「つぶやき」って「独り言」だろjk。
2010/09/28/Tue
たとえせかいがそらからおちても、
自分が落ちるんじゃなくて世界が落ちてくる。世界はそれまで空にあった。
未去勢者はこうなのだ。
この世界とはラカン的な意味での現実界じゃない世界だ。象徴界と想像界の世界だ。つまり精神的に正常な人間たちが住まう世界だ。
「欲望のシーソー」で上になれたから参入できた世界。
フランシスの頭を潰せたから参入できた世界。
フランシスの頭を潰せたから抑鬱態勢に移行する。
ああだからクラインはそれを「罪悪感」と言ったのか。それならわからない気がしないでもない。どっちかってと「喪失感」だけど。
たとえせかいがそらからおちても、
「たとえ」だよ、あくまで。その世界は決して落ちてこない。
期待しちゃだめよ? 未去勢者たちは。
わたしはほら、このブログ見ればわかるように、あちこちに期待してるじゃん。笙野頼子といい、「分析家グループ」といい。
でも落ちない。
そういうときのわたしの言葉は、その世界に住む人たちをひきずり下ろしていることになる。
そらそうだ。「世界が空から落ちても」でやってるんだから。
これがわたしがやってる、症状を悪化させるための精神分析たる「逆精神分析」。「狂気の伝染」。
たとえせかいがそらからおちても、
こう歌う亡者は、現実界を生きている。
「精神病は転移するか否か」について。
あたし統失は転移すると思うよ。結構しまくってるんじゃないかと。臨床報告とか読むと「そら明らかに転移やろ」って言える部分があるじゃん。向井もそう答えてなかったっけ、「転移すんじゃねーの」って。
むしろなぜこんなことが議題になるのかと。ああまあ、理論上「転移できないはずだ」ってことになるからか。
アホだなー。発症する前は彼らはお前たちと同じ正常人だったんだぜ? 転移できてたんだぜ?
発症して転移が困難になっているのはそうなんだろうけど、以前はできたんだから「あ、転移してる」って思えるような言動を取れるに決まっておろうが。快方に向かったら内面的にも転移できてたりするんだろうな。
転移が非常に困難なのは、むしろアスペルガーやスキゾイドだと思う。彼らは統失みたいに「転移できていた時期」の経験がないから。
こういう議題でなぜこっちの話にならないのかがむしろ不自然だわ。作為的。錯誤行為的。
なんかわたしこの議論にはどーも興味がひかれないんだよな。なんかこう、「リンゴはなぜリンゴなのか」を議論しているみたいで。
それを「リンゴ」と認識しているのが、お前自身の症状なんだよ。
前記事読み返すと、なんかこう、「分析家グループのあるべき姿」についてラカン派が眉間にしわ寄せて議論しているのってさ、すげえアホらしいことのように思えてきたわ。
あれじゃん、要は、一部の学者がしているみたいな、
「他者なんて別の世界にいっちゃったがごとく、一種の解離状態のごとく、一種の憑依状態(これはちょっと言いすぎだが)のごとく、しゃべり続ける」
って症状について、「なぜ俺らは簡単にできないんだ?」って議論していることとおんなじなわけじゃん。
アホだなー、って思うわ。
まあこういった「解離状態でのトーク(それはすでにディスクールとは言えないので適当に言った)」ができるかどうかは、才能による、って言っちゃって構わないと思うけどさあ。
そうできないのはお前らにそういう才能がないから。解離や憑依の。
なぜお前らは「解離状態的、憑依状態的にしゃべれないか」。
お前自身が他者に執着しているからだよ。
お前が去勢済み主体だからだ。
向井なんてのもばりばりな去勢済み主体だと思うよ。コラム読む限りそう思える。
でもがんばれてはいると思う。才能がないなりに。
藤田はがんばってんの? いや向井BBSへの殴り込みはそういった努力の一貫だと認めてはあげるけどさ、あれ以外でがんばってんの?
「対象aは屑である」って言葉に甘えてなくね?
ああ、あたしがラカン村おもすれーって思ってたのはこういうところだったりするんだろうな。「解離や憑依の才能のない奴らが、必死にそうなろうとがんばっている」のがおもしろい、と。あれだ、ユングの言う補償みたいなもんだな。
笙野頼子なんかはそういう才能はあると思うよ。まさに彼女の小説なんて解離や憑依じゃん。まあ最近は絶対他者主義に転換してるみたいだけど。
まあそういった才能が抜きん出ているのはアスペルガーだとは思う。
それは確かに解離や憑依とは言えないと思うけど、「(ラカン的な意味での)他者がいない状態でのトーク」の方がむしろ素な人たち。そういう素が社会では許されないから心的苦痛となる人たち。
だーらあたしこう言ってるわけだ。「自閉症者とは生まれながらの分析家である」と。
解離も憑依も、アスペルガーや一部学者のトークも、「独り言」なんだ。(ラカン的な意味での)他者がいない言葉たち。
いやさ、そういった「独り言」をすべてにしろ、っつってるわけじゃないんだよ?
こういうしゃべり方ってのは要するに「他人を気遣わずにするトーク」になるから、特に現代社会では排除されまくってるわけじゃん。「相手の立場になって考えましょう」ってのが宗教化している現代では。
「独り言」が言える場所がなくなってきている。
昔の、今でも一部のスレはそうだと思うが、2ちゃんねるなどはそういった場として活用されていた部分もある。
どっかにはそういう場所残しておくべきじゃねえの? と言ってるわけ。
その一つとして「分析家グループの語らい」ってのがそうなのかなー、と思ったけど、藤田んちとか見てると「だめだこりゃ」ってなっただけだよ。
「相手の立場になって考えましょう」教ってスゴイネー。
もっと具体を見ろよ。理論は具体によって変わるんだ。臨床によって理論は変わるんだ。まさに「言葉は言葉」。
臨床によって理論は変更されるべき、という原則を守りたかったから、フロイトは「精神分析は科学である」って言い張ったんじゃないんだろうか。要するに反証主義。理論じゃなくて実物を優先する。
バカだよなー。
なんかこう態度的にはへらへらしてる感じなんだけど、希死念慮は強いんだよな。予期不安と希死念慮って、連結しているように考えていた部分がある。奥底の希死念慮がβ要素となるから予期不安になる、みたいな。でもなんか違う。これらの原因は別個っぽい。少なくともわたしの中の予期不安と希死念慮は、確かに相関性を見出せるような出方をすることは多いのだが、そうでない場合もある。原因は別個と考えられなくはない。
なんかもうわからん。
「人間から隔たっている」とはどういうことか。
kyupinさんが描く「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者は、確かに共通点がある。記事内で指摘されている通りだ。
しかし異なる点もある。これも彼が指摘している通り。
=====
この点でも、彼らには広汎性発達障害(アスペルガーも含む)のような傷つきやすさや敏感さ(言われたことを悪く取るなど)が認められないので、ネットで言われている安易なアスペルガーのレッテル張りが間違っていることがわかる。
=====
これ、結構重要な違いだと思う。
この記事で書いているように、分析家は分析家グループ内においてはヒステリー的主体でなければならない。解離状態的、憑依状態的な「他者が希薄な状態」でなければならない。
それは平たく言えば「他人を気遣わない態度」だ。
この点が、「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者の共通点だとも言える。kyupinの記事から。
=====
しかし彼ら(彼女ら)は、人の気持ちを配慮する能力が欠如しているので、相手を傷つけることを言ってしまったりする。
=====
まさしく他人の気持ちを配慮する能力が欠如しているのが自閉症である。
では、分析家グループ内における分析家は、「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者、どちらであるべきなのだろう。
傷つきやすさがない「人をうつに陥れる達人」でいるべきか、傷つきやすいアスペルガー症候群者でいるべきか。
十川幸司は、「精神分析とは不快に進むべきものである」と言っている。
傷つきやすいから不快が蔓延する。
どっちなのだろう。
藤田博史が目指す分析家は、「人をうつに陥れる達人」のような気がする。内心傷ついているのかもしれないが、彼がネット上でばらまくコメントの多くは、傷ついているようには見えないものだ。
どっちなのだろう。
分析家は傷つきやすくいるべきなのか、傷つきにくくいるべきなのか。
患者側から言わせてもらうならば、双方にメリット、デメリットがある。
アスペルガー症候群者の傷つきやすさとは、平たく言えば不快の伝染である。この記事などが参考になるだろうか。
=====
ここでは、アスペの当事者会などに参加したことのある人間に向けた風に述べてみよう。
二人の当事者がケンカしている。それを見ていた別の第三者たる当事者が、その二人、ないしはどちらかについて、負的な感情を持つ。口をだしてしまう。まるで自分がケンカをしていたかのように、それについて感情的になる。ケンカがこじれる。
当事者会などでは、こういったようなケースがよく見られないだろうか。
=====
これはいわば、中島みゆきの『あした』における「凍えながら二人ともが二人分傷ついている」のである。「二人いれば不幸は半分に、幸福は倍に」とはまったく逆の状態となる。
傷つきやすい人間と接すると、不快は伝染するのである。不快は増幅してしまうのである。
この「不快の伝染」をわたしは極論的に「憎しみの連鎖」と言う場合がある。ママさんちのコメント欄から。
=====
自閉症者は「共感しない」わけじゃない。
「不快の共感」なら、している。
しかしこれは単純に言えば「憎しみの連鎖」みたいなことでもあるからな。あんま表立って言えないが。
=====
これは何もそんなに特別なことではない。あっさりこうも言える。「ストレス耐性の弱い人」と。
このような「ストレス耐性の弱い人」同士が接触すれば、不快は伝染し増幅してしまうのである。
彼らの症状は悪化するだろう。
したがってわたしは、「精神科医は鈍感であってほしいと思う部分もある」と言う場合がある。「ストレス耐性の強い人」であってくれ、と。自閉症当事者と話しているときそんなことを口走った覚えがある。あった、ここのコメント欄。
「鈍感な精神科医」は、「薬の自動販売機」として非常に有用なのである。わたしにとって。
しかしそういった人と身近に接触すると、それこそkyupinが書くように、うつではないが、わたしの症状は悪化する。
わたしにとって藤田は「ストレス耐性の強い人」だった。内心傷ついているのかもしれないが、そのようなコメントは書いていない。したがってわたしにとっての彼は「人をうつに陥れる達人」として作用してしまった。
どっちにしろ、悪化する場合があるのだ。
精神分析家はどうなのだろう。
「ストレス耐性の強い人」であるべきなのか、「ストレス耐性に弱い人」であるべきなのか。
こういった議論はされていないように思える。
まるで「自分がストレスを感じているかどうかなんて口が裂けても言えない」と言わんばかりに。
どうなのだろう。
どっちなのだろう。
まじで死ぬしかないのか、あたしは。
殺される。
時限装置は設置済みだ。大丈夫そうだと思ったら延期している。
これがあるからこそブログを書けているんだが。
これをはずしたらブログをやめられる、ということか?
いや、どっちみち症状の悪化にしかならない「まなざしまなざされあう関係」の中で殺されるだけだ。
殺される場所がどこか、の違いか。
ならせめてブログで死のう。
まだ「独り言」が許されそうなネットの森の中で。
樹海は汚く死ねるからいいんだよ。
それが自然なんだから。
真面目にやれよ、ほんとに。
こっちは「ふるまって」るわけじゃねえんだ。
怨霊になりたい。どんな霊媒師にも祓われない怨霊に。
せっかくいい感じになってたのに。
逆に言えば中坊さんの立場だよな。快方に向かっているところをわたしがひきずりおろそうとした。
いや違うな、藤田はわたしを蹴落とした。
ほんと木田原形而の言う通り。
「臨床とは残酷なものである」
それが「ストレス耐性の強い人」であっても「ストレス耐性の弱い人」であっても残酷だ。
どっちかはっきりしてくれ。物事をはっきりさせてくれ。
どっちとも残酷なのはそれでいいから。
臨床が残酷にならないのは、「ストレス耐性の強い人」同士の場合のみである。
全人類が「人をうつに陥れる達人」になれば、この世界は(悪い)ストレスが一掃されたユートピアとなるだろう。
つまり、うつになる方が悪いのだ、と。「ストレス耐性の弱い人」を駆逐すればよい、と。
「人を傷つけない言葉を言えばよい」だって? その言葉が傷つくかどうかなんてそいつの主観によるだろ? ここのコメント欄でも書いているが、わたしは世間一般で言えば「心が傷つかないような言葉」でも傷ついてしまう。世間一般では「傷ついてはならない」はずなのに傷ついてしまう。
最近の生きる糧は『最終幻想十四』の大ゴケだけだな。
もっとメシウマさせてくれ。
「悲しい人生だな」って? そらそうだ、メンヘラなんだから。
「最終幻想」が破壊されたらあとは現実がやってくるだけ。
現実界へよこそう。
藤田BBSとかわたしの陰口叩いているのかね。
うぜえ。
ああ、藤田の性格を考えると、わたしが死んだあととかに「彼女は私に(負的な)転移をしていた」とか言いそうだと思ってぞっとした。つか分析家が自分の業績をアピールするならそう言わなきゃならないからな。直言しなくても論理的にそういった意味になることを言いそうだ。臨床報告とかでも「それ本当にクライエント転移してんの? 強迫観念とか被害妄想で症状を抑圧してるんじゃねえの? その一瞬だけ」とか妄想しちゃうようなものもあるし。藤田の、じゃなくて一般論な。いやま、報告は報告だからな。要約度合いもあるし。ただの妄想。
というわけで先に防衛しておく。
この記事を読んでほしい。藤田がはじめてこのブログにコメントした記事だ。
そこでも書いているが、わたしはこのときネトゲ文化についての思考をめぐらせていた。そのような記事も書きかけていた。また、その記事自体、ネトゲ文化についての記事だ。
しかし藤田はネトゲとはまったく関係のないコメントをしてきた。
それだけならよかったのだ。この直前にフジタゼミの中野という人物がわたしをフジタゼミに誘ってきていた。わたしは自分が「フジタゼミにいきたいどうか」を考え、藤田サイトのBBSにわたしの症状を悪化させる人物がいることを思い出した。これにより若干わたしの症状は悪化してしまっていた。
こういった前提条件があったのも影響したと思う。
わたしは「関係ない話ふってくんじゃねえよ」という過剰な拒絶反応を示した。
わたしは軽いパニックに陥っていた。
パニックに陥りながら、「うぜえ、コメントすんな」とわたしは言っている。
これは「お前、邪魔」という意味だ。
こういった状態も転移と言えるのだろうか。負の転移だと。
「お前、邪魔」は負の転移だろうか。
これを転移とするのは、まさにストーカーがする「俺のこときらいだって? きらいと思っているのは俺のことを本当は好きだからだ」という思考ではないのか。
そう言われているときのストーカー被害者は、ストーカーに負の転移をしているのだろうか。
しかしわたしもあれだ。誤解を招くような行為をしているよな。ストーカーシーンになぞらえるなら。ストーカーが増長するような態度を取っている。いや藤田がストーカーだと言っているわけじゃなくてな。藤田とか関係なくこのシーンを仮にストーカーシーンにあてはめたら、という話だ。
そこのコメント欄にも表れているように、わたしは「邪魔だ」と思ったことでも真面目に考えちゃうんだよな。ストーカーの話について真面目に対応している。そうだよな、実際ストーカー被害を受けたことがあるんだが、今でこそ「ストーカーと話しあう場合は第三者を含めて話すのが原則」とか言われているが、わたしストーカーとサシで話したもんな。ここでも書いた。ああ再度言っておくが藤田をストーカー認定しているわけじゃないからな。藤田は置いておいて、わたしのこのときの主観世界をストーカー被害のときのそれにスライドできなくない、という話だ。
こういったようなことをわたしは「他人の思考が流入してくる」と表現することがある。あるいは隠喩(笑)として「レイプされている」と表現したりもする。
こういったことがあるからツイッターをやれない。
あれフォローした人のつぶやきが自分のつぶやきと混じって表示されるでしょ?
あの画面がだめなんだよな。
2ちゃんの定型句で「あれ? 俺がいる」などというのがあるが、まさに常時あれ状態。
混乱する。
症状が悪化する。
だからわたしはツイッターができない。
いやま、フォローしなければいいだけの話なんだけどさ。
なんかな、ちょっとだけツイッターやったことあるんだよ。で、一人フォローしただけで「うわっ」ってなったからさ。そんときの感じがちょっとキモイってだけ。そんなたいした理由じゃないけど、まあ進んでやるもんじゃないな、って。たいした理由じゃないからなんかのきっかけでやるかもしんないし。
つか「つぶやき」ってそれこそ「独り言」なわけじゃん? それでなんであんな「(短文ではあるが)会話するのに便利なシステム」になっているのかが理解できない。「他者がいない「独り言」のためのシステム」って売り文句のくせに「独り言」を許さない仕様にしている。わたしにしてみれば一種のダブルバインドだ。
ツイッターって「つぶやき」じゃねえだろ。それとも何か? 「つぶやき」ってダイアローグなのか? 意味的に間違っているだろ。「つぶやき」とはモノローグだろ。
要するにわたしが「「独り言」を言うシステムじゃない」と納得すればいいんじゃね、という話である。
それはともかく、今回はツイッターじゃないけど、中野くんの前フリもあったせいか、「他人の思考が流入してくる」状態になっちゃってたんだな。
だから混乱するんだよ。
なんかまあ、いろいろとタイミングが悪かったんだよ。
だからこそわたしの症状も悪化した。
故意ならここまでならなかったと思うよ。そういうのが見えたら身構えるし。対木田原形而くんとかはそうだった。つーかいつもこんなんだったらとっくに自殺してるだろjk。
なんつか、「運も実力のうち」なら、天賦の才能があったんだよ、藤田は。わたしをいじめる。
たまたまやることなすことが偶然いじめになる奴こそが、いじめの才能がある、ってことにならない? いじめって。わかんない? そういう感じ。
そういうことだ。
つかさー、わたしブログと藤田BBSを見比べてごらんよ。
具体的なことに多く触れているのはどちらだ?
いやまあ、具体的かどうかもそいつの主観によるんだが。
少なくとも、「精神面についての科学」として、具体に触れているのは、どちらだ?
バタイユ論や表象文化論がメインになっている藤田BBSか?
もちろんこのブログだってオタク文化という表象文化に触れてはいる。
表象文化にだって具体はある。オタク文化ならオタクという具体が。バタイユ作品ならバタイユ個人の主観世界という具体が。
バタイユ議論しているときの彼らは、バタイユ個人の主観世界を論じていただろうか?
わたしにゃ藤田BBSの方が抽象的だと思える。この記事でもそう書いてあるが。対照物は向井んちだけど。
それこそ「コトバハコトバ」になってるのはどっちだ? と。
藤田個人に関しては、著作は確かに具体に迫っているとは思うけど、BBSやうちでの態度はむしろ具体を避けているように思える。
こういうのもわたしにとってはダブルバインドとなる。
「どっちなんだよ」と。「はっきりしろよ」と。
あ、いやま、わたし「コトバハコトバ」っての気に入ったとかって書いてるけど、わたしにとってはすべての言葉が抽象だからさ。
そらそうだろ、言葉は言葉、物は物。たとえその言葉がその物を示していても、その言葉はその物ではありえない。
言葉を使っている限り「コトバハコトバ」になる。厳密に言えば。つかわたしにとっては。
むしろ「コトバハコトバ」ってならないのが、お前たちの症状なわけだ。
そうだよな、去勢済み主体にとっては、言葉がただの(言語学の研究対象物としての、ような意味)言葉じゃなくなっているから、大文字の他者ってなるんだよな。
すべての言葉が「コトバハコトバ」になってないからこそ、お前らは分析主体になれないんだよ。
「隠喩が豊か」になればなるほどそれは抽象的になっていく。
具体から離れていく。
なのにそれを欲望してしまうのは、お前たちが大文字の他者に執着しているからだよ。
「物としての言葉」ではなく「他者としての言葉」に。
今考えると、わたしが一瞬だけでも調子よくなったのって、『パーフェクトブルー』の影響も一因としてあるだろうな。
わたしはその主人公未麻について、わたしが知っている「精神疾患にかかりにくそうな人」たるアイドルの卵を連想した。似てると思う。他の人もそう言うんじゃないかな。今はどうなってるか知らないが。
その未麻の自我が壊れていく、というストーリーだ。
やっぱわたし未麻に対してメシウマしてたんだよな。
「メシウマ」って2ちゃんで語られている用語で「人の不幸は三度のメシよりウマい」という意味だ。道徳的に間違っているとされがちなことだよな。
でもさー、精神分析治療って、どうやってもその具体は「欲望のシーソー」だと思うんだよな。
精神分析から「治療という楔」を抜きたくないなら、「メシウマ」は真面目に考えられるべき具体だと思うんだけど、どうよ?
「三度のメシより」ってのも的確だよな。欲望が欲求に打ち勝つって意味で考えれば。精神分析は食欲などといった「欲求」と「欲望」は別物だと考えている。
とするとさー、治療者としては、藤田なんかより『パーフェクトブルー』の方が、わたしにとっては上だった、ってことになるんだが。
実際に藤田はわたしを悪化させて、『パーフェクトブルー』はわたしを快方に向かわせた。
いやまそれ以前から快方に向かってたけどね、新宿に飲みにいったのそれよりちょっと前だし。
でも、確かにわたしはそこのコメント欄で「うわあああ」となっているが、予期不安が増長したというわけでもなかった。藤田一派の登場により、因果関係を明らかに認めてもよいレベルで、予期不安が増長した。
なるほど。こう考えればわたしは確かに「藤田一派に対し負の転移をしている」と言われてもおかしかないな。
でもなー、ここでも書いているだろ?
=====
なんかまあ、いろいろとタイミングが悪かったんだよ。
だからこそわたしの症状も悪化した。
=====
わたしが悪化したのはお前らのせいだとわたしが確信すれば、それは確かに負の転移となる。治療的には快方に向かっているわけではないが、「欲望できない」分裂症(統失より広い症状を示したいので)からは脱出していることになる。転移できているわけだからな。
そうじゃないんだよな。
なんかこう、こうなる。いつも。
誰かのせいにできたらいいんだよ。
だからわたしはわたしの症状を「不確定性トラウマ」(めんどくせえ、ブログ内検索しろ)だと言って、「やる瀬ない」と表現している。
誰かのせいにできないから、快方に向かわないんだよ。
まあ、誰かのせいにしても、憎悪という感情に飲み込まれるだけだから、快方に向かわないんだろうけどね。
「欲望のシーソー」ってこういうことじゃねえの。
「誰かのせいにする」のが「悪い乳房の投影」か。
「悪い乳房」を投影しきれるかどうか、じゃね?
投影しきれるから、「王様としての子供」となりえる。「俺は悪くないんだ」と。
あ、なんかちょっと見えてきた。
そうだよな、わたしが殺意を抱いているその「隠喩ババア」と面したとき、おそらくわたしはパニック発作に陥ると思う。これは経験からそう予測している。
このパニックって、要するに「悪い乳房を投影しきれない」からなるんじゃねえの。
むしろ隠喩連鎖の根源って、隠喩はなぜ連鎖するのかっての答えは、「悪い乳房の投影」だ、ってことだよな。
ああ、具体が言葉につながってきた。
わたしにとっての具体だけどな。
「悪い乳房」を抱え込んでしまう。
「悪い乳房」こそが、「大文字の物」で「物自体」なんじゃね。
クラインはそれを具体的に述べただけで。
でもあたし自分の乳そんなきらいじゃねえんだけどな。形は悪いけど。昔から。
なぜわたしはそれを投影できないのか。棄却できないのか。
それが悪いものかどうか確信できないからだ。
父の名が希薄だ、ってことか。
「排除」ではなかろうな。わたし精神病って診断されないだろうし。
こうやってわたしはこのブログで起きた一連の事件についてブログ上で自己分析しているわけだが、藤田はどうなんだろうな。
「コメ禁された」とか言ってくるかもしれないけど、猶予期間はあっただろ。にも関わらず藤田は一向にそうする気配がなかった。むしろ徹底的に「自己分析の開陳」を避けているようにわたしには見えた。向井事件のときも彼はそうだった。彼はなぜ自分がそうしたのかという分析を、公にしていない。
「書かないだけで内面ではしている」のかね。
ならば、なぜ「書けない」のだろうね?
それは、お前のうちに他者がいるからじゃないか?
他者のまなざしを気にしているから書けないんじゃないか?
お前が他者に執着している症状じゃないか?
それこそが「他者の欲望である欲望」関係に、鏡像関係に囚われている症状じゃないか?
だからお前らは分析主体になれないんだよ。
ま、そゆこと。
自分が落ちるんじゃなくて世界が落ちてくる。世界はそれまで空にあった。
未去勢者はこうなのだ。
この世界とはラカン的な意味での現実界じゃない世界だ。象徴界と想像界の世界だ。つまり精神的に正常な人間たちが住まう世界だ。
「欲望のシーソー」で上になれたから参入できた世界。
フランシスの頭を潰せたから参入できた世界。
フランシスの頭を潰せたから抑鬱態勢に移行する。
ああだからクラインはそれを「罪悪感」と言ったのか。それならわからない気がしないでもない。どっちかってと「喪失感」だけど。
たとえせかいがそらからおちても、
「たとえ」だよ、あくまで。その世界は決して落ちてこない。
期待しちゃだめよ? 未去勢者たちは。
わたしはほら、このブログ見ればわかるように、あちこちに期待してるじゃん。笙野頼子といい、「分析家グループ」といい。
でも落ちない。
そういうときのわたしの言葉は、その世界に住む人たちをひきずり下ろしていることになる。
そらそうだ。「世界が空から落ちても」でやってるんだから。
これがわたしがやってる、症状を悪化させるための精神分析たる「逆精神分析」。「狂気の伝染」。
たとえせかいがそらからおちても、
こう歌う亡者は、現実界を生きている。
「精神病は転移するか否か」について。
あたし統失は転移すると思うよ。結構しまくってるんじゃないかと。臨床報告とか読むと「そら明らかに転移やろ」って言える部分があるじゃん。向井もそう答えてなかったっけ、「転移すんじゃねーの」って。
むしろなぜこんなことが議題になるのかと。ああまあ、理論上「転移できないはずだ」ってことになるからか。
アホだなー。発症する前は彼らはお前たちと同じ正常人だったんだぜ? 転移できてたんだぜ?
発症して転移が困難になっているのはそうなんだろうけど、以前はできたんだから「あ、転移してる」って思えるような言動を取れるに決まっておろうが。快方に向かったら内面的にも転移できてたりするんだろうな。
転移が非常に困難なのは、むしろアスペルガーやスキゾイドだと思う。彼らは統失みたいに「転移できていた時期」の経験がないから。
こういう議題でなぜこっちの話にならないのかがむしろ不自然だわ。作為的。錯誤行為的。
なんかわたしこの議論にはどーも興味がひかれないんだよな。なんかこう、「リンゴはなぜリンゴなのか」を議論しているみたいで。
それを「リンゴ」と認識しているのが、お前自身の症状なんだよ。
前記事読み返すと、なんかこう、「分析家グループのあるべき姿」についてラカン派が眉間にしわ寄せて議論しているのってさ、すげえアホらしいことのように思えてきたわ。
あれじゃん、要は、一部の学者がしているみたいな、
「他者なんて別の世界にいっちゃったがごとく、一種の解離状態のごとく、一種の憑依状態(これはちょっと言いすぎだが)のごとく、しゃべり続ける」
って症状について、「なぜ俺らは簡単にできないんだ?」って議論していることとおんなじなわけじゃん。
アホだなー、って思うわ。
まあこういった「解離状態でのトーク(それはすでにディスクールとは言えないので適当に言った)」ができるかどうかは、才能による、って言っちゃって構わないと思うけどさあ。
そうできないのはお前らにそういう才能がないから。解離や憑依の。
なぜお前らは「解離状態的、憑依状態的にしゃべれないか」。
お前自身が他者に執着しているからだよ。
お前が去勢済み主体だからだ。
向井なんてのもばりばりな去勢済み主体だと思うよ。コラム読む限りそう思える。
でもがんばれてはいると思う。才能がないなりに。
藤田はがんばってんの? いや向井BBSへの殴り込みはそういった努力の一貫だと認めてはあげるけどさ、あれ以外でがんばってんの?
「対象aは屑である」って言葉に甘えてなくね?
ああ、あたしがラカン村おもすれーって思ってたのはこういうところだったりするんだろうな。「解離や憑依の才能のない奴らが、必死にそうなろうとがんばっている」のがおもしろい、と。あれだ、ユングの言う補償みたいなもんだな。
笙野頼子なんかはそういう才能はあると思うよ。まさに彼女の小説なんて解離や憑依じゃん。まあ最近は絶対他者主義に転換してるみたいだけど。
まあそういった才能が抜きん出ているのはアスペルガーだとは思う。
それは確かに解離や憑依とは言えないと思うけど、「(ラカン的な意味での)他者がいない状態でのトーク」の方がむしろ素な人たち。そういう素が社会では許されないから心的苦痛となる人たち。
だーらあたしこう言ってるわけだ。「自閉症者とは生まれながらの分析家である」と。
解離も憑依も、アスペルガーや一部学者のトークも、「独り言」なんだ。(ラカン的な意味での)他者がいない言葉たち。
いやさ、そういった「独り言」をすべてにしろ、っつってるわけじゃないんだよ?
こういうしゃべり方ってのは要するに「他人を気遣わずにするトーク」になるから、特に現代社会では排除されまくってるわけじゃん。「相手の立場になって考えましょう」ってのが宗教化している現代では。
「独り言」が言える場所がなくなってきている。
昔の、今でも一部のスレはそうだと思うが、2ちゃんねるなどはそういった場として活用されていた部分もある。
どっかにはそういう場所残しておくべきじゃねえの? と言ってるわけ。
その一つとして「分析家グループの語らい」ってのがそうなのかなー、と思ったけど、藤田んちとか見てると「だめだこりゃ」ってなっただけだよ。
「相手の立場になって考えましょう」教ってスゴイネー。
もっと具体を見ろよ。理論は具体によって変わるんだ。臨床によって理論は変わるんだ。まさに「言葉は言葉」。
臨床によって理論は変更されるべき、という原則を守りたかったから、フロイトは「精神分析は科学である」って言い張ったんじゃないんだろうか。要するに反証主義。理論じゃなくて実物を優先する。
バカだよなー。
なんかこう態度的にはへらへらしてる感じなんだけど、希死念慮は強いんだよな。予期不安と希死念慮って、連結しているように考えていた部分がある。奥底の希死念慮がβ要素となるから予期不安になる、みたいな。でもなんか違う。これらの原因は別個っぽい。少なくともわたしの中の予期不安と希死念慮は、確かに相関性を見出せるような出方をすることは多いのだが、そうでない場合もある。原因は別個と考えられなくはない。
なんかもうわからん。
「人間から隔たっている」とはどういうことか。
kyupinさんが描く「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者は、確かに共通点がある。記事内で指摘されている通りだ。
しかし異なる点もある。これも彼が指摘している通り。
=====
この点でも、彼らには広汎性発達障害(アスペルガーも含む)のような傷つきやすさや敏感さ(言われたことを悪く取るなど)が認められないので、ネットで言われている安易なアスペルガーのレッテル張りが間違っていることがわかる。
=====
これ、結構重要な違いだと思う。
この記事で書いているように、分析家は分析家グループ内においてはヒステリー的主体でなければならない。解離状態的、憑依状態的な「他者が希薄な状態」でなければならない。
それは平たく言えば「他人を気遣わない態度」だ。
この点が、「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者の共通点だとも言える。kyupinの記事から。
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しかし彼ら(彼女ら)は、人の気持ちを配慮する能力が欠如しているので、相手を傷つけることを言ってしまったりする。
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まさしく他人の気持ちを配慮する能力が欠如しているのが自閉症である。
では、分析家グループ内における分析家は、「人をうつに陥れる達人」とアスペルガー症候群者、どちらであるべきなのだろう。
傷つきやすさがない「人をうつに陥れる達人」でいるべきか、傷つきやすいアスペルガー症候群者でいるべきか。
十川幸司は、「精神分析とは不快に進むべきものである」と言っている。
傷つきやすいから不快が蔓延する。
どっちなのだろう。
藤田博史が目指す分析家は、「人をうつに陥れる達人」のような気がする。内心傷ついているのかもしれないが、彼がネット上でばらまくコメントの多くは、傷ついているようには見えないものだ。
どっちなのだろう。
分析家は傷つきやすくいるべきなのか、傷つきにくくいるべきなのか。
患者側から言わせてもらうならば、双方にメリット、デメリットがある。
アスペルガー症候群者の傷つきやすさとは、平たく言えば不快の伝染である。この記事などが参考になるだろうか。
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ここでは、アスペの当事者会などに参加したことのある人間に向けた風に述べてみよう。
二人の当事者がケンカしている。それを見ていた別の第三者たる当事者が、その二人、ないしはどちらかについて、負的な感情を持つ。口をだしてしまう。まるで自分がケンカをしていたかのように、それについて感情的になる。ケンカがこじれる。
当事者会などでは、こういったようなケースがよく見られないだろうか。
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これはいわば、中島みゆきの『あした』における「凍えながら二人ともが二人分傷ついている」のである。「二人いれば不幸は半分に、幸福は倍に」とはまったく逆の状態となる。
傷つきやすい人間と接すると、不快は伝染するのである。不快は増幅してしまうのである。
この「不快の伝染」をわたしは極論的に「憎しみの連鎖」と言う場合がある。ママさんちのコメント欄から。
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自閉症者は「共感しない」わけじゃない。
「不快の共感」なら、している。
しかしこれは単純に言えば「憎しみの連鎖」みたいなことでもあるからな。あんま表立って言えないが。
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これは何もそんなに特別なことではない。あっさりこうも言える。「ストレス耐性の弱い人」と。
このような「ストレス耐性の弱い人」同士が接触すれば、不快は伝染し増幅してしまうのである。
彼らの症状は悪化するだろう。
したがってわたしは、「精神科医は鈍感であってほしいと思う部分もある」と言う場合がある。「ストレス耐性の強い人」であってくれ、と。自閉症当事者と話しているときそんなことを口走った覚えがある。あった、ここのコメント欄。
「鈍感な精神科医」は、「薬の自動販売機」として非常に有用なのである。わたしにとって。
しかしそういった人と身近に接触すると、それこそkyupinが書くように、うつではないが、わたしの症状は悪化する。
わたしにとって藤田は「ストレス耐性の強い人」だった。内心傷ついているのかもしれないが、そのようなコメントは書いていない。したがってわたしにとっての彼は「人をうつに陥れる達人」として作用してしまった。
どっちにしろ、悪化する場合があるのだ。
精神分析家はどうなのだろう。
「ストレス耐性の強い人」であるべきなのか、「ストレス耐性に弱い人」であるべきなのか。
こういった議論はされていないように思える。
まるで「自分がストレスを感じているかどうかなんて口が裂けても言えない」と言わんばかりに。
どうなのだろう。
どっちなのだろう。
まじで死ぬしかないのか、あたしは。
殺される。
時限装置は設置済みだ。大丈夫そうだと思ったら延期している。
これがあるからこそブログを書けているんだが。
これをはずしたらブログをやめられる、ということか?
いや、どっちみち症状の悪化にしかならない「まなざしまなざされあう関係」の中で殺されるだけだ。
殺される場所がどこか、の違いか。
ならせめてブログで死のう。
まだ「独り言」が許されそうなネットの森の中で。
樹海は汚く死ねるからいいんだよ。
それが自然なんだから。
真面目にやれよ、ほんとに。
こっちは「ふるまって」るわけじゃねえんだ。
怨霊になりたい。どんな霊媒師にも祓われない怨霊に。
せっかくいい感じになってたのに。
逆に言えば中坊さんの立場だよな。快方に向かっているところをわたしがひきずりおろそうとした。
いや違うな、藤田はわたしを蹴落とした。
ほんと木田原形而の言う通り。
「臨床とは残酷なものである」
それが「ストレス耐性の強い人」であっても「ストレス耐性の弱い人」であっても残酷だ。
どっちかはっきりしてくれ。物事をはっきりさせてくれ。
どっちとも残酷なのはそれでいいから。
臨床が残酷にならないのは、「ストレス耐性の強い人」同士の場合のみである。
全人類が「人をうつに陥れる達人」になれば、この世界は(悪い)ストレスが一掃されたユートピアとなるだろう。
つまり、うつになる方が悪いのだ、と。「ストレス耐性の弱い人」を駆逐すればよい、と。
「人を傷つけない言葉を言えばよい」だって? その言葉が傷つくかどうかなんてそいつの主観によるだろ? ここのコメント欄でも書いているが、わたしは世間一般で言えば「心が傷つかないような言葉」でも傷ついてしまう。世間一般では「傷ついてはならない」はずなのに傷ついてしまう。
最近の生きる糧は『最終幻想十四』の大ゴケだけだな。
もっとメシウマさせてくれ。
「悲しい人生だな」って? そらそうだ、メンヘラなんだから。
「最終幻想」が破壊されたらあとは現実がやってくるだけ。
現実界へよこそう。
藤田BBSとかわたしの陰口叩いているのかね。
うぜえ。
ああ、藤田の性格を考えると、わたしが死んだあととかに「彼女は私に(負的な)転移をしていた」とか言いそうだと思ってぞっとした。つか分析家が自分の業績をアピールするならそう言わなきゃならないからな。直言しなくても論理的にそういった意味になることを言いそうだ。臨床報告とかでも「それ本当にクライエント転移してんの? 強迫観念とか被害妄想で症状を抑圧してるんじゃねえの? その一瞬だけ」とか妄想しちゃうようなものもあるし。藤田の、じゃなくて一般論な。いやま、報告は報告だからな。要約度合いもあるし。ただの妄想。
というわけで先に防衛しておく。
この記事を読んでほしい。藤田がはじめてこのブログにコメントした記事だ。
そこでも書いているが、わたしはこのときネトゲ文化についての思考をめぐらせていた。そのような記事も書きかけていた。また、その記事自体、ネトゲ文化についての記事だ。
しかし藤田はネトゲとはまったく関係のないコメントをしてきた。
それだけならよかったのだ。この直前にフジタゼミの中野という人物がわたしをフジタゼミに誘ってきていた。わたしは自分が「フジタゼミにいきたいどうか」を考え、藤田サイトのBBSにわたしの症状を悪化させる人物がいることを思い出した。これにより若干わたしの症状は悪化してしまっていた。
こういった前提条件があったのも影響したと思う。
わたしは「関係ない話ふってくんじゃねえよ」という過剰な拒絶反応を示した。
わたしは軽いパニックに陥っていた。
パニックに陥りながら、「うぜえ、コメントすんな」とわたしは言っている。
これは「お前、邪魔」という意味だ。
こういった状態も転移と言えるのだろうか。負の転移だと。
「お前、邪魔」は負の転移だろうか。
これを転移とするのは、まさにストーカーがする「俺のこときらいだって? きらいと思っているのは俺のことを本当は好きだからだ」という思考ではないのか。
そう言われているときのストーカー被害者は、ストーカーに負の転移をしているのだろうか。
しかしわたしもあれだ。誤解を招くような行為をしているよな。ストーカーシーンになぞらえるなら。ストーカーが増長するような態度を取っている。いや藤田がストーカーだと言っているわけじゃなくてな。藤田とか関係なくこのシーンを仮にストーカーシーンにあてはめたら、という話だ。
そこのコメント欄にも表れているように、わたしは「邪魔だ」と思ったことでも真面目に考えちゃうんだよな。ストーカーの話について真面目に対応している。そうだよな、実際ストーカー被害を受けたことがあるんだが、今でこそ「ストーカーと話しあう場合は第三者を含めて話すのが原則」とか言われているが、わたしストーカーとサシで話したもんな。ここでも書いた。ああ再度言っておくが藤田をストーカー認定しているわけじゃないからな。藤田は置いておいて、わたしのこのときの主観世界をストーカー被害のときのそれにスライドできなくない、という話だ。
こういったようなことをわたしは「他人の思考が流入してくる」と表現することがある。あるいは隠喩(笑)として「レイプされている」と表現したりもする。
こういったことがあるからツイッターをやれない。
あれフォローした人のつぶやきが自分のつぶやきと混じって表示されるでしょ?
あの画面がだめなんだよな。
2ちゃんの定型句で「あれ? 俺がいる」などというのがあるが、まさに常時あれ状態。
混乱する。
症状が悪化する。
だからわたしはツイッターができない。
いやま、フォローしなければいいだけの話なんだけどさ。
なんかな、ちょっとだけツイッターやったことあるんだよ。で、一人フォローしただけで「うわっ」ってなったからさ。そんときの感じがちょっとキモイってだけ。そんなたいした理由じゃないけど、まあ進んでやるもんじゃないな、って。たいした理由じゃないからなんかのきっかけでやるかもしんないし。
つか「つぶやき」ってそれこそ「独り言」なわけじゃん? それでなんであんな「(短文ではあるが)会話するのに便利なシステム」になっているのかが理解できない。「他者がいない「独り言」のためのシステム」って売り文句のくせに「独り言」を許さない仕様にしている。わたしにしてみれば一種のダブルバインドだ。
ツイッターって「つぶやき」じゃねえだろ。それとも何か? 「つぶやき」ってダイアローグなのか? 意味的に間違っているだろ。「つぶやき」とはモノローグだろ。
要するにわたしが「「独り言」を言うシステムじゃない」と納得すればいいんじゃね、という話である。
それはともかく、今回はツイッターじゃないけど、中野くんの前フリもあったせいか、「他人の思考が流入してくる」状態になっちゃってたんだな。
だから混乱するんだよ。
なんかまあ、いろいろとタイミングが悪かったんだよ。
だからこそわたしの症状も悪化した。
故意ならここまでならなかったと思うよ。そういうのが見えたら身構えるし。対木田原形而くんとかはそうだった。つーかいつもこんなんだったらとっくに自殺してるだろjk。
なんつか、「運も実力のうち」なら、天賦の才能があったんだよ、藤田は。わたしをいじめる。
たまたまやることなすことが偶然いじめになる奴こそが、いじめの才能がある、ってことにならない? いじめって。わかんない? そういう感じ。
そういうことだ。
つかさー、わたしブログと藤田BBSを見比べてごらんよ。
具体的なことに多く触れているのはどちらだ?
いやまあ、具体的かどうかもそいつの主観によるんだが。
少なくとも、「精神面についての科学」として、具体に触れているのは、どちらだ?
バタイユ論や表象文化論がメインになっている藤田BBSか?
もちろんこのブログだってオタク文化という表象文化に触れてはいる。
表象文化にだって具体はある。オタク文化ならオタクという具体が。バタイユ作品ならバタイユ個人の主観世界という具体が。
バタイユ議論しているときの彼らは、バタイユ個人の主観世界を論じていただろうか?
わたしにゃ藤田BBSの方が抽象的だと思える。この記事でもそう書いてあるが。対照物は向井んちだけど。
それこそ「コトバハコトバ」になってるのはどっちだ? と。
藤田個人に関しては、著作は確かに具体に迫っているとは思うけど、BBSやうちでの態度はむしろ具体を避けているように思える。
こういうのもわたしにとってはダブルバインドとなる。
「どっちなんだよ」と。「はっきりしろよ」と。
あ、いやま、わたし「コトバハコトバ」っての気に入ったとかって書いてるけど、わたしにとってはすべての言葉が抽象だからさ。
そらそうだろ、言葉は言葉、物は物。たとえその言葉がその物を示していても、その言葉はその物ではありえない。
言葉を使っている限り「コトバハコトバ」になる。厳密に言えば。つかわたしにとっては。
むしろ「コトバハコトバ」ってならないのが、お前たちの症状なわけだ。
そうだよな、去勢済み主体にとっては、言葉がただの(言語学の研究対象物としての、ような意味)言葉じゃなくなっているから、大文字の他者ってなるんだよな。
すべての言葉が「コトバハコトバ」になってないからこそ、お前らは分析主体になれないんだよ。
「隠喩が豊か」になればなるほどそれは抽象的になっていく。
具体から離れていく。
なのにそれを欲望してしまうのは、お前たちが大文字の他者に執着しているからだよ。
「物としての言葉」ではなく「他者としての言葉」に。
今考えると、わたしが一瞬だけでも調子よくなったのって、『パーフェクトブルー』の影響も一因としてあるだろうな。
わたしはその主人公未麻について、わたしが知っている「精神疾患にかかりにくそうな人」たるアイドルの卵を連想した。似てると思う。他の人もそう言うんじゃないかな。今はどうなってるか知らないが。
その未麻の自我が壊れていく、というストーリーだ。
やっぱわたし未麻に対してメシウマしてたんだよな。
「メシウマ」って2ちゃんで語られている用語で「人の不幸は三度のメシよりウマい」という意味だ。道徳的に間違っているとされがちなことだよな。
でもさー、精神分析治療って、どうやってもその具体は「欲望のシーソー」だと思うんだよな。
精神分析から「治療という楔」を抜きたくないなら、「メシウマ」は真面目に考えられるべき具体だと思うんだけど、どうよ?
「三度のメシより」ってのも的確だよな。欲望が欲求に打ち勝つって意味で考えれば。精神分析は食欲などといった「欲求」と「欲望」は別物だと考えている。
とするとさー、治療者としては、藤田なんかより『パーフェクトブルー』の方が、わたしにとっては上だった、ってことになるんだが。
実際に藤田はわたしを悪化させて、『パーフェクトブルー』はわたしを快方に向かわせた。
いやまそれ以前から快方に向かってたけどね、新宿に飲みにいったのそれよりちょっと前だし。
でも、確かにわたしはそこのコメント欄で「うわあああ」となっているが、予期不安が増長したというわけでもなかった。藤田一派の登場により、因果関係を明らかに認めてもよいレベルで、予期不安が増長した。
なるほど。こう考えればわたしは確かに「藤田一派に対し負の転移をしている」と言われてもおかしかないな。
でもなー、ここでも書いているだろ?
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なんかまあ、いろいろとタイミングが悪かったんだよ。
だからこそわたしの症状も悪化した。
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わたしが悪化したのはお前らのせいだとわたしが確信すれば、それは確かに負の転移となる。治療的には快方に向かっているわけではないが、「欲望できない」分裂症(統失より広い症状を示したいので)からは脱出していることになる。転移できているわけだからな。
そうじゃないんだよな。
なんかこう、こうなる。いつも。
誰かのせいにできたらいいんだよ。
だからわたしはわたしの症状を「不確定性トラウマ」(めんどくせえ、ブログ内検索しろ)だと言って、「やる瀬ない」と表現している。
誰かのせいにできないから、快方に向かわないんだよ。
まあ、誰かのせいにしても、憎悪という感情に飲み込まれるだけだから、快方に向かわないんだろうけどね。
「欲望のシーソー」ってこういうことじゃねえの。
「誰かのせいにする」のが「悪い乳房の投影」か。
「悪い乳房」を投影しきれるかどうか、じゃね?
投影しきれるから、「王様としての子供」となりえる。「俺は悪くないんだ」と。
あ、なんかちょっと見えてきた。
そうだよな、わたしが殺意を抱いているその「隠喩ババア」と面したとき、おそらくわたしはパニック発作に陥ると思う。これは経験からそう予測している。
このパニックって、要するに「悪い乳房を投影しきれない」からなるんじゃねえの。
むしろ隠喩連鎖の根源って、隠喩はなぜ連鎖するのかっての答えは、「悪い乳房の投影」だ、ってことだよな。
ああ、具体が言葉につながってきた。
わたしにとっての具体だけどな。
「悪い乳房」を抱え込んでしまう。
「悪い乳房」こそが、「大文字の物」で「物自体」なんじゃね。
クラインはそれを具体的に述べただけで。
でもあたし自分の乳そんなきらいじゃねえんだけどな。形は悪いけど。昔から。
なぜわたしはそれを投影できないのか。棄却できないのか。
それが悪いものかどうか確信できないからだ。
父の名が希薄だ、ってことか。
「排除」ではなかろうな。わたし精神病って診断されないだろうし。
こうやってわたしはこのブログで起きた一連の事件についてブログ上で自己分析しているわけだが、藤田はどうなんだろうな。
「コメ禁された」とか言ってくるかもしれないけど、猶予期間はあっただろ。にも関わらず藤田は一向にそうする気配がなかった。むしろ徹底的に「自己分析の開陳」を避けているようにわたしには見えた。向井事件のときも彼はそうだった。彼はなぜ自分がそうしたのかという分析を、公にしていない。
「書かないだけで内面ではしている」のかね。
ならば、なぜ「書けない」のだろうね?
それは、お前のうちに他者がいるからじゃないか?
他者のまなざしを気にしているから書けないんじゃないか?
お前が他者に執着している症状じゃないか?
それこそが「他者の欲望である欲望」関係に、鏡像関係に囚われている症状じゃないか?
だからお前らは分析主体になれないんだよ。
ま、そゆこと。