界と、主観世界にないものを同時に防衛するための方策である。
これは自己防衛などではなく世界防衛だ。
「そっとしておいてくれ」
という未去勢者の言葉は、自己防衛などではなく、そのときの環境を保持してくれ、という意味だ。いわば環境防衛だ。
そういった意味での世界防衛である。
わたしは世界を変えたくて発言しているのではない。世界の変化を食い止めたくて発言しているのである。
なので、わたしの思想の中でも、この記事だけは、「美しい」と言ってもらって構わない。
これはあなたたちの「美しい」という価値観の防衛でもあるのだから、矛盾しない。
なんかボクシングみたいだな、「世界防衛」って。「世界タイトル防衛戦」の略語か。
芸術で、なら、わたしは正常人を殺さなかっただろうな。
なんか死にたい。ネガティブな感じじゃなくて、むしろさらっとした感じで、そう思う。
芸術に、ぐらいは、天国があると思わせてくれよ。そんなものないっていう現実を受け入れているんだから。
ほっといてくれよ。
こっち見るなよ。
わたしはそれを、「語りえぬ」現実を掘り起こすために、語っている。
本当は「語りえぬこと」なのに、お前らは「語りえる」と思って、語っている。だから、その現実を語れない。語っているようで語れていない。
「語りえぬことは沈黙しなければならない」
この言葉を議論する前に、お前は本当にそれを語りえぬことだと思っているのか? というところからはじめなければならない。
ああまあ、この言葉にがつーんときた哲学ぼっちゃんなんかは、「語りえぬこと」を体感しているとは思うけどね。それ以外の人のことよ。ファッションで哲学やってるような奴に向けて言っている。哲学ぼっちゃんに向けてじゃない。
いやほら、いろいろ哲学ぼっちゃんたちとは議論したことあるからさ。君らより向こう側の人に言ってるの。
ってそいつらってわたしよりなんだけどね。サブカルファンに多かったりする。「語りえぬこと」を言葉面だけでわかったつもりでいる奴ら。だから、「語りえぬことを語れ」なんて言ってる前記事とか、サブカルファンにはウケいいとは思うけど、「お前らほんとに「語りえぬこと」をわかってんの?」ってわたしは思ってる。実際に「語りえぬこと」がどんなに「語りえぬこと」かわかってないから「語れるじゃん」なんて思ってるだけじゃないの? お前の無意識が「語りえぬことは存在しない」ってなってるだけじゃないの? そんな奴らが、前記事に「うんうん」ってうなずかれても、あたしゃ「違う」と言う、って話。ま、こういうのはサブカルをカウンターカルチャーとして楽しんでる奴ら、ってことになるだろうな。
哲学ぼっちゃんたちは、まあ、わかってると思うよ。なんせ「沈黙しなければならない」とまで思っちゃうわけだから。だからがつーんときたわけっしょ? 「語りえぬこと」がどんなに不快なものかわかってそうだな、と。
要するに、サブカルをカウンターカルチャーとして楽しんでいるサブカルファンなんかより、「語りえぬことは沈黙しなければならない」にがつーんときた哲学ぼっちゃんの方が、ラカン的な意味での現実に気づいてそうよね、ってだけの話さ。ってこれって前者より後者の方が「退行している」、「精神疾患的(神経症的)だ」、「精神医学的な意味で不健全だ」って意味になるけれど。
つまるところ、芸術に、芸術で、なら、わたしは「語りえぬことは沈黙」する可能性があるんじゃないか、と言っているんだ。
めんどくせえな、人間って。
こういう言動は、芸術の破壊だと言えるだろうな。
破壊させないでくれよ。
(ラカン的な意味での)現実を受け入れることは、「あきらめる」ことではない。「あきらめる」と言うと「何かをあきらめる」という意味があるだろ。「何か」なんて最初からない。それは、非現実であるから妄想だ。
したがって、「あきらめる」ではない。
こっちにも書いとこ。
中坊さんちでそらパパくんについて触れたので、誰か彼に伝えといてくんない? 陰口のつもりじゃないし。
あたし彼ブログアク禁になってるから書けないんだわ。メールとかめんどくせえし。
まあ誰も伝えないんならそれでもいいや。陰口のつもりじゃないってことを言いたいだけだし。
あ、向こうにも書いたけどこっちにも一応コピペ。
=====
つかときしんさんや、もう見てないかもしれないが、君の「欲望」をわたしになすりつけることをせずに、君の使っている「だらしない行動主義」という道具を語るなら、コメントしてきていいよ。
=====
そゆわけで。