ケツ穴ヒリヒリ
2010/10/07/Thu
この記事の続きなんだけど。
藤田博史の発言のこの部分がいまいち理解できない。
=====
書いている本人は必死でしょうが、定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しているようですが、語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
=====
いや各部分の言葉の意味はわかるんだけどさ、なんでこんな文脈になるのかがわからないんだよな。
まず「書いている本人は必死でしょうが」について。
これはいい。わたしもその記事で書いているように必死であることを認めている。必死なことをわかってくれた方がむしろいい。
次に「定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ~強迫神経症的な防衛を展開しています。」。これは要するに「精神病っぺえ」って話だろ。わたしゃ木田原形而からもそう言われたことあるし、自分でこのブログの「思考実況」を読むと「分裂病型人格障害っぺえ」と思っている。それはこの記事のコメント欄にも書いている。
うん、こういう見方をしてほしいんだよな。そのためにこのブログを書いているようなもので。
でもな、これが「でしょうが」という逆接でつながっているのがよくわからない。
むしろそう見てほしい。わたしは必死なんだ、わたしは本気なんだ、ここで書かれているのはわたしの事実なんだ、妙な固定観念を外して見てくれ、という感じなんだけど。
だからこれが逆接でつながるのが「???」なんだよな。
次もそう。
「様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しているようですが」。わたしは自分が使用している知識や理論が「武装」であることを認めている。この記事やこの記事参照のこと。
問題は、わたしはなぜそうしなければならないのか、という話である。
「語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。」もその通りだ。わたしはわたしの精神疾患を明らかにするために必死で語っている。だから語れば語るほど「その精神病理学的な骨格が明らかになって」いくのは望み通りのことだ。いやむしろそれを明らかにするためにわたしは必死で「思考実況」をしている。語っている。
わたしのそれを明らかにするための精神分析理論である。だから精神分析理論に限れば、「その精神病理学的な骨格」を明らかにするための「武装」である。
わたしは自分の精神疾患症状と戦っている。この記事で何度も宣言しているが、わたしは正常人になるためにこのブログを書いている。それができない問題の原因を明らかにするのが普通の考え方だろ? 機械設計でもそうだ。故障の原因を突き止めなければ問題の解決とはならない。
だから、これらの文章が逆接でつながるのが、よくわからない。
逆接なしで書き直してみよう。見やすいように改行も入れよう。
=====
書いている本人は必死です。
定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。
様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しています。
語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
=====
うん。これだけなら「お、わかってるっぽい」「ふむふむ、そういう風になるのね、本職の精神科医の言い方は」ってなもんなんだよな。
さらにわたしなりに多少の文言を付加してみよう。
=====
書いている本人は必死です。
定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。
この症状における必死さを考慮すれば、こういった症状が詐病だとは考えにくいでしょう。
また、様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しています。
この「武装」のおかげで、語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
=====
こうなるともう「そうそう、さっすがー、よくわかってるじゃん」なんてなもんだ。あたしゃ忠実な藤田門派になっただろうな。「この人こそ未去勢者(一応わたしの定義で自閉症、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害があてはまるとしている)を語るべき精神分析家である」ぐらい言ったかもしんない。
でもな、「なんで逆接なの?」って思うんだ。
なぜ藤田はそこを逆接でつないだのか。観察した内容は羅列表記すればいい。理系の論文ってな基本そうだろ。因果が明らかならば順接すればよい。
「わたしについての観察報告」としては、それぞれの要素は、本人であるわたしも「うん、いいよ」って思うことなのに、なぜそれらを逆接でつなげるのか。
おそらくそれは藤田博史という観察機械に問題がある、と考えなければならないだろう。
そらそうだ、観察されるわたしが「???」となっているんだから、「それらを逆接でつなぐ」思考はわたしはしていない、となる。
これは否認ではないだろう。否認なら「わたしについての観察内容」についても反論するだろう。
しかしわたしはそこには反論していない。一部納得できていない部分もあるが、おおまかな論旨としては同意できる。長年自分の「思考実況」を観察してきた者として。
で、わたしが観察してきた「正常人の定型的な思考」を考慮して、「藤田はなぜそこを逆接にしたのか」を推測してみた。
仮に、藤田の無意識にこう問うたとしよう。
「脂という臨床素材は何について必死になっているのか?」
また
「彼女は何を目的に「理論武装」「知識武装」しているのか?」
藤田の無意識がする解答は、おそらく、「脂という臨床素材における「精神病理学的な骨格」を隠すため」だと思われる。
つまり藤田は、「この臨床素材は、彼女の症状における「精神病理学的な骨格」を隠すために必死になっており、「理論武装」「知識武装」しているのである」と思い込んでいるわけである。
また、「しかし俺は精神科医である。そういった隠蔽を見抜くのはお手のものさ」というような一種傲慢な思い込みも彼の中にあるのだろう。
「お前は「精神病理学的な骨格」を隠すために、必死になって、「理論武装」知識武装」しているのだろうが、精神科医の俺はまるっとお見通しだよwww」
少し極端に書いたが、こういったような固定的な思考構造が、彼の中にあったとしよう。
こう考えれば、彼が逆接を使った理由がわかる。
こういった考えの上で、上記のような「観察内容の羅列」を再構築すれば、なるほどそれらをそこで逆接してしまうのは理解できる。
つまり、藤田の無意識には、「必死になることや、「理論武装」「知識武装」は、【なべて】、当人の「精神病理学的な骨格」を隠すためになされる症状である」という固定観念がある、という話である。
だからわたしは藤田についてこう言っているんだな、「隠したがり屋」と。
んでこれって強迫症的な精神構造だと思うのだよな。
(ラカン的な意味で)現実的にそいつが感知する「死の欲動」に対する防衛、つまり「死の欲動」の隠蔽として、隠喩連鎖(理屈的連鎖もこの一部である)が過剰になる。過剰になってしまったせいでむしろ(「死の欲動」の二次的な影響としての)「死の不安」を感じてしまう。それが強迫症だ。
藤田の無意識的な症状としての「隠したがり屋」(もちろんわたしの個人的な命名にすぎない)は、「「死の欲動」の隠蔽としての隠喩連鎖の過剰さ」に相当する。
したがってわたしは、藤田という人格は強迫症的な性格をしているのではないか、と推測している。
ねね、どう? カフェ・フジタ、フジタゼミのみなさんや。わたしの「藤田博史という症状」分析は。
なんかおかしいところあったらそっちで勝手に議論してくれ。
あたしゃ一人対多数になる場を選ぶほど馬鹿じゃないから。
多数派の意見がうざいなー、って思ったらこっちおいで。わたしの分析とは違った分析でも、わたしは一人だ。
ここのコメント者なんかわたしの味方じゃないからな。2ちゃんねらみたいなもんだ。「敵にしたらおそろしいが味方にしたら頼りない」。いや敵にしてもおそろしくないのがうちのコメント者たちだが。基本的に「人間関係そのもの」から孤立しているような奴らだから。
そんなような奴らのためにコメント欄は開放している。「独り言」を語る場として。
なので、もし「藤田博史という症状」における「個人的な分析」を披露したければ、ここで「独り言」として語ればよい。わたしに語りかけるな。まあ今回に限っては、言い出しっぺはわたしだから、異なる部分があれば議論は受けつけるが。
言っとくがこの「独り言」は精神分析的な意味で、だからな。いくら表面的に一人でこの場に乗り込んで論を開陳したとしても、「他者によく思われたいがため」「仲間を増やしたいがため」などというような症状が見られたら、即アウトだ。それはわたしの言う意味での「独り言」ではない。ツイッターの「つぶやき」だ。あれって基本そうだろ、「仲間を増やすための独り言」。だからみんな「他人を気遣う」「他人に媚びる」「つぶやき」しか言えない。
ああそうそう、一応報告しとくが、藤田はコメ禁解除してるからな。
中野くんの東京OCNは宣伝コメントが多いとこなのでついででコメ禁継続。悪いね。
あ、とか言ったけどやっぱ藤田コメ禁復活。埼玉OCNの人巻き込まれごめん。
今水上さん相手にしてっからさ。複数人でリンチされるのは遠慮します。
ケツ穴ヒリヒリしすぎて死にたい。
というか、収穫はあったんだよ。藤田のこの短いコメントにも。わたしにとって。
あたしはそれを、当事者の側の語彙で、「迷子感」と述べている。たびたび出てくる言葉なので記事挙げるのめんどくさい。ブログ内検索してくれ。
それは、精神医学用語における「観念連合の弛緩」にあたる、とわかったから。多分そうじゃないか、いやその可能性は高い、と。
ありがとう、藤田くん。
そんな小難しく言わなくてもわたし用語なら「うわあああ」なんだよな。
あ、そうか。
「観念連合の弛緩」状態はいわば「迷子」のときのような感覚で「うわあああ」となる。
なわけだが、もっといい感じの表現思いついた。
「意味のゲシュタルト崩壊」。
たとえば、漢字の書き取りやってると、文字がばらばらに見えて全体の形を認識しにくくなったりする。あれもゲシュタルト崩壊なわけでしょ。
あれと似てる。物事を深く考えすぎて、意味の全体パターンが見えなくなって、意味がばらばらに思えてくる。
これがそうか、「観念連合の弛緩」か、と。
おーなるへそな。
なんか藤田って結構傷つきやすいタイプなのかな。
今やってる「挑発」とかわたしの周囲の人間なら「全然甘いよwww」って言ってくるであろうレベルなんだけど、これすらもカチンときてたりするのかな。
ごめんね。わたしこういう加減下手でさ。
ちょっと「揶揄」「挑発」控えた方がいい?
「挑発はやめろ」って意味で「私には挑発は通用しない」って言っているの?
「私には挑発は通用しない」→「挑発は無駄だ」→「無駄だからやめろ」
って意味?
まあ確かにあなたにとっては無駄なのかもしれないけど、わたしは十分楽しんでるんだよなあ、これで。だから無駄じゃないんだよね。わたしにとっては。今この時点で。どういった状態を「通用しない」って言っているのかよくわかんないけれど、今のこの状態をあなたが「通用していない状態」と言っているのなら、「挑発が通用していない状態」はわたしは結構楽しかったりする。
ごめんこういう言葉の裏の意味読み取るの苦手でさ。
すぱっと言ってくんない? もしそうなら。「挑発はやめろ」と。
ああでもそうだよな。2ちゃんにいたフジタってコテは、たとえばν速の厚顔無恥なコテたちより明らかに煽り耐性がなかったもんな。
まあ経験値にもよるんだろうが。
「挑発」ってすでにタンクのプロヴォスキルしか連想できなくなってるな。オワタな。ネトゲ脳。
このコピペすげー秀逸だと思うんだよなあ。
=====
A「タンカー誰?」
大型貨物船「わたしです」
A「じゃtankお願い」
大型貨物船「えっ」
A「えっ」
A「タンカーでしょ?」
大型貨物船「はい」
A「ならtankになってよ」
大型貨物船「変化するってことですか?」
A「なにがですか」
大型貨物船「ぼくが」
A「タンカーとはPTでtankする人のことですよ」
大型貨物船「なにそれこわい」
A「えっ」
大型貨物船「えっ」
=====
いや「タンク」か「タンカー」かとかって話じゃなくて、チェーホフ的な感じが。会話のすれ違い感が。
あ、ピーンときた。
藤田の「コトバハコトバノコトバカリ」ってセリフ結構気に入ってんだけど、あれだ、これあれかもしれない。
ってのは、精神分析学びはじめる以前からのアスペ当事者の知人がいるんだが(鈴木有海って子。このブログにもほんのときどきコメントしている)、学びはじめた当初、お遊びっていうか実験感覚で彼と分析的会話してみたんだな。
で、わたしはわかんなくて、そいつもわけわかんなくなってたと思うけど、「パッチワーク的人格」とか言っちゃったんだな。
これと「コトバハコトバノコトバカリ」って同じかもね。
「人格は人格でしかない」ってのはそれこそここでも挙げたドナの複数の人格じゃん。自分に根づいていない。エスあるところにあるエゴではない。ただの他者からの防衛柵でしかない。
そうだよな、「コトバハコトバノコトバカリ」と「理論武装」「知識武装」って大体似た意味で言ってるよな? 違う? 藤田のおっさんや。
まああたしは元女優だからさ。アスペどもみたいに「エスあるところにあるエゴではない」「パッチワーク的人格だ」なんてばれない。演技力は人一倍あるだろう。つかあたしアスペじゃないし。むしろあるなら見つけてくれ。わたしの「エスあるところにあるエゴ」を。
そういうことかなー、と。
ちなみに彼はわたしの実験に何度もつきあわされて数回お腹を壊していたりする。挙句「しぽちゃん(あたしのことな)のドリルはキチガイじみている」ときらわれるようになりましたとさ。
ほんっと加減ってものを知らないんだよ、あたし。
藤田博史の発言のこの部分がいまいち理解できない。
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書いている本人は必死でしょうが、定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しているようですが、語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
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いや各部分の言葉の意味はわかるんだけどさ、なんでこんな文脈になるのかがわからないんだよな。
まず「書いている本人は必死でしょうが」について。
これはいい。わたしもその記事で書いているように必死であることを認めている。必死なことをわかってくれた方がむしろいい。
次に「定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ~強迫神経症的な防衛を展開しています。」。これは要するに「精神病っぺえ」って話だろ。わたしゃ木田原形而からもそう言われたことあるし、自分でこのブログの「思考実況」を読むと「分裂病型人格障害っぺえ」と思っている。それはこの記事のコメント欄にも書いている。
うん、こういう見方をしてほしいんだよな。そのためにこのブログを書いているようなもので。
でもな、これが「でしょうが」という逆接でつながっているのがよくわからない。
むしろそう見てほしい。わたしは必死なんだ、わたしは本気なんだ、ここで書かれているのはわたしの事実なんだ、妙な固定観念を外して見てくれ、という感じなんだけど。
だからこれが逆接でつながるのが「???」なんだよな。
次もそう。
「様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しているようですが」。わたしは自分が使用している知識や理論が「武装」であることを認めている。この記事やこの記事参照のこと。
問題は、わたしはなぜそうしなければならないのか、という話である。
「語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。」もその通りだ。わたしはわたしの精神疾患を明らかにするために必死で語っている。だから語れば語るほど「その精神病理学的な骨格が明らかになって」いくのは望み通りのことだ。いやむしろそれを明らかにするためにわたしは必死で「思考実況」をしている。語っている。
わたしのそれを明らかにするための精神分析理論である。だから精神分析理論に限れば、「その精神病理学的な骨格」を明らかにするための「武装」である。
わたしは自分の精神疾患症状と戦っている。この記事で何度も宣言しているが、わたしは正常人になるためにこのブログを書いている。それができない問題の原因を明らかにするのが普通の考え方だろ? 機械設計でもそうだ。故障の原因を突き止めなければ問題の解決とはならない。
だから、これらの文章が逆接でつながるのが、よくわからない。
逆接なしで書き直してみよう。見やすいように改行も入れよう。
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書いている本人は必死です。
定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。
様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しています。
語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
=====
うん。これだけなら「お、わかってるっぽい」「ふむふむ、そういう風になるのね、本職の精神科医の言い方は」ってなもんなんだよな。
さらにわたしなりに多少の文言を付加してみよう。
=====
書いている本人は必死です。
定型的な思考や観念連合の弛緩が随所に見られ、内的な攻撃性が外部に投影されて概ね強迫神経症的な防衛を展開しています。
この症状における必死さを考慮すれば、こういった症状が詐病だとは考えにくいでしょう。
また、様々な本を読み「理論武装」および「知識武装」しています。
この「武装」のおかげで、語れば語るほどその精神病理学的な骨格が明らかになってきています。
=====
こうなるともう「そうそう、さっすがー、よくわかってるじゃん」なんてなもんだ。あたしゃ忠実な藤田門派になっただろうな。「この人こそ未去勢者(一応わたしの定義で自閉症、統合失調症、スキゾイド、分裂病型人格障害があてはまるとしている)を語るべき精神分析家である」ぐらい言ったかもしんない。
でもな、「なんで逆接なの?」って思うんだ。
なぜ藤田はそこを逆接でつないだのか。観察した内容は羅列表記すればいい。理系の論文ってな基本そうだろ。因果が明らかならば順接すればよい。
「わたしについての観察報告」としては、それぞれの要素は、本人であるわたしも「うん、いいよ」って思うことなのに、なぜそれらを逆接でつなげるのか。
おそらくそれは藤田博史という観察機械に問題がある、と考えなければならないだろう。
そらそうだ、観察されるわたしが「???」となっているんだから、「それらを逆接でつなぐ」思考はわたしはしていない、となる。
これは否認ではないだろう。否認なら「わたしについての観察内容」についても反論するだろう。
しかしわたしはそこには反論していない。一部納得できていない部分もあるが、おおまかな論旨としては同意できる。長年自分の「思考実況」を観察してきた者として。
で、わたしが観察してきた「正常人の定型的な思考」を考慮して、「藤田はなぜそこを逆接にしたのか」を推測してみた。
仮に、藤田の無意識にこう問うたとしよう。
「脂という臨床素材は何について必死になっているのか?」
また
「彼女は何を目的に「理論武装」「知識武装」しているのか?」
藤田の無意識がする解答は、おそらく、「脂という臨床素材における「精神病理学的な骨格」を隠すため」だと思われる。
つまり藤田は、「この臨床素材は、彼女の症状における「精神病理学的な骨格」を隠すために必死になっており、「理論武装」「知識武装」しているのである」と思い込んでいるわけである。
また、「しかし俺は精神科医である。そういった隠蔽を見抜くのはお手のものさ」というような一種傲慢な思い込みも彼の中にあるのだろう。
「お前は「精神病理学的な骨格」を隠すために、必死になって、「理論武装」知識武装」しているのだろうが、精神科医の俺はまるっとお見通しだよwww」
少し極端に書いたが、こういったような固定的な思考構造が、彼の中にあったとしよう。
こう考えれば、彼が逆接を使った理由がわかる。
こういった考えの上で、上記のような「観察内容の羅列」を再構築すれば、なるほどそれらをそこで逆接してしまうのは理解できる。
つまり、藤田の無意識には、「必死になることや、「理論武装」「知識武装」は、【なべて】、当人の「精神病理学的な骨格」を隠すためになされる症状である」という固定観念がある、という話である。
だからわたしは藤田についてこう言っているんだな、「隠したがり屋」と。
んでこれって強迫症的な精神構造だと思うのだよな。
(ラカン的な意味で)現実的にそいつが感知する「死の欲動」に対する防衛、つまり「死の欲動」の隠蔽として、隠喩連鎖(理屈的連鎖もこの一部である)が過剰になる。過剰になってしまったせいでむしろ(「死の欲動」の二次的な影響としての)「死の不安」を感じてしまう。それが強迫症だ。
藤田の無意識的な症状としての「隠したがり屋」(もちろんわたしの個人的な命名にすぎない)は、「「死の欲動」の隠蔽としての隠喩連鎖の過剰さ」に相当する。
したがってわたしは、藤田という人格は強迫症的な性格をしているのではないか、と推測している。
ねね、どう? カフェ・フジタ、フジタゼミのみなさんや。わたしの「藤田博史という症状」分析は。
なんかおかしいところあったらそっちで勝手に議論してくれ。
あたしゃ一人対多数になる場を選ぶほど馬鹿じゃないから。
多数派の意見がうざいなー、って思ったらこっちおいで。わたしの分析とは違った分析でも、わたしは一人だ。
ここのコメント者なんかわたしの味方じゃないからな。2ちゃんねらみたいなもんだ。「敵にしたらおそろしいが味方にしたら頼りない」。いや敵にしてもおそろしくないのがうちのコメント者たちだが。基本的に「人間関係そのもの」から孤立しているような奴らだから。
そんなような奴らのためにコメント欄は開放している。「独り言」を語る場として。
なので、もし「藤田博史という症状」における「個人的な分析」を披露したければ、ここで「独り言」として語ればよい。わたしに語りかけるな。まあ今回に限っては、言い出しっぺはわたしだから、異なる部分があれば議論は受けつけるが。
言っとくがこの「独り言」は精神分析的な意味で、だからな。いくら表面的に一人でこの場に乗り込んで論を開陳したとしても、「他者によく思われたいがため」「仲間を増やしたいがため」などというような症状が見られたら、即アウトだ。それはわたしの言う意味での「独り言」ではない。ツイッターの「つぶやき」だ。あれって基本そうだろ、「仲間を増やすための独り言」。だからみんな「他人を気遣う」「他人に媚びる」「つぶやき」しか言えない。
ああそうそう、一応報告しとくが、藤田はコメ禁解除してるからな。
中野くんの東京OCNは宣伝コメントが多いとこなのでついででコメ禁継続。悪いね。
あ、とか言ったけどやっぱ藤田コメ禁復活。埼玉OCNの人巻き込まれごめん。
今水上さん相手にしてっからさ。複数人でリンチされるのは遠慮します。
ケツ穴ヒリヒリしすぎて死にたい。
というか、収穫はあったんだよ。藤田のこの短いコメントにも。わたしにとって。
あたしはそれを、当事者の側の語彙で、「迷子感」と述べている。たびたび出てくる言葉なので記事挙げるのめんどくさい。ブログ内検索してくれ。
それは、精神医学用語における「観念連合の弛緩」にあたる、とわかったから。多分そうじゃないか、いやその可能性は高い、と。
ありがとう、藤田くん。
そんな小難しく言わなくてもわたし用語なら「うわあああ」なんだよな。
あ、そうか。
「観念連合の弛緩」状態はいわば「迷子」のときのような感覚で「うわあああ」となる。
なわけだが、もっといい感じの表現思いついた。
「意味のゲシュタルト崩壊」。
たとえば、漢字の書き取りやってると、文字がばらばらに見えて全体の形を認識しにくくなったりする。あれもゲシュタルト崩壊なわけでしょ。
あれと似てる。物事を深く考えすぎて、意味の全体パターンが見えなくなって、意味がばらばらに思えてくる。
これがそうか、「観念連合の弛緩」か、と。
おーなるへそな。
なんか藤田って結構傷つきやすいタイプなのかな。
今やってる「挑発」とかわたしの周囲の人間なら「全然甘いよwww」って言ってくるであろうレベルなんだけど、これすらもカチンときてたりするのかな。
ごめんね。わたしこういう加減下手でさ。
ちょっと「揶揄」「挑発」控えた方がいい?
「挑発はやめろ」って意味で「私には挑発は通用しない」って言っているの?
「私には挑発は通用しない」→「挑発は無駄だ」→「無駄だからやめろ」
って意味?
まあ確かにあなたにとっては無駄なのかもしれないけど、わたしは十分楽しんでるんだよなあ、これで。だから無駄じゃないんだよね。わたしにとっては。今この時点で。どういった状態を「通用しない」って言っているのかよくわかんないけれど、今のこの状態をあなたが「通用していない状態」と言っているのなら、「挑発が通用していない状態」はわたしは結構楽しかったりする。
ごめんこういう言葉の裏の意味読み取るの苦手でさ。
すぱっと言ってくんない? もしそうなら。「挑発はやめろ」と。
ああでもそうだよな。2ちゃんにいたフジタってコテは、たとえばν速の厚顔無恥なコテたちより明らかに煽り耐性がなかったもんな。
まあ経験値にもよるんだろうが。
「挑発」ってすでにタンクのプロヴォスキルしか連想できなくなってるな。オワタな。ネトゲ脳。
このコピペすげー秀逸だと思うんだよなあ。
=====
A「タンカー誰?」
大型貨物船「わたしです」
A「じゃtankお願い」
大型貨物船「えっ」
A「えっ」
A「タンカーでしょ?」
大型貨物船「はい」
A「ならtankになってよ」
大型貨物船「変化するってことですか?」
A「なにがですか」
大型貨物船「ぼくが」
A「タンカーとはPTでtankする人のことですよ」
大型貨物船「なにそれこわい」
A「えっ」
大型貨物船「えっ」
=====
いや「タンク」か「タンカー」かとかって話じゃなくて、チェーホフ的な感じが。会話のすれ違い感が。
あ、ピーンときた。
藤田の「コトバハコトバノコトバカリ」ってセリフ結構気に入ってんだけど、あれだ、これあれかもしれない。
ってのは、精神分析学びはじめる以前からのアスペ当事者の知人がいるんだが(鈴木有海って子。このブログにもほんのときどきコメントしている)、学びはじめた当初、お遊びっていうか実験感覚で彼と分析的会話してみたんだな。
で、わたしはわかんなくて、そいつもわけわかんなくなってたと思うけど、「パッチワーク的人格」とか言っちゃったんだな。
これと「コトバハコトバノコトバカリ」って同じかもね。
「人格は人格でしかない」ってのはそれこそここでも挙げたドナの複数の人格じゃん。自分に根づいていない。エスあるところにあるエゴではない。ただの他者からの防衛柵でしかない。
そうだよな、「コトバハコトバノコトバカリ」と「理論武装」「知識武装」って大体似た意味で言ってるよな? 違う? 藤田のおっさんや。
まああたしは元女優だからさ。アスペどもみたいに「エスあるところにあるエゴではない」「パッチワーク的人格だ」なんてばれない。演技力は人一倍あるだろう。つかあたしアスペじゃないし。むしろあるなら見つけてくれ。わたしの「エスあるところにあるエゴ」を。
そういうことかなー、と。
ちなみに彼はわたしの実験に何度もつきあわされて数回お腹を壊していたりする。挙句「しぽちゃん(あたしのことな)のドリルはキチガイじみている」ときらわれるようになりましたとさ。
ほんっと加減ってものを知らないんだよ、あたし。