死因は?
2010/07/19/Mon
『CSI1』おもろいな。
「警官に包囲された男が胸を撃たれて、燃え盛る家に戻って煙を吸い込んで、屋根が崩れてエアコンが頭にあたって、死んだ。死因は?」
死因は?
まじでわからないんですけど。エアコンじゃないの?
妙にリアルな夢を見た。
何かのバラシ作業の中。
しゃがれ声で怒鳴っているスタッフがいる。
「誰かきて!」
わたしがいく。
「お、いいねえ」
と言われる。
すると背後を、わたしのチーフが通りすぎる。わたしはそっちの作業をしなければならない。
しゃがれ声のおっさんと二言三言やりあう。わたしはしゃがれ声の人を手伝うことになる。
しゃがれ声のおっさんはもんたよしのりだと思った。表舞台から離れてこんなことやってるのか、と思った。
チーフは実在の舞台監督さん。まあそもそも演出部なんて各スタッフのまとめ役なわけだけども、実際の兵隊の仕事内容は「なんでも屋」だからな。
巨大な何かを運びだす作業に加わる。起きたあとで巨大スピーカーだと思った。キャスターに乗せているが、五、六人がかりで運ぶ。キャスターは、「自在」と呼ばれている、方向が自由にくるくる動く奴なので、うしろだけじゃなく横にも人がつかないとだめ。思わぬ方向に動いてしまう。当然わたしは力がないので横につく。
機材が散乱している中、結構なスピードでそれは運ばれていく。まあバラシなんて時間の勝負だからな。早ければ早いほどいい。
機材にぶつかりそうになった巨大スピーカー。わたしはその間に入り、巨大スピーカーを背中で押す。あたらずに進む。
トラックに積み込む段になって、もんたよしのりに誉められる。
「押すのうまいね」
わたしは何気に嬉しかった。
わたしは基本、人に誉められるのが苦手だ。妖怪紳士などにも言われたことがある。誉められてもそれに対する反応が不器用だ、と。まあそれをもって「脂さんはツンデレキャラだと思えば怖くない」とか言われたけどな。
人に誉められてもあまり嬉しくない。「相手はどういうつもりでわたしを誉めているのか」と考えてしまうから。うがって考えてしまう。だから誉められても「めんどくさい」と思う場合が多い。
しかしこの夢のときは素で嬉しかった。
夢に限らず、こういった舞台芸術やコンサートの仕込みバラシ作業で誉められるのは、飛びあがるほどではないが、素直に嬉しかったように思う。
それはなぜか。
仕込み中もバラシ中も、スタッフには心に余裕が(あまり)ない。みんなテンパっている。あちこちで怒声が飛び交っているもんだ。
テンパっているから、誉め言葉にも余計な意味は付随しない、と予測できる。
だから、こちらも素直に喜べる。
では、余裕のある人から誉められるのが、わたしはだめだ、ってことなのか。
そうだと思う。
心に余裕がある、ということは、その誉め言葉にも余計な意味を付加させる余裕がある、ということである。
余裕があるということは幸福である、ということだ。
心に余裕がある、幸福な人の誉め言葉が、いやその言葉すべてが、信頼できない、わたしは。
そういう話だな。
話は変わるが、「否認」って概念便利なんだよな。何か否定すれば「それは否認だ」って言っちゃえるんだから。
でもだな、ここが重要なんだが。
「否認」と「わかんないからする拒否」は別物だ。
「否認」ということは、「認めない」だけで、それを「わかっている」。意識で、あるいは無意識で。
なので、意識でも無意識でも「わかんないこと」に「ノン」と言うのは、「否認」ではない。
クリステヴァの言う「論理の否定ではない否定性」は、「否認」ではない。
中坊さんとこ。
「物」は言い様。なぜなら「物」自体にいいも悪いもないのだから。
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
あーそうそう、「こういうことだよな」と思ったのでここのコメント欄に追記した。
スカラベさんや、答えてくれないかね。
わたしを棄ててくれ。
「壊れた人形」のわたしを。
「帰りたい」んだ。
物の世界へ。物自体へ。現実界へ。β要素へ。
雨の降る空へ。
こういう夢見ると起きたあと凹んで困る。
「警官に包囲された男が胸を撃たれて、燃え盛る家に戻って煙を吸い込んで、屋根が崩れてエアコンが頭にあたって、死んだ。死因は?」
死因は?
まじでわからないんですけど。エアコンじゃないの?
妙にリアルな夢を見た。
何かのバラシ作業の中。
しゃがれ声で怒鳴っているスタッフがいる。
「誰かきて!」
わたしがいく。
「お、いいねえ」
と言われる。
すると背後を、わたしのチーフが通りすぎる。わたしはそっちの作業をしなければならない。
しゃがれ声のおっさんと二言三言やりあう。わたしはしゃがれ声の人を手伝うことになる。
しゃがれ声のおっさんはもんたよしのりだと思った。表舞台から離れてこんなことやってるのか、と思った。
チーフは実在の舞台監督さん。まあそもそも演出部なんて各スタッフのまとめ役なわけだけども、実際の兵隊の仕事内容は「なんでも屋」だからな。
巨大な何かを運びだす作業に加わる。起きたあとで巨大スピーカーだと思った。キャスターに乗せているが、五、六人がかりで運ぶ。キャスターは、「自在」と呼ばれている、方向が自由にくるくる動く奴なので、うしろだけじゃなく横にも人がつかないとだめ。思わぬ方向に動いてしまう。当然わたしは力がないので横につく。
機材が散乱している中、結構なスピードでそれは運ばれていく。まあバラシなんて時間の勝負だからな。早ければ早いほどいい。
機材にぶつかりそうになった巨大スピーカー。わたしはその間に入り、巨大スピーカーを背中で押す。あたらずに進む。
トラックに積み込む段になって、もんたよしのりに誉められる。
「押すのうまいね」
わたしは何気に嬉しかった。
わたしは基本、人に誉められるのが苦手だ。妖怪紳士などにも言われたことがある。誉められてもそれに対する反応が不器用だ、と。まあそれをもって「脂さんはツンデレキャラだと思えば怖くない」とか言われたけどな。
人に誉められてもあまり嬉しくない。「相手はどういうつもりでわたしを誉めているのか」と考えてしまうから。うがって考えてしまう。だから誉められても「めんどくさい」と思う場合が多い。
しかしこの夢のときは素で嬉しかった。
夢に限らず、こういった舞台芸術やコンサートの仕込みバラシ作業で誉められるのは、飛びあがるほどではないが、素直に嬉しかったように思う。
それはなぜか。
仕込み中もバラシ中も、スタッフには心に余裕が(あまり)ない。みんなテンパっている。あちこちで怒声が飛び交っているもんだ。
テンパっているから、誉め言葉にも余計な意味は付随しない、と予測できる。
だから、こちらも素直に喜べる。
では、余裕のある人から誉められるのが、わたしはだめだ、ってことなのか。
そうだと思う。
心に余裕がある、ということは、その誉め言葉にも余計な意味を付加させる余裕がある、ということである。
余裕があるということは幸福である、ということだ。
心に余裕がある、幸福な人の誉め言葉が、いやその言葉すべてが、信頼できない、わたしは。
そういう話だな。
話は変わるが、「否認」って概念便利なんだよな。何か否定すれば「それは否認だ」って言っちゃえるんだから。
でもだな、ここが重要なんだが。
「否認」と「わかんないからする拒否」は別物だ。
「否認」ということは、「認めない」だけで、それを「わかっている」。意識で、あるいは無意識で。
なので、意識でも無意識でも「わかんないこと」に「ノン」と言うのは、「否認」ではない。
クリステヴァの言う「論理の否定ではない否定性」は、「否認」ではない。
中坊さんとこ。
「物」は言い様。なぜなら「物」自体にいいも悪いもないのだから。
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
あーそうそう、「こういうことだよな」と思ったのでここのコメント欄に追記した。
スカラベさんや、答えてくれないかね。
わたしを棄ててくれ。
「壊れた人形」のわたしを。
「帰りたい」んだ。
物の世界へ。物自体へ。現実界へ。β要素へ。
雨の降る空へ。
こういう夢見ると起きたあと凹んで困る。