「東大改革」という臨床素材
2010/09/30/Thu
実情は別に生の欲動もあってもいいんだよ。
実際わたしにも「あーこれはどちらかというと生の欲動だなあ」と思える部分があるし。
だけどほとんどの人間が生の欲動だけになっているのが問題なんだ。
死の欲動的な症状を目くじら立てて排除しようとする。
死の欲動からの過剰な防衛。
むしろ死の欲動の中に生の欲動がないと、それは欲動とは呼べない。
生の欲動だけになってしまったそれは欲望だ。
木田原形而はこう主張している。
「臨床とは残酷なものだ。したがって精神分析は臨床しなければいい」
アホか、とわたしは思う。自分が病んで精神分析をやりはじめたわたしからすれば、そんな精神分析だったらやらなかった。臨床をもとにした理論だからこそ精神分析を学びはじめた。木田原の言う通りになれば、こんなわたしのニーズには答えられない理論となるだろう。それこそ藤田博史がやっているフジタゼミやBBSのような場となるだろう。いや藤田自身が「臨床イラネ」と思っているとは思わないけどね。著作を読む限りわたしの中では彼は臨床主義派だ。向井雅明もなんかここで理論家擁護論を述べているが、ぶっちゃけ言っているのは「(クライン派と比べ臨床主義的に思われていないラカン派でも)臨床している」ってことだ。つか斎藤環ですらそうだ。臨床しているとは言える。臨床していないラカン派ってむしろ原和之とかになるんじゃねえの? 向井がここで批判しているのはそういう奴らなんじゃねえの、と。わたし彼の著作ってほんと頭に入ってこないんだよなあ。具体と言葉が結びつかない。わたしのイメージでは彼だけなんか別学派に思える。いやまあ別にそういう人が一人ぐらいいてもいいとは思うけど。原さん真面目な人みたいだし。
あれだ、わたしも東大教養学部なんだけど、基礎科学科だったんだよね。文系とはまったく違うんだよ、扱いが。まあそらそうだわな、親玉の蓮實重彦が学長にまでなったんだから。原和之ってそこの人でしょ。
なんかねー、相関基礎科学系の人は愚痴ってるよ。扱いの差に。目に見えてあるわけじゃないけど、そういう空気がある。実際教養学部って、文系からの進学は超人気なんだけど、理系は底割れしてるしな。
つかわたし東大総合文化研究系を「表象文化系」ってひとくくりにしちゃうんだが、表象文化系でも理解できるものはあるんだよ。だけど東大のはなんか何言ってるのかがわかんない。「お前ら馬鹿だろ」って思っちゃう。理系畑から見ると。研究対象を見る目が濁っている。
ま、ともかく、だ。木田原形而が主張するまでもなく、「精神分析(特にラカン派)は臨床から離れていっている」と思うんだな。
だからこそ彼は「実際離れているんだから、臨床やめちゃえばよくね?」って言っているんだと思う。
それはそれで理解できなくない。
だけどそうなるとわたしにとっての精神分析は、それこそただの「文化人サロンの知的な隠語集」になってしまう。
藤田とかこういう奴らとケンカしそうだけどなあ、中野くんみたいなのなんで飼ってるんだろ。
こういう奴らが精神分析を科学じゃなくならせてるんじゃね。(実物を研究すると言う意味での)実学じゃなくなっていく。
実学じゃない精神分析ならいらんわ。
つかさ、ラカン派も「たまたま同じ理論を使っているだけ」なんだから、いっそ二派にわかれちゃったら? 木田原形而や原和之みたいな「臨床軽視派」と、精神科医がメインとなった「臨床重視派」と。
ああ、そしたら藤田のやってることって価値が生じそうだな。つかそういったラカン村の実情を考慮して藤田はそうやってるのか。
ああ、それならなんかわかる気はするわ。
そしたらわたしみたいなのは「臨床軽視派」のテクストを最初からスルーできる。全スルーするわけじゃないけどね。「違う立場の人たちだ」って最初っからわかってたら思考もしやすいでそ、ってこと。
木田原のその言葉の意味がなんとなくわかった、って話。
つかさ、逆に病んでないのに精神分析やろうなんて人は、なんのために精神分析やってるんだろう?
精神科医ならわたしみたいなのを治すため、っていうのはわかるんだけどさあ。
それさ、どういう「知」なの?
それもしかして、「知」じゃなくて「ファッション」だったりしない?
東大出版会の『知の技法』こそ「知のファッション化」なんだよな。あれって要するに「こうしたら見栄えのいい論文が書けますよ」って話なんだ。理系はギャグみたいにしか思ってなかったぜ、あの本。
それ「知」じゃないんじゃね。「他者の欲望である欲望」じゃね。
ここら辺の混同が、どうも東大にはある気がする。
それこそ「社会に開かれた大学にする」「東大改革」が行われた頃から。
蓮實重彦のせいで、東大の「知」は「ファッション化」していった。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」が東大を支配してしまった。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」を称揚するのが、「社会に対し開く」ことを目的とした「東大改革」だった、ってわけ。
でもまあ、なんだかんだ言って金子邦彦さんとかいまだに「社会に対し開いてない」しな。
結局うわべだけの言葉だもんな。奴らの言うことなんて。「実物を研究する学者」から見れば。
他者の欲望のために学問やるのがいけない、ってわけじゃないんだよ。
ただ一緒にしないでくれ、って話。大学というジコマンな研究ができる場所を、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」のためだけの場所にしないでくれ、って話。
学者がする研究なんて基本ジコマンなんだよ。インテルの『分解くん』こそが学者の実態だ。
いやむしろ、「他者の欲望のために学問をやる人間」の方が、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学徒」こそが「学者」だと定義してやってもいいんじゃよ?
わたしは代わりの単語を用意してるから。そうじゃなく学問をやってる学者たちにあてはまる単語として。
「魔女」って。
なあなあ、原和之や。
あなたもおそらく「東大改革」を経験した人でしょ?
あれを精神分析してみそ? 臨床してみそ?
表象文化論で精神分析やってる奴ってそういうためにやってるんじゃないの? 要するに「社会に生じた現象を臨床する」ために精神分析やってるんじゃないの?
そんな難しいこと言ってるわけじゃないんだよ? ぶっちゃけ「東大を一個の人格だと仮にみなし、その「症状」として「東大改革」を臨床する」ってこと。かんたーん。
これとってもラカン派向けな臨床素材だと思うんだけど。教科書的っつうか。「欲望とは他者の欲望である」ってのがものすげー顕著な症状。
ていうかこれこそが新宮一成が「大学のディスクール」をわざわざ「科学のディスクール」と読み直した本当の理由なんじゃないかと妄想しちゃうわ。日本の大学はどう考えても「大学のディスクール」にゃあてはまらないから。むしろ「主人のディスクール」の傾向が強い。
ちなみにあれだ、東大生なら知ってると思うけど、「文三の学生は馬鹿にしていい」って空気があるんだよね。理系だけかもしれんけど。あれってさ、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」と同じ意味だよね? 揶揄として。アルチュセールってことは哲学とか経済だろ、文三じゃん。
このときアルチュセールと学生は主人と奴隷になっている。この語らいの無意識下には「アルチュセールを持って歩く人はみんなかっこいいと思うはずだ、今はそう思ってない奴はいてもそいつはわかってないだけ、いずれそう思うようになる」などという「全体性の幻想」がある。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く」感覚で東大生になった奴ら。パパママにほめてもらいたくて東大に入ってきた奴ら。「他者の欲望のため」に学問やってる奴ら。ジコマンで研究ができない奴ら。わたしとケンカしたそらパパくんも文三らすい。いやあとで知ったんだけども。
まあ確かに文三にもジコマンで研究している奴が中にはいるんだろうけどさ。「魔女としての学者」が。
ねえねえ、どう?
ちょっと試しに臨床してごらんよ。
あなた自身の無意識が見えてくるかもしれないよ?
ねーねー藤田のおっさんや、次原和之攻撃してみてよ。向井んちでやったような「ヒステリー的主体」で。原ってなんか日本ラカン協会ではおえらいさんなんでしょ。
いや真面目な人だと思うけどね。向井雅明より君のヒステリー症状を受け入れてくれそうだ。
だからわたし原だめなんだよな。丸め込まれそう。
なんつか、実験感覚で。
「遊び人vs真面目人」なんて煽りコピーで盛り上がれそうじゃん。
こう、わたしって、この記事でも書いたけど、かなりむかーしに言われたことを、十何年も経ってから「それは間違っていたじゃないか」って言っちゃうんだよな。
この「東大改革」批判も似たようなもんだ。当時は「なんか違和感がある」程度だった。こんなに言葉にできなかった。
ラカン学んだおかげでこういう風に言えるようになりました。おかげさまで。
ま、そゆことだ。
死ねよ蓮實は。
kyupinさんが描く「人をうつに陥れる達人」ってどう考えても蓮實なんだが。実際に接したことのあるわたしから言わせれば。ほんとなんかの人格障害なんじゃないの? 彼。精神医学に詳しくなった今はそんな風にすら思える。
前記事の
=====
前記事読み返すと、なんかこう、「分析家グループのあるべき姿」についてラカン派が眉間にしわ寄せて議論しているのってさ、すげえアホらしいことのように思えてきたわ。
あれじゃん、要は、一部の学者がしているみたいな、
「他者なんて別の世界にいっちゃったがごとく、一種の解離状態のごとく、一種の憑依状態(これはちょっと言いすぎだが)のごとく、しゃべり続ける」
って症状について、「なぜ俺らは簡単にできないんだ?」って議論していることとおんなじなわけじゃん。
アホだなー、って思うわ。
まあこういった「解離状態でのトーク(それはすでにディスクールとは言えないので適当に言った)」ができるかどうかは、才能による、って言っちゃって構わないと思うけどさあ。
そうできないのはお前らにそういう才能がないから。解離や憑依の。
なぜお前らは「解離状態的、憑依状態的にしゃべれないか」。
お前自身が他者に執着しているからだよ。
お前が去勢済み主体だからだ。
=====
について。
十川幸司が「精神的に正常であることはそれほど難しいことではないのである。むしろわれわれが精神的に正常な状態以外の状態になれないのだ」みたいなこと言ってたけど(うろ覚え)、そういうことだよな、と思った。
正常人がヒステリー的主体になりきるのは難しい。
去勢済み主体は(ラカン的な意味での)欲望から逃れられないから。
いやそれだけ。
ほんと才能なんだよな。「魔女」になるのって。
カオス研究なんてぶっちゃけ、「ある明確な数式を設定してコンピューターに走らせたら予想外のわけのわからん挙動が生じた。それを研究しよう」ってことなんだよな。
「これのどこが実物だ?」と思われるかもしれない。
ここだよ、ポイントは。
「何が実物か」は人によって違う。夢と現実を混同する性質が昔からあるわたしからすれば、周りの多くの人が「実物だ」と思っているようなことが実物のように思えなかったりする。
特に表象文化系が研究する「文化」や、社会学が研究している「社会」は、わたしには実物のように思えない。しかしわたしが「文化」や「社会」という言葉をあてはめるものはある。
実物が実物であるのは対象によるのではない。
それを「実物だ」とすることこそが、そいつ自身の症状なんだよ。
表象文化系の奴らは、そいつが「実物だ」と思っている症状が、実物ではない。物自体的ではない。作為的である。
実物に対し、無自覚的な作用を及ぼしているように見える。
わかんねえだろうけどそういうこと。
芸術やってたらピンとくるかもしれないな。シュルレアリスムとかってそういうことだよ。「リアリティならぬアクチュアリティ」「現実性ではなく実存性」とかそのあたり。
そゆことだよ。
つかさ、そんな大仰なことじゃないんだよな。
近所のスーパーで身体障害者プロレスみたいなイベントが催されている夢を見た。
その日スーパーに行くと、わたしはふと、(身障者プロレスが催されているとは思っていないが)イベント会場を探してしまった。
そもそもそのスーパーでイベントが催されることなどない。そんなイベントスペースなどない。おっきなイトーヨーカドーとかならあるみたいだけど。大道具のバイトで仕込んだことあるわ。イベント屋の仕事と重なってるんだよね、大道具って。
その程度ならお前らもあるんじゃねえの?
少女漫画でもあるだろ、「夢でちゅっちゅした次の日、ちゅっちゅした男の子を見てどぎまぎしちゃう(はぁと)」みたいな。
あれも「夢と現実の混同」だろ?
統合失調症の症状と同じだろ?
正常人がする精神疾患者の心理解釈は、常にこういった誤謬がある。
自分自身に都合の悪いことを精神疾患者に押しつける。
本当の違いである「他者の欲望である欲望」を表面化したがらない。
それは自分自身の自我が攻撃されることになるからだ。
結局さ、「社会に開かれた大学にしましょう」なんて「東大改革」って、会社で考えれば「もうちょっと営業のことを考えよう」って話なわけじゃん。笙野頼子は蓮實重彦を「学問の窓口根性」と評している。
「営業なんて一切しなくていい」って話じゃない。営業職もありだし技術職もあり。
だけどだな、営業だけの、それこそ商社みたいな会社になっちゃうと、「営業に対しそれほど興味が持てない」技術職の居場所がなくなるだろ、って話。
歴史を紐解けば大学組織なんてなもともと秘密結社的なものだったんだ。その成果を当時の権力が利用したりはしてたんだろうけど。
権力者が知恵を独占したいから秘密結社的だった、というのは確かにそういう面もあると思う。だけどそれだけではないんじゃないか。
ちょっと考えてみればわかるだろ。今も昔も学者の言うことなんて一般市民にゃちんぷんかんぷんだ。一般的な常識からははずれたことを思考しているわけだからそうなるに決まっている。
そういう風に、「一般常識からの防衛」として、秘密結社的な組織になっていった、という自発的な理由があるんじゃないかと、わたしには思える。「東大改革」を批判する相関基礎科学系の教授の言っていることを考えると(あ、金子さんちゃうよ。金子さんはほんっとそういう政治には興味ない人だったから)。
「社会に開かれた大学にする」なんて要するに「一般常識におもねよう」ってことなわけじゃん。
それはそもそもの大学組織自体の存在価値をなくすことにならないか?
「東大改革」は大学組織自体の破壊を目指していた、ってことだ。
わかるか?
比喩的に言うなら、「面壁」をするための禅寺のようなものとして、「秘密結社的な大学組織」があったんじゃないか、ってことだ。
ああいやこの比喩も微妙だなー。
まあいいや。
中沢新一とか「秘密結社は見直されるべき」みたいなことを書いていたが、彼を招聘しようとした蓮實が実際にしている仕事を見てなんて言うだろうか。
「自閉しているのは知恵という力を独占したいからだろ」
そう思ってしまうのはお前自身がそう思っているからだ。
それはお前自身の症状だ。
つかそれがいやなら力を奪い取ればいいだけじゃないか。
なぜ「社会に対し開く」必要があるのだ?
お前の行動を正当化するためじゃないか?
他者に対して。
『ラカンの精神分析』から。
=====
「主の語らい」は、我々を社会的な意味構造の中につなぎ止め、かつ個人の内面に全体性の幻想を供給する、基本的な枠組みとして機能しているのである。
=====
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」は、そうすることで「社会的な意味構造の中」に、秘密結社の外部につなぎ止められる。
「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み替えた新宮は、科学者は「科学のディスクール」とこういった「主人のディスクール」の間を行ったりきたりしている、と言う。
向井雅明は「分析家は分析家グループにおいては分析主体、すなわちヒステリー的主体でなくてはならない」と言う。
分析家は「分析家のディスクール」と「ヒステリー者のディスクール」を行ったりきたりしている。
ああ、新宮の言う「科学」とわたしの「実学としての科学」は別物そうだけどな。
なのでわたしは口を酸っぱくして言っているが、「魔女のディスクール」は「四つのディスクール」いずれにもあてはまらない。ぎりぎり「ヒステリー者のディスクール」は近いと思うが。向井んちに殴り込んだときの藤田などはそうであろう。
それは解離や憑依などという「独り言」だ。
そこに他者はいないのだから、「四つのディスクール」たりえない。
去勢されてはじめて「四つのディスクール」に組み込まれる。
ああそうそう、そらパパくんが自閉症療育についてツイッターでなんやかやと自問自答してたんだが、最終的に「普通が大事」ってのたまったんだよな。
これあれだ、彼が「主人のディスクール」に舞い戻った瞬間だ。
彼の言う「普通」とは新宮の言う「社会的な意味構造」だ。そらパパ用語で言うなら「正常人にはあって自閉症者にはない「フレーム」」だ。
原和之の著作ってさ、「ラカンはこういう意味で言っていたのではないか」じゃん、大体。文脈は。
一方、新宮一成や藤田博史や斎藤環の著作は、「これこれこういう精神疾患者(とは限らないが)はこう考えているのではないか」なんだよ。精神科医の本って大体そうなるんだと思うけど。
つまり原和之の著作はラカン本人を臨床素材にしている、と言える。
それはそれでいいんだよ。原本人がそう自覚していれば。
だけど臨床家にとっちゃ、ラカンなんて個体も、他の精神疾患者たちと同じ一個体にすぎないんだよ。全員同じ臨床素材。
確かに理論を研究することは大事だ。向井のこのコラムの言う通り。
しかしラカン本人はただの一個体でしかない。他の精神疾患者たちと同様に。
理論は理論。ラカン本人はラカン本人。
ラカンを臨床するな、って言ってるんじゃねえぞ? ラカンを臨床してもいい。「この人はこう考えているんじゃないか」と考えていい。
だけどラカンも多くの精神疾患者も「この人」のうちの一人だ。
それが科学的な物の見方というものだ。
ここがな、なんか原和之わかってなさそうな気がする。
なんらかの「全体性」を見い出している気がする。
まあそういうわけで「自分が病んだから精神分析を学びはじめた」ってわたしにとっては、臨床素材がラカンというたった一人でしかない原和之の著作は、あんまり役に立たない、って話にすぎんにょ。
なんか昔ある心理カウンセラーブログに乗り込んだとき、ブログ主じゃない心理カウンセラーと口論してな、「あなたはラカンじゃない」とか言われたんだよ(笑)。つかわたしそのときクリステヴァ論引用してたのに「なんでそんな発想になるの?」って思ったんだよな。あ、この記事な。
これそう言われるべきは原和之なんじゃね。
ラカン派にゃこういう人間が多いからわたしは誤解された、と。
ああそうか。「ライトノベル哲学者」を目指す飲茶にここのコメント欄みたいなこと言われたんだよな。
=====
「有名な人(ローカルブログの一個人じゃなくて)を相手に、
そこそこ人目がつく場所で、どんどん正面から論をぶつけていけば、
脂さんの個性や文章は魅力的だから(好き、嫌い、キモイ含めて)、
みんな引きつけられちゃうのになぁ~」
=====
この記事とか結構飲茶がしたい演出に沿ってるんじゃね。原和之とかそこそこ有名な方なんじゃないの。ラカン村、表象文化村に限れば。
ごめんね、あたし「むかついたら叩く」って人だから。
現にアクセス数一桁しかないアムカ女子高生ブロガーとかも叩いてるし。ほんとここのコメント欄で言っている通り。
=====
わたしはそうじゃない。権力者か被権力者か関係なしに叩いている。老若男女問わず叩いている。ライトノベル作法研究所にいたときなんかは中高生相手にケンカしまくってたわ。いい年のおばはんが。「妖怪紳士」って奴にも言われたことある。「脂さんはそういう意味で平等主義者ですよね」って。
=====
あ、飲茶もライトノベル作法研究所にいたよ。つかあたしが呼んだようなもんだが。
ごめん、飲茶が期待する「脂さん演出術」は、わたしはたまたまじゃないとできないらしい。
江頭2:50もそういうもんだろ? ウケるかウケないかはほんとそのときの運でしかない。
こういうことだよ、「ラカンも多くの精神疾患者も「この人」のうちの一人だ。」ってのは。
つかさ、アクセス解析でリモホが『豊作プロジェクト』ってところからきてたりしているんだが。つまり社内からここを見ている、と。
こういうネットサービス系のアクセスも多いんだよな。「○○ねっとわーくそりゅーしょん」系。
こんなん読んでなんのためになるの? と聞きたい。
いや社名センスは好きよ。
実際わたしにも「あーこれはどちらかというと生の欲動だなあ」と思える部分があるし。
だけどほとんどの人間が生の欲動だけになっているのが問題なんだ。
死の欲動的な症状を目くじら立てて排除しようとする。
死の欲動からの過剰な防衛。
むしろ死の欲動の中に生の欲動がないと、それは欲動とは呼べない。
生の欲動だけになってしまったそれは欲望だ。
木田原形而はこう主張している。
「臨床とは残酷なものだ。したがって精神分析は臨床しなければいい」
アホか、とわたしは思う。自分が病んで精神分析をやりはじめたわたしからすれば、そんな精神分析だったらやらなかった。臨床をもとにした理論だからこそ精神分析を学びはじめた。木田原の言う通りになれば、こんなわたしのニーズには答えられない理論となるだろう。それこそ藤田博史がやっているフジタゼミやBBSのような場となるだろう。いや藤田自身が「臨床イラネ」と思っているとは思わないけどね。著作を読む限りわたしの中では彼は臨床主義派だ。向井雅明もなんかここで理論家擁護論を述べているが、ぶっちゃけ言っているのは「(クライン派と比べ臨床主義的に思われていないラカン派でも)臨床している」ってことだ。つか斎藤環ですらそうだ。臨床しているとは言える。臨床していないラカン派ってむしろ原和之とかになるんじゃねえの? 向井がここで批判しているのはそういう奴らなんじゃねえの、と。わたし彼の著作ってほんと頭に入ってこないんだよなあ。具体と言葉が結びつかない。わたしのイメージでは彼だけなんか別学派に思える。いやまあ別にそういう人が一人ぐらいいてもいいとは思うけど。原さん真面目な人みたいだし。
あれだ、わたしも東大教養学部なんだけど、基礎科学科だったんだよね。文系とはまったく違うんだよ、扱いが。まあそらそうだわな、親玉の蓮實重彦が学長にまでなったんだから。原和之ってそこの人でしょ。
なんかねー、相関基礎科学系の人は愚痴ってるよ。扱いの差に。目に見えてあるわけじゃないけど、そういう空気がある。実際教養学部って、文系からの進学は超人気なんだけど、理系は底割れしてるしな。
つかわたし東大総合文化研究系を「表象文化系」ってひとくくりにしちゃうんだが、表象文化系でも理解できるものはあるんだよ。だけど東大のはなんか何言ってるのかがわかんない。「お前ら馬鹿だろ」って思っちゃう。理系畑から見ると。研究対象を見る目が濁っている。
ま、ともかく、だ。木田原形而が主張するまでもなく、「精神分析(特にラカン派)は臨床から離れていっている」と思うんだな。
だからこそ彼は「実際離れているんだから、臨床やめちゃえばよくね?」って言っているんだと思う。
それはそれで理解できなくない。
だけどそうなるとわたしにとっての精神分析は、それこそただの「文化人サロンの知的な隠語集」になってしまう。
藤田とかこういう奴らとケンカしそうだけどなあ、中野くんみたいなのなんで飼ってるんだろ。
こういう奴らが精神分析を科学じゃなくならせてるんじゃね。(実物を研究すると言う意味での)実学じゃなくなっていく。
実学じゃない精神分析ならいらんわ。
つかさ、ラカン派も「たまたま同じ理論を使っているだけ」なんだから、いっそ二派にわかれちゃったら? 木田原形而や原和之みたいな「臨床軽視派」と、精神科医がメインとなった「臨床重視派」と。
ああ、そしたら藤田のやってることって価値が生じそうだな。つかそういったラカン村の実情を考慮して藤田はそうやってるのか。
ああ、それならなんかわかる気はするわ。
そしたらわたしみたいなのは「臨床軽視派」のテクストを最初からスルーできる。全スルーするわけじゃないけどね。「違う立場の人たちだ」って最初っからわかってたら思考もしやすいでそ、ってこと。
木田原のその言葉の意味がなんとなくわかった、って話。
つかさ、逆に病んでないのに精神分析やろうなんて人は、なんのために精神分析やってるんだろう?
精神科医ならわたしみたいなのを治すため、っていうのはわかるんだけどさあ。
それさ、どういう「知」なの?
それもしかして、「知」じゃなくて「ファッション」だったりしない?
東大出版会の『知の技法』こそ「知のファッション化」なんだよな。あれって要するに「こうしたら見栄えのいい論文が書けますよ」って話なんだ。理系はギャグみたいにしか思ってなかったぜ、あの本。
それ「知」じゃないんじゃね。「他者の欲望である欲望」じゃね。
ここら辺の混同が、どうも東大にはある気がする。
それこそ「社会に開かれた大学にする」「東大改革」が行われた頃から。
蓮實重彦のせいで、東大の「知」は「ファッション化」していった。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」が東大を支配してしまった。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」を称揚するのが、「社会に対し開く」ことを目的とした「東大改革」だった、ってわけ。
でもまあ、なんだかんだ言って金子邦彦さんとかいまだに「社会に対し開いてない」しな。
結局うわべだけの言葉だもんな。奴らの言うことなんて。「実物を研究する学者」から見れば。
他者の欲望のために学問やるのがいけない、ってわけじゃないんだよ。
ただ一緒にしないでくれ、って話。大学というジコマンな研究ができる場所を、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」のためだけの場所にしないでくれ、って話。
学者がする研究なんて基本ジコマンなんだよ。インテルの『分解くん』こそが学者の実態だ。
いやむしろ、「他者の欲望のために学問をやる人間」の方が、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学徒」こそが「学者」だと定義してやってもいいんじゃよ?
わたしは代わりの単語を用意してるから。そうじゃなく学問をやってる学者たちにあてはまる単語として。
「魔女」って。
なあなあ、原和之や。
あなたもおそらく「東大改革」を経験した人でしょ?
あれを精神分析してみそ? 臨床してみそ?
表象文化論で精神分析やってる奴ってそういうためにやってるんじゃないの? 要するに「社会に生じた現象を臨床する」ために精神分析やってるんじゃないの?
そんな難しいこと言ってるわけじゃないんだよ? ぶっちゃけ「東大を一個の人格だと仮にみなし、その「症状」として「東大改革」を臨床する」ってこと。かんたーん。
これとってもラカン派向けな臨床素材だと思うんだけど。教科書的っつうか。「欲望とは他者の欲望である」ってのがものすげー顕著な症状。
ていうかこれこそが新宮一成が「大学のディスクール」をわざわざ「科学のディスクール」と読み直した本当の理由なんじゃないかと妄想しちゃうわ。日本の大学はどう考えても「大学のディスクール」にゃあてはまらないから。むしろ「主人のディスクール」の傾向が強い。
ちなみにあれだ、東大生なら知ってると思うけど、「文三の学生は馬鹿にしていい」って空気があるんだよね。理系だけかもしれんけど。あれってさ、「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」と同じ意味だよね? 揶揄として。アルチュセールってことは哲学とか経済だろ、文三じゃん。
このときアルチュセールと学生は主人と奴隷になっている。この語らいの無意識下には「アルチュセールを持って歩く人はみんなかっこいいと思うはずだ、今はそう思ってない奴はいてもそいつはわかってないだけ、いずれそう思うようになる」などという「全体性の幻想」がある。
「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く」感覚で東大生になった奴ら。パパママにほめてもらいたくて東大に入ってきた奴ら。「他者の欲望のため」に学問やってる奴ら。ジコマンで研究ができない奴ら。わたしとケンカしたそらパパくんも文三らすい。いやあとで知ったんだけども。
まあ確かに文三にもジコマンで研究している奴が中にはいるんだろうけどさ。「魔女としての学者」が。
ねえねえ、どう?
ちょっと試しに臨床してごらんよ。
あなた自身の無意識が見えてくるかもしれないよ?
ねーねー藤田のおっさんや、次原和之攻撃してみてよ。向井んちでやったような「ヒステリー的主体」で。原ってなんか日本ラカン協会ではおえらいさんなんでしょ。
いや真面目な人だと思うけどね。向井雅明より君のヒステリー症状を受け入れてくれそうだ。
だからわたし原だめなんだよな。丸め込まれそう。
なんつか、実験感覚で。
「遊び人vs真面目人」なんて煽りコピーで盛り上がれそうじゃん。
こう、わたしって、この記事でも書いたけど、かなりむかーしに言われたことを、十何年も経ってから「それは間違っていたじゃないか」って言っちゃうんだよな。
この「東大改革」批判も似たようなもんだ。当時は「なんか違和感がある」程度だった。こんなに言葉にできなかった。
ラカン学んだおかげでこういう風に言えるようになりました。おかげさまで。
ま、そゆことだ。
死ねよ蓮實は。
kyupinさんが描く「人をうつに陥れる達人」ってどう考えても蓮實なんだが。実際に接したことのあるわたしから言わせれば。ほんとなんかの人格障害なんじゃないの? 彼。精神医学に詳しくなった今はそんな風にすら思える。
前記事の
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前記事読み返すと、なんかこう、「分析家グループのあるべき姿」についてラカン派が眉間にしわ寄せて議論しているのってさ、すげえアホらしいことのように思えてきたわ。
あれじゃん、要は、一部の学者がしているみたいな、
「他者なんて別の世界にいっちゃったがごとく、一種の解離状態のごとく、一種の憑依状態(これはちょっと言いすぎだが)のごとく、しゃべり続ける」
って症状について、「なぜ俺らは簡単にできないんだ?」って議論していることとおんなじなわけじゃん。
アホだなー、って思うわ。
まあこういった「解離状態でのトーク(それはすでにディスクールとは言えないので適当に言った)」ができるかどうかは、才能による、って言っちゃって構わないと思うけどさあ。
そうできないのはお前らにそういう才能がないから。解離や憑依の。
なぜお前らは「解離状態的、憑依状態的にしゃべれないか」。
お前自身が他者に執着しているからだよ。
お前が去勢済み主体だからだ。
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について。
十川幸司が「精神的に正常であることはそれほど難しいことではないのである。むしろわれわれが精神的に正常な状態以外の状態になれないのだ」みたいなこと言ってたけど(うろ覚え)、そういうことだよな、と思った。
正常人がヒステリー的主体になりきるのは難しい。
去勢済み主体は(ラカン的な意味での)欲望から逃れられないから。
いやそれだけ。
ほんと才能なんだよな。「魔女」になるのって。
カオス研究なんてぶっちゃけ、「ある明確な数式を設定してコンピューターに走らせたら予想外のわけのわからん挙動が生じた。それを研究しよう」ってことなんだよな。
「これのどこが実物だ?」と思われるかもしれない。
ここだよ、ポイントは。
「何が実物か」は人によって違う。夢と現実を混同する性質が昔からあるわたしからすれば、周りの多くの人が「実物だ」と思っているようなことが実物のように思えなかったりする。
特に表象文化系が研究する「文化」や、社会学が研究している「社会」は、わたしには実物のように思えない。しかしわたしが「文化」や「社会」という言葉をあてはめるものはある。
実物が実物であるのは対象によるのではない。
それを「実物だ」とすることこそが、そいつ自身の症状なんだよ。
表象文化系の奴らは、そいつが「実物だ」と思っている症状が、実物ではない。物自体的ではない。作為的である。
実物に対し、無自覚的な作用を及ぼしているように見える。
わかんねえだろうけどそういうこと。
芸術やってたらピンとくるかもしれないな。シュルレアリスムとかってそういうことだよ。「リアリティならぬアクチュアリティ」「現実性ではなく実存性」とかそのあたり。
そゆことだよ。
つかさ、そんな大仰なことじゃないんだよな。
近所のスーパーで身体障害者プロレスみたいなイベントが催されている夢を見た。
その日スーパーに行くと、わたしはふと、(身障者プロレスが催されているとは思っていないが)イベント会場を探してしまった。
そもそもそのスーパーでイベントが催されることなどない。そんなイベントスペースなどない。おっきなイトーヨーカドーとかならあるみたいだけど。大道具のバイトで仕込んだことあるわ。イベント屋の仕事と重なってるんだよね、大道具って。
その程度ならお前らもあるんじゃねえの?
少女漫画でもあるだろ、「夢でちゅっちゅした次の日、ちゅっちゅした男の子を見てどぎまぎしちゃう(はぁと)」みたいな。
あれも「夢と現実の混同」だろ?
統合失調症の症状と同じだろ?
正常人がする精神疾患者の心理解釈は、常にこういった誤謬がある。
自分自身に都合の悪いことを精神疾患者に押しつける。
本当の違いである「他者の欲望である欲望」を表面化したがらない。
それは自分自身の自我が攻撃されることになるからだ。
結局さ、「社会に開かれた大学にしましょう」なんて「東大改革」って、会社で考えれば「もうちょっと営業のことを考えよう」って話なわけじゃん。笙野頼子は蓮實重彦を「学問の窓口根性」と評している。
「営業なんて一切しなくていい」って話じゃない。営業職もありだし技術職もあり。
だけどだな、営業だけの、それこそ商社みたいな会社になっちゃうと、「営業に対しそれほど興味が持てない」技術職の居場所がなくなるだろ、って話。
歴史を紐解けば大学組織なんてなもともと秘密結社的なものだったんだ。その成果を当時の権力が利用したりはしてたんだろうけど。
権力者が知恵を独占したいから秘密結社的だった、というのは確かにそういう面もあると思う。だけどそれだけではないんじゃないか。
ちょっと考えてみればわかるだろ。今も昔も学者の言うことなんて一般市民にゃちんぷんかんぷんだ。一般的な常識からははずれたことを思考しているわけだからそうなるに決まっている。
そういう風に、「一般常識からの防衛」として、秘密結社的な組織になっていった、という自発的な理由があるんじゃないかと、わたしには思える。「東大改革」を批判する相関基礎科学系の教授の言っていることを考えると(あ、金子さんちゃうよ。金子さんはほんっとそういう政治には興味ない人だったから)。
「社会に開かれた大学にする」なんて要するに「一般常識におもねよう」ってことなわけじゃん。
それはそもそもの大学組織自体の存在価値をなくすことにならないか?
「東大改革」は大学組織自体の破壊を目指していた、ってことだ。
わかるか?
比喩的に言うなら、「面壁」をするための禅寺のようなものとして、「秘密結社的な大学組織」があったんじゃないか、ってことだ。
ああいやこの比喩も微妙だなー。
まあいいや。
中沢新一とか「秘密結社は見直されるべき」みたいなことを書いていたが、彼を招聘しようとした蓮實が実際にしている仕事を見てなんて言うだろうか。
「自閉しているのは知恵という力を独占したいからだろ」
そう思ってしまうのはお前自身がそう思っているからだ。
それはお前自身の症状だ。
つかそれがいやなら力を奪い取ればいいだけじゃないか。
なぜ「社会に対し開く」必要があるのだ?
お前の行動を正当化するためじゃないか?
他者に対して。
『ラカンの精神分析』から。
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「主の語らい」は、我々を社会的な意味構造の中につなぎ止め、かつ個人の内面に全体性の幻想を供給する、基本的な枠組みとして機能しているのである。
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「アルチュセールの本をこれ見よがしに持って歩く学生」は、そうすることで「社会的な意味構造の中」に、秘密結社の外部につなぎ止められる。
「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み替えた新宮は、科学者は「科学のディスクール」とこういった「主人のディスクール」の間を行ったりきたりしている、と言う。
向井雅明は「分析家は分析家グループにおいては分析主体、すなわちヒステリー的主体でなくてはならない」と言う。
分析家は「分析家のディスクール」と「ヒステリー者のディスクール」を行ったりきたりしている。
ああ、新宮の言う「科学」とわたしの「実学としての科学」は別物そうだけどな。
なのでわたしは口を酸っぱくして言っているが、「魔女のディスクール」は「四つのディスクール」いずれにもあてはまらない。ぎりぎり「ヒステリー者のディスクール」は近いと思うが。向井んちに殴り込んだときの藤田などはそうであろう。
それは解離や憑依などという「独り言」だ。
そこに他者はいないのだから、「四つのディスクール」たりえない。
去勢されてはじめて「四つのディスクール」に組み込まれる。
ああそうそう、そらパパくんが自閉症療育についてツイッターでなんやかやと自問自答してたんだが、最終的に「普通が大事」ってのたまったんだよな。
これあれだ、彼が「主人のディスクール」に舞い戻った瞬間だ。
彼の言う「普通」とは新宮の言う「社会的な意味構造」だ。そらパパ用語で言うなら「正常人にはあって自閉症者にはない「フレーム」」だ。
原和之の著作ってさ、「ラカンはこういう意味で言っていたのではないか」じゃん、大体。文脈は。
一方、新宮一成や藤田博史や斎藤環の著作は、「これこれこういう精神疾患者(とは限らないが)はこう考えているのではないか」なんだよ。精神科医の本って大体そうなるんだと思うけど。
つまり原和之の著作はラカン本人を臨床素材にしている、と言える。
それはそれでいいんだよ。原本人がそう自覚していれば。
だけど臨床家にとっちゃ、ラカンなんて個体も、他の精神疾患者たちと同じ一個体にすぎないんだよ。全員同じ臨床素材。
確かに理論を研究することは大事だ。向井のこのコラムの言う通り。
しかしラカン本人はただの一個体でしかない。他の精神疾患者たちと同様に。
理論は理論。ラカン本人はラカン本人。
ラカンを臨床するな、って言ってるんじゃねえぞ? ラカンを臨床してもいい。「この人はこう考えているんじゃないか」と考えていい。
だけどラカンも多くの精神疾患者も「この人」のうちの一人だ。
それが科学的な物の見方というものだ。
ここがな、なんか原和之わかってなさそうな気がする。
なんらかの「全体性」を見い出している気がする。
まあそういうわけで「自分が病んだから精神分析を学びはじめた」ってわたしにとっては、臨床素材がラカンというたった一人でしかない原和之の著作は、あんまり役に立たない、って話にすぎんにょ。
なんか昔ある心理カウンセラーブログに乗り込んだとき、ブログ主じゃない心理カウンセラーと口論してな、「あなたはラカンじゃない」とか言われたんだよ(笑)。つかわたしそのときクリステヴァ論引用してたのに「なんでそんな発想になるの?」って思ったんだよな。あ、この記事な。
これそう言われるべきは原和之なんじゃね。
ラカン派にゃこういう人間が多いからわたしは誤解された、と。
ああそうか。「ライトノベル哲学者」を目指す飲茶にここのコメント欄みたいなこと言われたんだよな。
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「有名な人(ローカルブログの一個人じゃなくて)を相手に、
そこそこ人目がつく場所で、どんどん正面から論をぶつけていけば、
脂さんの個性や文章は魅力的だから(好き、嫌い、キモイ含めて)、
みんな引きつけられちゃうのになぁ~」
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この記事とか結構飲茶がしたい演出に沿ってるんじゃね。原和之とかそこそこ有名な方なんじゃないの。ラカン村、表象文化村に限れば。
ごめんね、あたし「むかついたら叩く」って人だから。
現にアクセス数一桁しかないアムカ女子高生ブロガーとかも叩いてるし。ほんとここのコメント欄で言っている通り。
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わたしはそうじゃない。権力者か被権力者か関係なしに叩いている。老若男女問わず叩いている。ライトノベル作法研究所にいたときなんかは中高生相手にケンカしまくってたわ。いい年のおばはんが。「妖怪紳士」って奴にも言われたことある。「脂さんはそういう意味で平等主義者ですよね」って。
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あ、飲茶もライトノベル作法研究所にいたよ。つかあたしが呼んだようなもんだが。
ごめん、飲茶が期待する「脂さん演出術」は、わたしはたまたまじゃないとできないらしい。
江頭2:50もそういうもんだろ? ウケるかウケないかはほんとそのときの運でしかない。
こういうことだよ、「ラカンも多くの精神疾患者も「この人」のうちの一人だ。」ってのは。
つかさ、アクセス解析でリモホが『豊作プロジェクト』ってところからきてたりしているんだが。つまり社内からここを見ている、と。
こういうネットサービス系のアクセスも多いんだよな。「○○ねっとわーくそりゅーしょん」系。
こんなん読んでなんのためになるの? と聞きたい。
いや社名センスは好きよ。