『パーフェクトブルー』――今敏は非人格者だと思う。
2010/09/16/Thu
「自我とは想像的なものである」
そうか、ではそれのもとネタはなんだ? まったくのゼロから作りあげた想像なのか?
「違う。それは、いわば鏡に映った自分である」
鏡。そんなものが自我なのか? 私は鏡に映る自分が自我だと思わない。それを見ている私が自我だ。
「違う。それは、生後六ヶ月から十八ヶ月のあいだに生じる想像である」
そんな赤ん坊が鏡を認識しているのか?
「認識していないだろう。ここで言う「鏡」とは比喩的な表現である。「鏡に映る自分」のごとき現象がもととなって生じる想像が、自我だ、ということである」
鏡ではないのか。鏡のような現象を引き起こす何か。それはなんだ?
「まなざしである。まなざしが、「鏡」のごとき現象を引き起こし、自我という想像が生じるのである」
……意味わかんねえな。
『パーフェクトブルー』の主人公未麻は、ドラマでのレイプシーンを引き受けた。帰りの電車の中、窓に映る、アイドルの衣装を着た自分にこう言われる。
「私絶対いやだからね」
鏡に映る自分であり、ファンからまなざされる自分が、自分を批判する。
子供の場合、まなざすのは多くの場合親である。親にまなざされている鏡の中の自分は、大人たちの、いや自分以外の人間たちの輪の中で、認知され確立されている存在である。
なので、それは想像などではない。子供はそう思い込んでいる。
「さすがに親は仰天するだろうけど」
この一連の、いわば「自我が乖離しはじめたシーン」は、まるでラカンを読んでいるかのようですらある。
今敏はラカンを読んでいた、なんて言ってるんじゃねえぞ? フロイトだって、自分が分析し築いてきた理屈体系を詩人たちが直感で把握していることに驚きを隠していない。もしラカンを読んでいなかったら、今はラカンにとっての詩人だった、ってわけだ。
んー、あとはなあ。何を書けばいいのか、書いてほしいのかわからん。
「解釈」っつてもなー。「ネタバレ」っつっても作品内できちんとネタバレしてるじゃん。「犯人は○○」って。
正直多重人格とかは、「自我は想像的なものである」なわけで、想像的なわけだから複数いるのもありなわけだし、もしかしたら他人に憑依(劇中劇では「依代」つってたな)するのもありだ。もしかしたらとか言ったけどむしろこの方が普通だろ。ガキがヒーローになりきって遊んだりするのは、ヒーローという確立された想像的な自我が、そいつに憑依しているわけである。冒頭そんなシーンだったよな。「つまんねー」ってケチつけるガキはそうじゃなかったみたいだが。
また、そもそもが「想像的なもの」であるため、乖離したりするのも普通に起こりえる。現実の、細胞あるいは原子分子の集合体としての自分とは別物なのは明白だろ。
乖離なんて普通にある、まなざすのが親だった場合なら。「この子は勉強ができる子なのよ」とか「この子はとても優しい子なのよ」とか「この子は将来とても美人になるわ」なんて親から押しつけられた想像との乖離。別にどうでもいい他人に別の自分を想像されてもなんとも思わないだろ? それが重荷になるのは親だからだよ。親のするまなざしだから自我の乖離となる。親がどうでもいい他人に近づけば近づくほどそれは軽くなる。自我の乖離じゃなくなっていく。エディプスコンプレックスの寛解、いわゆる(精神的な)親離れだ。
つかこれに精神分析的な解釈をしろってさ、「自我とは想像的なものである」ってことの実体を知らないだけなんじゃねえの? その実体をよく表現できた作品である、としか言えないんだけど。
まあそういう意味で、フロイト派みたいな言い方するなら、全然親殺しじゃないけど、エディプスコンプレックスの裏側なストーリーだよな。
よくできてるわ。これならメジャーウケするだろう。サブカルっぽいけど裏側からエディコンに沿ってるんだから。メジャーの裏面としてのサブカル作品。
あ、作品としてはすげえおもしれえ。ハリウッド映画みたいだな。超ウェルメイド。クライマックスの追いかけっことかまさにそんな感じ。ハリウッドだとあんなレイプシーンは描けねえか。つかアニメじゃないとこんなウェルメイド作れないとか日本映画終わってるな。
今敏って監督については、『妄想代理人』とかもそうだけど、暴力的、残虐的な表現がすげーうまい人だと思う。この作品なら、カメラマンが殺されるシーンで、アイスピックが目に刺さって、ちょっとした間があってから痛がるだろ? あれがリアルだとは言わないが、刺激から痛みになる間を表現しているところに、リアリティならぬアクチュアリティがある。痛みの表現として。あそことか見てて痛かった。
なーんかさ、遺書かなんかを取りあげたスレでさ、まあ確かに感動的な文章だったと思うんだが、今さんをなんかすげー人格者みたいに持ちあげてるバカどもがいたんだよ。アホだなーって思うわ。
んでだなー。
前記事のコメント欄でも書いたが、ストーカーの話ということで、大分身構えてから見ちゃったんだが、そういった点では、ちょっと肩透かしだったわ。
なんだろうなあ。
わたしのストーカー被害はここに書いた通り。
これと同じく、主人公はストーカー、犯人からの妄想を押しつけられているわけだ。アイドル時代の自分、っていう妄想を。
同じだけど、なんか違うんだよなあ。
というのは、前述の「自我の乖離のシーン」で書いたように、ストーリー当初は、主人公はきちんと自我が確立された主体だったからだ。
なんつかなあ。
いやまあ、確かに演劇ってのはポイントなんだよ。劇中と現実が混濁するなんて普通になる。わたし普通に他の人役名で呼んでたし、キャラが抜けなかったもん。最初の頃はね。
で、わたしは何度もこのブログで描いているけど(ママさんちのコメント欄でもちらっと書いた)、役者の作業っていうのは、原則「自我の解体」ってプロセスを踏むと思っているんだよ。仏教のキーワード「無我」になりたかったら役者になれ、ってね。いやまあ、スターになるとアウトだけど。まなざされちゃうから。無我を目指すなら売れない役者がベター、って話か。
んー、そういった意味で、ストーリーの面で、確立された自我が乖離、解体されていくことの説得力はあるんだが……。
なーんかこう、デジャブの繰り返しみたいな、妄想チックな、主観が混乱したシーンがあったでしょ? 後半。あれをさ、ここに持ってくるべきだったと思うんだわ。あれの軽いバージョンを。あそこみたいな演出を壊れはじめるあたりに施すべきだった。
出し惜しみしちゃったのかね。確かにあれはいいシーンだよ。自我が壊れている、壊れかけている主人公の主観を表現するやり方として。
でもなあ、それ以前に壊れてはじめるシーンの方が重要だと思うんだよ。
自我が壊れちゃったらいきつく先は華厳の極楽だ。『パプリカ』とか予告編しか見てないけどあれ「ケバケバしく毒々しい世界」って感じじゃん。
あそこまではいかなくても。
あのクライマックス直前の演出は、あそこでぽん、と出すより、じわじわと、未麻の自我が壊れていく段階から施すべきだったと思う。
まあ、前半は筋書きの説明って役割もあるから、難しいのだと思うけど。
なんだろうな。
慢性的な不安感じゃないんだよな。局所的になっている。あのデジャブ繰り返し演出自体は迷子の不安感を煽るものだ。だけど出し方が局所的だ。
この記事から。
=====
『レディ・イン・ザ・ウォーター』悪評のわりにはおもしろかったな。
わかりやすいサスペンス感はない、あっても完全に型にはまったもので、受取手が裏切られるという不安感はない。
でも、だからこそ漫然とした宙ぶらりんな感じの不安定さが際立っていたと思う。
『シックス・センス』はメジャー向けだろうから別に批判じゃないけれど、アイデア勝負みたいなところがあるじゃん。『ヴィレッジ』も。わたしなんかはああいうのあざといなー、って思うのだよね。
もちろん『レディ~』もあざといというか(ラカン的な意味じゃない)現実味がない。
現実味のなさというか非日常性なのだよな。
キチガイは正常人にとっての非日常性が日常になっているんだよ。
正常人にとっての日常的現実に現実味を感じられない。キチガイたちは。
それが彼らにとっての日常。
そんな感じが滲み出ていたと思う。
わかりやすいサスペンス感がないから安心して見ていられる、のではなく、正常人にとっての突発的な、間欠泉的な非日常性じゃない、漫然とした非日常性が、薄気味悪さみたいなかすかな不安感、宙ぶらりん感を醸し出している。
=====
この比較で言うと、この作品は『レディ・イン・ザ・ウォーター』じゃなくて『ヴィレッジ』だった、とでも言えようか。不安感の配置の仕方が。
そうだね、もっと宙ぶらりん感があった方が、自我が壊れていくことにもっと説得力があったと思う。観客の自我を壊せたと思う。
最初のアイドル時代の未麻は、まなざされる自分と、自分がそうなりたい、なっていく自分が合致している状態じゃん。自我理想と理想自我が合致している。パラノイア。いくら売れてないとはいえ、アイドルになる夢を叶えたまさにその状態。アイドルとして絶頂ではないにしろ、彼女の自我は完成されていた。
そっから自我が壊れていくのが、なんか説得力ない。落差が激しすぎる。
せっかく売れてないって設定なんだから、たとえば親から「夢ばかり見てないで早く帰ってきんしゃい」みたいなこと言われるとか(ありきたりだねごめんね想像力なくて)、そういうシーンがあれば、彼女の自我はそれほど完成されてなかった、自我理想と理想自我は近接していなかった、となるから、まだよかったんだけど。
多分な、今敏自身が、人前に出るような性格じゃなかったと思うんだ。彼はアイドルタイプの人格じゃなかった。
アイドルって強いよ。人間として。やっぱ売れるアイドルはそこそこ人格者なんだ。松田聖子とか。中森明菜は非人格者の方だと思うけど。
それこそ「光」なんだよ。先天的か後天的かわからないけど、できた人なんだ。明菜はどっちかってと「闇」でそ?
あたし中学生のアイドルの卵と共演したことあるんだけどさ、いやまあ、ほんとに嫉妬しちゃうほどできた子なんだよ。中学生女子のくせに人格者なんだ。「光」なんだ。わたしはきらいだった。そのときあたし二十うん歳だったけどほんと劣等コンプレックスまんまだったわ。一回りも年下の子に。いや先輩として立ててくれたけどさ。そこがまた憎らしい。ここにも書いてる子な。笑いはわたしの方が取ってやったわ。
まさに壊れる前の未麻。ほんと舞台に出てないときでも「光」な子。
「あんな絵に描いたようないい子なんて現実にゃいない」と思うでしょ?
いるんだよ、ほんとに。リアルで。年齢なんか関係なく。おそらく中心気質とかって呼ばれる人たちなんだろうけど。
やっぱアイドルって才能だよ。見た目だけじゃなくて内面の才能も必要。わたしと正反対の才能。まさに「光」と「影」。
でさ、やっぱ思うのは、ああいう人たちが壊れるなら、もっとそれなりの段階があると思うのだよね。ああいう人たちは多重人格になりにくいと思う。自我が乖離しないと思う。
だあってさ、中学生なんて思春期まっさかりの、第二次性徴なんて肉体的変化を伴うもっとも自我が不安定になりやすい時期ですら、自我を確立させてるんだぜ?
なんかな、壊れる前の未麻見て、そのアイドルの卵を思い出しちゃったんだよ。今どうなってるかしらんが。テレビでも見ないからきっといいお嫁さんにでもなってるんだろ。
あの子なら、ストーカーされたりレイプシーンの撮影ぐらいじゃ壊れないと思うんだ。ショックは受けてもすぐ立ち直る。すぐ立ち直るから芸能界なんて生き馬の目を抜く世界でもやってられたんだろうけど。いややってけなかったのか。
「未麻みたいな自我が完成されている子だからこそ、まさに「光」な子だったからこそ、壊れやすいんだ」
バカか。んなの妄想だ。精神疾患は誰でもかかりうるが、かかりにくい人ってのは現実にいるんだ。むしろかかりにくい精神構造をしている人を、人は「光」だとか「輝いている」と言うんだ。「闇」に飲み込まれにくい人。
未麻みたいな子が自分より精神的に強いのがいやだからそんな風に言ってるだけじゃないか?
多分な、今さんは非人格者だと思うんだ。自我が弱い方の人。
だからな、あんな「光」そのものだった時代の未麻を、甘く見ちゃったんだと思う。
今さんみたいなもとから自我の弱い主人公だったなら、あれで十分壊れるのは納得できるけど。
だからな、なんか嘘臭い。わたし個人の主観で。
この映画の中でわたしはどれがいいかって言うと、「毛っぼーんよ、毛っぼーん」の子だな。
あれ? 冒頭の観客とのトラブルで歌えなくなったって子この「毛っぼーん」だったりする? 泣きぼくろの子。調べてないからわからんけど。もしそうならよくできてるな。
自我が弱かったらそら客席でトラブルがあるとすぐ歌えなくなったりするだろうな。
わたしが役者下手だったみたいに。
あ、違うかな。マネージャーかな、わたし。でもわたしは自分から距離取ってたけど。あっちも「感じ悪い」とか言ってたのかもしれんな、裏で。いやそんなこと言わねえのか、「私○○先輩に嫌われているみたいで……」とか言ってさらに人から好感持たれたりするのか。
そんな子だから「光」だった。輝いていた。
「毛っぼーん」の子、友だちだからあれだけど、裏でちょっと劣等感持ってたらよかったのにな。って「毛っぼーん」がその無意識の表出とも言えなくないか。
とか考えながら調べた。違った。ショートカットの方だった。歌えなくなったの。
歌えなくなったのと「毛っぼーん」を一人にして主人公にして、「光」の子に軽い嫉妬を覚えてるシーンとかあったりしたら、説得力あったかもな。自我が壊れていく。
あ、今のままでも、もとのグループが売れていくシーンとか軽い嫉妬を覚える表現があればいいのか。時系列が変わるけど。
まああれだ、「妄想と(ラカン的な意味じゃない一般的な意味での)現実の区別は自明につくものじゃない」ってポモ思想にバッチグーな映画ではあろうな。とつまらないこと言ってお茶を濁しておく。
作品はおもしろい。
つかおもしろい作品になんで文字数費やさなならんのだ。
作品がおもしろいから、「ネットケンカ屋ブログ」として記事がつまんなくなる、って話だ。
エロ寿史のキャラデザもいいよな。よくこんなデッサン取りにくい絵を保てたもんだ。本人ですら崩れたりするのに。素直にギャグマンガ書いとけよメンヘラ漫画家わ。とはいえ一瞬崩れたりしてたけどね、チャムの二人に再会するためにラジオ局に入ったシーンとか。
あとふと思ったんだが、某自閉症当事者が某ママさんと会話してて、「子供の頃友だちに催眠術をかけてかかったことがある」と言って、ママさんはそれを信じられなかったみたいなんだが、そのかかった方って、この未麻やアイドルの卵みたいな子だったんだと思うよ。成長したらアイドルタイプの人格になるんじゃね。絵に描いたような、存在自体が嘘臭いレベルのいい子、できた子に。存在自体が嘘臭いレベルだから素でアイドルをやれる、と。
男性アイドルはともかく、女性アイドルって、アイドルになるような、絵に描いたようないい子って、もともと催眠術にかかりやすいんだと思うな。
ああ、だから犯人の策略に陥っていくのはありなんだな。
でもそれで自我が壊れたりしないんだよ。
テレビの女性アイドルも、催眠術かかってもケロっとしてるだろ? もともと催眠術って精神疾患医療に用いられてたんだぜ? なのにケロっとしている。まあテレビだしかかったフリしてるだけかもしれんけどさ。
自我理想と理想自我の合致というより、無意識と自我が合致している人、だな。
ああそれが中心気質か、わかりやすい。
あと思い出したが、プロダクション社長が言っていたような「ちょびっとばかしお色気ありの」ビデオドラマに友人が出演したことがあるんだよな。
どうだったんだろ。出演してるって聞いたときはもう会ったりしてなかったからわからない。
一般的に言えば「芯の強い子」になると思う。男勝り、じゃないな、勝気って言うの?
でもわたしは、そのアイドルの卵より、こっちの子の方が、自我は弱いと思う。いや、これは精神分析学ぶ以前から思ってたんだ、そのアイドルの卵の方が人間として強いってのは。お色気ビデオドラマの子はわたしと同年代、つまり彼女もアイドルの卵より一回り上なんだけど、わたしは彼女の方が人間として弱いと思っていた。ま、だから友人とは言える関係だったんだけどな。弱い者は弱い者を襲う。
ああ、未麻も、チャムの二人に「未麻姉」とか言われてたけど、そういうちょっと勝気な、自分の意見はしっかり言うような、ちゃんと姐御肌なキャラにしてれば、この構成でも納得できるかもしらん。
あ、むしろこのお色気ビデオドラマの子がマネージャーっぽいな。
そっか、お前ら目の腐ったバカどもはこういう子も「光」と判断しちゃうから、「「光」な子だからこそ傷つきやすいんだ」とか思っちゃうのか。
バカだねー。全然別物だよ、この二つは。
わたしは見分けつくよ。両方ともわたしと比べたら「光」ではあるが、お色気ビデオドラマの子には「闇」が残っている。
あのデブマネージャーだって昔はアイドルだったんだろ。「光」だった。
なんだろうな、今敏レベルならピンとくると思うんだけどな。なんでこんなミスしてるんだろう。
今敏自身が、自我の崩壊を恐れていたからかもしれない。
自我が弱い人ほど自我の崩壊を恐れる。それが他人の目には「我が強い」と映る場合がある。さっきのお色気ビデオドラマの子とかね。
今は、自分の描こうとしている自我の崩壊に本人が恐れていたため、無意識的に、主人公を自我の崩壊しにくいキャラにしてしまったのかもしれない。
まあユング的にこれまでの論をぶち壊して言えばアニマだな。
だから最後のシーンみたいになった、と。
今は自我を壊すことができなかった、と。
うん、このずれがあるから、「すげーおもしろい」んだよな。エンターテイメントとして成立している。
むしろ、ここでわたしが書いている通りに、わたしの自我を壊せる(トラウマを思い出させる)ような演出をされてたら、そら「おもしろい」なんて言えねえわ。エンタメじゃなくなる。
あったりまえだろ? トラウマを思い出すんだから精神的苦痛だ。ストーカー被害のトラウマを惹起させるんだからあたしゃ「セカンドレイプだ!」つって怒っていい作品になる。いや怒らないと思うけど。トラウマになってるとは言えないし。
トラウマってなんだ? 心の傷か?
わたしはそれが心の傷になっているかわからない。自分で自分の傷がわからない。
ストーカー被害だ、って言ってるのは、女性週刊誌などで見聞きした情報をもとに、「あああれはストーカー被害って言っていいんだな」と判断したからだ。
前記事のコメント欄で書いてあるレイプ被害は、それがレイプだと言っていいのかわからない。レイプの定義にあてはまるのか?
だからそれが心の傷になっているかわからない。
確かにいやな思い出ではあるが、別に抑圧したりしていないと思う。飲み屋でギャグ話としてするのは抑圧していることになるのか?
だからわたし解離性障害じゃないと思うんだよなあ。症状は似てるらしいけど。精神科医にそう言われた。
まあ、そんなことは考えさせられますた。
ああ、わたしがきらいだったそのアイドルの卵へのメシウマなのかもしれないな。
ってそんなにきらいなわけじゃなかったけどなあ。蓮實重彦の方がよっぽどきらい。
んー、「ネタバレ」なあ。
そんな謎めいている作品か? これ。ハリウッド的なウェルメイドだと思うけど。
違うの?
このブログで再三繰り返している「狂気の伝染」をテーマにしているとは思うけど、リアルで逆精神分析なんてやってるわたしにとっては、あまり新しい発見はなかった。逆精神分析に役立つような。いやま、未麻みたいなタイプの人、リアルで言うならそのアイドルの卵の子には、逆精神分析は通じにくい、ってことは、直感でわかってたけど言語化できたのは役に立った。
エンタメとしてはすげーおもしろかった。いやおもしろいよ。逆にわたしにとって新しい発見がある作品なんて逆にすげー不愉快な作品になるだろうな。
ま、そんな感じ。
あ、未麻は壊れなかった、のか。全部未麻の演技だったと。だから最後のシーンだと。
それはそれでぶっとびすぎで「詐欺は話が荒唐無稽な方が騙しやすい」って感じでグーだな。
って、これのことか、「ネタバレ」って。
いや、「各事件の真犯人」とかさ、なんて言うかなあ……。
ってのは、まさに「自我とは想像的なものである」かつ「妄想と(一般的な意味での)現実との区分は自明ではない」ってのをテーマにした作品なわけで、この原理の上では、客観世界は、つまり一般的に言われている「現実」は妄想だとなるんだよ。
一人一人の主観世界は違う。客観世界など妄想の産物にすぎない。
したがって、「真犯人」なんてのも妄想の産物だ。一人一人の「真犯人」が違っててもいい。
したがって、「真犯人」なんて誰でもいい。
「妄想と(一般的な意味での)現実との区分は自明ではない」という原理が成り立っている本当の(ラカン的な意味での)現実ではこうなる。
どういうことか。
死因を担う人間を「真犯人」と言うんだろ?
「一般的に言われている現実」ではない本当の現実においては、人間もただの物だ。
この記事から。
=====
「警官に包囲された男が胸を撃たれて、燃え盛る家に戻って煙を吸い込んで、屋根が崩れてエアコンが頭にあたって、死んだ。死因は?」
=====
死因は?
「警官」と言う人もいれば「燃え盛る家」と言う人もいて「煙」と言う人もいるだろうし「屋根」と言う人もいたりしちゃったりしてわたしなんかは最後に出てきたからってだけで「エアコンじゃね」って言うけど。
そうじゃなくても、たとえば誰かが誰かをナイフで刺した。「犯人」は刺した奴だ。しかし死因は「ナイフ」だろ? 物と人間が同じ地平にある世界ではどっちが死因かとは言えない。出血多量で死んだなら、流れ出てしまった血も死因だ。
そもそも「原因」とはなんだ? バタフライエフェクトにはじまりなんてあるのか? 蝶のはばたきは他のバタフライエフェクトの「結果」かもしれないだろ? その犯人を生んだ親が死因だともなりうる。
つまるところ、「真犯人」なんて概念自体が、「鏡に映った想像的な自我」の派生物に、つまり妄想の産物にすぎないんだ。
こんなこと真面目に議論しているこいつら本当にこの作品をおもしろいと思っているのだろうか。
ああおもしろいと思えるのか、ドラマツルギーの王道エディコンの裏面ではあるからな。
アホだなー、こいつらも。
そういう楽しみ方で見たらつまんねえと思うんだが。劇中劇のセリフから今は心理学、精神分析の本を読んでいたことはすぐわかるだろ。
こんなこと考える奴らに精神分析のセンスはないんだろうな。
ああ、そういう楽しみ方で見てるから「謎めいた作品」ってなるのか。
こういう風な見方すんのもったいないと思うけどなー、この作品。ミステリとかのつもりで見てるんだろうな。
あったまかてえ奴らだな。
つか山の手事情社って劇団があって、ストーリーのないパフォーマンス的な、独立したシーンをコラージュ的につなぎあわせた作品を上演しているんだが、まあ主宰が結構な論者で、パネルディスカッションみたいなのもやるんだな。芝居終わったあとに。で、お約束で観客からの質問に答えたりするんだが、そのときある観客が「この芝居のテーマはなんでしょう?」とか聞いてきたんだよな。
アホだろ? って思ったわ。
主宰は「テーマですか」って苦笑してたけどな。
こいつらこの観客みてえ。いやまあ、この作品は山の手の作品なんかよりよっぽどストーリーはあるから、こう考えるのも仕方ないのかもしれんが。そう思うとかわいく見えてくるわ。
あーなんかもう、すげー萎えたわ。こんな奴らと同じにされるなんて。
個人的メモ。
パラノイアと中心気質の違い。
両方ともただの妄想である自我と完全同一化した主体。ラカン的な意味での現実を否認しきれた、棄却できた主体。
ただし、妄想に固執・偏執しているのがパラノイアで、自然体で妄想と同一化できているのが中心気質。
デブマネージャーがパラノイアで、未麻は中心気質。二人とも「光」(だった)。
肩の力が入っているか入ってないか。
肩の力が入っているのがパラノイア。
肛門の力が入っているのがスキゾフレニー。
そうか、ではそれのもとネタはなんだ? まったくのゼロから作りあげた想像なのか?
「違う。それは、いわば鏡に映った自分である」
鏡。そんなものが自我なのか? 私は鏡に映る自分が自我だと思わない。それを見ている私が自我だ。
「違う。それは、生後六ヶ月から十八ヶ月のあいだに生じる想像である」
そんな赤ん坊が鏡を認識しているのか?
「認識していないだろう。ここで言う「鏡」とは比喩的な表現である。「鏡に映る自分」のごとき現象がもととなって生じる想像が、自我だ、ということである」
鏡ではないのか。鏡のような現象を引き起こす何か。それはなんだ?
「まなざしである。まなざしが、「鏡」のごとき現象を引き起こし、自我という想像が生じるのである」
……意味わかんねえな。
『パーフェクトブルー』の主人公未麻は、ドラマでのレイプシーンを引き受けた。帰りの電車の中、窓に映る、アイドルの衣装を着た自分にこう言われる。
「私絶対いやだからね」
鏡に映る自分であり、ファンからまなざされる自分が、自分を批判する。
子供の場合、まなざすのは多くの場合親である。親にまなざされている鏡の中の自分は、大人たちの、いや自分以外の人間たちの輪の中で、認知され確立されている存在である。
なので、それは想像などではない。子供はそう思い込んでいる。
「さすがに親は仰天するだろうけど」
この一連の、いわば「自我が乖離しはじめたシーン」は、まるでラカンを読んでいるかのようですらある。
今敏はラカンを読んでいた、なんて言ってるんじゃねえぞ? フロイトだって、自分が分析し築いてきた理屈体系を詩人たちが直感で把握していることに驚きを隠していない。もしラカンを読んでいなかったら、今はラカンにとっての詩人だった、ってわけだ。
んー、あとはなあ。何を書けばいいのか、書いてほしいのかわからん。
「解釈」っつてもなー。「ネタバレ」っつっても作品内できちんとネタバレしてるじゃん。「犯人は○○」って。
正直多重人格とかは、「自我は想像的なものである」なわけで、想像的なわけだから複数いるのもありなわけだし、もしかしたら他人に憑依(劇中劇では「依代」つってたな)するのもありだ。もしかしたらとか言ったけどむしろこの方が普通だろ。ガキがヒーローになりきって遊んだりするのは、ヒーローという確立された想像的な自我が、そいつに憑依しているわけである。冒頭そんなシーンだったよな。「つまんねー」ってケチつけるガキはそうじゃなかったみたいだが。
また、そもそもが「想像的なもの」であるため、乖離したりするのも普通に起こりえる。現実の、細胞あるいは原子分子の集合体としての自分とは別物なのは明白だろ。
乖離なんて普通にある、まなざすのが親だった場合なら。「この子は勉強ができる子なのよ」とか「この子はとても優しい子なのよ」とか「この子は将来とても美人になるわ」なんて親から押しつけられた想像との乖離。別にどうでもいい他人に別の自分を想像されてもなんとも思わないだろ? それが重荷になるのは親だからだよ。親のするまなざしだから自我の乖離となる。親がどうでもいい他人に近づけば近づくほどそれは軽くなる。自我の乖離じゃなくなっていく。エディプスコンプレックスの寛解、いわゆる(精神的な)親離れだ。
つかこれに精神分析的な解釈をしろってさ、「自我とは想像的なものである」ってことの実体を知らないだけなんじゃねえの? その実体をよく表現できた作品である、としか言えないんだけど。
まあそういう意味で、フロイト派みたいな言い方するなら、全然親殺しじゃないけど、エディプスコンプレックスの裏側なストーリーだよな。
よくできてるわ。これならメジャーウケするだろう。サブカルっぽいけど裏側からエディコンに沿ってるんだから。メジャーの裏面としてのサブカル作品。
あ、作品としてはすげえおもしれえ。ハリウッド映画みたいだな。超ウェルメイド。クライマックスの追いかけっことかまさにそんな感じ。ハリウッドだとあんなレイプシーンは描けねえか。つかアニメじゃないとこんなウェルメイド作れないとか日本映画終わってるな。
今敏って監督については、『妄想代理人』とかもそうだけど、暴力的、残虐的な表現がすげーうまい人だと思う。この作品なら、カメラマンが殺されるシーンで、アイスピックが目に刺さって、ちょっとした間があってから痛がるだろ? あれがリアルだとは言わないが、刺激から痛みになる間を表現しているところに、リアリティならぬアクチュアリティがある。痛みの表現として。あそことか見てて痛かった。
なーんかさ、遺書かなんかを取りあげたスレでさ、まあ確かに感動的な文章だったと思うんだが、今さんをなんかすげー人格者みたいに持ちあげてるバカどもがいたんだよ。アホだなーって思うわ。
んでだなー。
前記事のコメント欄でも書いたが、ストーカーの話ということで、大分身構えてから見ちゃったんだが、そういった点では、ちょっと肩透かしだったわ。
なんだろうなあ。
わたしのストーカー被害はここに書いた通り。
これと同じく、主人公はストーカー、犯人からの妄想を押しつけられているわけだ。アイドル時代の自分、っていう妄想を。
同じだけど、なんか違うんだよなあ。
というのは、前述の「自我の乖離のシーン」で書いたように、ストーリー当初は、主人公はきちんと自我が確立された主体だったからだ。
なんつかなあ。
いやまあ、確かに演劇ってのはポイントなんだよ。劇中と現実が混濁するなんて普通になる。わたし普通に他の人役名で呼んでたし、キャラが抜けなかったもん。最初の頃はね。
で、わたしは何度もこのブログで描いているけど(ママさんちのコメント欄でもちらっと書いた)、役者の作業っていうのは、原則「自我の解体」ってプロセスを踏むと思っているんだよ。仏教のキーワード「無我」になりたかったら役者になれ、ってね。いやまあ、スターになるとアウトだけど。まなざされちゃうから。無我を目指すなら売れない役者がベター、って話か。
んー、そういった意味で、ストーリーの面で、確立された自我が乖離、解体されていくことの説得力はあるんだが……。
なーんかこう、デジャブの繰り返しみたいな、妄想チックな、主観が混乱したシーンがあったでしょ? 後半。あれをさ、ここに持ってくるべきだったと思うんだわ。あれの軽いバージョンを。あそこみたいな演出を壊れはじめるあたりに施すべきだった。
出し惜しみしちゃったのかね。確かにあれはいいシーンだよ。自我が壊れている、壊れかけている主人公の主観を表現するやり方として。
でもなあ、それ以前に壊れてはじめるシーンの方が重要だと思うんだよ。
自我が壊れちゃったらいきつく先は華厳の極楽だ。『パプリカ』とか予告編しか見てないけどあれ「ケバケバしく毒々しい世界」って感じじゃん。
あそこまではいかなくても。
あのクライマックス直前の演出は、あそこでぽん、と出すより、じわじわと、未麻の自我が壊れていく段階から施すべきだったと思う。
まあ、前半は筋書きの説明って役割もあるから、難しいのだと思うけど。
なんだろうな。
慢性的な不安感じゃないんだよな。局所的になっている。あのデジャブ繰り返し演出自体は迷子の不安感を煽るものだ。だけど出し方が局所的だ。
この記事から。
=====
『レディ・イン・ザ・ウォーター』悪評のわりにはおもしろかったな。
わかりやすいサスペンス感はない、あっても完全に型にはまったもので、受取手が裏切られるという不安感はない。
でも、だからこそ漫然とした宙ぶらりんな感じの不安定さが際立っていたと思う。
『シックス・センス』はメジャー向けだろうから別に批判じゃないけれど、アイデア勝負みたいなところがあるじゃん。『ヴィレッジ』も。わたしなんかはああいうのあざといなー、って思うのだよね。
もちろん『レディ~』もあざといというか(ラカン的な意味じゃない)現実味がない。
現実味のなさというか非日常性なのだよな。
キチガイは正常人にとっての非日常性が日常になっているんだよ。
正常人にとっての日常的現実に現実味を感じられない。キチガイたちは。
それが彼らにとっての日常。
そんな感じが滲み出ていたと思う。
わかりやすいサスペンス感がないから安心して見ていられる、のではなく、正常人にとっての突発的な、間欠泉的な非日常性じゃない、漫然とした非日常性が、薄気味悪さみたいなかすかな不安感、宙ぶらりん感を醸し出している。
=====
この比較で言うと、この作品は『レディ・イン・ザ・ウォーター』じゃなくて『ヴィレッジ』だった、とでも言えようか。不安感の配置の仕方が。
そうだね、もっと宙ぶらりん感があった方が、自我が壊れていくことにもっと説得力があったと思う。観客の自我を壊せたと思う。
最初のアイドル時代の未麻は、まなざされる自分と、自分がそうなりたい、なっていく自分が合致している状態じゃん。自我理想と理想自我が合致している。パラノイア。いくら売れてないとはいえ、アイドルになる夢を叶えたまさにその状態。アイドルとして絶頂ではないにしろ、彼女の自我は完成されていた。
そっから自我が壊れていくのが、なんか説得力ない。落差が激しすぎる。
せっかく売れてないって設定なんだから、たとえば親から「夢ばかり見てないで早く帰ってきんしゃい」みたいなこと言われるとか(ありきたりだねごめんね想像力なくて)、そういうシーンがあれば、彼女の自我はそれほど完成されてなかった、自我理想と理想自我は近接していなかった、となるから、まだよかったんだけど。
多分な、今敏自身が、人前に出るような性格じゃなかったと思うんだ。彼はアイドルタイプの人格じゃなかった。
アイドルって強いよ。人間として。やっぱ売れるアイドルはそこそこ人格者なんだ。松田聖子とか。中森明菜は非人格者の方だと思うけど。
それこそ「光」なんだよ。先天的か後天的かわからないけど、できた人なんだ。明菜はどっちかってと「闇」でそ?
あたし中学生のアイドルの卵と共演したことあるんだけどさ、いやまあ、ほんとに嫉妬しちゃうほどできた子なんだよ。中学生女子のくせに人格者なんだ。「光」なんだ。わたしはきらいだった。そのときあたし二十うん歳だったけどほんと劣等コンプレックスまんまだったわ。一回りも年下の子に。いや先輩として立ててくれたけどさ。そこがまた憎らしい。ここにも書いてる子な。笑いはわたしの方が取ってやったわ。
まさに壊れる前の未麻。ほんと舞台に出てないときでも「光」な子。
「あんな絵に描いたようないい子なんて現実にゃいない」と思うでしょ?
いるんだよ、ほんとに。リアルで。年齢なんか関係なく。おそらく中心気質とかって呼ばれる人たちなんだろうけど。
やっぱアイドルって才能だよ。見た目だけじゃなくて内面の才能も必要。わたしと正反対の才能。まさに「光」と「影」。
でさ、やっぱ思うのは、ああいう人たちが壊れるなら、もっとそれなりの段階があると思うのだよね。ああいう人たちは多重人格になりにくいと思う。自我が乖離しないと思う。
だあってさ、中学生なんて思春期まっさかりの、第二次性徴なんて肉体的変化を伴うもっとも自我が不安定になりやすい時期ですら、自我を確立させてるんだぜ?
なんかな、壊れる前の未麻見て、そのアイドルの卵を思い出しちゃったんだよ。今どうなってるかしらんが。テレビでも見ないからきっといいお嫁さんにでもなってるんだろ。
あの子なら、ストーカーされたりレイプシーンの撮影ぐらいじゃ壊れないと思うんだ。ショックは受けてもすぐ立ち直る。すぐ立ち直るから芸能界なんて生き馬の目を抜く世界でもやってられたんだろうけど。いややってけなかったのか。
「未麻みたいな自我が完成されている子だからこそ、まさに「光」な子だったからこそ、壊れやすいんだ」
バカか。んなの妄想だ。精神疾患は誰でもかかりうるが、かかりにくい人ってのは現実にいるんだ。むしろかかりにくい精神構造をしている人を、人は「光」だとか「輝いている」と言うんだ。「闇」に飲み込まれにくい人。
未麻みたいな子が自分より精神的に強いのがいやだからそんな風に言ってるだけじゃないか?
多分な、今さんは非人格者だと思うんだ。自我が弱い方の人。
だからな、あんな「光」そのものだった時代の未麻を、甘く見ちゃったんだと思う。
今さんみたいなもとから自我の弱い主人公だったなら、あれで十分壊れるのは納得できるけど。
だからな、なんか嘘臭い。わたし個人の主観で。
この映画の中でわたしはどれがいいかって言うと、「毛っぼーんよ、毛っぼーん」の子だな。
あれ? 冒頭の観客とのトラブルで歌えなくなったって子この「毛っぼーん」だったりする? 泣きぼくろの子。調べてないからわからんけど。もしそうならよくできてるな。
自我が弱かったらそら客席でトラブルがあるとすぐ歌えなくなったりするだろうな。
わたしが役者下手だったみたいに。
あ、違うかな。マネージャーかな、わたし。でもわたしは自分から距離取ってたけど。あっちも「感じ悪い」とか言ってたのかもしれんな、裏で。いやそんなこと言わねえのか、「私○○先輩に嫌われているみたいで……」とか言ってさらに人から好感持たれたりするのか。
そんな子だから「光」だった。輝いていた。
「毛っぼーん」の子、友だちだからあれだけど、裏でちょっと劣等感持ってたらよかったのにな。って「毛っぼーん」がその無意識の表出とも言えなくないか。
とか考えながら調べた。違った。ショートカットの方だった。歌えなくなったの。
歌えなくなったのと「毛っぼーん」を一人にして主人公にして、「光」の子に軽い嫉妬を覚えてるシーンとかあったりしたら、説得力あったかもな。自我が壊れていく。
あ、今のままでも、もとのグループが売れていくシーンとか軽い嫉妬を覚える表現があればいいのか。時系列が変わるけど。
まああれだ、「妄想と(ラカン的な意味じゃない一般的な意味での)現実の区別は自明につくものじゃない」ってポモ思想にバッチグーな映画ではあろうな。とつまらないこと言ってお茶を濁しておく。
作品はおもしろい。
つかおもしろい作品になんで文字数費やさなならんのだ。
作品がおもしろいから、「ネットケンカ屋ブログ」として記事がつまんなくなる、って話だ。
エロ寿史のキャラデザもいいよな。よくこんなデッサン取りにくい絵を保てたもんだ。本人ですら崩れたりするのに。素直にギャグマンガ書いとけよメンヘラ漫画家わ。とはいえ一瞬崩れたりしてたけどね、チャムの二人に再会するためにラジオ局に入ったシーンとか。
あとふと思ったんだが、某自閉症当事者が某ママさんと会話してて、「子供の頃友だちに催眠術をかけてかかったことがある」と言って、ママさんはそれを信じられなかったみたいなんだが、そのかかった方って、この未麻やアイドルの卵みたいな子だったんだと思うよ。成長したらアイドルタイプの人格になるんじゃね。絵に描いたような、存在自体が嘘臭いレベルのいい子、できた子に。存在自体が嘘臭いレベルだから素でアイドルをやれる、と。
男性アイドルはともかく、女性アイドルって、アイドルになるような、絵に描いたようないい子って、もともと催眠術にかかりやすいんだと思うな。
ああ、だから犯人の策略に陥っていくのはありなんだな。
でもそれで自我が壊れたりしないんだよ。
テレビの女性アイドルも、催眠術かかってもケロっとしてるだろ? もともと催眠術って精神疾患医療に用いられてたんだぜ? なのにケロっとしている。まあテレビだしかかったフリしてるだけかもしれんけどさ。
自我理想と理想自我の合致というより、無意識と自我が合致している人、だな。
ああそれが中心気質か、わかりやすい。
あと思い出したが、プロダクション社長が言っていたような「ちょびっとばかしお色気ありの」ビデオドラマに友人が出演したことがあるんだよな。
どうだったんだろ。出演してるって聞いたときはもう会ったりしてなかったからわからない。
一般的に言えば「芯の強い子」になると思う。男勝り、じゃないな、勝気って言うの?
でもわたしは、そのアイドルの卵より、こっちの子の方が、自我は弱いと思う。いや、これは精神分析学ぶ以前から思ってたんだ、そのアイドルの卵の方が人間として強いってのは。お色気ビデオドラマの子はわたしと同年代、つまり彼女もアイドルの卵より一回り上なんだけど、わたしは彼女の方が人間として弱いと思っていた。ま、だから友人とは言える関係だったんだけどな。弱い者は弱い者を襲う。
ああ、未麻も、チャムの二人に「未麻姉」とか言われてたけど、そういうちょっと勝気な、自分の意見はしっかり言うような、ちゃんと姐御肌なキャラにしてれば、この構成でも納得できるかもしらん。
あ、むしろこのお色気ビデオドラマの子がマネージャーっぽいな。
そっか、お前ら目の腐ったバカどもはこういう子も「光」と判断しちゃうから、「「光」な子だからこそ傷つきやすいんだ」とか思っちゃうのか。
バカだねー。全然別物だよ、この二つは。
わたしは見分けつくよ。両方ともわたしと比べたら「光」ではあるが、お色気ビデオドラマの子には「闇」が残っている。
あのデブマネージャーだって昔はアイドルだったんだろ。「光」だった。
なんだろうな、今敏レベルならピンとくると思うんだけどな。なんでこんなミスしてるんだろう。
今敏自身が、自我の崩壊を恐れていたからかもしれない。
自我が弱い人ほど自我の崩壊を恐れる。それが他人の目には「我が強い」と映る場合がある。さっきのお色気ビデオドラマの子とかね。
今は、自分の描こうとしている自我の崩壊に本人が恐れていたため、無意識的に、主人公を自我の崩壊しにくいキャラにしてしまったのかもしれない。
まあユング的にこれまでの論をぶち壊して言えばアニマだな。
だから最後のシーンみたいになった、と。
今は自我を壊すことができなかった、と。
うん、このずれがあるから、「すげーおもしろい」んだよな。エンターテイメントとして成立している。
むしろ、ここでわたしが書いている通りに、わたしの自我を壊せる(トラウマを思い出させる)ような演出をされてたら、そら「おもしろい」なんて言えねえわ。エンタメじゃなくなる。
あったりまえだろ? トラウマを思い出すんだから精神的苦痛だ。ストーカー被害のトラウマを惹起させるんだからあたしゃ「セカンドレイプだ!」つって怒っていい作品になる。いや怒らないと思うけど。トラウマになってるとは言えないし。
トラウマってなんだ? 心の傷か?
わたしはそれが心の傷になっているかわからない。自分で自分の傷がわからない。
ストーカー被害だ、って言ってるのは、女性週刊誌などで見聞きした情報をもとに、「あああれはストーカー被害って言っていいんだな」と判断したからだ。
前記事のコメント欄で書いてあるレイプ被害は、それがレイプだと言っていいのかわからない。レイプの定義にあてはまるのか?
だからそれが心の傷になっているかわからない。
確かにいやな思い出ではあるが、別に抑圧したりしていないと思う。飲み屋でギャグ話としてするのは抑圧していることになるのか?
だからわたし解離性障害じゃないと思うんだよなあ。症状は似てるらしいけど。精神科医にそう言われた。
まあ、そんなことは考えさせられますた。
ああ、わたしがきらいだったそのアイドルの卵へのメシウマなのかもしれないな。
ってそんなにきらいなわけじゃなかったけどなあ。蓮實重彦の方がよっぽどきらい。
んー、「ネタバレ」なあ。
そんな謎めいている作品か? これ。ハリウッド的なウェルメイドだと思うけど。
違うの?
このブログで再三繰り返している「狂気の伝染」をテーマにしているとは思うけど、リアルで逆精神分析なんてやってるわたしにとっては、あまり新しい発見はなかった。逆精神分析に役立つような。いやま、未麻みたいなタイプの人、リアルで言うならそのアイドルの卵の子には、逆精神分析は通じにくい、ってことは、直感でわかってたけど言語化できたのは役に立った。
エンタメとしてはすげーおもしろかった。いやおもしろいよ。逆にわたしにとって新しい発見がある作品なんて逆にすげー不愉快な作品になるだろうな。
ま、そんな感じ。
あ、未麻は壊れなかった、のか。全部未麻の演技だったと。だから最後のシーンだと。
それはそれでぶっとびすぎで「詐欺は話が荒唐無稽な方が騙しやすい」って感じでグーだな。
って、これのことか、「ネタバレ」って。
いや、「各事件の真犯人」とかさ、なんて言うかなあ……。
ってのは、まさに「自我とは想像的なものである」かつ「妄想と(一般的な意味での)現実との区分は自明ではない」ってのをテーマにした作品なわけで、この原理の上では、客観世界は、つまり一般的に言われている「現実」は妄想だとなるんだよ。
一人一人の主観世界は違う。客観世界など妄想の産物にすぎない。
したがって、「真犯人」なんてのも妄想の産物だ。一人一人の「真犯人」が違っててもいい。
したがって、「真犯人」なんて誰でもいい。
「妄想と(一般的な意味での)現実との区分は自明ではない」という原理が成り立っている本当の(ラカン的な意味での)現実ではこうなる。
どういうことか。
死因を担う人間を「真犯人」と言うんだろ?
「一般的に言われている現実」ではない本当の現実においては、人間もただの物だ。
この記事から。
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「警官に包囲された男が胸を撃たれて、燃え盛る家に戻って煙を吸い込んで、屋根が崩れてエアコンが頭にあたって、死んだ。死因は?」
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死因は?
「警官」と言う人もいれば「燃え盛る家」と言う人もいて「煙」と言う人もいるだろうし「屋根」と言う人もいたりしちゃったりしてわたしなんかは最後に出てきたからってだけで「エアコンじゃね」って言うけど。
そうじゃなくても、たとえば誰かが誰かをナイフで刺した。「犯人」は刺した奴だ。しかし死因は「ナイフ」だろ? 物と人間が同じ地平にある世界ではどっちが死因かとは言えない。出血多量で死んだなら、流れ出てしまった血も死因だ。
そもそも「原因」とはなんだ? バタフライエフェクトにはじまりなんてあるのか? 蝶のはばたきは他のバタフライエフェクトの「結果」かもしれないだろ? その犯人を生んだ親が死因だともなりうる。
つまるところ、「真犯人」なんて概念自体が、「鏡に映った想像的な自我」の派生物に、つまり妄想の産物にすぎないんだ。
こんなこと真面目に議論しているこいつら本当にこの作品をおもしろいと思っているのだろうか。
ああおもしろいと思えるのか、ドラマツルギーの王道エディコンの裏面ではあるからな。
アホだなー、こいつらも。
そういう楽しみ方で見たらつまんねえと思うんだが。劇中劇のセリフから今は心理学、精神分析の本を読んでいたことはすぐわかるだろ。
こんなこと考える奴らに精神分析のセンスはないんだろうな。
ああ、そういう楽しみ方で見てるから「謎めいた作品」ってなるのか。
こういう風な見方すんのもったいないと思うけどなー、この作品。ミステリとかのつもりで見てるんだろうな。
あったまかてえ奴らだな。
つか山の手事情社って劇団があって、ストーリーのないパフォーマンス的な、独立したシーンをコラージュ的につなぎあわせた作品を上演しているんだが、まあ主宰が結構な論者で、パネルディスカッションみたいなのもやるんだな。芝居終わったあとに。で、お約束で観客からの質問に答えたりするんだが、そのときある観客が「この芝居のテーマはなんでしょう?」とか聞いてきたんだよな。
アホだろ? って思ったわ。
主宰は「テーマですか」って苦笑してたけどな。
こいつらこの観客みてえ。いやまあ、この作品は山の手の作品なんかよりよっぽどストーリーはあるから、こう考えるのも仕方ないのかもしれんが。そう思うとかわいく見えてくるわ。
あーなんかもう、すげー萎えたわ。こんな奴らと同じにされるなんて。
個人的メモ。
パラノイアと中心気質の違い。
両方ともただの妄想である自我と完全同一化した主体。ラカン的な意味での現実を否認しきれた、棄却できた主体。
ただし、妄想に固執・偏執しているのがパラノイアで、自然体で妄想と同一化できているのが中心気質。
デブマネージャーがパラノイアで、未麻は中心気質。二人とも「光」(だった)。
肩の力が入っているか入ってないか。
肩の力が入っているのがパラノイア。
肛門の力が入っているのがスキゾフレニー。