心理学は「親殺し」だけではなく「子殺し」も語れ。
2010/08/05/Thu
「怖い」という気持ちは、体内の反応は、どういったものだろう。
なんの先入観もなしに、思い込みもなしに、自分が「怖い」と思ったときの体内反応を観察してみれば。
直感的に、「怖い」という感情は、その他の定型的な、たとえば「喜怒哀楽」といったような個々の感情の、胚種ではないのか、と思える。
つまり「喜怒哀楽」などという感情は、原初的な感情を、人為的に加工したものである、と。
いや、「怖い」も人為的加工が施されている。「怖い」だけではだめだ。「悲しい」という加工物も近いように思える。
「怖い」や「悲しい」などといった加工済み感情が、おそらくもっともその胚種の原性質をとどめている、といったような言い方になるか。正確に言えば。
むしろ、「怖い」はなぜ「悲しい」と別なのだろう、とすら思える。これらは同じ体内反応だ。
いや、わたしの「悲しい」であり、一般的な「悲しい」とは違う気がする。「怖い」は一般的な「怖い」と似ていると思うが。
「怖い」というとき、体内の器官は収縮している。緊張している。わたしの「悲しい」は緊張している。一般的な「悲しい」は緊張していないように思える。
「怖い」も加工済み感情なのだが、もっとも胚種の原性質と近似している、という意味で、仮にこれを原初的な感情だと仮定しよう。0ではないが0.00001を基準点とするようなことである。
おそらく「悲しい」は、より数値の大きい、つまり人為的加工の度合いが大きい他の感情と同様の性質を持っている。しかし「怖い」と類似の性質も持っている。
ということは、原初と加工済みという二項で区分した場合、その中間にある感情である気がする。
現実と妄想の中間。対象a。
「悲しい」とは、対象aだ。
ママさんちのこの記事。
ほんとにこの人とも縁きりたい。しんどい。
思わず自動書記のごとく(一応断っとくけどギャグよ)、コメント欄かメッセかに入れようと書いた文章があるんだが、今「怖い怖い」モードなので、こっちにうpっとく。
心理学用語には「親殺し」という概念がある。
であるならば、これと同じような意味体系、つまり理屈体系による「子殺し」があってもいい。
心理学的な意味で、子は親を殺しているのと同じように、親は子を殺している。
殺して「変えさせている」。
だけど親はそれに気づかない。
それを指摘しても否認するのみ。
まあ、ここを承認しちゃったら、キチガイの世界へよこそう、ってなもんだしな。
心理学もいやらしいよな。しょせんは大人に都合のいい学問。子供の「親殺し」だけ語って親の「子殺し」を語らない。
それは子供の復讐であり、心中だ。
だからね、親は子を殺すべきなんだよ。
あなたは自分が、学校が、他の親たちが、自閉症児を殺していることに気づいた。
そこで、「だから私は殺さなきゃならない」と思わなければならない。
あなたももう一歩だね。
「私はカナーくんを殺している。殺してきた。だから、私は、カナーくんを殺さなければ、殺し続けなければならない」
とならなければならない。
まあ、ここで描かれている学校関係者みたいな、殺していることを気づかないで「あなたのために」やら「周囲の人たちのために」なんて「責任転嫁」して、それを否認している奴らは問題外だけどな。
そいつらにはわたしがカウンセリングしてあげよう。本来の心理カウンセリングとは逆方向に向かわせるカウンセリングを。
精神的な正常さを復調させるのとは逆方向に向かわせるカウンセリングを。
わたしは、政治的立場で言えば、ここで描かれている学校関係者になるな。
「カナーくんを変えさせる」立場に。
殺していることを自覚しつつ、殺す立場に。
なれなかったけどね。なろうとも思ってなかったけど。学校の先生に向かって「この世で一番なりたくない職業は学校の先生だ」って言ってたもん。笑ってたけど。まあ進学校だったしな。これ今思うと、親が職業なら、一番は親で、二番目が学校の先生となるだろうな。
社会的にもならなくてよかったんだろうな。そういう立場に。
先生じゃないけど、あたし医学部落ちたんだけど、「あんたが医者にならなくてよかった」と周りに口を揃えて言われたもん。
そらパパくんは、「殺す」なんて言葉はさすがに否認するだろうけど、つか心理学的言い回しにすぎないからなんでもいいんだけど、要するにそれだけの覚悟があるかないかって話にすぎないわけだけど、多少なりの自覚はあるように思えるんだよな。
脳内お花畑な当事者親たちとは一線を画している。
もちろんあなたにも自覚はある。
そういう、この記事みたいな自覚があるかないか。
ところが、あなたやそらパパさんに群がる親たちには、こういう自覚がほとんどないように、わたしには見える。
なんであなたやそらパパさんはそんな人たちとつきあえるの?
殺している自覚がない奴らと。
ああ、あなたたちは仲介人だもんね。
こういう人たちは、人を殺しているのに「殺しているつもりはないから私は殺人犯じゃない」って言っているようなもんだ。
「正義あるいは愛のためにやっていることだから、殺してもいいのよ」ってなことか。
だから、怖い。
怖いから、お化けに罵詈を吐く子供のように、コメントしている。
そういうコメントだと思ってくれ。
子供を「変えねばならない」自覚。「殺している」自覚。
あんたはこういう感じか。
「私は私を含めた周りの大人たちがカナーくんを殺してきたことに気づいた。しかし周りの大人たちを恨んでいるわけではない」
そこまで言うなら言っちゃいなよ。
「なぜなら私は、これからもカナーくんを「変えさせなければならない」からだ。私はカナーくんを「殺し続けなければ」ならないからだ。なぜなら私は「親」だからだ」
めんどくせえな。遠回しな言い方が。
親はファロセントリストでいいんだよ。女親であっても。
もういやだ、あんたのブログ見んの。
わたしが勝手に見てるだけだけどね。
2ちゃんもつまらん。ドラマもつまらん。映画もつまらん。
体は反応している。マグロ状態。ビートたけしの映画かなんかで、頭のおかしい女性が無表情なままレイプされるってシーンがあったんだが(川上麻衣子だっけか)、ああいう感じ。
体内の反応と表層がつながらないんだよな。
刺激はある。認知している。川上がやってた役の子も、膣にペニスが入っていることは認知しているのだろう。
だけどそれはただの刺激だ。
体の中で完結している。
表層に出す必要がない。
よくわからん。
この辺、
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殺していることを自覚しつつ、殺す立場に。
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この曲が頭に浮かんだ。
しかしこのMAD、正面突破で作ってるのは好きなんだが、解釈が間違っているような気がする。この記事の解釈の方があってると思う。
つまり「力のない者がフリーザの立場で歌った歌だ」と。
この動画なら、「反権力運動をしている市民だってフリーザになりたいんだろ?」って歌だと。
なんか違うな。圧制者を出している前半はよかったんだが。そのまんまで。正面突破で。
「デモ市民の画像は出さない方がよかった」なんて言ってるんじゃねえぞ? その出し方がなんか違うんじゃねえの、と。
まああたしマキシマムザホルモンとかそんな好きなわけじゃないからどうでもいいけども。ああでも、村崎百郎とかと比べると、それこそ彼は「健全さへの欲望の保障として不健全さを欲望している」「小文字の倒錯」であり、いわば小者、雑魚なんだが、マキシマムザホルモンの人はちょっと気合入っているのかもな、とは思える。
要するに村崎もマキシマムザホルモンも「キチガイを演じている」なんだけど、村崎は根っこにある正常人臭を隠しきれてない、ってことだな。マキシマムザホルモンや鳥居みゆきより下手糞だってことにすぎんよ。「キチガイの演技」が。だから村崎を殺した犯人はバカだと思えるけど、マキシマムザホルモンのデブがキチガイに刺殺されたとかしたんなら、ああ、仕方ないかもなあ、とは思える、って話。
言い換えれば、まあどっちが知名度高いかなんてわたしはわからんが、少なくとも鳥居は村崎より知名度があるだろう。だが、村崎の文章という「作品」より、知名度のある鳥居やマキシマムザホルモンの「作品」の方がサブカルだ、って話。村崎くんはカウンターカルチャーだ。メジャーカルチャーへの欲望の中二病的裏返しとしての倒錯。
この微妙な差って、それこそ「迷子感」なんだよな。マキシマムザホルモンや鳥居は、演(や)っているとき、(自分で演(や)ってて)「わけわからなく」なってそう。つまり「迷子」になってそう。村崎の文章にはそれが見えない。よじれてない。彼の性根はまっすぐだ。ここから。
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ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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村崎くんはどっちかってとクリスくん。
つかそのMADもデモ市民画像の出し方が「小文字の倒錯」っぽくってちょっと気になった、ってことだな。
「迷子」、「わけわかんなさ」、「よじれ」、
つか親は自分はフリーザ様だと自覚しろよな。
究極の「まっすぐな人」、「健全な人」、ファロセントリスト。
あ、ここのコメント欄とかも参照できるかもね。つか『ドラゴンボール』とか時代違うし、あたし。
「ロマンティックGive me」ってこれか。今気づいたわ(笑)。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
なんの先入観もなしに、思い込みもなしに、自分が「怖い」と思ったときの体内反応を観察してみれば。
直感的に、「怖い」という感情は、その他の定型的な、たとえば「喜怒哀楽」といったような個々の感情の、胚種ではないのか、と思える。
つまり「喜怒哀楽」などという感情は、原初的な感情を、人為的に加工したものである、と。
いや、「怖い」も人為的加工が施されている。「怖い」だけではだめだ。「悲しい」という加工物も近いように思える。
「怖い」や「悲しい」などといった加工済み感情が、おそらくもっともその胚種の原性質をとどめている、といったような言い方になるか。正確に言えば。
むしろ、「怖い」はなぜ「悲しい」と別なのだろう、とすら思える。これらは同じ体内反応だ。
いや、わたしの「悲しい」であり、一般的な「悲しい」とは違う気がする。「怖い」は一般的な「怖い」と似ていると思うが。
「怖い」というとき、体内の器官は収縮している。緊張している。わたしの「悲しい」は緊張している。一般的な「悲しい」は緊張していないように思える。
「怖い」も加工済み感情なのだが、もっとも胚種の原性質と近似している、という意味で、仮にこれを原初的な感情だと仮定しよう。0ではないが0.00001を基準点とするようなことである。
おそらく「悲しい」は、より数値の大きい、つまり人為的加工の度合いが大きい他の感情と同様の性質を持っている。しかし「怖い」と類似の性質も持っている。
ということは、原初と加工済みという二項で区分した場合、その中間にある感情である気がする。
現実と妄想の中間。対象a。
「悲しい」とは、対象aだ。
ママさんちのこの記事。
ほんとにこの人とも縁きりたい。しんどい。
思わず自動書記のごとく(一応断っとくけどギャグよ)、コメント欄かメッセかに入れようと書いた文章があるんだが、今「怖い怖い」モードなので、こっちにうpっとく。
心理学用語には「親殺し」という概念がある。
であるならば、これと同じような意味体系、つまり理屈体系による「子殺し」があってもいい。
心理学的な意味で、子は親を殺しているのと同じように、親は子を殺している。
殺して「変えさせている」。
だけど親はそれに気づかない。
それを指摘しても否認するのみ。
まあ、ここを承認しちゃったら、キチガイの世界へよこそう、ってなもんだしな。
心理学もいやらしいよな。しょせんは大人に都合のいい学問。子供の「親殺し」だけ語って親の「子殺し」を語らない。
それは子供の復讐であり、心中だ。
だからね、親は子を殺すべきなんだよ。
あなたは自分が、学校が、他の親たちが、自閉症児を殺していることに気づいた。
そこで、「だから私は殺さなきゃならない」と思わなければならない。
あなたももう一歩だね。
「私はカナーくんを殺している。殺してきた。だから、私は、カナーくんを殺さなければ、殺し続けなければならない」
とならなければならない。
まあ、ここで描かれている学校関係者みたいな、殺していることを気づかないで「あなたのために」やら「周囲の人たちのために」なんて「責任転嫁」して、それを否認している奴らは問題外だけどな。
そいつらにはわたしがカウンセリングしてあげよう。本来の心理カウンセリングとは逆方向に向かわせるカウンセリングを。
精神的な正常さを復調させるのとは逆方向に向かわせるカウンセリングを。
わたしは、政治的立場で言えば、ここで描かれている学校関係者になるな。
「カナーくんを変えさせる」立場に。
殺していることを自覚しつつ、殺す立場に。
なれなかったけどね。なろうとも思ってなかったけど。学校の先生に向かって「この世で一番なりたくない職業は学校の先生だ」って言ってたもん。笑ってたけど。まあ進学校だったしな。これ今思うと、親が職業なら、一番は親で、二番目が学校の先生となるだろうな。
社会的にもならなくてよかったんだろうな。そういう立場に。
先生じゃないけど、あたし医学部落ちたんだけど、「あんたが医者にならなくてよかった」と周りに口を揃えて言われたもん。
そらパパくんは、「殺す」なんて言葉はさすがに否認するだろうけど、つか心理学的言い回しにすぎないからなんでもいいんだけど、要するにそれだけの覚悟があるかないかって話にすぎないわけだけど、多少なりの自覚はあるように思えるんだよな。
脳内お花畑な当事者親たちとは一線を画している。
もちろんあなたにも自覚はある。
そういう、この記事みたいな自覚があるかないか。
ところが、あなたやそらパパさんに群がる親たちには、こういう自覚がほとんどないように、わたしには見える。
なんであなたやそらパパさんはそんな人たちとつきあえるの?
殺している自覚がない奴らと。
ああ、あなたたちは仲介人だもんね。
こういう人たちは、人を殺しているのに「殺しているつもりはないから私は殺人犯じゃない」って言っているようなもんだ。
「正義あるいは愛のためにやっていることだから、殺してもいいのよ」ってなことか。
だから、怖い。
怖いから、お化けに罵詈を吐く子供のように、コメントしている。
そういうコメントだと思ってくれ。
子供を「変えねばならない」自覚。「殺している」自覚。
あんたはこういう感じか。
「私は私を含めた周りの大人たちがカナーくんを殺してきたことに気づいた。しかし周りの大人たちを恨んでいるわけではない」
そこまで言うなら言っちゃいなよ。
「なぜなら私は、これからもカナーくんを「変えさせなければならない」からだ。私はカナーくんを「殺し続けなければ」ならないからだ。なぜなら私は「親」だからだ」
めんどくせえな。遠回しな言い方が。
親はファロセントリストでいいんだよ。女親であっても。
もういやだ、あんたのブログ見んの。
わたしが勝手に見てるだけだけどね。
2ちゃんもつまらん。ドラマもつまらん。映画もつまらん。
体は反応している。マグロ状態。ビートたけしの映画かなんかで、頭のおかしい女性が無表情なままレイプされるってシーンがあったんだが(川上麻衣子だっけか)、ああいう感じ。
体内の反応と表層がつながらないんだよな。
刺激はある。認知している。川上がやってた役の子も、膣にペニスが入っていることは認知しているのだろう。
だけどそれはただの刺激だ。
体の中で完結している。
表層に出す必要がない。
よくわからん。
この辺、
======
殺していることを自覚しつつ、殺す立場に。
======
この曲が頭に浮かんだ。
しかしこのMAD、正面突破で作ってるのは好きなんだが、解釈が間違っているような気がする。この記事の解釈の方があってると思う。
つまり「力のない者がフリーザの立場で歌った歌だ」と。
この動画なら、「反権力運動をしている市民だってフリーザになりたいんだろ?」って歌だと。
なんか違うな。圧制者を出している前半はよかったんだが。そのまんまで。正面突破で。
「デモ市民の画像は出さない方がよかった」なんて言ってるんじゃねえぞ? その出し方がなんか違うんじゃねえの、と。
まああたしマキシマムザホルモンとかそんな好きなわけじゃないからどうでもいいけども。ああでも、村崎百郎とかと比べると、それこそ彼は「健全さへの欲望の保障として不健全さを欲望している」「小文字の倒錯」であり、いわば小者、雑魚なんだが、マキシマムザホルモンの人はちょっと気合入っているのかもな、とは思える。
要するに村崎もマキシマムザホルモンも「キチガイを演じている」なんだけど、村崎は根っこにある正常人臭を隠しきれてない、ってことだな。マキシマムザホルモンや鳥居みゆきより下手糞だってことにすぎんよ。「キチガイの演技」が。だから村崎を殺した犯人はバカだと思えるけど、マキシマムザホルモンのデブがキチガイに刺殺されたとかしたんなら、ああ、仕方ないかもなあ、とは思える、って話。
言い換えれば、まあどっちが知名度高いかなんてわたしはわからんが、少なくとも鳥居は村崎より知名度があるだろう。だが、村崎の文章という「作品」より、知名度のある鳥居やマキシマムザホルモンの「作品」の方がサブカルだ、って話。村崎くんはカウンターカルチャーだ。メジャーカルチャーへの欲望の中二病的裏返しとしての倒錯。
この微妙な差って、それこそ「迷子感」なんだよな。マキシマムザホルモンや鳥居は、演(や)っているとき、(自分で演(や)ってて)「わけわからなく」なってそう。つまり「迷子」になってそう。村崎の文章にはそれが見えない。よじれてない。彼の性根はまっすぐだ。ここから。
======
ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――、物事のほうは、曲折している」。
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村崎くんはどっちかってとクリスくん。
つかそのMADもデモ市民画像の出し方が「小文字の倒錯」っぽくってちょっと気になった、ってことだな。
「迷子」、「わけわかんなさ」、「よじれ」、
つか親は自分はフリーザ様だと自覚しろよな。
究極の「まっすぐな人」、「健全な人」、ファロセントリスト。
あ、ここのコメント欄とかも参照できるかもね。つか『ドラゴンボール』とか時代違うし、あたし。
「ロマンティックGive me」ってこれか。今気づいたわ(笑)。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね。