百円ライター
2010/07/28/Wed
「百円ライター」なんて言うけど、今三本入りで五十円とかなんだな。
別にタバコとか吸わないけど買ってみた。
買って使わないのはもったいないので髪の毛焼いてあげた。
それだけ。
今さらだが村崎百郎刺殺されたんだな。
なんかこういうブログ書いていると、唐沢俊一やそこら辺が好きな人なんじゃないかと思われているのかもしれないが、まあ確かに「と学会」とかはおもろく読んでたんだが、この二人の人格好きじゃない。むしろキモイ。
こいつらこそ「パラノ人格のくせにスキゾ仮面をかぶりたがる奴ら」だ。
「お前の性根は全然鬼畜なんかじゃないよ。とっても健全だ。小文字の倒錯はやめい」
と言いたい。
不健全度は中坊さんのが上だな。唐沢や村崎と比べたら。
どこが? って聞かれると、中坊さんの方が真面目だから。
本当の不健全とは真面目なものなんだよ。
人間の妄想にすぎない「健全さ」が、そもそも不真面目さを根拠に成り立っているんだから。機能主義的に言えば、「健全さ」とは、「楽に生きていく」生き方であり、不真面目さの極地だってわけ。
唐沢とか村崎とかわたしのやってることをこう言いそう。
「遊びが遊びになってないじゃん」
蓮實重彦と一緒。
中坊さんはちゃんと「遊びが遊びになってない」。「遊び」を真面目にやっている。本気でやってる。奴もメンヘラだからな。そら自分のことだから本気になるわ。
唐沢や村崎は「遊びを遊びとしてやれている」。やれるのがパラノイアックな「正常という精神疾患」の証拠。唐沢も村崎も本性はばりばり正常人なのにキチガイの仮面かぶってるだけ。
だからそんな仮面かぶんなよ、と。
見抜ける人は見抜いているよ、と。
むしろ刺殺したバカ犯人の方が「遊びが遊びになってなかった」んだろうな。
殺されて当然じゃね。
わたしのこんな論に対し、「いや俺がやってることは遊びじゃない。遊びを遊びじゃなくやっている」と反論するなら、殺されてよかったじゃん。
遊びじゃなくなったんだから。
その犯人のおかげで。
殺されたおかげで。
もしわたしの論にそう反論するなら、って仮定の上での話だけど、もしそうなら、村崎は犯人に感謝すべきだろ、これ。
そういう論者なんだから。「鬼畜系ライター」(笑)。
「本当に鬼畜になりたがっていたのなら、鬼畜になれてよかったじゃん(笑)」
蓮實も刺殺されないかな(ここのコメント欄参照のこと)。
つか犯人もバカだったんだろうな。村崎のことを「本当の鬼畜」だと思ってたんだろう。わたしくらい裏切られ続けてたら、騙され続けてたら、最初からちゃんと警戒してただろうに。警戒していたから、唐沢や村崎の発言を(いや別にそんな熱心にしてたわけじゃないが)観察して、「あ、こいつらは遊びを遊びとしてやってるんだな」とわかった。ただの「パラノ人格のくせにスキゾ仮面をかぶりたがる奴ら」だと判断できた。
だからわたしゃこいつみたいに「裏切られた、ウキー」ってなんなかった、ってわけ。
仮面をかぶって言ってるだけ、って思ってたからね。
人よ信じるな けして信じるな
見えないものを
人よ欲しがるな けして欲しがるな
見果てぬものを
嘘をつきなさい ものを盗りなさい
悪人になり
傷をつけなさい 春を売りなさい
悪人になり
救いなど待つよりも 罪は軽い
あ、あたしゃどっかでも書いたけど中島みゆきも「あっち側だな」と思ってるよ。「遊びを遊びじゃなくやってる」とは思ってるけど。
だから今みたいな前向きな曲ばっかり書いている、「トランポリンではね返った」状態を見ても、みゆきを刺殺したりなんかしない。
谷山浩子はこっち側だと勝手に思ってるが、彼女が『宙船』みたいなの書いちゃったら、刺殺しないまでも「ウキー」ってなるかもしれんがね。つか『宙船』も「男性アイドルグループへの提供曲」として書かれたものだ、って考えれば全然おkだし。曲としては好きだし。TOKIOの方が。
最初から警戒してればいいんだよ。人間に対して。
野良犬みたいに。
……それでもときどきは騙されちゃうんだがね。わたしが自分で勝手に、な。
もう騙されないわ
あいつなんか殺してしまおう
殺してしまおう 殺して殺してしまおう
この動画すげえな。
『夜会』の映像とか全部鳥居みゆきに見えてあんまぐっとこないんだけど(やっぱ舞台はナマじゃないとね、って意味よ)、これはいい。鳥居みゆきにもときどき「あ、超えたかも」と思える一瞬あるし。
鳥居なんかお笑いだしもろ「遊びを遊びとしてやっている」ってことになるんだが、実際素顔はすげえ普通の人で結婚もしてるらしいが、なんかこう、「キチガイに対する真摯さ」が彼女にはある気がする。よく研究できていると思える。
ま、だからこの二人は「あっち側」だけどまだ許せる、って話。
日本ってなんでアルトーレベルに「こっち側」に突出した論者、表現者がでてこないんだろう?
待てばいい女 とてもいい女
すねずゴネず責めず懲りず待ついい女
耐えるいい女 都合いい女
君はなれる君はできる 理想の女
とかなんとか言われておだてに乗って
いつか愛される時を待った
待って待って待って忘れられた
あたしの立場はどうなるの
この歌の主人公が未去勢者ならば、彼女が「愛される時を待っ」ていたにも関わらず愛されなかったのは、彼女が「愛とはどういうものか知らなかった」からだ、となる。
正常人は生後六ヶ月から十八ヶ月で「愛」の原型たる「原初の意味」を学ぶ。
これを学び、これを根拠に、「思いやりに満ちた」養育を施され教育され洗脳されれば、彼女は「愛を知っていた」となる。彼女は正常人だとなる。「正常という精神疾患」者だと。
この「正常な彼女」は、「おだてに乗っ」たまま生活できるだろう。親や男から与えられた「愛」という妄想に快楽を感じられるだろう。
「正常な彼女」は、それほど苦痛を覚えることなく、男を待ち続けられるだろう。
「待たされること」も一つの彼からの「愛」だとか思えるのだろう。それに何かしらの「意味」を見いだすことによって。妄想によって。
「あいつなんか殺してしまおう」と思わないだろう。
しかしこの主人公はそうではない。
妄想が妄想だと気づいた女の歌だ。だからこれを歌っているのは老婆だ。
現実に取り残された女。
それは老婆であり赤ん坊である。
ところが。
彼女は『雪』を歌う。『雪』が彼女の歌に「侵入」してくる。『殺してしまおう』という曲に『雪』という曲が「寄生」している。
これは「正常という精神疾患」者の歌だ。だからわたしは妙にカチンとくる。この曲は。
洗脳から覚めた老婆であり、したがって洗脳される前の赤ん坊でもある主人公は、もう一度洗脳されようとしている。
あの人が教えるとおり
歩いてくはずだったわたしは
それは、現実を殺すことでもある。「大文字の物」を殺害することでもある。
現実を生きる自分が殺されることである。
だから、彼女は、最後に叫ぶ。
断末魔。
『雪』という歌に「寄生」されることで、彼女は再び正常化されようとしている。洗脳されていた状態に戻ろうとしている。
キチガイに「正常という妄想」が「寄生」し、その腹を食い破って、宿主を支配するのが、「正常という精神疾患」なのだ。
「寄生」されているのはキチガイの方なのだ。
老婆であり、赤ん坊の方なのだ。
親は赤ん坊に「寄生」しようとしているのだ。
男が女にペニスを挿入するごとく。
追記。
なんか適当にぐぐってたらこんなの発見。唐沢が叩かれてるってのは知ってたが、そういう系のブログらしい。
まー正直どうでもいい。こういう奴らにこんなやり方しても「遊びが遊びになってないじゃん」と笑われるのがオチだよ、あほくさ、って感じ。
まあそんなことはどうでもよく、そこのコメント欄から。
=====
いい人だというのはわかりましたし、演じているのがキツくなっているのもよくわかりました。
=====
わたしじゃない人にも見抜かれてるやん。つかこれほぼこの記事の「お前の性根は全然鬼畜なんかじゃないよ。とっても健全だ。小文字の倒錯はやめい」と同義だと思う。
まあ、それで「いい人じゃない人になれよ、鬼畜になりたいんだろ?」って言ってるのがあたしで、このブログ主はそう思ってないんだろうけど。妖怪紳士との会話で、「僕と脂さんは見ているものは同じだが、視点がまったく逆だ」と言われたことがあるが、そういうことかと。村崎について「本当は鬼畜なんかじゃなく健全ないい人だ」というのは同意できるが、彼や妖怪紳士なんかは「だからいい」ってなって、あたしは「いや鬼畜って名乗ってるなら本当の鬼畜になれよ」ってなる、って感じ。あ、ここでも書いてたな。
むしろその犯人に刺殺されることで、その犯人からは「本当の鬼畜」と思われてたのがわかったわけだから、いいじゃん、感謝すべきじゃん、っつってるわけよ。
非公開コメントで「他の統失ブロガーたちはこの件についてだんまりだ。おかしい」って意見があったけど(自閉症当事者の人。個人的な知人)、そいつらも最初から見抜いていたんじゃね?
「どーでもいいよ、こんな演じているだけの奴。幻聴とか嘘だろ」
って感じで。
ああそうそう、あたし唐沢も村崎と同類だと見てるから、唐沢も「実はいい人」だってことになるな。性根は健全な人。一応言っとくとここでの「健全」って言葉は中坊さんブログのこの記事の文脈で言っている。
唐沢が殺されてたら村崎と同じように「彼も実はいい人だったに違いない」とか思うんじゃねーの。
「いやそうじゃない。彼は根っからの悪人だ。他人の気持ちを蔑ろにする人だ」
っつうなら、あなたは唐沢を情性欠如者だと思っている、ってことだ。
わたしは「情性欠如的な学者」(学問とは研究対象はなんでもよいので、唐沢も学者だと言える)を「魔女」と言い換えているが、わたしの見た感じ、彼は「魔女」だとは思えない。その人格が。自閉症などを多く臨床してきたわたしから言わせると、彼はまったく情性欠如者ではない。
つかさ、誰かを人格批判するなら、「自分がいい人に思われること」はばっさり切っちゃわないと、どうやっても矛盾が生じるぞ。「自分は人格的に悪い人です」ってしないと辻褄があわなくなる。
で、わたしは、ラカン派の定型句「人格とはパラノイアである」を利用し、人格そのものが精神疾患症状であるとして、人格そのものの批判もしている。誰かの人格批判だけじゃなく、ね。
辻褄あうでしょー?
他人を人格批判しておきながら自分の人格を防衛しようってのがそもそもの間違いだよ。「他人を蹴落として自分をよく見せたがっているだけ」と思われちゃう。あるいはその相手が「もっと立派な人格であるべき」と思っているだけの(専門用語としての)コンプレックスだと思われちゃう。
そうじゃなくて、そいつの人格批判をしたいなら、そいつの人格を破壊したいなら、まずは自分の人格を破壊しなければならない。
ヤるなら死ぬ気でヤろうぜ。
「遊びでやってますー」って奴らをヤるなら。
つかさ、あたし新宿ゴールデン街とかで、「鬼畜系ライター」じゃないけど風俗フリーライターやらフリーの編集者やらって「出版関係の底辺の人たち」と飲んでた時期あるんだけどさ。あれ、西原理恵子とかが描いているような奴ら。なんか最近特定されそうで怖くなってるんだが、SM雑誌で一瞬だけバイトしたのもそこの繋がり。
奴らの方が「人としてどうよ?」だったんだけどな。後輩の新入社員くんにおしっこ飲ませたり。
そっちのが「鬼畜」じゃね。
なんか村崎くんはこの曲レベル。
まああたしもこのレベルに騙されてた時期はあるけどね。こういう感じの人って「同じかもしれない」つってわたしの本性見せたら一発で「それはお前人として間違ってる」みたいに言うんだよな。
裏切られるのは大事よ。生きてくために。
軸がぶれてるだけじゃだめ。壊れてなきゃ。
その軸を壊してあげる。
ファルスを。
「正常という精神疾患」の原因を。
あ、一応。小文字の倒錯の説明。ここのコメント欄。これだけ。
詳しく知りたいならラカン論勉強してくれ。
あたしゃこんなのどうでもいい。
つかさー。この犯人とか精神病の定型句「現実と妄想の区別がつかなくなってる」とか言われるんだろうけどさー、唐沢や村崎の方が妄想側だろ? 「遊びを遊びとしてやってる」んだから。「演じている」んだから。
「遊びを本気でやっている」人にとってその「遊び」は現実だ。現実だから本気になってしまう。
なのになんでそっち側が現実になるんだよ。
お前らの言う「現実」が妄想なんだよ。
こっちも読んどけ。
別の記事でも書いたけど、この曲が結構トラウマになってる。
「いやな女」「ずるい女」「嘘つき女」「醜い女」「汚れた女」「卑しい女」「老いた女」「しつこい女」「バカな女」「安い女」「邪魔な女」「退屈な女」「さみしい女」「捨てられた女」「いらない女」が素顔なんだよ。
人格としてほめられたもんじゃない方が素顔なんだ。
唐沢や村崎とは逆。
「重い女」ってのがないな。これ現代語か。「重い」と男から言われたことはないが、自分で自分が重いときがある。
「人格」が重い。
化粧が重い。
重い竹刀を使うと竹刀に体が持ってかれるような感覚になるときがある。それと同じ重さ。
追記その2。
唐沢批判ブログに一応「あんたの言説利用させてもらったよ」って意味でトラバ打ったんだが、そっから飛んでくる人もいて、あたし唐沢もキモイがあそこにいる人たちもキモイので、一応言っとこう。
「あなた精神病の人から「自分のことを言われた」と言ってこられた経験ないでしょ?」
あるよ。しかもこのブログで。このブログの言説を「自分のことを言っている」って言ってこられたことがある。相手は非公開コメントだが、ここのコメント欄。ちなみにこのあとしばらくこの非公開コメント者とやり取りした。適当に探してくれ。
またわたしは自分でも、某芥川賞作家がわたしのことを書いてわたしを批判している、と思い込んでいる。ここな。
明らかにわたしのことだとわたしは思っているが、本人に確認は取っていないため、これはいまだわたしの妄想にすぎない。わたしの妄想が、そこのコメント者や他のその作家のファンの人と同じだったにすぎない。彼らもその文章はわたしのことだと思っている。たまたま同じ妄想を持っているだけ。
そういうことだよ。
キチガイの被害妄想は超自我の原因だ。
お前らが人格者には備わっているべきと思っている超自我の根源は、キチガイの被害妄想だ。
なのに、それが劣化した超自我を称揚し、それがナマのまま表出するキチガイの被害妄想を嫌う。
矛盾している。
この矛盾を隠蔽するために「劣化」を「昇華」などと言い換えている。あ、別に「昇華」でもいいよ。「そのもの」から見れば「変質」には変わらないから。
お前らってほんと精神疾患だよな。
被害妄想についてもこのブログでは精神分析的に論じているので、ブログ内検索などして読んでくれ。
ごちゃごちゃコメントする前にな。
コメントしないなら読まなくていい。
要するにこれも被害妄想だよ。唐沢批判ブログの連中がわたしの攻撃してくるんじゃないかって被害妄想。
うざいよ、お前ら。わたしの脳内お前ら。脳内野次馬。
キチガイががちゃがちゃ言ってるだけなんだからそっとしといてくれよ、ってことだ。
あ、なんか一応。
=====
彼や妖怪紳士なんかは「だからいい」ってなって、
=====
って書いているけど、この記事とかでそのブログ主はこう書いている。
=====
(だから、俺が「村崎百郎はいい人」って言ってるのは褒めてるわけじゃないんですよ)
=====
ごめん、わたしの勘違いでした。その部分は撤回します。
別にタバコとか吸わないけど買ってみた。
買って使わないのはもったいないので髪の毛焼いてあげた。
それだけ。
今さらだが村崎百郎刺殺されたんだな。
なんかこういうブログ書いていると、唐沢俊一やそこら辺が好きな人なんじゃないかと思われているのかもしれないが、まあ確かに「と学会」とかはおもろく読んでたんだが、この二人の人格好きじゃない。むしろキモイ。
こいつらこそ「パラノ人格のくせにスキゾ仮面をかぶりたがる奴ら」だ。
「お前の性根は全然鬼畜なんかじゃないよ。とっても健全だ。小文字の倒錯はやめい」
と言いたい。
不健全度は中坊さんのが上だな。唐沢や村崎と比べたら。
どこが? って聞かれると、中坊さんの方が真面目だから。
本当の不健全とは真面目なものなんだよ。
人間の妄想にすぎない「健全さ」が、そもそも不真面目さを根拠に成り立っているんだから。機能主義的に言えば、「健全さ」とは、「楽に生きていく」生き方であり、不真面目さの極地だってわけ。
唐沢とか村崎とかわたしのやってることをこう言いそう。
「遊びが遊びになってないじゃん」
蓮實重彦と一緒。
中坊さんはちゃんと「遊びが遊びになってない」。「遊び」を真面目にやっている。本気でやってる。奴もメンヘラだからな。そら自分のことだから本気になるわ。
唐沢や村崎は「遊びを遊びとしてやれている」。やれるのがパラノイアックな「正常という精神疾患」の証拠。唐沢も村崎も本性はばりばり正常人なのにキチガイの仮面かぶってるだけ。
だからそんな仮面かぶんなよ、と。
見抜ける人は見抜いているよ、と。
むしろ刺殺したバカ犯人の方が「遊びが遊びになってなかった」んだろうな。
殺されて当然じゃね。
わたしのこんな論に対し、「いや俺がやってることは遊びじゃない。遊びを遊びじゃなくやっている」と反論するなら、殺されてよかったじゃん。
遊びじゃなくなったんだから。
その犯人のおかげで。
殺されたおかげで。
もしわたしの論にそう反論するなら、って仮定の上での話だけど、もしそうなら、村崎は犯人に感謝すべきだろ、これ。
そういう論者なんだから。「鬼畜系ライター」(笑)。
「本当に鬼畜になりたがっていたのなら、鬼畜になれてよかったじゃん(笑)」
蓮實も刺殺されないかな(ここのコメント欄参照のこと)。
つか犯人もバカだったんだろうな。村崎のことを「本当の鬼畜」だと思ってたんだろう。わたしくらい裏切られ続けてたら、騙され続けてたら、最初からちゃんと警戒してただろうに。警戒していたから、唐沢や村崎の発言を(いや別にそんな熱心にしてたわけじゃないが)観察して、「あ、こいつらは遊びを遊びとしてやってるんだな」とわかった。ただの「パラノ人格のくせにスキゾ仮面をかぶりたがる奴ら」だと判断できた。
だからわたしゃこいつみたいに「裏切られた、ウキー」ってなんなかった、ってわけ。
仮面をかぶって言ってるだけ、って思ってたからね。
人よ信じるな けして信じるな
見えないものを
人よ欲しがるな けして欲しがるな
見果てぬものを
嘘をつきなさい ものを盗りなさい
悪人になり
傷をつけなさい 春を売りなさい
悪人になり
救いなど待つよりも 罪は軽い
あ、あたしゃどっかでも書いたけど中島みゆきも「あっち側だな」と思ってるよ。「遊びを遊びじゃなくやってる」とは思ってるけど。
だから今みたいな前向きな曲ばっかり書いている、「トランポリンではね返った」状態を見ても、みゆきを刺殺したりなんかしない。
谷山浩子はこっち側だと勝手に思ってるが、彼女が『宙船』みたいなの書いちゃったら、刺殺しないまでも「ウキー」ってなるかもしれんがね。つか『宙船』も「男性アイドルグループへの提供曲」として書かれたものだ、って考えれば全然おkだし。曲としては好きだし。TOKIOの方が。
最初から警戒してればいいんだよ。人間に対して。
野良犬みたいに。
……それでもときどきは騙されちゃうんだがね。わたしが自分で勝手に、な。
もう騙されないわ
あいつなんか殺してしまおう
殺してしまおう 殺して殺してしまおう
この動画すげえな。
『夜会』の映像とか全部鳥居みゆきに見えてあんまぐっとこないんだけど(やっぱ舞台はナマじゃないとね、って意味よ)、これはいい。鳥居みゆきにもときどき「あ、超えたかも」と思える一瞬あるし。
鳥居なんかお笑いだしもろ「遊びを遊びとしてやっている」ってことになるんだが、実際素顔はすげえ普通の人で結婚もしてるらしいが、なんかこう、「キチガイに対する真摯さ」が彼女にはある気がする。よく研究できていると思える。
ま、だからこの二人は「あっち側」だけどまだ許せる、って話。
日本ってなんでアルトーレベルに「こっち側」に突出した論者、表現者がでてこないんだろう?
待てばいい女 とてもいい女
すねずゴネず責めず懲りず待ついい女
耐えるいい女 都合いい女
君はなれる君はできる 理想の女
とかなんとか言われておだてに乗って
いつか愛される時を待った
待って待って待って忘れられた
あたしの立場はどうなるの
この歌の主人公が未去勢者ならば、彼女が「愛される時を待っ」ていたにも関わらず愛されなかったのは、彼女が「愛とはどういうものか知らなかった」からだ、となる。
正常人は生後六ヶ月から十八ヶ月で「愛」の原型たる「原初の意味」を学ぶ。
これを学び、これを根拠に、「思いやりに満ちた」養育を施され教育され洗脳されれば、彼女は「愛を知っていた」となる。彼女は正常人だとなる。「正常という精神疾患」者だと。
この「正常な彼女」は、「おだてに乗っ」たまま生活できるだろう。親や男から与えられた「愛」という妄想に快楽を感じられるだろう。
「正常な彼女」は、それほど苦痛を覚えることなく、男を待ち続けられるだろう。
「待たされること」も一つの彼からの「愛」だとか思えるのだろう。それに何かしらの「意味」を見いだすことによって。妄想によって。
「あいつなんか殺してしまおう」と思わないだろう。
しかしこの主人公はそうではない。
妄想が妄想だと気づいた女の歌だ。だからこれを歌っているのは老婆だ。
現実に取り残された女。
それは老婆であり赤ん坊である。
ところが。
彼女は『雪』を歌う。『雪』が彼女の歌に「侵入」してくる。『殺してしまおう』という曲に『雪』という曲が「寄生」している。
これは「正常という精神疾患」者の歌だ。だからわたしは妙にカチンとくる。この曲は。
洗脳から覚めた老婆であり、したがって洗脳される前の赤ん坊でもある主人公は、もう一度洗脳されようとしている。
あの人が教えるとおり
歩いてくはずだったわたしは
それは、現実を殺すことでもある。「大文字の物」を殺害することでもある。
現実を生きる自分が殺されることである。
だから、彼女は、最後に叫ぶ。
断末魔。
『雪』という歌に「寄生」されることで、彼女は再び正常化されようとしている。洗脳されていた状態に戻ろうとしている。
キチガイに「正常という妄想」が「寄生」し、その腹を食い破って、宿主を支配するのが、「正常という精神疾患」なのだ。
「寄生」されているのはキチガイの方なのだ。
老婆であり、赤ん坊の方なのだ。
親は赤ん坊に「寄生」しようとしているのだ。
男が女にペニスを挿入するごとく。
追記。
なんか適当にぐぐってたらこんなの発見。唐沢が叩かれてるってのは知ってたが、そういう系のブログらしい。
まー正直どうでもいい。こういう奴らにこんなやり方しても「遊びが遊びになってないじゃん」と笑われるのがオチだよ、あほくさ、って感じ。
まあそんなことはどうでもよく、そこのコメント欄から。
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いい人だというのはわかりましたし、演じているのがキツくなっているのもよくわかりました。
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わたしじゃない人にも見抜かれてるやん。つかこれほぼこの記事の「お前の性根は全然鬼畜なんかじゃないよ。とっても健全だ。小文字の倒錯はやめい」と同義だと思う。
まあ、それで「いい人じゃない人になれよ、鬼畜になりたいんだろ?」って言ってるのがあたしで、このブログ主はそう思ってないんだろうけど。妖怪紳士との会話で、「僕と脂さんは見ているものは同じだが、視点がまったく逆だ」と言われたことがあるが、そういうことかと。村崎について「本当は鬼畜なんかじゃなく健全ないい人だ」というのは同意できるが、彼や妖怪紳士なんかは「だからいい」ってなって、あたしは「いや鬼畜って名乗ってるなら本当の鬼畜になれよ」ってなる、って感じ。あ、ここでも書いてたな。
むしろその犯人に刺殺されることで、その犯人からは「本当の鬼畜」と思われてたのがわかったわけだから、いいじゃん、感謝すべきじゃん、っつってるわけよ。
非公開コメントで「他の統失ブロガーたちはこの件についてだんまりだ。おかしい」って意見があったけど(自閉症当事者の人。個人的な知人)、そいつらも最初から見抜いていたんじゃね?
「どーでもいいよ、こんな演じているだけの奴。幻聴とか嘘だろ」
って感じで。
ああそうそう、あたし唐沢も村崎と同類だと見てるから、唐沢も「実はいい人」だってことになるな。性根は健全な人。一応言っとくとここでの「健全」って言葉は中坊さんブログのこの記事の文脈で言っている。
唐沢が殺されてたら村崎と同じように「彼も実はいい人だったに違いない」とか思うんじゃねーの。
「いやそうじゃない。彼は根っからの悪人だ。他人の気持ちを蔑ろにする人だ」
っつうなら、あなたは唐沢を情性欠如者だと思っている、ってことだ。
わたしは「情性欠如的な学者」(学問とは研究対象はなんでもよいので、唐沢も学者だと言える)を「魔女」と言い換えているが、わたしの見た感じ、彼は「魔女」だとは思えない。その人格が。自閉症などを多く臨床してきたわたしから言わせると、彼はまったく情性欠如者ではない。
つかさ、誰かを人格批判するなら、「自分がいい人に思われること」はばっさり切っちゃわないと、どうやっても矛盾が生じるぞ。「自分は人格的に悪い人です」ってしないと辻褄があわなくなる。
で、わたしは、ラカン派の定型句「人格とはパラノイアである」を利用し、人格そのものが精神疾患症状であるとして、人格そのものの批判もしている。誰かの人格批判だけじゃなく、ね。
辻褄あうでしょー?
他人を人格批判しておきながら自分の人格を防衛しようってのがそもそもの間違いだよ。「他人を蹴落として自分をよく見せたがっているだけ」と思われちゃう。あるいはその相手が「もっと立派な人格であるべき」と思っているだけの(専門用語としての)コンプレックスだと思われちゃう。
そうじゃなくて、そいつの人格批判をしたいなら、そいつの人格を破壊したいなら、まずは自分の人格を破壊しなければならない。
ヤるなら死ぬ気でヤろうぜ。
「遊びでやってますー」って奴らをヤるなら。
つかさ、あたし新宿ゴールデン街とかで、「鬼畜系ライター」じゃないけど風俗フリーライターやらフリーの編集者やらって「出版関係の底辺の人たち」と飲んでた時期あるんだけどさ。あれ、西原理恵子とかが描いているような奴ら。なんか最近特定されそうで怖くなってるんだが、SM雑誌で一瞬だけバイトしたのもそこの繋がり。
奴らの方が「人としてどうよ?」だったんだけどな。後輩の新入社員くんにおしっこ飲ませたり。
そっちのが「鬼畜」じゃね。
なんか村崎くんはこの曲レベル。
まああたしもこのレベルに騙されてた時期はあるけどね。こういう感じの人って「同じかもしれない」つってわたしの本性見せたら一発で「それはお前人として間違ってる」みたいに言うんだよな。
裏切られるのは大事よ。生きてくために。
軸がぶれてるだけじゃだめ。壊れてなきゃ。
その軸を壊してあげる。
ファルスを。
「正常という精神疾患」の原因を。
あ、一応。小文字の倒錯の説明。ここのコメント欄。これだけ。
詳しく知りたいならラカン論勉強してくれ。
あたしゃこんなのどうでもいい。
つかさー。この犯人とか精神病の定型句「現実と妄想の区別がつかなくなってる」とか言われるんだろうけどさー、唐沢や村崎の方が妄想側だろ? 「遊びを遊びとしてやってる」んだから。「演じている」んだから。
「遊びを本気でやっている」人にとってその「遊び」は現実だ。現実だから本気になってしまう。
なのになんでそっち側が現実になるんだよ。
お前らの言う「現実」が妄想なんだよ。
こっちも読んどけ。
別の記事でも書いたけど、この曲が結構トラウマになってる。
「いやな女」「ずるい女」「嘘つき女」「醜い女」「汚れた女」「卑しい女」「老いた女」「しつこい女」「バカな女」「安い女」「邪魔な女」「退屈な女」「さみしい女」「捨てられた女」「いらない女」が素顔なんだよ。
人格としてほめられたもんじゃない方が素顔なんだ。
唐沢や村崎とは逆。
「重い女」ってのがないな。これ現代語か。「重い」と男から言われたことはないが、自分で自分が重いときがある。
「人格」が重い。
化粧が重い。
重い竹刀を使うと竹刀に体が持ってかれるような感覚になるときがある。それと同じ重さ。
追記その2。
唐沢批判ブログに一応「あんたの言説利用させてもらったよ」って意味でトラバ打ったんだが、そっから飛んでくる人もいて、あたし唐沢もキモイがあそこにいる人たちもキモイので、一応言っとこう。
「あなた精神病の人から「自分のことを言われた」と言ってこられた経験ないでしょ?」
あるよ。しかもこのブログで。このブログの言説を「自分のことを言っている」って言ってこられたことがある。相手は非公開コメントだが、ここのコメント欄。ちなみにこのあとしばらくこの非公開コメント者とやり取りした。適当に探してくれ。
またわたしは自分でも、某芥川賞作家がわたしのことを書いてわたしを批判している、と思い込んでいる。ここな。
明らかにわたしのことだとわたしは思っているが、本人に確認は取っていないため、これはいまだわたしの妄想にすぎない。わたしの妄想が、そこのコメント者や他のその作家のファンの人と同じだったにすぎない。彼らもその文章はわたしのことだと思っている。たまたま同じ妄想を持っているだけ。
そういうことだよ。
キチガイの被害妄想は超自我の原因だ。
お前らが人格者には備わっているべきと思っている超自我の根源は、キチガイの被害妄想だ。
なのに、それが劣化した超自我を称揚し、それがナマのまま表出するキチガイの被害妄想を嫌う。
矛盾している。
この矛盾を隠蔽するために「劣化」を「昇華」などと言い換えている。あ、別に「昇華」でもいいよ。「そのもの」から見れば「変質」には変わらないから。
お前らってほんと精神疾患だよな。
被害妄想についてもこのブログでは精神分析的に論じているので、ブログ内検索などして読んでくれ。
ごちゃごちゃコメントする前にな。
コメントしないなら読まなくていい。
要するにこれも被害妄想だよ。唐沢批判ブログの連中がわたしの攻撃してくるんじゃないかって被害妄想。
うざいよ、お前ら。わたしの脳内お前ら。脳内野次馬。
キチガイががちゃがちゃ言ってるだけなんだからそっとしといてくれよ、ってことだ。
あ、なんか一応。
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彼や妖怪紳士なんかは「だからいい」ってなって、
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って書いているけど、この記事とかでそのブログ主はこう書いている。
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(だから、俺が「村崎百郎はいい人」って言ってるのは褒めてるわけじゃないんですよ)
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ごめん、わたしの勘違いでした。その部分は撤回します。