必然とはすべて作り話である。
2010/08/22/Sun
偶然と必然。
これはラカン論でもキーポイントとしてある考え方だ。
ラカン論とわたしの思想を組みあわせたら、こうなる。
世界の現実はすべて偶然である。では必然とは。それはすべて人間精神が作りあげた妄想である。
必然は人間が存在しなければ存在しない。
では、人間の存在以前が偶然だとしたら、偶然から必然へ、という順序になる。
ここにユングのシンクロニシティが関わってくる。wikipediaから。
=====
ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディングに関わるものである。ユングの語るところによれば、1805年にフランスの詩人エミール・デシャン(Émile Deschamps)が、ドゥフォルジュボー(de Forgebeau)氏からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その10年後の1815年、デシャンはパリのレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は最後のプディングが他の客に出されてしまったと告げた。その客とはドゥフォルジュボー氏であった。更に17年経過した1832年、 デシャンはある集会で再びプラム・プディングを注文した。デシャンは昔の出来事を思い出し、「これでドゥフォルジュボー氏が居れば役者が揃う」と友人に冗談で話していた。まさにその瞬間、年老いたドゥフォルジュボー氏が部屋に入ってきたとのことである。
=====
プディングに関わるこの一件は、冷静に考えればただの偶然の産物である。デシャンもドゥフォルジュボーがやってきたことを必然などとは思わないだろう。
決して必然とは言えないが、必然と思ってしまいそうな何かが、そこにあるように思える。デシャンはこのただの偶然に何かを感じた。
それをここでは「意味」と呼ぼう。いや、言語学的な意味での「意味」ではない。この「何か」たる「意味」に意味はない。正しくは「意味なき意味」と言えるだろうか。
証明として、この「何か」に「意味」を代入してみよう。
「デシャンはこのただの偶然に何かしらの意味を感じた。」
おかしくはない。文学的言い回しとして立派に成り立つ文章である。
偶然はまず、シンクロニシティにより、意味になる。
とすれば、先ほどの偶然→必然はこう書き換えられる。
偶然→意味→必然。
意味とは現実界と照らしあわせるならば、非現実である。象徴界と想像界の重なりが意味である。
非現実という意味で妄想である。すべての意味は妄想である。
したがって、それの変形にすぎない必然は、すべて妄想なのである。作り話なのだ。
wikipediaは先のプディングの一件についてこう書いている。
=====
ユングの説明とは裏腹に、デシャン自身はドゥフォルジュボー氏の名を「ドゥフォンジビュ(de Fontgibu)侯爵大佐」としていて、ナポレオンに敵対して戦ったと書いている。しかし「ドゥフォンジビュ」という名の軍人貴族はフランス史のどこにも登場しないため、このプラム・プディングの話はデシャンによる作り話と考えられる。
=====
これが作り話であることが、何よりの証明である。
わたしの論の。
ではデシャンはなぜこんな作り話を作ったのか。
ただの偶然を、必然とは言いきれないにしろ、何かしらの因果があるように思ったからである。
そこに何かしらの意味を見いだしたからである。
偶然と必然。問題はそこではないのではないか。
偶然と必然の間にある「何か」が、問題なのではないか。
作り話を作り話と思わなくさせる、精神への作用。
嘘を嘘と思わなくさせる、心への作用。
必然は、因果は現実にあると思わせる作用。
これこそが、大多数の人間が罹患している「正常という精神疾患」なのである。
これはラカン論でもキーポイントとしてある考え方だ。
ラカン論とわたしの思想を組みあわせたら、こうなる。
世界の現実はすべて偶然である。では必然とは。それはすべて人間精神が作りあげた妄想である。
必然は人間が存在しなければ存在しない。
では、人間の存在以前が偶然だとしたら、偶然から必然へ、という順序になる。
ここにユングのシンクロニシティが関わってくる。wikipediaから。
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ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディングに関わるものである。ユングの語るところによれば、1805年にフランスの詩人エミール・デシャン(Émile Deschamps)が、ドゥフォルジュボー(de Forgebeau)氏からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その10年後の1815年、デシャンはパリのレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は最後のプディングが他の客に出されてしまったと告げた。その客とはドゥフォルジュボー氏であった。更に17年経過した1832年、 デシャンはある集会で再びプラム・プディングを注文した。デシャンは昔の出来事を思い出し、「これでドゥフォルジュボー氏が居れば役者が揃う」と友人に冗談で話していた。まさにその瞬間、年老いたドゥフォルジュボー氏が部屋に入ってきたとのことである。
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プディングに関わるこの一件は、冷静に考えればただの偶然の産物である。デシャンもドゥフォルジュボーがやってきたことを必然などとは思わないだろう。
決して必然とは言えないが、必然と思ってしまいそうな何かが、そこにあるように思える。デシャンはこのただの偶然に何かを感じた。
それをここでは「意味」と呼ぼう。いや、言語学的な意味での「意味」ではない。この「何か」たる「意味」に意味はない。正しくは「意味なき意味」と言えるだろうか。
証明として、この「何か」に「意味」を代入してみよう。
「デシャンはこのただの偶然に何かしらの意味を感じた。」
おかしくはない。文学的言い回しとして立派に成り立つ文章である。
偶然はまず、シンクロニシティにより、意味になる。
とすれば、先ほどの偶然→必然はこう書き換えられる。
偶然→意味→必然。
意味とは現実界と照らしあわせるならば、非現実である。象徴界と想像界の重なりが意味である。
非現実という意味で妄想である。すべての意味は妄想である。
したがって、それの変形にすぎない必然は、すべて妄想なのである。作り話なのだ。
wikipediaは先のプディングの一件についてこう書いている。
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ユングの説明とは裏腹に、デシャン自身はドゥフォルジュボー氏の名を「ドゥフォンジビュ(de Fontgibu)侯爵大佐」としていて、ナポレオンに敵対して戦ったと書いている。しかし「ドゥフォンジビュ」という名の軍人貴族はフランス史のどこにも登場しないため、このプラム・プディングの話はデシャンによる作り話と考えられる。
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これが作り話であることが、何よりの証明である。
わたしの論の。
ではデシャンはなぜこんな作り話を作ったのか。
ただの偶然を、必然とは言いきれないにしろ、何かしらの因果があるように思ったからである。
そこに何かしらの意味を見いだしたからである。
偶然と必然。問題はそこではないのではないか。
偶然と必然の間にある「何か」が、問題なのではないか。
作り話を作り話と思わなくさせる、精神への作用。
嘘を嘘と思わなくさせる、心への作用。
必然は、因果は現実にあると思わせる作用。
これこそが、大多数の人間が罹患している「正常という精神疾患」なのである。