薬の話
2010/07/07/Wed
ママさんに送ったメッセで、「わたしは薬の話をするのがなんか恥ずかしい」とぽろっと言った。巷で言う「猥談」より薬の話の方が恥ずかしい感じがする。
いやわかってるよ、頭では。「薬の話」なんかより「猥談」の方が「恥ずかしい」。それはわかっているが、なんか、わたしの素の表出として、つまり症状として、「猥談」は結構さらっと参加できるのに、メンヘラ板などでされている「薬の話」には参加しにくい。
これは本音だと思う。実際このブログでは、「うんこまんこちんこ」などという下品な文句は大量にあるのに(実際にアクセス解析のキーワード検索では「お前エロサイト目的でぐぐってただろ? ごめんねこんなブログが引っかかって」みたいなものも多い)、薬の話はあまりしていない。いやここら辺とかしているが、これくらいじゃないか? 記事としては。
で、わたしがした言い訳。
「「恥ずかしい」ってのは内部を晒したときの感情だろ? 服の内部だからおっぱいやまんこは「恥ずかしい」。プライベートは社会から言えば内部だから「恥ずかしい」。じゃあ、薬の反応ってのは体の内部の反応であるわけだから、体の表面の話であるおっぱいやまんこの話より「恥ずかしい」ってことにならないか?」
とっさにでた言い訳だけど、筋が通っていると自分で思う。
さすが言い訳屁理屈歴うん十年。
で。
この記事などでわたしは、ある症状がでたときを「恥ずかしい」と言っている。
これって、体の内部が、薬の反応などと同じものが、(ラカン的な意味で)現実的に、外部に流出した、と、わたしの頭じゃなくて体が、そう認知したから、「恥ずかしい」と思ったのではないか。
ラカンの「外-密」という言葉。「人間精神に「内密」している現実(「医学的な物質としての肉体」みたいなもんだと思っとけ)は、本当の意味での、『アンチ・オイディプス』風に言えば「器官なき身体」が感受する、「外界」なのである」というような意味だとわたしは思っている。
人間精神が、それを「内部」だとしているだけ。
この「恥ずかしい」ときのわたしは、それこそ小乗系仏教が目指した「自然との一体化」をしていたのではないか。
それは多くの仏教者が目をきらきらさせて語っているようなことではない。
それは「死ぬほど恥ずかしい」ことだ。
人間精神が称揚できることではないのだ。
なぜならこの「自然」とは「他者」と別物だからだ。神秘学が言う「絶対他者」ではない。「者」ということはそれは「人」だろ? それを「絶対」だとするのは非現実的である。「人」は「自然」の一部でしかない。「人」の他に「獣」や「物」がある。
わたしはそのとき、周りの「自然」と同様な「獣」や「物」になっていたから、恥ずかしいと思ったのではないか。
「人」でなくなっていたから。
「獣」や「物」とは別物の「人」とは、妄想である。
それは物質的なものではなく精神的なことである。
だから、人間精神はこれを称揚できない。
してはならぬ。
いやわかってるよ、頭では。「薬の話」なんかより「猥談」の方が「恥ずかしい」。それはわかっているが、なんか、わたしの素の表出として、つまり症状として、「猥談」は結構さらっと参加できるのに、メンヘラ板などでされている「薬の話」には参加しにくい。
これは本音だと思う。実際このブログでは、「うんこまんこちんこ」などという下品な文句は大量にあるのに(実際にアクセス解析のキーワード検索では「お前エロサイト目的でぐぐってただろ? ごめんねこんなブログが引っかかって」みたいなものも多い)、薬の話はあまりしていない。いやここら辺とかしているが、これくらいじゃないか? 記事としては。
で、わたしがした言い訳。
「「恥ずかしい」ってのは内部を晒したときの感情だろ? 服の内部だからおっぱいやまんこは「恥ずかしい」。プライベートは社会から言えば内部だから「恥ずかしい」。じゃあ、薬の反応ってのは体の内部の反応であるわけだから、体の表面の話であるおっぱいやまんこの話より「恥ずかしい」ってことにならないか?」
とっさにでた言い訳だけど、筋が通っていると自分で思う。
さすが言い訳屁理屈歴うん十年。
で。
この記事などでわたしは、ある症状がでたときを「恥ずかしい」と言っている。
これって、体の内部が、薬の反応などと同じものが、(ラカン的な意味で)現実的に、外部に流出した、と、わたしの頭じゃなくて体が、そう認知したから、「恥ずかしい」と思ったのではないか。
ラカンの「外-密」という言葉。「人間精神に「内密」している現実(「医学的な物質としての肉体」みたいなもんだと思っとけ)は、本当の意味での、『アンチ・オイディプス』風に言えば「器官なき身体」が感受する、「外界」なのである」というような意味だとわたしは思っている。
人間精神が、それを「内部」だとしているだけ。
この「恥ずかしい」ときのわたしは、それこそ小乗系仏教が目指した「自然との一体化」をしていたのではないか。
それは多くの仏教者が目をきらきらさせて語っているようなことではない。
それは「死ぬほど恥ずかしい」ことだ。
人間精神が称揚できることではないのだ。
なぜならこの「自然」とは「他者」と別物だからだ。神秘学が言う「絶対他者」ではない。「者」ということはそれは「人」だろ? それを「絶対」だとするのは非現実的である。「人」は「自然」の一部でしかない。「人」の他に「獣」や「物」がある。
わたしはそのとき、周りの「自然」と同様な「獣」や「物」になっていたから、恥ずかしいと思ったのではないか。
「人」でなくなっていたから。
「獣」や「物」とは別物の「人」とは、妄想である。
それは物質的なものではなく精神的なことである。
だから、人間精神はこれを称揚できない。
してはならぬ。