2007/04/04/Wed
大きな物語がなくなったから小さな物語が氾濫しているんじゃなくて、例えばフェティシスムを選択して欲望の連鎖を抑えて、小さな物語で満足する、つまり、自ら小さな物語を選択している状態があると思う。現代の若者文化は。
大きな物語がなくなったから、という被害者意識のようなものを助長する東浩紀氏の言説になんとなく違和感を感じてしまう。
それは、自ら選んだ道なのだ。
大きな物語の終焉?
「大きな物語の終焉」という言葉をきくたびに、なにかうさんくさいな、と思わずにはいられません。
それはほんとうに「消滅してしまった」のでしょうか。氾濫する小さな物語はあるひとつの大きな物語を自明としてしまっているがために、それを問うことができないのではないでしょうか。
現代における大きな物語、それは例えば、資本主義です。
2007-04-06 金 17:34:03 /
URL /立花ノリミ /
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>それは例えば、資本主義です。
まさしくその通りだと思います。
でも、資本主義というのは、どうも情念的でないような気がするのですね。透明なプラスチックの容器が資本主義で、その中で多様性や流動性が生じている、みたいな気がします。
そのことについて軽く述べた記事がこちらですが、
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-37.htmlほんとうに軽くなのでつっこまれたりしています(汗。社会学関係よくわらないのです……。
共産主義はよくわかりませんが、マルクスの経済哲学は情念的だと思うのですね。さらにそういった二つのイデオロギーの対立、即ちこれは葛藤を暗喩します。そういったものについては、情念が沸き立ちやすいと思うのです。だから、それを「大きな物語」と呼べたのでしょう。
ところが、資本主義は情を排除します。透明なプラスチック容器です。情を感じさせない非パトス的な、冷たい「物語」と言えるかもしれませんね。
2007-04-07 土 03:07:05 /URL /脂 /
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「大きな物語」とは適当に言えば終わりを前提にした巨大な進歩主義思想、およびその運動です。(”終わり”は具体性がなくてもいい)
例えば、「我々の社会が段階的に発展していき、共産主義社会を達成することで世界を牽引し、真の共産主義を実現する」みたいな風の考え方です。
こうした思想が大きな力を持っていた為に、それに対抗して別の「大きな物語」をぶつけること。あるいはそうした二項対立を否定することが意味を持ちました。こうした包括性まで含めて”大きな”物語なのです。
資本主義は大きな制度であって物語ではありません。仮にそうだとしても、現在多くの人間が「物々交換でやってる民族に資本主義を広めることが良いことだ」なんて風潮が支配的だとでも?
というか、みんな、東浩紀を読んで「大きな物語」についてあれこれ言うけど、彼の数行ていどの説明を読んでも間違いだってわかるほど、変な定義で「大きな物語」って方言を使うね。資本主義という語の誤用は、まあ、ありふれてるけど。
2007-04-29 日 12:09:22 /URL /kiya /
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>「大きな物語」とは適当に言えば終わりを前提にした巨大な進歩主義思想、およびその運動です。(”終わり”は具体性がなくてもいい)
なるほど。思わず納得してしまいました。
最近物語の要素として「終わり」を考えていたので、kiyaさんのこの言葉は非常に納得のいくものでした。
>現在多くの人間が「物々交換でやってる民族に資本主義を広めることが良いことだ」なんて風潮が支配的だとでも?
これについては、「終わり」を前提にしていなければ、そういったものは、我々の「無意識」に刷り込まれていると思いますよ。具体的にそんな言葉じゃなくても、資本主義のルールが超自我化してしまい、相手にもその超自我があると思い込んで喋ってしまうとか。例えばオタク文化の「分析家の語らい」化などは、そういった無意識即ち超自我のなせる業なんだろうなあ、と思っております。
まあ、社会学の机上で無意識なんか言ったら笑い飛ばされそうですけどねw
2007-05-01 火 03:40:53 /URL /脂 /
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