『プレーンソング』保坂和志――儚くも終わりなき日常。
2006/11/10/Fri
※ネタバレ注意!
某サイトのチャットで薦められたので、読んでみた。
うん。おもしろい。
アマゾンで彼の他の作品のレビューなどを読んで知識の下準備はあった。
まあその辺からつついてみよう。
彼の作品で言われること。解説の四方田氏の文章にもあるが、「何も事件が起きない」ことが特徴だそうである。
私にはそうは思えなかった。事件は起きている。猫を探したり、居候が増えたり、海に行ったり。
それらの事件が主人公の目で淡々と描写されている。また、事件に説話論的な意味はない。
初版2000年か。何か演劇畑としては平田オリザ氏などを想像してしまいそうだが、彼の小説には異化効果すらない。
解説では四方田氏も書いているが、村上春樹氏のような詩的シンボリズムもない。そこが単なるノスタルジックになっていないということだろう。
淡々とした日常を描写した小説。表層だけみればそういう感じだ。しかしそうではない。
初出が1990年。やっぱり、宮台氏コギャル論の「終わりなき日常」の中で、コギャルのようにまわりのものを偏執的に意味化しているのではなく、大人の余裕で「自然と」まわりのものが意味化されているということになるのか。自然体だから言葉で表せるような意味化ではない、ということになる。
とこれだけ書くと中世の農民みたいな生活を書けばいいのだが、大人の主人公が体現している自然体の「終わりなき日常」と、若い映画の道をめざした連中の、「夢の途中」的な「終わりなき日常」が混在しているのがいいのだろうか。デフォルメして言えば『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』の学園生活を校長先生視点から見ているという感じか。と自分で書いててわけのわからない喩えになってしまった。
うーん、分析すべきなのかなあ。こういうのは分析するの気が引けるなあ。まあ書かないと書評にはならなさそうなので。
上の「終わりなき日常」を松明に少しだけ潜ってみましょうか。
物語のキャラクター配置に関しては、実は物語論の基本に忠実な配置となっている。主人公は依頼され、依頼する(居候を決め込むよう子)者がいて、結果を受け取る者、ヒロインと同一。妖精パック的なトリックスター(アキラ)もいる。主人公に助言をする賢者(ゆみ子)までいる。いわゆる敵、阻害する者がいないだけだ。だから事件性を帯びないのだが。
これで敵がいれば、神話時代から存在する元型的なキャラ配置である。特にトリックスターと賢者。日常感がコギャルのような記号化された世界の中での日常という時代性のあるものではなく、普遍性を帯びているのは、このせいなのかなあ、と。
また、解説で四方田氏も言っているが、ラストの「海」なども物語論的には普遍性のある手法だ。生と死を兼ね備える海。始まりと終わりを兼ね備える海。換喩的に物語のラストには映える普遍的なトポスである。また海は「永遠」にも換喩できる。この作品に感じた爽やかさは、夢の途中的なものを含めた「終わりなき日常」が、「永遠」を換喩する海で〆られているからだろう。もちろん解説の四方田氏の言うとおり、そのことについて言及しないのはテクニック的に上手いと言える。
他には、擬似家族的な表現も、「いつか終わりがある」という前提で成り立つ儚い「終わりなき日常」を際立たせるシンボルとなっている。これは夢の途中的なそれとリンクする。
猫の話なんかは猫の自分勝手な性質から、「儚い終わりなき日常」という逆説的な情感を生み出すのにはもってこいだろう。桜という自然の儚さと、餌をやり続ける、猫を探し続けるという日常での反復性が、それを両側面からアシストしている。
桜については、「輪廻的な永遠」も意味するが、ここでは短いスパンでの儚さが強く作用しているのだろう。
競馬の話は山椒的な役割だ。競馬は結果により勝つか負けるかがはっきりし、必ず結果=終わりが眼前に現れる。つまり「終わりなき日常」と正反対の非日常性、終着駅性を帯びている。また、ただの賭け事に物語を見出す視点は、「自然とまわりを意味化している」対応に他ならない。私は競馬はわからないのでこんなこと書いてしまったが、多分これは競馬ファンには普通のことなのかもしれない。しかし作品的には山椒的要素だけではない意味もあると言えるだろう。
こう見ると、使われているシンボルや説話論的構造は(言い方は悪いが)使い古された王道のものが多い。だからこそ村上春樹氏的なシンボリックな感じを受けなかったのだろう。しかしそれを古臭く感じさせない筆力は見事としか言えない。これは分析してから気付いた。
文庫本の裏表紙の内容説明だけ読むと古臭そうな物語を想像させるのはそのせいだろう。
さて、友人が話すバリ島の話。私は個人的にはこれが重要なヒントになると思う。私が大好きな本に『魔女ランダ考』(中村雄二郎氏著)という本がある。他の記事でも少し書いているが、これは「演劇的知」「パトスの知」という概念を生み出した、ポストモダンにとっては重要な書物であると私は考える。
中村氏は、「パトスの知」を「受苦の知」と表現した。近代科学は自然を畏れ、自然を能動的に理解・利用するために発達した。それとは逆に、科学よりはるか昔から存在し、自然からの恩恵・災害は人間にはどうにもならないこともあるとしてそれを受動的に受け入れる知を「受苦の知」と呼んだのだ。これが呪術につながり、演劇や美術などの芸術の根っこの一つとなった、という話だ。
この受動的態度は、まさに主人公に合致する。見事に合致しすぎて、保坂氏は哲学のワークショップをやっていたそうだから、この本を読んで「受苦の知」を表現しようとした作品なのではないか、と勘ぐってしまうほどだ。
しかし、この小説はそれだけにとどまらない。友人の話の中の、祭りに参加している原住民が行う、串を自分の体に刺す「クリスの舞」の話。友人は、完全にトランス状態になっている若者と、時々正気に返って観客を横目でみるじいさんの対比を話す。
主人公はじいさんで、若者はそのまま居候四人組だ。じいさん=主人公は大人の余裕で意識的に、自覚的に自然=「儚くも終わりなき日常」を受動的に受け止めている。一方若者はそれに無自覚である。その違いがさらに「儚さ」を際立たせる。儚さを知るのは過去を持っている大人だけだ。四人の若者がそれを自覚しているかどうかはわからないが、終わりなき日常の「儚さ」がこの作品の重要なポイントとなるわけだ。
と、エピソードごとにざっくりと読み解いてみたのだが、個々のエピソードは非常に上手く重層的な構造を持っている。問題はそれらを組み合わせた作品全体の構成とバランスであろう。
ここがわからない。この構成とバランスは意識的なのか適当なのか。
おそらく、意識的に構成してしまうと、それは物語論的な「論理」が作者の中で働いてしまう。論理は「受苦の知」と相性が悪い。そもそもロゴス自体が世界=自然を能動的に理解するために生まれ育ったものだからだ。論理が見えてしまうと「儚くも終わりなき日常」が壊れてしまいかねない。
だから作者は故意かどうかわからないが、意識的とも適当ともとれないこのバランスで物語を構成したのではないか、というと深読みな気がしないこともない。
エピソードの事件性を大きくせずとも、一見、暗喩・換喩を用いてシンボリックな作用を起こすことができるような余地は構成的にたくさんありそうだ。しかし作者はそうしてしまうことで構成に作者の意識、ひいては物語論的論理が介入してしまうことを避けたかったのではなかろうか。
文章は何ていうか……ちょっと微妙でした。一文の長さとかの問題じゃなく、「~なのだけれど」的な喋り方が何となく……。
著者近影のイメージからどうしても主人公が頭の中でマツケンサンバの振付師になってしまう……。
ま、まあ問題ない程度でしたが。
結論としてはこの作品は面白い。深読みもできる。文学的普遍性を意識していることが読み取れる。
ただ、私は個人的にクエスチョンマークがつくのだ。
魔女ランダの話に戻る。
彼は自然からの「受苦の知」を描いた。人間は受苦の中で自分をコントロールするために「パトスの知」を生み出した。ここに芸術的知である呪術性が加わり、「演劇的知」になる。
私は今の時代に必要なのはこの「演劇的知」であると思う。
ここがもどかしいのだ。
ここでいう呪術性は、論理だけによらない、現代では忘れられつつある人間間の(情念的な、超言語的な)コミュニケーション方法、知の共有方法を指している。これが感じられない(誤解のないように言っておくが、別にオカルト的なものを求めているわけではない)。
つまり「受苦の知」が主人公の主観の範囲で納まってしまっているのだ。こうなると、筆力でノスタルジーを隠し通しているものの、どうしても根底にはノスタルジーを感じてしまう。それは「受苦に慣れた老成」がそうさせている。
また、この老成は若者の大好きなニヒリズムと相性がよい。そういう若者の解釈も招いてしまう可能性があるように思う。慎重を期して典型のノスタルジーを排除しようとしている作者は、それは気に入らないと考えているように読めた。
個人的には、「受苦」に留まらないで欲しかった。
しかし、呪術により同一化する相手である自然=世界を「儚くも終わりなき日常」と表現できていて、且つノスタルジーだけに留まらない儚さという要素も見事に表現できている本作のような作品は稀有である。私なんかはこれが主題かと思ってしまうが、これは「永遠は瞬間、瞬間は永遠」的な仏教思想と繋がり、とても魅力的に感じた。
ちょっと久しぶりに感動した作品でした……。
某サイトのチャットで薦められたので、読んでみた。
うん。おもしろい。
アマゾンで彼の他の作品のレビューなどを読んで知識の下準備はあった。
まあその辺からつついてみよう。
彼の作品で言われること。解説の四方田氏の文章にもあるが、「何も事件が起きない」ことが特徴だそうである。
私にはそうは思えなかった。事件は起きている。猫を探したり、居候が増えたり、海に行ったり。
それらの事件が主人公の目で淡々と描写されている。また、事件に説話論的な意味はない。
初版2000年か。何か演劇畑としては平田オリザ氏などを想像してしまいそうだが、彼の小説には異化効果すらない。
解説では四方田氏も書いているが、村上春樹氏のような詩的シンボリズムもない。そこが単なるノスタルジックになっていないということだろう。
淡々とした日常を描写した小説。表層だけみればそういう感じだ。しかしそうではない。
初出が1990年。やっぱり、宮台氏コギャル論の「終わりなき日常」の中で、コギャルのようにまわりのものを偏執的に意味化しているのではなく、大人の余裕で「自然と」まわりのものが意味化されているということになるのか。自然体だから言葉で表せるような意味化ではない、ということになる。
とこれだけ書くと中世の農民みたいな生活を書けばいいのだが、大人の主人公が体現している自然体の「終わりなき日常」と、若い映画の道をめざした連中の、「夢の途中」的な「終わりなき日常」が混在しているのがいいのだろうか。デフォルメして言えば『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』の学園生活を校長先生視点から見ているという感じか。と自分で書いててわけのわからない喩えになってしまった。
うーん、分析すべきなのかなあ。こういうのは分析するの気が引けるなあ。まあ書かないと書評にはならなさそうなので。
上の「終わりなき日常」を松明に少しだけ潜ってみましょうか。
物語のキャラクター配置に関しては、実は物語論の基本に忠実な配置となっている。主人公は依頼され、依頼する(居候を決め込むよう子)者がいて、結果を受け取る者、ヒロインと同一。妖精パック的なトリックスター(アキラ)もいる。主人公に助言をする賢者(ゆみ子)までいる。いわゆる敵、阻害する者がいないだけだ。だから事件性を帯びないのだが。
これで敵がいれば、神話時代から存在する元型的なキャラ配置である。特にトリックスターと賢者。日常感がコギャルのような記号化された世界の中での日常という時代性のあるものではなく、普遍性を帯びているのは、このせいなのかなあ、と。
また、解説で四方田氏も言っているが、ラストの「海」なども物語論的には普遍性のある手法だ。生と死を兼ね備える海。始まりと終わりを兼ね備える海。換喩的に物語のラストには映える普遍的なトポスである。また海は「永遠」にも換喩できる。この作品に感じた爽やかさは、夢の途中的なものを含めた「終わりなき日常」が、「永遠」を換喩する海で〆られているからだろう。もちろん解説の四方田氏の言うとおり、そのことについて言及しないのはテクニック的に上手いと言える。
他には、擬似家族的な表現も、「いつか終わりがある」という前提で成り立つ儚い「終わりなき日常」を際立たせるシンボルとなっている。これは夢の途中的なそれとリンクする。
猫の話なんかは猫の自分勝手な性質から、「儚い終わりなき日常」という逆説的な情感を生み出すのにはもってこいだろう。桜という自然の儚さと、餌をやり続ける、猫を探し続けるという日常での反復性が、それを両側面からアシストしている。
桜については、「輪廻的な永遠」も意味するが、ここでは短いスパンでの儚さが強く作用しているのだろう。
競馬の話は山椒的な役割だ。競馬は結果により勝つか負けるかがはっきりし、必ず結果=終わりが眼前に現れる。つまり「終わりなき日常」と正反対の非日常性、終着駅性を帯びている。また、ただの賭け事に物語を見出す視点は、「自然とまわりを意味化している」対応に他ならない。私は競馬はわからないのでこんなこと書いてしまったが、多分これは競馬ファンには普通のことなのかもしれない。しかし作品的には山椒的要素だけではない意味もあると言えるだろう。
こう見ると、使われているシンボルや説話論的構造は(言い方は悪いが)使い古された王道のものが多い。だからこそ村上春樹氏的なシンボリックな感じを受けなかったのだろう。しかしそれを古臭く感じさせない筆力は見事としか言えない。これは分析してから気付いた。
文庫本の裏表紙の内容説明だけ読むと古臭そうな物語を想像させるのはそのせいだろう。
さて、友人が話すバリ島の話。私は個人的にはこれが重要なヒントになると思う。私が大好きな本に『魔女ランダ考』(中村雄二郎氏著)という本がある。他の記事でも少し書いているが、これは「演劇的知」「パトスの知」という概念を生み出した、ポストモダンにとっては重要な書物であると私は考える。
中村氏は、「パトスの知」を「受苦の知」と表現した。近代科学は自然を畏れ、自然を能動的に理解・利用するために発達した。それとは逆に、科学よりはるか昔から存在し、自然からの恩恵・災害は人間にはどうにもならないこともあるとしてそれを受動的に受け入れる知を「受苦の知」と呼んだのだ。これが呪術につながり、演劇や美術などの芸術の根っこの一つとなった、という話だ。
この受動的態度は、まさに主人公に合致する。見事に合致しすぎて、保坂氏は哲学のワークショップをやっていたそうだから、この本を読んで「受苦の知」を表現しようとした作品なのではないか、と勘ぐってしまうほどだ。
しかし、この小説はそれだけにとどまらない。友人の話の中の、祭りに参加している原住民が行う、串を自分の体に刺す「クリスの舞」の話。友人は、完全にトランス状態になっている若者と、時々正気に返って観客を横目でみるじいさんの対比を話す。
主人公はじいさんで、若者はそのまま居候四人組だ。じいさん=主人公は大人の余裕で意識的に、自覚的に自然=「儚くも終わりなき日常」を受動的に受け止めている。一方若者はそれに無自覚である。その違いがさらに「儚さ」を際立たせる。儚さを知るのは過去を持っている大人だけだ。四人の若者がそれを自覚しているかどうかはわからないが、終わりなき日常の「儚さ」がこの作品の重要なポイントとなるわけだ。
と、エピソードごとにざっくりと読み解いてみたのだが、個々のエピソードは非常に上手く重層的な構造を持っている。問題はそれらを組み合わせた作品全体の構成とバランスであろう。
ここがわからない。この構成とバランスは意識的なのか適当なのか。
おそらく、意識的に構成してしまうと、それは物語論的な「論理」が作者の中で働いてしまう。論理は「受苦の知」と相性が悪い。そもそもロゴス自体が世界=自然を能動的に理解するために生まれ育ったものだからだ。論理が見えてしまうと「儚くも終わりなき日常」が壊れてしまいかねない。
だから作者は故意かどうかわからないが、意識的とも適当ともとれないこのバランスで物語を構成したのではないか、というと深読みな気がしないこともない。
エピソードの事件性を大きくせずとも、一見、暗喩・換喩を用いてシンボリックな作用を起こすことができるような余地は構成的にたくさんありそうだ。しかし作者はそうしてしまうことで構成に作者の意識、ひいては物語論的論理が介入してしまうことを避けたかったのではなかろうか。
文章は何ていうか……ちょっと微妙でした。一文の長さとかの問題じゃなく、「~なのだけれど」的な喋り方が何となく……。
著者近影のイメージからどうしても主人公が頭の中でマツケンサンバの振付師になってしまう……。
ま、まあ問題ない程度でしたが。
結論としてはこの作品は面白い。深読みもできる。文学的普遍性を意識していることが読み取れる。
ただ、私は個人的にクエスチョンマークがつくのだ。
魔女ランダの話に戻る。
彼は自然からの「受苦の知」を描いた。人間は受苦の中で自分をコントロールするために「パトスの知」を生み出した。ここに芸術的知である呪術性が加わり、「演劇的知」になる。
私は今の時代に必要なのはこの「演劇的知」であると思う。
ここがもどかしいのだ。
ここでいう呪術性は、論理だけによらない、現代では忘れられつつある人間間の(情念的な、超言語的な)コミュニケーション方法、知の共有方法を指している。これが感じられない(誤解のないように言っておくが、別にオカルト的なものを求めているわけではない)。
つまり「受苦の知」が主人公の主観の範囲で納まってしまっているのだ。こうなると、筆力でノスタルジーを隠し通しているものの、どうしても根底にはノスタルジーを感じてしまう。それは「受苦に慣れた老成」がそうさせている。
また、この老成は若者の大好きなニヒリズムと相性がよい。そういう若者の解釈も招いてしまう可能性があるように思う。慎重を期して典型のノスタルジーを排除しようとしている作者は、それは気に入らないと考えているように読めた。
個人的には、「受苦」に留まらないで欲しかった。
しかし、呪術により同一化する相手である自然=世界を「儚くも終わりなき日常」と表現できていて、且つノスタルジーだけに留まらない儚さという要素も見事に表現できている本作のような作品は稀有である。私なんかはこれが主題かと思ってしまうが、これは「永遠は瞬間、瞬間は永遠」的な仏教思想と繋がり、とても魅力的に感じた。
ちょっと久しぶりに感動した作品でした……。