カフェ・フジタのみなさんへ。
2010/10/05/Tue
親切にもまとめてやったぞ。前記事のコメント欄な。
=====
いやもうほんとあれだ、このブログで誘ったのが間違いだ。
いやだから中野は悪くないんだが。馬鹿だが悪いことはしていない。
このブログはそういったことをさらけ出そうとわたしが勝手に決めているからな。それでこじれたのはある。
ほんとな、こんなんリアルなら
「いけたらいくかもねー」
「待ってまーす^^」
で終了なんだよ。
ここでぐだぐだ書いているようなことは部屋に戻って考えるだけ。
わたしが一方的にストレスを抱え込むだけ。そういう人間だから、であって「お前が悪い」って言っているんじゃなくな。おそらく誘った方はストレスを感じていないだろう。わたしは感じる。だから「一方的」と書いただけ。
つかその程度のストレスならやりくりできる。社会人だってやってたわけだからな。
このブログではいわばわたしは丸裸なんだ。
だからストレスが直に影響する。
そういうことだよ、ほんとに。
=====
そういうことだよ、ほんとに。
中島みゆき『Maybe』から。
=====
弱気になった人たちは強いビル風に飛ばされる
わたしは髪をきつく結い上げて大きなバッグを持ち直す
思い出なんか何ひとつわたしを助けちゃくれないわ
わたしをいつも守ってくれるのはパウダールームの自己暗示
=====
わたしを誘うならこういうときにしてくれ。
ここでのわたしは髪はぼさぼさ、バッグも何も持ってない。ここは鏡一つない一人っきりの便所だ。
自己暗示を解く場所。
暗示を覚ます場所。
=====
感情的にならないで誰にも弱みを知られないで
なんでもないわわたしは大丈夫わたしは傷つかない
=====
ここでは、感情的になりまくり弱みをさらけだしまくりなんでもありまくりわたしは全然大丈夫じゃないわたしは傷つきまくりなんだ。
そういうブログなんだ。
ほんとな、自分で考えても、発端だけを考えれば、なんでもないことなんだよ。リアルのわたしなら、髪を結い上げているわたしなら、全然普通に対処できる。「いけたらいくかもねー」と。実際中野に対してした最初の応対はそういうものだ。
それでしつこく誘われたとしても、内心「うざ」と思いながらもにこにこ笑って「ああうん、じゃあ考えとく」とか答えられる。
こう考えるとすげー不思議ではあるんだよ。自分の今の状況が。
ほんとあれだ、「パジャマッコリ」は健全な男子が踏み入れちゃいけないんだよ。
部屋に帰って、一人酒しながら、中野からの誘いのせいで思い出した「あのババアキモ」とかつぶやいてるだけ。
それがリアルタイムにどぎゃーんとなった、ってわけだ。
わたしだって「主人のディスクール」はできるんだよ。
ふりだけなのかもしれないが。
つか『Maybe』好きってほどじゃないがよく歌ったな。社会人時代。
わたしってたーんじゅーん。
ここは自己暗示を解く場所。「わたし」にまとわりついた隠喩を洗い落とすバスルーム。
洗い落とす? 違うな。うんこの上を転がりまわって身になすりつける犬のようなもん。
「わたし」を自然に還す場所。
『髪を洗う女』。
=====
タバコの煙を流すため
お酒の香りを流すため
あいつのすべてを流すため
いつまでいつまで飽きもせず
女が髪を洗います
=====
このとき主人公が流そうとしているのは、自分にまとわりついてなかなか離れてくれない隠喩だ。
あ、やべえ、すげえ、すげえ死にたい。
髪を結い上げた「わたし」になんの魅力も感じない。
やべえ。
なぜ「髪をきつく結い上げて大きなバッグを持ち直す」のか。なぜ「パウダールームの自己暗示」をかけてまでそうするのか。
そうしてする行動にどんなメリットがあるのか。
多くの他人から不快な顔をされない、というのはある。不快な態度はそれだけで攻撃だ。わたしは不快を共有してしまう。相手がわたしについて持った不快をわたしも共有してしまう。
不快は増幅する。
『あした』から。
=====
凍えながら二人ともが二人分傷ついている
=====
二人分傷つくのだからお互い激しくケンカしたりもするだろう。
しかし「自己暗示」をかけても不快はなくならない。減ったりなどしない。「自己暗示」などかけてもかけなくても「不快な態度」の発生確率は変わらないのではないか、と思える。
なぜなら自己暗示がかかってない瞬間でも、それこそ「パジャマッコリ」のときなどは「自己暗示」を解いているわけだが、そこにいる喪女たちは不快な態度をしない。いや不快な態度は示しているが、発散している。わたしに向けているわけではない。発散している。わたしがそれを共有することは(あまり)ない。
「自己暗示」などホメオパシーにすぎない。
ただ単に「そういうものだから」と強制されているだけ。
なんのメリットもないのに強制されているだけ。
なんのメリットもない、ってわけじゃない。確かにメリットはある。しかしそれは時と場合による。それは絶対的なメリットじゃない。
隠喩は確かに「圧縮装置」として便利なものだが、その便利さはその便利さとしてあればいい。絶対に使用すべき装置なわけではない。
なのに隠喩がすべてになっている。
すべての人間関係は隠喩に支配されている。
隠喩を強制されている。
文化人類学における「機能主義」は見直されるべきではないか。
人類が「構造」を精神的に好む傾向は確かにあるのだろう。
しかし中には、「背が低い人」「腕が短い人」などと同じようなレベルで、「「構造」にあまり魅力を感じない人」だっている。
それが現代では自閉症やスキゾイドや分裂病型人格障害などと診断されている人たちなのではないか。
死ね。
「わたし」。
ああ、
=====
それこそ「パジャマッコリ」のときなどは「自己暗示」を解いているわけだが、そこにいる喪女たちは不快な態度をしない。いや不快な態度は示しているが、発散している。わたしに向けているわけではない。発散している。わたしがそれを共有することは(あまり)ない。
=====
これあれだな、「グアヤキ族の祭り」だな。
この記事から。
=====
んで考えたのだよね。「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ながらする怪しいお祭りみたいな状態ってどんなんかなって。そしたらあった。わたしの記憶の中に。それはクラブ。ひっぷほっぱー(笑)とかが群れてるあれね。
=====
「パジャマッコリ」や「クラブ」は、「四つのディスクール」にあてはまらない、「解離や憑依たる独り言」を言うための場なのではないだろうか。
このときの人類にとって、「構造」はそれほど魅力的なものではないのではないか。
社会の機能主義的な側面の、ガス抜きとして、「解離や憑依たる独り言」の場があるのではないか。
機能主義は捨て去られてはならないのではないか。
確かに「構造-機能主義」などと言っているが、現代の社会は「構造」の魅力を過信しすぎてはいないか。
あれだ、あたしの勝手な妄想だけど、中野くんあたりひっぷほっぱー(笑)の店とかで飲んだら結構けらけら笑って話せるんじゃないかと思うんだよな。
「ロケンローラー(笑)」なんだろ?
でもな、ごめんな、もうそんなレベルじゃないんだわ。
ほーんとな、精神分析なしで飲みたかったわ。わたしを誘うなら、な。精神分析関係の「理論武装」がほしくて誘ったのならごめんだけど。
いやほんとこんなんじゃねえんだよ。ときどきお笑い芸人っぺえところあるだろ? このブログでも。リアルではそれだけを維持することはできなくないんだよ。
疲れるけど。
あ、涙出てきたけどこれはいい感じの涙だわ。生の欲動っぺえ。
中野くんさ、お前インテリに憧れんなよ。自己演出としてあれだ。
お前は「きらきら馬鹿」を目指すべきだ。
お前が悩んでも底は知れてる。
ケツいてえ。
ほんとしんどいんだよ。「わたし」って。「隠喩」って。
嘘だった。いつもの涙だった。
確かにさー、女の全員が精神病ってわけじゃねえと思うよ?
でもな、隠れ精神病、一生発覚しないままでいれる精神病って、女性の方が多いと思うんだわ。
いやさ、たびたび出してその子にゃ申し訳ないんだけど、「不倫の子」とかなー、ほーんとわけわかんねーんだ。普段はむしろ「しっかりしている」って言われるような子なんだけど、わたしと「パジャマッコリ」すると何言ってるかわかんなくなる。わたし馬鹿にしてたもん。いじめてた。一種のSM。
こっちが「わけわかんねー」つってるのにおかまいなしにしゃべる。いや説明しようとはしているんだが、説明すればするほどわからなくなる。いや合理主義ガチガチなわたしに恋愛相談する方が間違いってもんなんだが。
あれとかさー、ほんと「シニフィアンとシニフィエの連結としての意味を見失っている」って厳密な意味での「観念連合の弛緩」だと思うんだ。「恋は盲目」なんてもんじゃない。「恋は人を狂わせる」。
むしろわたしはそれほどじゃないぜ? 意味は見失っていない。ただ隠喩的連鎖ではなく辞書的な意味メインで思考しているだけで。
まあ確かにここ数日のわたしは「うわあああああ」状態だったから、藤田はそういう風に見えたのかもしれないが、隠喩的な意味じゃなくて辞書的な意味を考えてくれれば、それこそ「理論武装」として、「コトバハコトバノコト」として考えてくれたら、意味は見失っていないのがわかると思うんだ。
ほんとな、藤田って「女という症状」が致命的にわかってないと思うんだわ。
川上未映子だって「隠喩という汚れを洗い流す女」かもしれないだろ?
「理論武装」も「きつく結い上げる髪」も同じなんだぜ? こっちからすれば。
お前らからすれば隠喩を促進する「髪」は、こちらからすれば隠喩に対し防衛する「髪」だったりするんだ。
ドナ・ウィリアムズの複数の人格だってそうだよな。ここのコメント欄から。
=====
自閉症はそうではないんじゃないか。
この「人間が持つ他者とつながりたがる傾向」を、わたしが宗教施設などで実感した「ねばねばしたもの」と考えるならば、彼ら彼女らに「ねばねばしたもの」はない。
であるならば、彼ら彼女らは、むしろ逆に、「多くの人間が持つ他者とつながりたがる傾向を持たない自分の肉体」を防衛するために、そういった人格を演じているのではないか。
わたしにはそう思えるんだがな。
たまきんの論文から。
http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/HugBoxor.html
=====
彼女がおそれる具体的な行為を挙げてみよう。それはまず相手と視線を合わせることであり、抱きしめられることであり、体に触られること、指示されること、そして優しくされることである。例えば「やさしさ、親切、愛情には身がすくむp.58」とある。これら彼女の嫌いなものに、どんな共通点があるだろうか。
おそらくこれらはいずれも、心的組織を主体へと凝集させる契機にほかならず、それゆえ彼女はこの契機を逃れるためにあらゆる努力を惜しまないのである。例えばまなざしや親密さは、それを受けるものに対して、ほとんど暴力的に同一性や主体性を強いてくる。ドナにとって、愛や親密さが恐ろしいのは、それが暴力にほかならないためだ。われわれはこうした暴力に、たんに慣れ親しんでいるに過ぎない。心的主体を意識しなければいけない場面は、彼女にカタストロフを予感させるのである。
彼女が直接的な暴力に対していかにも無頓着であることも、逆の方向からそれを裏付ける。暴力は身体感覚には訴えてくるが、疎外される感覚はむしろ安心をもたらしたのではないか。彼女が主体化を避けるために作り出したキャラクター、「キャロル」と「ウィリー」のエピソードはその意味で興味深い。なるほどこうした局面では彼女はあたかも多重人格者のように、仮の人格で身を守っている。そして仮の人格があらわれる危機的状況とは、通常考えられるような暴力や虐待の場合に限らず、むしろ愛や親しさの告白などといった場合に生ずるのである。
=====
ここで書かれていることは、わたしが臨床したアスペにも合致する。
たとえばアスペ当事者が集う某スレでは、「親しさを全面に振りまく定型発達者」のことを「うふ定型」などと呼んで叩いている。拒否反応を示している。そのスレでの名言(うろ覚えだが)。
=====
自閉症の子供は抱っこをいやがると言うが、うふ定型たちはいやがるアスペたちを無理矢理抱っこしようとしているようなものだ。
=====
こういった「愛や親しさ」ってのはリビドーなわけだろ? 生の欲動だ。
ならば、ドナにとっての「キャロル」や「ウィリー」は、「生の欲動からの防衛」だと言えないだろうか。少なくともたまきんの文章はそう書いていることになる。
=====
ドナは、そういった人格を、「生の欲動」とは言いきらないがそういったものからの「防衛」として利用している。
しかし一般的な解釈では「人格とはなべて生の欲動の結果である」となるだろ?
「髪」も同じだよ。
男の欲望からの防衛として「きつく結い上げた髪」があるのに、男たちはそれを「欲望してほしいんだな」というサインとして見る。
同じだよ。ドナはこれと同じ苦労をしているんだろう。
「髪を結い上げているんなら俺に欲望してもらいたいんだろ?」
「人格を作り上げているんなら俺に欲望してもらいたいんだろ?」
すべてがこうだ。男に限らず女にもこうなる奴がいる。
これはなぜか。
すべて隠喩構造のせいだよ。
ここまで言ってもお前らって「いやよいやよも好きのうち」になるんだよな。
そら攻撃的になるわ。
こうやっていくらさらけ出しても「俺には通用しない」なんて少年ジャンプ思考から離れられないんだろうな。
だから才能ないんだよ。女を分析する。
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いやもうほんとあれだ、このブログで誘ったのが間違いだ。
いやだから中野は悪くないんだが。馬鹿だが悪いことはしていない。
このブログはそういったことをさらけ出そうとわたしが勝手に決めているからな。それでこじれたのはある。
ほんとな、こんなんリアルなら
「いけたらいくかもねー」
「待ってまーす^^」
で終了なんだよ。
ここでぐだぐだ書いているようなことは部屋に戻って考えるだけ。
わたしが一方的にストレスを抱え込むだけ。そういう人間だから、であって「お前が悪い」って言っているんじゃなくな。おそらく誘った方はストレスを感じていないだろう。わたしは感じる。だから「一方的」と書いただけ。
つかその程度のストレスならやりくりできる。社会人だってやってたわけだからな。
このブログではいわばわたしは丸裸なんだ。
だからストレスが直に影響する。
そういうことだよ、ほんとに。
=====
そういうことだよ、ほんとに。
中島みゆき『Maybe』から。
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弱気になった人たちは強いビル風に飛ばされる
わたしは髪をきつく結い上げて大きなバッグを持ち直す
思い出なんか何ひとつわたしを助けちゃくれないわ
わたしをいつも守ってくれるのはパウダールームの自己暗示
=====
わたしを誘うならこういうときにしてくれ。
ここでのわたしは髪はぼさぼさ、バッグも何も持ってない。ここは鏡一つない一人っきりの便所だ。
自己暗示を解く場所。
暗示を覚ます場所。
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感情的にならないで誰にも弱みを知られないで
なんでもないわわたしは大丈夫わたしは傷つかない
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ここでは、感情的になりまくり弱みをさらけだしまくりなんでもありまくりわたしは全然大丈夫じゃないわたしは傷つきまくりなんだ。
そういうブログなんだ。
ほんとな、自分で考えても、発端だけを考えれば、なんでもないことなんだよ。リアルのわたしなら、髪を結い上げているわたしなら、全然普通に対処できる。「いけたらいくかもねー」と。実際中野に対してした最初の応対はそういうものだ。
それでしつこく誘われたとしても、内心「うざ」と思いながらもにこにこ笑って「ああうん、じゃあ考えとく」とか答えられる。
こう考えるとすげー不思議ではあるんだよ。自分の今の状況が。
ほんとあれだ、「パジャマッコリ」は健全な男子が踏み入れちゃいけないんだよ。
部屋に帰って、一人酒しながら、中野からの誘いのせいで思い出した「あのババアキモ」とかつぶやいてるだけ。
それがリアルタイムにどぎゃーんとなった、ってわけだ。
わたしだって「主人のディスクール」はできるんだよ。
ふりだけなのかもしれないが。
つか『Maybe』好きってほどじゃないがよく歌ったな。社会人時代。
わたしってたーんじゅーん。
ここは自己暗示を解く場所。「わたし」にまとわりついた隠喩を洗い落とすバスルーム。
洗い落とす? 違うな。うんこの上を転がりまわって身になすりつける犬のようなもん。
「わたし」を自然に還す場所。
『髪を洗う女』。
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タバコの煙を流すため
お酒の香りを流すため
あいつのすべてを流すため
いつまでいつまで飽きもせず
女が髪を洗います
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このとき主人公が流そうとしているのは、自分にまとわりついてなかなか離れてくれない隠喩だ。
あ、やべえ、すげえ、すげえ死にたい。
髪を結い上げた「わたし」になんの魅力も感じない。
やべえ。
なぜ「髪をきつく結い上げて大きなバッグを持ち直す」のか。なぜ「パウダールームの自己暗示」をかけてまでそうするのか。
そうしてする行動にどんなメリットがあるのか。
多くの他人から不快な顔をされない、というのはある。不快な態度はそれだけで攻撃だ。わたしは不快を共有してしまう。相手がわたしについて持った不快をわたしも共有してしまう。
不快は増幅する。
『あした』から。
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凍えながら二人ともが二人分傷ついている
=====
二人分傷つくのだからお互い激しくケンカしたりもするだろう。
しかし「自己暗示」をかけても不快はなくならない。減ったりなどしない。「自己暗示」などかけてもかけなくても「不快な態度」の発生確率は変わらないのではないか、と思える。
なぜなら自己暗示がかかってない瞬間でも、それこそ「パジャマッコリ」のときなどは「自己暗示」を解いているわけだが、そこにいる喪女たちは不快な態度をしない。いや不快な態度は示しているが、発散している。わたしに向けているわけではない。発散している。わたしがそれを共有することは(あまり)ない。
「自己暗示」などホメオパシーにすぎない。
ただ単に「そういうものだから」と強制されているだけ。
なんのメリットもないのに強制されているだけ。
なんのメリットもない、ってわけじゃない。確かにメリットはある。しかしそれは時と場合による。それは絶対的なメリットじゃない。
隠喩は確かに「圧縮装置」として便利なものだが、その便利さはその便利さとしてあればいい。絶対に使用すべき装置なわけではない。
なのに隠喩がすべてになっている。
すべての人間関係は隠喩に支配されている。
隠喩を強制されている。
文化人類学における「機能主義」は見直されるべきではないか。
人類が「構造」を精神的に好む傾向は確かにあるのだろう。
しかし中には、「背が低い人」「腕が短い人」などと同じようなレベルで、「「構造」にあまり魅力を感じない人」だっている。
それが現代では自閉症やスキゾイドや分裂病型人格障害などと診断されている人たちなのではないか。
死ね。
「わたし」。
ああ、
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それこそ「パジャマッコリ」のときなどは「自己暗示」を解いているわけだが、そこにいる喪女たちは不快な態度をしない。いや不快な態度は示しているが、発散している。わたしに向けているわけではない。発散している。わたしがそれを共有することは(あまり)ない。
=====
これあれだな、「グアヤキ族の祭り」だな。
この記事から。
=====
んで考えたのだよね。「男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち」ながらする怪しいお祭りみたいな状態ってどんなんかなって。そしたらあった。わたしの記憶の中に。それはクラブ。ひっぷほっぱー(笑)とかが群れてるあれね。
=====
「パジャマッコリ」や「クラブ」は、「四つのディスクール」にあてはまらない、「解離や憑依たる独り言」を言うための場なのではないだろうか。
このときの人類にとって、「構造」はそれほど魅力的なものではないのではないか。
社会の機能主義的な側面の、ガス抜きとして、「解離や憑依たる独り言」の場があるのではないか。
機能主義は捨て去られてはならないのではないか。
確かに「構造-機能主義」などと言っているが、現代の社会は「構造」の魅力を過信しすぎてはいないか。
あれだ、あたしの勝手な妄想だけど、中野くんあたりひっぷほっぱー(笑)の店とかで飲んだら結構けらけら笑って話せるんじゃないかと思うんだよな。
「ロケンローラー(笑)」なんだろ?
でもな、ごめんな、もうそんなレベルじゃないんだわ。
ほーんとな、精神分析なしで飲みたかったわ。わたしを誘うなら、な。精神分析関係の「理論武装」がほしくて誘ったのならごめんだけど。
いやほんとこんなんじゃねえんだよ。ときどきお笑い芸人っぺえところあるだろ? このブログでも。リアルではそれだけを維持することはできなくないんだよ。
疲れるけど。
あ、涙出てきたけどこれはいい感じの涙だわ。生の欲動っぺえ。
中野くんさ、お前インテリに憧れんなよ。自己演出としてあれだ。
お前は「きらきら馬鹿」を目指すべきだ。
お前が悩んでも底は知れてる。
ケツいてえ。
ほんとしんどいんだよ。「わたし」って。「隠喩」って。
嘘だった。いつもの涙だった。
確かにさー、女の全員が精神病ってわけじゃねえと思うよ?
でもな、隠れ精神病、一生発覚しないままでいれる精神病って、女性の方が多いと思うんだわ。
いやさ、たびたび出してその子にゃ申し訳ないんだけど、「不倫の子」とかなー、ほーんとわけわかんねーんだ。普段はむしろ「しっかりしている」って言われるような子なんだけど、わたしと「パジャマッコリ」すると何言ってるかわかんなくなる。わたし馬鹿にしてたもん。いじめてた。一種のSM。
こっちが「わけわかんねー」つってるのにおかまいなしにしゃべる。いや説明しようとはしているんだが、説明すればするほどわからなくなる。いや合理主義ガチガチなわたしに恋愛相談する方が間違いってもんなんだが。
あれとかさー、ほんと「シニフィアンとシニフィエの連結としての意味を見失っている」って厳密な意味での「観念連合の弛緩」だと思うんだ。「恋は盲目」なんてもんじゃない。「恋は人を狂わせる」。
むしろわたしはそれほどじゃないぜ? 意味は見失っていない。ただ隠喩的連鎖ではなく辞書的な意味メインで思考しているだけで。
まあ確かにここ数日のわたしは「うわあああああ」状態だったから、藤田はそういう風に見えたのかもしれないが、隠喩的な意味じゃなくて辞書的な意味を考えてくれれば、それこそ「理論武装」として、「コトバハコトバノコト」として考えてくれたら、意味は見失っていないのがわかると思うんだ。
ほんとな、藤田って「女という症状」が致命的にわかってないと思うんだわ。
川上未映子だって「隠喩という汚れを洗い流す女」かもしれないだろ?
「理論武装」も「きつく結い上げる髪」も同じなんだぜ? こっちからすれば。
お前らからすれば隠喩を促進する「髪」は、こちらからすれば隠喩に対し防衛する「髪」だったりするんだ。
ドナ・ウィリアムズの複数の人格だってそうだよな。ここのコメント欄から。
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自閉症はそうではないんじゃないか。
この「人間が持つ他者とつながりたがる傾向」を、わたしが宗教施設などで実感した「ねばねばしたもの」と考えるならば、彼ら彼女らに「ねばねばしたもの」はない。
であるならば、彼ら彼女らは、むしろ逆に、「多くの人間が持つ他者とつながりたがる傾向を持たない自分の肉体」を防衛するために、そういった人格を演じているのではないか。
わたしにはそう思えるんだがな。
たまきんの論文から。
http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/HugBoxor.html
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彼女がおそれる具体的な行為を挙げてみよう。それはまず相手と視線を合わせることであり、抱きしめられることであり、体に触られること、指示されること、そして優しくされることである。例えば「やさしさ、親切、愛情には身がすくむp.58」とある。これら彼女の嫌いなものに、どんな共通点があるだろうか。
おそらくこれらはいずれも、心的組織を主体へと凝集させる契機にほかならず、それゆえ彼女はこの契機を逃れるためにあらゆる努力を惜しまないのである。例えばまなざしや親密さは、それを受けるものに対して、ほとんど暴力的に同一性や主体性を強いてくる。ドナにとって、愛や親密さが恐ろしいのは、それが暴力にほかならないためだ。われわれはこうした暴力に、たんに慣れ親しんでいるに過ぎない。心的主体を意識しなければいけない場面は、彼女にカタストロフを予感させるのである。
彼女が直接的な暴力に対していかにも無頓着であることも、逆の方向からそれを裏付ける。暴力は身体感覚には訴えてくるが、疎外される感覚はむしろ安心をもたらしたのではないか。彼女が主体化を避けるために作り出したキャラクター、「キャロル」と「ウィリー」のエピソードはその意味で興味深い。なるほどこうした局面では彼女はあたかも多重人格者のように、仮の人格で身を守っている。そして仮の人格があらわれる危機的状況とは、通常考えられるような暴力や虐待の場合に限らず、むしろ愛や親しさの告白などといった場合に生ずるのである。
=====
ここで書かれていることは、わたしが臨床したアスペにも合致する。
たとえばアスペ当事者が集う某スレでは、「親しさを全面に振りまく定型発達者」のことを「うふ定型」などと呼んで叩いている。拒否反応を示している。そのスレでの名言(うろ覚えだが)。
=====
自閉症の子供は抱っこをいやがると言うが、うふ定型たちはいやがるアスペたちを無理矢理抱っこしようとしているようなものだ。
=====
こういった「愛や親しさ」ってのはリビドーなわけだろ? 生の欲動だ。
ならば、ドナにとっての「キャロル」や「ウィリー」は、「生の欲動からの防衛」だと言えないだろうか。少なくともたまきんの文章はそう書いていることになる。
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ドナは、そういった人格を、「生の欲動」とは言いきらないがそういったものからの「防衛」として利用している。
しかし一般的な解釈では「人格とはなべて生の欲動の結果である」となるだろ?
「髪」も同じだよ。
男の欲望からの防衛として「きつく結い上げた髪」があるのに、男たちはそれを「欲望してほしいんだな」というサインとして見る。
同じだよ。ドナはこれと同じ苦労をしているんだろう。
「髪を結い上げているんなら俺に欲望してもらいたいんだろ?」
「人格を作り上げているんなら俺に欲望してもらいたいんだろ?」
すべてがこうだ。男に限らず女にもこうなる奴がいる。
これはなぜか。
すべて隠喩構造のせいだよ。
ここまで言ってもお前らって「いやよいやよも好きのうち」になるんだよな。
そら攻撃的になるわ。
こうやっていくらさらけ出しても「俺には通用しない」なんて少年ジャンプ思考から離れられないんだろうな。
だから才能ないんだよ。女を分析する。