作家たちは「野糞」しろ。
2010/10/02/Sat
マン汁ババアの「もっと隠喩が多い作品が読みたい」という言葉を考えている。しつけえあたし。
もっと簡単なことなんだよな。なんやかや「分析家グループにおける分析家のあるべき姿」やらなんやらで理論武装しているけど、もっと単純なこと。あたし自身の私怨。
ババアのその言葉は、バタイユについての議論をしていて、ちょっくら川上未映子の話に脱線したときに、ババアがぽろっと言ったことだ。おそらくババア自身覚えてなかったりするのだろう。「ぽろっと言ったこと」だからこそそいつの無意識の表出となるんだがな。フロイトの「冗談や錯誤行為にこそ無意識が表出する」ってのはそういうことだろ? つかそこかしこにあるマンガなんかでも普通にあるじゃん。「ぽろっと言ったことだからこそそいつの本音だ」って考え方は。
つまりわたしはこの言葉はこのババアの無意識の表出、いわば本音と捉えている。おそらくこれは間違いないだろう。
そうでなければわたしもここまでいきり立たない。この言葉だけの話ではなく、こういったババアの言い方、態度も含めて認識して、彼女の殺意を抱いてしまったわけだ。
「ぽろっと」じゃなければ、多少カチンとくることはあっても、ここまでにゃならんかったろうな、とは思う。
あ、なんかこの思考回路スナックのママっぽいな。いやあたしの個人的な主観だけど。バイトしてたとこのママがそういう感じだったからな。客のほんとどうでもいいような一言をよく覚えている人だった。それでいてその客の本性っていうかね、そういうの見抜いているんだよ。いやその「ママが推測した本性」があってるかどうかの検証はしてないがね。バイトしたのほんの一瞬だし。一年も続けなかった。
ありがちな感じしね?
客「ただのジョーダンだろ、ジョーダン」
ママ「ジョーダンだからだめなのよ!」
みたいな光景。
フロイトなんて学んでなくても、特に水商売なんかやってる人は、その人間関係の実践経験から「無意識」って概念を(当然彼女らはそんな概念を所有していない場合も多いだろう)根拠にした思考回路をしてんじゃねえの? って思うわ。
心理学の人らが小難しく「フロイトはむしろ冗談や錯誤行為にこそ無意識が表出すると考えた」なんて言ってるのを、こう考えたらわかりやすいだろ? って話。この小難しい言葉に具体が伴うんじゃね、と。
ババアについて。
バタイユやら議論してるってことは結構な小説読みなのだろう。おそらくあたしより読んでる人なんじゃね。あたしこんなブログ書いているから誤解されてっけど全然「本の虫」じゃないんだよね。一冊をじっくり読むタイプ。クリステヴァなんか一日一ページ進まないことなんかざら。部屋の中だって本でうずもれているわけじゃない。いやまあ一般平均よりかは多いとは思うけど。
つか一般女子の部屋なんてほんと本とかねえじゃん。ちっちゃい本棚に雑誌が詰め込まれている程度。ああいうのよりかは持っているとは思う。
一方、持ってる子はほんと持ってる。本棚もでっかい。そこの部分だけ床めり込んでいない? とか思っちゃうぐらいに。
こう、中間がいないんだよな。女子って。わたしみたいな。不思議なことに。男子とかは結構多いんだけどね。わたしレベルの書籍所有量って。
ラカン理論駆使してバタイユ解釈できるくらいの女子なら、どっちかってとそっちタイプの子だろう、と予測する。
まあ要するに結構な文学少女なのだろう、という話だ。
んでー。
あたしもまあ結構小説読むほうだし、一時期ライトノベル作法研究所とかに入り浸ってたくらいだから、文学少女な方なのだよ。
だがな、ほんと巷の文学少女は癇に障る。ライトノベル作法研究所でもそういう子らにはよく嫌味を言った。とはいえネットの辺境だけあって不思議な場所でな、現象学オタクな妖怪紳士や、バイで姉御肌なおばはんもいたりしてな。そこそこ楽しかったよ。
なんだろうなあ。
SFとか好きなんだよ。物性物理専攻だったわけだし。
でもファンタジー系? 恋愛物をファンタジーで装飾しました系とかって、ほんと読んでて鳥肌が立つ。キモイ。
あれだ、中世が舞台で、旅をしている主人公が、ある村で宿を借りるシーンがあってな。その主人公、何事もないように着替えたりしてんだよ。どんなに荷物持ってたんだと。いやまあお姫様や公爵みたいなのならありえるんだが、流浪人みたいな主人公でな。ああいうのとか、特に中世とか、着替えなんて持って旅してなかったろう。持ってても一枚や二枚だろう。服に蚤が湧いてたりもするだろう。うんこだって野糞だろうし、ケツ拭く紙だってなかっただろう。
そういうのがな、ほんとだめなんだ。
でもそういう小説が普通に読まれている。巷のファンタジー物(小説にしろゲームにしろアニメにしろ)なんてそうだろ。『もののけ姫』のサンだって野糞してるに決まっておろうが。常識で考えて。葉っぱで拭いたとしても拭ききれてなかったりするだろう。それに犬と暮らしてるんだぜ? 犬なんて道端でうんこ見つけると喜んでそれを身になすりつけたりするだろ?
そういう「臭い」「臭さ」がないんだよ。
とか言うとさー、「そういう小説読めばいいじゃない」とか言ってくるんだよな。小説の問題じゃねえんだよ。そういった現実に目を向けないお前という人格を批判したいんだあたしゃ。
みたいな感じでよく揶揄った。
こういったこととババアへのむかつきは似ている。
だけど揶揄じゃなくて殺意となったのはなぜか。
ラカン理論やってるくせに、というのが大きい。精神分析なんてのは、人間精神の「野糞」部分を科学的な態度で見つめ直すものだろ、という感じだ。そのくせこのババアは「アイドルはうんこなんてしない!」なんてアイドルオタクと同じようなことをのたまう。
そうだよ、「もっと隠喩が多い作品が読みたい」なんてのは「アイドルはうんこなんてしない!」と同じだよ。
まあかと言ってそこで「隠喩が少ない作家」として挙げられていた川上未映子は「野糞」を書かないだろうけどな。川上弘美はなんか野小便の小説書いてたが。オヤジウケしそうな。そこがキモかったな。オヤジなんて変態多いのに。某新聞社のおえらいさんだって女性の小便飲む趣味公言してたぞ。某新宿バーの常連の。お前が勝手に「オヤジたちは変態趣味を抑圧している」って思ってるだけじゃねえの? って思うわ。飲み屋にいきゃ解放しまくってるわ。社会的な立場のある奴に限って。いやまあ確かにああいう小説は「変態趣味を抑圧している」オヤジたちにゃウケるんだろうがな。
まあそういうことを言いたかったのがこの記事だ。この記事にも書いた「無駄毛の処理は日常的にしているが化粧はしない」ってのが「「野糞」はさすがに書けないけれど隠喩は故意に少なくしている」ってことだ。
わたしゃ「無駄毛の処理」なんかにゃ興味ない。作家たちには「「野糞」をしろ」と言いたい。
この「野糞」が、藤田博史も引用していたアルトーの
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だがこの詩の作者(ルイス・キャロル)は知性の精巧さによって事実を――幼児言語の衝動が持つ肛門性欲という事実を――喚起しようとしているのであって、肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出したというわけではないのだ。
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という文章の、「肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出した」だと思う。
「肛門性欲」なんてのは明らかに「欲動」だろ? クラインの「妄想分裂態勢」を考慮すれば「肛門的幼児性」の意味もわかる。
となるとこれは「欲動が赤裸々に語り出す」という意味になるな。精神分析ジャーゴンで書き換えれば。
「欲動」だから「欲望」のごとくそこに「他者」はいない。だからこの記事で書いているような話になる。「欲動が赤裸々に語り出した言葉」にはラカン的な意味での「他者」など存在しない。
ところは隠喩はその「欲動が語り出した言葉」を覆い隠すのだ。「他者の欲望である欲望」に乗って伝染した隠喩連鎖パターンは、他者のいない言葉をひねり潰す。
わたしがしたアマチュア物書きへの揶揄は、ババアに対する殺意という欲動的な性質を隠喩で覆い隠したものだ。
仕方ないんだよ。隠喩で隠蔽劣化するのも文学の一つの役割だと認めつつあるし。笙野頼子にも裏切られたわけだし。あ、わたしが勝手に「裏切られた」と思ってるだけだけど。
だから、「文学という芸術」で考慮すれば、「隠喩を一掃しろ」などとはわたしは言わない。単なるわたしの好みでしかない。
しかしだな、「隠喩を多くしろ」はおかしいだろ、と言いたい。隠喩はあっていい。しかしそれを多くしろとは何事だ、と。川上未映子などはおそらく故意に隠喩を避けているのだと思う。脳の器質的な問題で隠喩を駆使できないのは自閉症である。川上未映子はその作品を見てもアスペルガー症候群者だとは思えない。自閉症の本気な「隠喩の使えなさ」の結果たるエコラリア的なところが見えない。むしろ谷山浩子の方にそれは見られる。
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それにしてもわたし、こんな口の聞き方いつの間に覚えたんでしょうね
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」だなんて
ほんとに耳障りのいい言葉
申し分のない活字の言葉
わたしはどうしてもこの紙の上から自由になれません
もうめんどくさい 黙ってしまえ
世界一くだらない人間になって、立派なものをいちいちやっかんで、そして
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アルトーの言う「言語の死刑囚」を連想しないか?
ここまで書いて、「この脂という人は隠喩を毛嫌いしているのだな」と思われそうなので言っておく。
「毛嫌い」しているわけではない。わたしはアスペじゃないし隠喩は読める。おそらく正常人含めた一般平均より読めるだろう。隠喩は便利だと思う。中井久夫などは医学書で文学的表現を多用するが、「こういう使い方は便利だなあ」とわたしは思える。中井久夫がする隠喩の多用をわたしは批判するつもりはない。
しかしわたしは「隠喩される側」でもあった。舞台役者をやっていた。
このババアは、「隠喩される側」に立って、「隠喩されることの重み」を知らないのではないか、と思えるところが、わたしが殺意を抱いてしまう理由だ。
むしろこのババアは隠喩を軽視しているのだ。
隠喩が自我が壊れたヒステリー的主体や統合失調症者にどういう苦痛を与えるのかを知らない。
このババアにとって隠喩は快楽的なものでしかない。不快があってもそれは「幻想の死」たる強迫神経症や退却神経症の「漠然とした不安感」でしかないだろう。
もっと即物的な隠喩から受ける被害を知らない。
そこが、わたしが「このババアは隠喩を軽視している」と思えるゆえんだ。
だから殺意が湧くのだ。
正常人になりたくて尋常ではない努力をしても、正常な精神を手に入れられない人間の前で、「いや正常人であることなんて楽勝だろ? 正常人だってたまには辛いこともあるし(笑)」などと言うようなものだ。
殺意を覚えて当然だろ?
正常人になりたくて、「正常な精神とはどういうものか」を必死に分析しているわたしは、こういう奴に殺意を覚える。
これは藤田博史も同様だ。
正常な精神にあぐらをかきすぎている。
死ね。
まじで死ねよ、お前ら。
藤田博史などアルトーを引用しておいて、なぜこのババアを糾弾しないのか不思議でならない。このババアはルイス・キャロルだよ。
ああ、「社会的な意味構造」つまり「主人のディスクール」にしがみついているわけね。だからこのババアを叩けない、と。
本ではあんなこと言ってても実際にルイス・キャロル(生きてたらの話な)と対面したらお前なかよしこよしするんだろうな。
お前も死ねよ。
藤田みたいな人間が「言語の死刑囚」なんて言葉使うなよ。
この言葉が示す実体が汚れる。
もっと真面目にやれよ。真摯に接しろよ。隠喩に対し。精神分析学んでるんなら。これは藤田にも言っている。二階堂奥歯なんて「隠喩の集大成」たる「物語」に必死だったろ? 真摯だったろ? 精神病の妄想レベルに。それと比べたらあのババアの無意識は「軽やか」だろ? 隠喩に対し。重くない。彼女の主観世界における隠喩に重みはない。
お前ら隠喩を、物語を軽視しすぎだ。
わたしは演劇人つながりで台本の下読みみたいなバイトもしたことがある。そんなこんなで「物語恐怖症」になった。
お前ら「隠喩を駆使できる自分」「隠喩連鎖構造が刷り込まれている無意識」にあぐらをかきすぎだ。
文学少女にも二種類いるんだ。隠喩連鎖構造が無意識に刷り込まれていないからこそ物語に拘泥する文学少女と、隠喩連鎖構造が無意識に刷り込まれた上にあぐらをかいて物語に執着する文学少女と。
二階堂は前者で、このババアは後者だ。
二階堂は役者に必死になってた頃のわたしみたいなもんだ。
つか今でも必死だろ、あたし。
つかそんな難しいことじゃねえよ。前者はそれこそ解離的に物語を読む子。他者なんて関係ない。彼女にとって「物語を読むこと」とは「独り言」と同じだ。後者は一般的だろ? クラスで話題に乗り遅れないためにドラマを見るような子。「他者の欲望」を目的として物語を読む子。
二階堂の言葉。
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探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に存在することの違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
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さて、二階堂はどっちだ? そしてそのババアはどっちだ?
わたしは二階堂奥歯ではない。このブログはむしろ、隠喩を、物語を破壊する「野糞展覧会」だ。
しかしそれは、隠喩、物語の重みを知っているからこそしているのだ。
二階堂の文章は、その必死さから、この重みを知っているように思える。だからカチンとくることはあるが攻撃しない。揶揄しない。
ああだめだ涙が止まらねえ。
ただのパニック発作だよ。
死ね。藤田もババアも。
隠喩連鎖パターンを、新宮の言う「社会的な意味構造」を、条件反射で覚えるのと、無意識に刷り込まれるのとは、別物なんだ。
この違いを説明するには斎藤環がしている「ベイトソンの学習理論の流用」が確かに便宜だろう。意味構造すなわち隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれる段階が彼の言う「学習2」である。
自閉症がするエコラリアは、意味構造を条件反射的に覚えているが、そのパターンが無意識に刷り込まれていない、という症状だ。斎藤が言う通り「自閉症は「学習2」を経ていない」だ。
意味構造が無意識に刷り込まれていないと、すなわち「言語のように構造化され」てない無意識だと、自閉症になる。あるいは分裂病型人格障害もそうだと思える。わたしにもある症状、夢と現実が混同するのは無意識が「言語のように構造化され」ていないからだ。
とはいえ、条件反射的にそれを駆使することはできる。体で覚える。特訓の成果だ。
だが無意識に刷り込まれていないため、常に違和感がある。ずれが生じる。
そういうことだと思うがなあ。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、まじ死ね。
つかさー、中野のこのコメントもさー、
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うーん、俺や他の人に対する評価を置いとくと、脂さんがこの2,3日書いたことって、
1 BBSから判断するに「ペスト=科学的精神分析」について語るにはフジタゼミはぜんぜん不適格。
2 わたしに合う分析家が欲しいが、いない。藤田もだめだった。
の二つですかね。もしそうならもう少し短く書けないですかね。
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中野個人の主観でした勝手な要約だろ?
「もしそうなら」ってそうじゃねえよ、お前の主観による要約にすぎない。
それをなんでこう無自覚に傲慢に他人に押しつけられるのだろう? ほんと理解できない。
主観なんて個人によって違う。主観でしかないのだからそれは緻密に説明するのが道理ってものだろう。
それがここでも述べている「思考実況」だ。
っていうかさー、わたしがそのババアにした最初の批判ってこの記事なんだけど、それでなんでそんな要約になるのかが理解できない。「隠喩の多さを(無意識から)求めている」って点が最重要点じゃないか。そうわたしは書いている。なのに「彼女は素人である」なんてわたしにとっては「どうでもいいこと」を考慮している。だからそれはお前自身の症状だよ、って言っているんだが。
「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」なんて人によって違うだろ、アホタレ。ここでも読め。
中野にとってはそら確かにババアの「隠喩の多さを(無意識から)求めている」点なんかどうでもいいんだろうな。
ほれ、これも「「隠喩を駆使できる自分」「隠喩連鎖構造が刷り込まれている無意識」にあぐらをかきすぎだ。」って症状じゃねえか。
こういう基本的なところがわかってないこんな馬鹿を飼って何やりたいの? 藤田や。
つかここのコメント欄でした「わかりやすさの危険」について、解答しろ。
これまでみたいな他人をコバカにした「風流な遊びとしての禅問答的な短文」じゃなくて、真面目に、必死に、真摯に答えろ。お前が言った言葉だろ。
コメ禁解いてやったぞ。
つか非公開コメントもわけわかんなくなるからするな。こないだのコメントなんて非公開にする意味ないだろ。なぜ「非公開にしたのか」って考えちゃうだろ。
「文化人サロン」(嘲笑)はお腹いっぱいなんで。
「文化人サロン」の演出に精神分析を使うなよ。分析家失格だろそれ。
ああ「藤田はもう見てないだろ(笑)、メンヘラの罵倒につきあう正常人なんておらんわ」って言う読者もいるかもしれないので一応言っておくが、藤田まだここ見てるよ。ホストが同じなだけじゃなく、ここにくる検索サイトも同じだから彼だろう。彼safari使いなのな。マカー(笑)。
もうババアでも藤田でもいいよ。
殺しあおうぜ。
まあお前にも都合ってもんがあるだろうからな。数日は猶予やるよ。
隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれていれば、「他者の欲望である欲望」を促進する。それは「享楽」ではない「快楽」を生じさせるだろう。逆に言えば隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれている限り「享楽」には辿り着けない。
藤田はなんとなくこの哀しさを知っていそうだがな。正常な精神であってしまう哀しさ。こういうところがポスト・フェストゥムっぺえ。そいや強迫症もポストだったよな、確か。恐怖症と強迫症の違いもよく議論されてるが、ここにこそ木村敏のフェストゥム論ぶち込んだらわかりやすそうだ。でも木村は「対人恐怖症はポストだろ」つってたけどね。わたしは成人の対人恐怖症、赤面恐怖症はポストだと思うが、幼児的な、それこそハンス症例のごとき恐怖症なら、アンテだと思う。
隠喩連鎖パターンを条件反射で覚えているだけなら、「欲望」の促進にならない。
これは文化人類学における機能主義と構造主義の違いでもある。世の中に自閉症者の方が多ければ、機能主義は正しかっただろう。
ああもう、ぶっちゃけ、「ねばねば感」なんだよ。ババアにはそれがある。二階堂にはない。それだけ。
もういいよそれで。
藤田は著作では必死さ、真摯さが見られる。しかしネット上ではそれがほとんど見えない。BBSで長文を書いていていても「風流な遊び」にしかなっていない。周りが必死じゃないってのもあるのかもしれないが。あいやごめん、「文化人になりたがっている」必死さはあると思うよ。
そういう「欲望の伝染」に巻き込まれたのだろうか。
だから向井んちであんなことをした、と。
あれはむしろ藤田BBSやフジタゼミへの、藤田自身の反抗なのではないか。
まああれだ、藤田は「ネット上は必死になるところじゃない」と思っているかもしれないが、わたしにとってのこのブログは「必死になる場所」だ。お前にとっての著作だ。
ただそれだけのことじゃねえの。
むしろ、ネット上で必死になれないのは、なぜ? 哲学板にいた頃はそこそこ真面目だったよなお前。ちょくちょく叩かれもしてたよな。それで必死になりたくないの? アホか。2ちゃんではコテハンは叩かれてナンボだぞ?
わたしが著作で必死にならないのは、著作依頼されないからってだけだけど? つかブログの方がやりよいわ。他人に文章いじられるのとか気持ち悪くてかなわん。
んで、どうなの?
なんでそんな態度しかできないの?
それこそ2ちゃんでやられたごとく「必死だなwww」とか「ネタにマジレス乙www」とか言われるから? 実はお前あのとき叩かれて結構傷ついたりしてたの?
別にいいじゃん、んなときゃそれこそ向井の言葉を利用したらいい。
「分析家は分析家グループにおいてはヒステリー的主体でなければならないのだ。私はこの場所を、あなたたちは資格は持っていないのかもしれないが、分析家グループだと考えている」
って言えばいいじゃん。
つかさー、「「必死だなwww」とか「ネタにマジレス乙www」とか言われるから」ってのも他者に執着している証拠だよな。
藤田くん、君は「分析家グループの語らい」ができない人なんじゃないのかい? 向井の言うその点が理解できてないから。
そうだよな、お前ラカン村でどっかはぶられてる感じのところがあるもんな。
逆に言えばラカン村はそうだから一般常識村からはぶられてるんだが。お前は一般常識村よりにいたがっているだけにすぎん。
「分析家は孤独でなければ仕事できない。だが集団でないと生きていけない」
あのさー。お前のその「分析家グループから孤立してる」のって、それで結局BBSみたいな「文化人サロン」やってるだけなら、大間違いだと思うんだけど。それただの2ちゃんの「必死だなwww」「ネタにマジレス乙www」空気だよ。むしろ2ちゃんこそが現代の「文化人サロン」なんだよな。一部を除いて。
「分析家は、「社会的な意味構造」から孤立してなければ仕事できない」だぜ? この意味。
お前はむしろ分析家グループから孤立して「社会的な意味構造」にしがみついているだけじゃないのかい?
そもそも分析家グループがアンチ「社会的な意味構造」なのに、アンチ分析家グループで親「社会的な意味構造」になっているだけじゃないかい?
その証拠がただの「文化人サロン」化しているお前んちのBBSなんじゃないのかい?
なんかなー、ほんっとお前ってポスト・フェストゥムだよな。
ああまあ、藤田が「「必死だなwww」「ネタにマジレス乙www」空気こそが分析家グループのあるべき姿だ」っつうなら、それでいいよ。あたしゃ向井の考え方に賛同するってだけで。
まあそれだけの話なんだよな。
あれだよ、妖怪紳士ともよく議論になったが、ポスト・フェストゥム者が憧れる「隠者」は、「解離や憑依」じゃないんだよな。「思考する者なき思考」に、「妄想分裂態勢」に辿り着けない。
ここら辺激論交わしてな、妖怪紳士もなんとなくわたしの言いたいことを理解できたみたいだ。ここのコメント欄から。
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あたりがまんまフラッシュバックで色々と納得。私の脳内で繰り広げられた荘子vs脂嬢を私なりにジャッジすると、荘子の「既存の価値をメタ的に相対化して、それらにいちいち感情を煩わされない安息的な在り方」は無我でもなんでもなくて、単純に鬱なんじゃなかろーかという結論に。ああ、古代東洋哲学敗北。悲しい。
つまり荘子的な心安らかな隠者足りうるには鬱状態を楽しむか、あるいはむしろ自我を強化しないといけないのだなあ。こまったなあ。
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こいつの方がよくわかってるよ。
つまり、藤田BBSという場所は単にそこにいる奴の「鬱状態」あるいは「むしろ自我を強化」を促進しているだけだ。
一方向井は「分析家グループにおいて分析家はヒステリー的主体をふるまうべき」と言っている。
解離症状の「解離」は「自我の解離」って意味だろ?
藤田はどうも妖怪紳士と同じ勘違いしてるんじゃないだろうか。
「分析家は東洋思想的な隠者であるべき」
みたいな。
言葉で「違う」って言われても「BBSが「心安らかな隠者」志向的になってるじゃん」って言いたいわ。
あ、ちなみにこの議論については、ここの記事がすげー参考になるとわたしは思うんだな。この筆者の解釈はだめだめだけど、引用している文章が参考になる。
=====
かえりみて、一千年余の間に、日本文学は顕教(明在系)であった。ありすぎた。顕教界で「もののあわれ」「わび・さび」を主流とするとき、たとえ本来そうではないにしろ、やはり虚無、諦念、厭世、無常観に片寄りすぎている。密教が無さすぎる。俳句界でもそれは数えるほどしか行われていない。華厳・密教界においてはじめて文芸は生命界へ転ずるように、私には思えてならない。不在・異空間、暗在系を詠み得てはじめて生命が誕生する…。
=====
さて、精神分析の辿り着く先は「顕教」なのか、「華厳・密教」なのか。
どっちだろうねえ。
自我に対する他人事的態度は精神分析も仏教思想も似ているんだよね。ラカン自身が言った通り。
んじゃ、自我から離れた状態とは、抑鬱症状なのか、ヒステリー症状なのか。「抑鬱態勢」なのか、「妄想分裂態勢」なのか。クラインは「妄想分裂態勢」が先だとしてるよな。いやあたし混濁していると思うけど。生後直後の赤ん坊は。どっちが先かあとかじゃなくて。どっかにも書いた。ブログ内検索して探してくれ。
精神分析ってヒステリー研究からはじまったようなもんだよな。
どうだろうねえ。
つかさー、中野の言う通り、この一件についてのわたしの意見を短くまとめるなら、それこそいっちゃん最初のこの記事なんだけど。
一番最初にまとめてあるのに「まとめろ」なんてそいつの怠慢でしかないだろ。
おい、藤田答えろ。真面目に。真摯に。必死に。短文なんかじゃなくお前の思考を詳細に記せ。短文でまとめられるような単純な思考はしてないんだろ? そうなら「わかりやすさの危険」なんて言う資格ないよな。
あ、ババアでもいいよ。
どっちでもいいが一人ずつにしてくれな。わたしまじで死ぬから。
なんか藤田やっぱ根は真面目なんだな。このブログの最初の記事から読みはじめている。
うん、最初の方猫かぶりまくりだったから。2ちゃんいたしネットの怖さはよく知ってる。
隠喩ばりばりですよ、その頃。
揶揄多いけど。
すげーぎこちないのが自分でわかる。特に、まあその頃普通の読者っつかね。そういうしがらみもあったから。そういう人への対応は見てるこっちが恥ずかしいわ。妖怪紳士からも言われたもん。「脂さんってほんと好意的なコメントへの対応下手ですね(笑)」って。
猫かぶると好意的なコメントが増える。そしたらわたしはぎこちなくなる。
めんどくせえ、となったわけだな。
つか揚げ足取りするために読んでるんだろうか。
そんな揚げ足取りラカン派の決まり文句「主体は分裂している」で一蹴できるのに。
それこそ「統合された人格」たる「想像的なものでしかない自我」にお前が執着している証拠だ、とね。
「他者の欲望たる欲望」にお前が執着しているだけだ、と。
でもあれだ、「わたしの心をいかに効果的に傷つけるか」という目的のための行動なら、正解だと思う。
そうそう、そういうことだよ。
人の心を分析するということは心を傷つけるということだ。
つかさー、わたしのこの質問に対しなんでブログの最初の記事とか読まなきゃいけないわけ?
ってこないだから最初の方読んでたなそういや。この質問とは関係ないのか。
まあ勝手に読んでくれ。うざいけど。
つかこんな読み方すんのがすでにポスト・フェストゥムっぺえ。時系列にしがみつくあたりが。
ほんとあれだ、お前自分自身見失ってそうだな。
ポスト・フェストゥムとか分析家に一番向いてなさそうなのに。
強迫症とヒステリーは構造的に真逆の関係にあるわけだろ?
強迫症はポストだ。ヒステリーは木村敏は触れてないが、わたしはアンテだと思う。
あ、でもフロイト自体が強迫症でポスト・フェストゥムっぺえしな。
真逆だからいいのか。すまん、撤回。
つかさ、時系列で考えるのは確かに分析シーンでも大事なことだがな。科学的に考えれば、観察対象に応じた時空スパンってのがあるんだ。たとえば「シュレーディンガーの猫」なんかは量子力学ってミクロな時空スパンの事象を、われわれが生きている一般的な時空スパンに適用させたからおかしくなるわけだ。「時空スケールは常に普遍」ってのがすでにおかしいわけだろ、特殊相対性理論の時点で。あれが「おかしい」って思う人は「時空スケールは常に普遍」って固定観念があるからなんだよ。つまり人間精神側の問題だ、ってわけ。
あ、これあたし大学時代から考えてたことよ。んで「結局(科学上)問題として残っているのはむしろ観察する側の人間の心じゃないか」と思ってたんだよな。「鏡はなぜ左右が入れ替わって上下が入れ替わらないのか」ってのもおんなじことだよな。人間精神側になんらかの思い込みがあるから「なぜ」となる。ここ参照。
こういうところから演劇はじめたってところはある。
なんかアンチ精神分析の風野春樹も似たようなこと言いそうだな。
まあ要するに、わたしを分析するのに数年間の時系列を考慮してもあんま意味なさそうだけどなあ、って思っただけ。
この一件でも書いているけどあたし基本「むかついたら叩く」人だからさ。その瞬間瞬間でしか行動しない人。行きあたりばったり。
ああまあ、それでも見えてくる何かがあるかもしれんけどね。見つかったら教えて。当然反論する可能性は十分あるが。
つかほんとうぜえな、お前。細かいうざさ。こういうのが一番タチ悪い。
お前あれだ、ムッツリスケベくんだろ。
『京極堂シリーズ』で精神分析家のキャラが出てて、「こんな奴実際にいたら最初から続けられてねえだろwww」って思ってたが、お前を考慮すると「いるのかもなあ」って思えてきたわ。
いや、京極の小説にリアリティが出てきたってだけの話。
なんか、大変だな、お前。「水と油」で水が油についての仕事しているようなもんだ。
つかさー、理系の論文ってのは、順不同で読んでも大丈夫なんだよな。実験結果を読んでから実験内容を読んでもいい。数学なんて基本そうだろ、「演繹も帰納もあり」ってのは「思考において順不同で構わない」ってことだ。
藤田くん理系だっけ。医学部か。ふーん。
つか珍しいよ、ここの読者で君みたいな読み方してる人って。
なんかさ、藤田くん、君原和之になっちゃえば? 哲学畑に移住した方がいいかもしんない。まあそりゃ「臨床は一切しない」ってのはないだろうけど、そういうタイプだと思うけどなあ。
なんつかな、こう、「エスについてのセンスがない」っつうかな。
「「大学のディスクール」からなかなか抜けきらない人」っつうか。
つかさー、ブログなんて興味持ったところだけ読んで全部読んだりすることあんまねえじゃん。ブログ読者はブロガーの人格を尊重していない。
だからあたしはブログやってんだけど? わたしの言葉はただの道具として利用してくれて構わない、と。むしろわたしの人格なんて尊重しないでくれ、と。
なーんで最初から読もうとするかな。いやたまたま「最初の方の記事はどんな感じなんだろう」つって読むことはあるにしても。だからお前昨日だかこのブログの一番最初の記事読んでたみたいだけど、わたしは何も言わなかった。だけど今日見ても最初の方の記事読んでるし。
こういうさー、リアルタイムでのわたしの問いかけを無視して、時系列で読もうとするところが、お前の無意識下に「全体性の幻想」がある証拠じゃないかい?
それを優先してディスクールしちゃうお前の癖が表れているのではないかい?
お前の分析って、「主人のディスクール」になってないかい?
だからBBSや2ちゃんスレでのお前は「大学のディスクール」になっちゃうんじゃないかい?
なんかお前本当に才能ないんじゃね?
お前という分析家は、対象aじゃなくファルスになってはいないかい?
向井を「毛沢東主義だ」と批判したのは、お前自身が毛沢東などといった権力者のごときファルスになっていると自分でうすうす気づいていたからじゃないか?
ファルスになっていたお前自身を向井という鏡に見出したのではないか?
つかさ、あのときお前酔っ払ってた?
もっと簡単なことなんだよな。なんやかや「分析家グループにおける分析家のあるべき姿」やらなんやらで理論武装しているけど、もっと単純なこと。あたし自身の私怨。
ババアのその言葉は、バタイユについての議論をしていて、ちょっくら川上未映子の話に脱線したときに、ババアがぽろっと言ったことだ。おそらくババア自身覚えてなかったりするのだろう。「ぽろっと言ったこと」だからこそそいつの無意識の表出となるんだがな。フロイトの「冗談や錯誤行為にこそ無意識が表出する」ってのはそういうことだろ? つかそこかしこにあるマンガなんかでも普通にあるじゃん。「ぽろっと言ったことだからこそそいつの本音だ」って考え方は。
つまりわたしはこの言葉はこのババアの無意識の表出、いわば本音と捉えている。おそらくこれは間違いないだろう。
そうでなければわたしもここまでいきり立たない。この言葉だけの話ではなく、こういったババアの言い方、態度も含めて認識して、彼女の殺意を抱いてしまったわけだ。
「ぽろっと」じゃなければ、多少カチンとくることはあっても、ここまでにゃならんかったろうな、とは思う。
あ、なんかこの思考回路スナックのママっぽいな。いやあたしの個人的な主観だけど。バイトしてたとこのママがそういう感じだったからな。客のほんとどうでもいいような一言をよく覚えている人だった。それでいてその客の本性っていうかね、そういうの見抜いているんだよ。いやその「ママが推測した本性」があってるかどうかの検証はしてないがね。バイトしたのほんの一瞬だし。一年も続けなかった。
ありがちな感じしね?
客「ただのジョーダンだろ、ジョーダン」
ママ「ジョーダンだからだめなのよ!」
みたいな光景。
フロイトなんて学んでなくても、特に水商売なんかやってる人は、その人間関係の実践経験から「無意識」って概念を(当然彼女らはそんな概念を所有していない場合も多いだろう)根拠にした思考回路をしてんじゃねえの? って思うわ。
心理学の人らが小難しく「フロイトはむしろ冗談や錯誤行為にこそ無意識が表出すると考えた」なんて言ってるのを、こう考えたらわかりやすいだろ? って話。この小難しい言葉に具体が伴うんじゃね、と。
ババアについて。
バタイユやら議論してるってことは結構な小説読みなのだろう。おそらくあたしより読んでる人なんじゃね。あたしこんなブログ書いているから誤解されてっけど全然「本の虫」じゃないんだよね。一冊をじっくり読むタイプ。クリステヴァなんか一日一ページ進まないことなんかざら。部屋の中だって本でうずもれているわけじゃない。いやまあ一般平均よりかは多いとは思うけど。
つか一般女子の部屋なんてほんと本とかねえじゃん。ちっちゃい本棚に雑誌が詰め込まれている程度。ああいうのよりかは持っているとは思う。
一方、持ってる子はほんと持ってる。本棚もでっかい。そこの部分だけ床めり込んでいない? とか思っちゃうぐらいに。
こう、中間がいないんだよな。女子って。わたしみたいな。不思議なことに。男子とかは結構多いんだけどね。わたしレベルの書籍所有量って。
ラカン理論駆使してバタイユ解釈できるくらいの女子なら、どっちかってとそっちタイプの子だろう、と予測する。
まあ要するに結構な文学少女なのだろう、という話だ。
んでー。
あたしもまあ結構小説読むほうだし、一時期ライトノベル作法研究所とかに入り浸ってたくらいだから、文学少女な方なのだよ。
だがな、ほんと巷の文学少女は癇に障る。ライトノベル作法研究所でもそういう子らにはよく嫌味を言った。とはいえネットの辺境だけあって不思議な場所でな、現象学オタクな妖怪紳士や、バイで姉御肌なおばはんもいたりしてな。そこそこ楽しかったよ。
なんだろうなあ。
SFとか好きなんだよ。物性物理専攻だったわけだし。
でもファンタジー系? 恋愛物をファンタジーで装飾しました系とかって、ほんと読んでて鳥肌が立つ。キモイ。
あれだ、中世が舞台で、旅をしている主人公が、ある村で宿を借りるシーンがあってな。その主人公、何事もないように着替えたりしてんだよ。どんなに荷物持ってたんだと。いやまあお姫様や公爵みたいなのならありえるんだが、流浪人みたいな主人公でな。ああいうのとか、特に中世とか、着替えなんて持って旅してなかったろう。持ってても一枚や二枚だろう。服に蚤が湧いてたりもするだろう。うんこだって野糞だろうし、ケツ拭く紙だってなかっただろう。
そういうのがな、ほんとだめなんだ。
でもそういう小説が普通に読まれている。巷のファンタジー物(小説にしろゲームにしろアニメにしろ)なんてそうだろ。『もののけ姫』のサンだって野糞してるに決まっておろうが。常識で考えて。葉っぱで拭いたとしても拭ききれてなかったりするだろう。それに犬と暮らしてるんだぜ? 犬なんて道端でうんこ見つけると喜んでそれを身になすりつけたりするだろ?
そういう「臭い」「臭さ」がないんだよ。
とか言うとさー、「そういう小説読めばいいじゃない」とか言ってくるんだよな。小説の問題じゃねえんだよ。そういった現実に目を向けないお前という人格を批判したいんだあたしゃ。
みたいな感じでよく揶揄った。
こういったこととババアへのむかつきは似ている。
だけど揶揄じゃなくて殺意となったのはなぜか。
ラカン理論やってるくせに、というのが大きい。精神分析なんてのは、人間精神の「野糞」部分を科学的な態度で見つめ直すものだろ、という感じだ。そのくせこのババアは「アイドルはうんこなんてしない!」なんてアイドルオタクと同じようなことをのたまう。
そうだよ、「もっと隠喩が多い作品が読みたい」なんてのは「アイドルはうんこなんてしない!」と同じだよ。
まあかと言ってそこで「隠喩が少ない作家」として挙げられていた川上未映子は「野糞」を書かないだろうけどな。川上弘美はなんか野小便の小説書いてたが。オヤジウケしそうな。そこがキモかったな。オヤジなんて変態多いのに。某新聞社のおえらいさんだって女性の小便飲む趣味公言してたぞ。某新宿バーの常連の。お前が勝手に「オヤジたちは変態趣味を抑圧している」って思ってるだけじゃねえの? って思うわ。飲み屋にいきゃ解放しまくってるわ。社会的な立場のある奴に限って。いやまあ確かにああいう小説は「変態趣味を抑圧している」オヤジたちにゃウケるんだろうがな。
まあそういうことを言いたかったのがこの記事だ。この記事にも書いた「無駄毛の処理は日常的にしているが化粧はしない」ってのが「「野糞」はさすがに書けないけれど隠喩は故意に少なくしている」ってことだ。
わたしゃ「無駄毛の処理」なんかにゃ興味ない。作家たちには「「野糞」をしろ」と言いたい。
この「野糞」が、藤田博史も引用していたアルトーの
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だがこの詩の作者(ルイス・キャロル)は知性の精巧さによって事実を――幼児言語の衝動が持つ肛門性欲という事実を――喚起しようとしているのであって、肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出したというわけではないのだ。
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という文章の、「肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出した」だと思う。
「肛門性欲」なんてのは明らかに「欲動」だろ? クラインの「妄想分裂態勢」を考慮すれば「肛門的幼児性」の意味もわかる。
となるとこれは「欲動が赤裸々に語り出す」という意味になるな。精神分析ジャーゴンで書き換えれば。
「欲動」だから「欲望」のごとくそこに「他者」はいない。だからこの記事で書いているような話になる。「欲動が赤裸々に語り出した言葉」にはラカン的な意味での「他者」など存在しない。
ところは隠喩はその「欲動が語り出した言葉」を覆い隠すのだ。「他者の欲望である欲望」に乗って伝染した隠喩連鎖パターンは、他者のいない言葉をひねり潰す。
わたしがしたアマチュア物書きへの揶揄は、ババアに対する殺意という欲動的な性質を隠喩で覆い隠したものだ。
仕方ないんだよ。隠喩で隠蔽劣化するのも文学の一つの役割だと認めつつあるし。笙野頼子にも裏切られたわけだし。あ、わたしが勝手に「裏切られた」と思ってるだけだけど。
だから、「文学という芸術」で考慮すれば、「隠喩を一掃しろ」などとはわたしは言わない。単なるわたしの好みでしかない。
しかしだな、「隠喩を多くしろ」はおかしいだろ、と言いたい。隠喩はあっていい。しかしそれを多くしろとは何事だ、と。川上未映子などはおそらく故意に隠喩を避けているのだと思う。脳の器質的な問題で隠喩を駆使できないのは自閉症である。川上未映子はその作品を見てもアスペルガー症候群者だとは思えない。自閉症の本気な「隠喩の使えなさ」の結果たるエコラリア的なところが見えない。むしろ谷山浩子の方にそれは見られる。
=====
それにしてもわたし、こんな口の聞き方いつの間に覚えたんでしょうね
「嘘のように漂っている耳障りのいい言葉」だなんて
ほんとに耳障りのいい言葉
申し分のない活字の言葉
わたしはどうしてもこの紙の上から自由になれません
もうめんどくさい 黙ってしまえ
世界一くだらない人間になって、立派なものをいちいちやっかんで、そして
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アルトーの言う「言語の死刑囚」を連想しないか?
ここまで書いて、「この脂という人は隠喩を毛嫌いしているのだな」と思われそうなので言っておく。
「毛嫌い」しているわけではない。わたしはアスペじゃないし隠喩は読める。おそらく正常人含めた一般平均より読めるだろう。隠喩は便利だと思う。中井久夫などは医学書で文学的表現を多用するが、「こういう使い方は便利だなあ」とわたしは思える。中井久夫がする隠喩の多用をわたしは批判するつもりはない。
しかしわたしは「隠喩される側」でもあった。舞台役者をやっていた。
このババアは、「隠喩される側」に立って、「隠喩されることの重み」を知らないのではないか、と思えるところが、わたしが殺意を抱いてしまう理由だ。
むしろこのババアは隠喩を軽視しているのだ。
隠喩が自我が壊れたヒステリー的主体や統合失調症者にどういう苦痛を与えるのかを知らない。
このババアにとって隠喩は快楽的なものでしかない。不快があってもそれは「幻想の死」たる強迫神経症や退却神経症の「漠然とした不安感」でしかないだろう。
もっと即物的な隠喩から受ける被害を知らない。
そこが、わたしが「このババアは隠喩を軽視している」と思えるゆえんだ。
だから殺意が湧くのだ。
正常人になりたくて尋常ではない努力をしても、正常な精神を手に入れられない人間の前で、「いや正常人であることなんて楽勝だろ? 正常人だってたまには辛いこともあるし(笑)」などと言うようなものだ。
殺意を覚えて当然だろ?
正常人になりたくて、「正常な精神とはどういうものか」を必死に分析しているわたしは、こういう奴に殺意を覚える。
これは藤田博史も同様だ。
正常な精神にあぐらをかきすぎている。
死ね。
まじで死ねよ、お前ら。
藤田博史などアルトーを引用しておいて、なぜこのババアを糾弾しないのか不思議でならない。このババアはルイス・キャロルだよ。
ああ、「社会的な意味構造」つまり「主人のディスクール」にしがみついているわけね。だからこのババアを叩けない、と。
本ではあんなこと言ってても実際にルイス・キャロル(生きてたらの話な)と対面したらお前なかよしこよしするんだろうな。
お前も死ねよ。
藤田みたいな人間が「言語の死刑囚」なんて言葉使うなよ。
この言葉が示す実体が汚れる。
もっと真面目にやれよ。真摯に接しろよ。隠喩に対し。精神分析学んでるんなら。これは藤田にも言っている。二階堂奥歯なんて「隠喩の集大成」たる「物語」に必死だったろ? 真摯だったろ? 精神病の妄想レベルに。それと比べたらあのババアの無意識は「軽やか」だろ? 隠喩に対し。重くない。彼女の主観世界における隠喩に重みはない。
お前ら隠喩を、物語を軽視しすぎだ。
わたしは演劇人つながりで台本の下読みみたいなバイトもしたことがある。そんなこんなで「物語恐怖症」になった。
お前ら「隠喩を駆使できる自分」「隠喩連鎖構造が刷り込まれている無意識」にあぐらをかきすぎだ。
文学少女にも二種類いるんだ。隠喩連鎖構造が無意識に刷り込まれていないからこそ物語に拘泥する文学少女と、隠喩連鎖構造が無意識に刷り込まれた上にあぐらをかいて物語に執着する文学少女と。
二階堂は前者で、このババアは後者だ。
二階堂は役者に必死になってた頃のわたしみたいなもんだ。
つか今でも必死だろ、あたし。
つかそんな難しいことじゃねえよ。前者はそれこそ解離的に物語を読む子。他者なんて関係ない。彼女にとって「物語を読むこと」とは「独り言」と同じだ。後者は一般的だろ? クラスで話題に乗り遅れないためにドラマを見るような子。「他者の欲望」を目的として物語を読む子。
二階堂の言葉。
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探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に存在することの違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
=====
さて、二階堂はどっちだ? そしてそのババアはどっちだ?
わたしは二階堂奥歯ではない。このブログはむしろ、隠喩を、物語を破壊する「野糞展覧会」だ。
しかしそれは、隠喩、物語の重みを知っているからこそしているのだ。
二階堂の文章は、その必死さから、この重みを知っているように思える。だからカチンとくることはあるが攻撃しない。揶揄しない。
ああだめだ涙が止まらねえ。
ただのパニック発作だよ。
死ね。藤田もババアも。
隠喩連鎖パターンを、新宮の言う「社会的な意味構造」を、条件反射で覚えるのと、無意識に刷り込まれるのとは、別物なんだ。
この違いを説明するには斎藤環がしている「ベイトソンの学習理論の流用」が確かに便宜だろう。意味構造すなわち隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれる段階が彼の言う「学習2」である。
自閉症がするエコラリアは、意味構造を条件反射的に覚えているが、そのパターンが無意識に刷り込まれていない、という症状だ。斎藤が言う通り「自閉症は「学習2」を経ていない」だ。
意味構造が無意識に刷り込まれていないと、すなわち「言語のように構造化され」てない無意識だと、自閉症になる。あるいは分裂病型人格障害もそうだと思える。わたしにもある症状、夢と現実が混同するのは無意識が「言語のように構造化され」ていないからだ。
とはいえ、条件反射的にそれを駆使することはできる。体で覚える。特訓の成果だ。
だが無意識に刷り込まれていないため、常に違和感がある。ずれが生じる。
そういうことだと思うがなあ。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、まじ死ね。
つかさー、中野のこのコメントもさー、
=====
うーん、俺や他の人に対する評価を置いとくと、脂さんがこの2,3日書いたことって、
1 BBSから判断するに「ペスト=科学的精神分析」について語るにはフジタゼミはぜんぜん不適格。
2 わたしに合う分析家が欲しいが、いない。藤田もだめだった。
の二つですかね。もしそうならもう少し短く書けないですかね。
=====
中野個人の主観でした勝手な要約だろ?
「もしそうなら」ってそうじゃねえよ、お前の主観による要約にすぎない。
それをなんでこう無自覚に傲慢に他人に押しつけられるのだろう? ほんと理解できない。
主観なんて個人によって違う。主観でしかないのだからそれは緻密に説明するのが道理ってものだろう。
それがここでも述べている「思考実況」だ。
っていうかさー、わたしがそのババアにした最初の批判ってこの記事なんだけど、それでなんでそんな要約になるのかが理解できない。「隠喩の多さを(無意識から)求めている」って点が最重要点じゃないか。そうわたしは書いている。なのに「彼女は素人である」なんてわたしにとっては「どうでもいいこと」を考慮している。だからそれはお前自身の症状だよ、って言っているんだが。
「どうでもいいこと」と「どうでもよくないこと」なんて人によって違うだろ、アホタレ。ここでも読め。
中野にとってはそら確かにババアの「隠喩の多さを(無意識から)求めている」点なんかどうでもいいんだろうな。
ほれ、これも「「隠喩を駆使できる自分」「隠喩連鎖構造が刷り込まれている無意識」にあぐらをかきすぎだ。」って症状じゃねえか。
こういう基本的なところがわかってないこんな馬鹿を飼って何やりたいの? 藤田や。
つかここのコメント欄でした「わかりやすさの危険」について、解答しろ。
これまでみたいな他人をコバカにした「風流な遊びとしての禅問答的な短文」じゃなくて、真面目に、必死に、真摯に答えろ。お前が言った言葉だろ。
コメ禁解いてやったぞ。
つか非公開コメントもわけわかんなくなるからするな。こないだのコメントなんて非公開にする意味ないだろ。なぜ「非公開にしたのか」って考えちゃうだろ。
「文化人サロン」(嘲笑)はお腹いっぱいなんで。
「文化人サロン」の演出に精神分析を使うなよ。分析家失格だろそれ。
ああ「藤田はもう見てないだろ(笑)、メンヘラの罵倒につきあう正常人なんておらんわ」って言う読者もいるかもしれないので一応言っておくが、藤田まだここ見てるよ。ホストが同じなだけじゃなく、ここにくる検索サイトも同じだから彼だろう。彼safari使いなのな。マカー(笑)。
もうババアでも藤田でもいいよ。
殺しあおうぜ。
まあお前にも都合ってもんがあるだろうからな。数日は猶予やるよ。
隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれていれば、「他者の欲望である欲望」を促進する。それは「享楽」ではない「快楽」を生じさせるだろう。逆に言えば隠喩連鎖パターンが無意識に刷り込まれている限り「享楽」には辿り着けない。
藤田はなんとなくこの哀しさを知っていそうだがな。正常な精神であってしまう哀しさ。こういうところがポスト・フェストゥムっぺえ。そいや強迫症もポストだったよな、確か。恐怖症と強迫症の違いもよく議論されてるが、ここにこそ木村敏のフェストゥム論ぶち込んだらわかりやすそうだ。でも木村は「対人恐怖症はポストだろ」つってたけどね。わたしは成人の対人恐怖症、赤面恐怖症はポストだと思うが、幼児的な、それこそハンス症例のごとき恐怖症なら、アンテだと思う。
隠喩連鎖パターンを条件反射で覚えているだけなら、「欲望」の促進にならない。
これは文化人類学における機能主義と構造主義の違いでもある。世の中に自閉症者の方が多ければ、機能主義は正しかっただろう。
ああもう、ぶっちゃけ、「ねばねば感」なんだよ。ババアにはそれがある。二階堂にはない。それだけ。
もういいよそれで。
藤田は著作では必死さ、真摯さが見られる。しかしネット上ではそれがほとんど見えない。BBSで長文を書いていていても「風流な遊び」にしかなっていない。周りが必死じゃないってのもあるのかもしれないが。あいやごめん、「文化人になりたがっている」必死さはあると思うよ。
そういう「欲望の伝染」に巻き込まれたのだろうか。
だから向井んちであんなことをした、と。
あれはむしろ藤田BBSやフジタゼミへの、藤田自身の反抗なのではないか。
まああれだ、藤田は「ネット上は必死になるところじゃない」と思っているかもしれないが、わたしにとってのこのブログは「必死になる場所」だ。お前にとっての著作だ。
ただそれだけのことじゃねえの。
むしろ、ネット上で必死になれないのは、なぜ? 哲学板にいた頃はそこそこ真面目だったよなお前。ちょくちょく叩かれもしてたよな。それで必死になりたくないの? アホか。2ちゃんではコテハンは叩かれてナンボだぞ?
わたしが著作で必死にならないのは、著作依頼されないからってだけだけど? つかブログの方がやりよいわ。他人に文章いじられるのとか気持ち悪くてかなわん。
んで、どうなの?
なんでそんな態度しかできないの?
それこそ2ちゃんでやられたごとく「必死だなwww」とか「ネタにマジレス乙www」とか言われるから? 実はお前あのとき叩かれて結構傷ついたりしてたの?
別にいいじゃん、んなときゃそれこそ向井の言葉を利用したらいい。
「分析家は分析家グループにおいてはヒステリー的主体でなければならないのだ。私はこの場所を、あなたたちは資格は持っていないのかもしれないが、分析家グループだと考えている」
って言えばいいじゃん。
つかさー、「「必死だなwww」とか「ネタにマジレス乙www」とか言われるから」ってのも他者に執着している証拠だよな。
藤田くん、君は「分析家グループの語らい」ができない人なんじゃないのかい? 向井の言うその点が理解できてないから。
そうだよな、お前ラカン村でどっかはぶられてる感じのところがあるもんな。
逆に言えばラカン村はそうだから一般常識村からはぶられてるんだが。お前は一般常識村よりにいたがっているだけにすぎん。
「分析家は孤独でなければ仕事できない。だが集団でないと生きていけない」
あのさー。お前のその「分析家グループから孤立してる」のって、それで結局BBSみたいな「文化人サロン」やってるだけなら、大間違いだと思うんだけど。それただの2ちゃんの「必死だなwww」「ネタにマジレス乙www」空気だよ。むしろ2ちゃんこそが現代の「文化人サロン」なんだよな。一部を除いて。
「分析家は、「社会的な意味構造」から孤立してなければ仕事できない」だぜ? この意味。
お前はむしろ分析家グループから孤立して「社会的な意味構造」にしがみついているだけじゃないのかい?
そもそも分析家グループがアンチ「社会的な意味構造」なのに、アンチ分析家グループで親「社会的な意味構造」になっているだけじゃないかい?
その証拠がただの「文化人サロン」化しているお前んちのBBSなんじゃないのかい?
なんかなー、ほんっとお前ってポスト・フェストゥムだよな。
ああまあ、藤田が「「必死だなwww」「ネタにマジレス乙www」空気こそが分析家グループのあるべき姿だ」っつうなら、それでいいよ。あたしゃ向井の考え方に賛同するってだけで。
まあそれだけの話なんだよな。
あれだよ、妖怪紳士ともよく議論になったが、ポスト・フェストゥム者が憧れる「隠者」は、「解離や憑依」じゃないんだよな。「思考する者なき思考」に、「妄想分裂態勢」に辿り着けない。
ここら辺激論交わしてな、妖怪紳士もなんとなくわたしの言いたいことを理解できたみたいだ。ここのコメント欄から。
=====
あたりがまんまフラッシュバックで色々と納得。私の脳内で繰り広げられた荘子vs脂嬢を私なりにジャッジすると、荘子の「既存の価値をメタ的に相対化して、それらにいちいち感情を煩わされない安息的な在り方」は無我でもなんでもなくて、単純に鬱なんじゃなかろーかという結論に。ああ、古代東洋哲学敗北。悲しい。
つまり荘子的な心安らかな隠者足りうるには鬱状態を楽しむか、あるいはむしろ自我を強化しないといけないのだなあ。こまったなあ。
=====
こいつの方がよくわかってるよ。
つまり、藤田BBSという場所は単にそこにいる奴の「鬱状態」あるいは「むしろ自我を強化」を促進しているだけだ。
一方向井は「分析家グループにおいて分析家はヒステリー的主体をふるまうべき」と言っている。
解離症状の「解離」は「自我の解離」って意味だろ?
藤田はどうも妖怪紳士と同じ勘違いしてるんじゃないだろうか。
「分析家は東洋思想的な隠者であるべき」
みたいな。
言葉で「違う」って言われても「BBSが「心安らかな隠者」志向的になってるじゃん」って言いたいわ。
あ、ちなみにこの議論については、ここの記事がすげー参考になるとわたしは思うんだな。この筆者の解釈はだめだめだけど、引用している文章が参考になる。
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かえりみて、一千年余の間に、日本文学は顕教(明在系)であった。ありすぎた。顕教界で「もののあわれ」「わび・さび」を主流とするとき、たとえ本来そうではないにしろ、やはり虚無、諦念、厭世、無常観に片寄りすぎている。密教が無さすぎる。俳句界でもそれは数えるほどしか行われていない。華厳・密教界においてはじめて文芸は生命界へ転ずるように、私には思えてならない。不在・異空間、暗在系を詠み得てはじめて生命が誕生する…。
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さて、精神分析の辿り着く先は「顕教」なのか、「華厳・密教」なのか。
どっちだろうねえ。
自我に対する他人事的態度は精神分析も仏教思想も似ているんだよね。ラカン自身が言った通り。
んじゃ、自我から離れた状態とは、抑鬱症状なのか、ヒステリー症状なのか。「抑鬱態勢」なのか、「妄想分裂態勢」なのか。クラインは「妄想分裂態勢」が先だとしてるよな。いやあたし混濁していると思うけど。生後直後の赤ん坊は。どっちが先かあとかじゃなくて。どっかにも書いた。ブログ内検索して探してくれ。
精神分析ってヒステリー研究からはじまったようなもんだよな。
どうだろうねえ。
つかさー、中野の言う通り、この一件についてのわたしの意見を短くまとめるなら、それこそいっちゃん最初のこの記事なんだけど。
一番最初にまとめてあるのに「まとめろ」なんてそいつの怠慢でしかないだろ。
おい、藤田答えろ。真面目に。真摯に。必死に。短文なんかじゃなくお前の思考を詳細に記せ。短文でまとめられるような単純な思考はしてないんだろ? そうなら「わかりやすさの危険」なんて言う資格ないよな。
あ、ババアでもいいよ。
どっちでもいいが一人ずつにしてくれな。わたしまじで死ぬから。
なんか藤田やっぱ根は真面目なんだな。このブログの最初の記事から読みはじめている。
うん、最初の方猫かぶりまくりだったから。2ちゃんいたしネットの怖さはよく知ってる。
隠喩ばりばりですよ、その頃。
揶揄多いけど。
すげーぎこちないのが自分でわかる。特に、まあその頃普通の読者っつかね。そういうしがらみもあったから。そういう人への対応は見てるこっちが恥ずかしいわ。妖怪紳士からも言われたもん。「脂さんってほんと好意的なコメントへの対応下手ですね(笑)」って。
猫かぶると好意的なコメントが増える。そしたらわたしはぎこちなくなる。
めんどくせえ、となったわけだな。
つか揚げ足取りするために読んでるんだろうか。
そんな揚げ足取りラカン派の決まり文句「主体は分裂している」で一蹴できるのに。
それこそ「統合された人格」たる「想像的なものでしかない自我」にお前が執着している証拠だ、とね。
「他者の欲望たる欲望」にお前が執着しているだけだ、と。
でもあれだ、「わたしの心をいかに効果的に傷つけるか」という目的のための行動なら、正解だと思う。
そうそう、そういうことだよ。
人の心を分析するということは心を傷つけるということだ。
つかさー、わたしのこの質問に対しなんでブログの最初の記事とか読まなきゃいけないわけ?
ってこないだから最初の方読んでたなそういや。この質問とは関係ないのか。
まあ勝手に読んでくれ。うざいけど。
つかこんな読み方すんのがすでにポスト・フェストゥムっぺえ。時系列にしがみつくあたりが。
ほんとあれだ、お前自分自身見失ってそうだな。
ポスト・フェストゥムとか分析家に一番向いてなさそうなのに。
強迫症とヒステリーは構造的に真逆の関係にあるわけだろ?
強迫症はポストだ。ヒステリーは木村敏は触れてないが、わたしはアンテだと思う。
あ、でもフロイト自体が強迫症でポスト・フェストゥムっぺえしな。
真逆だからいいのか。すまん、撤回。
つかさ、時系列で考えるのは確かに分析シーンでも大事なことだがな。科学的に考えれば、観察対象に応じた時空スパンってのがあるんだ。たとえば「シュレーディンガーの猫」なんかは量子力学ってミクロな時空スパンの事象を、われわれが生きている一般的な時空スパンに適用させたからおかしくなるわけだ。「時空スケールは常に普遍」ってのがすでにおかしいわけだろ、特殊相対性理論の時点で。あれが「おかしい」って思う人は「時空スケールは常に普遍」って固定観念があるからなんだよ。つまり人間精神側の問題だ、ってわけ。
あ、これあたし大学時代から考えてたことよ。んで「結局(科学上)問題として残っているのはむしろ観察する側の人間の心じゃないか」と思ってたんだよな。「鏡はなぜ左右が入れ替わって上下が入れ替わらないのか」ってのもおんなじことだよな。人間精神側になんらかの思い込みがあるから「なぜ」となる。ここ参照。
こういうところから演劇はじめたってところはある。
なんかアンチ精神分析の風野春樹も似たようなこと言いそうだな。
まあ要するに、わたしを分析するのに数年間の時系列を考慮してもあんま意味なさそうだけどなあ、って思っただけ。
この一件でも書いているけどあたし基本「むかついたら叩く」人だからさ。その瞬間瞬間でしか行動しない人。行きあたりばったり。
ああまあ、それでも見えてくる何かがあるかもしれんけどね。見つかったら教えて。当然反論する可能性は十分あるが。
つかほんとうぜえな、お前。細かいうざさ。こういうのが一番タチ悪い。
お前あれだ、ムッツリスケベくんだろ。
『京極堂シリーズ』で精神分析家のキャラが出てて、「こんな奴実際にいたら最初から続けられてねえだろwww」って思ってたが、お前を考慮すると「いるのかもなあ」って思えてきたわ。
いや、京極の小説にリアリティが出てきたってだけの話。
なんか、大変だな、お前。「水と油」で水が油についての仕事しているようなもんだ。
つかさー、理系の論文ってのは、順不同で読んでも大丈夫なんだよな。実験結果を読んでから実験内容を読んでもいい。数学なんて基本そうだろ、「演繹も帰納もあり」ってのは「思考において順不同で構わない」ってことだ。
藤田くん理系だっけ。医学部か。ふーん。
つか珍しいよ、ここの読者で君みたいな読み方してる人って。
なんかさ、藤田くん、君原和之になっちゃえば? 哲学畑に移住した方がいいかもしんない。まあそりゃ「臨床は一切しない」ってのはないだろうけど、そういうタイプだと思うけどなあ。
なんつかな、こう、「エスについてのセンスがない」っつうかな。
「「大学のディスクール」からなかなか抜けきらない人」っつうか。
つかさー、ブログなんて興味持ったところだけ読んで全部読んだりすることあんまねえじゃん。ブログ読者はブロガーの人格を尊重していない。
だからあたしはブログやってんだけど? わたしの言葉はただの道具として利用してくれて構わない、と。むしろわたしの人格なんて尊重しないでくれ、と。
なーんで最初から読もうとするかな。いやたまたま「最初の方の記事はどんな感じなんだろう」つって読むことはあるにしても。だからお前昨日だかこのブログの一番最初の記事読んでたみたいだけど、わたしは何も言わなかった。だけど今日見ても最初の方の記事読んでるし。
こういうさー、リアルタイムでのわたしの問いかけを無視して、時系列で読もうとするところが、お前の無意識下に「全体性の幻想」がある証拠じゃないかい?
それを優先してディスクールしちゃうお前の癖が表れているのではないかい?
お前の分析って、「主人のディスクール」になってないかい?
だからBBSや2ちゃんスレでのお前は「大学のディスクール」になっちゃうんじゃないかい?
なんかお前本当に才能ないんじゃね?
お前という分析家は、対象aじゃなくファルスになってはいないかい?
向井を「毛沢東主義だ」と批判したのは、お前自身が毛沢東などといった権力者のごときファルスになっていると自分でうすうす気づいていたからじゃないか?
ファルスになっていたお前自身を向井という鏡に見出したのではないか?
つかさ、あのときお前酔っ払ってた?