「ラカン株式会社」
2010/09/27/Mon
藤田博史が勘違いしてそうなところの続き。
こう、彼、本上まもるブログにコメントしたことがあるんだよな。本上がなんかラカン派の学者(名前忘れた)ともめていた。で、本上は言いたいこと言って「あんたもういいよ」となった。学者はしつこくメールしてきた。
その議論内容は「現代のいじめは死の欲動の表出かどうか」だった。その学者は死の欲動に関する議論で「現代のいじめ」に触れた。それに対し本上は「違う。現代のいじめは死の欲動の表出ではない」と言った。
わたしは本上が正しいと思う。ライトノベル作法研究所という中高生が集まるサイトなどでいじめの話題にも触れたことがあるが、あれは死の欲動の表出とはわたしも思えない。エントロピー増大則としてやっているとは思えない。「異物を排除する」ということはむしろネゲントロピーであり、生の欲動だ。つまり「現代のいじめは死の欲動に対しての防衛だ」となる。
で多分藤田も本上の意見に同調してたんだと思う。表明はしてなかったけど。
本上はその学者がしつこくメールしてくるのに対し「しつこいよ、もうどうでもいいよ」といったような態度を示していた。それについて藤田は、その学者に対し「ネタにマジレス乙だな」(正確な文章は忘れた)といった態度のコメントを残した。
議論内容は確かに本上の方が正しい。しかし、しつこくメールしてくる学者と「しつけえよもういいよ」という態度の本上、これはどちらが正しいというものではない、とわたしは思う。態度に正しいも間違っているもない。いずれかの基準において正しいか間違っているか、である。ただ学者は議論したがっていただけで、本上は議論を切りあげたかっただけ。彼らのディスクールがすれ違っているだけである。
ところが藤田は、議論の内容そのものではなく、本上の態度の方に同調するコメントを残した。本上の態度を正しいとした。
ここがひっかかっていた。
おそらく藤田は、「分析家として、どちらの態度が正しいのか」という判断基準によって、そういうコメントをしたのだと思う。その学者も本上も分析家の資格は持っていなかったのだが。
分析家は確かに欲望を制御しなければならぬ。このときの相手の学者は、本上が指摘していたように、自分の地位や世間体を守るために本上を論破しようとしていた節がある。したがってそれは「他者の欲望である欲望」ゆえの症状だ、と言える。
だから、分析家としては欲望を露出していない本上の方が正しい、となる。
こう考えると、藤田が本上の、議論内容ではない態度に、同調するのはわかる。
要するに、こう考えるならば、この一件における本上や藤田の行動には、何も異論がない、ということだ。
しかし、この一件はこの一件として、藤田が今している勘違いの芽が、ここに出ているように思える。
というのは、藤田は「議論を続けようとすること」自体が欲望の表出だと考えていないだろうか、という点である。
「議論を続けようとする症状」は、すべてが「他者の欲望である欲望」の表出だと言えるだろうか。
わたしにはそうは思えない。
学者同士の議論は、一度熱が入ると、お互い感情的になる。感情的になって当然なのである。それだけ真面目に研究しているのだから。
また専門用語が飛び交うため、門外漢から見るとあたかも宇宙語で議論しているかのようでもある。
こうった学者同士は全員、自分の地位や世間体などを守るため、つまり「他者の欲望である欲望」の表出として、議論しているのだろうか。
そうとも限らない。
むしろ他者なんてどこか遠い世界にいってしまい、表面上激しく議論しているのだが、傍から見ると、世間から乖離した二人だけの閉じた空間になっているときすらある。「folie a deux」あるいは「転移の袋小路」の裏バージョン、とでも言えようか。そこでなされているのが負の転移なだけである。
とはいえここまで議論がエスカレートすることはあまりない。「感情的になるな」というルールは一応学問村のルールとしてあるため、エスカレートしそうになると、どちらかともなく、早々に議論を切りあげる。
わたしは逆にそれがいらいらする。
「感情的になってはいけない」というのが間違っている、というのは大学時代から思っていたことだ。いや片足を演劇界につっこんでいるからそう思えただけだが。
「感情的になれば思考が非合理的になる」というのは、わたしはそうではない、と思える。感情的になればなるほど思考は合理的になっていく、とわたしには思える。態度だけ抜き出して見られるので他人の評価は「非合理的だ」となるだけ。
むしろ感情をまったく排した状態を考えよう。それは重度の鬱病患者の精神状態である。彼はもはや学問をするという気力すらないだろう。
つまり、学者が学問をやるという契機自体が、感情論なのである。
なのでわたしは「感情的になってはならぬ」というルールは、まあいろいろあってそういう風になったただのルールだろう、と考えていた。「ルールはルール」である。
アスペルガー症候群者たちの一群には、スイッチが入ると、まるで何かに取り憑かれたようにしゃべる人たちがいる。
自閉症とは、ラカン派の解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」とあるように、器質的な要因により、主観世界における他者が希薄な個体たちである。
であるならば、彼らがしゃべり続けるその症状は、「他者の欲望による」欲望とは言えない。一般的な語用ならば、その症状は確かに「しゃべりたがっている」という「欲望」として語られるだろうが、精神分析理論における「欲望」にはあてはまらない。理論上齟齬がある。
この齟齬を解消するには、アスペルガー症候群者が「しゃべりたがる」のは「欲動」による、などとしなければならないのだが、これも少し暴論のように思える。
しかしここではこの暴論を採用しておこう。
アスペルガー症候群者のある一群がしゃべりたがるのは、「欲望」ではなく「欲動」による、と。
これを先の「議論がエスカレートした学者同士」に適用させてみよう。
彼らの議論はもはや世間体を気にしていない。彼らの主観世界において他者は希薄化している。
となると、彼らの欲望は欲動に親近している状態だ、となる。
いや、議論相手という他者がいるじゃないか。議論当事者たちは議論相手を鏡像的他者として見ているのではないか。それならば彼らの間にあるのは欲望であり、負の転移である。
これも正しい。実際にそういうときの学者同士は、お互いがお互いを鏡像的他者として見ているように思える。具体的に言えば社会学における羽入-折原論争、ラカン論に連結させるならば『ラカンで読む寺山修司の世界』における寺山と京武久美の関係。
であるならばこのとき彼らは、お互いをお互い欲望しあっているのであり、欲動ではない、となる。
むう、確かにそうだ。
わからなくなってきたのでわたしのフィールドたるアスペルガー症候群の話に戻ろう。
アスペルガー当事者の会にも参加しているある大学教授がこんなことを言っていた。
「自閉症の子たちと話すときは、そっぽを向いて話した方が通じる」
これは斎藤環のこの論文におけるドナ・ウィリアムズの症状、
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この「自閉症者の主体」について考えてみたい。ドナの手記において顕著な傾向として、まさにこの「主体化への恐れ」が挙げられる。原題の Nobody Nowhere にあるように、まさしく彼女は Nobody であることを願い続けてきた。彼女は自らのもっとも好ましい写真として「誰でもない顔のドナ」を挙げている。この「主体化への恐れ」は、さまざまな形で彼女の手記のいたるところに見出されるように思う。
=====
に相当する。ここで述べられている「主体化の恐れ」は、具体的に言い換えれば「顔があるとされることへの恐れ」である。
「そっぽを向いて会話する」ことは、自閉症者たちに「顔があるとされることへの恐れ」を緩和する効果がある、というわけだ。
「そっぽを向かない」ということはどういうことか。見つめられるということである。まなざされるということである。
ここでラカン論の「まなざし」とつながってくる。
通常の社会(精神的に正常な人間たちの集団)は、基本的に「目を見て会話する」社会である。まなざしまなざされあう関係の上に、すべてのコミュニケーションが成り立っている。顔を見ていない、ネット上の言葉だけでの会話でも、人間たちは相手がどのような表情をしているか、想像上でまなざしまなざされあって会話している。
この「まなざしまなざされあう関係」とは、「他者の欲望である欲望」を相互に向けあう関係でもある。まなざしとは対象aである。対象aとは欲望の原因である。
こういったことからも、アスペルガー症候群者たちの会話は、「他者の欲望である欲望」が希薄な会話であることがわかる。むしろ彼らはそういった会話を好むのである。
わたしもアスペルガー症候群者たちと接している。
わたしはこんな風に言うときがある。
「アスペルガー症候群者たちの会話は、独り言の応酬である」
と。
これは先の「自閉症の子たちと話すときは、そっぽを向いて話した方が通じる」という言葉と通じる。
「そっぽを向いて話す」という具体的なやり方を、抽象的に述べたのがわたしの「独り言の応酬」である。
この「独り言の応酬」は、実際のアスペルガー当事者の、マシンガントークを観察したときに生じた表現である。
彼らは確かに多くの言葉数をしゃべっているが、誰かに話しかけているようではない。そのとき自分が気になったことについて、誰かに話しかけるという目的もなく、いわば「自分の思考の整頓」として、それらを言語化しているだけ。そういう風にわたしは見えた。
この「自分の思考を整頓するための独り言」という具体を考えると、わたしには、学者同士議論にもあてはまる場合があるように思える。
学者たちはアスペルガー症候群だとは限らない。なので確かにまなざしあってしゃべっているのだが、相手と会話する目的が希薄に感じられる場合も多々ある。形式上は誰かと会話しているのだが、相手との会話など無視して、「自分の思考を整頓するための独り言」を言っているだけ、という。具体的に言うと複雑系研究者の金子邦彦などにこの傾向は見られた。
他者がいないからそれは(ラカン的な意味での)欲望たりえない。
ではその症状の原因をなんて呼べばよいのか。仮に精神分析理論内の概念、欲動をあてはめよう。
そうやってわたしは「アスペルガー症候群者のしゃべりたがる症状は欲望ではなく欲動である」と述べた。
これは、確かに学者の白熱した、エスカレートした議論すべてに相当するとは言えないだろう。しかし一部には、エスカレートした議論そのものが頻繁にあることではないし、さらにその中の一部というごくごくまれなケースになると思われるが、こういった意味での「欲望ではなく欲動を根拠にした議論」となっているケースがあるのではないか、とわたしには思える。
この「自分の思考を整頓するための独り言」を精神医学的に表現するならば、解離症状に似ている、とも言える。解離症状は確かにアスペルガー当事者のようなマシンガントークではないだろう。しかししゃべらないだけでその内面では他者のいない主観世界を整理整頓しようとしているのではないだろうか。整理整頓する道具が言語かイメージか違うだけで。
一部の学者やアスペルガー症候群たちは言葉という道具を選択した。だから彼らのそれは解離症状とは言いがたい。しかし「他者のいない主観世界に飲み込まれている」という点では、解離症状と共通している、と思われる。
これはわたしのこのブログにおける症状でもあるだろう。わたしは他者のいない主観世界を、言語によって、理論的に整理整頓しようとしている。これは昔からそうであった。わたしは中学高校と数学が好きだったのだが、特に証明問題などを「整形手術」と表現していたことは以前の記事にも書いた。
しかし理論だけじゃ不十分な場合もある。そういった場合イメージを利用することもある。そうやって書いた記事がこれやこれである(他にもあると思うが今ぱっと思いついたのがそれらだっただけ)。
こういった記事を他人事で見ると、確かにわたしの症状は解離症状に似ている、と思える。実際に精神科医からそう指摘されたことがある。またこの記事であるアニメ映画の情報を提供したコメント者は、どうも「脂さんは解離症状について詳しく、自分はこのアニメの主人公は解離症状だと思える。なので脂さんの意見が聞きたい」と考えたらしい。いや確かに「解離性障害のケがあるって言われたことはある」とどっかの記事で書いた記憶はあるけどさー、本人は解離性障害とはまったく別物だと思っているので、多少カチンときたのは今告白しておく。いや怒ってないけど。
解離症状とかわたし実はよくわかってないんだ。
解離症状って一口に言ってもさー、ややこしいと思うよ。文学の中でもっともスキゾイド症状をリアルに表現できているとわたし個人が思えるのが『氷の海のガレオン』って作品なんだが(ライトノベル研究所の誰かから「これスキゾイドだろ」っつわれて薦めてもらった。つまりアスペとか研究しはじめる前の話)、そこにも「解離」って言葉が出てくるしな。あ、ごめん、文庫版同時掲載の『オルタ』の方だった。
作者に多少の心理学の知識はあるのは明白だ。あとがきで「父殺し」「母殺し」とかゆってるし。そういうこともあってか、この主人公がする解離はアスペのマシンガントークとはまったく別物の、典型的な解離症状たる「妄想世界への没入」として表現されている。
「妄想世界への没入」じゃないと思うんだよな。
「ラカン的な意味での現実世界へ、つまり精神病的な主観世界に溺れているのであり、そこで死なないための道具として、イメージや言語という妄想がある」
ってのが厳密だと思う。スキゾイドとアスペルガーの解離症状は。
アスペルガー症候群者のマシンガントークは、一見感情的である。しかし理論的に考えればそれは欲望ゆえの症状ではない。
問題は感情ではないのである。「他者の欲望である欲望」がベースにあるかどうかである。スキゾイドなどは感情が乏しいと言われるが、感情がないわけではない。「まぶしく輝く太陽の下にさらされながら鎧戸を固く閉じている別荘」の中で「祭宴が催されているのである」。
感情が欠如してしまったのはあくまで重度の鬱病患者である。
正常人にもアスペにもスキゾイドにも感情はある。しかし 「他者の欲望である欲望」が、その土台になっているかなっていないかの違いなのだ。
アスペやスキゾイドの感情は、「他者の欲望である欲望」がベースになっていない。したがって彼らの感情は他人への気遣いが欠如したものとなる。むしろスキゾイドの方がまだ気遣っているのだろう。だから「鎧戸を固く閉じている別荘」の中で「祭宴」を催すのである。
ともかくこのように考えれば、アスペのマシンガントークも、スキゾイドの「祭宴」も、「他者が存在しない」という意味での「独り言」だと表現可能である。
感情的か否かが問題なのではない。「他者の欲望である欲望」があるかどうか、すなわち「独り言」じゃないかそうであるか、なのだ。
こう考えると、先の「自分の思考を整頓するための独り言」を言っているだけの学者たちは、一種のアスペやスキゾイドと類似した症状を表している、と言える。
余談だが、スキゾイドを研究していた頃、金子さんのような「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」を考えることがあった。なんか知らんがわたしの周りにはぼつぼついたんだよな。つか東大に多いのかもしれない。だから「社会的に開かれた大学にしましょう」って「東大改革」なんかしなきゃいけなかったんだろうな。
彼らについて、「スキゾイドっぽいけどスキゾイドっぽくないよなあ」と悩んだ時期がある。スキゾイドっぽくないのは症状として明らかなんだ。決して冷たい感じはしない。どちらかと言うと幼児的。無邪気。
だけどわたしはなぜかスキゾイドっぽいと思っていた。
で、スキゾイドとの類似性がよく指摘されるアスペルガー症候群を研究しはじめて、ふとそういった「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」を思い出して、「あ、アスペならイケルじゃん(すまんこんな言い方で)」と思ったんだよな。
それを今詳細に説明しただけ。
「ひきこもり」もちょっと齧ったが、たとえば斎藤環の言う「社会的ひきこもり」とも違う。彼らは心の奥底で社会に参画したがっているんだよね。だけどできないからひきこもる。
一方、「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」は違う。「自分がしたい研究」の邪魔になるから自閉しているだけ。
多くのひきこもりたちは「社会に参画したいけどできない」らしいが(斎藤曰く、な)、「自閉傾向のある学者たち」は「自分たちの研究の邪魔になるからめんどくさい」なんだよ。
明らかに違うだろ?
あるとき、ドードーとらさんというアスペルガー当事者(このブログにもコメントいただいたことがある)と、ひきこもりのネット論者が議論していたんだが、とらさんはこう言い放ったんだな。
「せっかくひきこもれているのに、なぜ社会に対し意見したがるのかわからない」
と。
おそらく議論相手の彼は、心の奥底では社会に参画したがっていたのだろう。だから社会に対し意見したがる。だができないからひきこもっていた。
しかし一方アスペルガー当事者は、そもそも社会に対し重きを置いていない。彼は「学者という肩書き」は持っていなかったが、おそらくわたしが東大で観察した「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」と同様の思考回路だったのだと思われる。
彼らは社会的なことに、そもそも「社会的なるもの」の根源たる他者に、それほど興味がないだけなのだ。
このように見ていけば、たとえばアスペがする「そっぽを向いてする会話」「自分勝手なマシンガントーク」や、一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」は、ラカン的な意味での「欲望」、つまり「他者の欲望である欲望」を根拠にしているとは言えないのがわかる。他者がいないのだから。
藤田博史はここがわかっていないように思える。分析家は確かに欲望を露出させてはいけない。それを実行するもっとも手っ取り早い態度は「語らないこと」である。ディスクールはすべて欲望を根拠にしている。つまり、議論をし続けなければいい。
確かにそうである。しかし、表面上はダイアローグになっていても、当事者の主観世界でモノローグになっていれば、それは欲望が根拠になっていることにはならない。それの具体的事例がアスペルガー症候群者がする「そっぽを向いてする会話」や「自分勝手なマシンガントーク」である。一部の学者がする「自分の思考を整頓するための独り言としての議論」である。
こういった言葉ならば、欲望を根拠にしているとはならない。
こんなことを書くと、
「なんだこの脂って奴は他人を気遣わないでしゃべくり倒してしまう自分の言い訳として書いているだけだろ」
と思われるかもしれないが、それは正しい。一部そういったつもりで書いている部分がないことはない。これはわたしの欲望であろう。「言い訳する相手としての」他者がいる。
そういった意味では、わたしは「このブログは基本独り言だ」と言い続けているが(勘違いしてコメントしてくるバカが多いので)、この記事については、他の記事よりも「独り言」の要素は希薄だろう。モノローグよりダイアローグの要素が強い。実際今ワードパッドを使って書いている。いつもはただのメモ帳を使っているのだが、編集機能が充実しているワードパッドを使って書かなきゃならない記事としてわたしは認識している、ということだ。編集機能が必要ということは文章の体裁を整えなければならないということだ。つまり他者の目を意識している。
仕方ねーだろ、藤田一派に殴りこまれたんだから。
解離症状チックにうわ言を垂れ流していただけなのに、わけのわからん奴らがいきなり話しかけてきた。だからそいつらという他者に向けてわたしは語っている。
先の脳内反論については、「会話はすべて他人を気遣ってされるものでなくてはならない」という思い込みこそが、お前が「他者の欲望である欲望」から逃れられていない証拠なのだ、と反論する。
「思考する者なき思考」がする「思考する者」への反論。
あ、ここ独り言な。
ここで、この記事で触れている「分析家グループ」について考えてみよう。
わたしは分析家ではないし、分析家になりたいとも思わないのであまりこれまで触れてこなかったが、ラカン派ではこの要件についての議論が活発だ。「分析家グループとはどうあるべきか」という。ラカンのゼミ自体が「後進の分析家を育てるための講義」だったことを考えれば、そうなるのも無理はないだろう。
興味はあんまりなかったんだが、少しひっかかることがあった。そういった議論を読み、妄想を付加させて考えると、ラカニアンたちが言う「あるべき分析家グループの姿」ってのは、分析家たちがキチガイになっている状態なんじゃないか、とわたしは思ってしまうのだ。
アホか、と思ったが、「キチガイの主観世界を分析するのが精神分析であるため、そういった主観世界に自分の主観世界を近づけなければならない」とかそういうことかな、と思って微妙に納得したりもしていた。
つかどうでもよかったし。んなことよりわたしはわたしの精神疾患症状の方が重要だ。
そう思っていたところに向井雅明のこのような文章を見つけた。
=====
分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。
(中略)
分析主体として在るということは、ヒステリー的な分裂した主体として自由連想の作業のなかで知を見つけ出していこうと振る舞うことである。
=====
なんだ、わたしの適当な妄想解釈あってたんじゃん、と思った。少なくとも向井の解釈とは合致するだろう、と。
ヒステリーとは現代精神医学では解離性障害となっている。であるならばヒステリー的症状とは解離症状である、となる。
つまり、わたしがこのブログでやっていることこそが、「分析家グループのあるべき姿」なのだ。いやあたしグループじゃないけれど。「一人グループ」? なんじゃそら。
それも当然なのである。向井によると「分析家は分析家グループにおいては分析主体でなくてはならない」となる。分析主体とは具体的に言えばクライエントだ。だからヒステリー的症状なのだ。まあクライエントはヒステリーだとは限らないが、精神分析はそもそもがヒステリー研究からはじまったと言っても過言じゃないし、そのぐらいに考えておけばいいだろう。
わたしがそもそも精神分析を学びはじめた経緯を説明しておく。心を病んでパニック障害と診断されたため、精神医学の本を読み漁りはじめた。とはいえ気まぐれなわたしのことなので、ライトノベル作家の卵たちが集うサイトなどに入り浸ってたりもしていた。そこではじめてラカン理論に触れた。オタク文化評論ではなぜかラカン理論が多用されている(まあたまきんの功績だろうな)。フロイトは演劇人時代にちょこっとだけ齧った(ユングもだけど)。フロイトの読み直しがラカン理論らしい。んじゃオタク文化だけじゃなく、わたしの精神疾患にも適用できないか、という発想で精神分析を学びはじめた。とか言いながら、なんかパニック障害って昔はてんかんの一種だと言われてたらしいし、あたし昔はてんかんだったらしいし、心因性じゃないから精神分析だめじゃん、わたしには適用されないんじゃね、と思ってからも続けてるけどね。
おもしろいんだもん。マジモンのラカニアンってキチガイ臭い人が多いし。どっちかってとラカン村ヲチャみたいなところはある。今では。
それはともかく。
こういった経緯を見ればわかるように、わたしはラカン派の言葉通り、ラカン理論を利用して、分析主体であろうとしている。このブログを「独り言だ」と言うのもこういった理由が一つとしてある。わたしは精神分析されるためにこのブログを書いている部分がある。記事を探せば「ほらわたしを分析してみろよ」といった挑発的な言葉が見つかると思う。
精神分析されるならば、わたしは本音を述べなければならない。いくら世間一般の常識からはずれている事柄であっても、わたしの主観世界に事実としてあったことなら、わたしは書く。どんな詳細なことでも。精神分析がするシニフィアン解釈は、一般的に論旨としてまとめられること以外の部分にも着目して行われる。フロイト曰く「冗談や錯誤行為にこそ無意識は表出する」。
こういったことから、わたしはこの「独り言」を「思考実況」と表現することもある。「実況」なのだから「論旨」などない。「主張」ではないのだから。ただの「事実の伝達」である。詳細に伝達しようとしているのである。
ちなみに、「ほらわたしを分析してみろよ」と書いているが、これは誤りである。一種の挑発として書いているだけで、本当はそんな風に思っていない。その瞬間はそう思っていたことは否定しないが、正直言うと今はそんな風に思えない。
精神分析においては、分析するのはあくまでも分析主体である。つまりクライエント自身が自己分析するわけだ。しかしそれは精神科が固く禁じている「患者がする自己診断」と同じではない。これは精神分析家も同意するだろう。
では、精神分析治療における分析主体がする作業と、「患者がする自己診断」は何が違うのか。
一般的な患者がする自己診断とは、自我を根拠にしたものだ。自我が診断している。自我こそが他者にまなざされて(欲望されて)生じる想像なのだから、それは(ラカン的な意味での)現実ではない。「他者の欲望である欲望」のただの結果として自我がある。一般的な患者がする自己診断には欲望が存在する。多くの場合は「病名」への欲望だろう。
分析主体がする分析は、自我が分析しているのではない。自我でない何かがする作業である。
しかし多くの人は自我から逃れられない。ただの想像の産物を自分だと思い込んでいる。
むしろ自我から離れてしまうのは一種の精神疾患である。解離性障害である。ヒステリーである。
向井の言葉を再度思い出そう。
「分析家は、分析家グループにおいては、分析主体でなければならない。そしてそれはヒステリー的主体としてふるまうことである」
つまり、分析主体とは、自我から解離した存在なのだ。だからクライエントなのである。精神疾患者なのである。
分析家グループにおいて分析家がする語らいとは、解離症状としての語らいなのだ。
であるならば、それこそわたしがもっとも得意とするところである。他者のそういった状態を多く観察してきた。これはわたしが彼らのそういった症状を鏡としていたのだろう。アスペの「自分勝手なマシンガントーク」や、一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」は、実はわたしがしていたことなのだ。今はそう自覚している。だからわたしは周囲から腫れ物のように扱われてきた。わたしの会話には他者が存在しないから。一種の解離症状的に会話してしまうから。
得意なんかじゃない。そんなのわたしはいやである。しんどい。心的苦痛を悪化させる。被害妄想や予期不安が増幅する。そうである。自我から解離することなどいいことではない。だから精神疾患なのだ。心的苦痛を訴えるから。
向井たちのグループは、そうなっているのだろうか?
あそこで議論している精神科医たちは、本物のメンヘラであるわたしのように、被害妄想や予期不安が増幅しているのだろうか?
「いやふるまっているだけだから^^;」
もしそんなこと言ってきたら、わたしはそいつを殺してしまうかもしれない。
こんな風に考えると、藤田が向井グループの掲示板に殴り込んだときの、あの向井の過剰とも思える反応も、理解できなくはない。
「ふるまうこと」は侮れない。役者をやってきたわたしは実感を込めてそう言える。役者はそのときその役という「生」を生きている。この「生」こそラカン派が考える「生」である。
「生きる意味とは、意味を生きることである」
芝居が終わってもその役が自分の中にいる。わたしは自分が誰なのかわからなくなる。他の役者を役名で呼ぶことなんて普通。つか名前ってそんなに重要なこと? わたしがその役であった方がいいんでしょ? 自分が本当かどうかなんてそんなに重要なこと?
余談になるが、こういった「役者の自我の不安定化」は映画などでは結構手垢にまみれた題材ではある。しかし『パーフェクトブルー』はこのあたりを、一般的な現実に対し、ではなく、ラカン的な意味での現実、すなわちキチガイの主観世界に対し、忠実に表現できていたと思う。あの演出は常識的に考えればフィクショナルであるが、実際に役者を経験しその後精神を病んだ(なので主人公と順序が異なるが)わたしから言わせれば、ドキュメンタリータッチである、などと言いたくなる。
「詩人の言葉を劇的にするのは観客自身である」
おそらく向井は、他のグループ員は知らないが、あの場所において、分析主体に、ヒステリー主体になりきっていたのだろう。ただの演技であるとはいえ、それに親近した精神状態だったのだろう。
自我から解離することとは、雹が降りしきる中を丸裸で歩くようなことである。自我とは鎧なのである。
ラカンの教えの通り、自我という鎧を多少なりとも脱いでいた向井は、だからあのような過剰な反応をしたのではないか。
向井ばかり持ち上げている(ことになるのか(笑)?)ように思われるかもしれないが、わたしはあのときの藤田も、ヒステリー的主体だったと思える。向井はそのときの藤田を精神病になぞらえていたが、然りである。彼は正気ではなかった。正気ではない演技をしきれていた。
つまり、あのときの二人は、「分析家が分析家グループにおいてあるべき姿」として、もっとも評価されうる状態だったのである。
しかし世間はそう評価しないだろう。「ただの醜い言い争いだ」などと。ここのコメント欄でもわたしの知人が「知的水準の高い人達が小学生並みの脊髄反射でぐだぐだしている」と書き込んでいる。彼がそれで「悲しくなった」のが問題なのであって、それを考えなければ彼のこの表現は的を射ているなと今は思う。わたしは一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」について「幼児的」と表現している。
「幼児的だと何が問題なのだろう。他人からバカにされたり信用されなくなるから? ただそういうことなだけじゃん」
このときの向井と藤田のディスクールにおいて、他者は希薄だったと言えよう。
このディスクールは「他者の欲望である欲望」を根拠にしたものではない。
以上が、わたしが考える「分析家グループ」である。
これをもとに、藤田グループと向井グループを観察してみよう。
向井グループの掲示板は今は一般公開されていないが、藤田が殴り込んだ以降も一般公開されていた。
そのときの掲示板を見る限り、向井グループ員の一部は「独り言」をしゃべれていたように思える。自分勝手に思ったことを自分勝手にしゃべっていた。まとまりがなかった。一つのテーマの直後に別のテーマが提出されたりしていた。とはいえ何人か会話したがり屋がいたのも事実だ。
藤田グループは。BBSは公開されている。藤田殴り込み事件以降、ある期間観察していた。荒らされていたりした。
しかしどうも、そこでのコメント者たちは、独り言を言えていないように思えた。というのは、ある一つ一つのテーマについて、コメント者たちの関心は集中されていた。たとえばバタイユ論。つまり会話としてまとまりがあった。
こういった「会話したがり屋」は向井グループにも藤田グループにもいる、というだけのことである。
一方、「ヒステリー的主体として、解離症状的にコメントできているコメント者」は、少数だが、向井グループの方にはいたように思える。
こういった「会話したがり屋」の象徴として、あるコメント者のある言葉がわたしの逆鱗に触れた。
「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」
バタイユや川上未映子などという作家たちについての議論の中にあったものである。
隠喩とは解離症状として述べる言葉ではない。「他者の欲望である欲望」が隠喩を構築する。「他者の欲望である欲望」が言語に影響して生じる症状が隠喩であり、イメージに影響して生じる人間の根源的症状が自我である。
この言葉についてはこの記事で分析した。この分析を採用するばらば、もはや彼ら彼女らの無意識が、分析家グループとしてなりたっていないことの証明となっているのだ。
したがって、無意識レベルでの判断で、「分析家グループ」としては、向井グループの方が厳密なのではないか、とわたしは考える。
しかし藤田は、自身のBBSやフジタゼミが、「分析家グループの場」だとは表明していない。わたしの知る限り。
もし違うのであればわたしの指摘は意味がない。
藤田は、それらを「分析家グループの場」として設けたのかどうか、表明すべきではないだろうか。
少なくともゼミに誘われたわたしは、藤田にこう質問する権利はあると思う。
「あなたのBBSやフジタゼミは、「分析家グループの場」としてあるのかどうか?」
あ、だからと言ってここのコメント欄とかで表明すんなよ? わたしにとってお前はすでにただの邪魔な存在だ。自分のサイトでちゃんと表明しろよな。わたしと会話したいならそれこそ「そっぽを向いて」会話してくれ。
わたしは確かに分析家ではない。資格など持っていないただの素人だ。藤田博史は資格のある分析家だ。
しかしわたしは、「ふるまう」までもなく分析主体だ。
イメージで語ってみよう。
まあ正直、「ふるまう」までもない分析主体から言わせれば、向井んちも藤田んちもどっちもどっちなんだよね。ぜーんぜん解離できてないじゃん、て。ぜーんぜん「人間から隔たって」なんかいない。新宮の言葉「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」は便利ね。
お前らすんげえ人間的だし文化的。
でもな、向井はそういうコラム書いているわけだし、ちょっとはちゃんと「独り言」になっている人もいたから、まあ努力はしているんだろうな、とは思う。
でも藤田グループはそういうことに気づいてすらいないように思える。もしそれが「分析家グループ」のつもりなら、だけど。だから「あんたんち「分析家グループ」のつもりでやってるの?」と聞いてしまう。そういうの目指している素振りすらないんだから、こう聞いちゃうのも無理ないでしょ?
確かにさ、向井んちの方が本職の精神科医が多いんだ。藤田んちは素人が多い。わたしも素人だけど。
もしかして藤田って、「素人が多いうちこそが「分析家グループ」らしい」とか思っているんじゃないだろうか。「社会的な肩書きという象徴界から解放されているうちのグループの方が分析家グループとしてあるべき姿だ」的な。
なんかな。
彼はBBSで、対象aを説明するとき、「聖人としての屑」という言葉を吐いた。
こりゃ間違っちゃいない。
だからって、「フリーターとか社会的に屑っぽい奴らが集まっているグループこそが分析家グループ」なわけじゃない。
社会的肩書きの問題なんかじゃない。そうだよな、藤田が向井に向けた文句「お前毛沢東主義だろ」も、社会的な問題についての指摘だよな。
藤田それ、お前自身の症状じゃね?
向井が鏡になってたりしね?
確かにお前は「毛沢東主義者」なんかじゃないだろう。
だけど「毛沢東主義」などという発想の仕方、つまり社会的な問題に興味が向いてしまうお前の症状の表れじゃね?
木村敏風に言えば、お前のポスト・フェストゥムな無意識の表れじゃね?
ちげーよ。
かと言って想像界に興味を向ければいいってもんじゃねえぞ? そら巷の「抑圧シテイル快楽ヲ解放シマショーウ!」(あこれ『BONES』ってドラマのキャラのセリフからな。アメリカにおける心理カウンセリングの一般的な認識だと思って)なんて日米主流の心理カウンセリングだ。
象徴界や想像界の向こうにあるのが問題なんじゃねえの?
ナマのエスが。
そうじゃん、お前前後の文脈とか関係なしにいきなり「精神病は転移するか否か」なんて議題を提出したよな。
これってさ、どうしても社会的なことに興味を向けてしまう、フジタゼミの発表内容にもそれが表出している、お前自身の症状への、反抗だったんじゃないか?
現実界を棄却している自分への反抗だったんじゃないか?
お前のエスがお前という人格に反抗したんじゃないか?
ラカンの教えの通り、ヒステリー的主体になれたからこそ、お前のエスがしゃべり出したんじゃないか?
うん、やっぱあのときのお前は「分析家グループにおける分析家」だったよ。
逆に言えばさー、これって、お前自身が、自分のグループが「分析家のグループ」ではなく、向井んちの方がそうであると認めていることにならないか?
そういう意味では、藤田グループって「分析家のグループ」というより、「精神分析の営業サロン」のように思えちゃうんだな。「分析家のグループ」じゃない、「精神分析を世間に広めるための場」みたいな。フジタゼミの内容もそんな感じだし。実際の精神疾患がテーマになってるのあんまないよな。アートとか社会学的な話題が多い。いやよくわかんないけどさ。
営業ではないか。営業はむしろ分析家の資格を持っていないたまきんの方がうまくやれている。
なんだろう、カスタマーサービスとかアフターサービスとか。
わかった。
「ラカン株式会社」における営業部門が斎藤環、その隣にあるカスタマーサービス部門が藤田グループ。向井グループはあれか、ちょっと技術部門より、って感じか。
まーそんな感じー。
これはあれだ、ラカン村ヲチャとしての戯言な。
藤田はカスタマーサービスやりたいの? なら分析家って肩書き捨てちゃえば? たまきんとか分析家じゃないからこそあんなに営業成績上げられてるんだと思うよ。
藤田くん、君は何をやりたいの?
つかさ、ヲチャとしてもうラカン村にゃ飽きてるんだから、ちょっかい出してこないでくれるかな?
ほんとうざいんだけど。
この記事であたし「精神疾患にかかりにくそうな人」っての思い出して「うわあああ」になっているだろ?
これと今わたしがフィールドワークしているネトゲ文化で共通する何かがあった気がしたから、それについて思考めぐらしてて、記事も途中まで書いてたんだけど、おしゃかだよ。
そんなにまでお前らわたしを分析主体のままでいさせたいのか?
わたしはいやだっつってるだろ? こんな辛いのはもういやだと。
ふざけんな。死ね。ほんと死ね。
「精神疾患にかかりにくそうな人」と関与したときの自己分析が進めば、多少はわたしは回復に向かったかもしれないだろ?
自覚はあったんだよ。もしかしたらこれでわたしはわたしが今一番きらいな連中が、どうしてそうなっているのか、ほんの一部だけかもしれないがわかって、その一部を自分に適用できたかもしれないって。
要するにわたしは、過去の幻影にすぎないその「精神分析にかかりにくそうな人」たるほとんど一回りも年下のアイドルの卵に、転移しかけたんだ。
それなのにわたしの顔をつかんでぐりっと別の方向に向けた。
お前らはわたしの回復に一瞬だけ向かった矢先、後ろを振り向かせたんだぞ?
だから顔なんていらないんだ。
お前ら治療者じゃねえの?
わたしが提唱する逆精神分析やってるじゃん。「症状を悪化させる精神分析」を。
精神分析家は一応治療者なんだろ?
藤田博史、お前は分析家失格だ。
逆精神分析家なら合格だ。
ほんとやめろよ。
単に間が悪かっただけ? その通りだ。
だからお前は合格だ。
偶然の出来事だからこそ、お前は逆精神分析家として合格だ。
藤田は嘘だとか思ってるのかね。わたしが「心的苦痛に苦しんでいる」っての。
今日とかゲロ吐いたのにな。頭痛いし。予期不安っぽいのもあるけど泣かないからこれはそうとは言えないか。それほどでもない。
死にたい。
経緯を説明する。
この記事を書いたときのわたしは、少なくとも今より調子はよかった。
調子がよかったので、「精神疾患にかかりにくそうなアイドルの卵」と、ネトゲ文化において発見したある傾向について思考をめぐらせていた。これはこのブログ初期のオタク文化論と同様のノリである。こういったときわたしは調子がいい。予期不安は解消されている。まあまったくないってわけじゃないと思うけど。
そこで中野雅哉からフジタゼミに誘われた。
調子よかったので、実際に新宿に足をのばしていたりもしたので、別に断るということもなく、「いきたくなったらいけるだろう」という感じで返答した。
しかし中野はしつこく誘ってきた。
したがってわたしは「自分はフジタゼミにいきたいかどうか」を考えた。考えているうちにある一つのことを思い出した。それはそこのコメントを読めばわかることだろう。わたしは彼女が素人だろうが関係なく、殺意を持っている。多分出会っても変わらないだろう。むしろそんな人と対面したら発作が起きる。これは経験済みだ。
BBSにコメントしているのなら、フジタゼミへも参加しているだろう。わたしが思い出さなければよいのだが、精神分析がらみの話題になるであろうから、被害妄想的な隠喩連鎖により、思い出す可能性が高い。
なのでわたしはいけないと答えた。
しかし中野はそんな人じゃない、と。自分の主観でそう思う、と。
他人の主観など関係ないのに。他人の主観なんかで治ってるならとっくの昔に治ってるわ。
この時点でわたしは、調子がよかった状態を忘れつつあった。
これだけならまだよかったかもしれない。書きかけのネトゲ文化についての記事を書けたかもしれない。
しかしこの記事で本物かどうか知らないが藤田が登場する。偽者なら、いや本物だとしても、非常に効果的な悪戯である。いやがらせである。
この時点でわたしは、「わたしが書こうとしたネトゲ文化についてのわたしにとっての健康的な記事は書くべきではない」みたいなことを言われているように思ってしまう。そんなの妄想だとわかっているから藤田につきあう。精神分析理論について考える。
そうやってどんどん調子が悪くなった。この落差は自分でも意外だった。予期不安の「予」の字もなかったのに(だからこそ新宿にまで足をのばせたのだが)、その日の夜はそういった状態になった。
精神分析理論を考えれば調子が悪くなる、というわけではない。そうではない場合も多い。
おそらく問題は、精神分析に興味を向けていた真っ最中の、分析主体としてブログを書いていた時期(つい最近までそうだが)だろう。
分析主体であり続けることとは、治療されない状態である。悪化だけが許されている状態である。
木田原形而から「脂さんは夏に調子が悪くなる傾向がある」という指摘をいただいたが、季節の関与もあるのかもしれないが、そのときの状態である。
確かに中野や藤田は悪くないだろう。
しかしこうやって彼らを罵倒するわたしは悪いのか?
わたしは彼らの悪意のない行動によって、症状が悪化したのだ。
だから罵倒している。
これは許されないことなのか?
だとしたら症状が悪化したことは黙っておけということにならないか?
心的な調子が悪いのだから、症状の悪化を知らせる言葉は、そりゃお前たちにとって心地よい言葉とはならないだろう。
罵倒じゃないと伝わらない。どのように調子が悪いのか伝わらない。罵倒じゃなければそれは嘘になる。ブログを見ている奴の中には詐病だと思っている奴もいるだろう。そうじゃなくても精神分析家も見ているのだから、なるべく厳密に詳細に症状を、わたしの主観世界を説明すべきだろう。
わたしは何か悪いことをしているのか?
しているなら教えてくれ。
ケリをつけるために書いているんだよ。ケリがつけられないからこんなに長くなるんだよ。
あと思い出したが、藤田の「精神分析はメタ科学である」という言葉に、風野春樹が噛みついてたんだよな。いやわたしは藤田の言っている意味は、ラカン理論として理解できるんだけど。
そういう風に藤田を擁護したことがある。他人のブログ記事だがここ。コメント欄読んでね。
で思ったんだが。
藤田は「メタ」と言われて、何連想する?
メタ視点って俯瞰視点って意味じゃん。どうしても自分が上部にくる目線になるんだよね。
だから風野は「精神分析はメタ科学である」って言葉を「精神分析はキング・オブ・科学である」なんて風に解釈してしまった。
別にそういう意味じゃないっしょ?
だけどだな、どうも君の「分析家としてのふるまい」見ていると、確かに「聖人とは屑である」だから「遊び人」を演じているんだろうけど、「俺はキングじゃなくてピエロだよ(笑)」とは言えるのかもしれないけれど、なんていうかね、言葉の端々に「超越してやろう」って感じがするのだよね。向井を「毛沢東主義だ」って批判したところとか。まあ確かにコラムとかそう思われても仕方ない感じはするけど、わたしは毛沢東とかまあ情報として知っているけど誰だか知らないし、実際に会って話したわけじゃないし、なんかピンとこない。
別に下から見上げてもいいんじゃよ? 大事なのはその集合体を外部視点から見ることなんだから、上からと限っているわけではない。横からでも下からでも外部視点は成立する。
「人間らしさ、人間的なるもの」を外部視点から見るのが分析家だから、「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たって」いなければならない。「メタ」って言葉の意味のうちの、「外部」「隔たっている」って部分の方が大事なんだ。
君、「メタ」という言葉の罠にはまってないかい?
口先だけじゃなくて、心の底から、無意識レベルから、「いや、「メタ」というのは「キング」「超越」などという意味ではない」と言える? その「精神分析とはメタ科学だ」と言ったとき、本当にそんな意味のつもりはなかったと言える?
わたしそこで、「特に精神分析関係者には、「メタ視点」を「村八分視点」と言い直すことを推奨する」と言っているわけだけどさ、直感的に、一番先にそうすべきだなと思えるのは、藤田くん、君なんだ。
ね、どう?
昔の2ちゃん哲学板ラカンスレのログに「フジタ」ってコテハンがいたんだけど、あれあなた? 偽者じゃなくて? あ一応断っておくけどリアルタイムではわたしいませんでした。わたしがラカンに触れる以前だったと思う。日付は。わたし結構ラカン歴浅いっすよ。このブログはじめるちょっと前ぐらいから。
あのスレとかさ、なんかもう「フジタゼミ」化してたじゃん。あなたは教授になっていた。あなたは他の名無したちに教えを説いていた。
あれさー、ああいう専門板、過疎板だから荒らされなかっただけで、人の多い板なら、「ここはあんたのスレじゃない、わきまえろ、コテハンうぜえ」とかってツッコミ入ってたと思うんだ。いや多少は荒らされてたみたいだけど。そういやあなた匿名きらいよね、そのせいなの?
あれとか、「キング」になりたがる、「超越」したがる君の症状だとも思えるんだけど。
「上から見下ろす」って意味での「メタであること」じゃなくて、「隔たっていること」「外部であること」だけを考えるなら、むしろ匿名で自分勝手なことを言いあっている普通の2ちゃんスレの方が、よっぽど便宜的だと思うのよね。固有名詞とかまさに自我の固定化なわけじゃん。「想像的な自我」にする言語の補強。芝居が終わっても本名じゃなく役名を呼び続けちゃうようなわたしとかは「どっちでもいいじゃん」とか思っちゃう。
いやま、確かに2ちゃん文化は解離症状じゃないけどね。むしろ「自己愛による自我の隠蔽」。むしろ解離症状が難しくなっている。だけどそこを気をつければ、解離症状としての「独り言」を言う場としては、とっても適していると思うんだよな。実際そういうスレもちらほらあるし。それこそアスペ当事者やスキゾイド当事者が集うスレとか。
話がそれた。
君、「メタ」って言葉の罠にはまってない? こう、「分析家だから超越しなければ」って思っているところない?
答えなくていいよ。
分析主体になって「独り言」して自己分析すればいい。
あんときはヒステリー的主体にはなれてたんだからさ、多分できるよ。
そのときの自分の言葉を分析すればいい。
ま、そゆこと。
アク解見ると、一応藤田見てるらしい(コメントしてきた奴が本物なら)。
なーんか、こいつの思考回路考えると、「これ以上名誉毀損されたら訴えよう。そのために監視しよう」で見てる気がするなー。BBSが荒らされたときも法的手段ちらつかせてたし。
なんかなー。被害妄想ではあるんだが、萎えるなー。
被害妄想的恐怖と同時に萎えてる。
お前だってヒステリー的主体になってたじゃねえか。
それでマジモンのキチガイが現れたら「訴えるぞ」か。
しょせんその程度か、精神分析って。
狂気にまみれる覚悟がないなら最初から精神分析やんなよ。「薬の自動販売機」としての精神科医だけやってろよ。そういう医者の方が有用だ。患者からすれば。精神分析なんて学んでいない風野春樹の方がマシ。かかるなら。彼のブログおもろいし。
ほんともう精神分析やめたい。
つか死にたい。
藤田とか関係なくな。
飽きるのが怖いから、飽きられない。だから死ぬしかない。
飽きるのがなぜ怖いのか、それは死ぬことだからだ。
堂々巡り。冷静に考えて死ぬしかない。そこしか出口がない。
ほんとこないだまでの調子のよさが嘘みたいだわ。
うんこ漏らしそうで怖い。あ、隠喩(笑)よ。
涙出てきた。
ああこれで予期不安になるな(わたしの判断基準)。
精神分析なんか学ばきゃよかった。
知恵をつけるほど狂気は治療されにくくなる。
こういうわたしを見て藤田はなんて言うのだろう。
ラカンがアルトーに言ったごとく「狂気に固執している」とでも言うのだろうか。
違うよ。アルトーは知者だったんだ。だから狂気が治りにくかった。おそらくラカンより精神世界について詳しかった。フロイトは詩人の洞察力に驚いていただろ。アルトーだって詩人だ。ただその知が、ラカンやフロイトは言語知で、アルトーなどという詩人は、「言語の死刑囚」は、経験知だった、という違いはあるが。
アームチェア派とフィールドワーク派の違い。
狂気についての文化人類学。
狂気に固執しているんじゃないんだよ。
知に固執している。
動物的、幼児的知的好奇心。
その結果が狂気と呼ばれていることなだけ。
「知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ」
これ、お前んちのBBSだよ。
「風流な遊びとしての禅問答」を楽しんでいる、被害妄想や予期不安に苦しみながら書いているわたしのテクストを、書くことでなおさら苦痛が増幅するわたしを「楽しく拝見」する、お前自身だよ。
お前は精神疾患者ではない。
「芸術家は何度も殺される死刑囚だ」
お前は観客だ。幸福な世界の住人だ。
結局、「欲望のシーソー」なのよね。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
あれって生後十八ヶ月よりあとっぽいけど、鏡像段階の一つの隠喩的表現なわけじゃん。
精神分析治療ってのはファルスを再発見させることなわけじゃん。
となると精神分析治療も「欲望のシーソー」だと思うのよね。
分析家は、どっちなの? シーソーで上になる方なの?
わたしは、分析家は意図的にシーソーで下にならなきゃいけないと思うんだ。クライエントは上にくるからファルスを再発見する。
だけどね、人ってなかなか下になれないんだ。なかなか去勢以前の主観世界には戻れない。妄想分裂態勢や抑鬱態勢になれない。「子供時代は、そのものとしては、もうない」。
正常な人間はそう簡単にキチガイにはなれない。
主観世界のシーソーで上にくるからファルスは生じる。万能感を手に入れる。「王様としての子供」。
「分析家は分析家グループにおいては分析主体でなければならない。つまりヒステリー的主体でなければならない」ってのは、シーソーで下にくる練習だと思うんだ。「人間から隔たっている」存在になるための練習。
だからわたしはこう言うこともある。「分析家は、「わたし、潰すの、頭、フランシス」における、頭の潰されたフランシスでなければならない」と。
なんかね、あなたの発言見ていると、少なくともわたしは、シーソーの下にいさせられちゃう。
あなたはえらい。強い。
だからわたしは悪化する。被害妄想や予期不安が増幅する。
BBSの連中もえらそう。人間的、文化的だから。向井んちにはそう思えない人もいた。「独り言でしゃべっているな」と思えるから怖くない。一般的な感覚だとそっちの方が「えらそう」と思えるんだろうが。
見ているところが違うんだよ。
「聖人は屑である」か。
「屑としての遊び人」が、ただの演技にしか見えない。「聖人」部分をひき立たせるための演出にしか見えない。いや今のゼミ連中とかそんなただの演出にころっと騙されて「藤田さんはそんなにえらそうな人じゃない」とか言うんだろうけど(特に中野くんとか)。そういうところじゃないところを見てわたしは言ってんの。そういう風に思い込ませることができるのを「えらそう」って言ってるの。そんな表面的なところじゃないの。お前らのその感覚はただの「主人のディスクール」だよ。奴隷は奴隷となることで主人の主人となる。主人と奴隷の関係になれること自体が、無自覚的になんの抵抗もなくなれるところが、「えらそう」って言っているの。だから藤田もBBS連中も「えらそう」って言っているの。主人も奴隷も、キングもピエロも「えらそう」なの。
シーソーで上になってはじめて「四つのディスクール」に組み込まれる。
怖い。
わたしもね、自閉症者なんて相手にしているわけだからさ。高校生の自閉症者から「脂さんはあっち側の人だった。脂さんは強い」ってきらわれたことがあるんだ。このブログにきらわれたときのコメント残ってるよ。「薬師」って子。ブログ内検索してみそ。
「うん、強いよ、少なくともあなたよりは。それは事実だよ」と思ったもん。わたしは演じられるし。正常な人間を。彼は、自閉症というより分裂病型人格障害ぽかった。精神病的な症状も多少見られた。
わたしは彼よか正常な方だと自覚してたよ。
わたしは彼に転移していた。
それは、彼以外の人間だとシーソーの下にいさせられちゃうけど、相手が彼ならば上になれるから。彼というフランシスならわたしは頭を潰せた。握力が平均の半分もないわたしでも。
正常な精神なんての自体が、残酷なものなんだ。
だから残酷演劇ならぬ残酷臨床、ってね。
逆精神分析、ってね。
うん、鏡像的他者だったよ。一瞬だけはなついてくれたしね。
薬師さんを殺せばよかったんだよね。心的事実に則って。ほんとレイプしたいと思った瞬間あるもん。
それができなったのがわたしの甘いところ。分析主体として。
死にそう。死にたい、じゃなくて、死にそう。
絶対書き込むなよ、藤田。反論したいなら別の場所でしろ。もしここにコメントしてきたら、わたしは「狂気にまみれる覚悟ができた」と判断するだろうから。
狂気のまみれあいっこしたらお前の方が勝つに決まってるだろ。お前は正常人なんだから。いろんな道具がある。たとえば法律は原則的に正常人の味方だ。お前BBS荒らされたとき法的処置ちらつかせたよな。いやお前じゃなく別の人だっけ。まあどっちでもいいや。
まじで死にそう。被害妄想で死にそうになるって、理解できるか?
被害妄想? 加害妄想? 区別できない。
妄想に殺される。自分の妄想に。
あああと。全体的な感じとして、藤田BBSは抽象的で、向井BBSは具体的だという印象があった。
おそらくこれも一般的な感覚から言えば逆だろう。それこそバタイユ論など表象文化論が多い藤田BBSの方が具体的だ、と。精神医学的な話題が多い向井BBSの方が抽象的だ、と。
ところが「ふるまう」までもない分析主体の感覚だと、向井BBSの方が具体的だ、となる。
当然だろ。あたしゃ自分が病んだから精神分析やってんだ。精神医学的な話題が多い向井んちの方が具体的に思えるわ。「ああ、ああいうことかな」と。
お前らみたいに文化人サロン(爆笑)のおもちゃとしてやってるわけじゃねえんだ。ああ、文化人サロンだから「もっと隠喩が豊かな作品が読みたい」ってなるんだろうな。この発言は文化人サロンたる空気を読んで言った言葉なわけか。
むしろそこにたむろするお前らがそうだから、そういう空気だから、ヒステリー的主体としてふるまっていた藤田は向井んちで「精神病は転移するか否か」なんて手垢にまみれた議題を出したんじゃないか?
あれ藤田のメッセージなんじゃねえの? 一応藤田は主人になっているからな、「物言わぬ」のが主人だ。物を言えば主人ではなくなる。だから言えない。
まあどうでもええわ。
バイクで走っている。知りあいの劇団を見にいく途中。
なんでもないのに突然涙が出てくる。大量に。前がぼやける。吐き気もする。嗚咽。
フルフェイスだったので一旦停めて脱ごうと思う。でもなぜか人のいない場所でそうしなきゃいけないと思う。
なかなかいい場所はない。どこかに必ず人がいる。混乱する。
鼻水で息苦しくすらなりそんなこと言ってられなくなったので、適当に停める。
バイクの重みでよろける。妙に力が入らない。首もすわっていない感じ。降りるその瞬間はよぼよぼの老婆のようだったと思う。
首がすわってないというより平衡感覚がおかしい感じ。平衡感覚って確か耳だよな。そうだ。
メットを脱いだ瞬間、街の騒音が、黒板をひっかいたときのそれのような、音自体は全然別なのだが、ああいう不愉快さを感じる。
しばらくして、自分がにやにやしているのがわかる。
泣きながらにやにやしている。
これは感情なのだろうか。
もしこれを感情と言ってはならぬのなら、「学者が学問をやるという契機自体が、感情論なのである。」というのは誤りであろう。
いろんなものが漏れている。涙、鼻水、唾液、汗、小便、糞便、内臓、腸、子宮。
体の内外が裏返ったみたいだ。
死ぬ。
死ね。
「ブログなんてやんなきゃいいじゃん」
ほんとそうだよ。中野みたいなバカに声かけられずに済んだ。
もうやだ。
も。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
ほんとわけわかんない。自分が情けない。何この変わりよう。たったこれだけの出来事でこんなんなるとか。
無理だよ、正常人復帰なんてむりむりむりむりかたつむりよ。
中坊さんが復帰できてたじゃん。わたしぶちぎれてるけどさ、わたしも快方に向かってはいたんだよ。
メシウマしたい読者には悪いけど、結構調子よかったんだよ。いやそういうとき意外と多いんだよ。
でこのざまだよ。
どうだよ、ほんとに。
無理だよ。ほんと。
死ぬしかないんじゃね、まじで。
どうやっても無理だよ。まじで。
こんなちょっとしたことでこうなんだから。
死ぬしかねえじゃん。
無理だよ、まじで。もうほんとやだ。
や、ゆ、
あったんだ。ん。
どうすりゃいいんだよ。
「もう、いいよね?」
なんだっけこれ、パトラッシュだっけ。
インド、あれ、チベットか。
意外に思われるかもしれないけど、アウトドアな一面もあったりしたんだな。いや99%はインドアだけど。照。
ねーどーすりゃいいのよ。
多分無理だよ、まじでじま。
死ぬしかないよ、ほんとなんかほんとにそう思っちゃうと、こんなんなんだよ。
無理だと悟ったら。
だん、った、だん。
もしもあしたわたしたちがなにもかもをなくしてただのこころしかもたないやせたねこになっても。
だっだっだだっだっ。
あたしちゅうそつやからねしごとをもらえへんのやとかいた、
だっだっだだっだっ。
あたしほんとはもくげき、したんです、
きのうでんしゃのえき、かいだんで、
ころがりおちた、こどもと、
つきとばしたおんなのうすわらい、
笑いながら泣いてたりしてたんじゃねえの?
うんこ漏らしてたりしてたんじゃねえの、その女。
閉鎖。僕の肛門も。
目、鼻、口が別々なら、目が泣いてるだけで、口が笑ってるだけで、顔になるからおかしいんだよ。
お前らがおかしいからおかしく見えるだけだよ。
無理でいいじゃん。
死んでいいじゃん。
やゆーん、
こ
kk
あ
殺される。
いつからかいつからかきづかずにぼくたちはすんでいたさかさまのくにことばにすればかならずそれはうそにかわる。
うそがうそ。
あ、なんか、まじでやめよ。なんか、いろいろ。
ほんと無理だからさ、すまんね。なんか、もう、何書いてもだめだ。何やってもだめだ。「あ、いけそう」って思っちゃうから疲れる。
なんかほんともう無理。何やっても。
こう、彼、本上まもるブログにコメントしたことがあるんだよな。本上がなんかラカン派の学者(名前忘れた)ともめていた。で、本上は言いたいこと言って「あんたもういいよ」となった。学者はしつこくメールしてきた。
その議論内容は「現代のいじめは死の欲動の表出かどうか」だった。その学者は死の欲動に関する議論で「現代のいじめ」に触れた。それに対し本上は「違う。現代のいじめは死の欲動の表出ではない」と言った。
わたしは本上が正しいと思う。ライトノベル作法研究所という中高生が集まるサイトなどでいじめの話題にも触れたことがあるが、あれは死の欲動の表出とはわたしも思えない。エントロピー増大則としてやっているとは思えない。「異物を排除する」ということはむしろネゲントロピーであり、生の欲動だ。つまり「現代のいじめは死の欲動に対しての防衛だ」となる。
で多分藤田も本上の意見に同調してたんだと思う。表明はしてなかったけど。
本上はその学者がしつこくメールしてくるのに対し「しつこいよ、もうどうでもいいよ」といったような態度を示していた。それについて藤田は、その学者に対し「ネタにマジレス乙だな」(正確な文章は忘れた)といった態度のコメントを残した。
議論内容は確かに本上の方が正しい。しかし、しつこくメールしてくる学者と「しつけえよもういいよ」という態度の本上、これはどちらが正しいというものではない、とわたしは思う。態度に正しいも間違っているもない。いずれかの基準において正しいか間違っているか、である。ただ学者は議論したがっていただけで、本上は議論を切りあげたかっただけ。彼らのディスクールがすれ違っているだけである。
ところが藤田は、議論の内容そのものではなく、本上の態度の方に同調するコメントを残した。本上の態度を正しいとした。
ここがひっかかっていた。
おそらく藤田は、「分析家として、どちらの態度が正しいのか」という判断基準によって、そういうコメントをしたのだと思う。その学者も本上も分析家の資格は持っていなかったのだが。
分析家は確かに欲望を制御しなければならぬ。このときの相手の学者は、本上が指摘していたように、自分の地位や世間体を守るために本上を論破しようとしていた節がある。したがってそれは「他者の欲望である欲望」ゆえの症状だ、と言える。
だから、分析家としては欲望を露出していない本上の方が正しい、となる。
こう考えると、藤田が本上の、議論内容ではない態度に、同調するのはわかる。
要するに、こう考えるならば、この一件における本上や藤田の行動には、何も異論がない、ということだ。
しかし、この一件はこの一件として、藤田が今している勘違いの芽が、ここに出ているように思える。
というのは、藤田は「議論を続けようとすること」自体が欲望の表出だと考えていないだろうか、という点である。
「議論を続けようとする症状」は、すべてが「他者の欲望である欲望」の表出だと言えるだろうか。
わたしにはそうは思えない。
学者同士の議論は、一度熱が入ると、お互い感情的になる。感情的になって当然なのである。それだけ真面目に研究しているのだから。
また専門用語が飛び交うため、門外漢から見るとあたかも宇宙語で議論しているかのようでもある。
こうった学者同士は全員、自分の地位や世間体などを守るため、つまり「他者の欲望である欲望」の表出として、議論しているのだろうか。
そうとも限らない。
むしろ他者なんてどこか遠い世界にいってしまい、表面上激しく議論しているのだが、傍から見ると、世間から乖離した二人だけの閉じた空間になっているときすらある。「folie a deux」あるいは「転移の袋小路」の裏バージョン、とでも言えようか。そこでなされているのが負の転移なだけである。
とはいえここまで議論がエスカレートすることはあまりない。「感情的になるな」というルールは一応学問村のルールとしてあるため、エスカレートしそうになると、どちらかともなく、早々に議論を切りあげる。
わたしは逆にそれがいらいらする。
「感情的になってはいけない」というのが間違っている、というのは大学時代から思っていたことだ。いや片足を演劇界につっこんでいるからそう思えただけだが。
「感情的になれば思考が非合理的になる」というのは、わたしはそうではない、と思える。感情的になればなるほど思考は合理的になっていく、とわたしには思える。態度だけ抜き出して見られるので他人の評価は「非合理的だ」となるだけ。
むしろ感情をまったく排した状態を考えよう。それは重度の鬱病患者の精神状態である。彼はもはや学問をするという気力すらないだろう。
つまり、学者が学問をやるという契機自体が、感情論なのである。
なのでわたしは「感情的になってはならぬ」というルールは、まあいろいろあってそういう風になったただのルールだろう、と考えていた。「ルールはルール」である。
アスペルガー症候群者たちの一群には、スイッチが入ると、まるで何かに取り憑かれたようにしゃべる人たちがいる。
自閉症とは、ラカン派の解釈「鏡像関係の組み込みの失敗例」とあるように、器質的な要因により、主観世界における他者が希薄な個体たちである。
であるならば、彼らがしゃべり続けるその症状は、「他者の欲望による」欲望とは言えない。一般的な語用ならば、その症状は確かに「しゃべりたがっている」という「欲望」として語られるだろうが、精神分析理論における「欲望」にはあてはまらない。理論上齟齬がある。
この齟齬を解消するには、アスペルガー症候群者が「しゃべりたがる」のは「欲動」による、などとしなければならないのだが、これも少し暴論のように思える。
しかしここではこの暴論を採用しておこう。
アスペルガー症候群者のある一群がしゃべりたがるのは、「欲望」ではなく「欲動」による、と。
これを先の「議論がエスカレートした学者同士」に適用させてみよう。
彼らの議論はもはや世間体を気にしていない。彼らの主観世界において他者は希薄化している。
となると、彼らの欲望は欲動に親近している状態だ、となる。
いや、議論相手という他者がいるじゃないか。議論当事者たちは議論相手を鏡像的他者として見ているのではないか。それならば彼らの間にあるのは欲望であり、負の転移である。
これも正しい。実際にそういうときの学者同士は、お互いがお互いを鏡像的他者として見ているように思える。具体的に言えば社会学における羽入-折原論争、ラカン論に連結させるならば『ラカンで読む寺山修司の世界』における寺山と京武久美の関係。
であるならばこのとき彼らは、お互いをお互い欲望しあっているのであり、欲動ではない、となる。
むう、確かにそうだ。
わからなくなってきたのでわたしのフィールドたるアスペルガー症候群の話に戻ろう。
アスペルガー当事者の会にも参加しているある大学教授がこんなことを言っていた。
「自閉症の子たちと話すときは、そっぽを向いて話した方が通じる」
これは斎藤環のこの論文におけるドナ・ウィリアムズの症状、
=====
この「自閉症者の主体」について考えてみたい。ドナの手記において顕著な傾向として、まさにこの「主体化への恐れ」が挙げられる。原題の Nobody Nowhere にあるように、まさしく彼女は Nobody であることを願い続けてきた。彼女は自らのもっとも好ましい写真として「誰でもない顔のドナ」を挙げている。この「主体化への恐れ」は、さまざまな形で彼女の手記のいたるところに見出されるように思う。
=====
に相当する。ここで述べられている「主体化の恐れ」は、具体的に言い換えれば「顔があるとされることへの恐れ」である。
「そっぽを向いて会話する」ことは、自閉症者たちに「顔があるとされることへの恐れ」を緩和する効果がある、というわけだ。
「そっぽを向かない」ということはどういうことか。見つめられるということである。まなざされるということである。
ここでラカン論の「まなざし」とつながってくる。
通常の社会(精神的に正常な人間たちの集団)は、基本的に「目を見て会話する」社会である。まなざしまなざされあう関係の上に、すべてのコミュニケーションが成り立っている。顔を見ていない、ネット上の言葉だけでの会話でも、人間たちは相手がどのような表情をしているか、想像上でまなざしまなざされあって会話している。
この「まなざしまなざされあう関係」とは、「他者の欲望である欲望」を相互に向けあう関係でもある。まなざしとは対象aである。対象aとは欲望の原因である。
こういったことからも、アスペルガー症候群者たちの会話は、「他者の欲望である欲望」が希薄な会話であることがわかる。むしろ彼らはそういった会話を好むのである。
わたしもアスペルガー症候群者たちと接している。
わたしはこんな風に言うときがある。
「アスペルガー症候群者たちの会話は、独り言の応酬である」
と。
これは先の「自閉症の子たちと話すときは、そっぽを向いて話した方が通じる」という言葉と通じる。
「そっぽを向いて話す」という具体的なやり方を、抽象的に述べたのがわたしの「独り言の応酬」である。
この「独り言の応酬」は、実際のアスペルガー当事者の、マシンガントークを観察したときに生じた表現である。
彼らは確かに多くの言葉数をしゃべっているが、誰かに話しかけているようではない。そのとき自分が気になったことについて、誰かに話しかけるという目的もなく、いわば「自分の思考の整頓」として、それらを言語化しているだけ。そういう風にわたしは見えた。
この「自分の思考を整頓するための独り言」という具体を考えると、わたしには、学者同士議論にもあてはまる場合があるように思える。
学者たちはアスペルガー症候群だとは限らない。なので確かにまなざしあってしゃべっているのだが、相手と会話する目的が希薄に感じられる場合も多々ある。形式上は誰かと会話しているのだが、相手との会話など無視して、「自分の思考を整頓するための独り言」を言っているだけ、という。具体的に言うと複雑系研究者の金子邦彦などにこの傾向は見られた。
他者がいないからそれは(ラカン的な意味での)欲望たりえない。
ではその症状の原因をなんて呼べばよいのか。仮に精神分析理論内の概念、欲動をあてはめよう。
そうやってわたしは「アスペルガー症候群者のしゃべりたがる症状は欲望ではなく欲動である」と述べた。
これは、確かに学者の白熱した、エスカレートした議論すべてに相当するとは言えないだろう。しかし一部には、エスカレートした議論そのものが頻繁にあることではないし、さらにその中の一部というごくごくまれなケースになると思われるが、こういった意味での「欲望ではなく欲動を根拠にした議論」となっているケースがあるのではないか、とわたしには思える。
この「自分の思考を整頓するための独り言」を精神医学的に表現するならば、解離症状に似ている、とも言える。解離症状は確かにアスペルガー当事者のようなマシンガントークではないだろう。しかししゃべらないだけでその内面では他者のいない主観世界を整理整頓しようとしているのではないだろうか。整理整頓する道具が言語かイメージか違うだけで。
一部の学者やアスペルガー症候群たちは言葉という道具を選択した。だから彼らのそれは解離症状とは言いがたい。しかし「他者のいない主観世界に飲み込まれている」という点では、解離症状と共通している、と思われる。
これはわたしのこのブログにおける症状でもあるだろう。わたしは他者のいない主観世界を、言語によって、理論的に整理整頓しようとしている。これは昔からそうであった。わたしは中学高校と数学が好きだったのだが、特に証明問題などを「整形手術」と表現していたことは以前の記事にも書いた。
しかし理論だけじゃ不十分な場合もある。そういった場合イメージを利用することもある。そうやって書いた記事がこれやこれである(他にもあると思うが今ぱっと思いついたのがそれらだっただけ)。
こういった記事を他人事で見ると、確かにわたしの症状は解離症状に似ている、と思える。実際に精神科医からそう指摘されたことがある。またこの記事であるアニメ映画の情報を提供したコメント者は、どうも「脂さんは解離症状について詳しく、自分はこのアニメの主人公は解離症状だと思える。なので脂さんの意見が聞きたい」と考えたらしい。いや確かに「解離性障害のケがあるって言われたことはある」とどっかの記事で書いた記憶はあるけどさー、本人は解離性障害とはまったく別物だと思っているので、多少カチンときたのは今告白しておく。いや怒ってないけど。
解離症状とかわたし実はよくわかってないんだ。
解離症状って一口に言ってもさー、ややこしいと思うよ。文学の中でもっともスキゾイド症状をリアルに表現できているとわたし個人が思えるのが『氷の海のガレオン』って作品なんだが(ライトノベル研究所の誰かから「これスキゾイドだろ」っつわれて薦めてもらった。つまりアスペとか研究しはじめる前の話)、そこにも「解離」って言葉が出てくるしな。あ、ごめん、文庫版同時掲載の『オルタ』の方だった。
作者に多少の心理学の知識はあるのは明白だ。あとがきで「父殺し」「母殺し」とかゆってるし。そういうこともあってか、この主人公がする解離はアスペのマシンガントークとはまったく別物の、典型的な解離症状たる「妄想世界への没入」として表現されている。
「妄想世界への没入」じゃないと思うんだよな。
「ラカン的な意味での現実世界へ、つまり精神病的な主観世界に溺れているのであり、そこで死なないための道具として、イメージや言語という妄想がある」
ってのが厳密だと思う。スキゾイドとアスペルガーの解離症状は。
アスペルガー症候群者のマシンガントークは、一見感情的である。しかし理論的に考えればそれは欲望ゆえの症状ではない。
問題は感情ではないのである。「他者の欲望である欲望」がベースにあるかどうかである。スキゾイドなどは感情が乏しいと言われるが、感情がないわけではない。「まぶしく輝く太陽の下にさらされながら鎧戸を固く閉じている別荘」の中で「祭宴が催されているのである」。
感情が欠如してしまったのはあくまで重度の鬱病患者である。
正常人にもアスペにもスキゾイドにも感情はある。しかし 「他者の欲望である欲望」が、その土台になっているかなっていないかの違いなのだ。
アスペやスキゾイドの感情は、「他者の欲望である欲望」がベースになっていない。したがって彼らの感情は他人への気遣いが欠如したものとなる。むしろスキゾイドの方がまだ気遣っているのだろう。だから「鎧戸を固く閉じている別荘」の中で「祭宴」を催すのである。
ともかくこのように考えれば、アスペのマシンガントークも、スキゾイドの「祭宴」も、「他者が存在しない」という意味での「独り言」だと表現可能である。
感情的か否かが問題なのではない。「他者の欲望である欲望」があるかどうか、すなわち「独り言」じゃないかそうであるか、なのだ。
こう考えると、先の「自分の思考を整頓するための独り言」を言っているだけの学者たちは、一種のアスペやスキゾイドと類似した症状を表している、と言える。
余談だが、スキゾイドを研究していた頃、金子さんのような「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」を考えることがあった。なんか知らんがわたしの周りにはぼつぼついたんだよな。つか東大に多いのかもしれない。だから「社会的に開かれた大学にしましょう」って「東大改革」なんかしなきゃいけなかったんだろうな。
彼らについて、「スキゾイドっぽいけどスキゾイドっぽくないよなあ」と悩んだ時期がある。スキゾイドっぽくないのは症状として明らかなんだ。決して冷たい感じはしない。どちらかと言うと幼児的。無邪気。
だけどわたしはなぜかスキゾイドっぽいと思っていた。
で、スキゾイドとの類似性がよく指摘されるアスペルガー症候群を研究しはじめて、ふとそういった「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」を思い出して、「あ、アスペならイケルじゃん(すまんこんな言い方で)」と思ったんだよな。
それを今詳細に説明しただけ。
「ひきこもり」もちょっと齧ったが、たとえば斎藤環の言う「社会的ひきこもり」とも違う。彼らは心の奥底で社会に参画したがっているんだよね。だけどできないからひきこもる。
一方、「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」は違う。「自分がしたい研究」の邪魔になるから自閉しているだけ。
多くのひきこもりたちは「社会に参画したいけどできない」らしいが(斎藤曰く、な)、「自閉傾向のある学者たち」は「自分たちの研究の邪魔になるからめんどくさい」なんだよ。
明らかに違うだろ?
あるとき、ドードーとらさんというアスペルガー当事者(このブログにもコメントいただいたことがある)と、ひきこもりのネット論者が議論していたんだが、とらさんはこう言い放ったんだな。
「せっかくひきこもれているのに、なぜ社会に対し意見したがるのかわからない」
と。
おそらく議論相手の彼は、心の奥底では社会に参画したがっていたのだろう。だから社会に対し意見したがる。だができないからひきこもっていた。
しかし一方アスペルガー当事者は、そもそも社会に対し重きを置いていない。彼は「学者という肩書き」は持っていなかったが、おそらくわたしが東大で観察した「社会的なことに対し自閉傾向のある学者たち」と同様の思考回路だったのだと思われる。
彼らは社会的なことに、そもそも「社会的なるもの」の根源たる他者に、それほど興味がないだけなのだ。
このように見ていけば、たとえばアスペがする「そっぽを向いてする会話」「自分勝手なマシンガントーク」や、一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」は、ラカン的な意味での「欲望」、つまり「他者の欲望である欲望」を根拠にしているとは言えないのがわかる。他者がいないのだから。
藤田博史はここがわかっていないように思える。分析家は確かに欲望を露出させてはいけない。それを実行するもっとも手っ取り早い態度は「語らないこと」である。ディスクールはすべて欲望を根拠にしている。つまり、議論をし続けなければいい。
確かにそうである。しかし、表面上はダイアローグになっていても、当事者の主観世界でモノローグになっていれば、それは欲望が根拠になっていることにはならない。それの具体的事例がアスペルガー症候群者がする「そっぽを向いてする会話」や「自分勝手なマシンガントーク」である。一部の学者がする「自分の思考を整頓するための独り言としての議論」である。
こういった言葉ならば、欲望を根拠にしているとはならない。
こんなことを書くと、
「なんだこの脂って奴は他人を気遣わないでしゃべくり倒してしまう自分の言い訳として書いているだけだろ」
と思われるかもしれないが、それは正しい。一部そういったつもりで書いている部分がないことはない。これはわたしの欲望であろう。「言い訳する相手としての」他者がいる。
そういった意味では、わたしは「このブログは基本独り言だ」と言い続けているが(勘違いしてコメントしてくるバカが多いので)、この記事については、他の記事よりも「独り言」の要素は希薄だろう。モノローグよりダイアローグの要素が強い。実際今ワードパッドを使って書いている。いつもはただのメモ帳を使っているのだが、編集機能が充実しているワードパッドを使って書かなきゃならない記事としてわたしは認識している、ということだ。編集機能が必要ということは文章の体裁を整えなければならないということだ。つまり他者の目を意識している。
仕方ねーだろ、藤田一派に殴りこまれたんだから。
解離症状チックにうわ言を垂れ流していただけなのに、わけのわからん奴らがいきなり話しかけてきた。だからそいつらという他者に向けてわたしは語っている。
先の脳内反論については、「会話はすべて他人を気遣ってされるものでなくてはならない」という思い込みこそが、お前が「他者の欲望である欲望」から逃れられていない証拠なのだ、と反論する。
「思考する者なき思考」がする「思考する者」への反論。
あ、ここ独り言な。
ここで、この記事で触れている「分析家グループ」について考えてみよう。
わたしは分析家ではないし、分析家になりたいとも思わないのであまりこれまで触れてこなかったが、ラカン派ではこの要件についての議論が活発だ。「分析家グループとはどうあるべきか」という。ラカンのゼミ自体が「後進の分析家を育てるための講義」だったことを考えれば、そうなるのも無理はないだろう。
興味はあんまりなかったんだが、少しひっかかることがあった。そういった議論を読み、妄想を付加させて考えると、ラカニアンたちが言う「あるべき分析家グループの姿」ってのは、分析家たちがキチガイになっている状態なんじゃないか、とわたしは思ってしまうのだ。
アホか、と思ったが、「キチガイの主観世界を分析するのが精神分析であるため、そういった主観世界に自分の主観世界を近づけなければならない」とかそういうことかな、と思って微妙に納得したりもしていた。
つかどうでもよかったし。んなことよりわたしはわたしの精神疾患症状の方が重要だ。
そう思っていたところに向井雅明のこのような文章を見つけた。
=====
分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。
(中略)
分析主体として在るということは、ヒステリー的な分裂した主体として自由連想の作業のなかで知を見つけ出していこうと振る舞うことである。
=====
なんだ、わたしの適当な妄想解釈あってたんじゃん、と思った。少なくとも向井の解釈とは合致するだろう、と。
ヒステリーとは現代精神医学では解離性障害となっている。であるならばヒステリー的症状とは解離症状である、となる。
つまり、わたしがこのブログでやっていることこそが、「分析家グループのあるべき姿」なのだ。いやあたしグループじゃないけれど。「一人グループ」? なんじゃそら。
それも当然なのである。向井によると「分析家は分析家グループにおいては分析主体でなくてはならない」となる。分析主体とは具体的に言えばクライエントだ。だからヒステリー的症状なのだ。まあクライエントはヒステリーだとは限らないが、精神分析はそもそもがヒステリー研究からはじまったと言っても過言じゃないし、そのぐらいに考えておけばいいだろう。
わたしがそもそも精神分析を学びはじめた経緯を説明しておく。心を病んでパニック障害と診断されたため、精神医学の本を読み漁りはじめた。とはいえ気まぐれなわたしのことなので、ライトノベル作家の卵たちが集うサイトなどに入り浸ってたりもしていた。そこではじめてラカン理論に触れた。オタク文化評論ではなぜかラカン理論が多用されている(まあたまきんの功績だろうな)。フロイトは演劇人時代にちょこっとだけ齧った(ユングもだけど)。フロイトの読み直しがラカン理論らしい。んじゃオタク文化だけじゃなく、わたしの精神疾患にも適用できないか、という発想で精神分析を学びはじめた。とか言いながら、なんかパニック障害って昔はてんかんの一種だと言われてたらしいし、あたし昔はてんかんだったらしいし、心因性じゃないから精神分析だめじゃん、わたしには適用されないんじゃね、と思ってからも続けてるけどね。
おもしろいんだもん。マジモンのラカニアンってキチガイ臭い人が多いし。どっちかってとラカン村ヲチャみたいなところはある。今では。
それはともかく。
こういった経緯を見ればわかるように、わたしはラカン派の言葉通り、ラカン理論を利用して、分析主体であろうとしている。このブログを「独り言だ」と言うのもこういった理由が一つとしてある。わたしは精神分析されるためにこのブログを書いている部分がある。記事を探せば「ほらわたしを分析してみろよ」といった挑発的な言葉が見つかると思う。
精神分析されるならば、わたしは本音を述べなければならない。いくら世間一般の常識からはずれている事柄であっても、わたしの主観世界に事実としてあったことなら、わたしは書く。どんな詳細なことでも。精神分析がするシニフィアン解釈は、一般的に論旨としてまとめられること以外の部分にも着目して行われる。フロイト曰く「冗談や錯誤行為にこそ無意識は表出する」。
こういったことから、わたしはこの「独り言」を「思考実況」と表現することもある。「実況」なのだから「論旨」などない。「主張」ではないのだから。ただの「事実の伝達」である。詳細に伝達しようとしているのである。
ちなみに、「ほらわたしを分析してみろよ」と書いているが、これは誤りである。一種の挑発として書いているだけで、本当はそんな風に思っていない。その瞬間はそう思っていたことは否定しないが、正直言うと今はそんな風に思えない。
精神分析においては、分析するのはあくまでも分析主体である。つまりクライエント自身が自己分析するわけだ。しかしそれは精神科が固く禁じている「患者がする自己診断」と同じではない。これは精神分析家も同意するだろう。
では、精神分析治療における分析主体がする作業と、「患者がする自己診断」は何が違うのか。
一般的な患者がする自己診断とは、自我を根拠にしたものだ。自我が診断している。自我こそが他者にまなざされて(欲望されて)生じる想像なのだから、それは(ラカン的な意味での)現実ではない。「他者の欲望である欲望」のただの結果として自我がある。一般的な患者がする自己診断には欲望が存在する。多くの場合は「病名」への欲望だろう。
分析主体がする分析は、自我が分析しているのではない。自我でない何かがする作業である。
しかし多くの人は自我から逃れられない。ただの想像の産物を自分だと思い込んでいる。
むしろ自我から離れてしまうのは一種の精神疾患である。解離性障害である。ヒステリーである。
向井の言葉を再度思い出そう。
「分析家は、分析家グループにおいては、分析主体でなければならない。そしてそれはヒステリー的主体としてふるまうことである」
つまり、分析主体とは、自我から解離した存在なのだ。だからクライエントなのである。精神疾患者なのである。
分析家グループにおいて分析家がする語らいとは、解離症状としての語らいなのだ。
であるならば、それこそわたしがもっとも得意とするところである。他者のそういった状態を多く観察してきた。これはわたしが彼らのそういった症状を鏡としていたのだろう。アスペの「自分勝手なマシンガントーク」や、一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」は、実はわたしがしていたことなのだ。今はそう自覚している。だからわたしは周囲から腫れ物のように扱われてきた。わたしの会話には他者が存在しないから。一種の解離症状的に会話してしまうから。
得意なんかじゃない。そんなのわたしはいやである。しんどい。心的苦痛を悪化させる。被害妄想や予期不安が増幅する。そうである。自我から解離することなどいいことではない。だから精神疾患なのだ。心的苦痛を訴えるから。
向井たちのグループは、そうなっているのだろうか?
あそこで議論している精神科医たちは、本物のメンヘラであるわたしのように、被害妄想や予期不安が増幅しているのだろうか?
「いやふるまっているだけだから^^;」
もしそんなこと言ってきたら、わたしはそいつを殺してしまうかもしれない。
こんな風に考えると、藤田が向井グループの掲示板に殴り込んだときの、あの向井の過剰とも思える反応も、理解できなくはない。
「ふるまうこと」は侮れない。役者をやってきたわたしは実感を込めてそう言える。役者はそのときその役という「生」を生きている。この「生」こそラカン派が考える「生」である。
「生きる意味とは、意味を生きることである」
芝居が終わってもその役が自分の中にいる。わたしは自分が誰なのかわからなくなる。他の役者を役名で呼ぶことなんて普通。つか名前ってそんなに重要なこと? わたしがその役であった方がいいんでしょ? 自分が本当かどうかなんてそんなに重要なこと?
余談になるが、こういった「役者の自我の不安定化」は映画などでは結構手垢にまみれた題材ではある。しかし『パーフェクトブルー』はこのあたりを、一般的な現実に対し、ではなく、ラカン的な意味での現実、すなわちキチガイの主観世界に対し、忠実に表現できていたと思う。あの演出は常識的に考えればフィクショナルであるが、実際に役者を経験しその後精神を病んだ(なので主人公と順序が異なるが)わたしから言わせれば、ドキュメンタリータッチである、などと言いたくなる。
「詩人の言葉を劇的にするのは観客自身である」
おそらく向井は、他のグループ員は知らないが、あの場所において、分析主体に、ヒステリー主体になりきっていたのだろう。ただの演技であるとはいえ、それに親近した精神状態だったのだろう。
自我から解離することとは、雹が降りしきる中を丸裸で歩くようなことである。自我とは鎧なのである。
ラカンの教えの通り、自我という鎧を多少なりとも脱いでいた向井は、だからあのような過剰な反応をしたのではないか。
向井ばかり持ち上げている(ことになるのか(笑)?)ように思われるかもしれないが、わたしはあのときの藤田も、ヒステリー的主体だったと思える。向井はそのときの藤田を精神病になぞらえていたが、然りである。彼は正気ではなかった。正気ではない演技をしきれていた。
つまり、あのときの二人は、「分析家が分析家グループにおいてあるべき姿」として、もっとも評価されうる状態だったのである。
しかし世間はそう評価しないだろう。「ただの醜い言い争いだ」などと。ここのコメント欄でもわたしの知人が「知的水準の高い人達が小学生並みの脊髄反射でぐだぐだしている」と書き込んでいる。彼がそれで「悲しくなった」のが問題なのであって、それを考えなければ彼のこの表現は的を射ているなと今は思う。わたしは一部の学者の「自分の思考を整頓するための独り言としてする議論」について「幼児的」と表現している。
「幼児的だと何が問題なのだろう。他人からバカにされたり信用されなくなるから? ただそういうことなだけじゃん」
このときの向井と藤田のディスクールにおいて、他者は希薄だったと言えよう。
このディスクールは「他者の欲望である欲望」を根拠にしたものではない。
以上が、わたしが考える「分析家グループ」である。
これをもとに、藤田グループと向井グループを観察してみよう。
向井グループの掲示板は今は一般公開されていないが、藤田が殴り込んだ以降も一般公開されていた。
そのときの掲示板を見る限り、向井グループ員の一部は「独り言」をしゃべれていたように思える。自分勝手に思ったことを自分勝手にしゃべっていた。まとまりがなかった。一つのテーマの直後に別のテーマが提出されたりしていた。とはいえ何人か会話したがり屋がいたのも事実だ。
藤田グループは。BBSは公開されている。藤田殴り込み事件以降、ある期間観察していた。荒らされていたりした。
しかしどうも、そこでのコメント者たちは、独り言を言えていないように思えた。というのは、ある一つ一つのテーマについて、コメント者たちの関心は集中されていた。たとえばバタイユ論。つまり会話としてまとまりがあった。
こういった「会話したがり屋」は向井グループにも藤田グループにもいる、というだけのことである。
一方、「ヒステリー的主体として、解離症状的にコメントできているコメント者」は、少数だが、向井グループの方にはいたように思える。
こういった「会話したがり屋」の象徴として、あるコメント者のある言葉がわたしの逆鱗に触れた。
「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」
バタイユや川上未映子などという作家たちについての議論の中にあったものである。
隠喩とは解離症状として述べる言葉ではない。「他者の欲望である欲望」が隠喩を構築する。「他者の欲望である欲望」が言語に影響して生じる症状が隠喩であり、イメージに影響して生じる人間の根源的症状が自我である。
この言葉についてはこの記事で分析した。この分析を採用するばらば、もはや彼ら彼女らの無意識が、分析家グループとしてなりたっていないことの証明となっているのだ。
したがって、無意識レベルでの判断で、「分析家グループ」としては、向井グループの方が厳密なのではないか、とわたしは考える。
しかし藤田は、自身のBBSやフジタゼミが、「分析家グループの場」だとは表明していない。わたしの知る限り。
もし違うのであればわたしの指摘は意味がない。
藤田は、それらを「分析家グループの場」として設けたのかどうか、表明すべきではないだろうか。
少なくともゼミに誘われたわたしは、藤田にこう質問する権利はあると思う。
「あなたのBBSやフジタゼミは、「分析家グループの場」としてあるのかどうか?」
あ、だからと言ってここのコメント欄とかで表明すんなよ? わたしにとってお前はすでにただの邪魔な存在だ。自分のサイトでちゃんと表明しろよな。わたしと会話したいならそれこそ「そっぽを向いて」会話してくれ。
わたしは確かに分析家ではない。資格など持っていないただの素人だ。藤田博史は資格のある分析家だ。
しかしわたしは、「ふるまう」までもなく分析主体だ。
イメージで語ってみよう。
まあ正直、「ふるまう」までもない分析主体から言わせれば、向井んちも藤田んちもどっちもどっちなんだよね。ぜーんぜん解離できてないじゃん、て。ぜーんぜん「人間から隔たって」なんかいない。新宮の言葉「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている」は便利ね。
お前らすんげえ人間的だし文化的。
でもな、向井はそういうコラム書いているわけだし、ちょっとはちゃんと「独り言」になっている人もいたから、まあ努力はしているんだろうな、とは思う。
でも藤田グループはそういうことに気づいてすらいないように思える。もしそれが「分析家グループ」のつもりなら、だけど。だから「あんたんち「分析家グループ」のつもりでやってるの?」と聞いてしまう。そういうの目指している素振りすらないんだから、こう聞いちゃうのも無理ないでしょ?
確かにさ、向井んちの方が本職の精神科医が多いんだ。藤田んちは素人が多い。わたしも素人だけど。
もしかして藤田って、「素人が多いうちこそが「分析家グループ」らしい」とか思っているんじゃないだろうか。「社会的な肩書きという象徴界から解放されているうちのグループの方が分析家グループとしてあるべき姿だ」的な。
なんかな。
彼はBBSで、対象aを説明するとき、「聖人としての屑」という言葉を吐いた。
こりゃ間違っちゃいない。
だからって、「フリーターとか社会的に屑っぽい奴らが集まっているグループこそが分析家グループ」なわけじゃない。
社会的肩書きの問題なんかじゃない。そうだよな、藤田が向井に向けた文句「お前毛沢東主義だろ」も、社会的な問題についての指摘だよな。
藤田それ、お前自身の症状じゃね?
向井が鏡になってたりしね?
確かにお前は「毛沢東主義者」なんかじゃないだろう。
だけど「毛沢東主義」などという発想の仕方、つまり社会的な問題に興味が向いてしまうお前の症状の表れじゃね?
木村敏風に言えば、お前のポスト・フェストゥムな無意識の表れじゃね?
ちげーよ。
かと言って想像界に興味を向ければいいってもんじゃねえぞ? そら巷の「抑圧シテイル快楽ヲ解放シマショーウ!」(あこれ『BONES』ってドラマのキャラのセリフからな。アメリカにおける心理カウンセリングの一般的な認識だと思って)なんて日米主流の心理カウンセリングだ。
象徴界や想像界の向こうにあるのが問題なんじゃねえの?
ナマのエスが。
そうじゃん、お前前後の文脈とか関係なしにいきなり「精神病は転移するか否か」なんて議題を提出したよな。
これってさ、どうしても社会的なことに興味を向けてしまう、フジタゼミの発表内容にもそれが表出している、お前自身の症状への、反抗だったんじゃないか?
現実界を棄却している自分への反抗だったんじゃないか?
お前のエスがお前という人格に反抗したんじゃないか?
ラカンの教えの通り、ヒステリー的主体になれたからこそ、お前のエスがしゃべり出したんじゃないか?
うん、やっぱあのときのお前は「分析家グループにおける分析家」だったよ。
逆に言えばさー、これって、お前自身が、自分のグループが「分析家のグループ」ではなく、向井んちの方がそうであると認めていることにならないか?
そういう意味では、藤田グループって「分析家のグループ」というより、「精神分析の営業サロン」のように思えちゃうんだな。「分析家のグループ」じゃない、「精神分析を世間に広めるための場」みたいな。フジタゼミの内容もそんな感じだし。実際の精神疾患がテーマになってるのあんまないよな。アートとか社会学的な話題が多い。いやよくわかんないけどさ。
営業ではないか。営業はむしろ分析家の資格を持っていないたまきんの方がうまくやれている。
なんだろう、カスタマーサービスとかアフターサービスとか。
わかった。
「ラカン株式会社」における営業部門が斎藤環、その隣にあるカスタマーサービス部門が藤田グループ。向井グループはあれか、ちょっと技術部門より、って感じか。
まーそんな感じー。
これはあれだ、ラカン村ヲチャとしての戯言な。
藤田はカスタマーサービスやりたいの? なら分析家って肩書き捨てちゃえば? たまきんとか分析家じゃないからこそあんなに営業成績上げられてるんだと思うよ。
藤田くん、君は何をやりたいの?
つかさ、ヲチャとしてもうラカン村にゃ飽きてるんだから、ちょっかい出してこないでくれるかな?
ほんとうざいんだけど。
この記事であたし「精神疾患にかかりにくそうな人」っての思い出して「うわあああ」になっているだろ?
これと今わたしがフィールドワークしているネトゲ文化で共通する何かがあった気がしたから、それについて思考めぐらしてて、記事も途中まで書いてたんだけど、おしゃかだよ。
そんなにまでお前らわたしを分析主体のままでいさせたいのか?
わたしはいやだっつってるだろ? こんな辛いのはもういやだと。
ふざけんな。死ね。ほんと死ね。
「精神疾患にかかりにくそうな人」と関与したときの自己分析が進めば、多少はわたしは回復に向かったかもしれないだろ?
自覚はあったんだよ。もしかしたらこれでわたしはわたしが今一番きらいな連中が、どうしてそうなっているのか、ほんの一部だけかもしれないがわかって、その一部を自分に適用できたかもしれないって。
要するにわたしは、過去の幻影にすぎないその「精神分析にかかりにくそうな人」たるほとんど一回りも年下のアイドルの卵に、転移しかけたんだ。
それなのにわたしの顔をつかんでぐりっと別の方向に向けた。
お前らはわたしの回復に一瞬だけ向かった矢先、後ろを振り向かせたんだぞ?
だから顔なんていらないんだ。
お前ら治療者じゃねえの?
わたしが提唱する逆精神分析やってるじゃん。「症状を悪化させる精神分析」を。
精神分析家は一応治療者なんだろ?
藤田博史、お前は分析家失格だ。
逆精神分析家なら合格だ。
ほんとやめろよ。
単に間が悪かっただけ? その通りだ。
だからお前は合格だ。
偶然の出来事だからこそ、お前は逆精神分析家として合格だ。
藤田は嘘だとか思ってるのかね。わたしが「心的苦痛に苦しんでいる」っての。
今日とかゲロ吐いたのにな。頭痛いし。予期不安っぽいのもあるけど泣かないからこれはそうとは言えないか。それほどでもない。
死にたい。
経緯を説明する。
この記事を書いたときのわたしは、少なくとも今より調子はよかった。
調子がよかったので、「精神疾患にかかりにくそうなアイドルの卵」と、ネトゲ文化において発見したある傾向について思考をめぐらせていた。これはこのブログ初期のオタク文化論と同様のノリである。こういったときわたしは調子がいい。予期不安は解消されている。まあまったくないってわけじゃないと思うけど。
そこで中野雅哉からフジタゼミに誘われた。
調子よかったので、実際に新宿に足をのばしていたりもしたので、別に断るということもなく、「いきたくなったらいけるだろう」という感じで返答した。
しかし中野はしつこく誘ってきた。
したがってわたしは「自分はフジタゼミにいきたいかどうか」を考えた。考えているうちにある一つのことを思い出した。それはそこのコメントを読めばわかることだろう。わたしは彼女が素人だろうが関係なく、殺意を持っている。多分出会っても変わらないだろう。むしろそんな人と対面したら発作が起きる。これは経験済みだ。
BBSにコメントしているのなら、フジタゼミへも参加しているだろう。わたしが思い出さなければよいのだが、精神分析がらみの話題になるであろうから、被害妄想的な隠喩連鎖により、思い出す可能性が高い。
なのでわたしはいけないと答えた。
しかし中野はそんな人じゃない、と。自分の主観でそう思う、と。
他人の主観など関係ないのに。他人の主観なんかで治ってるならとっくの昔に治ってるわ。
この時点でわたしは、調子がよかった状態を忘れつつあった。
これだけならまだよかったかもしれない。書きかけのネトゲ文化についての記事を書けたかもしれない。
しかしこの記事で本物かどうか知らないが藤田が登場する。偽者なら、いや本物だとしても、非常に効果的な悪戯である。いやがらせである。
この時点でわたしは、「わたしが書こうとしたネトゲ文化についてのわたしにとっての健康的な記事は書くべきではない」みたいなことを言われているように思ってしまう。そんなの妄想だとわかっているから藤田につきあう。精神分析理論について考える。
そうやってどんどん調子が悪くなった。この落差は自分でも意外だった。予期不安の「予」の字もなかったのに(だからこそ新宿にまで足をのばせたのだが)、その日の夜はそういった状態になった。
精神分析理論を考えれば調子が悪くなる、というわけではない。そうではない場合も多い。
おそらく問題は、精神分析に興味を向けていた真っ最中の、分析主体としてブログを書いていた時期(つい最近までそうだが)だろう。
分析主体であり続けることとは、治療されない状態である。悪化だけが許されている状態である。
木田原形而から「脂さんは夏に調子が悪くなる傾向がある」という指摘をいただいたが、季節の関与もあるのかもしれないが、そのときの状態である。
確かに中野や藤田は悪くないだろう。
しかしこうやって彼らを罵倒するわたしは悪いのか?
わたしは彼らの悪意のない行動によって、症状が悪化したのだ。
だから罵倒している。
これは許されないことなのか?
だとしたら症状が悪化したことは黙っておけということにならないか?
心的な調子が悪いのだから、症状の悪化を知らせる言葉は、そりゃお前たちにとって心地よい言葉とはならないだろう。
罵倒じゃないと伝わらない。どのように調子が悪いのか伝わらない。罵倒じゃなければそれは嘘になる。ブログを見ている奴の中には詐病だと思っている奴もいるだろう。そうじゃなくても精神分析家も見ているのだから、なるべく厳密に詳細に症状を、わたしの主観世界を説明すべきだろう。
わたしは何か悪いことをしているのか?
しているなら教えてくれ。
ケリをつけるために書いているんだよ。ケリがつけられないからこんなに長くなるんだよ。
あと思い出したが、藤田の「精神分析はメタ科学である」という言葉に、風野春樹が噛みついてたんだよな。いやわたしは藤田の言っている意味は、ラカン理論として理解できるんだけど。
そういう風に藤田を擁護したことがある。他人のブログ記事だがここ。コメント欄読んでね。
で思ったんだが。
藤田は「メタ」と言われて、何連想する?
メタ視点って俯瞰視点って意味じゃん。どうしても自分が上部にくる目線になるんだよね。
だから風野は「精神分析はメタ科学である」って言葉を「精神分析はキング・オブ・科学である」なんて風に解釈してしまった。
別にそういう意味じゃないっしょ?
だけどだな、どうも君の「分析家としてのふるまい」見ていると、確かに「聖人とは屑である」だから「遊び人」を演じているんだろうけど、「俺はキングじゃなくてピエロだよ(笑)」とは言えるのかもしれないけれど、なんていうかね、言葉の端々に「超越してやろう」って感じがするのだよね。向井を「毛沢東主義だ」って批判したところとか。まあ確かにコラムとかそう思われても仕方ない感じはするけど、わたしは毛沢東とかまあ情報として知っているけど誰だか知らないし、実際に会って話したわけじゃないし、なんかピンとこない。
別に下から見上げてもいいんじゃよ? 大事なのはその集合体を外部視点から見ることなんだから、上からと限っているわけではない。横からでも下からでも外部視点は成立する。
「人間らしさ、人間的なるもの」を外部視点から見るのが分析家だから、「分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たって」いなければならない。「メタ」って言葉の意味のうちの、「外部」「隔たっている」って部分の方が大事なんだ。
君、「メタ」という言葉の罠にはまってないかい?
口先だけじゃなくて、心の底から、無意識レベルから、「いや、「メタ」というのは「キング」「超越」などという意味ではない」と言える? その「精神分析とはメタ科学だ」と言ったとき、本当にそんな意味のつもりはなかったと言える?
わたしそこで、「特に精神分析関係者には、「メタ視点」を「村八分視点」と言い直すことを推奨する」と言っているわけだけどさ、直感的に、一番先にそうすべきだなと思えるのは、藤田くん、君なんだ。
ね、どう?
昔の2ちゃん哲学板ラカンスレのログに「フジタ」ってコテハンがいたんだけど、あれあなた? 偽者じゃなくて? あ一応断っておくけどリアルタイムではわたしいませんでした。わたしがラカンに触れる以前だったと思う。日付は。わたし結構ラカン歴浅いっすよ。このブログはじめるちょっと前ぐらいから。
あのスレとかさ、なんかもう「フジタゼミ」化してたじゃん。あなたは教授になっていた。あなたは他の名無したちに教えを説いていた。
あれさー、ああいう専門板、過疎板だから荒らされなかっただけで、人の多い板なら、「ここはあんたのスレじゃない、わきまえろ、コテハンうぜえ」とかってツッコミ入ってたと思うんだ。いや多少は荒らされてたみたいだけど。そういやあなた匿名きらいよね、そのせいなの?
あれとか、「キング」になりたがる、「超越」したがる君の症状だとも思えるんだけど。
「上から見下ろす」って意味での「メタであること」じゃなくて、「隔たっていること」「外部であること」だけを考えるなら、むしろ匿名で自分勝手なことを言いあっている普通の2ちゃんスレの方が、よっぽど便宜的だと思うのよね。固有名詞とかまさに自我の固定化なわけじゃん。「想像的な自我」にする言語の補強。芝居が終わっても本名じゃなく役名を呼び続けちゃうようなわたしとかは「どっちでもいいじゃん」とか思っちゃう。
いやま、確かに2ちゃん文化は解離症状じゃないけどね。むしろ「自己愛による自我の隠蔽」。むしろ解離症状が難しくなっている。だけどそこを気をつければ、解離症状としての「独り言」を言う場としては、とっても適していると思うんだよな。実際そういうスレもちらほらあるし。それこそアスペ当事者やスキゾイド当事者が集うスレとか。
話がそれた。
君、「メタ」って言葉の罠にはまってない? こう、「分析家だから超越しなければ」って思っているところない?
答えなくていいよ。
分析主体になって「独り言」して自己分析すればいい。
あんときはヒステリー的主体にはなれてたんだからさ、多分できるよ。
そのときの自分の言葉を分析すればいい。
ま、そゆこと。
アク解見ると、一応藤田見てるらしい(コメントしてきた奴が本物なら)。
なーんか、こいつの思考回路考えると、「これ以上名誉毀損されたら訴えよう。そのために監視しよう」で見てる気がするなー。BBSが荒らされたときも法的手段ちらつかせてたし。
なんかなー。被害妄想ではあるんだが、萎えるなー。
被害妄想的恐怖と同時に萎えてる。
お前だってヒステリー的主体になってたじゃねえか。
それでマジモンのキチガイが現れたら「訴えるぞ」か。
しょせんその程度か、精神分析って。
狂気にまみれる覚悟がないなら最初から精神分析やんなよ。「薬の自動販売機」としての精神科医だけやってろよ。そういう医者の方が有用だ。患者からすれば。精神分析なんて学んでいない風野春樹の方がマシ。かかるなら。彼のブログおもろいし。
ほんともう精神分析やめたい。
つか死にたい。
藤田とか関係なくな。
飽きるのが怖いから、飽きられない。だから死ぬしかない。
飽きるのがなぜ怖いのか、それは死ぬことだからだ。
堂々巡り。冷静に考えて死ぬしかない。そこしか出口がない。
ほんとこないだまでの調子のよさが嘘みたいだわ。
うんこ漏らしそうで怖い。あ、隠喩(笑)よ。
涙出てきた。
ああこれで予期不安になるな(わたしの判断基準)。
精神分析なんか学ばきゃよかった。
知恵をつけるほど狂気は治療されにくくなる。
こういうわたしを見て藤田はなんて言うのだろう。
ラカンがアルトーに言ったごとく「狂気に固執している」とでも言うのだろうか。
違うよ。アルトーは知者だったんだ。だから狂気が治りにくかった。おそらくラカンより精神世界について詳しかった。フロイトは詩人の洞察力に驚いていただろ。アルトーだって詩人だ。ただその知が、ラカンやフロイトは言語知で、アルトーなどという詩人は、「言語の死刑囚」は、経験知だった、という違いはあるが。
アームチェア派とフィールドワーク派の違い。
狂気についての文化人類学。
狂気に固執しているんじゃないんだよ。
知に固執している。
動物的、幼児的知的好奇心。
その結果が狂気と呼ばれていることなだけ。
「知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ」
これ、お前んちのBBSだよ。
「風流な遊びとしての禅問答」を楽しんでいる、被害妄想や予期不安に苦しみながら書いているわたしのテクストを、書くことでなおさら苦痛が増幅するわたしを「楽しく拝見」する、お前自身だよ。
お前は精神疾患者ではない。
「芸術家は何度も殺される死刑囚だ」
お前は観客だ。幸福な世界の住人だ。
結局、「欲望のシーソー」なのよね。「わたし、潰すの、頭、フランシス」。
あれって生後十八ヶ月よりあとっぽいけど、鏡像段階の一つの隠喩的表現なわけじゃん。
精神分析治療ってのはファルスを再発見させることなわけじゃん。
となると精神分析治療も「欲望のシーソー」だと思うのよね。
分析家は、どっちなの? シーソーで上になる方なの?
わたしは、分析家は意図的にシーソーで下にならなきゃいけないと思うんだ。クライエントは上にくるからファルスを再発見する。
だけどね、人ってなかなか下になれないんだ。なかなか去勢以前の主観世界には戻れない。妄想分裂態勢や抑鬱態勢になれない。「子供時代は、そのものとしては、もうない」。
正常な人間はそう簡単にキチガイにはなれない。
主観世界のシーソーで上にくるからファルスは生じる。万能感を手に入れる。「王様としての子供」。
「分析家は分析家グループにおいては分析主体でなければならない。つまりヒステリー的主体でなければならない」ってのは、シーソーで下にくる練習だと思うんだ。「人間から隔たっている」存在になるための練習。
だからわたしはこう言うこともある。「分析家は、「わたし、潰すの、頭、フランシス」における、頭の潰されたフランシスでなければならない」と。
なんかね、あなたの発言見ていると、少なくともわたしは、シーソーの下にいさせられちゃう。
あなたはえらい。強い。
だからわたしは悪化する。被害妄想や予期不安が増幅する。
BBSの連中もえらそう。人間的、文化的だから。向井んちにはそう思えない人もいた。「独り言でしゃべっているな」と思えるから怖くない。一般的な感覚だとそっちの方が「えらそう」と思えるんだろうが。
見ているところが違うんだよ。
「聖人は屑である」か。
「屑としての遊び人」が、ただの演技にしか見えない。「聖人」部分をひき立たせるための演出にしか見えない。いや今のゼミ連中とかそんなただの演出にころっと騙されて「藤田さんはそんなにえらそうな人じゃない」とか言うんだろうけど(特に中野くんとか)。そういうところじゃないところを見てわたしは言ってんの。そういう風に思い込ませることができるのを「えらそう」って言ってるの。そんな表面的なところじゃないの。お前らのその感覚はただの「主人のディスクール」だよ。奴隷は奴隷となることで主人の主人となる。主人と奴隷の関係になれること自体が、無自覚的になんの抵抗もなくなれるところが、「えらそう」って言っているの。だから藤田もBBS連中も「えらそう」って言っているの。主人も奴隷も、キングもピエロも「えらそう」なの。
シーソーで上になってはじめて「四つのディスクール」に組み込まれる。
怖い。
わたしもね、自閉症者なんて相手にしているわけだからさ。高校生の自閉症者から「脂さんはあっち側の人だった。脂さんは強い」ってきらわれたことがあるんだ。このブログにきらわれたときのコメント残ってるよ。「薬師」って子。ブログ内検索してみそ。
「うん、強いよ、少なくともあなたよりは。それは事実だよ」と思ったもん。わたしは演じられるし。正常な人間を。彼は、自閉症というより分裂病型人格障害ぽかった。精神病的な症状も多少見られた。
わたしは彼よか正常な方だと自覚してたよ。
わたしは彼に転移していた。
それは、彼以外の人間だとシーソーの下にいさせられちゃうけど、相手が彼ならば上になれるから。彼というフランシスならわたしは頭を潰せた。握力が平均の半分もないわたしでも。
正常な精神なんての自体が、残酷なものなんだ。
だから残酷演劇ならぬ残酷臨床、ってね。
逆精神分析、ってね。
うん、鏡像的他者だったよ。一瞬だけはなついてくれたしね。
薬師さんを殺せばよかったんだよね。心的事実に則って。ほんとレイプしたいと思った瞬間あるもん。
それができなったのがわたしの甘いところ。分析主体として。
死にそう。死にたい、じゃなくて、死にそう。
絶対書き込むなよ、藤田。反論したいなら別の場所でしろ。もしここにコメントしてきたら、わたしは「狂気にまみれる覚悟ができた」と判断するだろうから。
狂気のまみれあいっこしたらお前の方が勝つに決まってるだろ。お前は正常人なんだから。いろんな道具がある。たとえば法律は原則的に正常人の味方だ。お前BBS荒らされたとき法的処置ちらつかせたよな。いやお前じゃなく別の人だっけ。まあどっちでもいいや。
まじで死にそう。被害妄想で死にそうになるって、理解できるか?
被害妄想? 加害妄想? 区別できない。
妄想に殺される。自分の妄想に。
あああと。全体的な感じとして、藤田BBSは抽象的で、向井BBSは具体的だという印象があった。
おそらくこれも一般的な感覚から言えば逆だろう。それこそバタイユ論など表象文化論が多い藤田BBSの方が具体的だ、と。精神医学的な話題が多い向井BBSの方が抽象的だ、と。
ところが「ふるまう」までもない分析主体の感覚だと、向井BBSの方が具体的だ、となる。
当然だろ。あたしゃ自分が病んだから精神分析やってんだ。精神医学的な話題が多い向井んちの方が具体的に思えるわ。「ああ、ああいうことかな」と。
お前らみたいに文化人サロン(爆笑)のおもちゃとしてやってるわけじゃねえんだ。ああ、文化人サロンだから「もっと隠喩が豊かな作品が読みたい」ってなるんだろうな。この発言は文化人サロンたる空気を読んで言った言葉なわけか。
むしろそこにたむろするお前らがそうだから、そういう空気だから、ヒステリー的主体としてふるまっていた藤田は向井んちで「精神病は転移するか否か」なんて手垢にまみれた議題を出したんじゃないか?
あれ藤田のメッセージなんじゃねえの? 一応藤田は主人になっているからな、「物言わぬ」のが主人だ。物を言えば主人ではなくなる。だから言えない。
まあどうでもええわ。
バイクで走っている。知りあいの劇団を見にいく途中。
なんでもないのに突然涙が出てくる。大量に。前がぼやける。吐き気もする。嗚咽。
フルフェイスだったので一旦停めて脱ごうと思う。でもなぜか人のいない場所でそうしなきゃいけないと思う。
なかなかいい場所はない。どこかに必ず人がいる。混乱する。
鼻水で息苦しくすらなりそんなこと言ってられなくなったので、適当に停める。
バイクの重みでよろける。妙に力が入らない。首もすわっていない感じ。降りるその瞬間はよぼよぼの老婆のようだったと思う。
首がすわってないというより平衡感覚がおかしい感じ。平衡感覚って確か耳だよな。そうだ。
メットを脱いだ瞬間、街の騒音が、黒板をひっかいたときのそれのような、音自体は全然別なのだが、ああいう不愉快さを感じる。
しばらくして、自分がにやにやしているのがわかる。
泣きながらにやにやしている。
これは感情なのだろうか。
もしこれを感情と言ってはならぬのなら、「学者が学問をやるという契機自体が、感情論なのである。」というのは誤りであろう。
いろんなものが漏れている。涙、鼻水、唾液、汗、小便、糞便、内臓、腸、子宮。
体の内外が裏返ったみたいだ。
死ぬ。
死ね。
「ブログなんてやんなきゃいいじゃん」
ほんとそうだよ。中野みたいなバカに声かけられずに済んだ。
もうやだ。
も。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
もうやだ。
ほんとわけわかんない。自分が情けない。何この変わりよう。たったこれだけの出来事でこんなんなるとか。
無理だよ、正常人復帰なんてむりむりむりむりかたつむりよ。
中坊さんが復帰できてたじゃん。わたしぶちぎれてるけどさ、わたしも快方に向かってはいたんだよ。
メシウマしたい読者には悪いけど、結構調子よかったんだよ。いやそういうとき意外と多いんだよ。
でこのざまだよ。
どうだよ、ほんとに。
無理だよ。ほんと。
死ぬしかないんじゃね、まじで。
どうやっても無理だよ。まじで。
こんなちょっとしたことでこうなんだから。
死ぬしかねえじゃん。
無理だよ、まじで。もうほんとやだ。
や、ゆ、
あったんだ。ん。
どうすりゃいいんだよ。
「もう、いいよね?」
なんだっけこれ、パトラッシュだっけ。
インド、あれ、チベットか。
意外に思われるかもしれないけど、アウトドアな一面もあったりしたんだな。いや99%はインドアだけど。照。
ねーどーすりゃいいのよ。
多分無理だよ、まじでじま。
死ぬしかないよ、ほんとなんかほんとにそう思っちゃうと、こんなんなんだよ。
無理だと悟ったら。
だん、った、だん。
もしもあしたわたしたちがなにもかもをなくしてただのこころしかもたないやせたねこになっても。
だっだっだだっだっ。
あたしちゅうそつやからねしごとをもらえへんのやとかいた、
だっだっだだっだっ。
あたしほんとはもくげき、したんです、
きのうでんしゃのえき、かいだんで、
ころがりおちた、こどもと、
つきとばしたおんなのうすわらい、
笑いながら泣いてたりしてたんじゃねえの?
うんこ漏らしてたりしてたんじゃねえの、その女。
閉鎖。僕の肛門も。
目、鼻、口が別々なら、目が泣いてるだけで、口が笑ってるだけで、顔になるからおかしいんだよ。
お前らがおかしいからおかしく見えるだけだよ。
無理でいいじゃん。
死んでいいじゃん。
やゆーん、
こ
kk
あ
殺される。
いつからかいつからかきづかずにぼくたちはすんでいたさかさまのくにことばにすればかならずそれはうそにかわる。
うそがうそ。
あ、なんか、まじでやめよ。なんか、いろいろ。
ほんと無理だからさ、すまんね。なんか、もう、何書いてもだめだ。何やってもだめだ。「あ、いけそう」って思っちゃうから疲れる。
なんかほんともう無理。何やっても。