びくびくしすぎだあたし
2010/10/09/Sat
ごめん、ほんととばっちりだと思うけど、今見たらNET296の人が十数件アクセスしててぞっとしたのでアク禁にします。以前fc2アク禁ないとか言ったけどよく見たらあった。
申し訳ありません。こちらの状態が芳しくないので。
一日告知期間を置いてアク禁にします。
さて。
前記事コメント欄でいろいろだべってたんだけど、さすがにやりすぎかなと思ったのでこっちに書く。
利用しているようでやなんだよね。
利用されていると感じた人を利用するのはお互いさまだからそんなには思わないけれど。
利用されるのがいや、じゃなくて利用しているのがいや。
「あなたはわたしじゃない」と言いたい。
いや水上さんのことじゃなくて、いろいろごっちゃになった話。
ほんとにもう終わりにしたいな。
錯覚、錯視って奴?
あれでおもしろいことを思い出した。
未去勢者(まあ今は適当に自閉症か統合失調症かスキゾイドか分裂病型人格障害かぐらいに思ってくれ)の子供に錯視の絵を見せた。たとえばこれだとしよう。
「どっちが長い?」と聞いた。
その子は「同じ」と答えた。
「本当に?」といろいろ聞いてみると、どうやら一度その絵を見てて、「線の長さは同じ」という解答をすでに知ってたみたいなんだな。
「こっちが短いように見えない?」と聞いても「同じ」と言い張る。
さてこのとき彼にこの絵はどう見えていたのでしょうか?
本当はそれぞれ違う長さのように見えているけど、「同じ」と言われたから「同じ」と言い張っている?
「同じ」と言われたことが一種の催眠のように作用して、本当に同じに見えている?
そのどちらでもないと思うんだ。
そもそも彼は最初から、「線全体の長さを比べて見る」という見方をしていなかったのではないだろうか。
たとえば端っこの部分だけを見ていれば、「線全体の長さを比べて見る」という見方はできない。
そして解答の絵を見て、同じであることを示す点線を見て「同じだ」と思ったりしたのかもしれない。
ここには一つの人間の思い込みの罠がある。
それは、「その図を見た人間は全員、線全体の長さを比べて見るはずだ」という思い込み。
「線全体の長さを比べて見る」見方をしていないまま、解答の絵を見せられたら、そりゃ「同じだ」と言い張るだろう。
それぞれ離れたところにある棒があって、それがなんらかのやり方で、視覚的に「長さが同じ」だとわかったら、「最初から同じだ」と思い込むだろう。
そういう話なんじゃないかな。「隠喩から受ける暴力」って。
こういった、一般的な感覚から言えばあまりにも当然すぎて誰も気づかないような思い込み。
ほんとな、わけわかんないんだよ、自分でも。
殺意とか結構みんな普通に持ってるもんでしょ? 「死ね死ねリスト」とか冗談話であるくらいには。
でもこんなに「うわあああ」ってならないでしょ?
わたしもならないんだ。どっかでも書いたけど部屋に戻って一人酒しながら「あのババア死ねよまじで」ってつぶやく程度。
いやまあ、いろんな刺激の相乗効果ってのはある。確かに。
そういうことかな。
こんなになった自分がわけわかんない。
いや、わかってるんだよ。
わたしはそのババアに殺されると感じている。
うん、キチガイチックだねえ。
「んなわきゃない」って思うよ。頭では。
でもな、こうなった原因を考えると、やっぱ「恐怖感」なんだ。そのババアがわたしは怖い。
そしてそれは殺されるときのような怖さ。いや殺されそうになったことはないんだけど。ああうん、全然殺されてなんかいないけど、前記事コメント欄でも書いた剣道とかはそれに違い。体感で自分の倍もありそうな(いやんなわけないんだけど)先輩男子とぶつかりあうんだぜ。「殺される」と思うわそら。
怖いんだよ。
うん。
殺しあいしたいわけじゃないんだよ。ババアにそのつもりがないのはわかっているんだけど、わたしが自分勝手に「そのババアに殺される」と感じているだけなんだよ。わたしが自分勝手に。
だからほんとはババアも悪くないんだ。
キチガイなわたしが悪いだけ。
だからわたしは死ぬべきなんだよ。
ごめんな。
ごめんなさい。
もうどこにも行けないわ。いや行ってるけど。イトーヨーカドーぐらいは。駅前も行けるな。「群集のところには行けない」って書こうとしたけど嘘だった。駅前は結構人いる。
予期不安ってたいしたことないんだよね。わたしのは。定義的にあてはまる「ああああ」感はあるけれど、別に外出できないってレベルじゃない。
だけどフジタゼミは行けない。予期不安でもない。もっとこう、あ、いや、予期不安になるのか。「ババアにあったら絶対パニック起こす」って思って「うわあああ」ってなったわけだから。
むー。
もー。
ただの妄想だよ。ババアがわたしを殺すわけなんかない。
でもそれが何? なんだよ。
ババアにわたしを殺すつもりがなくても、わたしが自分勝手に殺されるかもしれないじゃん、ってわけわかんないだろ?
でもそんな感じなんだよな。
だからさ、ババアさ、殺しあおうよ。
死刑囚、なんていいもんじゃないな。目の前に、ババアじゃないけど、たまたまババアだとわたしが自分勝手にした何かがいる。
包丁を向けられている。
死刑囚は別に目の前に首吊り縄がある状態で生活しているわけじゃないでしょ? まだましだと思う。首吊り縄もまだましだよな。自分から首を突っ込まない限り自分を襲ってきたりしない。
ほんとそんな感じ。
そんな中、水上さんが話を巧みにそらせてくれてちょっとは助かった、って状態かな。
ほんっとあたし自身がやなんだよ、こういうの。
だから殺しあってください、お願いします、って言ってるの。わたしに同情してくれるなら。
「同情するなら殺しあいしてくれ!」
以上、メンヘラ自身が書く臨床報告書でした。
あ、言っておくが「未去勢者に錯視は通用しない」って言っているわけじゃないよ?
ただ「見えている世界が違う。シニフィエが違う」ということを言いたかっただけ。
もちろん正常人と同様な見方をしている部分もあるだろう。自閉症者ならばその部分は結構大きいだろう。その部分にその錯視のトリックが適用すれば、未去勢者でも錯視にひっかかるだろう。
だけど違う世界の一部分もある。
それこそウタ・フリスの言う「断片化した世界」。わたしの言う「断片の世界」。
うん、一応な。
『BONES』ってドラマに心理カウンセリングのシーンが出てきて、それを受ける登場人物は、はじめ「カウンセリングなんかくだらねえ」みたいに思ってたんだ。演じろ。そのとき言ったセリフ。
「心理カウンセリングなんてどーせ「抑圧していたリビドーを解放しましょう!」だろ?」
あ、もちろんうろ覚え。意味は大体あってると思うけど。
こういうのって大体一般市民の感覚を代弁しているわけじゃん。つまりアメリカの大体の一般市民は心理カウンセリングに対しそういう印象を持っている、と。
あー日本と変わらないんだなあ、と思った。いや日本の一般市民がそう思っている、ってわけではなく、わたしがそう思っていたから。
まあそうだよな。学術的な系譜を見ても、日本心理学界はアメリカの影響が強いと言える。ロジャーズ派とか。あれアメリカちゃうっけ。そうだよね? 水上さん。芸術療法とかはよく知らないけど。
んでー。
演じろ。
わたしの心理カウンセリングのイメージってのは、こんな感じ。
「現実原則が快楽を抑圧するからストレスを溜め込むのだ。しかし現実原則とはそれほど確固たるものではない。多少ならさまざまな変更が可能だ。なので、クライエントの無意識となっている現実原則を、多少の変更を施して、快楽を抑圧する場面と解放する場面がスムーズに進行できるようにしてあげる」
演じろ。みたいなー。
で、この「無意識となっている現実原則」ってな超自我なわけだから、演じろ。ラカン論なら隠喩連鎖パターンだ、となる。言語のように構造化された無意識。
演じろ。演じろ。
よーはさーあ? それがそらパパさんが言っている「正常人にはあって自閉症者にはない「フレーム」」なわけじゃん。
だからさ、壊すことは難しいかもしれないけれど、いじることはできるんであって、その瞬間が「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」なのかなーって思ったりなんかしたりしただけだけぷー。
演じました。
だからもう終わりにしましょ?
水上さん広島の人だったのね。んじゃフジタゼミとか行ってるわけじゃないんだ。あんま。
そー言ってくれたらよかったのにー。何がよかったのか知らないけれど。
まあそんだけ演じろ。離れてたらそら「慎重に対象を選ばなきゃならない」ってなるわよねー。
そっか。お金かかるしねー。演じろ。
わざとらしい? うん、でも「思考実況」してたらこうなるの。
水上さん昔の記事読んでる。この記事のわたしはまだ演じられていた。演じられる。まだ。
研究対象によってキャラ変わるのだよ。ごめんな。影響受けやすい人で。いやなんだけどね。それこそ脳内の寄生虫に支配されてる感じ。
髪をとくのは
あなたに見てもらうためではなく
わたしに目を向けさせないためです
笑顔を作るのは
あなたに笑ってほしいのではなく
わたしを素通りしてほしいからです
歌を歌うのは
あなたに泣いてほしいのではなく
わたしなんか忘れてほしいからです
水上さん、話そらして。
わたしの方を見ずに。
そうだ、芸術療法の話しましょ。
わたし芸術療法ってよく知らないから教えて。
あなたの主観入りまくりでいいから。
熱く語って。
わたしに揶揄入れさせて。
演じろ。
溶け込め。
正常人になりすませ。
それはしんどいが、目を向けられる方がより苦痛だろ。
だから演じろ。
擬態しろ。
重度の鬱病者になりたいな。こんなこと言ったら当事者に怒られるのかもしれないけど。わたしもメンヘラよ。パニ障。メンヘラがメンヘラをうらやましがってるだけ。それなら、まあ、我慢できなくない?
死ぬのもだるい状態に。
なんであたしこんなに元気なんだ。いや元気じゃないけど。
死ね、あたしのそれ。
演じて殺す。
演劇は人を殺せるか。
観客の数人程度を自殺に追い込めたら合格。
もう「残酷演劇」じゃないな。もっと俗化している。高級になっている。利殖者側になっている。
一人かくれんぼってあれどうなんだろね。なんであんなに怖がられてるんだろう。
わたしが幸せになることは
わたしの笑顔がそうなるのであって
わたし自身は笑われるのです
ほんと女は、って言っちゃいけないか、あたしは、体を切り売りして生きてきたようなもんなんだな。
髪をあげるからわたしを見ないで。
笑顔をあげるからわたしを見ないで。
誉め言葉をあげるからわたしを見ないで。
同情をあげるからわたしを見ないで。
そうすればそうするほどわたしを見る。
仕方ないよな、髪も笑顔も「わたし」なんだから。
統合された人格なんていいもんじゃないのに、なんでみんな統合されたがるのだろう。
話をそらしてくれたら、目をそらしてくれたら、わたしはまだ演じられる。観客がいないところなら、まだ演じられる。稽古。うん、リハビリ稽古。
だから話をそらしてくれ。
ちゃらい話しようぜ。
無意味な会話を。
川上未映子みたいな会話を。
真面目でいなければそれから逃げられる。
聡明なんかじゃねえよ。殺されそうだから真面目にやってるだけ。
演劇はでも、何かあると思うよ。舞台演劇は。少なくとも。
剣道はな、まだ実体があるから怖くないんだ。
実体がないから怖いんだよな。
実体がないのに巨大に思える。
正常人を正常人たらしめる「フレーム」。
まああれだ、水上さんもわかってくれそうにないので、話をそらしてくれ。あんたそれはうまそうだから。
藤田はただのファルスっぺえな。まああんまショックじゃないからどうでもいいや。
ありがちすぐる。
申し訳ありません。こちらの状態が芳しくないので。
一日告知期間を置いてアク禁にします。
さて。
前記事コメント欄でいろいろだべってたんだけど、さすがにやりすぎかなと思ったのでこっちに書く。
利用しているようでやなんだよね。
利用されていると感じた人を利用するのはお互いさまだからそんなには思わないけれど。
利用されるのがいや、じゃなくて利用しているのがいや。
「あなたはわたしじゃない」と言いたい。
いや水上さんのことじゃなくて、いろいろごっちゃになった話。
ほんとにもう終わりにしたいな。
錯覚、錯視って奴?
あれでおもしろいことを思い出した。
未去勢者(まあ今は適当に自閉症か統合失調症かスキゾイドか分裂病型人格障害かぐらいに思ってくれ)の子供に錯視の絵を見せた。たとえばこれだとしよう。
「どっちが長い?」と聞いた。
その子は「同じ」と答えた。
「本当に?」といろいろ聞いてみると、どうやら一度その絵を見てて、「線の長さは同じ」という解答をすでに知ってたみたいなんだな。
「こっちが短いように見えない?」と聞いても「同じ」と言い張る。
さてこのとき彼にこの絵はどう見えていたのでしょうか?
本当はそれぞれ違う長さのように見えているけど、「同じ」と言われたから「同じ」と言い張っている?
「同じ」と言われたことが一種の催眠のように作用して、本当に同じに見えている?
そのどちらでもないと思うんだ。
そもそも彼は最初から、「線全体の長さを比べて見る」という見方をしていなかったのではないだろうか。
たとえば端っこの部分だけを見ていれば、「線全体の長さを比べて見る」という見方はできない。
そして解答の絵を見て、同じであることを示す点線を見て「同じだ」と思ったりしたのかもしれない。
ここには一つの人間の思い込みの罠がある。
それは、「その図を見た人間は全員、線全体の長さを比べて見るはずだ」という思い込み。
「線全体の長さを比べて見る」見方をしていないまま、解答の絵を見せられたら、そりゃ「同じだ」と言い張るだろう。
それぞれ離れたところにある棒があって、それがなんらかのやり方で、視覚的に「長さが同じ」だとわかったら、「最初から同じだ」と思い込むだろう。
そういう話なんじゃないかな。「隠喩から受ける暴力」って。
こういった、一般的な感覚から言えばあまりにも当然すぎて誰も気づかないような思い込み。
ほんとな、わけわかんないんだよ、自分でも。
殺意とか結構みんな普通に持ってるもんでしょ? 「死ね死ねリスト」とか冗談話であるくらいには。
でもこんなに「うわあああ」ってならないでしょ?
わたしもならないんだ。どっかでも書いたけど部屋に戻って一人酒しながら「あのババア死ねよまじで」ってつぶやく程度。
いやまあ、いろんな刺激の相乗効果ってのはある。確かに。
そういうことかな。
こんなになった自分がわけわかんない。
いや、わかってるんだよ。
わたしはそのババアに殺されると感じている。
うん、キチガイチックだねえ。
「んなわきゃない」って思うよ。頭では。
でもな、こうなった原因を考えると、やっぱ「恐怖感」なんだ。そのババアがわたしは怖い。
そしてそれは殺されるときのような怖さ。いや殺されそうになったことはないんだけど。ああうん、全然殺されてなんかいないけど、前記事コメント欄でも書いた剣道とかはそれに違い。体感で自分の倍もありそうな(いやんなわけないんだけど)先輩男子とぶつかりあうんだぜ。「殺される」と思うわそら。
怖いんだよ。
うん。
殺しあいしたいわけじゃないんだよ。ババアにそのつもりがないのはわかっているんだけど、わたしが自分勝手に「そのババアに殺される」と感じているだけなんだよ。わたしが自分勝手に。
だからほんとはババアも悪くないんだ。
キチガイなわたしが悪いだけ。
だからわたしは死ぬべきなんだよ。
ごめんな。
ごめんなさい。
もうどこにも行けないわ。いや行ってるけど。イトーヨーカドーぐらいは。駅前も行けるな。「群集のところには行けない」って書こうとしたけど嘘だった。駅前は結構人いる。
予期不安ってたいしたことないんだよね。わたしのは。定義的にあてはまる「ああああ」感はあるけれど、別に外出できないってレベルじゃない。
だけどフジタゼミは行けない。予期不安でもない。もっとこう、あ、いや、予期不安になるのか。「ババアにあったら絶対パニック起こす」って思って「うわあああ」ってなったわけだから。
むー。
もー。
ただの妄想だよ。ババアがわたしを殺すわけなんかない。
でもそれが何? なんだよ。
ババアにわたしを殺すつもりがなくても、わたしが自分勝手に殺されるかもしれないじゃん、ってわけわかんないだろ?
でもそんな感じなんだよな。
だからさ、ババアさ、殺しあおうよ。
死刑囚、なんていいもんじゃないな。目の前に、ババアじゃないけど、たまたまババアだとわたしが自分勝手にした何かがいる。
包丁を向けられている。
死刑囚は別に目の前に首吊り縄がある状態で生活しているわけじゃないでしょ? まだましだと思う。首吊り縄もまだましだよな。自分から首を突っ込まない限り自分を襲ってきたりしない。
ほんとそんな感じ。
そんな中、水上さんが話を巧みにそらせてくれてちょっとは助かった、って状態かな。
ほんっとあたし自身がやなんだよ、こういうの。
だから殺しあってください、お願いします、って言ってるの。わたしに同情してくれるなら。
「同情するなら殺しあいしてくれ!」
以上、メンヘラ自身が書く臨床報告書でした。
あ、言っておくが「未去勢者に錯視は通用しない」って言っているわけじゃないよ?
ただ「見えている世界が違う。シニフィエが違う」ということを言いたかっただけ。
もちろん正常人と同様な見方をしている部分もあるだろう。自閉症者ならばその部分は結構大きいだろう。その部分にその錯視のトリックが適用すれば、未去勢者でも錯視にひっかかるだろう。
だけど違う世界の一部分もある。
それこそウタ・フリスの言う「断片化した世界」。わたしの言う「断片の世界」。
うん、一応な。
『BONES』ってドラマに心理カウンセリングのシーンが出てきて、それを受ける登場人物は、はじめ「カウンセリングなんかくだらねえ」みたいに思ってたんだ。演じろ。そのとき言ったセリフ。
「心理カウンセリングなんてどーせ「抑圧していたリビドーを解放しましょう!」だろ?」
あ、もちろんうろ覚え。意味は大体あってると思うけど。
こういうのって大体一般市民の感覚を代弁しているわけじゃん。つまりアメリカの大体の一般市民は心理カウンセリングに対しそういう印象を持っている、と。
あー日本と変わらないんだなあ、と思った。いや日本の一般市民がそう思っている、ってわけではなく、わたしがそう思っていたから。
まあそうだよな。学術的な系譜を見ても、日本心理学界はアメリカの影響が強いと言える。ロジャーズ派とか。あれアメリカちゃうっけ。そうだよね? 水上さん。芸術療法とかはよく知らないけど。
んでー。
演じろ。
わたしの心理カウンセリングのイメージってのは、こんな感じ。
「現実原則が快楽を抑圧するからストレスを溜め込むのだ。しかし現実原則とはそれほど確固たるものではない。多少ならさまざまな変更が可能だ。なので、クライエントの無意識となっている現実原則を、多少の変更を施して、快楽を抑圧する場面と解放する場面がスムーズに進行できるようにしてあげる」
演じろ。みたいなー。
で、この「無意識となっている現実原則」ってな超自我なわけだから、演じろ。ラカン論なら隠喩連鎖パターンだ、となる。言語のように構造化された無意識。
演じろ。演じろ。
よーはさーあ? それがそらパパさんが言っている「正常人にはあって自閉症者にはない「フレーム」」なわけじゃん。
だからさ、壊すことは難しいかもしれないけれど、いじることはできるんであって、その瞬間が「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」なのかなーって思ったりなんかしたりしただけだけぷー。
演じました。
だからもう終わりにしましょ?
水上さん広島の人だったのね。んじゃフジタゼミとか行ってるわけじゃないんだ。あんま。
そー言ってくれたらよかったのにー。何がよかったのか知らないけれど。
まあそんだけ演じろ。離れてたらそら「慎重に対象を選ばなきゃならない」ってなるわよねー。
そっか。お金かかるしねー。演じろ。
わざとらしい? うん、でも「思考実況」してたらこうなるの。
水上さん昔の記事読んでる。この記事のわたしはまだ演じられていた。演じられる。まだ。
研究対象によってキャラ変わるのだよ。ごめんな。影響受けやすい人で。いやなんだけどね。それこそ脳内の寄生虫に支配されてる感じ。
髪をとくのは
あなたに見てもらうためではなく
わたしに目を向けさせないためです
笑顔を作るのは
あなたに笑ってほしいのではなく
わたしを素通りしてほしいからです
歌を歌うのは
あなたに泣いてほしいのではなく
わたしなんか忘れてほしいからです
水上さん、話そらして。
わたしの方を見ずに。
そうだ、芸術療法の話しましょ。
わたし芸術療法ってよく知らないから教えて。
あなたの主観入りまくりでいいから。
熱く語って。
わたしに揶揄入れさせて。
演じろ。
溶け込め。
正常人になりすませ。
それはしんどいが、目を向けられる方がより苦痛だろ。
だから演じろ。
擬態しろ。
重度の鬱病者になりたいな。こんなこと言ったら当事者に怒られるのかもしれないけど。わたしもメンヘラよ。パニ障。メンヘラがメンヘラをうらやましがってるだけ。それなら、まあ、我慢できなくない?
死ぬのもだるい状態に。
なんであたしこんなに元気なんだ。いや元気じゃないけど。
死ね、あたしのそれ。
演じて殺す。
演劇は人を殺せるか。
観客の数人程度を自殺に追い込めたら合格。
もう「残酷演劇」じゃないな。もっと俗化している。高級になっている。利殖者側になっている。
一人かくれんぼってあれどうなんだろね。なんであんなに怖がられてるんだろう。
わたしが幸せになることは
わたしの笑顔がそうなるのであって
わたし自身は笑われるのです
ほんと女は、って言っちゃいけないか、あたしは、体を切り売りして生きてきたようなもんなんだな。
髪をあげるからわたしを見ないで。
笑顔をあげるからわたしを見ないで。
誉め言葉をあげるからわたしを見ないで。
同情をあげるからわたしを見ないで。
そうすればそうするほどわたしを見る。
仕方ないよな、髪も笑顔も「わたし」なんだから。
統合された人格なんていいもんじゃないのに、なんでみんな統合されたがるのだろう。
話をそらしてくれたら、目をそらしてくれたら、わたしはまだ演じられる。観客がいないところなら、まだ演じられる。稽古。うん、リハビリ稽古。
だから話をそらしてくれ。
ちゃらい話しようぜ。
無意味な会話を。
川上未映子みたいな会話を。
真面目でいなければそれから逃げられる。
聡明なんかじゃねえよ。殺されそうだから真面目にやってるだけ。
演劇はでも、何かあると思うよ。舞台演劇は。少なくとも。
剣道はな、まだ実体があるから怖くないんだ。
実体がないから怖いんだよな。
実体がないのに巨大に思える。
正常人を正常人たらしめる「フレーム」。
まああれだ、水上さんもわかってくれそうにないので、話をそらしてくれ。あんたそれはうまそうだから。
藤田はただのファルスっぺえな。まああんまショックじゃないからどうでもいいや。
ありがちすぐる。