対象aの生成過程
2007/04/12/Thu
対象aについて、「声」「まなざし」「乳房」「糞便」という四つのシンボルが代表として挙げられる。
今回は、象徴的去勢以前の、対象aの生成と変化の過程を見ていこう(象徴的去勢前後についてはこちらの記事で述べている)。説明に当たっては、フロイト-ラカン論はもちろんのこと、メラニー・クライン並びにジュリア・クリステヴァの論を「交錯」的に取り扱う。
まず、それは対象aとは呼べないが、対象aの前身。どちらかというと「コーラ」という言葉の方が近いかもしれない。それは胎内にいる自分である。母親との同一化が実現していた時代。「求めるだけ与えられる」時代。万能感で満たされている時代。リビドーも完全に満たされているからリビドーの生成はなされない時代。
そして胎児は出産される。この時胎児は、母親の陣痛による痛みやストレスを共有し、直後頭が変形するほど狭い産道をくぐりぬけ、へその緒を切断される。産道を通り抜けるときの胎児はペニスそのものである(余計な誤解を避けるために断っておくが、「母親にとって」という意味とは限らない)。
そんなこんなで胎児はこの世に生れ落ちた。「求めるだけ与えられる」世界とは違う世界に。
故に、赤ん坊にとってこの世で受ける刺激は全て「悲劇」的な「否定性」を帯びたものとなる。赤ん坊はこの世界で何が起こるか全くわからない。その世界を掴み上げる言葉=象徴を得ていないからだ。また、その予測不可能な刺激は「求めるだけ与えられる」世界にはなかったものだ。つまり、赤ん坊にとっては全ての刺激が胎内にいた頃の世界を否定するものとなる。また他の動物と違って人間の赤ん坊は身体的機能が発達していないまま生まれる。他の動物と比して未熟児で生まれてくるのだ。視覚や聴覚も大人と比べてかなり未発達であることがわかっている。この時の世界が、ラカン論における「現実界」を近似するだろう。
未熟児であるが故、赤ん坊は母(養育者)に全面的に依存しなくてはならない。全面的な依存が許される時代だ。出産という大きなイベントとしての境界があるにせよ、この時の世界は、大人の世界からの視点で見るなら、「求めるだけ与えられる」万能感に満たされた世界と近似しているとも言える。
「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
人が悲劇を求めるのは、この時代の記憶に導かれるからである。現実界を求めているから、という言い方でもいいだろう。この時代は「求めるだけ与えられる」世界の直後の世界でもあるのだ。では何故一足飛びに「求めるだけ与えられる」時代を求めないのだろうか。その時代は現実的に母親と「同一化」していた時代でもある。母親との同一化へのベクトルが欲望の根源である。それが連鎖し変換されていくのが欲望であり愛だ。対象aの前身と以降の対象aが変換されていく過程をひっくるめたのが愛であるとも言える。
では、尚更人はそこに向かうじゃないか。何故悲劇を求めるのだ? そんな疑問が湧いてくる。
忘れてはいないか。「求めるだけ与えられる」世界とこの世界の間には、「出産」という境界があることを。一足飛びに「求めるだけ与えられる」世界に戻ることは、いずれ悲劇的な「否定性」を帯びる「境界」が訪れることと同値なのだ。人は愛や幸福に満たされれば満たされるほど、トラウマ的に悲劇に対する不安が大きくなっていくのだ。
では、その境界即ち出産時の赤ん坊の精神世界はどんなものだろう。母親の体調による変化やお腹の外からの刺激は受けていただろうが、それしか知らない赤ん坊にとって、出産時の刺激は筆舌に尽くしがたいものとして受け取るだろう。これが、「恐怖」や「不安」の根源でもある。この時の体験は、「求めるだけ与えられる」世界を「否定」するものの象徴として「事後的に」記憶化されるだろう。この恐怖や不安の根源をクラインは「母親の中にあるペニス」と呼んだ。膣内のペニス。それは実は赤ん坊自身の身体的記憶なのだ。そしてこの時の記憶が、後に生ずる「去勢不安」がペニスのある他者=父親に付託される原因ともなるだろう。「去勢不安」とは成長して象徴界へ参入(「象徴的去勢」「原抑圧」)する直前に幼児に生じるものだ。この時代のことはこの記事で詳しく述べている。
また、この出産時の身体的記憶の説明が、父母が性交している光景に象徴される「原光景」が持つ「恐怖」と「魅惑」の両義性の説明となる。原光景とは父母が性交する光景に象徴される。そのイメージを嫌悪してしまうのは、鏡に映った自分の体というイメージを象徴的に思考の中に所有することで母親と違う存在の自分を受け入れているから、あるいは母と同一化している世界即ち「求めるだけ与えられる」世界に戻れないことを体感的に納得しているから、専門用語でまとめるなら「想像的去勢を承認」しているからである。想像的去勢の承認により、「恐怖」と「魅惑」の両義性や自他未分化性が象徴化され、「原光景」は「嫌悪」の対象となるのだ。
ちなみにこのことは、前の記事でフェティシスムは想像的去勢の否認により引き起こされ、同時に「突然停止した映画」のような自らの状態が、意識的にしろ無意識的にしろ不安を引き起こすと書いたが、その不安の源泉の説明になるであろう。また、悲劇的な現実界を暗喩するものをシャットアウトして、「求めるだけ与えられる世界」を換喩する自分だけのバイオスフィアと同一化したのがひきこもりである、と言える。
となると、フェティシストやひきこもりが想像的去勢を否認しているのなら、彼らは原光景即ち父母の性交シーンを嫌悪していないのか、という話になるかもしれない。そこを説明しておくと、彼らは幼児期の成長過程において一度は想像的的去勢を承認しており、遡及的に去勢を否認したのである。成長した彼らの原光景は隠喩や換喩により象徴的に変換されているだろう。彼らの「父母の性交シーンに対する嫌悪」は言語的に処理された記憶即ち大文字の他者化している、ということだ。その大文字の他者即ち超自我に彼らは従う。象徴的去勢は承認しているのだから。
話を戻そう。この世界から「求めるだけ与えられる」世界に「戻る」には、「求めるだけ与えられる」世界を最も強く否定する劇的な「境界」を乗り越えなくてはならないのだ。対象a即ち愛の根源に近づけば近づくほど、人は恐怖や不安の源泉であるこの境界を思い出す。
また、それを乗り越えたところは、母と同一化した世界即ち胎内だ。同一化しているから、その世界には「自分」というものがない。「去勢不安」の根源でもあるこの不安も同時に引き起こされるだろう。
「自分」を失う恐怖。そもそも人は何故「自分」というものを欲するのだろうか。何故「自我」というものを求めてしまうのだろうか。
生後直後の赤ん坊にとって、自らの身体は分裂している。自分の手や足が自分のものだとわかっていないし、それが一つに繋がっていることも知らないでいる、とクラインは述べている。この頃の赤ん坊は、現実界的な否定性を被っている(大人の世界で言う被害妄想的な)妄想性の態勢にあり、自らの「手」や「足」や母親の「乳房」といった対象が「断片」的に存在している世界に生きている。それら断片は「ただのモノ」だ。シュルレアリスムが表現しようとした「生の客体」はこの時代の反復を目指したものかもしれない、という余談は脇に置いて先へ進もう。この時代の赤ん坊の世界は「ただのモノ」で成り立っている。自分の身体でさえ「ただのモノ」だ。これをラカンは、フロイトの言う「モノ」の語頭を大文字化して、「大文字のモノ」と呼んだ。
これらの「断片」は差異化されているが定着はしていない。その差異は流動的だ。どういうことかというと、例えば手なら「指」と「手首から先のモノ」と「肘から先のモノ」が全て別物として幼児は考えている。手首から先にあるモノの一部が指、と考えられないのだ。注意が向いたのが「指」ならそれは「指」であり、「手首から先のモノ」なら「手首から先のモノ」で、それらは別々の刺激(視覚情報)として幼児は捉えている。とはいえ、「乳房」や母の「まなざし」など、「求めるだけ与えられる世界」と繋がるいくつかの「断片」は定着しているのかもしれない。これらの印象的に強い断片が定着し、大人になっても現実界(失われた主体)から反復してくるのがクラインの言う「部分対象」となるのだろう。
何にせよ、この頃の幼児にはまだ自我がないと言える。自分の体の断片でさえ「ただのモノ」なのだから。しかしながら、対象を差異化する思考はすでに働いていることがわかる。赤ん坊にとってこの時代の出産含めた全ての刺激は悲劇的な否定性を帯びている。同時に胎内の頃の世界と近似している。彼は同一化していた世界の名残によりその悲劇的な世界も自分自身だと思ってしまう。生れ落ちた世界の否定性と同一化し、差異化という思考様式が生まれる。この否定性は攻撃性などに変化する。クラインは、赤ん坊は生後すでに破壊的、攻撃的、否定的な「死の欲動」に従っている、としている。またこの過程を「妄想分裂態勢(パラノイド-スキゾイド・ポジション)」から「抑鬱態勢」への移行と表現している。クラインの論では生後三ヶ月から半年までぐらいが「抑鬱態勢」となる。
赤ん坊はこの悲劇的な世界が放つ「否定性」により、自分という「一」の原型を得るのだ。それは完全な「一」ではないが、幼児は自分という「一」つのものに気付き始めている。胎内にいた頃の世界は自分そのものだった。「世界=自分」だった。しかし生れ落ちることで「世界=自分」が否定されてしまい、未だその境界は曖昧ではあるが「世界」と「自分」が分け隔てられてしまった。この「否定性」が、自我や超自我の成立そのものに関わっているとクリステヴァは考えている。この「否定性」とは論理学的な「否定」とは別物であり、ヘーゲルの観念によるものに近いと彼女は述べ、また論理的「否定」と区別するために、この根源的な「否定性」を「棄却(rejet)」と呼んでいる。それはフロイト-ラカン論と繋げるなら「死の欲動」または「排除」において呼応するものだ。後の過程含めて考えれば、論理的「否定」は象徴界における超自我の「抑圧」に当てはまるもので、「否定性」「排除」「棄却」は現実界的あるいは想像界的なものであることがわかるだろう。ヒステリーなどはその葛藤を身体的表層へと想像的に「排除」したからこそ、現実界的な症状即ちアクティングアウトが表れるのだ。
とまれ、クライン論における「妄想分裂態勢」や「抑鬱態勢」の幼児には、大人の言う「自我」はまだ発生していないことがわかった。
そうなると自分という認識即ち「自我」の発生が問題となってくる。それはラカンの「鏡像段階論」で説明されている。ここで対象aの過程の叙述に話が戻る。
ここまでの、「求めるだけ与えられる」世界から出産というイニシエーションを経た直後のこの世界の「対象aの原型」は、赤ん坊にとっての「与えてくれる」存在である「乳房」である。自らの身体が分裂しているように、この時代の赤ん坊にとっての母親は「乳房」という断片なのだ。しかしこの世に生れ落ちたからには、求めても母乳を与えてくれない場合だってあるだろう。赤ん坊が持つ「求めるだけ与えられる」万能感はこの世界の悲劇的な否定性によりすでに傷つけられている。なので乳房も「断片的に」両義性へと分裂している。これをクラインは「良い乳房/悪い乳房」と表現した。この頃の赤ん坊にとって乳房は自分と母親を分かつ境界でもあるのだ。乳房は自分と母親の差異としての「余り」でもある。胎内にいた頃の万能感を満たしてくれる「モノ」ではあるが、胎内にはなかった「余りモノ」。逆説的に胎内の世界を否定し今の世界を区別する「余りモノ」。こうして、「乳房」=「対象aの原型」に両義性と「余り」という性格が付与される。
この時代の赤ん坊の世界は、万能感を満足させる「求めるだけ与えられる世界」と何が起こるかわからない「悲劇的な世界」という両極端の世界が断片的に交わっている「断片の世界」だ。悲劇、即ち「求めるだけ与えられる」世界を否定する刺激(例えば母乳が与えられないなど)に対して赤ん坊は声を上げる。それは泣いたり「アーアー」などという発声による。クリステヴァはこの「断片の世界」の否定性を「始原の暴力」と呼んでおり、この時代の(満一歳ぐらいまで)の赤ん坊の「声」は全てその暴力(不快現象)によって引き起こされている、としている。だがその悲劇に対する叫びによって母親の気を引くことができる。赤ん坊から見れば「声」により「乳房」が眼前に現れる。この時の「声」はすでに一義的な記号としての役割を担っている。比喩的に言うならパブロフの犬における笛の音だ。しかしまだ「声」や「乳房」は「対象aのシンボル」とは言えない。「声」に応答する母親の「まなざし」も同様だ。
この時の「断片としてのまなざし」は、具体的な目という部位に厳密に限定してはいないだろう。目を中心として鼻のあたりまで含まれている断片的なイメージだ。私の勝手な推測だが、この「断片の世界」において最も反復される視覚的刺激は「乳房」以外には「顔」があげられよう。しかしこの世界では「顔」も断片化されている。顔の中で口はよく動くので、断片として定着しにくいだろうし、むしろ「声」としての体感的(聴覚的)印象が強く定着しているだろう。だから、「口以外の顔」という断片イメージとしての「まなざし」が定着するのではないだろうか。
鏡像段階に話を進めよう。鏡像段階は生後六ヶ月から十八ヶ月ぐらいの幼児の精神状態を示すものだ。先程「自分と母親の差異」と述べたが、それが明確になるのがこの段階である、と言える。「乳房」や「まなざし」はこの段階が仕上げとなって対象aのシンボルとなる。
幼児はこの時代、鏡を見ることで自分の「手」や「足」が一つのものだと知る。自分の体という統一性を認知するのだ。同時に自分以外の断片も「個」に統合される。幼児はこの段階で「乳房」が「母親の部分」であることを知るのだ。こうして、前の時代の「乳房」という断片は幼児の世界から失われてしまう。失われて二度と手に入れることができなくなる。不可逆的な「成長」による世界の変化が原因だからだ。これによって、「断片としての乳房」=対象aが成立する。「ないものを欲しがる」という欲望の原因となる対象aが形成される。「まなざし」についても、それが母親の目という部分によるものということがわかるので、「まなざしという断片」は失われてしまう。よって、対象aとなる。
もちろん、ここで言う「鏡を見る」というのは比喩的表現である。実際に鏡がなくても、自分の「手」に似た「モノ」が父や母についていて、その人の思い通りに動いているように思う。それはその人の「一部」だと思う。ならば自分の「手」も自分の一部であるだろう。そういった想像を展開することで「断片の世界」「モノ自体の世界」から「個の世界」に参入する。「鏡を見る」という言葉はそういった想像の展開を象徴しているのだ。
こうして想像的に統合された「自分の体」が、自我の起源である。この過程を見てもわかるように自我というものは起源からして想像的なもので、現実的なものでも、ましてや象徴的なものでもない。「鏡を見る」という比喩に倣うなら鏡の中の自分は左右逆になっている。それでも赤ん坊はそれを自分の体だと思う。鏡の姿に想像的同一化する。自我とはあくまでも想像的なものなのだ。自我を失う恐怖とは、「想像的な個の世界」を失う恐怖である、と言える。
また、この過程が想像的去勢と言えるだろう。鏡像段階という想像的去勢を経て、人は想像的に自我を形成するのだ。
「個の世界」に参入し自我を想像的に形成した幼児は、この世界でも悲劇が続いていることを知る。予測不可能な出来事が起こる悲劇的な世界の次に現れたこの世界は、複数の「個」という「まとまり」で形成されており、自分も一つの「個」であることを知る。ここまでの過程を事後的に振り返ったのが『ティマイオス』における「コーラ」であるとクリステヴァは言う。複数即ち「多」と「一」の関係。中沢新一氏が「コーラ」と「イデア」を数学の代数学と幾何学になぞらえていることにも照応するだろう。
それ以前の世界を「「他」と「一」の世界」と表現するなら、「個の世界」は「「多」と「一」の世界」とでも言えようか。「自分=世界」であった胎内の世界。生れ落ちた先は予測不可能な否定性が「自分=世界」の領域を脅かす「「他」と「一」の世界」だった。ここでは「他」と「一」は曖昧だ。その境界は断片として交ざり合っている。そして今や幼児は鏡像段階を経て「「多」と「一」の世界」に参入した。
参入する際、幼児は「自分の体」という胎内の頃に持っていた万能感の代わりになるモノを手に入れた。それは幼児にとっては「快楽」となるだろう。だから幼児は、自分の「統一された体」を愛するのだ。鏡に映った自分の姿を見て喜ぶのだ。ここが人間と他の動物と違うところである。即ち人間は「想像的な自我」を持つことを特徴としている動物である、と言えるだろう。「断片の世界」における悲劇的な否定性の中、受動的に「一」なる「自分」を曖昧ながらに引き受けざるを得なかった時代から、鏡像段階を経て「個の世界」に参入した幼児。この世界で彼は統一された自分の体を愛するようになる。能動的に自分という「個」即ち「自我」を求めるようになるのだ。
この時、「多」としての「想像的な他人」という「個」は、顔によって統合されていくだろう。視覚イメージとしての人間の固有性は顔に強く依存しているからだ。これは大人になっても維持されている精神世界の構造である。「断片の世界」における顔は「口以外の顔」即ち「まなざし」だ。定着している「まなざし」という断片を軸として、「想像的な他人」たちの顔が、あるいは「個」が統合されていく。それと同時に断片としての「まなざし」は消失し、対象aとなる。
この「「多」と「一」の世界」は幼児にとって、悲劇の後の世界だ。大災害の直後の、死体が積み重なり建物や自然が崩壊している世界、と比喩できようか。それまで他者であった「断片」は死んでしまい、死体の山という「個」になっている。それまで信じてきた「乳房」や「まなざし」は崩壊して、瓦礫の山という「個」になってしまった。それ以前の世界では、悲劇的な否定性というやり方をもって、「他」と「一」は断片として交じり合っていたが、この世界では断片が統合されてしまったことで「多」と「一」には深い断絶が生じてしまっている。「乳房」や「まなざし」は母親という「多」の中の「個」の一部だと気づく。そして自分はそれとは別物の「個」であることに気づく。断片同士として行き来していたこれらの「ただのモノ」が、「個」というグループ化により「個」の中に納まってしまったのだ。そういう断絶を幼児は経験する。この時の幼児の精神状態は、モラトリアムの若者のそれに似ている。多様性を帯びた選択肢を前に抑鬱状態に陥る若者たち。「多」と「一」の断絶がモラトリアムを引き起こしている。似ていると言うよりむしろ、この時の経験がトラウマ的に作用して、「多」と「一」の断絶を強く暗喩する就職前の状態が抑鬱的症状を引き起こしているのではないか、と私は思う。
クラインの言う「抑鬱態勢」はこの時期の状態ではないだろうか。しかし時期的にずれている。ラカン論を採用するなら、「妄想分裂態勢(~生後三ヶ月)」→「鏡像段階(生後半年~十八ヶ月」→「抑鬱態勢(生後三ヶ月~半年)」の方がしっくりくる。「自我の最初の想像的形成」あるいは「想像的去勢の過程」である「鏡像段階」を経て初めて赤ん坊は「抑鬱態勢」に陥るのではないだろうか。この時期のずれについては新宮一成氏も指摘している。とはいえもちろんこれらの過程はデジタルに進んでいくものではなく、徐々に進むものであるし、個人差もあるだろう。
むしろ、このように考えることもできる。「鏡像段階」を「想像的去勢」と捉えるならば、「象徴的去勢」即ち「原抑圧」の過程が参照できるのではないか。「象徴的去勢」「原抑圧」の直前、幼児は「去勢不安」という状態に陥る(こちらの記事で詳しく述べている)。クラインの「抑鬱態勢」が「想像的去勢」に対する「去勢不安」だとすれば、その過程はすっきり見通すことができる。先に言ったようにそれらの過程は徐々に進むので、幼児は来るべき去勢を予感し、それに対して少しずつ不安を増していくだろう。しかし原抑圧と鏡像段階には大きな違いがある。原抑圧は「父の名」という第三者によりもたらされ、それ以前と以降では世界が決定的に異なるものになる。象徴界に参入するわけだから、(大人から見て)本当の意味で新しい世界に参入するのが象徴的去勢である、と言える。鏡像段階により参入する「個の世界」は、原抑圧のそれと比して、「断片の世界」との連続性を保っていると言えるだろう。
「断片」を「個」に統合できることを覚えた幼児は、ファルス的享楽の原型とも言える享楽を手に入れることができる。それを具体的に言うなら、生後十ヶ月ぐらい(以降)の幼児が話す「完語文」に当たるだろう。これは例えば「わんわん」「にゃんにゃん」「ぶーぶ」などといった、文章を成していない幼児語である。断片が「個」にグループ化することの享楽。これが何故享楽になるかというと、予測不可能な悲劇的な否定性を発する世界を「把握」することができるからだ。「把握」すれば予測が可能になる。「予測」というと誤解が生まれるかもしれない。例えば完語文を知らない幼児は車を見ても、それの断片ずつしか認識できない。断片しか認識できないから、それが「何か」わからない。しかし断片を「個」に統合できることを覚えた幼児即ち完語文を覚えた幼児は、それが以前にも見たことがある「車」という「個」の一種であることがわかる。「予測」というより「把握」である。予測不可能性を覆すにはまずそれを「把握」しなければならない。「把握」すれば「予測」とはいかないまでも、悲劇的な出来事に対し安心感を覚える。この安心感の起源はフロイトの「糸車遊び」論に述べられている。即ち「反復」である。反復することで安心感が生じる。それを「個」として「把握」すれば、それは「以前に見たことのある」モノとしての「反復」になってしまうのである。幼児はこの能力を、鏡像段階を経ることで手に入れるのだ。
鏡像段階により悲劇の後の世界に放り込まれた幼児ではあるが、人間は悲劇の直後にこそその能力を十分に発揮できるものだ。つまり、「断片の世界」の廃墟である「個の世界」を、完語文という道具を用いて再び再構築させていくのだ。無から構築していくこと、それは一つの享楽である。この享楽が悲劇から立ち直る原動力となる。鏡像段階の直後生じるであろう抑鬱態勢の「ピーク」は、その享楽によって回復されていくのだ。この説明ならば、クラインの抑鬱態勢(生後三ヶ月から半年)とラカンの鏡像段階(生後半年から十八ヶ月)の時期のずれは生じない。
ここで一つの疑問が湧く。「乳房」と「まなざし」はわかった。では「声」と「糞便」はどうなるのだ? と。
私の考えでは、「糞便」についてはフロイトの肛門期が、「声」については「原抑圧」「象徴的去勢」「象徴界への参入」が深く関わってくる。
まず「声」を見ていこう。
「声」は、象徴界に参入した後、言語を担うものになる。言語と同一化した「声」から、言語を排除した「余り」としての「声」が対象aである。つまり、言語を得て初めて「断片」「部分対象」としての「声」が失われる。「声」は象徴界に参入して初めて対象aとなるのだ。
次に「糞便」。
これについては、かなりややこしい構造があるように思う。感覚的にも四つの中で最も疑問を感じるシンボルではないだろうか。
大人の視点からなら納得できるところはある。対象aとは常にすでに幻想の中で「失われた余り」である。「糞便」とはもともと自分の体の一部だったものだ。それが排泄されることにより「自分の一部」という性格が失われる。対象aの性格である「失われた余り」を象徴するのが「糞便」である。余談ではあるが、精神分析のシーンは分析において度々トイレなどの場面に変換されて表れる。「分析家の語らい」を見ればわかるように、精神分析家は自らを対象aの立場に持ってきて分析を行う。であるからこの変換は分析が滞りなく進んでいる証拠でもある。
しかし、これまで見てきた赤ん坊から幼児の精神世界の変化の過程において、「糞便」は叙述されていない。とはいえクラインの論では妄想分裂態勢ですでに「糞便」というシンボルは登場している。悲劇的な「否定性」の世界と同一化することのシンボル、即ち赤ん坊の攻撃性などと言った「死の欲動」を象徴するのが「糞便」であるとも言えよう。
少しこのあたりを考えてみたい。
赤ん坊の世界では、「声」と「糞便」は等しく「不快」に対する身体的(即ち現実界的)反応として機械的に生ずる。
クリステヴァの論を参照しよう。赤ん坊における「声」または「糞便」は等しく器官が収縮することによって生じるものである。刺激を受ければ人体というシステムは緊張する。筋肉は収縮する。肺や声門が収縮することによって「声」が生じ、直腸や肛門が収縮することによって「糞便」が生じる。「声」によって母親が応答し、乳房を手に入れる即ち食欲という領域において満たされる。「不快」が打ち消される。「糞便」についても排泄欲という領域において「不快」が打ち消される。幼児にとっての「快」とは、「不快」が打ち消されることであると言える。この世界が先に述べた「悲劇的な否定性の世界」であることを考えれば、この「否定性」が「不快」と結びつく。お腹がすくのも排泄したくなるのも、この世界に生れ落ちたからだと赤ん坊は考える。ところで「糞便」については胎内でもしているのではないか、と思われるかもしれないが、胎内では排尿は行われているが排便は行われていない。直腸に「胎便」として溜められている。もし子宮内で固形の排泄物が見られた場合(胎児排便による羊水の濁りなど)、胎児が何らかのストレスを受けた結果だと考えられている。
いずれにせよ、これら二つの「断片」は、幼児にとっては「不快」を示す断片となっていると考えられる。「声」と「糞便」という「断片」は、視覚的刺激ではなく、「不快」に対する生物学的反応として生じている刺激なのだ。自分の体内に生じている筋肉の収縮という刺激を中心とした断片なのである。とはいえもちろん「声」には体内の刺激じゃない聴覚的刺激も含まれていよう。「声」という断片は先に見たように原抑圧後に対象aとなるのだから、その直前には「声」は断片であると同時にある程度「個」として統合されていると考えられる。「声」は、鏡像段階から原抑圧までの間、「断片」と「個」の中間的なモノとなっているのではないだろうか。
「自分=世界」であった「求めるだけ与えられる世界」から「断片の世界」である「悲劇的な否定性の世界」に生れ落ちた赤ん坊。赤ん坊はそれまでの「自分=世界」というやり方でその世界を生きようとする。即ち、悲劇的な否定性の世界と同一化しようとする。そのほとんどが否定性を帯びている断片たちと同一化しようとする。これが赤ん坊の「攻撃性」「死の欲動」の正体だ。赤ん坊は「求めるだけ与えられる世界」を象徴する「乳房」や「まなざし」以外の、「声」や「糞便」を含めた否定性を帯びている「断片」たちとも同一化しようとしているのだ(とはいえ「乳房」や「まなざし」も両義的に否定性を帯びてはいる。「良い乳房/悪い乳房」のように)。
つまり、赤ん坊にとっては否定性を帯びる「死の欲動」こそが「生への欲動」なのだ。
この赤ん坊にとっての「生への欲動」である「否定性」が、大人の視点で言う「死の欲動」に反転するのは、鏡像段階以降である。フロイトが一歳六ヶ月の幼児を観察して見出した「糸車遊び」がその象徴となるだろう。
鏡像段階を経て幼児は「断片の世界」から「個の世界」に参入する。この時点で様々な「断片」が「個」に「結合」される。それは同時に「断片」の「排除」ともなる。この「結合」が大人の世界における「エロス」=「生の欲動」のシンボルとなる。同一化していた「求めるだけ与えられる世界」から「否定性の世界」に生れ落ちた幼児は、その時(生後)初めて「結合」「同一化」の瞬間を体感するのである。フロイト論の糸車遊びを例に採るなら、「糸車」=「母」=「自分」という暗喩的「結合」が「糸車」という「個」において成されているのだ。「断片」が「個」として「結合」されると同時に、「ぶーぶ」をシンボルとした「車」という種の結合(換喩的結合)や「糸車」に母や自分を投影する結合(暗喩的結合)が可能になる。鏡像段階とはこの能力が生じる過程でもあるのだ。
「自分=世界」という、現実的には二度と戻れない「母との同一化」の代理として、「統合」は行われる。この時感じる享楽が、ファルス的享楽の起源である。
まとめよう。フロイトは人間の精神活動における根源的力動を、生物学でいう本能に対置できるような概念として、「欲動」を設定した。そしてそれは、「生の欲動」と「死の欲動」の二種あると唱えた。フロイトはすでに死の欲動の優位性を予見していたが、クライン、ラカン、クリステヴァの論によりそれが証明されたのだ。即ち、精神世界の成長過程を振り返ると、「死の欲動」が生後直後から先に存在し、「生の欲動」はその後、鏡像段階において発生するものである、と。
話を戻そう。「断片の世界」にいる赤ん坊にとって、「声」や「糞便」は不快や否定性と繋がる断片であるが、彼はそれとも同一化しようとしている。それしか生き方を知らないからだ。
ここで注意しておきたいのは、「乳房」にも「良い乳房/悪い乳房」という両義性があるように、「声」や「糞便」にも両義性がある。不快のシンボルではあるがそれを発することにより不快の解消=快に繋がるからだ。「乳房」と「声」「糞便」がデジタルに「快」と「不快」に一致するのではなく、あくまでアナログ的な度合いや頻度の問題である。というより、説明のために便宜的にそう分けているだけかもしれない。何故なら生まれた直後の赤ん坊にとっては、全ての刺激が「否定性」を帯びた「不快」なのだから。
いずれにせよ、クライン論では「部分対象」と呼ばれるこれら四つのシンボルは、赤ん坊の成長過程において強く印象づけられ、「断片の世界」で差異が定着していた数少ない「断片」たちだったのだろう、と推測できる。「乳房」や「まなざし」という断片は主に鏡像段階において消失し、「声」という断片は主に原抑圧において消失する。もちろん「声」という断片も鏡像段階において「ある程度」消失しているのかもしれないが、「主に」消失が実感できるのは原抑圧時であろう、ということだ。
では、「糞便」という断片はいつ消失するのだろう? その答えが、フロイトの言う肛門期だと私は考える。
その時期になされるトイレトレーニングにおいて、「糞便」は「排除」するべきモノとされ、「主に」初めて断片という性格が消失するのではないか。逆に言えばそれまでは「糞便」は同一化すべき断片としての性格を残していたのではないか。つまり、四つのシンボルの中で最も最後に断片として消失する、即ち対象a化するのが「糞便」ではないか、ということである。故に子供たちは「うんち」というシンボルを愛するのだ。子供たちしてみればそれは最も新鮮な対象aのシンボルだからだ。
しかしここで疑問が残る。トイレトレーニングは二歳ぐらいから行われる。象徴的去勢(原抑圧)即ち言葉を覚えていく過程とかなり重なってくる。トイレトレーニングは言葉での「抑圧」であり、「排除」ではないのではないか、ということだ。
確かに原抑圧の影響はあるだろう。多分この重なりが「糞便」に対して性的欲望が絡んでくる原因となり、肛門性愛などを形成するのだろう。「糞便」が定着した断片(部分対象)であったことと、肛門期が原抑圧時期と重なっていること、この二点が肛門性愛の原因だと思われる。
象徴界に参入しつつあるとはいえ、言葉ではない、例えば母親の嫌悪の表情などといった体感的な命令も未だ幼児にとっては重要な要素であると思われる。「乳房」や「声」が想像的自我の所有による消失ならば、「糞便」は母などの養育者との想像的コミュニケーションによる消失であるとも言えるか。とはいえ、現実界と繋がっている「断片の世界」からは、「糞便」の消失(排除)の方が遠く離れている。「乳房」や「まなざし」という断片は現実界=失われた主体(/S)=過去の世界(断片の世界)へと比較的容易に排除されるが、「糞便」は想像界へとそれこそ「こびりついてる」だろう。最も最後に対象a化されるが故「排除」も滞ってしまっているのだ。
とはいえ、原抑圧後も言葉による「うんちはばっちいもの」という「抑圧」が反復されるだろう。また象徴界参入後も想像界は存在する。想像的コミュニケーションによる「排除」も働くだろう。例えば幼稚園の友人の嫌悪の表情などもそれに当たる。「うんち」や「糞便」のシンボルが意味するものは、体感的嫌悪の対象へと変わっていく。つまり、断片として同一化の対象であった「糞便」の「排除」は、他の「乳房」「まなざし」「声」と比べ、徐々に進んでいくのではないだろうか、ということだ。
胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる世界」、出産直後の「悲劇的な断片の世界」、鏡像段階後の「ファルス的享楽にふける個の世界」を経て、人は象徴界へと参入する。
これまでの説明を聞いて、違和感を持つ方が多いだろう。何故ならほとんどの人が歩んできた過去として語っているにも関わらず、そんな記憶が一切見当たらないから。
それはその通りである。
何故なら、人は象徴界に参入する、即ち言葉を覚えると同時に、それまでの記憶を脚色してしまうからだ。言語構造が超自我として無意識に収納され、それが網の目のように自我と主体を覆ってしまい、同一化し、その頃の記憶を言語的に矯正してしまう。だからその頃の記憶をそのものとして引き出すのは不可能なのだ。言葉を覚えてしまったからには、どうやっても超自我のフィルターを通してしか引き出せないのだ。
先の文章で、現実界を「失われた主体(/S)」と表現した。これは言葉を覚える前の記憶である。言葉を覚えることで失ってしまった「求めるだけ与えられる世界」、「断片の世界」、「個の世界」を示している。
これまでの論が回り道になってしまうことを自覚しながら言おう。一掴みで表現するならば、それら失われた世界たちそのものが対象aなのである。
/Sと対象aは、表裏一体のものだ。それらが同一化する領域という意味で、同じ領域を示している。
イメージは言葉により恣意的に掴み上げられ、意味が決定する。その時こぼれ落ち失われた「余り」が対象aだ。
フロイトは言う。「子供時代は、そのものとしては、もう無い」。
無いから、求めてしまう。無いから、求め続けてしまう。それが、欲望だ。だから、欲望の原因である対象aは、「失われたもの」でなくてはならない。
/Sと対象aが同一化する領域。それは、「失われた領域」でなくてはならない。つまり、「死」の領域だ。
ラカンは/S◇対象aと表記し、◇を幻想と呼んだ。そう、大人が言う「生」とは、「死」を迂回する幻想なのだ。「生の欲動」とは幻想を生きる欲動を示しているのだ。
と、ここまで書いてふと思った。
「糞便」の対象a化は(他のシンボルと比して)曖昧に進む。これって女性の原抑圧の過程に似ているかもしれない、と。ただ「曖昧な過程」という類似性だけでそう言っているだけだが。
しかし例えば日本神話では、婚礼のシンボルとして「女性の排便」が用いられている。婚礼を主題にした話には、婚礼の対象となる女性が排便しているシーンなど女性と糞便が関連づけられている文章が多く見られる(東ゆみこ氏著『クソマルの神話学』より)。そんなことにも関係してくるのかもしれない。
女性と対象aとしての「糞便」の相似。この文章だけだとフェミの方々の総攻撃を食らってしまいそうだが、クリステヴァの言う恐怖の権力即ち「アブジェクシオン(abjection)」に関わる女性性あるいは母性に繋がってくるもののように思う。
それはぬるぬるしていてべたべたしていてぐちょぐちょしていて自他未分化的なものだ。人はそういったモノにおぞましさを感じる。嫌悪する。従ってそれを「棄却」する。まさに「糞便」ではないか。この「棄却」されたモノをクリステヴァは「アブジェクシオン」と呼んだ。
「アブジェ(abjet)」とは原光景(の前身)を指すのかもしれない。父母の性交シーンという未分化的な光景。嫌悪を呼び起こすこの光景から、「想像的父」や「ペニスを持つ母親」などという「おぞましい」あるいは「魅惑的な」想像的ファルスが生まれる。もちろん、きちんと父と母(ペニスを持つ親と持っていない親)に分化され他者化することだってある。通常、人はこの分化即ち断片の統合としての「個」化を経る。ほとんどの人は必ず一度それをきちんと分化して他者化しているものだ。想像的去勢を経ているのである。しかし成長後、それが遡及的に、(正常な父母イメージと比して)未分化的な「ペニスを持つ母親」や「ペニス化した母親」や「想像的父」に「戻って」しまうのが、想像的去勢の否認である。そうやってフェティシストや同性愛やヒステリーや強迫神経症が形成される。
何故「おぞまし」く「嫌悪」を催す原光景に「戻って」しまうのか。それは同時に対象aの前身だからである。原光景は「嫌悪」と「魅惑」という相反する両義性を孕んでいるのだ。だから原光景に惹かれ、そこに「ペニスを持つ母親」や「抑圧する父」や「欲望する父」などといった魅惑的な想像的ファルスを幻視してしまう。
これらのイメージの大元にある「原光景」。その「嫌悪」的な側面を強調したのが「アブジェ」や「アブジェクシオン」である。原光景(の変化したもの、あるいはその一部)の「嫌悪すべき側面」即ち「アブジェ」が現実界へと棄却されたもの、棄却されることが「アブジェクシオン」である、と言えるだろうか。
対象aのシンボルとして代表される、「声」「まなざし」「乳房」「糞便」。このうち「糞便」だけがあまりにも語られていない気がする。それは、対象aの本質でもあるアブジェを同時に象徴しているからかもしれない。無意識的に、この四つの言葉のうち「糞便」という言葉だけを「排除」「棄却」している、避けてしまっているのだろう。「おや?」という疑問は湧くと思うが、それ以上思考が進まない。「まあそういうこともあるさ」などと思うだけであったり、進んだとしても先に私が述べた「まあ分析シーンだってトイレに変換されるからなあ」という思考で停止してしまう。それで納得してしまう。それこそが「排除」「棄却」を示す「症状」なのだ。
「排除」「棄却」したモノは、現実界に捨て去られる。到達不可能な領域だからこそ、それらの「ゴミ箱」となる。しかし人は「ゴミ箱」の中を覗いてしまう。鼻をかんだ後、鼻水のついたティッシュをつい見てしまうことはないだろうか。排便後、便器の中を覗きこんでしまうことはないだろうか。超自我に「抑圧」されたシンボルとは違う経路で、精神分析の文脈なら「症状」「アクティングアウト」という形で、それらのモノは失われた世界即ち現実界から舞い戻ってくる。鏡像段階で想像的自我を手に入れ、象徴界に参入することで超自我を手に入れたとしても、人は死の欲動から逃れられないのだ。
「糞便」としての対象a。「排除」や「棄却」を乗り越えるには、現実界からおぞましいル・セミオティックとしての「アブジェ」を再び呼び起こさなくてはならない。そうやってこの領域に挑んでこそ、超自我としての超越論的構造ではない、もう一つの根源的な構造、即ちセミオティックな「狂気の定型」が読み解かれるのではないか。
――私はパス。スタイリッシュ主義だから。
だあって私ヒステリーだもんさ。「抑圧する父」を愛しているのです。だから、「ばっちいからだめ」という抑圧に素直に従ってしまうのです。
ええ、ばっちいものは棄却しますですよ。普通に。ぽいって。
どっとはらい。
今回は、象徴的去勢以前の、対象aの生成と変化の過程を見ていこう(象徴的去勢前後についてはこちらの記事で述べている)。説明に当たっては、フロイト-ラカン論はもちろんのこと、メラニー・クライン並びにジュリア・クリステヴァの論を「交錯」的に取り扱う。
まず、それは対象aとは呼べないが、対象aの前身。どちらかというと「コーラ」という言葉の方が近いかもしれない。それは胎内にいる自分である。母親との同一化が実現していた時代。「求めるだけ与えられる」時代。万能感で満たされている時代。リビドーも完全に満たされているからリビドーの生成はなされない時代。
そして胎児は出産される。この時胎児は、母親の陣痛による痛みやストレスを共有し、直後頭が変形するほど狭い産道をくぐりぬけ、へその緒を切断される。産道を通り抜けるときの胎児はペニスそのものである(余計な誤解を避けるために断っておくが、「母親にとって」という意味とは限らない)。
そんなこんなで胎児はこの世に生れ落ちた。「求めるだけ与えられる」世界とは違う世界に。
故に、赤ん坊にとってこの世で受ける刺激は全て「悲劇」的な「否定性」を帯びたものとなる。赤ん坊はこの世界で何が起こるか全くわからない。その世界を掴み上げる言葉=象徴を得ていないからだ。また、その予測不可能な刺激は「求めるだけ与えられる」世界にはなかったものだ。つまり、赤ん坊にとっては全ての刺激が胎内にいた頃の世界を否定するものとなる。また他の動物と違って人間の赤ん坊は身体的機能が発達していないまま生まれる。他の動物と比して未熟児で生まれてくるのだ。視覚や聴覚も大人と比べてかなり未発達であることがわかっている。この時の世界が、ラカン論における「現実界」を近似するだろう。
未熟児であるが故、赤ん坊は母(養育者)に全面的に依存しなくてはならない。全面的な依存が許される時代だ。出産という大きなイベントとしての境界があるにせよ、この時の世界は、大人の世界からの視点で見るなら、「求めるだけ与えられる」万能感に満たされた世界と近似しているとも言える。
「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
人が悲劇を求めるのは、この時代の記憶に導かれるからである。現実界を求めているから、という言い方でもいいだろう。この時代は「求めるだけ与えられる」世界の直後の世界でもあるのだ。では何故一足飛びに「求めるだけ与えられる」時代を求めないのだろうか。その時代は現実的に母親と「同一化」していた時代でもある。母親との同一化へのベクトルが欲望の根源である。それが連鎖し変換されていくのが欲望であり愛だ。対象aの前身と以降の対象aが変換されていく過程をひっくるめたのが愛であるとも言える。
では、尚更人はそこに向かうじゃないか。何故悲劇を求めるのだ? そんな疑問が湧いてくる。
忘れてはいないか。「求めるだけ与えられる」世界とこの世界の間には、「出産」という境界があることを。一足飛びに「求めるだけ与えられる」世界に戻ることは、いずれ悲劇的な「否定性」を帯びる「境界」が訪れることと同値なのだ。人は愛や幸福に満たされれば満たされるほど、トラウマ的に悲劇に対する不安が大きくなっていくのだ。
では、その境界即ち出産時の赤ん坊の精神世界はどんなものだろう。母親の体調による変化やお腹の外からの刺激は受けていただろうが、それしか知らない赤ん坊にとって、出産時の刺激は筆舌に尽くしがたいものとして受け取るだろう。これが、「恐怖」や「不安」の根源でもある。この時の体験は、「求めるだけ与えられる」世界を「否定」するものの象徴として「事後的に」記憶化されるだろう。この恐怖や不安の根源をクラインは「母親の中にあるペニス」と呼んだ。膣内のペニス。それは実は赤ん坊自身の身体的記憶なのだ。そしてこの時の記憶が、後に生ずる「去勢不安」がペニスのある他者=父親に付託される原因ともなるだろう。「去勢不安」とは成長して象徴界へ参入(「象徴的去勢」「原抑圧」)する直前に幼児に生じるものだ。この時代のことはこの記事で詳しく述べている。
また、この出産時の身体的記憶の説明が、父母が性交している光景に象徴される「原光景」が持つ「恐怖」と「魅惑」の両義性の説明となる。原光景とは父母が性交する光景に象徴される。そのイメージを嫌悪してしまうのは、鏡に映った自分の体というイメージを象徴的に思考の中に所有することで母親と違う存在の自分を受け入れているから、あるいは母と同一化している世界即ち「求めるだけ与えられる」世界に戻れないことを体感的に納得しているから、専門用語でまとめるなら「想像的去勢を承認」しているからである。想像的去勢の承認により、「恐怖」と「魅惑」の両義性や自他未分化性が象徴化され、「原光景」は「嫌悪」の対象となるのだ。
ちなみにこのことは、前の記事でフェティシスムは想像的去勢の否認により引き起こされ、同時に「突然停止した映画」のような自らの状態が、意識的にしろ無意識的にしろ不安を引き起こすと書いたが、その不安の源泉の説明になるであろう。また、悲劇的な現実界を暗喩するものをシャットアウトして、「求めるだけ与えられる世界」を換喩する自分だけのバイオスフィアと同一化したのがひきこもりである、と言える。
となると、フェティシストやひきこもりが想像的去勢を否認しているのなら、彼らは原光景即ち父母の性交シーンを嫌悪していないのか、という話になるかもしれない。そこを説明しておくと、彼らは幼児期の成長過程において一度は想像的的去勢を承認しており、遡及的に去勢を否認したのである。成長した彼らの原光景は隠喩や換喩により象徴的に変換されているだろう。彼らの「父母の性交シーンに対する嫌悪」は言語的に処理された記憶即ち大文字の他者化している、ということだ。その大文字の他者即ち超自我に彼らは従う。象徴的去勢は承認しているのだから。
話を戻そう。この世界から「求めるだけ与えられる」世界に「戻る」には、「求めるだけ与えられる」世界を最も強く否定する劇的な「境界」を乗り越えなくてはならないのだ。対象a即ち愛の根源に近づけば近づくほど、人は恐怖や不安の源泉であるこの境界を思い出す。
また、それを乗り越えたところは、母と同一化した世界即ち胎内だ。同一化しているから、その世界には「自分」というものがない。「去勢不安」の根源でもあるこの不安も同時に引き起こされるだろう。
「自分」を失う恐怖。そもそも人は何故「自分」というものを欲するのだろうか。何故「自我」というものを求めてしまうのだろうか。
生後直後の赤ん坊にとって、自らの身体は分裂している。自分の手や足が自分のものだとわかっていないし、それが一つに繋がっていることも知らないでいる、とクラインは述べている。この頃の赤ん坊は、現実界的な否定性を被っている(大人の世界で言う被害妄想的な)妄想性の態勢にあり、自らの「手」や「足」や母親の「乳房」といった対象が「断片」的に存在している世界に生きている。それら断片は「ただのモノ」だ。シュルレアリスムが表現しようとした「生の客体」はこの時代の反復を目指したものかもしれない、という余談は脇に置いて先へ進もう。この時代の赤ん坊の世界は「ただのモノ」で成り立っている。自分の身体でさえ「ただのモノ」だ。これをラカンは、フロイトの言う「モノ」の語頭を大文字化して、「大文字のモノ」と呼んだ。
これらの「断片」は差異化されているが定着はしていない。その差異は流動的だ。どういうことかというと、例えば手なら「指」と「手首から先のモノ」と「肘から先のモノ」が全て別物として幼児は考えている。手首から先にあるモノの一部が指、と考えられないのだ。注意が向いたのが「指」ならそれは「指」であり、「手首から先のモノ」なら「手首から先のモノ」で、それらは別々の刺激(視覚情報)として幼児は捉えている。とはいえ、「乳房」や母の「まなざし」など、「求めるだけ与えられる世界」と繋がるいくつかの「断片」は定着しているのかもしれない。これらの印象的に強い断片が定着し、大人になっても現実界(失われた主体)から反復してくるのがクラインの言う「部分対象」となるのだろう。
何にせよ、この頃の幼児にはまだ自我がないと言える。自分の体の断片でさえ「ただのモノ」なのだから。しかしながら、対象を差異化する思考はすでに働いていることがわかる。赤ん坊にとってこの時代の出産含めた全ての刺激は悲劇的な否定性を帯びている。同時に胎内の頃の世界と近似している。彼は同一化していた世界の名残によりその悲劇的な世界も自分自身だと思ってしまう。生れ落ちた世界の否定性と同一化し、差異化という思考様式が生まれる。この否定性は攻撃性などに変化する。クラインは、赤ん坊は生後すでに破壊的、攻撃的、否定的な「死の欲動」に従っている、としている。またこの過程を「妄想分裂態勢(パラノイド-スキゾイド・ポジション)」から「抑鬱態勢」への移行と表現している。クラインの論では生後三ヶ月から半年までぐらいが「抑鬱態勢」となる。
赤ん坊はこの悲劇的な世界が放つ「否定性」により、自分という「一」の原型を得るのだ。それは完全な「一」ではないが、幼児は自分という「一」つのものに気付き始めている。胎内にいた頃の世界は自分そのものだった。「世界=自分」だった。しかし生れ落ちることで「世界=自分」が否定されてしまい、未だその境界は曖昧ではあるが「世界」と「自分」が分け隔てられてしまった。この「否定性」が、自我や超自我の成立そのものに関わっているとクリステヴァは考えている。この「否定性」とは論理学的な「否定」とは別物であり、ヘーゲルの観念によるものに近いと彼女は述べ、また論理的「否定」と区別するために、この根源的な「否定性」を「棄却(rejet)」と呼んでいる。それはフロイト-ラカン論と繋げるなら「死の欲動」または「排除」において呼応するものだ。後の過程含めて考えれば、論理的「否定」は象徴界における超自我の「抑圧」に当てはまるもので、「否定性」「排除」「棄却」は現実界的あるいは想像界的なものであることがわかるだろう。ヒステリーなどはその葛藤を身体的表層へと想像的に「排除」したからこそ、現実界的な症状即ちアクティングアウトが表れるのだ。
とまれ、クライン論における「妄想分裂態勢」や「抑鬱態勢」の幼児には、大人の言う「自我」はまだ発生していないことがわかった。
そうなると自分という認識即ち「自我」の発生が問題となってくる。それはラカンの「鏡像段階論」で説明されている。ここで対象aの過程の叙述に話が戻る。
ここまでの、「求めるだけ与えられる」世界から出産というイニシエーションを経た直後のこの世界の「対象aの原型」は、赤ん坊にとっての「与えてくれる」存在である「乳房」である。自らの身体が分裂しているように、この時代の赤ん坊にとっての母親は「乳房」という断片なのだ。しかしこの世に生れ落ちたからには、求めても母乳を与えてくれない場合だってあるだろう。赤ん坊が持つ「求めるだけ与えられる」万能感はこの世界の悲劇的な否定性によりすでに傷つけられている。なので乳房も「断片的に」両義性へと分裂している。これをクラインは「良い乳房/悪い乳房」と表現した。この頃の赤ん坊にとって乳房は自分と母親を分かつ境界でもあるのだ。乳房は自分と母親の差異としての「余り」でもある。胎内にいた頃の万能感を満たしてくれる「モノ」ではあるが、胎内にはなかった「余りモノ」。逆説的に胎内の世界を否定し今の世界を区別する「余りモノ」。こうして、「乳房」=「対象aの原型」に両義性と「余り」という性格が付与される。
この時代の赤ん坊の世界は、万能感を満足させる「求めるだけ与えられる世界」と何が起こるかわからない「悲劇的な世界」という両極端の世界が断片的に交わっている「断片の世界」だ。悲劇、即ち「求めるだけ与えられる」世界を否定する刺激(例えば母乳が与えられないなど)に対して赤ん坊は声を上げる。それは泣いたり「アーアー」などという発声による。クリステヴァはこの「断片の世界」の否定性を「始原の暴力」と呼んでおり、この時代の(満一歳ぐらいまで)の赤ん坊の「声」は全てその暴力(不快現象)によって引き起こされている、としている。だがその悲劇に対する叫びによって母親の気を引くことができる。赤ん坊から見れば「声」により「乳房」が眼前に現れる。この時の「声」はすでに一義的な記号としての役割を担っている。比喩的に言うならパブロフの犬における笛の音だ。しかしまだ「声」や「乳房」は「対象aのシンボル」とは言えない。「声」に応答する母親の「まなざし」も同様だ。
この時の「断片としてのまなざし」は、具体的な目という部位に厳密に限定してはいないだろう。目を中心として鼻のあたりまで含まれている断片的なイメージだ。私の勝手な推測だが、この「断片の世界」において最も反復される視覚的刺激は「乳房」以外には「顔」があげられよう。しかしこの世界では「顔」も断片化されている。顔の中で口はよく動くので、断片として定着しにくいだろうし、むしろ「声」としての体感的(聴覚的)印象が強く定着しているだろう。だから、「口以外の顔」という断片イメージとしての「まなざし」が定着するのではないだろうか。
鏡像段階に話を進めよう。鏡像段階は生後六ヶ月から十八ヶ月ぐらいの幼児の精神状態を示すものだ。先程「自分と母親の差異」と述べたが、それが明確になるのがこの段階である、と言える。「乳房」や「まなざし」はこの段階が仕上げとなって対象aのシンボルとなる。
幼児はこの時代、鏡を見ることで自分の「手」や「足」が一つのものだと知る。自分の体という統一性を認知するのだ。同時に自分以外の断片も「個」に統合される。幼児はこの段階で「乳房」が「母親の部分」であることを知るのだ。こうして、前の時代の「乳房」という断片は幼児の世界から失われてしまう。失われて二度と手に入れることができなくなる。不可逆的な「成長」による世界の変化が原因だからだ。これによって、「断片としての乳房」=対象aが成立する。「ないものを欲しがる」という欲望の原因となる対象aが形成される。「まなざし」についても、それが母親の目という部分によるものということがわかるので、「まなざしという断片」は失われてしまう。よって、対象aとなる。
もちろん、ここで言う「鏡を見る」というのは比喩的表現である。実際に鏡がなくても、自分の「手」に似た「モノ」が父や母についていて、その人の思い通りに動いているように思う。それはその人の「一部」だと思う。ならば自分の「手」も自分の一部であるだろう。そういった想像を展開することで「断片の世界」「モノ自体の世界」から「個の世界」に参入する。「鏡を見る」という言葉はそういった想像の展開を象徴しているのだ。
こうして想像的に統合された「自分の体」が、自我の起源である。この過程を見てもわかるように自我というものは起源からして想像的なもので、現実的なものでも、ましてや象徴的なものでもない。「鏡を見る」という比喩に倣うなら鏡の中の自分は左右逆になっている。それでも赤ん坊はそれを自分の体だと思う。鏡の姿に想像的同一化する。自我とはあくまでも想像的なものなのだ。自我を失う恐怖とは、「想像的な個の世界」を失う恐怖である、と言える。
また、この過程が想像的去勢と言えるだろう。鏡像段階という想像的去勢を経て、人は想像的に自我を形成するのだ。
「個の世界」に参入し自我を想像的に形成した幼児は、この世界でも悲劇が続いていることを知る。予測不可能な出来事が起こる悲劇的な世界の次に現れたこの世界は、複数の「個」という「まとまり」で形成されており、自分も一つの「個」であることを知る。ここまでの過程を事後的に振り返ったのが『ティマイオス』における「コーラ」であるとクリステヴァは言う。複数即ち「多」と「一」の関係。中沢新一氏が「コーラ」と「イデア」を数学の代数学と幾何学になぞらえていることにも照応するだろう。
それ以前の世界を「「他」と「一」の世界」と表現するなら、「個の世界」は「「多」と「一」の世界」とでも言えようか。「自分=世界」であった胎内の世界。生れ落ちた先は予測不可能な否定性が「自分=世界」の領域を脅かす「「他」と「一」の世界」だった。ここでは「他」と「一」は曖昧だ。その境界は断片として交ざり合っている。そして今や幼児は鏡像段階を経て「「多」と「一」の世界」に参入した。
参入する際、幼児は「自分の体」という胎内の頃に持っていた万能感の代わりになるモノを手に入れた。それは幼児にとっては「快楽」となるだろう。だから幼児は、自分の「統一された体」を愛するのだ。鏡に映った自分の姿を見て喜ぶのだ。ここが人間と他の動物と違うところである。即ち人間は「想像的な自我」を持つことを特徴としている動物である、と言えるだろう。「断片の世界」における悲劇的な否定性の中、受動的に「一」なる「自分」を曖昧ながらに引き受けざるを得なかった時代から、鏡像段階を経て「個の世界」に参入した幼児。この世界で彼は統一された自分の体を愛するようになる。能動的に自分という「個」即ち「自我」を求めるようになるのだ。
この時、「多」としての「想像的な他人」という「個」は、顔によって統合されていくだろう。視覚イメージとしての人間の固有性は顔に強く依存しているからだ。これは大人になっても維持されている精神世界の構造である。「断片の世界」における顔は「口以外の顔」即ち「まなざし」だ。定着している「まなざし」という断片を軸として、「想像的な他人」たちの顔が、あるいは「個」が統合されていく。それと同時に断片としての「まなざし」は消失し、対象aとなる。
この「「多」と「一」の世界」は幼児にとって、悲劇の後の世界だ。大災害の直後の、死体が積み重なり建物や自然が崩壊している世界、と比喩できようか。それまで他者であった「断片」は死んでしまい、死体の山という「個」になっている。それまで信じてきた「乳房」や「まなざし」は崩壊して、瓦礫の山という「個」になってしまった。それ以前の世界では、悲劇的な否定性というやり方をもって、「他」と「一」は断片として交じり合っていたが、この世界では断片が統合されてしまったことで「多」と「一」には深い断絶が生じてしまっている。「乳房」や「まなざし」は母親という「多」の中の「個」の一部だと気づく。そして自分はそれとは別物の「個」であることに気づく。断片同士として行き来していたこれらの「ただのモノ」が、「個」というグループ化により「個」の中に納まってしまったのだ。そういう断絶を幼児は経験する。この時の幼児の精神状態は、モラトリアムの若者のそれに似ている。多様性を帯びた選択肢を前に抑鬱状態に陥る若者たち。「多」と「一」の断絶がモラトリアムを引き起こしている。似ていると言うよりむしろ、この時の経験がトラウマ的に作用して、「多」と「一」の断絶を強く暗喩する就職前の状態が抑鬱的症状を引き起こしているのではないか、と私は思う。
クラインの言う「抑鬱態勢」はこの時期の状態ではないだろうか。しかし時期的にずれている。ラカン論を採用するなら、「妄想分裂態勢(~生後三ヶ月)」→「鏡像段階(生後半年~十八ヶ月」→「抑鬱態勢(生後三ヶ月~半年)」の方がしっくりくる。「自我の最初の想像的形成」あるいは「想像的去勢の過程」である「鏡像段階」を経て初めて赤ん坊は「抑鬱態勢」に陥るのではないだろうか。この時期のずれについては新宮一成氏も指摘している。とはいえもちろんこれらの過程はデジタルに進んでいくものではなく、徐々に進むものであるし、個人差もあるだろう。
むしろ、このように考えることもできる。「鏡像段階」を「想像的去勢」と捉えるならば、「象徴的去勢」即ち「原抑圧」の過程が参照できるのではないか。「象徴的去勢」「原抑圧」の直前、幼児は「去勢不安」という状態に陥る(こちらの記事で詳しく述べている)。クラインの「抑鬱態勢」が「想像的去勢」に対する「去勢不安」だとすれば、その過程はすっきり見通すことができる。先に言ったようにそれらの過程は徐々に進むので、幼児は来るべき去勢を予感し、それに対して少しずつ不安を増していくだろう。しかし原抑圧と鏡像段階には大きな違いがある。原抑圧は「父の名」という第三者によりもたらされ、それ以前と以降では世界が決定的に異なるものになる。象徴界に参入するわけだから、(大人から見て)本当の意味で新しい世界に参入するのが象徴的去勢である、と言える。鏡像段階により参入する「個の世界」は、原抑圧のそれと比して、「断片の世界」との連続性を保っていると言えるだろう。
「断片」を「個」に統合できることを覚えた幼児は、ファルス的享楽の原型とも言える享楽を手に入れることができる。それを具体的に言うなら、生後十ヶ月ぐらい(以降)の幼児が話す「完語文」に当たるだろう。これは例えば「わんわん」「にゃんにゃん」「ぶーぶ」などといった、文章を成していない幼児語である。断片が「個」にグループ化することの享楽。これが何故享楽になるかというと、予測不可能な悲劇的な否定性を発する世界を「把握」することができるからだ。「把握」すれば予測が可能になる。「予測」というと誤解が生まれるかもしれない。例えば完語文を知らない幼児は車を見ても、それの断片ずつしか認識できない。断片しか認識できないから、それが「何か」わからない。しかし断片を「個」に統合できることを覚えた幼児即ち完語文を覚えた幼児は、それが以前にも見たことがある「車」という「個」の一種であることがわかる。「予測」というより「把握」である。予測不可能性を覆すにはまずそれを「把握」しなければならない。「把握」すれば「予測」とはいかないまでも、悲劇的な出来事に対し安心感を覚える。この安心感の起源はフロイトの「糸車遊び」論に述べられている。即ち「反復」である。反復することで安心感が生じる。それを「個」として「把握」すれば、それは「以前に見たことのある」モノとしての「反復」になってしまうのである。幼児はこの能力を、鏡像段階を経ることで手に入れるのだ。
鏡像段階により悲劇の後の世界に放り込まれた幼児ではあるが、人間は悲劇の直後にこそその能力を十分に発揮できるものだ。つまり、「断片の世界」の廃墟である「個の世界」を、完語文という道具を用いて再び再構築させていくのだ。無から構築していくこと、それは一つの享楽である。この享楽が悲劇から立ち直る原動力となる。鏡像段階の直後生じるであろう抑鬱態勢の「ピーク」は、その享楽によって回復されていくのだ。この説明ならば、クラインの抑鬱態勢(生後三ヶ月から半年)とラカンの鏡像段階(生後半年から十八ヶ月)の時期のずれは生じない。
ここで一つの疑問が湧く。「乳房」と「まなざし」はわかった。では「声」と「糞便」はどうなるのだ? と。
私の考えでは、「糞便」についてはフロイトの肛門期が、「声」については「原抑圧」「象徴的去勢」「象徴界への参入」が深く関わってくる。
まず「声」を見ていこう。
「声」は、象徴界に参入した後、言語を担うものになる。言語と同一化した「声」から、言語を排除した「余り」としての「声」が対象aである。つまり、言語を得て初めて「断片」「部分対象」としての「声」が失われる。「声」は象徴界に参入して初めて対象aとなるのだ。
次に「糞便」。
これについては、かなりややこしい構造があるように思う。感覚的にも四つの中で最も疑問を感じるシンボルではないだろうか。
大人の視点からなら納得できるところはある。対象aとは常にすでに幻想の中で「失われた余り」である。「糞便」とはもともと自分の体の一部だったものだ。それが排泄されることにより「自分の一部」という性格が失われる。対象aの性格である「失われた余り」を象徴するのが「糞便」である。余談ではあるが、精神分析のシーンは分析において度々トイレなどの場面に変換されて表れる。「分析家の語らい」を見ればわかるように、精神分析家は自らを対象aの立場に持ってきて分析を行う。であるからこの変換は分析が滞りなく進んでいる証拠でもある。
しかし、これまで見てきた赤ん坊から幼児の精神世界の変化の過程において、「糞便」は叙述されていない。とはいえクラインの論では妄想分裂態勢ですでに「糞便」というシンボルは登場している。悲劇的な「否定性」の世界と同一化することのシンボル、即ち赤ん坊の攻撃性などと言った「死の欲動」を象徴するのが「糞便」であるとも言えよう。
少しこのあたりを考えてみたい。
赤ん坊の世界では、「声」と「糞便」は等しく「不快」に対する身体的(即ち現実界的)反応として機械的に生ずる。
クリステヴァの論を参照しよう。赤ん坊における「声」または「糞便」は等しく器官が収縮することによって生じるものである。刺激を受ければ人体というシステムは緊張する。筋肉は収縮する。肺や声門が収縮することによって「声」が生じ、直腸や肛門が収縮することによって「糞便」が生じる。「声」によって母親が応答し、乳房を手に入れる即ち食欲という領域において満たされる。「不快」が打ち消される。「糞便」についても排泄欲という領域において「不快」が打ち消される。幼児にとっての「快」とは、「不快」が打ち消されることであると言える。この世界が先に述べた「悲劇的な否定性の世界」であることを考えれば、この「否定性」が「不快」と結びつく。お腹がすくのも排泄したくなるのも、この世界に生れ落ちたからだと赤ん坊は考える。ところで「糞便」については胎内でもしているのではないか、と思われるかもしれないが、胎内では排尿は行われているが排便は行われていない。直腸に「胎便」として溜められている。もし子宮内で固形の排泄物が見られた場合(胎児排便による羊水の濁りなど)、胎児が何らかのストレスを受けた結果だと考えられている。
いずれにせよ、これら二つの「断片」は、幼児にとっては「不快」を示す断片となっていると考えられる。「声」と「糞便」という「断片」は、視覚的刺激ではなく、「不快」に対する生物学的反応として生じている刺激なのだ。自分の体内に生じている筋肉の収縮という刺激を中心とした断片なのである。とはいえもちろん「声」には体内の刺激じゃない聴覚的刺激も含まれていよう。「声」という断片は先に見たように原抑圧後に対象aとなるのだから、その直前には「声」は断片であると同時にある程度「個」として統合されていると考えられる。「声」は、鏡像段階から原抑圧までの間、「断片」と「個」の中間的なモノとなっているのではないだろうか。
「自分=世界」であった「求めるだけ与えられる世界」から「断片の世界」である「悲劇的な否定性の世界」に生れ落ちた赤ん坊。赤ん坊はそれまでの「自分=世界」というやり方でその世界を生きようとする。即ち、悲劇的な否定性の世界と同一化しようとする。そのほとんどが否定性を帯びている断片たちと同一化しようとする。これが赤ん坊の「攻撃性」「死の欲動」の正体だ。赤ん坊は「求めるだけ与えられる世界」を象徴する「乳房」や「まなざし」以外の、「声」や「糞便」を含めた否定性を帯びている「断片」たちとも同一化しようとしているのだ(とはいえ「乳房」や「まなざし」も両義的に否定性を帯びてはいる。「良い乳房/悪い乳房」のように)。
つまり、赤ん坊にとっては否定性を帯びる「死の欲動」こそが「生への欲動」なのだ。
この赤ん坊にとっての「生への欲動」である「否定性」が、大人の視点で言う「死の欲動」に反転するのは、鏡像段階以降である。フロイトが一歳六ヶ月の幼児を観察して見出した「糸車遊び」がその象徴となるだろう。
鏡像段階を経て幼児は「断片の世界」から「個の世界」に参入する。この時点で様々な「断片」が「個」に「結合」される。それは同時に「断片」の「排除」ともなる。この「結合」が大人の世界における「エロス」=「生の欲動」のシンボルとなる。同一化していた「求めるだけ与えられる世界」から「否定性の世界」に生れ落ちた幼児は、その時(生後)初めて「結合」「同一化」の瞬間を体感するのである。フロイト論の糸車遊びを例に採るなら、「糸車」=「母」=「自分」という暗喩的「結合」が「糸車」という「個」において成されているのだ。「断片」が「個」として「結合」されると同時に、「ぶーぶ」をシンボルとした「車」という種の結合(換喩的結合)や「糸車」に母や自分を投影する結合(暗喩的結合)が可能になる。鏡像段階とはこの能力が生じる過程でもあるのだ。
「自分=世界」という、現実的には二度と戻れない「母との同一化」の代理として、「統合」は行われる。この時感じる享楽が、ファルス的享楽の起源である。
まとめよう。フロイトは人間の精神活動における根源的力動を、生物学でいう本能に対置できるような概念として、「欲動」を設定した。そしてそれは、「生の欲動」と「死の欲動」の二種あると唱えた。フロイトはすでに死の欲動の優位性を予見していたが、クライン、ラカン、クリステヴァの論によりそれが証明されたのだ。即ち、精神世界の成長過程を振り返ると、「死の欲動」が生後直後から先に存在し、「生の欲動」はその後、鏡像段階において発生するものである、と。
話を戻そう。「断片の世界」にいる赤ん坊にとって、「声」や「糞便」は不快や否定性と繋がる断片であるが、彼はそれとも同一化しようとしている。それしか生き方を知らないからだ。
ここで注意しておきたいのは、「乳房」にも「良い乳房/悪い乳房」という両義性があるように、「声」や「糞便」にも両義性がある。不快のシンボルではあるがそれを発することにより不快の解消=快に繋がるからだ。「乳房」と「声」「糞便」がデジタルに「快」と「不快」に一致するのではなく、あくまでアナログ的な度合いや頻度の問題である。というより、説明のために便宜的にそう分けているだけかもしれない。何故なら生まれた直後の赤ん坊にとっては、全ての刺激が「否定性」を帯びた「不快」なのだから。
いずれにせよ、クライン論では「部分対象」と呼ばれるこれら四つのシンボルは、赤ん坊の成長過程において強く印象づけられ、「断片の世界」で差異が定着していた数少ない「断片」たちだったのだろう、と推測できる。「乳房」や「まなざし」という断片は主に鏡像段階において消失し、「声」という断片は主に原抑圧において消失する。もちろん「声」という断片も鏡像段階において「ある程度」消失しているのかもしれないが、「主に」消失が実感できるのは原抑圧時であろう、ということだ。
では、「糞便」という断片はいつ消失するのだろう? その答えが、フロイトの言う肛門期だと私は考える。
その時期になされるトイレトレーニングにおいて、「糞便」は「排除」するべきモノとされ、「主に」初めて断片という性格が消失するのではないか。逆に言えばそれまでは「糞便」は同一化すべき断片としての性格を残していたのではないか。つまり、四つのシンボルの中で最も最後に断片として消失する、即ち対象a化するのが「糞便」ではないか、ということである。故に子供たちは「うんち」というシンボルを愛するのだ。子供たちしてみればそれは最も新鮮な対象aのシンボルだからだ。
しかしここで疑問が残る。トイレトレーニングは二歳ぐらいから行われる。象徴的去勢(原抑圧)即ち言葉を覚えていく過程とかなり重なってくる。トイレトレーニングは言葉での「抑圧」であり、「排除」ではないのではないか、ということだ。
確かに原抑圧の影響はあるだろう。多分この重なりが「糞便」に対して性的欲望が絡んでくる原因となり、肛門性愛などを形成するのだろう。「糞便」が定着した断片(部分対象)であったことと、肛門期が原抑圧時期と重なっていること、この二点が肛門性愛の原因だと思われる。
象徴界に参入しつつあるとはいえ、言葉ではない、例えば母親の嫌悪の表情などといった体感的な命令も未だ幼児にとっては重要な要素であると思われる。「乳房」や「声」が想像的自我の所有による消失ならば、「糞便」は母などの養育者との想像的コミュニケーションによる消失であるとも言えるか。とはいえ、現実界と繋がっている「断片の世界」からは、「糞便」の消失(排除)の方が遠く離れている。「乳房」や「まなざし」という断片は現実界=失われた主体(/S)=過去の世界(断片の世界)へと比較的容易に排除されるが、「糞便」は想像界へとそれこそ「こびりついてる」だろう。最も最後に対象a化されるが故「排除」も滞ってしまっているのだ。
とはいえ、原抑圧後も言葉による「うんちはばっちいもの」という「抑圧」が反復されるだろう。また象徴界参入後も想像界は存在する。想像的コミュニケーションによる「排除」も働くだろう。例えば幼稚園の友人の嫌悪の表情などもそれに当たる。「うんち」や「糞便」のシンボルが意味するものは、体感的嫌悪の対象へと変わっていく。つまり、断片として同一化の対象であった「糞便」の「排除」は、他の「乳房」「まなざし」「声」と比べ、徐々に進んでいくのではないだろうか、ということだ。
胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる世界」、出産直後の「悲劇的な断片の世界」、鏡像段階後の「ファルス的享楽にふける個の世界」を経て、人は象徴界へと参入する。
これまでの説明を聞いて、違和感を持つ方が多いだろう。何故ならほとんどの人が歩んできた過去として語っているにも関わらず、そんな記憶が一切見当たらないから。
それはその通りである。
何故なら、人は象徴界に参入する、即ち言葉を覚えると同時に、それまでの記憶を脚色してしまうからだ。言語構造が超自我として無意識に収納され、それが網の目のように自我と主体を覆ってしまい、同一化し、その頃の記憶を言語的に矯正してしまう。だからその頃の記憶をそのものとして引き出すのは不可能なのだ。言葉を覚えてしまったからには、どうやっても超自我のフィルターを通してしか引き出せないのだ。
先の文章で、現実界を「失われた主体(/S)」と表現した。これは言葉を覚える前の記憶である。言葉を覚えることで失ってしまった「求めるだけ与えられる世界」、「断片の世界」、「個の世界」を示している。
これまでの論が回り道になってしまうことを自覚しながら言おう。一掴みで表現するならば、それら失われた世界たちそのものが対象aなのである。
/Sと対象aは、表裏一体のものだ。それらが同一化する領域という意味で、同じ領域を示している。
イメージは言葉により恣意的に掴み上げられ、意味が決定する。その時こぼれ落ち失われた「余り」が対象aだ。
フロイトは言う。「子供時代は、そのものとしては、もう無い」。
無いから、求めてしまう。無いから、求め続けてしまう。それが、欲望だ。だから、欲望の原因である対象aは、「失われたもの」でなくてはならない。
/Sと対象aが同一化する領域。それは、「失われた領域」でなくてはならない。つまり、「死」の領域だ。
ラカンは/S◇対象aと表記し、◇を幻想と呼んだ。そう、大人が言う「生」とは、「死」を迂回する幻想なのだ。「生の欲動」とは幻想を生きる欲動を示しているのだ。
と、ここまで書いてふと思った。
「糞便」の対象a化は(他のシンボルと比して)曖昧に進む。これって女性の原抑圧の過程に似ているかもしれない、と。ただ「曖昧な過程」という類似性だけでそう言っているだけだが。
しかし例えば日本神話では、婚礼のシンボルとして「女性の排便」が用いられている。婚礼を主題にした話には、婚礼の対象となる女性が排便しているシーンなど女性と糞便が関連づけられている文章が多く見られる(東ゆみこ氏著『クソマルの神話学』より)。そんなことにも関係してくるのかもしれない。
女性と対象aとしての「糞便」の相似。この文章だけだとフェミの方々の総攻撃を食らってしまいそうだが、クリステヴァの言う恐怖の権力即ち「アブジェクシオン(abjection)」に関わる女性性あるいは母性に繋がってくるもののように思う。
それはぬるぬるしていてべたべたしていてぐちょぐちょしていて自他未分化的なものだ。人はそういったモノにおぞましさを感じる。嫌悪する。従ってそれを「棄却」する。まさに「糞便」ではないか。この「棄却」されたモノをクリステヴァは「アブジェクシオン」と呼んだ。
「アブジェ(abjet)」とは原光景(の前身)を指すのかもしれない。父母の性交シーンという未分化的な光景。嫌悪を呼び起こすこの光景から、「想像的父」や「ペニスを持つ母親」などという「おぞましい」あるいは「魅惑的な」想像的ファルスが生まれる。もちろん、きちんと父と母(ペニスを持つ親と持っていない親)に分化され他者化することだってある。通常、人はこの分化即ち断片の統合としての「個」化を経る。ほとんどの人は必ず一度それをきちんと分化して他者化しているものだ。想像的去勢を経ているのである。しかし成長後、それが遡及的に、(正常な父母イメージと比して)未分化的な「ペニスを持つ母親」や「ペニス化した母親」や「想像的父」に「戻って」しまうのが、想像的去勢の否認である。そうやってフェティシストや同性愛やヒステリーや強迫神経症が形成される。
何故「おぞまし」く「嫌悪」を催す原光景に「戻って」しまうのか。それは同時に対象aの前身だからである。原光景は「嫌悪」と「魅惑」という相反する両義性を孕んでいるのだ。だから原光景に惹かれ、そこに「ペニスを持つ母親」や「抑圧する父」や「欲望する父」などといった魅惑的な想像的ファルスを幻視してしまう。
これらのイメージの大元にある「原光景」。その「嫌悪」的な側面を強調したのが「アブジェ」や「アブジェクシオン」である。原光景(の変化したもの、あるいはその一部)の「嫌悪すべき側面」即ち「アブジェ」が現実界へと棄却されたもの、棄却されることが「アブジェクシオン」である、と言えるだろうか。
対象aのシンボルとして代表される、「声」「まなざし」「乳房」「糞便」。このうち「糞便」だけがあまりにも語られていない気がする。それは、対象aの本質でもあるアブジェを同時に象徴しているからかもしれない。無意識的に、この四つの言葉のうち「糞便」という言葉だけを「排除」「棄却」している、避けてしまっているのだろう。「おや?」という疑問は湧くと思うが、それ以上思考が進まない。「まあそういうこともあるさ」などと思うだけであったり、進んだとしても先に私が述べた「まあ分析シーンだってトイレに変換されるからなあ」という思考で停止してしまう。それで納得してしまう。それこそが「排除」「棄却」を示す「症状」なのだ。
「排除」「棄却」したモノは、現実界に捨て去られる。到達不可能な領域だからこそ、それらの「ゴミ箱」となる。しかし人は「ゴミ箱」の中を覗いてしまう。鼻をかんだ後、鼻水のついたティッシュをつい見てしまうことはないだろうか。排便後、便器の中を覗きこんでしまうことはないだろうか。超自我に「抑圧」されたシンボルとは違う経路で、精神分析の文脈なら「症状」「アクティングアウト」という形で、それらのモノは失われた世界即ち現実界から舞い戻ってくる。鏡像段階で想像的自我を手に入れ、象徴界に参入することで超自我を手に入れたとしても、人は死の欲動から逃れられないのだ。
「糞便」としての対象a。「排除」や「棄却」を乗り越えるには、現実界からおぞましいル・セミオティックとしての「アブジェ」を再び呼び起こさなくてはならない。そうやってこの領域に挑んでこそ、超自我としての超越論的構造ではない、もう一つの根源的な構造、即ちセミオティックな「狂気の定型」が読み解かれるのではないか。
――私はパス。スタイリッシュ主義だから。
だあって私ヒステリーだもんさ。「抑圧する父」を愛しているのです。だから、「ばっちいからだめ」という抑圧に素直に従ってしまうのです。
ええ、ばっちいものは棄却しますですよ。普通に。ぽいって。
どっとはらい。