うざい奴は死ね。
2010/08/28/Sat
拍手コメントがうざくなってきたので消しました。
以前からうざかったんだけどね。
誰か特定の人のせいじゃないが、まあうざいコメントを書きまくるバカが一人いるかもなあ、とは思っているが、一人じゃないかもしれないし、別の人かもしれない。
でもうざくないコメントもあった。
大体ノリが似ているうざいコメントのせいで、消す。
ノリが似ているから一人だろうな、とは妄想で思っているが、もしそうなら、お前死ねよ。
ぶっ殺してやる。
こんな風に書くと関係ない人は「罵詈雑言書かれていたのだな」とか思うかもしれないが、罵詈雑言ではない。おそらく一般的な判断基準では。
わたしがうざいだけ。
殺意を催す程度のうざさ。
憎しみとかってレベルになってないうざさによる殺意。
死ねよ。
このブログは、「わたしの日記帳」とわたしが言っているが、わたしの所有物ではない。「の」は所有を意味していない。
「わたしの日記」の「の」は所有だろうか。日記とは所有しているものだろうか。記したものは所有とは限らない。所有ではなく「of」の意味としての「の」。「日記 of わたし」。
それが記されたものとしての帳面。それが「わたしの日記帳」。
ここに所有の意味はない。
ここにあるのは、ブログという帳面と、それに書かれた文字だけだ。
それを書いたわたしはここにはいない。
なのに読者たちはどいつもこいつも、「この文字を書いた人間」である、そいつの勝手な想像にすぎない「わたし」を、まるでそうプログラミングされたロボットのように読み込んでくる。
怖い。
ロボットだお前らは。
人間はロボットだ。
存在しない設計者のプログラミング通りに動くロボット。
偶然なことは偶然らしく。必然なことは必然らしく。
ただ「らしい」ってだけ。
パニック映画みたいな。
よくわからないけど、大きなフェリーに乗って、大きな川を進んでいる。
早く逃げなきゃならないのにやけにゆっくりだ。
乗っている人たちはそわそわしている。しかし誰も文句は言わない。誰か一人文句を言ったら連鎖的に混乱が広がり、パニックになる。
川はとても静かだ。
逃げなきゃならない災害地はすぐそこなのに。
そんな夢。
以前からうざかったんだけどね。
誰か特定の人のせいじゃないが、まあうざいコメントを書きまくるバカが一人いるかもなあ、とは思っているが、一人じゃないかもしれないし、別の人かもしれない。
でもうざくないコメントもあった。
大体ノリが似ているうざいコメントのせいで、消す。
ノリが似ているから一人だろうな、とは妄想で思っているが、もしそうなら、お前死ねよ。
ぶっ殺してやる。
こんな風に書くと関係ない人は「罵詈雑言書かれていたのだな」とか思うかもしれないが、罵詈雑言ではない。おそらく一般的な判断基準では。
わたしがうざいだけ。
殺意を催す程度のうざさ。
憎しみとかってレベルになってないうざさによる殺意。
死ねよ。
このブログは、「わたしの日記帳」とわたしが言っているが、わたしの所有物ではない。「の」は所有を意味していない。
「わたしの日記」の「の」は所有だろうか。日記とは所有しているものだろうか。記したものは所有とは限らない。所有ではなく「of」の意味としての「の」。「日記 of わたし」。
それが記されたものとしての帳面。それが「わたしの日記帳」。
ここに所有の意味はない。
ここにあるのは、ブログという帳面と、それに書かれた文字だけだ。
それを書いたわたしはここにはいない。
なのに読者たちはどいつもこいつも、「この文字を書いた人間」である、そいつの勝手な想像にすぎない「わたし」を、まるでそうプログラミングされたロボットのように読み込んでくる。
怖い。
ロボットだお前らは。
人間はロボットだ。
存在しない設計者のプログラミング通りに動くロボット。
偶然なことは偶然らしく。必然なことは必然らしく。
ただ「らしい」ってだけ。
パニック映画みたいな。
よくわからないけど、大きなフェリーに乗って、大きな川を進んでいる。
早く逃げなきゃならないのにやけにゆっくりだ。
乗っている人たちはそわそわしている。しかし誰も文句は言わない。誰か一人文句を言ったら連鎖的に混乱が広がり、パニックになる。
川はとても静かだ。
逃げなきゃならない災害地はすぐそこなのに。
そんな夢。