水上雅敏へ質問 その3
2010/10/10/Sun
よくよく見たらアク禁設定ホスト完全一致じゃないとダメらしい。
NET296変動IPなので意味ない。
チョーウゼー。
水上雅敏へ。
お前さ、分析家としてわたしと接している?
ならさ、分析家なんかいなくても本があればわたし分析主体になれるからさ、必要ないんだけど。とっくの昔に「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」に到達してるんだけど。
被害妄想という形で自由連想できてるし。このブログはそういうのをさらけ出す場だし。
そうじゃなくて、お互い分析主体である(向井雅明の言う)分析家グループみたいなのとしてわたしと会話している?
どっちだ。
もし前者ならいらない。
わたしが自分勝手にやっていることを「俺の実績だ」と横取りされそうだわ。
藤田の「アブラブログという症状」についての文章もそういうことだろ? 「俺は見抜いているよwww」なんて言っているけどあたしがさらけ出す努力をした結果がこのブログなわけで、藤田が勝手に「この人は症状を隠そうとしている」と思い込んでいるだけで、勝手にそれを暴いたことにしている。わたしの自己分析の努力を横取りしていることになる。
いや別にいいけどさ。藤田のこういう症状ですらわたしの自己分析ネタになるし。
ラカン派が口を酸っぱくして言っている「分析するのはあくまでクライエント、分析主体である」ってのはそういう意味なんじゃないの?
別にわたしの自己分析を横取りしてもいいんだけどさ、見返りくれよ。一億円。
それが無理ならお前も自己分析しろよ。
その方がわたしの自己分析のネタとして有効活用できるものが多いだろう。
お前も分析主体でいろ。
このブログにおいては。
あと藤田博史へ。
なんか今日とか13時の時点で27回もこのブログアクセスしてて気持ち悪いくらいなんだけど、あなたもういらないのでどっか行ってくれませんか?
陰口叩きたいなら叩けばいいけど、わたしの目の届く範囲をうろちょろしないでほしいんですが。
わたしなんかじゃなく渡辺哲夫の解釈してれば?
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
別に現代もそこらにいるよ。
隠すのがうまくなっただけで。
女を馬鹿にしすぎだ。女だって学習する。
つかラカンはアンナ・Oやドラに一億円払えよ。
金取ってんじゃねえよ、分析家は。
お前らは金払う方だ。
舞台演劇なら。
謙虚になれよ分析家は。
お前らがヒステリーから金受け取っているのは結婚詐欺と同じ構造だ。
つか心理療法なんて結婚詐欺と同じようなもんだろ? 原理考えたら。
逆にヒステリーが金稼ぐ舞台演劇は売春なんだけどね。原理考えたら。
「舞台演劇の本質は売春である」とかどっかの演出家が言ってそうだろ? つかバレエなんて昔はストリップショーだったんだぜ。劇場の周りには興奮した客をひっかける売春婦が溢れていた。太陽王がそれを改革して今のオッサレーなスカシータバレエになった。
つか小説だし野郎だけど車谷長吉が同じこと言っているな。「(私)小説を書くこととは春をひさぐことと同じだ」とかな。いやでびう当時だけど。今も同じ考えかどうかは知らん。お金儲けて生活よくなったみたいだしの。映画化とかワロタわ。映画化自体が車谷本人にとっては強烈な揶揄になると思ったけどそうでもなかったんかね。私小説家廃業したらしいしまあいっか。わたしは後期車谷はあんまおもしろくない。
ああいらっとしてきた。つか水上も誤解しているんだろうか。
いいか、どっかにも書いたことだがもう一度書く。
わたしは心理カウンセリングも受けたし精神科も受診した。
そこではなるだけ自分の心について正直に答えようとした。心の問題だから正直に答えない限り問題は解決しないに決まってるだろ?
しかし言えなかった。言おうとしたこともあるがそういう話に触れると向こうはひきつった顔をするのがわかった。あるいはいやらしい目をしてくるのがわかった。
なら言わないでおこう、と思った。
つまり、わたしはいまだに心理カウンセラーや精神科医には嘘をついたままなのだ。わたしの嘘の問診により薬を処方されている。
いや薬に対する反応は、なぜか相手は冷静に対処してくれるから正直に言いやすい。心の問題になるとわけのわからない態度を示してくる。
わたしにとっては逆だ。心の問題より薬に対する反応の方が恥ずかしい。
しかしまあ健康に直接関係することなので、それに密室だし、話せている。だから薬の話の方が多い。「ODとかやっぱだめですよね」などと冗談話すらできる。今の精神科医さんは「しちゃだめだよ?」と笑って返してくれる。それくらいの猥談相手にはなっている。あ、わたしにとって薬の話って猥談みたいなもんだから。あれだ、「ODとか」は一般の感覚なら「アナルセックスってどんなんかな」みたいなもんだ。あいや、「フィストファックって」とかになんのか。
だからこちらはそれでいいのだ。心の問題について嘘をついたままでも。
しかしわたしはそれが納得できなかった。
そこへ精神分析などというよい道具を発見したがために、こんなブログになった。
ここではわたしはメンヘラとして、心の問題について、なるべく嘘をつかずに書こうと思っている。
誰かに伝えるためではなく自分が納得するため。
自己満足である。
わかったか、水上。
だからここで分析家ヅラするのはやめろ(もしそういうつもりなら)。
そんな役割ここではいらない。精神分析理論自体が分析家だ。
ここではお前も分析主体だ。
いやならくるな。
つか「心の問題より薬に対する反応の方が恥ずかしい。」とかすげーヒステリーっぽくね? なんだっけ、「性器が非エロス化し性器以外の身体がエロス化する」とかなんだか。うろ覚え。
ヒステリーも違うんだよな。つか分析家のヒステリー解釈が違う気がする。いや正しい場合もあるだろうが。
大体ヒステリー解釈って「愛を真理にしすぎたゆえの症状」になってるやん? 「ヒステリーのディスクール」は対象aが真理になっている。
ヒステリーは、本当に全員、愛を真理にしていたのだろうか?
むしろそれは、自閉症のごとき「愛を知らないゆえの症状」、「鏡像関係の組み込みの失敗例」だったのではないか?
精神医学がこれまでヒステリーと診断してきた患者たちの一部に、自閉症が、アスペルガー症候群者がいなかっただろうか?
そんな風に思う。
ヒステリーに対する新たな問題提起として、「鏡像関係の組み込みの失敗例」としての自閉症という症状を解釈すべきではないだろうか。精神分析は。
などと最後かっこつけちゃった、てへっ。
つかさ、わたしにもヒステリーっぽいエピソードがないわけではないのだよ。ほら一応♀だし。ここのコメント欄から。
=====
あーなんかいやなこと思い出したわ。
なんかこう、二人っきりになって、別に恋人でもなんでもないんだが演劇畑ってそういうところあって徹夜作業とか普通だし男女でも普通に泊めてあげたりするんだが、こう、いやなんていうかな、わたしは全然そんな気ないのに、向こうが勝手に興奮してな、口でしてやったことあんだよ。
これってレイプになんのかね。強引な態度ではあったし。わたし拒否はしたし。
もしこれがそうならわたしレイプ被害者でもあるよな。今気づいたけど。
でもあれだろ? 夫婦とか、いやでも一応してあげたりするもんじゃねえの?
そんな感覚だったな。いや結婚したことなんかねえけど半同棲してたことはあるから。別の男だけど。
そのあともそいつとは普通につきあってたしな。劇団員同士として。まあなんか微妙な空気はあったが。
なんだかな、眠かったししてやれば大人しくなるかってぐらいだったんだがな。
今思うと笑けるな。
「口でいい?」
とか聞いてるのとか、身代金を値切ってるようなもんだな。
あ、これ飲み屋では普通に話したこともある話だぜ。
うちのブログは飲み屋。うらびれたスナック。
2010-09-16 木 05:43:24 /URL /脂 /編集
=====
これとかさ、藤田や水上なんかよか、『パーフェクトブルー』ってアニメやそれふってきたそこのコメント者の方が、わたしにとってはよっぽど分析家だった、ってことになるよな?
必要ないんだよ、分析家なんて仕事。このブログでは。ただし、向井雅明の言う「分析家は分析家グループにおいてはヒステリー的主体であるべき」って分析家ならいてもいいよ、って話だ。
つかさ、演劇とかほんと徹夜作業普通だし、極限状態って言うと大仰だけど、どっかそういう「性的なお約束」がどうでもいい状態になってたりするんだよ。東大駒場小劇場の楽屋とか調光室とか「連れ込み宿」みたいにギャグにされてたし。スノコの上でやったことがあるって自慢してた馬鹿もいたな。空中セックス。まあ今のきれいになった駒小ではそんなことねえんだろうけど。いや行ったことないけど。してるのかな? 現役東大演劇人の方証言募集。
「小劇場界はヒステリー製造機械だった!」(どどーん)。
あれだ、「宗教とは正常人製造機械である」ときれいな対をなすな。
ああなんか精神分析厨相手にしてると揚げ足取られそうだから言っておくが、「藤田が「ファルスっぺえ人」(わたしの主観でな)だったのがわかったけどあんまショックじゃなかった」みたいに言っているが、ちょっとはショックを受けたのよ? 笙野頼子などと比較してショックを受けなかっただけで。渡邊守章や中村雄二郎がそうだったらショックだろうな。
でもな、藤田はその著作やこの記事とかで、「ああそっち系っぽい」とは思ってたんだ。だけど飲み屋のマスター(オーナーか)とかやってるもんだから、わたしからすればそれこそゴールデン街とかは小劇場界と似たようなもんだから、「お?」程度の推測はあったわけ。
でも「あーやっぱそっち系か」となっただけ。
だからまったくショックではない、というわけではないが、少なくともこのブログ上の事件なら笙野頼子のときよりかは全然ショックじゃない、という(わたしの心的)事実を述べているの。
おわかり?
髪をとくのは
あなたに見てもらうためではなく
わたしに目を向けさせないためです
笑顔を作るのは
あなたに笑ってほしいのではなく
わたしを素通りしてほしいからです
歌を歌うのは
あなたに泣いてほしいのではなく
わたしなんか忘れてほしいからです
心をさらすのは
あなたにわかってほしいのではなく
わたしが心を知らないからです
一億円はぶっちゃけ手切れ金。
つかこれも水上さんは「挑発」「揶揄」と思っていいよ。藤田にやってることと一緒。なぜならわたし別にあなたに殺意は抱いてないから。
ごまかしでもあるんだよな。気になる夢を見たから。以前にも似たような夢を見たことがある。
それについてはまだ言葉にできていないので後日。
つかこれ読み返して思ったんだけどさー。
=====
テーマのように擬装された豊胸手術や初潮も、結局のところスクリーンの表面を滑って仮想現実構築のためのパーツとして隠蔽に一役買っているに過ぎない。
=====
その(映っているテーマではなく)「スクリーン」自体が、「擬装」「隠蔽」が、未映子ちゃんの「愛」だと思うんだけどなー。わたしの言葉なら「日常的に無駄毛を処理している感じ」。そこをついてきた藤田はさすがだと思うよ。
「スクリーン」の裏側で働いてきたわたしから言わせれば。
そういうわたしから言わせれば、「未映子ちゃんの小説は物足りない」ってことにもなるけど。
物足りなくていいんだよ。物足りなくない、たとえば初期車谷みたいな小説ばっかだと、わたしみたいな人間はどんどん分裂症化が進むから。
心的苦痛で死んじゃうから。
藤田が文芸評論家ならまあこういった評論でもいいんだよ。「精神分析をよくわかっている文芸評論家だ。巷にゃそうそういない」とか言ったかもしれない。
芸術は質のよし悪しを格づけされなければならないものだと思う。
アウトサイダーアートとアートは区別されなければならない。
でも藤田の本職は分析家でしょ? フロイトは「精神分析は科学である」と言い張っている(わたしはアホかと思うが)。それにならうなら科学者だ。
科学者は研究対象によし悪しなんて格づけをしてはならない。
この評論の筆者は科学者ではない。
わたしはそう思う。
精神分析家という科学者ならば、その「スクリーン」「擬装」「隠蔽」こそが(幼稚なものかもしれないが)「愛」だと気づくべきだった。研究対象物の一つの物性にすぎない「愛」だと。
水上さんはこういうことなさそうだと思えるけど、どう?
話変わるけど、
=====
物足りなくていいんだよ。物足りなくない、たとえば初期車谷みたいな小説ばっかだと、わたしみたいな人間はどんどん分裂症化が進むから。
=====
だから「微妙に物足りない」、車谷自身が「大衆小説だ」としている『赤目四十八瀧心中未遂』とかが微妙に好きだったりする。
でもただの「大衆小説」じゃないんだよ、わたしにとっちゃ。こう、心中逃避行している最中のシーンで、一般的には一種ドラマチックな流れの中で、ヒロインと飯屋で飯喰った主人公がその店のトイレでうんこする文章が書かれてたりするんだよな。ほんと現国的な解釈方法なら「なんの意味もなく」そんな文章が書かれてある。二行くらいで。
これ映画化されたんだけど、見てないけど、そこ再現してないだろ、どうせ。してたら誉めるけど。
こういうのがあるから好き。「物足りない」だけじゃない。「小説を書くこととは春をひさぐことと同じだ」と言える作家が書いた「大衆小説」だから好き。最後女が逃げるのも好き。
こういうことよ、「作家たちは「野糞」をしろ」って。
だってさー、心中しに行く途中なんだぜ? そら緊迫してるだろ、男も女も。内臓は収縮してるだろ。飯喰ったらすぐうんこしたくなったりもするだろ。我慢できなかったりするだろ。
そんな感じ。
だから「フジタゼミでうんこ漏らしてもあなたたち世話してくれる?」って聞いたんだよ。
「いーですよーw」なんて笑って答えられても「そういうことじゃねえよ」って言うわ。
「暗黒舞踏は死の淵だ」とか麿は言っているみたいだけど、そうだと思うよ。「死の淵」であって「死」ではない。「心中」そのものが、「死」そのものがいいわけじゃない。
うんこ漏らしちゃうような、ミクロコスモスの物理的な収縮が大事なんだよ。
あ、一応藤田と水上って藤田のが年上なんだな。
だから番頭みたいになってるのか、水上さんて。
組織のリーダーって考えたら「挑発は通用しない」なんて言って通用していることを自白しちゃうような人より水上さんのが適任だと思うけどな。
いやまあ普通の組織じゃないんだろうけど。藤田一派って。あ、これ嫌味。
この文章
=====
藤田が文芸評論家ならまあこういった評論でもいいんだよ。「精神分析をよくわかっている文芸評論家だ。巷にゃそうそういない」とか言ったかもしれない。
=====
で連想した。
あたしこの記事とかで日本ラカン協会の彦坂尚嘉って前衛あーちすとのおっさん誉めてるんだけど、この人芸術家だからね。ブログで美術作品を格づけしているがありだと思う。それこそ「精神分析をよくわかっている美術評論家だ。巷にゃそうそういない」って感じ。
デュシャンの『泉』は芸術界では「糞だ」と言われなければならない。
だがそれを排除してはならない、とは思うが。アウトサイダーアートはアートとは別物だが、アートから排除してはならない、という。
それだけ。
芸術こそが、「主人のディスクール」において無意識下にある「全体性の幻想」であるべき、ってことか。
言葉は言葉だよ。言葉だけでは芸術とはならない。
わかる? 水上さんや。
わたしはまだ芸術に対しては期待しているんだ。笙野頼子や藤田博史みたいに「ああこいつもだめだったか」とはなっていない。
芸術療法士なんかより必死に芸術で治療されようとしているんだ。
適当な仕事はしないでくれよな。
つか「藤田はどうでもいいとか言ってるくせに藤田に言及しまくりじゃねえかw」とか言われそうだが、仕方ねえだろ。あたしの今の対話相手は水上さんだ。水上さんとわたしの共通するシニフィエの一つとして藤田博史がある。精神分析もそうだが理論、シニフィアンだからな。要するに水上さんとわたしのあいだにある一具体例として「藤田博史という症状」がある。
つか水上さん自身がこの記事を何回も、今日は三回も読んでるんだから(アクセス解析から)、言及しちゃうだろうが。
「どうでもいい」から言及しているんだよ。「どうでもよくない」ゆえの言及ではない。
そういった二つの言及がある。
今は前者だ、って話。
後者の場合もあったけどね。その記事などはそれこそ「藤田博史という症状」はわたしにとって「どうでもよくなかった」。
今は水上さんの方が「どうでもよくない」。藤田は「どうでもいい」。
アクセス解析だってわたしにとっちゃディスクールだ。
これについて。
=====
精神分析家という科学者ならば、その「スクリーン」「擬装」「隠蔽」こそが(幼稚なものかもしれないが)「愛」だと気づくべきだった。研究対象物の一つの物性にすぎない「愛」だと。
=====
ちょっと以前はわたし藤田を「挑発」「揶揄」して、彼の「隠したがり屋」な性格をおちょくってたんだけど、藤田のこの評論もそうなのかもな。「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」ってな。
一緒じゃん、お前のやってることも「挑発」。
んで、わたしは少なくとも未映子ちゃんがこの評論に対してなんか言っているの見たこともないし、「そんな評論通用しません」とか言っているのも見たことないので、未映子ちゃんにお前の「挑発」は通用していない、ってことになるな。わたしの主観では。おそらく読んですらいないんじゃね? 芥川賞作品だし評論とか大量にあっただろうし。
むしろそういった大量の評論があってもなお平然としている(ように見える)ってのがすごいのよ、彼女。賞制覇したちょっとあとの笙野の自作に対する評論への混乱っぷり、というと本人怒りそうだから激情っぷり、ってこれもだめだなあ、まあそんな感じと対比するとすげーおもしろいと思うよ。
笙野だったら通用したかもしれないな、君の「挑発」。まあもともと「スクリーンの向こう」をさらけ出す作風であったわけだし。『レストレス・ドリーム』とか。実際夢日記つけてる人らしいし。彼女の前半期の作品はエスをさらけ出すものだった。だからこそ自作への評論に過剰な反応を示したわけだ。
ヒステリー的主体はそうなるんだよ。そう考えれば向井のあの過剰な反応も納得できっだろ。彼は自論に則ってあのBBSにおいてはヒステリー的主体になろうとしてた、と。まあ本職メンヘラのあたしから言わせると全然甘いけど。
どうだい?
まずお前の「隠したがり屋」をなんとかすべきだろ。未映子ちゃんにえらそうに言う前に。
あ、これも「挑発」ですよ? 「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」って。
ほんと彼って強迫症だな。こういうとこ。
前記事コメント欄から。
=====
ああ、わたしが「隠喩という言葉ヅラだけに怒っている」と思っていたのか。
言葉だけに怒っているなら、そら意味をちょいとずらせてあげれば解消するだろうな。
「その言葉は違う意味でも考えられるよ」
と。
あたしゃ言葉に怒っているわけじゃない。
「隠喩」という言葉が示す実体に怯えているんだ。
お前のこういう勘違いだったわけだな?
どうだ? お前、あのコメントしたとき、そういう風に思ってなかったか? だから最後「抵抗ありますか?」なんて聞いてきたんだろ?
どうだ? あのときのお前は何考えてそう言ったのか分析してみろ。
ここで「いやただの自由連想です」とか言ったらお前の自由連想はただの自己防衛手段でしかない、と判断する。
これもスルーするな。答えろ。
2010-10-09 土 23:39:37 /URL /脂 /編集
=====
もしわたしが「シニフィアンの陰に不可避的にこびりつくシノフアン」に怯えているだけの強迫症ならば、彼の「その言葉は違う意味でも考えられるよ」という指摘で多少の不安は緩和しただろう。
つまり水上は、わたしを強迫症だと思って、そうは思っていなくともそのような精神構造による症状だと仮定して、ここのコメント欄一番上のようなコメントを書いたのだ、となる。
しかしわたしは「え? 意味はわかるけど意味わかんない」という感じで「だから何?」となった。彼の言葉はわたしにとって「話をそらしている」ようにしか思えなかった。今回の場合それによって助かった部分は大きかったが、むしろ若干いらっときた部分もある。
どうも藤田一派は、藤田個人の強迫症的人格が原因か、あるいは水上もそういった人格傾向なのかもしれないが、すべての精神疾患者を強迫症的に解釈してしまうクセがあるのではないだろうか。藤田一派という解釈機械固有のクセ。
そう仮定すると先の川上作品の書評もなんとなく理解できる気がする。
藤田は、その「強迫症風に解釈してしまう自分のクセ」で彼女の作品を読んだ、とするとわかりやすい。わたしにとっては。
だからこのような、わたしにとっては、どこかピントがずれたような書評を書いてしまったのではないだろうか。例の記事から。
=====
藤田氏が男性である故、彼が「厚み」と言う場合、上に向けての厚み、即ち隠喩的連鎖しか連想できないからであろう。
=====
隠喩を「上」、エスから離れていく方向に、エスを隠蔽する方向に積み重ねすぎて、増幅された「シニフィアンの陰に不可避的にこびりつくシノフアン」に怯えるのが強迫症である。「死そのもの」を回避しすぎて逆に「幻想の死」を増長させるのが強迫症である。
「男性であるゆえ」ではなく、強迫症的人格であるゆえだった、という話だ。
強迫症とヒステリーはよく対照的な症状として語られる。川上がヒステリーだとは言わないが、「女という症状」そのものにヒステリー的傾向がある。共通点が多い。
「四つのディスクール」にあるのは「ヒステリーのディスクール」である。それはエスが能動者となっているディスクールである。またそれはS2を産出している。向井雅明の言う通り「知を発見していく主体はヒステリー的主体である」。強迫症的主体ではない。少なくともラカンはそう述べている。
藤田と水上はもう一度この点を真面目に考えるべきではないだろうか。
「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」って間違いだな。強迫症の藤田は「もっと隠せよ!」と言っているわけか。スクリーンを何重にも重ねて立体的に見せろよ、と。
=====
石原慎太郎氏は選評のなかで「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と述べ、選考委員のなかでは唯一人、彼女の文章の未去勢的本質を見抜いている。
=====
ってそういう意味か。「もっと隠せよ!」=「しゃべるな!」って意味か。
やっぱ「隠したがり屋」じゃん。
つかなんだそりゃ。それでも分析家かよ。
一筋縄の強迫症じゃねえな。強迫症としての倒錯、か。
んなもんポスト・フェストゥムな、「シニフィアンのシノフアン」フェチなお前の好みでしかない。
それが「大人という症状」なだけ。
ハイハイフジタクンハオトナデチュネー、チュゴイデチュネー。
あ、これ「大人なるものに偏執しすぎ病」な人たちに言ってる定型的な揶揄だから気にしないで。
アホだよなー。映画でも演劇でもスクリーンの向こう、舞台裏が一番おもしろいのに。
石原は別にどうでもいいんだよな。彼作家だし実際の選考委員だし。それに「自分の好みで作品を選んでいる」って自覚があると思うんだよな。テレビで言ってたもん、小説じゃなかったけど「僕は好き嫌いでものを言っている」って。それなら別にどうも、ってちゃんと書いてるじゃん、「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは【私には】不快でただ聞き苦しい」。
藤田くんは自覚してるのかな?
自覚してるなら、それは君の症状なんだから、もちろん分析主体になって自己分析してるんだよね?
藤田くんのアクセス数34。キモクなってきた。
『アンチ・オイディプス』思い出した。
「フェミニストの女性たちは言う、「私たちは去勢されてなどいない!」。これはまったく正しいのだ」
そうだよ、未映子ちゃんは確かに未去勢的だ。
だから何?
こういうとき『アンチ・オイディプス』便利だな。著者の無意識が社会に向いてさえいなければよかったのに。
ああ一応言っとくと、未去勢「的」であって、未去勢者ではないからな。自閉症なんかラカン派自身が未去勢だって言っているのになんでそっちにならないかな。「自閉症とは鏡像関係の組み込みの失敗例である」。
最後にこれだけ言わせてくれ。
なんであたしが川上未映子なんか擁護しなきゃならんのだ、腹立つわ。
NET296変動IPなので意味ない。
チョーウゼー。
水上雅敏へ。
お前さ、分析家としてわたしと接している?
ならさ、分析家なんかいなくても本があればわたし分析主体になれるからさ、必要ないんだけど。とっくの昔に「精神分析の終わりの状態として」の「少し精神病や倒錯に近い状態」に到達してるんだけど。
被害妄想という形で自由連想できてるし。このブログはそういうのをさらけ出す場だし。
そうじゃなくて、お互い分析主体である(向井雅明の言う)分析家グループみたいなのとしてわたしと会話している?
どっちだ。
もし前者ならいらない。
わたしが自分勝手にやっていることを「俺の実績だ」と横取りされそうだわ。
藤田の「アブラブログという症状」についての文章もそういうことだろ? 「俺は見抜いているよwww」なんて言っているけどあたしがさらけ出す努力をした結果がこのブログなわけで、藤田が勝手に「この人は症状を隠そうとしている」と思い込んでいるだけで、勝手にそれを暴いたことにしている。わたしの自己分析の努力を横取りしていることになる。
いや別にいいけどさ。藤田のこういう症状ですらわたしの自己分析ネタになるし。
ラカン派が口を酸っぱくして言っている「分析するのはあくまでクライエント、分析主体である」ってのはそういう意味なんじゃないの?
別にわたしの自己分析を横取りしてもいいんだけどさ、見返りくれよ。一億円。
それが無理ならお前も自己分析しろよ。
その方がわたしの自己分析のネタとして有効活用できるものが多いだろう。
お前も分析主体でいろ。
このブログにおいては。
あと藤田博史へ。
なんか今日とか13時の時点で27回もこのブログアクセスしてて気持ち悪いくらいなんだけど、あなたもういらないのでどっか行ってくれませんか?
陰口叩きたいなら叩けばいいけど、わたしの目の届く範囲をうろちょろしないでほしいんですが。
わたしなんかじゃなく渡辺哲夫の解釈してれば?
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
別に現代もそこらにいるよ。
隠すのがうまくなっただけで。
女を馬鹿にしすぎだ。女だって学習する。
つかラカンはアンナ・Oやドラに一億円払えよ。
金取ってんじゃねえよ、分析家は。
お前らは金払う方だ。
舞台演劇なら。
謙虚になれよ分析家は。
お前らがヒステリーから金受け取っているのは結婚詐欺と同じ構造だ。
つか心理療法なんて結婚詐欺と同じようなもんだろ? 原理考えたら。
逆にヒステリーが金稼ぐ舞台演劇は売春なんだけどね。原理考えたら。
「舞台演劇の本質は売春である」とかどっかの演出家が言ってそうだろ? つかバレエなんて昔はストリップショーだったんだぜ。劇場の周りには興奮した客をひっかける売春婦が溢れていた。太陽王がそれを改革して今のオッサレーなスカシータバレエになった。
つか小説だし野郎だけど車谷長吉が同じこと言っているな。「(私)小説を書くこととは春をひさぐことと同じだ」とかな。いやでびう当時だけど。今も同じ考えかどうかは知らん。お金儲けて生活よくなったみたいだしの。映画化とかワロタわ。映画化自体が車谷本人にとっては強烈な揶揄になると思ったけどそうでもなかったんかね。私小説家廃業したらしいしまあいっか。わたしは後期車谷はあんまおもしろくない。
ああいらっとしてきた。つか水上も誤解しているんだろうか。
いいか、どっかにも書いたことだがもう一度書く。
わたしは心理カウンセリングも受けたし精神科も受診した。
そこではなるだけ自分の心について正直に答えようとした。心の問題だから正直に答えない限り問題は解決しないに決まってるだろ?
しかし言えなかった。言おうとしたこともあるがそういう話に触れると向こうはひきつった顔をするのがわかった。あるいはいやらしい目をしてくるのがわかった。
なら言わないでおこう、と思った。
つまり、わたしはいまだに心理カウンセラーや精神科医には嘘をついたままなのだ。わたしの嘘の問診により薬を処方されている。
いや薬に対する反応は、なぜか相手は冷静に対処してくれるから正直に言いやすい。心の問題になるとわけのわからない態度を示してくる。
わたしにとっては逆だ。心の問題より薬に対する反応の方が恥ずかしい。
しかしまあ健康に直接関係することなので、それに密室だし、話せている。だから薬の話の方が多い。「ODとかやっぱだめですよね」などと冗談話すらできる。今の精神科医さんは「しちゃだめだよ?」と笑って返してくれる。それくらいの猥談相手にはなっている。あ、わたしにとって薬の話って猥談みたいなもんだから。あれだ、「ODとか」は一般の感覚なら「アナルセックスってどんなんかな」みたいなもんだ。あいや、「フィストファックって」とかになんのか。
だからこちらはそれでいいのだ。心の問題について嘘をついたままでも。
しかしわたしはそれが納得できなかった。
そこへ精神分析などというよい道具を発見したがために、こんなブログになった。
ここではわたしはメンヘラとして、心の問題について、なるべく嘘をつかずに書こうと思っている。
誰かに伝えるためではなく自分が納得するため。
自己満足である。
わかったか、水上。
だからここで分析家ヅラするのはやめろ(もしそういうつもりなら)。
そんな役割ここではいらない。精神分析理論自体が分析家だ。
ここではお前も分析主体だ。
いやならくるな。
つか「心の問題より薬に対する反応の方が恥ずかしい。」とかすげーヒステリーっぽくね? なんだっけ、「性器が非エロス化し性器以外の身体がエロス化する」とかなんだか。うろ覚え。
ヒステリーも違うんだよな。つか分析家のヒステリー解釈が違う気がする。いや正しい場合もあるだろうが。
大体ヒステリー解釈って「愛を真理にしすぎたゆえの症状」になってるやん? 「ヒステリーのディスクール」は対象aが真理になっている。
ヒステリーは、本当に全員、愛を真理にしていたのだろうか?
むしろそれは、自閉症のごとき「愛を知らないゆえの症状」、「鏡像関係の組み込みの失敗例」だったのではないか?
精神医学がこれまでヒステリーと診断してきた患者たちの一部に、自閉症が、アスペルガー症候群者がいなかっただろうか?
そんな風に思う。
ヒステリーに対する新たな問題提起として、「鏡像関係の組み込みの失敗例」としての自閉症という症状を解釈すべきではないだろうか。精神分析は。
などと最後かっこつけちゃった、てへっ。
つかさ、わたしにもヒステリーっぽいエピソードがないわけではないのだよ。ほら一応♀だし。ここのコメント欄から。
=====
あーなんかいやなこと思い出したわ。
なんかこう、二人っきりになって、別に恋人でもなんでもないんだが演劇畑ってそういうところあって徹夜作業とか普通だし男女でも普通に泊めてあげたりするんだが、こう、いやなんていうかな、わたしは全然そんな気ないのに、向こうが勝手に興奮してな、口でしてやったことあんだよ。
これってレイプになんのかね。強引な態度ではあったし。わたし拒否はしたし。
もしこれがそうならわたしレイプ被害者でもあるよな。今気づいたけど。
でもあれだろ? 夫婦とか、いやでも一応してあげたりするもんじゃねえの?
そんな感覚だったな。いや結婚したことなんかねえけど半同棲してたことはあるから。別の男だけど。
そのあともそいつとは普通につきあってたしな。劇団員同士として。まあなんか微妙な空気はあったが。
なんだかな、眠かったししてやれば大人しくなるかってぐらいだったんだがな。
今思うと笑けるな。
「口でいい?」
とか聞いてるのとか、身代金を値切ってるようなもんだな。
あ、これ飲み屋では普通に話したこともある話だぜ。
うちのブログは飲み屋。うらびれたスナック。
2010-09-16 木 05:43:24 /URL /脂 /編集
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これとかさ、藤田や水上なんかよか、『パーフェクトブルー』ってアニメやそれふってきたそこのコメント者の方が、わたしにとってはよっぽど分析家だった、ってことになるよな?
必要ないんだよ、分析家なんて仕事。このブログでは。ただし、向井雅明の言う「分析家は分析家グループにおいてはヒステリー的主体であるべき」って分析家ならいてもいいよ、って話だ。
つかさ、演劇とかほんと徹夜作業普通だし、極限状態って言うと大仰だけど、どっかそういう「性的なお約束」がどうでもいい状態になってたりするんだよ。東大駒場小劇場の楽屋とか調光室とか「連れ込み宿」みたいにギャグにされてたし。スノコの上でやったことがあるって自慢してた馬鹿もいたな。空中セックス。まあ今のきれいになった駒小ではそんなことねえんだろうけど。いや行ったことないけど。してるのかな? 現役東大演劇人の方証言募集。
「小劇場界はヒステリー製造機械だった!」(どどーん)。
あれだ、「宗教とは正常人製造機械である」ときれいな対をなすな。
ああなんか精神分析厨相手にしてると揚げ足取られそうだから言っておくが、「藤田が「ファルスっぺえ人」(わたしの主観でな)だったのがわかったけどあんまショックじゃなかった」みたいに言っているが、ちょっとはショックを受けたのよ? 笙野頼子などと比較してショックを受けなかっただけで。渡邊守章や中村雄二郎がそうだったらショックだろうな。
でもな、藤田はその著作やこの記事とかで、「ああそっち系っぽい」とは思ってたんだ。だけど飲み屋のマスター(オーナーか)とかやってるもんだから、わたしからすればそれこそゴールデン街とかは小劇場界と似たようなもんだから、「お?」程度の推測はあったわけ。
でも「あーやっぱそっち系か」となっただけ。
だからまったくショックではない、というわけではないが、少なくともこのブログ上の事件なら笙野頼子のときよりかは全然ショックじゃない、という(わたしの心的)事実を述べているの。
おわかり?
髪をとくのは
あなたに見てもらうためではなく
わたしに目を向けさせないためです
笑顔を作るのは
あなたに笑ってほしいのではなく
わたしを素通りしてほしいからです
歌を歌うのは
あなたに泣いてほしいのではなく
わたしなんか忘れてほしいからです
心をさらすのは
あなたにわかってほしいのではなく
わたしが心を知らないからです
一億円はぶっちゃけ手切れ金。
つかこれも水上さんは「挑発」「揶揄」と思っていいよ。藤田にやってることと一緒。なぜならわたし別にあなたに殺意は抱いてないから。
ごまかしでもあるんだよな。気になる夢を見たから。以前にも似たような夢を見たことがある。
それについてはまだ言葉にできていないので後日。
つかこれ読み返して思ったんだけどさー。
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テーマのように擬装された豊胸手術や初潮も、結局のところスクリーンの表面を滑って仮想現実構築のためのパーツとして隠蔽に一役買っているに過ぎない。
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その(映っているテーマではなく)「スクリーン」自体が、「擬装」「隠蔽」が、未映子ちゃんの「愛」だと思うんだけどなー。わたしの言葉なら「日常的に無駄毛を処理している感じ」。そこをついてきた藤田はさすがだと思うよ。
「スクリーン」の裏側で働いてきたわたしから言わせれば。
そういうわたしから言わせれば、「未映子ちゃんの小説は物足りない」ってことにもなるけど。
物足りなくていいんだよ。物足りなくない、たとえば初期車谷みたいな小説ばっかだと、わたしみたいな人間はどんどん分裂症化が進むから。
心的苦痛で死んじゃうから。
藤田が文芸評論家ならまあこういった評論でもいいんだよ。「精神分析をよくわかっている文芸評論家だ。巷にゃそうそういない」とか言ったかもしれない。
芸術は質のよし悪しを格づけされなければならないものだと思う。
アウトサイダーアートとアートは区別されなければならない。
でも藤田の本職は分析家でしょ? フロイトは「精神分析は科学である」と言い張っている(わたしはアホかと思うが)。それにならうなら科学者だ。
科学者は研究対象によし悪しなんて格づけをしてはならない。
この評論の筆者は科学者ではない。
わたしはそう思う。
精神分析家という科学者ならば、その「スクリーン」「擬装」「隠蔽」こそが(幼稚なものかもしれないが)「愛」だと気づくべきだった。研究対象物の一つの物性にすぎない「愛」だと。
水上さんはこういうことなさそうだと思えるけど、どう?
話変わるけど、
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物足りなくていいんだよ。物足りなくない、たとえば初期車谷みたいな小説ばっかだと、わたしみたいな人間はどんどん分裂症化が進むから。
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だから「微妙に物足りない」、車谷自身が「大衆小説だ」としている『赤目四十八瀧心中未遂』とかが微妙に好きだったりする。
でもただの「大衆小説」じゃないんだよ、わたしにとっちゃ。こう、心中逃避行している最中のシーンで、一般的には一種ドラマチックな流れの中で、ヒロインと飯屋で飯喰った主人公がその店のトイレでうんこする文章が書かれてたりするんだよな。ほんと現国的な解釈方法なら「なんの意味もなく」そんな文章が書かれてある。二行くらいで。
これ映画化されたんだけど、見てないけど、そこ再現してないだろ、どうせ。してたら誉めるけど。
こういうのがあるから好き。「物足りない」だけじゃない。「小説を書くこととは春をひさぐことと同じだ」と言える作家が書いた「大衆小説」だから好き。最後女が逃げるのも好き。
こういうことよ、「作家たちは「野糞」をしろ」って。
だってさー、心中しに行く途中なんだぜ? そら緊迫してるだろ、男も女も。内臓は収縮してるだろ。飯喰ったらすぐうんこしたくなったりもするだろ。我慢できなかったりするだろ。
そんな感じ。
だから「フジタゼミでうんこ漏らしてもあなたたち世話してくれる?」って聞いたんだよ。
「いーですよーw」なんて笑って答えられても「そういうことじゃねえよ」って言うわ。
「暗黒舞踏は死の淵だ」とか麿は言っているみたいだけど、そうだと思うよ。「死の淵」であって「死」ではない。「心中」そのものが、「死」そのものがいいわけじゃない。
うんこ漏らしちゃうような、ミクロコスモスの物理的な収縮が大事なんだよ。
あ、一応藤田と水上って藤田のが年上なんだな。
だから番頭みたいになってるのか、水上さんて。
組織のリーダーって考えたら「挑発は通用しない」なんて言って通用していることを自白しちゃうような人より水上さんのが適任だと思うけどな。
いやまあ普通の組織じゃないんだろうけど。藤田一派って。あ、これ嫌味。
この文章
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藤田が文芸評論家ならまあこういった評論でもいいんだよ。「精神分析をよくわかっている文芸評論家だ。巷にゃそうそういない」とか言ったかもしれない。
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で連想した。
あたしこの記事とかで日本ラカン協会の彦坂尚嘉って前衛あーちすとのおっさん誉めてるんだけど、この人芸術家だからね。ブログで美術作品を格づけしているがありだと思う。それこそ「精神分析をよくわかっている美術評論家だ。巷にゃそうそういない」って感じ。
デュシャンの『泉』は芸術界では「糞だ」と言われなければならない。
だがそれを排除してはならない、とは思うが。アウトサイダーアートはアートとは別物だが、アートから排除してはならない、という。
それだけ。
芸術こそが、「主人のディスクール」において無意識下にある「全体性の幻想」であるべき、ってことか。
言葉は言葉だよ。言葉だけでは芸術とはならない。
わかる? 水上さんや。
わたしはまだ芸術に対しては期待しているんだ。笙野頼子や藤田博史みたいに「ああこいつもだめだったか」とはなっていない。
芸術療法士なんかより必死に芸術で治療されようとしているんだ。
適当な仕事はしないでくれよな。
つか「藤田はどうでもいいとか言ってるくせに藤田に言及しまくりじゃねえかw」とか言われそうだが、仕方ねえだろ。あたしの今の対話相手は水上さんだ。水上さんとわたしの共通するシニフィエの一つとして藤田博史がある。精神分析もそうだが理論、シニフィアンだからな。要するに水上さんとわたしのあいだにある一具体例として「藤田博史という症状」がある。
つか水上さん自身がこの記事を何回も、今日は三回も読んでるんだから(アクセス解析から)、言及しちゃうだろうが。
「どうでもいい」から言及しているんだよ。「どうでもよくない」ゆえの言及ではない。
そういった二つの言及がある。
今は前者だ、って話。
後者の場合もあったけどね。その記事などはそれこそ「藤田博史という症状」はわたしにとって「どうでもよくなかった」。
今は水上さんの方が「どうでもよくない」。藤田は「どうでもいい」。
アクセス解析だってわたしにとっちゃディスクールだ。
これについて。
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精神分析家という科学者ならば、その「スクリーン」「擬装」「隠蔽」こそが(幼稚なものかもしれないが)「愛」だと気づくべきだった。研究対象物の一つの物性にすぎない「愛」だと。
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ちょっと以前はわたし藤田を「挑発」「揶揄」して、彼の「隠したがり屋」な性格をおちょくってたんだけど、藤田のこの評論もそうなのかもな。「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」ってな。
一緒じゃん、お前のやってることも「挑発」。
んで、わたしは少なくとも未映子ちゃんがこの評論に対してなんか言っているの見たこともないし、「そんな評論通用しません」とか言っているのも見たことないので、未映子ちゃんにお前の「挑発」は通用していない、ってことになるな。わたしの主観では。おそらく読んですらいないんじゃね? 芥川賞作品だし評論とか大量にあっただろうし。
むしろそういった大量の評論があってもなお平然としている(ように見える)ってのがすごいのよ、彼女。賞制覇したちょっとあとの笙野の自作に対する評論への混乱っぷり、というと本人怒りそうだから激情っぷり、ってこれもだめだなあ、まあそんな感じと対比するとすげーおもしろいと思うよ。
笙野だったら通用したかもしれないな、君の「挑発」。まあもともと「スクリーンの向こう」をさらけ出す作風であったわけだし。『レストレス・ドリーム』とか。実際夢日記つけてる人らしいし。彼女の前半期の作品はエスをさらけ出すものだった。だからこそ自作への評論に過剰な反応を示したわけだ。
ヒステリー的主体はそうなるんだよ。そう考えれば向井のあの過剰な反応も納得できっだろ。彼は自論に則ってあのBBSにおいてはヒステリー的主体になろうとしてた、と。まあ本職メンヘラのあたしから言わせると全然甘いけど。
どうだい?
まずお前の「隠したがり屋」をなんとかすべきだろ。未映子ちゃんにえらそうに言う前に。
あ、これも「挑発」ですよ? 「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」って。
ほんと彼って強迫症だな。こういうとこ。
前記事コメント欄から。
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ああ、わたしが「隠喩という言葉ヅラだけに怒っている」と思っていたのか。
言葉だけに怒っているなら、そら意味をちょいとずらせてあげれば解消するだろうな。
「その言葉は違う意味でも考えられるよ」
と。
あたしゃ言葉に怒っているわけじゃない。
「隠喩」という言葉が示す実体に怯えているんだ。
お前のこういう勘違いだったわけだな?
どうだ? お前、あのコメントしたとき、そういう風に思ってなかったか? だから最後「抵抗ありますか?」なんて聞いてきたんだろ?
どうだ? あのときのお前は何考えてそう言ったのか分析してみろ。
ここで「いやただの自由連想です」とか言ったらお前の自由連想はただの自己防衛手段でしかない、と判断する。
これもスルーするな。答えろ。
2010-10-09 土 23:39:37 /URL /脂 /編集
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もしわたしが「シニフィアンの陰に不可避的にこびりつくシノフアン」に怯えているだけの強迫症ならば、彼の「その言葉は違う意味でも考えられるよ」という指摘で多少の不安は緩和しただろう。
つまり水上は、わたしを強迫症だと思って、そうは思っていなくともそのような精神構造による症状だと仮定して、ここのコメント欄一番上のようなコメントを書いたのだ、となる。
しかしわたしは「え? 意味はわかるけど意味わかんない」という感じで「だから何?」となった。彼の言葉はわたしにとって「話をそらしている」ようにしか思えなかった。今回の場合それによって助かった部分は大きかったが、むしろ若干いらっときた部分もある。
どうも藤田一派は、藤田個人の強迫症的人格が原因か、あるいは水上もそういった人格傾向なのかもしれないが、すべての精神疾患者を強迫症的に解釈してしまうクセがあるのではないだろうか。藤田一派という解釈機械固有のクセ。
そう仮定すると先の川上作品の書評もなんとなく理解できる気がする。
藤田は、その「強迫症風に解釈してしまう自分のクセ」で彼女の作品を読んだ、とするとわかりやすい。わたしにとっては。
だからこのような、わたしにとっては、どこかピントがずれたような書評を書いてしまったのではないだろうか。例の記事から。
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藤田氏が男性である故、彼が「厚み」と言う場合、上に向けての厚み、即ち隠喩的連鎖しか連想できないからであろう。
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隠喩を「上」、エスから離れていく方向に、エスを隠蔽する方向に積み重ねすぎて、増幅された「シニフィアンの陰に不可避的にこびりつくシノフアン」に怯えるのが強迫症である。「死そのもの」を回避しすぎて逆に「幻想の死」を増長させるのが強迫症である。
「男性であるゆえ」ではなく、強迫症的人格であるゆえだった、という話だ。
強迫症とヒステリーはよく対照的な症状として語られる。川上がヒステリーだとは言わないが、「女という症状」そのものにヒステリー的傾向がある。共通点が多い。
「四つのディスクール」にあるのは「ヒステリーのディスクール」である。それはエスが能動者となっているディスクールである。またそれはS2を産出している。向井雅明の言う通り「知を発見していく主体はヒステリー的主体である」。強迫症的主体ではない。少なくともラカンはそう述べている。
藤田と水上はもう一度この点を真面目に考えるべきではないだろうか。
「スクリーンの向こうを、隠したがっているそれをさらけ出せよ!」って間違いだな。強迫症の藤田は「もっと隠せよ!」と言っているわけか。スクリーンを何重にも重ねて立体的に見せろよ、と。
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石原慎太郎氏は選評のなかで「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と述べ、選考委員のなかでは唯一人、彼女の文章の未去勢的本質を見抜いている。
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ってそういう意味か。「もっと隠せよ!」=「しゃべるな!」って意味か。
やっぱ「隠したがり屋」じゃん。
つかなんだそりゃ。それでも分析家かよ。
一筋縄の強迫症じゃねえな。強迫症としての倒錯、か。
んなもんポスト・フェストゥムな、「シニフィアンのシノフアン」フェチなお前の好みでしかない。
それが「大人という症状」なだけ。
ハイハイフジタクンハオトナデチュネー、チュゴイデチュネー。
あ、これ「大人なるものに偏執しすぎ病」な人たちに言ってる定型的な揶揄だから気にしないで。
アホだよなー。映画でも演劇でもスクリーンの向こう、舞台裏が一番おもしろいのに。
石原は別にどうでもいいんだよな。彼作家だし実際の選考委員だし。それに「自分の好みで作品を選んでいる」って自覚があると思うんだよな。テレビで言ってたもん、小説じゃなかったけど「僕は好き嫌いでものを言っている」って。それなら別にどうも、ってちゃんと書いてるじゃん、「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは【私には】不快でただ聞き苦しい」。
藤田くんは自覚してるのかな?
自覚してるなら、それは君の症状なんだから、もちろん分析主体になって自己分析してるんだよね?
藤田くんのアクセス数34。キモクなってきた。
『アンチ・オイディプス』思い出した。
「フェミニストの女性たちは言う、「私たちは去勢されてなどいない!」。これはまったく正しいのだ」
そうだよ、未映子ちゃんは確かに未去勢的だ。
だから何?
こういうとき『アンチ・オイディプス』便利だな。著者の無意識が社会に向いてさえいなければよかったのに。
ああ一応言っとくと、未去勢「的」であって、未去勢者ではないからな。自閉症なんかラカン派自身が未去勢だって言っているのになんでそっちにならないかな。「自閉症とは鏡像関係の組み込みの失敗例である」。
最後にこれだけ言わせてくれ。
なんであたしが川上未映子なんか擁護しなきゃならんのだ、腹立つわ。