「生の欲動に対する防衛」
2010/09/25/Sat
前記事のコメント欄の続き。この記事理解したけりゃ前記事のコメント全部読め。
「生の欲動に対する防衛」ってのは、そこで「礼儀」って書いていることからも、「現実原則」であるのがわかるよな。
「死の欲動は現実原則の原因である」わけだから、矛盾しない。
「生の欲動に対する防衛機制」を、快楽原則の上に置き直した、つまり快楽を保障するためにその機能を再利用したのが、現実原則だ、ってわけ。
こういった「ある機能の再利用」って機械工学にもあるんだよ。車のエンジンとかタイヤ回すエネルギーの余剰分を発電に回してたりする。そういう感じで、「生の欲動に対する防衛」というエネルギー(の余剰分かどうかしらんが)を、現実原則という別の役割を担う機能に回してる、ってわけ。
ちょっとおもしろくね? ってわたしだけだろうけど。自分が知ってる機械工学の発想があてはまってるのがなんかね。
こういうことじゃねえの? 「精神分析とは科学である」って。精神を科学的に見ることって。
だる。
なんか更新しないと気がすまない。
思考実況が強迫的になってんなー。
しばらく停止するか。
生命活動を。
あ、藤田一派はもういいよ。一晩寝たらどうでもよくなった。どうでもよくなったのでどうでもいいです。好きにしてくれ。荒らしてくれても構わん。アク禁にするだけ。
藤田はあれだな、わたしに声かけた時点で、わたしにとっての分析家じゃなくなったな。中野くんみたいに「底が見えた」とは言わないが、「底がありそうだなー」と思うようになってしまった。わたしにとって藤田は(分析家が夢の中で現れるキャラとしての)「マジシャン」じゃなくった。「便器」じゃなくった。要するに藤田に本音は言えなくなった。いや前記事コメント欄はがんばったんだけどね。本音だから「コトバコトバノコトバカリ」になる。でも自閉症の事例を挙げて「死の欲動に対する「防衛」だけじゃない、生の欲動に対する「防衛」」の具体例を挙げているところなんかは、もう本音じゃない。そうだろ、ただのディベート手法じゃん、こんなの。具体事例を挙げて論破するのとか。
このときすでにわたしにとって藤田は「便器」じゃなくなっている。
中坊さんの方が上だったな。わたしにとっての分析家としては。彼のブログは「便器」として非常に有用だった。今はもうだめだけど。
あいや、あのマン汁ババアへの攻撃は続けるよ? あのメスブタに関しては藤田一派とかそんなの関係なく個人に対し殺意が湧いたからな。「もっと隠喩の多い作品が読みたい」なんてのは「私がこんなに愛してあげてるんだから私を愛して」と言っていることと同じ。まさに「欲望しているんだから欲望しなさい」だ。ストーカーと同じ精神構造だ。
自閉症者たちが「生の欲動に対する防衛」として、下手糞ながらも「礼儀」だからとブリコラージュ的にエコラリアの延長で必死に利用している「隠喩」を、みずからの生の欲動の増幅に、マン汁垂れ流し乱交パーティのために利用しようとしているメスブタだ。
あの女なら、キチガイは殺してもいいと思う。
倫理的にそれは許されることだと思う。素で。
このときキチガイは、むしろ倫理を守るために、メスブタを屠殺しているのである。
あ、こういうメスブタとか、キチガイがこんなこと言うと「わたしはキチガイのために殺されるのね」みたいな自己陶酔になりそうだから一応言っておくが、確かにあたしゃお前に殺意を持っているが、他にもいっぱいいるからね、殺意を向けてる人。蓮實重彦とか。殺意度で言えば蓮實の方が上。だけど彼こないだ写真みたら死相丸出しの顔になってたので多少解消されてるけど。「ざまあみろ」ってなもんだ。
他にもいるけど、それはわたしのプライベートが多いので言ってもお前ら知らないだろうから意味ないけど、んー、殺意度は中の上? って感じ?
ま、その程度だから安心しなよ。お前レベルの殺意なら数十人はいる。
体力的に数十人殺すのなんて無理だからな。
つかさ、お前「もっと隠喩が多い作品が読みたい」んだろ? キチガイの被害妄想なんてありゃあまねく言葉に隠喩を読み込んでいるようなことだ。
わたしがお前に殺意を向けていると表明したことで、万が一(まあお前みたいなタイプは「鈍感」だからならないんだろうが)お前がβ要素的な「死の恐怖」に怯えるようになって、精神疾患的に被害妄想を惹起するようになれば、お前は「もっと隠喩が多い作品」を読めることになるだろ? どんな作品でも被害妄想的に隠喩を読み込むようになるだろう。そこで「隠喩が希薄」とされた川上未映子の作品でも。
感謝してほしいぐらいだわ。
え? なんだって、「そんな隠喩はいらない」だって? そりゃ不愉快な隠喩だからな。キチガイたちは自分の被害妄想に苦しんでいる。心的苦痛としての隠喩だからいらないわけだ。
となると、お前は「快楽的な隠喩」を求めているってことになるよな?
ほーら、これこそがお前が生の欲動の増幅として隠喩を欲望している証拠だよ。
「隠喩が少ない」のは作家のせいじゃねえよ。お前自身のせいだ。お前が固定観念がっちがちだからだよ。
なのに作家に「隠喩を多く書け」とお前は言う。
まさにこれこそ「私が欲望しているんだからお前も欲望しなさい」じゃないか。いや命令形じゃないから、「私が欲望しているんだからあなたも欲望して」か。
ストーカーと同じだよんなの。
だから、お前は死ね。
臭えぞお前のマンコ。ちゃんと洗えよ。洗っても無駄なのか、すぐ濡れちゃうから。
「ほーらあたしはこんなに濡れてるのよ、あなたも欲望しなさい」ってか。
野郎にはそれで通じたんだろうがな(笑)。
ああやだやだ。
あ、一応言っとくけど、あたしも川上未映子の作品はあんまおもしろくない。彼女自身についてなぜかかわいい感じがして多少興味があるって程度。いやごめん嘘。あんま興味ない。「興味ないならこんなこと言う資格ないだろ」とか言われそうなのでそんな嘘ついた。
お前みたいな「隠喩を欲望してしまう」マン汁女が、「科学としての精神分析」を、「ペスト」を劣化させるんだよ。
もっと簡単に言ってあげようか? 藤田なんかは「対象aとは屑である。分析家は対象aでなければならない。したがって分析家は屑であるべきだ」なんて思ってるのかもしれないが、わたしはこの言葉甘っちょろいと思うんだよな。新宮一成の言葉、「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」の方が厳密だと思う。「大仰」なんかじゃなくて「厳密」。もし「大仰だろw」と思うなら、これを「大仰」と思えるお前らが「人間らしさ」に執着している証拠だ。
藤田が実践している「遊び人としての屑」は、人間的だろ? そこのコメントでも書いているが、「生真面目な渥美清という役者が演じている寅さん」だ。だから藤田の分析家観は甘っちょろい。
んで。
「もっと隠喩が多い作品が読みたい」なんてのは、とーっても人間的だろ? 隠喩って症状自体がヒトという動物に特徴的な習性なんだから。
お前のそういう発想は分析家じゃない、むしろ分析家から乖離する方向に進んでいる、ってことだ。
そういう症状を持つお前という人間が精神分析に関わること自体が、精神分析を「ペスト」じゃなくならせている。
「隠喩」という「人間らしさ」のキーポイントとなる症状を、科学的に、つまり欲望することなく分析するから、精神分析は「ペスト」たりうる。
余談になるが、ここで自閉症という具体例を考えてみよう。
自閉症は隠喩を利用するのが徹底的に不得手だ。「文脈が読めない」って奴。
しかしだな、わたしが臨床している「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは、読めない隠喩を努力して読もうとしている。
それはなぜか。社会生活を送るためであって、それを欲望しているわけじゃない。構造主義的にではなく機能主義的に不得手な隠喩を利用している。利用を強制されている。
「隠喩を欲望することなく分析している」のは、お前みたいな腐れメスブタなんかより、こういったアスペルガー症候群者たちの方だと、わたしは素で思う。
いやまあ、確かに人間って動物は、隠喩を欲望しちゃうんだよ。正常人であれば。欲望しているから隠喩が上手になる。「好きこそものの上手なれ」だ。
だけどだな、その物を欲望することなく観察するのが「科学的な目」って奴だろ?
だからな、そういう意味でわたしはこう言ったりしている。
「自閉症者は生まれながらの分析家である」とな。
まあ藤田も中野もこのマン汁臭、すなわち生の欲動臭に気づかないなら、分析以前の問題だわな。わたしを分析するなら、だけど。
いやこの女に限らないよ。たまたまこの女のマン汁臭が強烈に鼻についただけで。
世間はマン汁臭に満ちている。生の欲動臭に。
ネトゲだってそうだ。「ハートフル」や「友との絆」を声高に謳うゲームばかりだ。
でもな、「プレイヤー同士で殺しあえー^^」ってゲームも、数は少ないが、あるんだ。
『トラビアン』なんかまさにそうだぞ。これの何がタチが悪いって、一見「村育成ゲーム」の体を扮しているところだ。「村育成」ってのは生の欲動的な要素だ。しかし、ゲーム内では略奪や村を焼け野原にすることが認められている。むしろプレイヤーもそういうゲームとして楽しんでいる。中には「村育成ゲームじゃないの? ちょっと目を離したら村が焼け野原になるなんてひどすぎ! なんですかこの非人道的なゲームは!」なんて風に怒る奴もいる。公式フォーラムにそんな書き込みがときどきある。こういう奴は「生の欲動に執着している奴だ」と言えるわな。まあ他のプレイヤーたちは慣れたもんだよ。「そういう(つまり略奪や戦争を推奨する)ゲームです^^」ってな。
だからまだネトゲ文化にいられている。わたしは。
おい藤田よ、ここ読んでるならそのババアにこのテクスト読ませといて。ツカイッパごめんだけど。
名前は覚えていないが、水野だかなんだかって人とバタイユについての議論をしていて、あんたの未映子ちゃん書評についても触れていた奴だ。BBSで。
ほんと死ね。こういう奴は。
「隠喩が日常生活レベルで重荷になっている」辛さとかわかってねえんだろうな。
そらそうか、「隠喩を欲望している」んだから。辛いわけがないよな。
死ね。マジで死ね。
お前はキチガイに殺されろ。
お前の「隠喩を欲望する症状」が、それが圧倒的大多数であることが、これまで何人のキチガイを殺してきたか。
何人のアスペルガー症候群者が自殺したか。
「欲望されるべき隠喩」に殺されてきたか。
わたしはアスペじゃないし、隠喩は読める。むしろ一般レベルより読めるだろう。舞台役者もやってたし台本も書いたことがある。オムニバスの。
だが、わたしは別に隠喩を欲望していない。わたしにとっての隠喩とは「外国語の翻訳」だ。「外国語の翻訳」だから、藤田にも言われたが「コトバハコトバノコトバカリ」となる。一応言っておくと藤田のこの言葉にもカチンときたが、「コトバハコトバノコトなんてつまんねーよw」という意味だと考えたからだ。「コトバハコトバノコトなんてつまんねーよw」ってのは「隠喩への欲望」の裏返しだろ? 「隠喩じゃないからつまんない」と。そうと解釈できなくはない。だけどまあ藤田の隠喩論とか見てるとわかってそうかなと思えるところもあるので何も言わなかった。
あ、いや、「外国語の翻訳」じゃない隠喩もある。それは大体このブログを見ればわかるだろうが、揶揄や風刺として用いる場合が多い。隠喩構造も一つの理論体系であると考えれば(そもそも構造主義ってのはそういうことだろ)、いわば理論武装としてわたしは隠喩を用いている。隠喩武装。これができるのがわたしとアスペの違いでもあろう。
わたしはそういう生き方しかできない、と素で思っている。
ああ、別に「彼女みたいに隠喩を欲望できる、「好きこそものの上手なれ」な人が羨ましいんだろ?」って言われても構わない。実際これは嫉妬と言われてもおかしかない。
じゃあ言い直そう。わたしは隠喩を欲望できるあなたが羨ましい。
そう言えば死んでくれるのかい?
念を押しとくけど、わたしのあなたへの殺意は、本気だよ?
こういうマン汁女って大概「反省してる」とか言って野郎の欲望を集めるのが上手かったりするんだが、騙されちゃだめだぜ? こういうのに限って次の日にゃ平気な顔でまた隠喩を欲望しはじめるからな。何事もなかったかのように症状が再発する。ま、それも仕方ないんだけどね。隠喩構造ってのは無意識なんだから。「無意識は言語のように構造化されている」。無意識ってことは無自覚ってことだ。自分の症状に無自覚だから次の日平気な顔で症状を再発させる。
だからな、お前みたいなのは死ななきゃだめなんだ。わたしの経験上。
まあお前一人が死んでも圧倒的多数であるのは変わらないがな。
でも死なないよりマシだろ?
あれだ、中沢新一とか「隠喩とはすばらしいものだ」とか満面の笑みで語るんだが、そこまでいくとなんとも思わないんだよな。あそこまで言えるのは逆に少数だろ? だからどうでもいい。わたしも隠喩とは優れたものだと思っているしな。道具として。
だけどこのババアは「隠喩の多い作品を読みたい」だろ? 自然体で隠喩を欲望している。
科学者だって「宇宙とはすばらしいものだ」なんて語るだろ? それは欲望しているゆえの「すばらしい」ではない。
このババアは科学者が宇宙を語るように語っていない。欲望している。
まあ何を「宇宙」と思うかは人ぞれぞれだしな。わたしは物理系だったが宇宙物理にはとんと興味が湧かなかったんだよな。一応なんかわけのわからん単位はもらったけど。素粒子論の方に行った。
中沢にとっての隠喩は「宇宙」だったんだろ。滑稽だね。だから中沢はかわいらしい。
自分に実害のない詐欺師って滑稽でかわいらしい感じしね? なんだっけ、「クヒオ大佐」とか。いやごめん、堺雅人が好きなだけか。「わたしは東京オレンジの頃から堺ちゃんをっ」とか言いたくなったけどやめた(笑)。あの世代の小劇場人としては出世頭だなあ。意外だったな。ジョビジョバの方が売れると思ってたのに。上昇志向? いや悪い意味じゃなくて、「見返してやろうぜ」感みたいなんがジョビジョバにはあった。マギーに、か。堺はそんな感じしなかったけどなあ。まあもともと二枚目だしな。
あ、ごめん独り言。
物語系の芸術なんてな確かに「隠喩を楽しむ」一面があるんだよ。演劇人だったわたしは実感を込めて言える。
だけどだな、このババアは、確かに隠喩を(ラカン論を用いて)分析しているんだが、こういう風に何気なしに言った言葉で「隠喩への欲望」を垂れ流す。
このババアは、隠喩を大事にしていない。
演劇人が、役者が、体感として知っている「隠喩されること」(「物語の中の役を演じること」とほぼ等しい)の重さをきっと知らないのだろう。
もし彼女が舞台役者経験者だったら、「衆目を集めることが快感になっていた」のだろう。それが快感だから「隠喩されること」の重さを重さと思わない。
要するにだ、ヌードダンサーの「見せる技術に費やす労力」を完全に無視して、パンツに札束つっこんでいるババアと同種なんだよ、こいつは。男性ヌードダンサーとか筋肉美だろ? そういった苦労はしていると思うぞ。
いや、札束つっこんでいるババアならいいんだよ。わたしはむしろ観客はそうであってくれと思う。
しかしこのババアは、性根はそうなのに、「いやわたしは男性ヌードダンサーが陰で努力しているのを知っています」なんて口を聞くからだめなんだ。
お前の「男性ヌードダンサーが陰でする努力」へのまなざしは、舞台を見つめるまなざしのままだ。
舞台裏を見るときはそういったまなざしで見てはならぬ。舞台裏の現実を劣化するだけだ。
舞台裏は物語で飾ってはならぬ。大道具や照明や音響たちの「生死に関わる3K職場」という実体が美化されてしまう。
美化してくる奴などそのナグリやゼラケやマイクでぶん殴ってやれ。「舞台裏はそんなに甘かねえんだよ!」と。
あ、一応言っとくけどあたしメインはスタッフだったよ。役者はほんのちょっとだけ。十数演目程度。
お前のまなざしは分析家のまなざしではなく、長椅子の外にあるまなざしだったんだ。そうだろ? 水野だかなんだかと(バタイユの無意識という)「舞台裏」についてとやかく議論していたわけだが、ちょっと話題が変わった瞬間、お前はぽろっと「もっと隠喩の多い作品が読みたい」と言ったんだ。
舞台裏を、舞台上を見るまなざしのままで見ていたことを白状したんだ。
お前の無意識がそういうまなざしであることを、お前は白状したんだ。
そうだろ? なんせ「ぽろっと言ってしまった」ことなんだから、それは無意識、つまりお前の本音だろ?
お前みたいな奴は舞台上だけ見てろよ。「表象文化」だけ語ってろ。お前の無意識的なまなざしはそういうものだ。
つまり、「無意識を科学する」精神分析をやるな、ってことだ。
ああ、死ななくていいや。精神分析やめてくれれば、わたしからは遠ざかる。死んではないけど、わたしの主観世界でこいつを殺す(存在させなくする)のはたやすくなる。
まあ、依頼しているならわたしも多少の労力は払わないといけないよな。
わかった。妥協案として、精神分析やめてくれ。
舞台裏という現実を見る才能のない奴は、最初から舞台裏を見るな。
観客の方が幸福なんだよ。演者より。
ともさかりえの元旦那(離婚してたんだな)が作・演出した『隷族08』もそういう舞台だった。
「いやお前ら俺ら役者を羨ましがるけどさあ、観客の方が幸福なんだぜ? 演劇人は奴隷なんだ。観客の奴隷? いや違うな。ともかく、何かの奴隷なんだ」
ラカン村ではこの「何か」はあっさりこう言えるよな。「役者はまなざしの奴隷だ」って。
こういう現実をあからさまに、舞台上でやったから、「演劇村への報復」になるんだ。「まなざしあいまなざされあう関係」などというものは決して気持ちのいいものや美しいものではない、と舞台上で言ったから。
そういうことだよ。おわかり? マン汁垂れ流すしか脳みそにない脳内精神的セックス主義者のメスブタさんや。
ほんと死ね。やっぱり死ね。
中野雅哉くんや。これでも彼女は「マン汁垂れ流しババアじゃない」と言えるかね?
お前の本性が「精液垂れ流し野郎」だから気づかなかっただけじゃないかね?
もう一度よく考えてみろよ。
舞台上がロケンロールか?
わたしには、舞台裏の方がロケンロールだと思えるな。いやデスメタルとかか。そうだよな、最近の大道具って金属多いし(違)。
よく考えてみろよ。そもそも「ウヨク/サヨク」なんてのも舞台上の物語にすぎんだろうが。
藤田一派ってバカばっかなんだな。
いや、わたしだって「役を演じたい」とぽろっと言うことがある。わたしの主観世界は常に「生死に関わる3K職場」たる舞台裏だからだ。
そんなのいやだから、舞台上に上がりたいときがある。
見るのもいやだから、「隠喩で装飾してくれ」と言うときがある。
しかし、彼女のように、「ぽろっと」、すなわち「無意識的に」「無自覚的に」は言わない。言えない。
その装飾がどんなに重たく痛いものか知っているからだ。
「もっと隠喩が多い作品が読みたい」と言ったことだけが問題じゃない。「ぽろっと」そう言ってしまったことも含めて、わたしは彼女が「マン汁垂れ流しババア」であると判断したわけだ。
精神分析的に、な。
わかるかなー。わかんねえんだろうなあ。
フジタゼミって意外とレベル低そうだし。
つかさー、「隠喩という装飾」だとか「重荷」だとか大仰に言ってるけどさー、女ならわかるはずだろ?
「なんで化粧なんてめんどくさいことしなきゃなんないんだ」って。
それと同じだよ。
知ってるか? 舞台用のドーランって無茶苦茶肌荒れんだぜ? だから舞台終わったらすぐ落とす。あたしマチソワやっただけで肌荒れたもん。もう体質の時点で役者に向いてないという。
未映子ちゃんなんか、無駄毛は日常的に処理しているのに「化粧はしない」って言っているようなもんだから、オヤジたちにウケがいいんだよ。
それに対しお前は「もっと化粧しなさいよ」とか言ってるんだ。
ほれ、「マン汁垂れ流しメスブタ」だろ?
あたしはあれ、無駄毛処理どころかうんこタッパーに入れて送りつけるキチガイだけどな。
わかんねーかなー。
お前脳内ちんちんだろ。女のくせに。いや本当に女性かどうかなんて知らんが。
中野くんなんかは男だから脳内ちんちんでも仕方ない。「化粧という労苦」を、「隠喩されることの労苦」を知らないのも仕方がない。
男は楽だよ。女が「ロケンロール」つっても「無理してるだろ?」とか言われるんだ。相川七瀬とか「無理してロケンロールしてるのがいい」とか言われてるわけだろ(どっかにそんなようなこと書いてあった)? 実物の彼女なんて関係なく、そういう妄想をおっかぶされている。観客たちの脳内でそういう化粧をさせられている。
この化粧は無意識にある。だからこういう観客は、自分が征服者的にそれを強制しているなんて思いもよらないまま、無意識的に、無自覚的に役者に「自分の妄想にすぎない化粧」を陰に暗に強制する。まさにサバルタン。「一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされている」。
アスペルガー症候群者なら男でもこの苦労はわかるだろうな。
どこにも逃げられない「他者の妄想」地獄。たまきんが自閉症当事者本の書評で述べた「他者は地獄だ」。
そうしてアスペたちは自殺する。
隠喩という化粧で窒息死する。
あ、一応言っとくと、これって親子関係そのままなんだよね。「健全な育児」の精神分析による実態でもあるんだ。ここで描いている通り。親にとっては「子供を守ってあげている」という愛情かもしれないけれど、自閉症児にとってそれは「妄想で圧殺されること」である。このとき自閉症児にとっての親は、いくら「きらい」つっても「いやそんなことはないはずだ、お前は俺を愛している」と妄想を押しつけてくるストーカーと同じである。
うん、わたしは悪く描いているけど、こういった精神構造は、世間一般ではむしろ「健全」とされて推奨されていることなんだよ。「まなざしあいまなざされあう関係」ってな。
でもその実体は、フロイトが言った通り、「性的な欲望関係」である。
舞台役者ならピンとくると思うよ。男でも。
観客のまなざしとは、世間的に「健全」とされているまなざしであっても、実は汚らしい性的なまなざしだって。
あ、ごめん「舞台役者なら」とか言ったけどアングラの考え方かもね。サブカルの。
あ、一応念のため言っておくが、この記事は「舞台上の言葉」だよ。
仕方ねえだろ、藤田一派なんて観客がきちゃったんだから。
だからいつもの「思考実況」とは違う。
この記事は独り言じゃない。
まさに「理論武装ならぬ隠喩武装」だ。
それこそ『隷族08』みたいなもんだな。
で、どうだ? 中野雅哉くんや。
これでも「ミス・ショットだ」と言うのかい?
お前の方が「ミス・ショット」じゃないのかい?
お前の目が濁っているだけじゃないかい?
お前はサバルタンのつもりでいるのかもしれないが、実はサバルタンをまなざす征服者なんじゃないのかい?
どうだ?
あ、答えなくてもいいよ。お前はわたしの中でバカだと判断したから、「どうせわかんねえんだろうなあ」ってつもりで言ってる。そういう揶揄。
はあ。疲れた。
あ、脳内反論。
「隠喩が多い作品が読みたい」と言ったのはババアだけじゃない、水野だかなんだかって奴も同じだ。なのにババアだけを攻めているのはおかしい。
アホか。ちゃんと書いているだろ、「お前レベルの殺意なら数十人はいる。」と。
別に水野でもいいんだよ。実際あたしゃここのコメント欄では「BBS連中」ってひとくくりにして攻撃している。そのときのBBSの空気が「隠喩を欲望していた」。そらそうだ、「欲望とは他者の欲望である」なんだろ? これって科学的に言えば「欲望という習性は、人間という種に限って、強く伝染する」ってことだ。
でもこうだと抽象的だろ? 具体的じゃない。
ラカン論の「まなざし」とは「性的な、あるいは征服者的なまなざし」であるってことを主張するなら、相手は女の方が具体的に説明できるだろ? 観客のイメージが具体的になる。劇的になる。これについてはこの記事も参考になるかもね。
演出だよ、演出。
この場合の「演出」ってなこのババアがマン汁垂れ流しながら欲望していた「隠喩」と同じもんだ。
ババアは「隠喩を欲望していた」。だからわたしはババアを演出してあげたわけ。
演出としてたまたまこのババアが主役に選ばれただけ。
ババアはわたしという演出家によって「隠喩される役者」になれたわけ。
報復として隠喩してあげたの。まさに「理論武装ならぬ隠喩武装」。
ババアであるのはたまたまよ。主役が誰になるかはたまたまなの。
ほら、よく言うじゃん。「君だってスターになれるかもしれない!」ってさ。あれ事実だよ。誰がスターになるかってのはたまたまなの。
ここ読んでいるお前だって、いつこの残酷演劇の舞台に上げられるかわかんないよ? 主役として。
中野くんだってそうだよ? もちろん。
でもねえ、君には華がないんだよな。
あ、「華がない」ってのは「役者に、主役に向いていない」ってことだけどね。
そのババアよりかは、無自覚的に隠喩に対する欲望が伝染されていたBBS連中なんかよりかは、わたしにちょっとだけ近い、ってこと。
「ロケンロール」ってそうじゃん。「隠喩なんてまどろっこしいこと糞喰らえ」、「俺様は気遣いなんてなしに、相手がどう思おうが関係なしに、直球で物を言うぜ」、だろ?
隠喩が豊かな歌詞なんてロックじゃねえだろ? んなもな「叙事詩」だろ?
わかるぅ?
あ、だから「ウヨクのためのロックンロール」なのかな? いやその発表内容全然知らないけどさ。
って「ロック」ではくくれないな、これ。「パンクロック」ならいいかも。「隠喩なんて糞喰らえ」になる。
そう、だからさ、この記事でも自閉症に触れてるけど、これは演劇的な記事だから、どうしても「自閉症をダシにする」こととなってしまう。わたしが『アンチ・オイディプス』を批判している理由、「アジテーションのために分裂症者をダシにしている」と同じことをしている。
そう、そうよ。
わたしはあなたたちをダシにしているの。
でも、あなたたちをなるべく舞台上に上げないようにはしてるつもり。
「演じること」という、「隠喩されること」という痛みを、わたしは知ってるから。
わたしはびくびくしながら、自閉症をダシにしている。
この記事の「告発」って、誰を「告発」してるつもりかぶっちゃけちゃうと、あなたたち自閉症をはじめとした未去勢者たちなんだよね。
わたしがしていることは未去勢者を守ることになんかならない。わたしはそう自覚している。むしろこうしたことは「告発」になると。
そういうことよ。
だからやなんだよ。演劇的な記事を書くの。誰かに語りかけるつもりで記事を書くの。
思考実況だけやらせてくれよ。
独り言させてくれよ。
わたしですら「隠喩が豊かな作品」は書けるんだよ、書こうと思えば。
結婚もしてておそらくわたしより人間関係が上手な未映子ちゃんの方が、隠喩を駆使するのは上手いだろうな。
でも隠喩を書かない。「隠喩が使えない」んじゃなくて、使わない。
未映子ちゃんはそういうタイプだと思うんだよなあ。
「他人のことなんて気遣わないで直球で物言うわ」という、一種のパンク的なノリ。
そういう自己演出。
本気で隠喩を使えないのは自閉症者だからな。
あ、わたしは「使えない」でいいけど。使おうと思えば使えるけど、この記事の意味では「社会生活で隠喩を使いまくってたから病んだ」とは言えるし。一時期「物語恐怖症」だったし。ぶっちゃけこれ「隠喩恐怖症」みたいなもんだろ。この記事通りの隠喩なら「化粧恐怖症」でもある。中島みゆきの『化粧』は泣ける。
誰かが「中島みゆきの、世間的に「暗い」と言われている歌こそがパンクである」みたいなこと言ってたけど、そういうことだと思うよ。「隠喩なんて糞喰らえ」がパンク。彼女の歌詞に隠喩を読み込もうなんて奴は中島みゆきをわかっていない、と。
「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど」というセリフを無視して「今夜死んでもいいからきれいになりたい」なんて言葉は成り立たない。彼女が最初から隠喩を駆使していたらこんなセリフは興ざめだ。「エステに何百万と費やす醜いババア」だ。
舞台役者が舞台に立つ瞬間の、本当に「生死の境」と言っても大仰じゃない精神状態。やしきたかじんとか意外にもコンサートで緊張しまくるタイプで、開演前に倒れたって逸話があるが、わたしわかるもん。あれは倒れてもおかしかない。
なあ、脳内ちんちんなマン汁垂れ流しババアや、お前こういった「隠喩されることの重み」をわかってそんなこと言ったのかい?
わたしにはとてもそうは思えない。
だから復讐として、お前を隠喩して、演出してやったんだよ。
「隠喩されること」がどういうものかわかっていないお嬢ちゃまをな。
ああ、こんなこと言うと「ごめんなさい」とか謝ってきそうだけど、謝ってほしいわけじゃないんだよ。
謝るくらいなら、死んで。
それか、こっちも一応妥協してあげて、精神分析をやめるか。
どっちかにしてね。
「あなた才能ないよ」って演出家が言ってあげてるんだから、やめちゃえば?
そんないいもんじゃないんだから。
舞台裏なんていう3K職場を「告発」する道具なんだから。
観客でいる方が、精神なんて分析しない方が、幸福なんだよ。
「隠喩が隠蔽する向こう側」なんて見ない方が、ね。
ああもう、隠喩なしで言ってあげよう。こういうときラカン語って便利ね。
「あなたの無意識は対象aじゃない」
つまり、あなたは無意識レベルから分析家に向いてない、ってこと。
わかりやすく「隠喩で」言ってあげようか?
あなたは川上未映子という、自閉症のように器質的なレベルから隠喩を使えないわけじゃないが、故意に隠喩を使わないで作品を描いている作家に対し、「もっと隠喩を使ってほしい」と思ったわけだ。無意識レベルで。
これってわたしの比喩で言い換えれば、「日常的に無駄毛処理はしているけれども「化粧はしない」ってパンク的なノリで言っている作家に対し、「もっと化粧しなさいよ」とあなたは言っている」ってことだ。
とっても人間的よね。文化的。あなたは無意識レベルから人間的で文化的な人間だ。
さてここで新宮一成の言葉。
「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」
したがって、あなたは無意識レベルから分析家に向いていない、ということになる。
心理カウンセラーとかならいいんじゃね。あれって原則「私ノヨウナ人間的、文化的ナ人間ニナリナサーイ」だから。自己啓発系の講演会なんかも同じ。
あなたのような無意識レベルから精神分析に向いていない人間が精神分析やると、精神分析は大きなダメージを受けちゃうのよ。
向井雅明の言葉も引いちゃおう。
「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。」
確かに精神分析は「対象の紆余曲折」にそぐうために隠喩を多用している。だけどね、それは「対象の紆余曲折」という現実を表現するための、科学的に言えば一種反則技としてやってることなんだ。中井久夫もそうでしょ? キチガイの臨床なんて、日常生活ではちょっと想像しにくい、つまり非常識的な体験を、忠実に伝達するために、文学的な表現を多用している。
あなたみたいに「隠喩を欲望している」わけじゃないの。
あなたのように隠喩を欲望している人がいたら、対象の紆余曲折に沿った紆余曲折は、あなたの欲望で壊れちゃうの。
単純明快な理論じゃないからこそ、もろいの。
だからね、あなたが精神分析やってるだけで、精神分析理論は壊れちゃうの。
あなたの無意識が壊しちゃうの。
キチガイの主観世界なんていう非常識的な世界を説明するための道具が、また一つなくなっちゃうの。まあ別に安永浩の「ファントム理論」やら木村敏の「現象学的精神病理学」やらあるけどね。でもこの二つってキチガイを分析するための道具でしょ? 正常人を分析する、健康な肉体を切り刻むメスとしては、やっぱりラカン論が一番。
隠喩なんてただの道具。
当然精神分析理論もただの道具。分析家のディスクールで真理の位置にくるのは何? S2でしょ? そういうこと。
あ、あなたを説得しようなんて思ってないよ。あなたを排除するためにこんなこと言っているの。わたしの主観世界から。
あなた、精神分析やめなさい。
水野も。
わたしは、キチガイの立場から、つまりクライエントの立場から、つまり「分析主体」として、こう言っている。
「あなたは鏡にならない」と。
あなたという鏡は、欲望で汚れている。
少なくともわたしの「生の欲動に対する防衛機制」を発動させる程度には。
あ、このババアもしかして文学畑なのかな。文学畑として、精神分析理論を用いて、バタイユを論じている、と。
文学畑ならそら隠喩を欲望するわな。そういう奴が文学部に行くわけだろうし。
ごめん、あたしそういうの理解できないんだ。根っからの理系だし。
一応文学部の知人もいないこたないけどねえ。あれだ、「文学部卒の作家の作品はつまらない」とか言われてるらしいじゃん。それって「文学を科学的に研究しているから一般ウケしないんだろうなあ」っていい方に解釈してあげてたんだけど、違うのかもね。「文学を過剰に欲望しているからつまらない」のか。いやその過剰さが突き抜けたら笙野頼子みたいになってはくれるんだろうけど。
そうだよなー。あたし理系と文系が同居している学部にいたんだけど、「文系の方が征服者的欲望(ほらその頃フェミはまってたからこんな表現になる)が強い」って素で思ってたもんな。
ほんと文学者ってバカが多いよな。ここでも書いたけど。
ああそうだ藤田に質問。
フジタゼミとかあんたんちのBBSって、「分析家グループの場所」としてやってるの?
それともあなたという分析家の「臨床素材のネタ庫」としてやってるの?
後者ならああいうのに何も言わないのはわかる。
手術医からメスを奪ったわたしみたいな患者に逆襲されたってだけで、彼女らはただのいい迷惑だ。通り魔みたいなもんだ。
それとも、分析家自身が分析主体となる場所としてやってるの?
それならわたしのこの記事みたいなツッコミ、ありよね。
クライエントこそが分析主体なんだから。
「それ欲望だろ」って言ってあげなきゃ「自分の欲望を認めながら対象を欲望せずに分析する」なんてできないわけで。
つかまあ、ただのなかよしこよしグループなんだろうな。
藤田が向井のグループを批判した通りに。
向井のグループは鏡だったのかもね。藤田グループの。
だから藤田は「お前のグループは鏡として汚れている」と言ったわけか。
わたしゃあんときは確かに向井の無意識は汚れてそうだと思ったが、わたしの方を向いてない鏡だったからどうでもよかったんだが、このコラムとか読むと「わかってそうかなー」って思うんだよ。口だけかもしれんけど。
あれ、わかんなくなったぞ。
正常人同士のこういうのってあわせ鏡だから、「欲望とは他者の欲望である」だから語りにくい。
キチガイは一方通行だからね。そいつの欲望(とすでに言えないが。ジャーゴンじゃなくて一般的な意味で、な)はそいつの欲望。ラカン派の自閉症解釈の通り「鏡像関係の組み込みの失敗例」なわけで。
まあそんなこと言わなくても「(大文字小文字問わない)他者が希薄だから」で済むんだけど。他者が希薄だから「相手がどう思うかわからない」。そのまましゃべるから「相手のことを考えずに直球でしゃべっている」となる。「自閉症とは自開症だ」って奴だ。
めんどくせ。
ごめん後半スルーして。
つかもういいよ、藤田一派は精神分析としてアウト、ってわたしが判断しただけ。
「生の欲動に対する防衛」ってのは、そこで「礼儀」って書いていることからも、「現実原則」であるのがわかるよな。
「死の欲動は現実原則の原因である」わけだから、矛盾しない。
「生の欲動に対する防衛機制」を、快楽原則の上に置き直した、つまり快楽を保障するためにその機能を再利用したのが、現実原則だ、ってわけ。
こういった「ある機能の再利用」って機械工学にもあるんだよ。車のエンジンとかタイヤ回すエネルギーの余剰分を発電に回してたりする。そういう感じで、「生の欲動に対する防衛」というエネルギー(の余剰分かどうかしらんが)を、現実原則という別の役割を担う機能に回してる、ってわけ。
ちょっとおもしろくね? ってわたしだけだろうけど。自分が知ってる機械工学の発想があてはまってるのがなんかね。
こういうことじゃねえの? 「精神分析とは科学である」って。精神を科学的に見ることって。
だる。
なんか更新しないと気がすまない。
思考実況が強迫的になってんなー。
しばらく停止するか。
生命活動を。
あ、藤田一派はもういいよ。一晩寝たらどうでもよくなった。どうでもよくなったのでどうでもいいです。好きにしてくれ。荒らしてくれても構わん。アク禁にするだけ。
藤田はあれだな、わたしに声かけた時点で、わたしにとっての分析家じゃなくなったな。中野くんみたいに「底が見えた」とは言わないが、「底がありそうだなー」と思うようになってしまった。わたしにとって藤田は(分析家が夢の中で現れるキャラとしての)「マジシャン」じゃなくった。「便器」じゃなくった。要するに藤田に本音は言えなくなった。いや前記事コメント欄はがんばったんだけどね。本音だから「コトバコトバノコトバカリ」になる。でも自閉症の事例を挙げて「死の欲動に対する「防衛」だけじゃない、生の欲動に対する「防衛」」の具体例を挙げているところなんかは、もう本音じゃない。そうだろ、ただのディベート手法じゃん、こんなの。具体事例を挙げて論破するのとか。
このときすでにわたしにとって藤田は「便器」じゃなくなっている。
中坊さんの方が上だったな。わたしにとっての分析家としては。彼のブログは「便器」として非常に有用だった。今はもうだめだけど。
あいや、あのマン汁ババアへの攻撃は続けるよ? あのメスブタに関しては藤田一派とかそんなの関係なく個人に対し殺意が湧いたからな。「もっと隠喩の多い作品が読みたい」なんてのは「私がこんなに愛してあげてるんだから私を愛して」と言っていることと同じ。まさに「欲望しているんだから欲望しなさい」だ。ストーカーと同じ精神構造だ。
自閉症者たちが「生の欲動に対する防衛」として、下手糞ながらも「礼儀」だからとブリコラージュ的にエコラリアの延長で必死に利用している「隠喩」を、みずからの生の欲動の増幅に、マン汁垂れ流し乱交パーティのために利用しようとしているメスブタだ。
あの女なら、キチガイは殺してもいいと思う。
倫理的にそれは許されることだと思う。素で。
このときキチガイは、むしろ倫理を守るために、メスブタを屠殺しているのである。
あ、こういうメスブタとか、キチガイがこんなこと言うと「わたしはキチガイのために殺されるのね」みたいな自己陶酔になりそうだから一応言っておくが、確かにあたしゃお前に殺意を持っているが、他にもいっぱいいるからね、殺意を向けてる人。蓮實重彦とか。殺意度で言えば蓮實の方が上。だけど彼こないだ写真みたら死相丸出しの顔になってたので多少解消されてるけど。「ざまあみろ」ってなもんだ。
他にもいるけど、それはわたしのプライベートが多いので言ってもお前ら知らないだろうから意味ないけど、んー、殺意度は中の上? って感じ?
ま、その程度だから安心しなよ。お前レベルの殺意なら数十人はいる。
体力的に数十人殺すのなんて無理だからな。
つかさ、お前「もっと隠喩が多い作品が読みたい」んだろ? キチガイの被害妄想なんてありゃあまねく言葉に隠喩を読み込んでいるようなことだ。
わたしがお前に殺意を向けていると表明したことで、万が一(まあお前みたいなタイプは「鈍感」だからならないんだろうが)お前がβ要素的な「死の恐怖」に怯えるようになって、精神疾患的に被害妄想を惹起するようになれば、お前は「もっと隠喩が多い作品」を読めることになるだろ? どんな作品でも被害妄想的に隠喩を読み込むようになるだろう。そこで「隠喩が希薄」とされた川上未映子の作品でも。
感謝してほしいぐらいだわ。
え? なんだって、「そんな隠喩はいらない」だって? そりゃ不愉快な隠喩だからな。キチガイたちは自分の被害妄想に苦しんでいる。心的苦痛としての隠喩だからいらないわけだ。
となると、お前は「快楽的な隠喩」を求めているってことになるよな?
ほーら、これこそがお前が生の欲動の増幅として隠喩を欲望している証拠だよ。
「隠喩が少ない」のは作家のせいじゃねえよ。お前自身のせいだ。お前が固定観念がっちがちだからだよ。
なのに作家に「隠喩を多く書け」とお前は言う。
まさにこれこそ「私が欲望しているんだからお前も欲望しなさい」じゃないか。いや命令形じゃないから、「私が欲望しているんだからあなたも欲望して」か。
ストーカーと同じだよんなの。
だから、お前は死ね。
臭えぞお前のマンコ。ちゃんと洗えよ。洗っても無駄なのか、すぐ濡れちゃうから。
「ほーらあたしはこんなに濡れてるのよ、あなたも欲望しなさい」ってか。
野郎にはそれで通じたんだろうがな(笑)。
ああやだやだ。
あ、一応言っとくけど、あたしも川上未映子の作品はあんまおもしろくない。彼女自身についてなぜかかわいい感じがして多少興味があるって程度。いやごめん嘘。あんま興味ない。「興味ないならこんなこと言う資格ないだろ」とか言われそうなのでそんな嘘ついた。
お前みたいな「隠喩を欲望してしまう」マン汁女が、「科学としての精神分析」を、「ペスト」を劣化させるんだよ。
もっと簡単に言ってあげようか? 藤田なんかは「対象aとは屑である。分析家は対象aでなければならない。したがって分析家は屑であるべきだ」なんて思ってるのかもしれないが、わたしはこの言葉甘っちょろいと思うんだよな。新宮一成の言葉、「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」の方が厳密だと思う。「大仰」なんかじゃなくて「厳密」。もし「大仰だろw」と思うなら、これを「大仰」と思えるお前らが「人間らしさ」に執着している証拠だ。
藤田が実践している「遊び人としての屑」は、人間的だろ? そこのコメントでも書いているが、「生真面目な渥美清という役者が演じている寅さん」だ。だから藤田の分析家観は甘っちょろい。
んで。
「もっと隠喩が多い作品が読みたい」なんてのは、とーっても人間的だろ? 隠喩って症状自体がヒトという動物に特徴的な習性なんだから。
お前のそういう発想は分析家じゃない、むしろ分析家から乖離する方向に進んでいる、ってことだ。
そういう症状を持つお前という人間が精神分析に関わること自体が、精神分析を「ペスト」じゃなくならせている。
「隠喩」という「人間らしさ」のキーポイントとなる症状を、科学的に、つまり欲望することなく分析するから、精神分析は「ペスト」たりうる。
余談になるが、ここで自閉症という具体例を考えてみよう。
自閉症は隠喩を利用するのが徹底的に不得手だ。「文脈が読めない」って奴。
しかしだな、わたしが臨床している「語れる自閉症」たるアスペルガー症候群者たちは、読めない隠喩を努力して読もうとしている。
それはなぜか。社会生活を送るためであって、それを欲望しているわけじゃない。構造主義的にではなく機能主義的に不得手な隠喩を利用している。利用を強制されている。
「隠喩を欲望することなく分析している」のは、お前みたいな腐れメスブタなんかより、こういったアスペルガー症候群者たちの方だと、わたしは素で思う。
いやまあ、確かに人間って動物は、隠喩を欲望しちゃうんだよ。正常人であれば。欲望しているから隠喩が上手になる。「好きこそものの上手なれ」だ。
だけどだな、その物を欲望することなく観察するのが「科学的な目」って奴だろ?
だからな、そういう意味でわたしはこう言ったりしている。
「自閉症者は生まれながらの分析家である」とな。
まあ藤田も中野もこのマン汁臭、すなわち生の欲動臭に気づかないなら、分析以前の問題だわな。わたしを分析するなら、だけど。
いやこの女に限らないよ。たまたまこの女のマン汁臭が強烈に鼻についただけで。
世間はマン汁臭に満ちている。生の欲動臭に。
ネトゲだってそうだ。「ハートフル」や「友との絆」を声高に謳うゲームばかりだ。
でもな、「プレイヤー同士で殺しあえー^^」ってゲームも、数は少ないが、あるんだ。
『トラビアン』なんかまさにそうだぞ。これの何がタチが悪いって、一見「村育成ゲーム」の体を扮しているところだ。「村育成」ってのは生の欲動的な要素だ。しかし、ゲーム内では略奪や村を焼け野原にすることが認められている。むしろプレイヤーもそういうゲームとして楽しんでいる。中には「村育成ゲームじゃないの? ちょっと目を離したら村が焼け野原になるなんてひどすぎ! なんですかこの非人道的なゲームは!」なんて風に怒る奴もいる。公式フォーラムにそんな書き込みがときどきある。こういう奴は「生の欲動に執着している奴だ」と言えるわな。まあ他のプレイヤーたちは慣れたもんだよ。「そういう(つまり略奪や戦争を推奨する)ゲームです^^」ってな。
だからまだネトゲ文化にいられている。わたしは。
おい藤田よ、ここ読んでるならそのババアにこのテクスト読ませといて。ツカイッパごめんだけど。
名前は覚えていないが、水野だかなんだかって人とバタイユについての議論をしていて、あんたの未映子ちゃん書評についても触れていた奴だ。BBSで。
ほんと死ね。こういう奴は。
「隠喩が日常生活レベルで重荷になっている」辛さとかわかってねえんだろうな。
そらそうか、「隠喩を欲望している」んだから。辛いわけがないよな。
死ね。マジで死ね。
お前はキチガイに殺されろ。
お前の「隠喩を欲望する症状」が、それが圧倒的大多数であることが、これまで何人のキチガイを殺してきたか。
何人のアスペルガー症候群者が自殺したか。
「欲望されるべき隠喩」に殺されてきたか。
わたしはアスペじゃないし、隠喩は読める。むしろ一般レベルより読めるだろう。舞台役者もやってたし台本も書いたことがある。オムニバスの。
だが、わたしは別に隠喩を欲望していない。わたしにとっての隠喩とは「外国語の翻訳」だ。「外国語の翻訳」だから、藤田にも言われたが「コトバハコトバノコトバカリ」となる。一応言っておくと藤田のこの言葉にもカチンときたが、「コトバハコトバノコトなんてつまんねーよw」という意味だと考えたからだ。「コトバハコトバノコトなんてつまんねーよw」ってのは「隠喩への欲望」の裏返しだろ? 「隠喩じゃないからつまんない」と。そうと解釈できなくはない。だけどまあ藤田の隠喩論とか見てるとわかってそうかなと思えるところもあるので何も言わなかった。
あ、いや、「外国語の翻訳」じゃない隠喩もある。それは大体このブログを見ればわかるだろうが、揶揄や風刺として用いる場合が多い。隠喩構造も一つの理論体系であると考えれば(そもそも構造主義ってのはそういうことだろ)、いわば理論武装としてわたしは隠喩を用いている。隠喩武装。これができるのがわたしとアスペの違いでもあろう。
わたしはそういう生き方しかできない、と素で思っている。
ああ、別に「彼女みたいに隠喩を欲望できる、「好きこそものの上手なれ」な人が羨ましいんだろ?」って言われても構わない。実際これは嫉妬と言われてもおかしかない。
じゃあ言い直そう。わたしは隠喩を欲望できるあなたが羨ましい。
そう言えば死んでくれるのかい?
念を押しとくけど、わたしのあなたへの殺意は、本気だよ?
こういうマン汁女って大概「反省してる」とか言って野郎の欲望を集めるのが上手かったりするんだが、騙されちゃだめだぜ? こういうのに限って次の日にゃ平気な顔でまた隠喩を欲望しはじめるからな。何事もなかったかのように症状が再発する。ま、それも仕方ないんだけどね。隠喩構造ってのは無意識なんだから。「無意識は言語のように構造化されている」。無意識ってことは無自覚ってことだ。自分の症状に無自覚だから次の日平気な顔で症状を再発させる。
だからな、お前みたいなのは死ななきゃだめなんだ。わたしの経験上。
まあお前一人が死んでも圧倒的多数であるのは変わらないがな。
でも死なないよりマシだろ?
あれだ、中沢新一とか「隠喩とはすばらしいものだ」とか満面の笑みで語るんだが、そこまでいくとなんとも思わないんだよな。あそこまで言えるのは逆に少数だろ? だからどうでもいい。わたしも隠喩とは優れたものだと思っているしな。道具として。
だけどこのババアは「隠喩の多い作品を読みたい」だろ? 自然体で隠喩を欲望している。
科学者だって「宇宙とはすばらしいものだ」なんて語るだろ? それは欲望しているゆえの「すばらしい」ではない。
このババアは科学者が宇宙を語るように語っていない。欲望している。
まあ何を「宇宙」と思うかは人ぞれぞれだしな。わたしは物理系だったが宇宙物理にはとんと興味が湧かなかったんだよな。一応なんかわけのわからん単位はもらったけど。素粒子論の方に行った。
中沢にとっての隠喩は「宇宙」だったんだろ。滑稽だね。だから中沢はかわいらしい。
自分に実害のない詐欺師って滑稽でかわいらしい感じしね? なんだっけ、「クヒオ大佐」とか。いやごめん、堺雅人が好きなだけか。「わたしは東京オレンジの頃から堺ちゃんをっ」とか言いたくなったけどやめた(笑)。あの世代の小劇場人としては出世頭だなあ。意外だったな。ジョビジョバの方が売れると思ってたのに。上昇志向? いや悪い意味じゃなくて、「見返してやろうぜ」感みたいなんがジョビジョバにはあった。マギーに、か。堺はそんな感じしなかったけどなあ。まあもともと二枚目だしな。
あ、ごめん独り言。
物語系の芸術なんてな確かに「隠喩を楽しむ」一面があるんだよ。演劇人だったわたしは実感を込めて言える。
だけどだな、このババアは、確かに隠喩を(ラカン論を用いて)分析しているんだが、こういう風に何気なしに言った言葉で「隠喩への欲望」を垂れ流す。
このババアは、隠喩を大事にしていない。
演劇人が、役者が、体感として知っている「隠喩されること」(「物語の中の役を演じること」とほぼ等しい)の重さをきっと知らないのだろう。
もし彼女が舞台役者経験者だったら、「衆目を集めることが快感になっていた」のだろう。それが快感だから「隠喩されること」の重さを重さと思わない。
要するにだ、ヌードダンサーの「見せる技術に費やす労力」を完全に無視して、パンツに札束つっこんでいるババアと同種なんだよ、こいつは。男性ヌードダンサーとか筋肉美だろ? そういった苦労はしていると思うぞ。
いや、札束つっこんでいるババアならいいんだよ。わたしはむしろ観客はそうであってくれと思う。
しかしこのババアは、性根はそうなのに、「いやわたしは男性ヌードダンサーが陰で努力しているのを知っています」なんて口を聞くからだめなんだ。
お前の「男性ヌードダンサーが陰でする努力」へのまなざしは、舞台を見つめるまなざしのままだ。
舞台裏を見るときはそういったまなざしで見てはならぬ。舞台裏の現実を劣化するだけだ。
舞台裏は物語で飾ってはならぬ。大道具や照明や音響たちの「生死に関わる3K職場」という実体が美化されてしまう。
美化してくる奴などそのナグリやゼラケやマイクでぶん殴ってやれ。「舞台裏はそんなに甘かねえんだよ!」と。
あ、一応言っとくけどあたしメインはスタッフだったよ。役者はほんのちょっとだけ。十数演目程度。
お前のまなざしは分析家のまなざしではなく、長椅子の外にあるまなざしだったんだ。そうだろ? 水野だかなんだかと(バタイユの無意識という)「舞台裏」についてとやかく議論していたわけだが、ちょっと話題が変わった瞬間、お前はぽろっと「もっと隠喩の多い作品が読みたい」と言ったんだ。
舞台裏を、舞台上を見るまなざしのままで見ていたことを白状したんだ。
お前の無意識がそういうまなざしであることを、お前は白状したんだ。
そうだろ? なんせ「ぽろっと言ってしまった」ことなんだから、それは無意識、つまりお前の本音だろ?
お前みたいな奴は舞台上だけ見てろよ。「表象文化」だけ語ってろ。お前の無意識的なまなざしはそういうものだ。
つまり、「無意識を科学する」精神分析をやるな、ってことだ。
ああ、死ななくていいや。精神分析やめてくれれば、わたしからは遠ざかる。死んではないけど、わたしの主観世界でこいつを殺す(存在させなくする)のはたやすくなる。
まあ、依頼しているならわたしも多少の労力は払わないといけないよな。
わかった。妥協案として、精神分析やめてくれ。
舞台裏という現実を見る才能のない奴は、最初から舞台裏を見るな。
観客の方が幸福なんだよ。演者より。
ともさかりえの元旦那(離婚してたんだな)が作・演出した『隷族08』もそういう舞台だった。
「いやお前ら俺ら役者を羨ましがるけどさあ、観客の方が幸福なんだぜ? 演劇人は奴隷なんだ。観客の奴隷? いや違うな。ともかく、何かの奴隷なんだ」
ラカン村ではこの「何か」はあっさりこう言えるよな。「役者はまなざしの奴隷だ」って。
こういう現実をあからさまに、舞台上でやったから、「演劇村への報復」になるんだ。「まなざしあいまなざされあう関係」などというものは決して気持ちのいいものや美しいものではない、と舞台上で言ったから。
そういうことだよ。おわかり? マン汁垂れ流すしか脳みそにない脳内精神的セックス主義者のメスブタさんや。
ほんと死ね。やっぱり死ね。
中野雅哉くんや。これでも彼女は「マン汁垂れ流しババアじゃない」と言えるかね?
お前の本性が「精液垂れ流し野郎」だから気づかなかっただけじゃないかね?
もう一度よく考えてみろよ。
舞台上がロケンロールか?
わたしには、舞台裏の方がロケンロールだと思えるな。いやデスメタルとかか。そうだよな、最近の大道具って金属多いし(違)。
よく考えてみろよ。そもそも「ウヨク/サヨク」なんてのも舞台上の物語にすぎんだろうが。
藤田一派ってバカばっかなんだな。
いや、わたしだって「役を演じたい」とぽろっと言うことがある。わたしの主観世界は常に「生死に関わる3K職場」たる舞台裏だからだ。
そんなのいやだから、舞台上に上がりたいときがある。
見るのもいやだから、「隠喩で装飾してくれ」と言うときがある。
しかし、彼女のように、「ぽろっと」、すなわち「無意識的に」「無自覚的に」は言わない。言えない。
その装飾がどんなに重たく痛いものか知っているからだ。
「もっと隠喩が多い作品が読みたい」と言ったことだけが問題じゃない。「ぽろっと」そう言ってしまったことも含めて、わたしは彼女が「マン汁垂れ流しババア」であると判断したわけだ。
精神分析的に、な。
わかるかなー。わかんねえんだろうなあ。
フジタゼミって意外とレベル低そうだし。
つかさー、「隠喩という装飾」だとか「重荷」だとか大仰に言ってるけどさー、女ならわかるはずだろ?
「なんで化粧なんてめんどくさいことしなきゃなんないんだ」って。
それと同じだよ。
知ってるか? 舞台用のドーランって無茶苦茶肌荒れんだぜ? だから舞台終わったらすぐ落とす。あたしマチソワやっただけで肌荒れたもん。もう体質の時点で役者に向いてないという。
未映子ちゃんなんか、無駄毛は日常的に処理しているのに「化粧はしない」って言っているようなもんだから、オヤジたちにウケがいいんだよ。
それに対しお前は「もっと化粧しなさいよ」とか言ってるんだ。
ほれ、「マン汁垂れ流しメスブタ」だろ?
あたしはあれ、無駄毛処理どころかうんこタッパーに入れて送りつけるキチガイだけどな。
わかんねーかなー。
お前脳内ちんちんだろ。女のくせに。いや本当に女性かどうかなんて知らんが。
中野くんなんかは男だから脳内ちんちんでも仕方ない。「化粧という労苦」を、「隠喩されることの労苦」を知らないのも仕方がない。
男は楽だよ。女が「ロケンロール」つっても「無理してるだろ?」とか言われるんだ。相川七瀬とか「無理してロケンロールしてるのがいい」とか言われてるわけだろ(どっかにそんなようなこと書いてあった)? 実物の彼女なんて関係なく、そういう妄想をおっかぶされている。観客たちの脳内でそういう化粧をさせられている。
この化粧は無意識にある。だからこういう観客は、自分が征服者的にそれを強制しているなんて思いもよらないまま、無意識的に、無自覚的に役者に「自分の妄想にすぎない化粧」を陰に暗に強制する。まさにサバルタン。「一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされている」。
アスペルガー症候群者なら男でもこの苦労はわかるだろうな。
どこにも逃げられない「他者の妄想」地獄。たまきんが自閉症当事者本の書評で述べた「他者は地獄だ」。
そうしてアスペたちは自殺する。
隠喩という化粧で窒息死する。
あ、一応言っとくと、これって親子関係そのままなんだよね。「健全な育児」の精神分析による実態でもあるんだ。ここで描いている通り。親にとっては「子供を守ってあげている」という愛情かもしれないけれど、自閉症児にとってそれは「妄想で圧殺されること」である。このとき自閉症児にとっての親は、いくら「きらい」つっても「いやそんなことはないはずだ、お前は俺を愛している」と妄想を押しつけてくるストーカーと同じである。
うん、わたしは悪く描いているけど、こういった精神構造は、世間一般ではむしろ「健全」とされて推奨されていることなんだよ。「まなざしあいまなざされあう関係」ってな。
でもその実体は、フロイトが言った通り、「性的な欲望関係」である。
舞台役者ならピンとくると思うよ。男でも。
観客のまなざしとは、世間的に「健全」とされているまなざしであっても、実は汚らしい性的なまなざしだって。
あ、ごめん「舞台役者なら」とか言ったけどアングラの考え方かもね。サブカルの。
あ、一応念のため言っておくが、この記事は「舞台上の言葉」だよ。
仕方ねえだろ、藤田一派なんて観客がきちゃったんだから。
だからいつもの「思考実況」とは違う。
この記事は独り言じゃない。
まさに「理論武装ならぬ隠喩武装」だ。
それこそ『隷族08』みたいなもんだな。
で、どうだ? 中野雅哉くんや。
これでも「ミス・ショットだ」と言うのかい?
お前の方が「ミス・ショット」じゃないのかい?
お前の目が濁っているだけじゃないかい?
お前はサバルタンのつもりでいるのかもしれないが、実はサバルタンをまなざす征服者なんじゃないのかい?
どうだ?
あ、答えなくてもいいよ。お前はわたしの中でバカだと判断したから、「どうせわかんねえんだろうなあ」ってつもりで言ってる。そういう揶揄。
はあ。疲れた。
あ、脳内反論。
「隠喩が多い作品が読みたい」と言ったのはババアだけじゃない、水野だかなんだかって奴も同じだ。なのにババアだけを攻めているのはおかしい。
アホか。ちゃんと書いているだろ、「お前レベルの殺意なら数十人はいる。」と。
別に水野でもいいんだよ。実際あたしゃここのコメント欄では「BBS連中」ってひとくくりにして攻撃している。そのときのBBSの空気が「隠喩を欲望していた」。そらそうだ、「欲望とは他者の欲望である」なんだろ? これって科学的に言えば「欲望という習性は、人間という種に限って、強く伝染する」ってことだ。
でもこうだと抽象的だろ? 具体的じゃない。
ラカン論の「まなざし」とは「性的な、あるいは征服者的なまなざし」であるってことを主張するなら、相手は女の方が具体的に説明できるだろ? 観客のイメージが具体的になる。劇的になる。これについてはこの記事も参考になるかもね。
演出だよ、演出。
この場合の「演出」ってなこのババアがマン汁垂れ流しながら欲望していた「隠喩」と同じもんだ。
ババアは「隠喩を欲望していた」。だからわたしはババアを演出してあげたわけ。
演出としてたまたまこのババアが主役に選ばれただけ。
ババアはわたしという演出家によって「隠喩される役者」になれたわけ。
報復として隠喩してあげたの。まさに「理論武装ならぬ隠喩武装」。
ババアであるのはたまたまよ。主役が誰になるかはたまたまなの。
ほら、よく言うじゃん。「君だってスターになれるかもしれない!」ってさ。あれ事実だよ。誰がスターになるかってのはたまたまなの。
ここ読んでいるお前だって、いつこの残酷演劇の舞台に上げられるかわかんないよ? 主役として。
中野くんだってそうだよ? もちろん。
でもねえ、君には華がないんだよな。
あ、「華がない」ってのは「役者に、主役に向いていない」ってことだけどね。
そのババアよりかは、無自覚的に隠喩に対する欲望が伝染されていたBBS連中なんかよりかは、わたしにちょっとだけ近い、ってこと。
「ロケンロール」ってそうじゃん。「隠喩なんてまどろっこしいこと糞喰らえ」、「俺様は気遣いなんてなしに、相手がどう思おうが関係なしに、直球で物を言うぜ」、だろ?
隠喩が豊かな歌詞なんてロックじゃねえだろ? んなもな「叙事詩」だろ?
わかるぅ?
あ、だから「ウヨクのためのロックンロール」なのかな? いやその発表内容全然知らないけどさ。
って「ロック」ではくくれないな、これ。「パンクロック」ならいいかも。「隠喩なんて糞喰らえ」になる。
そう、だからさ、この記事でも自閉症に触れてるけど、これは演劇的な記事だから、どうしても「自閉症をダシにする」こととなってしまう。わたしが『アンチ・オイディプス』を批判している理由、「アジテーションのために分裂症者をダシにしている」と同じことをしている。
そう、そうよ。
わたしはあなたたちをダシにしているの。
でも、あなたたちをなるべく舞台上に上げないようにはしてるつもり。
「演じること」という、「隠喩されること」という痛みを、わたしは知ってるから。
わたしはびくびくしながら、自閉症をダシにしている。
この記事の「告発」って、誰を「告発」してるつもりかぶっちゃけちゃうと、あなたたち自閉症をはじめとした未去勢者たちなんだよね。
わたしがしていることは未去勢者を守ることになんかならない。わたしはそう自覚している。むしろこうしたことは「告発」になると。
そういうことよ。
だからやなんだよ。演劇的な記事を書くの。誰かに語りかけるつもりで記事を書くの。
思考実況だけやらせてくれよ。
独り言させてくれよ。
わたしですら「隠喩が豊かな作品」は書けるんだよ、書こうと思えば。
結婚もしてておそらくわたしより人間関係が上手な未映子ちゃんの方が、隠喩を駆使するのは上手いだろうな。
でも隠喩を書かない。「隠喩が使えない」んじゃなくて、使わない。
未映子ちゃんはそういうタイプだと思うんだよなあ。
「他人のことなんて気遣わないで直球で物言うわ」という、一種のパンク的なノリ。
そういう自己演出。
本気で隠喩を使えないのは自閉症者だからな。
あ、わたしは「使えない」でいいけど。使おうと思えば使えるけど、この記事の意味では「社会生活で隠喩を使いまくってたから病んだ」とは言えるし。一時期「物語恐怖症」だったし。ぶっちゃけこれ「隠喩恐怖症」みたいなもんだろ。この記事通りの隠喩なら「化粧恐怖症」でもある。中島みゆきの『化粧』は泣ける。
誰かが「中島みゆきの、世間的に「暗い」と言われている歌こそがパンクである」みたいなこと言ってたけど、そういうことだと思うよ。「隠喩なんて糞喰らえ」がパンク。彼女の歌詞に隠喩を読み込もうなんて奴は中島みゆきをわかっていない、と。
「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど」というセリフを無視して「今夜死んでもいいからきれいになりたい」なんて言葉は成り立たない。彼女が最初から隠喩を駆使していたらこんなセリフは興ざめだ。「エステに何百万と費やす醜いババア」だ。
舞台役者が舞台に立つ瞬間の、本当に「生死の境」と言っても大仰じゃない精神状態。やしきたかじんとか意外にもコンサートで緊張しまくるタイプで、開演前に倒れたって逸話があるが、わたしわかるもん。あれは倒れてもおかしかない。
なあ、脳内ちんちんなマン汁垂れ流しババアや、お前こういった「隠喩されることの重み」をわかってそんなこと言ったのかい?
わたしにはとてもそうは思えない。
だから復讐として、お前を隠喩して、演出してやったんだよ。
「隠喩されること」がどういうものかわかっていないお嬢ちゃまをな。
ああ、こんなこと言うと「ごめんなさい」とか謝ってきそうだけど、謝ってほしいわけじゃないんだよ。
謝るくらいなら、死んで。
それか、こっちも一応妥協してあげて、精神分析をやめるか。
どっちかにしてね。
「あなた才能ないよ」って演出家が言ってあげてるんだから、やめちゃえば?
そんないいもんじゃないんだから。
舞台裏なんていう3K職場を「告発」する道具なんだから。
観客でいる方が、精神なんて分析しない方が、幸福なんだよ。
「隠喩が隠蔽する向こう側」なんて見ない方が、ね。
ああもう、隠喩なしで言ってあげよう。こういうときラカン語って便利ね。
「あなたの無意識は対象aじゃない」
つまり、あなたは無意識レベルから分析家に向いてない、ってこと。
わかりやすく「隠喩で」言ってあげようか?
あなたは川上未映子という、自閉症のように器質的なレベルから隠喩を使えないわけじゃないが、故意に隠喩を使わないで作品を描いている作家に対し、「もっと隠喩を使ってほしい」と思ったわけだ。無意識レベルで。
これってわたしの比喩で言い換えれば、「日常的に無駄毛処理はしているけれども「化粧はしない」ってパンク的なノリで言っている作家に対し、「もっと化粧しなさいよ」とあなたは言っている」ってことだ。
とっても人間的よね。文化的。あなたは無意識レベルから人間的で文化的な人間だ。
さてここで新宮一成の言葉。
「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」
したがって、あなたは無意識レベルから分析家に向いていない、ということになる。
心理カウンセラーとかならいいんじゃね。あれって原則「私ノヨウナ人間的、文化的ナ人間ニナリナサーイ」だから。自己啓発系の講演会なんかも同じ。
あなたのような無意識レベルから精神分析に向いていない人間が精神分析やると、精神分析は大きなダメージを受けちゃうのよ。
向井雅明の言葉も引いちゃおう。
「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。」
確かに精神分析は「対象の紆余曲折」にそぐうために隠喩を多用している。だけどね、それは「対象の紆余曲折」という現実を表現するための、科学的に言えば一種反則技としてやってることなんだ。中井久夫もそうでしょ? キチガイの臨床なんて、日常生活ではちょっと想像しにくい、つまり非常識的な体験を、忠実に伝達するために、文学的な表現を多用している。
あなたみたいに「隠喩を欲望している」わけじゃないの。
あなたのように隠喩を欲望している人がいたら、対象の紆余曲折に沿った紆余曲折は、あなたの欲望で壊れちゃうの。
単純明快な理論じゃないからこそ、もろいの。
だからね、あなたが精神分析やってるだけで、精神分析理論は壊れちゃうの。
あなたの無意識が壊しちゃうの。
キチガイの主観世界なんていう非常識的な世界を説明するための道具が、また一つなくなっちゃうの。まあ別に安永浩の「ファントム理論」やら木村敏の「現象学的精神病理学」やらあるけどね。でもこの二つってキチガイを分析するための道具でしょ? 正常人を分析する、健康な肉体を切り刻むメスとしては、やっぱりラカン論が一番。
隠喩なんてただの道具。
当然精神分析理論もただの道具。分析家のディスクールで真理の位置にくるのは何? S2でしょ? そういうこと。
あ、あなたを説得しようなんて思ってないよ。あなたを排除するためにこんなこと言っているの。わたしの主観世界から。
あなた、精神分析やめなさい。
水野も。
わたしは、キチガイの立場から、つまりクライエントの立場から、つまり「分析主体」として、こう言っている。
「あなたは鏡にならない」と。
あなたという鏡は、欲望で汚れている。
少なくともわたしの「生の欲動に対する防衛機制」を発動させる程度には。
あ、このババアもしかして文学畑なのかな。文学畑として、精神分析理論を用いて、バタイユを論じている、と。
文学畑ならそら隠喩を欲望するわな。そういう奴が文学部に行くわけだろうし。
ごめん、あたしそういうの理解できないんだ。根っからの理系だし。
一応文学部の知人もいないこたないけどねえ。あれだ、「文学部卒の作家の作品はつまらない」とか言われてるらしいじゃん。それって「文学を科学的に研究しているから一般ウケしないんだろうなあ」っていい方に解釈してあげてたんだけど、違うのかもね。「文学を過剰に欲望しているからつまらない」のか。いやその過剰さが突き抜けたら笙野頼子みたいになってはくれるんだろうけど。
そうだよなー。あたし理系と文系が同居している学部にいたんだけど、「文系の方が征服者的欲望(ほらその頃フェミはまってたからこんな表現になる)が強い」って素で思ってたもんな。
ほんと文学者ってバカが多いよな。ここでも書いたけど。
ああそうだ藤田に質問。
フジタゼミとかあんたんちのBBSって、「分析家グループの場所」としてやってるの?
それともあなたという分析家の「臨床素材のネタ庫」としてやってるの?
後者ならああいうのに何も言わないのはわかる。
手術医からメスを奪ったわたしみたいな患者に逆襲されたってだけで、彼女らはただのいい迷惑だ。通り魔みたいなもんだ。
それとも、分析家自身が分析主体となる場所としてやってるの?
それならわたしのこの記事みたいなツッコミ、ありよね。
クライエントこそが分析主体なんだから。
「それ欲望だろ」って言ってあげなきゃ「自分の欲望を認めながら対象を欲望せずに分析する」なんてできないわけで。
つかまあ、ただのなかよしこよしグループなんだろうな。
藤田が向井のグループを批判した通りに。
向井のグループは鏡だったのかもね。藤田グループの。
だから藤田は「お前のグループは鏡として汚れている」と言ったわけか。
わたしゃあんときは確かに向井の無意識は汚れてそうだと思ったが、わたしの方を向いてない鏡だったからどうでもよかったんだが、このコラムとか読むと「わかってそうかなー」って思うんだよ。口だけかもしれんけど。
あれ、わかんなくなったぞ。
正常人同士のこういうのってあわせ鏡だから、「欲望とは他者の欲望である」だから語りにくい。
キチガイは一方通行だからね。そいつの欲望(とすでに言えないが。ジャーゴンじゃなくて一般的な意味で、な)はそいつの欲望。ラカン派の自閉症解釈の通り「鏡像関係の組み込みの失敗例」なわけで。
まあそんなこと言わなくても「(大文字小文字問わない)他者が希薄だから」で済むんだけど。他者が希薄だから「相手がどう思うかわからない」。そのまましゃべるから「相手のことを考えずに直球でしゃべっている」となる。「自閉症とは自開症だ」って奴だ。
めんどくせ。
ごめん後半スルーして。
つかもういいよ、藤田一派は精神分析としてアウト、ってわたしが判断しただけ。