構造主義者は営業部門を語れ。
2010/07/04/Sun
中坊さんとこのコメント数新記録樹立。ありがとう、ありがとう。ギネスブック登録を目指します。一人で2000コメントぐらい書けばギネス載るかな。
さて、そこのコメントを全部読んだらわかることだが、「レヴィ=ストロースはアルチュセールがやっていたような構造主義の適用について警戒していた」というところ。
単純に考えたらわかる。「経済としての社会」とは「交換」がメインで考えられている。「贈与」については軽視されている。構造主義が読み解くのは「贈与-交換関係」により成り立つ社会だから、「経済としての社会」に適用するのはいかがか、となる。
しかしマルクスは最初こそ「交換」メインの「経済としての社会」を考えていたが、それをつきつめるうちに、「利益」などという概念の裏に隠れた「贈与」的な何かに気づいた。
だから、マルクスを土台にしているアルチュセールが、構造主義を利用するのは、それほどおかしいことではない。
ぶっちゃけて言うと。
「交換」という人間の社会が成り立っている、という機能主義的な考え方では、どうしても説明できないことがある。そこを語ろうとしたのが「贈与」という概念を大きなヒントにした構造主義なわけである。
で、「交換」という機能主義的な考え方だけじゃない、「贈与」的な人間の性質を、さらに現実的に述べたのがラカンであり、それが「欲望とは他者の欲望である」なわけだ。
わたしは当該コメント欄で、「交換」という機能主義的な考え方だけで成り立つ関係を、比喩的に「技術職」(の仕事)と呼び、「贈与」という「欲望とは他者の欲望である」的な考え方で成り立つ関係を「営業職」(の仕事)と呼んでいる。
この比喩を採用すると、もし構造主義者が、「経済としての社会」を語ろうとするならば、「営業職」を語るべきだ、となる。
実際現代の社会工学などは、「営業職」という仕事がまったく語られていないように思える。何か彼らの頭の中では「実在しない仕事」のように考えているのではないかとすら思える。
まるで自身の「他者の欲望に欲望している無意識」を隠蔽するがごとく。
わたしはこのブログで何度も述べているように構造主義者を自称している。であるならば、当該コメント欄の、蓮實重彦をシンボルとした「営業職批判」と矛盾するじゃないか、と思われるかもしれない。
矛盾はしない。
わたしは「構造主義の言う「構造」は実在する」という意味で構造主義者なのである。営業職は実際の社会において実在している。
矛盾はしていない。
それを批判的に語るのは、学問においてはそれを研究している態度となる。
ま、そんな話。
単純に考えてみろよ、営業なんて「贈与」しまくりじゃん。ときにそれが犯罪になるほどに。贈賄だな。「贈賄は見返りがあるから交換だ」? アホか君。構造主義人類学が重視した「贈与」だって何かしらの見返りを期待しているだろ。完全に見返りのない「贈与」は「純粋贈与」という別の概念で分類されている。
つまんねー話。
そだ。あたし営業技術やってて、結構営業内部にも食い込んで仕事してたから見ちゃったんだけど、うちの営業も「贈賄」チックなことしてたんだよね。いやそれが法律に抵触するかどうかはわからんが。でも多分それをドラマにして放映したらほとんどの視聴者が「あ、これ贈賄じゃん」って思うようなシチュエーションではあった。
で、その疑問を口にしたんだな。今思うとそんなの相手した営業さんはえらかったわ。そんな怒りながらでもなく、つまり否認症状ではなく、普通の態度で説明してくれたんだよな。
「お世話になった人に、感謝の気持ちを伝えるのに、贈り物をするのは世間一般でもしていることだろ?」
そうなんだよ。いわゆる世間で「悪いこと」とされている「贈賄」と、世間一般で行われているお歳暮だとかそういった風習の、どこがどう違うのか。
いやうちの会社は「社内でのお歳暮などのやり取りは必要ありません」キャンペーンやってたけど。
でも年賀状はいいんだよな。まあ年賀状くらいならそれほどの出費にならないからってことなんだろうけど。
どういうこと?
よくわからんよな、社会って。
さて、そこのコメントを全部読んだらわかることだが、「レヴィ=ストロースはアルチュセールがやっていたような構造主義の適用について警戒していた」というところ。
単純に考えたらわかる。「経済としての社会」とは「交換」がメインで考えられている。「贈与」については軽視されている。構造主義が読み解くのは「贈与-交換関係」により成り立つ社会だから、「経済としての社会」に適用するのはいかがか、となる。
しかしマルクスは最初こそ「交換」メインの「経済としての社会」を考えていたが、それをつきつめるうちに、「利益」などという概念の裏に隠れた「贈与」的な何かに気づいた。
だから、マルクスを土台にしているアルチュセールが、構造主義を利用するのは、それほどおかしいことではない。
ぶっちゃけて言うと。
「交換」という人間の社会が成り立っている、という機能主義的な考え方では、どうしても説明できないことがある。そこを語ろうとしたのが「贈与」という概念を大きなヒントにした構造主義なわけである。
で、「交換」という機能主義的な考え方だけじゃない、「贈与」的な人間の性質を、さらに現実的に述べたのがラカンであり、それが「欲望とは他者の欲望である」なわけだ。
わたしは当該コメント欄で、「交換」という機能主義的な考え方だけで成り立つ関係を、比喩的に「技術職」(の仕事)と呼び、「贈与」という「欲望とは他者の欲望である」的な考え方で成り立つ関係を「営業職」(の仕事)と呼んでいる。
この比喩を採用すると、もし構造主義者が、「経済としての社会」を語ろうとするならば、「営業職」を語るべきだ、となる。
実際現代の社会工学などは、「営業職」という仕事がまったく語られていないように思える。何か彼らの頭の中では「実在しない仕事」のように考えているのではないかとすら思える。
まるで自身の「他者の欲望に欲望している無意識」を隠蔽するがごとく。
わたしはこのブログで何度も述べているように構造主義者を自称している。であるならば、当該コメント欄の、蓮實重彦をシンボルとした「営業職批判」と矛盾するじゃないか、と思われるかもしれない。
矛盾はしない。
わたしは「構造主義の言う「構造」は実在する」という意味で構造主義者なのである。営業職は実際の社会において実在している。
矛盾はしていない。
それを批判的に語るのは、学問においてはそれを研究している態度となる。
ま、そんな話。
単純に考えてみろよ、営業なんて「贈与」しまくりじゃん。ときにそれが犯罪になるほどに。贈賄だな。「贈賄は見返りがあるから交換だ」? アホか君。構造主義人類学が重視した「贈与」だって何かしらの見返りを期待しているだろ。完全に見返りのない「贈与」は「純粋贈与」という別の概念で分類されている。
つまんねー話。
そだ。あたし営業技術やってて、結構営業内部にも食い込んで仕事してたから見ちゃったんだけど、うちの営業も「贈賄」チックなことしてたんだよね。いやそれが法律に抵触するかどうかはわからんが。でも多分それをドラマにして放映したらほとんどの視聴者が「あ、これ贈賄じゃん」って思うようなシチュエーションではあった。
で、その疑問を口にしたんだな。今思うとそんなの相手した営業さんはえらかったわ。そんな怒りながらでもなく、つまり否認症状ではなく、普通の態度で説明してくれたんだよな。
「お世話になった人に、感謝の気持ちを伝えるのに、贈り物をするのは世間一般でもしていることだろ?」
そうなんだよ。いわゆる世間で「悪いこと」とされている「贈賄」と、世間一般で行われているお歳暮だとかそういった風習の、どこがどう違うのか。
いやうちの会社は「社内でのお歳暮などのやり取りは必要ありません」キャンペーンやってたけど。
でも年賀状はいいんだよな。まあ年賀状くらいならそれほどの出費にならないからってことなんだろうけど。
どういうこと?
よくわからんよな、社会って。